ラインの娘   作:ほいれんで・くー

48 / 52
48. ニネヴェの飛べない鳥

 川が流れていた。すべてを飲み込むほど長大な川だった。川は二本あった。名はそれぞれティグリスとユーフラテスといった。それぞれの川には幾筋もの支流があり、その支流にも毛細血管のように小さな流れがあった。

 

 茫漠(ぼうばく)とした乾いた大地には刺すように強烈な太陽光が降り注いでいた。日に焼かれた岩と石は白っぽく変色していて、ひとたび熱のこもった風が舞うと一面に細かな砂が舞った。緑の草も木もなく、動物の姿もなかった。まばらに見えるのはすべて岩石か、あるいははるか昔に滅んだ都市の残骸の一部に過ぎなかった。

 

 そのような不毛な土地でも、農夫たちは木製や青銅製の農具を振るって、土を耕し、(こえ)を施し、種を蒔いた。彼らは苗を育て、(うね)を立て、雑草を取り除いた。彼らもまた大地の岩や石と同じように日に焼かれ、熱い風に打たれていたが、それでも一言たりとも不平を漏らさなかった。農夫たちは来る日も来る日も農具を振るい、大地に傷をつけ続けた。傷口から漏れ出るのはほんのわずかな(かて)でしかなかったが、それでも彼らは生きていくことができた。

 

 農夫たちは自らが所属している帝国も、彼らが税を納めるべき対象である王も、その名前と存在こそ知れど、その実態については何も知らなかった。ただ彼らは自らの畑のことだけは知っていた。生まれ、育ち、働いて、死ぬ。それはすべて畑の中と、その周辺で繰り広げられる人生だった。産声と末期の吐息が同じ場所で別々の口から漏れた。生と死は喰いあうヘビのようにつながっていて、ただその連環だけがそれぞれで異なっていた。

 

 そんな彼ら農夫でも、帝国と王が彼ら民にもたらす恩恵だけは知っていた。帝国の占星術師たちは天文を読み解き、気象を予想し、災害を防いだ。占星術師たちはまた月の動きを記録し、太陽の活動を観察し、正確な農事暦を作成した。農事暦こそ農夫たちが望むものであった。いつ土を耕し、いつ種を蒔くのか、いつ苗を作り、いつ収穫をするのか。農事歴がなければ農業は成り立たなかった。王もまた、占星術師たち以上の恩恵を民にもたらした。王は土木工事を興し、用水路を整備し、灌漑設備を帝国全土に普及させた。溜池を掘り、川の流れを変えて、民たちが天水に頼らずに農業に勤しむことができるようにした。

 

 だが実際のところ、帝国と王の政治は端的に暴政と言って良いものだった。税は重く、労役はしばしばだった。また、無数の戦争があった。諸民族が反乱を起こし、帝国からの分離を画策すると、王の軍勢は帝国領土を通過して討伐に向かった。軍が通るたびに、民たちは生活に必要な資源をすべて奪われ、生存のための戦いを一から再開しなければならなかった。与えられる恩恵以上に奪われるというのが農民たちに課せられた運命だった。むしろ、彼らが何かを与えられるのは、それ以上に何かを奪われるためだと言って良かった。

 

 農夫たちは、それでも畑を耕し続けた。彼らはそれ以外に生きる方法がなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 だから、その農夫はその日、世界が足元から崩れ落ちていくような感覚を覚えたのだった。ちょうどその三日前の夜、夜空に巨大な彗星が現れ、なんとなく不安に感じていたところに、それは起こったのだった。

 

 彗星は生き物のように尾を伸ばしていた。尾の先は空に溶け込んでいて、周囲の星々と一緒になって微細な光の欠片を闇の中に散らしていた。見ようによっては彗星は獣のようだった。牙が生えており、毛皮を纏っていて、長い尾がある。温順温和な姿ではない。農夫にはその彗星が、人を襲う獣のように見えた。引き裂き、食らい尽くす獣だった。

 

 その農夫は「(とり)」と呼ばれていた。長身痩躯の男で、しかし日々の労働で鍛えられた筋肉を纏った肉体は、一瞬独特の魅力を醸し出していた。浅黒い肌は艶やかで、彼が秘めている若さと精力が表面に滲み出ていた。

 

「鳥」は一家の稼ぎ手だった。父は足が弱く、母は小さな子どもたちと、一家の老人たちの世話をするのに忙しかった。鳥は日々農具を振るい、草を取り、水を撒き、害虫を除いた。外敵が来れば武器を持って立ち向かい、他集落の人間が水の使用を巡って争いを起こす姿勢を見せた時は、集落を代表して交渉に赴いた。彼はこれまでに十六回の戦闘に勝利していて、それ以上の交渉をまとめていた。

 

 鳥は常に険しい顔をしていた。労働と重責と、それになによりこの世というものに対する義憤が、彼の顔を年齢以上に年老いたものとしていた。鳥は農具を振るうたびにいつも思っていた。王がより賢明で、帝国がより公正にして寛容で、民がより豊かであれば、この世からすべての争いは消えるのだが。鍬が大地を傷つけるたびに、彼は同じ考えを繰り返した。

 

 王が……もし王が、俺のように平和を好み、戦争を憎み、哀れな農夫の生活を知ってくれさえすれば……彼の思考はさらに続いた。もし王が……もし、この俺が王であれば? それは大それた願いだった。願いというほどに意識的にそれを望んでいるわけではなかったが、思考の行きつく先がいつもそのような「もし」になるのを、鳥は不思議に思いつつも恐れた。願いが脳裏をよぎるたびに、鳥は身震いをして天を仰ぎ、礼拝をして、神々に許しを乞うのだった。

 

 その日、突然鳥のもとにやってきたのは、都ニネヴェの役人たちだった。役人たちはまるで違う人間のようだった。真っ黒に日焼けした農夫と違い、彼らはみな青白い顔をしていていた。それは都市に住んでいる者たち特有の肌の色だった。美しい青と赤を基調とした衣装に身を包み、丈の高い儀礼帽と、宝石を散りばめた金銀の装飾品を身につけたその姿を見て、鳥は威圧されたような気になった。もし彼らがニネヴェからではなく、遠い夜空の向こうの煌めく星々から船に乗ってやってきたのだと言ったとしても、おそらく自分は疑わないだろうと鳥は思った。

 

 ちょうど夕刻だった。真っ赤な太陽が二つの大河にその身を溶かすように照り映えていて、青々とした麦畑は全体が燃えているようだった。何に驚いたのか、水面を漂っていた水鳥たちが一斉に飛び立ち、暗くなりつつある空へと飛んでいった。役人たちは鳥の前に来ると、一斉にその長い影を動かして、彼に向かって恭しく礼をした。そして彼らは言った。

 

 どうか、我らの王となってほしいのです。

 

 鳥は驚いた。様々な思いが駆け巡ったが、第一に彼が考えたのは、残された家族と畑のことだった。自分がいなくなれば、家族は、畑はどうなる? 誰かが攻めて来たら、誰かがもめ事を起こしたら、誰がそれを解決する……? そして、彼が考えているその間にも、役人たちはすでにその配下の者を動かして、鳥が王となるべく都ニネヴェへ行くための準備を整えていた。鳥に選択する権利はなかった。鳥は車に載せられ、車はただちに首都へ向かって動き出した。すべてはあっという間の出来事だった。彼は家族に別れを告げることすらできなかった。

 

 同乗した役人たちはみな、鳥に対して親切だった。否、親切どころではなかった。彼らはみな、鳥に対して服従をしていた。すでにどこかで服従の宣誓を済ませてきたかのようだった。鳥がほんの少しでも身動きをすれば、彼らは素早くその意図を察して冷えた水を差し出したり、乾燥させた果実や軽い酒を提供したりした。

 

 彼らはまた、鳥の質問に対してすべて答えた。なぜ、俺を王に? 神官団が天文を観測した結果、あの地に住まうあなた様が我らが王として相応しい方であると判明したからです。新たな王ということは、前の王は死んだのか? 今はお隠れになりました。王という存在は、何をするべきなのか? 王がすべてその思いのままになされば、それがつまり王のなすべきこととなります。戦争になったらどうすれば良いのか? (しん)らは死力を尽くし、神々に誓って帝国と王のために戦います……

 

 疑問は尽きなかったが、鳥はとりあえず納得をすることにした。初めは手の込んだ悪戯かと彼は思ったりもした。あるいは偽の占星術師たちから何らかの出鱈目な予言を受けた愚かな人間が、わざわざこのようなことをしているのかとも思った。しかし、役人たちが鳥に対して、王の印章が刻み込まれた粘土板を差し出すと、彼としてももはや信じないわけにはいかなかった。彼は文字が読めなかったが、文字と、文字が刻まれた粘土板には口から発せられる言葉以上の魔力を秘めていることを知っていた。王は、それを意のままに操ることができる。そして、今度からは彼自身がその魔力を行使することになるのだった。

 

 最後に、鳥は役人たちに尋ねた。俺の畑はどうなる? 誰が俺の代わりに耕すのだ? 俺の畑は良い畑だ。捨て置くにはあまりにも惜しい。子孫も、神々も、そのようなことは許すまい。役人たちは変わらぬ恭しい態度で答えた。こちらで代わりの者を立てます。代わりの者とは都ニネヴェで会うことができるでしょう。もうじき、お会いになれます。

 

 確かに、鳥はその男と会うことができた。それは都の城門でのことだった。思ったよりも立派な若い男であることに鳥は驚いた。背は高く、顔は赤く、鼻筋は高く真っ直ぐ通っていて、目は燃えるように青黒く光っていた。意外なまでに人懐こい口調で、その男は潤んだような瞳を鳥に向けつつ、大きな声で言った。そうか、お前が新しい王か。心配するな、俺がお前の畑をなんとかしてやるよ。奇妙な響きの、どこか圧力のある口調だった。鳥はそれに押されてしまって、ただ一言だけ頼むとしか言えなかった。

 

 立ち去ろうとした代わりの男は、ああそうだ、と言って鳥に向き直ると、一つだけ質問をした。お前の家は(あし)でできているか? なぜそのようなことを聞くのか疑問に思いつつも、鳥は首肯した。彼の家は川辺に大量に生えている葦を切り出して、それを編んで作ったものだった。水鳥のように葦に囲まれて生きているから、俺の家の男は代々「鳥」と呼ばれている。そう答えると男は笑って、それならちょうど良い、万事ちょうど良い、それに葦は魔除けになるからな、と言って去っていった。

 

 車に乗りながら、鳥はニネヴェの街を見た。時刻はちょうど昼過ぎだった。気温は高く、太陽は強かった。整然と区画ごとに整理された街路には日干し煉瓦で作られた四角い建築物が立ち並んでいた。建築物は概ね二階建てから三階建てで、各階ごとに窓が設けられており、木枠で囲われていた。階層ごとに青、赤、緑の顔料で塗装が施されており、遠くから見ると地上に虹が出ているように見えた。だが、近寄ってみるとどの建物も土埃で薄汚れていた。

 

 街路に面した建物は、その一階がどれも商店になっていた。店先には様々なものが売られていた。各種の農具、武具、遠く海を渡って来た香辛料、壺、什器、異国の銀貨と金貨、織物、絹の下着、家具、動物たち……鳥は車の上からそれらを眺めた。想像を絶するほどの、圧倒的なまでの富が、あまりにも無造作に陳列されていることに鳥は衝撃を受けた。

 

 この昼の時間帯に街路を歩く人の姿はまばらだった。誰もが人目を忍ぶように早足で歩いていった。鳥はその光景を意外に思った。彼にとって、街はもっとにぎやかで、人が溢れていて、それ以上に悪徳と病毒と不正義と不公正が蔓延っている場所だった。だが、ニネヴェの街はあまりにも清潔だった。違和感を覚えるほどの清潔さが隅々にまで行き届いていた。

 

 即位式は非常に簡素なものだった。宮殿はどこまでも広く暗く、それでいて煌びやかだったが、神々に新王即位を報告する神官団と、高位の役人以外の何人かを除いては、その場には誰もいなかった。鳥はその「鳥」という名を捨てさせられ、新たに「シャマシュ・メトゥ・ウバリト」と名乗ることになった。「シャマシュは死者を蘇らせた」という意味だった。鳥はなんとなくその名が気に入らなかった。

 

 鳥はその日から王になった。帝国全土の五百余州、百七十八の民族、六千五百十四万の民が彼の支配下に入った。都ニネヴェの神殿の神官団と、天文台の占星術師たち、学者、宮殿に勤務するすべての役人、また、都の郊外の兵舎に屯している王直属の精鋭軍三千騎が、彼の手足となって動くようになった。

 

 眩暈(めまい)がする。王になったばかりの鳥の率直な感想はそんなものだった。吐き気もする。彼は玉座の下に敷かれた豪奢な絨毯を見た。だが俺は吐かない。これまでの出来事があまりにも唐突であったために彼は少し打ちのめされていたが、彼は次第に思考力を取り戻した。

 

 俺は……これまで何を考えてきて、何と言ってきたか? 畑を耕しながら、来る日も来る日も自分の生み出してきた願いに怯えてきたこの俺は……もし、王になったらと言っていたではないか。俺は……そうだ! 俺は王になったら、この帝国を平和にし、民を豊かにすると言ってきたではないか! 彼は授けられたばかりの金の王笏(おうしゃく)()を握りしめた。何の因果か、それこそどういう星の巡り合わせかは分からないが、こうして王になったのならばそうしてみせるぞ。鳥の決意は強かった。万難を排してでも……俺は望みを遂げてみせる。俺の望みは、まだ半分しか叶っていないのだ。

 

 だが、鳥の意気込みとは裏腹に、物事はそれほど単純には進まなかった。

 

 鳥は新王として、まず前年に水害で大きな被害を受けたカール・トゥクルティ・ニヌルタの救援を行うように指示した。食糧とその他必要な物資を用意して、ただちに彼の地へと運ぶように。その地方における大災害の有り様は、噂という形ではあったが彼の地方にも伝わっていた。しかし、役人たちは「すでに対処しております」と答えた。呆気にとられつつも、鳥がさらに尋ねると、役人たちはいちいち詳細な情報を返した。だがただひとつ、誰がそのように命じたのかという問いに対しては「王にして王にあらざるお方に」と答えるだけだった。

 

 鳥はさらに、都ニネヴェの北東に位置する都市、ドゥル=シャルキンについて命令を下した。その都市の総督が私腹を肥やし、民に重罪をかけ、個人的な楽しみのために労役を課していることは、辺境に住んでいた彼の耳にも入っていた。帝国からあらゆる不正と悪行を一掃する上で、まずはかの総督を粛清するのが望ましい。鳥の命令を聞いて、役人たちは恭しく頷くと、王の間から出ていった。

 

 これでようやく王としての務めが果たせると満足した鳥の前に、数分もせずにまた役人たちが戻ってきた。彼らは何か、エジプト産のスイカほどの大きさの白い袋を持ってきて、それを鳥の前で開けた。鳥は自分の表情が強張るのを覚えた。それは総督の首だった。死んでから時間が経っているようで、首は干からびていた。乾燥した血液が彩色用の顔料のように付着していた。役人たちは言った。すでに「王にして王にあらざるお方に」そのようにせよと命令されておりました……

 

 鳥はその後も命令を下し続けた。ハニガル=バト地方の都市ハランが反乱したと聞けば、軍を派遣して鎮圧するように命じ、バビロニア地方のエシュヌンナで疫病が流行っていると聞くや、王家に伝わる薬箱を持たせて神官団と呪術師を派遣するように命令した。しかし彼が出すのはいつも命令に留まった。というのは、彼が命令を出す前に、決まってすでに「王にして王にあらざるお方」が同じ命令を出してそれを実行していたからだった。

 

 ふと、唐突に、あることに鳥は気がついた。王というものは言葉で命令をする。口に出して命令を発する。そのように自分は理解していたが……実はそうではないようだ。この帝国において、王の口から出る言葉は粘土という形を纏って、初めて魔力を発揮するようだ。粘土板と、刻まれた楔形の文字こそ本物の王の言葉である。それなしにこの帝国を統治することはできない。それならば……鳥は深く溜息を吐いた。文字を操れない自分には、口からの言葉に頼らざるを得ない。それでも彼は命令を出し続けた。

 

 そんな日々が何日か続き、何週間か続き、一ヶ月以上が過ぎようとしていた。何もない日もあれば、何もかもが同時に起こる日もあった。鳥は次第に、この王という立場は決して万能なものではなく、様々な慣行や決まり事、暗黙の了解、明示的でない文化、宮廷の風土によって縛られるものであることに気づき始めた。王は、自由ではない。こんなことなら、あの集落のあの畑で、あの葦の家で、ずっと生活しておけば良かった……しかし、そのように後悔するたびに彼は、俺はまだ後悔するほどには何事もやっていないと思い直すのだった。

 

 また、王という存在は常に一人ではいられないということにも鳥は気づいた。

 

 彼は常に誰かに監視されていた。彼がくしゃみをすれば小姓がやってきて布を差し出した。あるいは彼が転べば、呪術師が即座に駆けつけ、呪文を唱えて王を転ばせた不埒な悪霊を追い払った。また、夜に彼が後宮の女と寝台の上で語り合っている時、ふと気が遠くなると、気づいた時には寝台の周りに神官たちが立っているのだった。そして彼らは決まって事細かく質問するのだった。どこでくしゃみをなさいましたか? どこで、何に躓いて転ばれたのですか? いつ意識が……? 彼らには共通した態度があった。何かを観察し、それを記録しようとする態度がそこには見えた。

 

 ある日の朝食の席で、鳥の歯が抜けた時には大きな騒ぎになった。神殿の中でも最高位の神官が何人もの部下を引き連れてやってきて、数時間もかけて祈祷をした。その後はいつものとおりに検査と質問があった。何を食べて歯が抜けたのですか? 歯は前から弱っていたのですか? 歯が抜けるような前兆はありませんでしたか? 王の歯が抜けることはこの帝国において一大凶事であるとされていることを、鳥は初めて知った。

 

 いまや、鳥は王としての立場に辟易するだけではなく、恐怖心すら抱くようになっていた。彼は宮殿内のどこを歩いても、誰かによって監視されていると思うようになった。そしてそれがほぼ確実に事実であるだけに、彼の精神はより消耗した。

 

 彼は次第に痩せていった。農作業で鍛えた肉体は(しぼ)んで脂肪がつき、それでも全体として体重は減った。目つきは弱々しくなり、背は曲がり、日焼けした肌は青白くなった。彼は食事も酒も受け付けなくなっていった。病気だ。彼はそう思った。しかしなぜかそれを指摘する者はいない。いつもはあれほどこちらの些細な異常にも敏感に反応する臣下たちであるのに。あるいは、王というものはそもそもからして病気なのかもしれない。病気で、太っていて、自由ではない。

 

 俺は、飛べない鳥になってしまった。彼は玉座に重い肉体を沈めながら思った。

 

 このまま王宮にいてはいつか死んでしまう。そう思った鳥は、好機を待つことにした。なんとしてでも王宮の外に出なければならない。案外、それはすぐにやってきた。エラム地方のスサの町が異民族の攻撃を受けているという報告を受けた時、鳥は自ら軍を率いてそれを撃退しようと言った。鳥は、もしかしたら今回もすでに事態は収束しているかもしれないと思った。だが役人たちは特に何も言うことはなく、粛々と王の出陣の準備を始めた。

 

 都ニネヴェから軍船に乗ってティグリス川を南下し、カルフやアッシュールといった大都市を経由してさらに下り、バビロニアの入り口に当たるロシュヌンナで下船する。そこからは陸路東へ向かい、エラムのスサへ。鳥の旅程は順調で、何の障害もなかった。次第に鳥は元気を取り戻していった。それと共に、彼の精神もまた力を取り戻していった。

 

 現地には王の軍勢が既に整列していた。磨き抜かれた武具は太陽の光を反射し、地上一帯が磨き抜かれた鏡面と化したかのような偉観をもたらしていた。

 

 ほどなくして戦闘が始まった。王の軍勢は鳥の声によく反応し、統率の取れた動きで異民族の騎馬部隊に突入した。敵は抗することができずに脆くも四散した。しかし、鳥にはそれが敵の計略であることが分かっていた。こうして何度か戦闘にもならぬ戦闘を繰り返してから、連中は(おもむろ)に和議を求め、そしてその後は帝国側から金銀をせしめるのだ。だが……鳥は考えた。それで辺境の安全が買えるのならば、それで良いのではないか? 徒に戦闘を長引かせて、得られるわけもない戦果を求め続けるよりは、金で平和を買う方が良い。たとえその金が、帝国の民から搾り取った金であるとしても。

 

 最終的に、鳥はそのようにした。これが民たちにとって最も良い形での戦いの終わりだろう。鳥は心からそのように納得していた。彼はニネヴェに戻ると急に気分が大きくなって、その日はいつもとは違って豪勢な料理を作るように命じた。彼は料理を貪り食い、酒を水のように飲んだ。

 

 その翌日のことだった。鳥は寝台の上で寒気を覚えた。

 

 歯と歯の間から農具と小石とが擦れ合うような音が鳴り、それでいて隣で寝ている女の体温が妙に煩わしかった。割れるような激しい頭痛に、全身の関節痛も凄まじく、四肢がちぎれるようだった。彼は女を起こすと、呪術師を呼ぶように命じて、それっきり意識が絶えた。

 

 熱病に冒された彼は、奇妙な夢を見た。彼は生まれ故郷の葦の家に戻っていた。そこにはあの自分の代わりをしている顔の赤い男がいた。男は農夫の姿をしているが、農作業は一切しておらず、しきりに粘土板の刻ませた楔形(くさびがた)文字の列に目を走らせている。粘土板は彼の両脇にうず高く積まれていた。時々、葦の家の中に誰かが入ってきて、男に対して恭しい態度で話しかける。すると男は威厳のある声と態度で何事かを答え、粘土板に文字を刻み、それを与えて返すのだった。そんなことがしばらく続いた後に、男は立ち上がると大儀そうに肩を回して、それから呟くように言った。

 

 さて、あの彗星が出てからそろそろ百日か。余のニセモノにも、何か災いが降りかかった頃だろうか……?

 

 鳥は、夢の中でありながら、男のその言葉に不吉なものを感じた。

 

 鳥は三日間も生死の境を彷徨(さまよ)った。そして彼は生還した。

 

 回復した彼の周りには役人たちと神官団が詰めかけていた。見慣れない者もいた。それは帝国の最高位の宮廷占星術師だった。

 

 何も感じさせない川風のように低い声で、占星術師は鳥に言った。ニセモノの王よ、あなたは充分に役目を果たしました。この上は速やかにその立場から離れてください。

 

 戸惑いつつ、鳥は言った。一体どういうことかわからない。思えば、最初からわからないことだらけだった。俺はなぜ王になったのか? なぜ王でありながら監視をされていたのか? なぜ今になって王を辞めねばならないのか……?

 

 占星術師は答えた。あなたはつまり、身代わりの王、ニセモノの王だったのです。驚き、何も言えずにいる鳥に対して、占星術師はさらに言った。ただの農民であるあなたは知らないでしょうが、我が帝国には一つの秘術がありました。それがまさにこの身代わり王というものです。我ら占星術師は天文気象のすべてを観察し、王に災いが降りかかるのを事前に察知してそれを防ぐのが役目です。しかし万一、王が災いを避けることができない場合はどうするか……?

 

 占星術師はいったん言葉を切った。鳥は、その顔を見て背筋が寒くなった。占星術師の表情は何の感情も浮かべていなかった。

 

 占星術師はさらに言った。あなたも覚えているでしょうが、この夏にとても大きな彗星が夜空を流れました。我らはあれを、我らのエサルハドン王にとっての凶兆であると捉えました。我らはさらに観測を続け、そして、王に迫る凶事はどうしても避けることができないと結論しました。そこで、身代わりの王、ニセモノの王を立てることにしたのです。そして占いの結果、あなたが選ばれたということだったのです。あなたの役目は、本来エサルハドン王を襲うはずの苦難を代わりに受けることだったのです。

 

 占星術師は喋り続けた。我らがあなたの日常生活を細かく監視した理由は、もうお分かりですね? あなたにどのような凶事が起こるか、また起こった凶事はどのようなものだったのかを知るためだったのです。しかし今では、それもはっきりとしました。あなたは我らのエサルハドン王の身代わりとして重い熱病に冒され、苦しんでくれました。かくして災いは過ぎ去り、今や本物の王は安泰です。

 

 少しだけ、表情を崩して占星術師は言った。心から感謝します、我らがニセモノの王、シャマシュ・メトゥ・ウバリトよ。あなたは無事に任務を果たしました。

 

 鳥はすべてを知って納得し、胸を撫で下ろした。そして、彼は占星術師に言った。それでは、俺を畑に帰してくれますか? 彼は自分の葦の家を思い出していた。王の仕事なんて、もう真っ平だ。やはり俺は、俺の畑を耕していたい……そろそろ刈り入れ時だ、と鳥は言った。麦もその粒を大きく豊かに実らせた頃だろう。早く帰って家族を安心させてやらねば。

 

 すると占星術師は、元のまったくの無表情に戻って、氷のように冷たい声で言った。

 

 いえ、あなたにはまだ、なすべきことが残っているのです。

 

 彼の部下があるものを静々と持って来た。それは純金製の足つきの盃だった。盃には紫色の液体が並々と注がれていた。

 

 それを見た途端、鳥は直感的に悟るものがあった。彼は寝台から逃げようとした。しかし、役人たちは彼の両手と両足を押さえつけた。

 

 占星術師は盃を持って鳥の顔のそばに近づくと、まったく声の調子を変えずに言った。この身代わり王の儀式、ニセモノの王の儀式は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のです。それが古来から伝わるこの帝国の秘術なのです。さあ、飲んでください。苦痛はありません。

 

 鳥は暴れた。彼は喚いた。やめてくれ! 俺はまだ何もしていない! 俺はまだやりたいことがたくさんある! 家族に会いたい、家族に会わせてくれ……!

 

 占星術師は表情を変えずに言った。ニセモノの王よ、今は潔く御最期をお迎えください。

 

 彼は力の限り叫んだ。俺はニセモノなんかじゃない! 俺は鳥だ!

 

 もし彼に翼があれば、飛び立って都ニネヴェから逃げ出せたかもしれない。

 

 しかし彼はすでに飛べない鳥だった。

 

 存外、甘い味がする。彼がそう思った時には、中身の無くなった盃が磨き抜かれた床に落ちる音が部屋に響いていた。

 

 記録によれば、エサルハドン王は十二年間在位し四十四歳でこの世を去った。その間、身代わり王の儀式は十回行われたという。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「ニネヴェの飛べない鳥」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第234回「ニセモノ」に応募した作品です。2024年12月15日公開。エブリスタ版と比べて2,500字ほど加筆されています。

この話、最初はもっとファンタジー色の強い話になる予定でした。エジプトと新バビロニアで戦争が起き、新バビロニアの首都バビロンにはエジプトからの爆撃船団が飛来する。王は空襲を避けるため、バビロンとまったく同じ街を別の場所に建てて、そこへ爆撃を誘導するが、新しく出来た「ニセモノ」の街の神殿と王宮にはいつしか別の神官と王たちが住み始めていて……というような内容でした。でもこれじゃあ短編で終わりません。結局はエサルハドン王の「身代わり王」(これは史実です)で書くことになりました。

 次回もお楽しみに! そろそろストックが尽きてきた……
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。