珍しいことにその日は晴れていた。空には雲ひとつなかった。それでも、太陽の光線はどこまでも薄かった。
ヴィンスは、家の前の小さな庭に白いベンチを出して、横になって空を眺めていた。青い空が無表情であるように、彼もまた無表情だった。乱雑に伸びた白髪が微風に揺れていた。顔に刻まれた無数の
少しだけ体を起こして、ヴィンスは煙草に火を点けた。彼は一口だけ吸い込むと、煙を吐き出した。それ以上吸うこともなく、指に火のついたままの煙草を挟むと、彼はまた空を眺め始めた。ベンチの上の彼の姿は小さかった。あたかも葉の裏に残された虫の抜け殻のようだった。
しばらく空を眺めたヴィンスは、視線を転じて今度は地表を眺めた。どこまでも平坦な眺めだった。地平線の向こうまで、緑に覆われた大地が広がっていた。その中には点々と黒いものと白いものが混ざっていた。黒いものは岩で、白いものは羊だった。羊は、もちろん彼の持ち物ではなかった。数年前まで彼も羊を飼っていたが、今ではそれもやめてしまった。
さらにヴィンスは視線を下げた。白い柵が彼の家と敷地と庭を囲んでいた。長年風雨に晒されてすっかり塗装が剥げてしまった柵は、それでもいまだに彼の家の敷地を示すという役割を果たしていた。それは彼がまだ五十代になるかならないかという頃に立てた柵だった。柵を立てた頃は……ヴィンスはぼんやりと思った。あの頃にはまだトムもいたし、ジェイミーもいたし、ポールもいたし……それにマギーもいた。笑い声、冗談、他愛のない会話、いつでも家の中はそういったもので満たされていた。
今では誰もいない。トムもジェイミーもポールも戦争でいなくなってしまったし、マギーは八年と五ヶ月前に死んでしまった。誰もいない。この自分を除けば。
またヴィンスは視線を遠くへやった。左手方向には、ほんのちょっとだけ大地から盛り上がった丘があった。丘の上には小さなエリカの木が一本だけ生えていた。木は葉をつけていなかった。そろそろ木は寿命を迎えつつあるようだった。
あの木の下で、俺たちはよく遊んだっけ。ヴィンスは木を見ながら思った。あの頃はまだ、木には青々とした葉があった。夏にはもっと葉が繁って木陰ができて、その下でみんなでサンドイッチを食べたり、紅茶を飲んだり、本を読んだりして……トムもジェイミーもポールも、みんな物語が大好きだった……彼は視線をまた元に戻した。
このところ降り続いた雨のせいで、庭にはところどころに泥の混ざった水溜りができていた。ふと、ヴィンスは指先に熱を感じた。見ると、吸っていた煙草がそろそろ燃え尽きかけていた。長くなった円柱状の白い灰が、風に吹かれて塊となって飛んでいった。彼は煙草を水溜りに向かって、指先だけで投げた。水に落ちた煙草は馬鹿にしたような音を立てて消えた。
やるべきことならばある。ヴィンスは目を閉じながら考えた。いろいろとあるのだ。まず街に行かねばならない。煙草を買わねばならないし、税金の支払いも済ませなければならない。このまま支払いを延ばし続けていれば、そのうち裁判になるかもしれない。目立つ色をした封筒に入った督促状が、先月からもう何通も来ている。
それでも彼は動かなかった。俺の知ったことではない。すべてが気怠かった。息子たちが消えて、そしてマギーが死んでからというもの、彼は毎日ずっと気怠かった。裁判だって? やりたいならやれば良い。俺の知ったことではない。だが、裁判の結果について考えると結局は動かなければならないのだろうと彼は思った。この家が差し押さえになったら……すべてが消えてしまう。トムもジェイミーもポールも、マギーも、四人のすべての思い出が……
疲労し、倦んでいたが、それでもヴィンスは考え続けていた。このところ、彼はずっと一つのことを考え続けていた。両腕を組み、そしてまた腕を元に戻すと、彼は上着の右ポケットから紙の束を取り出した。手垢と汚れがつき、黄色くなってしまったその紙の束を、彼は最初から一ページずつ読み直し始めた。
すでにヴィンスは紙に書かれた内容を記憶していた。それぞれの紙には短い文章が二、三ほど書かれていた。どれも平易な文章だったが、考え抜かれた末にそのような文章になっているのが窺われた。それは三人の兄弟の物語だった。物語の兄弟の名前はトム、ジェイミー、ポールだった。ヴィンスは最初から最後のページまで時間をかけてゆっくりと読むと、紙の束をまた上着へとしまった。
彼は目をつぶって、口に出して物語を暗唱し始めた。
『……これは昔、むかしの物語ではありません。これは今、現在の物語です。常緑の大地の真っ只中に、三人の兄弟が住んでいました。三人の兄弟は、大きい方からトム、ジェイミー、ポールといいました。三人の兄弟は三つ子のようによく似ていますが、歳はそれぞれ一歳違いです。三人は一緒に育ち、一緒に少年時代を過ごして、一緒に青年になりました。羊の世話をしたり、畑の手入れをしたりして三人は大きくなりました。ある時、大きな戦争が起きると、三人は一緒に出征しました。父のヴィンスは泣いて、母のマギーはもっと泣きましたが、それでも三人は行かねばなりません……』
急に怒りにも似た感情が湧いて、ヴィンスは物語を口に出すことをやめた。今、現在の物語だと? それなのに、三人は今どこにもいない。マギーも、こんなものを残さなければ良かったのに。戦地から手紙の形で送られてきた物語を、このように紙の束にしたのはマギーだった。ヴィンスは上着のポケットを撫でた。マギーは死ぬまでこれを読んでいた……もしかしたら俺も、死ぬまでこれを読むことになるのかもしれない。
視界の端に、丘に生えたエリカの木が見えた。あの木の下で俺たちは昔よく……そう、俺たちはよく物語を読んで、仲良く語り合った……
じっと目を閉じていると、ヴィンスは仄かに太陽の光と熱を感じた。次第に彼は眠りの中へと落ちていった。眠っている間、彼は夢を見た。あの丘で、あのエリカの木の下で、ヴィンスとマギーと三人の子どもたちは、笑い合いながら朝から晩まで物語を語っていた……
☆☆☆
何かの話し声が聞こえて、ヴィンスは目を覚ました。虫と会話しているかのように小さな話し声だった。耳鳴りか? いや、耳鳴りとは違う。しばらく耳を澄ませて聞いた後、彼はそれがベンチの下から聞こえていることに気が付いた。怪訝な顔をしつつ、彼はベンチの上から下を覗き込んだ。
その瞬間、ヴィンスは息を呑んだ。下にはぼんやりとした小さな影があった。影は五つあった。目が慣れてくるに従って、それらはさらに明確な形になった。もはやそれは影ではなかった。
それらはちょうど人形のような大きさだった。いずれも褐色の軍服を着ていて、平たいヘルメットを被っていた。使い込まれた革製の弾薬入れと
俺は気でも狂ったのだろうか? それとも、ついに目がおかしくなっちまったのだろうか? そう思いつつもヴィンスは息を殺して、さらに観察を続けた。兵士たちはその大きさを除けば、普通の兵士たちと何ら変わりがなかった。兵士たちは何かを話し合いながら、盛んに煙草を吸っていた。会話の内容はよく聞き取れなかった。
トムとジェイミーとポールのことを、ヴィンスは思い出した。三人とも、同じような恰好をして、同じような銃を担いで、そのまま戦地へと行って……
そこで、ようやくヴィンスは、小さな兵士たちに変わったところがあるのに気が付いた。兵士たちの耳は異様なまでに長く、先が尖っていた。平たいヘルメットの
妖精だ。ヴィンスはそう思った。小さくて、耳が長い。かつて、彼は妖精の話を幼い息子たちにしてやったものだった。三人とも喜んで、目を輝かせてそれを聞いた。騎士物語や聖人たちの物語よりも、三人は妖精の物語を好んだ。
しまいには、自分たち自身で妖精たちの物語を作って、俺とマギーに聞かせるようになって……そんなに妖精が好きなら、お前たちはもしかしたら妖精の子なのかもな。気づかないうちに取り換えられていたのかもしれない。俺が冗談交じりにそう言うと、三人とも笑って、それなら中身のない卵の殻を鍋で茹でてみてよ、父さん。そうすれば俺たちが妖精の子かどうかはっきりするよと言って……回想の渦に飲み込まれかけて、ヴィンスは頭を軽く振った。
五人の妖精たちは、まだ何かを話し合っていた。ヴィンスはさらに聴覚に集中した。すべてを聞き取ることはできなかったが、ただ一言、「ここが『約束の場所』だろう」という言葉だけは理解することができた。
約束の場所? そう思ったその時には、ヴィンスの頭の中に、あの紙の束の物語の一節が浮かんでいた。
『いよいよ大陸に着いたその日の夜、三人の兄弟はあることを決めました。僕たちはこれまでいつも一緒だった。でも、これからはどうなるか分からない。こんなに広い大陸でバラバラになってしまったら大変だ。はぐれたら二度と会えないかもしれない。だから、約束の場所を決めておこう。そこにいけば必ずまた三人が会える、そういう約束の場所を決めておこう。そうすれば何も怖くない……』
だが、その肝心の「約束の場所」とは結局どこだったんだ? ヴィンスは苦々しく思った。結局、そこがどこであるかはこの物語では書かれずじまいだった。あいつらの物語はいつもそうだった。どこかに必ず語り漏らしや書き漏らしがあった。俺がそれを指摘すると、三人とも平然とした顔で言ったものだった。語り漏らしや書き漏らしのない物語なんて、物語じゃないよ、父さん。だって、もし完全に語ることができるのならば、それが物語である必要なんてないんだから……
それにしても、妖精たちは妙なことを口にしたものだ。しかし……ヴィンスは考えた。もし、妖精たちが言う「約束の場所」と、あの物語の「約束の場所」が一緒ならば……? そのことを考えた時、彼は心の底で何かが動き出すのを感じた。それは陰気に寝そべっていた犬が何かの予感に突き動かされて起き上がるような動きと似ていた。これからどうなるかまったく分からない。何が来るのか、何を迎え入れることになるのか……ただ、彼はそれを心地良く思った。
その時、彼の上着の胸ポケットからライターがこぼれ落ちた。ライターが地面に落ちて音を立てると、妖精の兵士たちは一斉に顔を彼の方へ向けた。どの顔も驚きと緊張で強張っていた。ヴィンスには隠れる
しばらくして、一人の妖精が前に進み出てきた。小さな歩幅で、警戒するように妖精はヴィンスの方へ近づいた。ヴィンスは顔を上げずにそれを見ていた。ただ見ているだけではいけない。隠れるなり、大急ぎでこの場から離れるなりしないと……それでもヴィンスは動くことができなかった。
しかし、妖精は彼を見ていなかった。妖精はヴィンスを無視するように歩き続け、そしてライターのもとに辿り着くと、足の先でそれを軽く蹴った。軍用の黒い革ブーツが茶色の泥に汚れているのがヴィンスには妙にはっきりと見えた。何度か同じ動きを繰り返した後、妖精は仲間たちに言った。これはきっと『父』が落としたものだろう……
父という言葉を聞いた瞬間、ヴィンスの心臓は早鐘を打つように鼓動し始めた。父? 父とは? まさか、父とは……? 俺のことではないか?
妖精たちもまた、どことなく興奮した様子で話し始めた。では、ここは間違いなく『約束の場所』だ。『父』がいるのならば、ここは約束の場所で間違いない。さっそく報告しなければ。隊長に報告しなければならない。しかし、『母』はどこだ? 『母』もいるはずではないか? かまわない。『父』がいるのだから。とにかく、報告を……先ほどよりも会話はよく聞き取ることができた。
ここでようやくヴィンスはベンチの上に戻った。彼はまた仰向けに横になった。ずっと下を覗き込み続けていたために彼の頭は割れるように痛んだ。血液が逆流したんだ。そして今は、また元のとおりに血液が流れ始めている。埒もないことを彼は考えた。話し声はまだ続いていた。彼の背中の下から声が聞こえてくる。彼は考えた。理由は分からないが、俺にだけは奴らが見えていて、奴らには俺が見えていない。奇妙だ。実に奇妙だが、今はそれがありがたい。
それでは、声は聞こえるのだろうか? ふと気になって、ヴィンスはしばらく考えた。声を上げるのはやめておこう。開きかけた口を彼は閉じた。今は、もう少し様子を見るべきだ。
その時になって、ヴィンスはまた違った物音がするのに気が付いた。彼はベンチの上から周囲を見回した。その物音は、向こうの柵の右手方向からしているようだった。彼が見ているうちに、音は次第に大きくなってきた。
やがて、それは柵の向こうから姿を見せた。それは隊伍を組んだ妖精の兵士たちだった。先頭には将校が立っており、その後ろには伝令が続いていた。兵士たちは整然とした四列の縦隊を組んでいた。小銃を担いだ兵士たちの後ろに、水冷式の機関銃と弾薬箱を持った兵士たちが一団となって進んでいた。最後は、何かを載せた荷車が三台続いた。
ヴィンスは、かつて見た光景を思い出した。そうだった。トムもジェイミーもポールも、他の若者たちも、この妖精たちのように隊伍を組んで、街の目抜き通りを行進して、そのまま汽車に乗って港町のダンディーへ行った。ダンディーの港で輸送船に乗って、それから大陸へ……三人は機関銃のチームだった。トムがリーダーで、ジェイミーが射撃手で、ポールが給弾手で……そして、誰も帰ってこなかった。
妖精たちは水溜りを避けなかった。縦隊は一直線に進んだ。煙草の吸殻が浮かんだ水溜りの中へ、妖精たちは歩調を乱すことなく入っていった。まず先頭の指揮官が水溜りに入った。そして、兵士たちがその後へ続いた。水と泥の飛沫があたりに飛び散った。汚れた妖精の兵士たちはどれも似たような見た目になってしまって、まったく違いが分からなかった。
胸のあたりまで泥水で濡れた状態で、兵士たちはさらに進んでいき、ついにヴィンスがいるベンチの前で止まった。指揮官が号令をかけると兵士たちは一斉に「気を付け」から「休め」の姿勢をとった。しばらく指揮官は何も言わなかった。ヴィンスはそっと、ベンチの上から彼らの様子を眺めていた。何とはなしに、紙の束の中の一節を彼は思い浮かべた。
『戦場は過酷でした。
そのようにヴィンスが思い浮かべている最中にも、指揮官は兵士たちへ何やら話し始めていた。その声は甲高くやや金属質な声調を帯びていて、何を言っているのかはなかなか聞き取れなかった。妖精たちの様子に注意しつつも、彼はさらに物語を思い出していた。
『ある日、トムが言いました。塹壕には妖精がいる。他の奴らには見えていないようだが、確かに妖精がいるんだ。するとジェイミーが言いました。俺にも妖精が見えている。妖精は俺たちと同じ格好をしていて、ただ耳だけが長い。ポールが言いました。妖精たちはいい奴らだよ。あいつらも敵と戦っている。敵の方にも妖精がいるんだ。トムが付け加えました。ただ、あいつらは俺たちの姿が見えないらしい。俺たちの方から声をかけたら、奴らにも俺たちの姿が見えるようになるんだと。トムはさらに言いました。あいつらは、死んだ俺たちの仲間の魂を回収してくれるんだ、可愛らしくて小さい
一通りの話が終わったのか、妖精の指揮官がまた鋭い声で号令をかけた。すると兵士たちの隊伍が割れて、中から何かが運ばれてきた。ヴィンスはそれを注意深く見ていた。
それは三つの小さな
それを見た瞬間、ヴィンスは三つの壺に何か懐かしいような、それでいて近寄りがたいような印象を抱いた。マギーの墓の前に立った時と同じ気分だ。彼はそう思った。腹から背筋にかけて、なにか冷たいものが走るような感じがした。それでも、それはそれほど悪いものとも感じられない。
さらに、ヴィンスは物語を思い出した。
『三人はそのうち、妖精たちと友達になりました。食べ物と酒を分けてやると、妖精たちは喜んで踊ります。三人が歌ってやると、妖精たちも歌を返すのです。三人はまた、妖精たちに物語を語って聞かせてやりました。妖精たちは食べ物よりも酒よりも、そして歌よりも、三人の兄弟が語る物語を好んで聞くのでした。そう、この物語も、三人は彼らに話してあげました。『約束の場所』という言葉に、妖精たちは強い興味を示しました。『約束の場所』とはどこだ? どうやったら俺たちもそこに行ける? 何度も妖精たちにそう訊かれましたが、三人はそれについて答えませんでした。それは物語の最後でやっと明らかになるからです』
三台の荷車が並んだ。ベンチの下から五人の兵士たちが走り出て何かを報告すると、指揮官は深く頷き、そしてまた何かを話し始めた。今度は、なぜかヴィンスにもそれを聞き取ることができた。指揮官は甲高いながらも明瞭な声で兵士たちに語っていた。
「戦陣にある我らの
指揮官は語調を強めてさらに言葉を続けた。
「数年の
指揮官はそこで言葉を切ると、声を張り上げた。
「さあ、
側に控えていた兵士たちは号令を聞いて、蓋を開けようとした。
兵士たちが強く緊張しているのがヴィンスには分かった。彼もまた、緊張していた。あの冷たい雰囲気を放つ美しい三つの壺は……あの中には、もしかして……?
三人がどのような最後を迎えたのか、ヴィンスは知らなかった。戦死公報によれば、三人は激戦の最中、砲撃を浴びて壮烈な戦死を遂げたとのことだった。しかし、死体は帰ってこなかった。あるいは敵の捕虜になったのかもしれないと思い、ヴィンスとマギーは戦争が終わってからも五年以上、彼らの帰りを待ち続けた。待ちすぎてしまったかもしれない。ヴィンスは思った。次第にマギーは待つことに疲れて、精神が弱り、そして立てなくなって、そのまま死んでしまった……俺たちは途中で諦めるべきだったのかもな。
それでも、心のどこかで、ヴィンスはまだ息子たちがどこかで生きているかもしれないと思っていた。しかし、ここには壺がある。三つの壺があって、妖精たちはそれを「三人の兄弟の魂」だと言っている……ヴィンスは、紙の束の最後のページの文を思い出した。
『その日、三人には奇妙な予感がありました。明日は何か、大変なことが起こるかもしれない。それは世界を変えるようなことでは決してないし、あるいは冬が突然春になるようなことでもないだろうけれども、それでも大変なことなのは間違いない。三人は妖精たちに頼みごとをしました。もし俺たちに何かあったら、その時は俺たちを探して綺麗な壺に入れて、約束の場所へ連れて行ってほしい。そこには、俺たちの父さんと母さんもいるはずだ……でも、予感はあくまでも予感にとどまって、何も起こらないかもしれない。何も起きなければそれで構わないさ、とトムは言いました。いや、何かが起こってほしいとジェイミーは言いました。何が起こっても、俺たちは一緒さとポールは言いました。最後に、三人は『約束の場所』について、もう一度確認をしました。今、攻撃開始十分前です……』
物語はそこで終わっていた。
今では、ヴィンスはあの壺の中に、三人の息子の魂が入っていることを確信していた。
しかし、蓋は開かなかった。妖精たちは何度か試そうとしたが、蓋はいつまでも開かなかった。動揺と、その次に失望と落胆の波が兵士の列の間に広がっていった。指揮官は兵士たちを叱咤したが、結果は変わらなかった。開かないのです。どうしても開かない。そんなことがあるものか。ここが約束の場所ならば絶対に開くはずだ……開かないのです。妖精たちの溜息をヴィンスは聞いた。冬の風のように物悲しかった。
やがて、沈んだ口調で、しかし殊更に昂然と胸を張って、指揮官が言った。
「約束の場所はここではなかった。しかし、壺をこのままに放置することはできない。我らは壺を持ったまま、次なる地へと向かおう。あるいは壺は我らと共にこの地上を永遠に
この世を、永遠に
「ここは約束の場所ではない。右手の丘だ。丘のエリカの木の下へ行け。そこがトムとジェイミーとポールの、三人の約束の場所だ」
妖精たちは目を見開いて、突如としてその場に現れたヴィンスを見た。全員が驚愕の表情を浮かべていた。ヴィンスはベンチから降りて、立った。
無数の目がヴィンスを見ていた。彼もまた妖精たちを見ていた。ヴィンスにとって、いまや妖精たちの顔は、みんな三人の息子たちにそっくりなように見えた。
やがて、指揮官が丁寧な口調で言った。
「あなたは『父』ですか? あの三人が語っていた父とは、あなたのことですか?」
ヴィンスは頷いた。指揮官はさらに言った。
「『母』はどこですか? あの三人の『母』はどこにいるのですか?」
ヴィンスは答えなかった。彼が目を薄く閉じて首を左右に軽く振ると、指揮官は察したように瞑目した。指揮官はまた問いを発した。
「そのエリカの木の丘が三人の『約束の場所』なのですか? それは確かですか?」
ヴィンスは答えた。
「分からん。確かではない。ただ、あの場所で、私たちは人生で最も幸せな時間を過ごした。三人の息子はあの場所で物語を語ることを覚えた。私もマギーも、トムとジェイミーとポールの物語を楽しんだ……」
すると指揮官は頷いて、部下たちに何か指示を出した。荷車がヴィンスの足元へ進み、そして一列に並んだ。指揮官は言った。
「それでは父よ。あなたがその場所で、その壺を開けてください。それができるのはあなただけです。あなたに我々の任務を引き継ぎます。三人を約束の場所へ連れていってください」
頷いて、ヴィンスは壺を荷台から拾い上げた。壺は氷のように冷たかったが、いつまでも持っていたくなるほどに
ふたつめの壺を拾い上げながら、ヴィンスは指揮官に言った。
「俺の三人の息子たちの物語は、面白かったか?」
指揮官が頷くと周りの兵士たちも頷いた。ヴィンスは言った。
「そうか。俺もマギーも、あいつらの物語が大好きだったんだ」
ヴィンスと妖精たちはしばらく見つめ合った。だが、それ以上言葉はなかった。
三つの壺を両手で持ったその時、ヴィンスは妖精たちが一斉に姿を消したことに気が付いた。そこには水溜りのある庭が広がっているだけだった。
深く溜息をついてから、ヴィンスは歩き出した。太陽は力を失って傾きつつあった。冷涼な風が吹き始めていた。地平線の端はオレンジ色と濃紺とのグラデーションを描いていた。
丘のエリカの木の下に辿り着く頃には、おそらく日が沈んでいるだろう。ヴィンスはそう思った。壺が開いたら、あの未完の物語を最後まで聞くことができるかもしれない。いや、そんなに都合の良いことが起こるかな? あるいは、もしかしたら俺のこの行動自体が、トムとジェイミーとポールの物語の、本当の最後の一ページなのかも……
これからは、俺が、俺だけの物語を語り始めても良いかもしれないな。ふと、彼はそんなことを思った。明日は、街に行こう。街に行って、用事を済ませて、綺麗な紙とペンを買おう……
エリカの木の丘へ向かって歩いていくヴィンスの孤影は、次第に天から
※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。
・らいん・とほたー「ヴィンスの三人の息子たち」
小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第235回「約束の場所」に応募した作品です。2024年12月22日公開。エブリスタ版と比べて2,600字ほど加筆されています。
また妖精たちに登場してもらいました。以前私が妖精たちを書いたのは「エーファの葬列」でしたが(「ピエール」でも書きましたが、あの作品で書いた妖精はちょっと趣を異にしていますね)、今回もだいたい似たような役回りとなりました。私の書く妖精たちは妙に義理固いところがありますね。次にまた妖精を書くなら、もっと手に負えない感じの凶暴な妖精にしようと思います。
次回もお楽しみに! 50話めは書き下ろしにしたいです。