ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 コリントス市は、ハカーマニシュの黒き軍勢に包囲された。



05. シビラとソフィー

 都市は飢えていた。市民たちはありとあらゆるものに(かて)を求め、もはや雀一羽、鼠一匹すら街路に認めることはできなかった。

 

 暗く沈痛な雰囲気に包まれて、少女シビラはとぼとぼと歩いていた。彼女がその身に纏っている長外套は汚水と埃に塗れていた。彼女の群青の瞳は疲労で濁り、自慢だった亜麻色の髪もすっかりくすんでしまった。

 

 空は厚い雲に覆われていた。時折、敵の噴進弾が流星のような輝きを放って飛び去った。弾は都市上空で炸裂し、充填された毒素を紫の雨にして、街区の至る所に撒き散らした。

 

 城壁の外から、包囲軍の不気味な軍鼓の響きが聞こえてきた。パールサの荒野からやって来た褐色の夷狄(いてき)たちの音楽はあたかも、市民に、抵抗は無意味だ、降伏せよ、と居丈高に勧告しているようだった。

 

 そして時たま、いまだ頑強に抵抗を続けるアクロポリス要塞から砲声が聞こえてきた。それは敢闘精神の発露というよりも、むしろ瀕死の都市への弔砲のようだった。

 

 懐に手を伸ばして、首から下げているお守りをシビラは握りしめた。それはいつから持っているのか知れない、半分に切った銀のメダルのお守りだった。分断された花の意匠が刻まれていた。家族すら失った彼女の、唯一の財産だった。

 

 ふと、シビラは路傍(ろぼう)に目をやった。そこには汚れた下着だけを身に着けた男が、半身を縁石に預けて座り込んでいた。男はぶつぶつと、意味も成さぬ何ごとかを呟いていた。散布された毒素によって、男は神経をやられたようだった。紫の雨に打たれるままの彼は、いずれ皮膚が爛れて剥がれ、肉と骨が腐り落ちるだろう。

 

 シビラは、身震いした。自分もいつ、あのような状態になるのか分からない……

 

 

☆☆☆

 

 

 突如、街頭の拡声器から、長距離砲撃を警告する独特のメロディが鳴り響いた。通行人たちが蜘蛛の子を散らすように駆け出した。シビラもまた、近くの公共避難壕へ走ろうとした。

 

 その時、噴進弾の飛翔音とは異なる音が響いた。シビラは咄嗟に伏せた。数秒後、それは轟音と共に飛来し、街路の真ん中に着弾した。石畳の破片が唸り声を上げて飛び散った。

 

 濛々(もうもう)と吹き上がった土煙が、やがて晴れた。そこにはキュプリス神殿の大円柱のように巨大な、全金属製の物体が地面に突き刺さっていた。物体は側面の扉を開くと、中から異形の怪物を次々と吐き出し始めた。

 

 怪物は蜘蛛の脚、カマキリの胴体、牡山羊の頭を持っていた。それはハカーマニシュの生物兵器、キメラだった。

 

 器用に折り畳んでいた体躯を展開すると、キメラは乗合馬車ほどの大きさになった。十数匹以上のそれは着弾地点から飛び出すと、茫然とその光景を眺めていた市民たちに一斉に襲い掛かった。

 

 角で突き鎌で()ねて、キメラたちは殺戮の限りを尽くした。街路は一瞬にして死体で溢れた。

 

 凄惨な光景を見てシビラは、栄養失調で力の入らない足を懸命に動かして、その場から逃れようとした。

 

 しかし、一体のキメラがそんな彼女を鋭く見つけ出していた。舗装を砕き、轟音を立てながら、怪物が彼女のもとへ走り寄って来た。

 

 呼吸が荒くなり、筋肉が軋んだ。肺は酸素を得ようと必死に活動し、心臓は破裂しそうなほど脈打っていた。シビラはただ生存本能に突き動かされて、路地裏を目指して駆けた。狭い道に入れば、あの巨体は入ってこれないはず。彼女はそう考えた。

 

 だが、シビラは人間であり、キメラは兵器である。兵器が人間を殺すように設計されている以上、最初から勝負は見えていた。

 

 シビラは悲鳴を上げた。

 

「ああっ……!」

 

 あと数メトロンという距離で、シビラは焼かれるような感触を右足に覚えた。見ると、黒い剛毛を生やしたキメラの脚が、彼女の右足を貫いていた。傷口からは真っ赤な血潮と暗緑色の毒液が滴り落ちていた。

 

 彼女の眼前で、怪物の鎌が振り上げられた。このまま数秒も経てば、彼女の頭部は永久に胴体と泣き別れをすることになるだろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 その刹那だった。

 

「伏せて!」

 

 力強い、冴え渡るような声が聞こえた。シビラは声が終わらぬうちから、頭を腕で防御し、地面にぴったりと伏せた。

 

 直後、頭上で鋭い爆発音が響き、真っ白な光が炸裂した。キメラが断末魔の叫び声を上げた。醜怪な生物兵器は胴体から臓物を撒き散らして、次の瞬間には絶命していた。

 

 爽やかな声がシビラの耳に響いた。

 

「危ないところだったわね」

 

 そこには、黒い外套を身に纏った少女がいた。年齢は、シビラと同じくらいだろうか。フードからのぞく髪の毛は燃えるような赤色だった。その瞳は吸い込まれるようなアメジストだった。整った顔立ちはどこか大人びていて、静かな水面の如き冷静さを(たた)えていた。

 

 シビラはその少女に声をかけようとした。

 

「あ、あの……あっ……!」

 

 シビラの言葉は、無理やり中断させられた。いまさらになって、怪物に刺された右足が激痛を訴え始めていた。

 

 赤髪の少女はシビラの傍らに近寄ると、先ほどの凛々しい声とは一転して、穏やかな優しい声で言った。

 

「待って、動かないで。応急処置をしてあげる」

 

 聞いたことのない不思議な呪文を唱えてから、少女は霊妙な緑の光を発する護符を傷口に貼った。見る間に出血が止まり、痛みが緩和されていった。

 

 その経過をじっと観察していた少女は満足気に頷くと、半ば放心しているシビラにそっと語りかけた。

 

「これで立つことはできるはずよ。さあ、ここから離れましょう。またいつキメラが来るか分からないわ。この先に私の隠れ家があるの。そこで治療の続きをしましょう」

 

 

☆☆☆

 

 

 少女に肩を貸してもらい、シビラは足を引き摺りながら歩き始めた。二人は路地裏に入り、そのまま奥の行き止まりまで進むと、金属製の蓋が付いた暗渠(あんきょ)点検口に辿り着いた。

 

 少女が言った。

 

「ここを降りるのよ」

 

 シビラは躊躇して言った。

 

「で、でも……私、足が……」

 

 少女は答えた。

 

「大丈夫、任せて」

 

 梯子があるとはいえ、右足が使えない状態で垂直の縦穴を降りるのは、本来ならば不可能なはずだった。だが少女が呪文を唱えると、シビラの体がふわりと、綿のように宙に浮かんだ。シビラはそのままゆっくりと穴を降りていった。

 

 暗渠の中は湿気に満ち、悪臭が芬々(ふんぷん)としていた。しばらく進むと、こじんまりとした天幕があった。その内部は蓄光石を用いた照明で夜明けの空のように薄明るかった。しかも、どのような装置が用いられているのか、清浄な空気が保たれていた。

 

 二人は藁を固めた粗末なマットレスに身を休めた。しかし、どちらも口を開かなかった。内気なシビラは目を伏せていた。一方、赤髪の少女はじっと彼女を見つめていた。

 

 沈黙を破ったのは、少女のほうだった。

 

「ここまで来ればもう大丈夫。それにしても災難だったわね。傷が癒えるまでしばらくここで休んでいくといいわ。食べ物も水も蓄えがあるし」

 

 シビラはおずおずと口を開いた。

 

「あ、あの……本当にありがとうございました。そ、それであなたは……うっ、うう……」

 

 礼を言おうとしたその時、シビラの体が突然震え始めた。体の芯から揺さぶられるような不随意な震えだった。彼女は顔面は蒼白になり、口からは泡を吹いていた。全身から力と熱が抜け、視界が急激に闇に染まっていった。

 

 少女が叫んだ。

 

「しまった! ハカーマニシュの奴ら、新型のキメラを投入したのね! なんて卑劣な!」

 

 その言葉はもはやシビラには聞こえていなかった。痙攣しながらも彼女は無意識に懐のお守りに手を伸ばし、固く握りしめた。

 

 少女の声が遠く聞こえた。霞みのかかった谷の向こうから聞こえてくるような、幽かな声のようにシビラには感じられた。

 

「私が治してあげる……安心して……あなたは私が絶対に救ってみせるから……」

 

 

☆☆☆

 

 

 シビラは夢を見ていた。これが夢でないならば、あるいは記憶の糸の縺れと言うのかもしれなかった。

 

 光に包まれた、花咲き乱れる野原が目の前に広がっていた。丸い頭巾を被った小さな女の子がシビラの前にいた。シビラは言った。

 

「……はい、完成! これ、アカンサスの花輪だよ。命の力の『しょうちょう』なんだって! お母さんがそう言ってたの」

 

 シビラは頭巾の女の子に花輪を(かぶ)せた。頭巾の女の子から笑顔が零れた。女の子が言った。

 

「……ありがとう、シビラ。じゃあ、私からはこれをあげるね」

 

 女の子がポーチから何かを取り出した。溢れる光が邪魔をして、それが何なのかは分からない。シビラは言った。

 

「……これは何?」

 

 女の子が、どこか(おごそ)かな口調で言った。

 

「……これは、私の最初の魔法。そして、あなたとの友情の証。大切にしてね。どんな時でも手放さないようにして……」

 

 

☆☆☆

 

 

 突然、断崖から転落するような浮遊感がした。シビラは急激に意識を覚醒させた。視界はぐるぐると回転し、心臓は早鐘を打っていた。彼女は全身に寝汗をびっしょりとかいていた。

 

 暗闇の中で身じろぎもせず、彼女は精神が均衡を取り戻すのを待った。そうして、数分とも数時間とも知れない時が経った。

 

 最初に彼女が気づいたのは、自分の体に何か柔らかくてあたたかいものが抱きついているということだった。しっとりとした、絹のような肌の感触を彼女は覚えた。

 

 それは、赤髪の少女だった。シビラと同じく一糸も纏わぬ姿で、少女はそのしなやかな手足を彼女の体に絡みつけていた。

 

 当惑しつつ、シビラは少女の顔を見つめた。少女はじっと目を閉じていた。美しいが、コリントスの民とはどこか違う顔立ちだった。長く艶やかな睫毛(まつげ)が印象的だった。

 

 ぱちっと音を立てたように、少女の目が開いた。驚くシビラに、少女はにっこりと笑って言った。

 

「おはよう。その様子だと、解呪は成功したみたいね」

 

 

☆☆☆

 

 

 少女は黒い下着に足を通しながら、これまでの経緯を話し始めた。

 

「裸だったから驚いたでしょう、ごめんね。あのキメラの毒は、応急術式と護符では解呪できない新型だったのよ。遅効性の神経毒特有の症状から見て、アジ・ダハーカの改良型ね。祖母から対処法を聞いていなかったら、あなたを助けることはできなかったと思う。危ないところだったわ。でもね……」

 

 シビラは思い切って話を中断させた。

 

「あ、あの!」

 

 シビラにはどうしても言わなければならないことがあった。しかし、その言葉はなかなか口から出てこなかった。言い淀んでいる間に、少女の方が口を開いた。

 

「何かしら、シビラ?」

 

 ようやく、シビラは言うことができた。

 

「助けてくれて、本当にありがとうございました! そ、それで、あなたの名前は……?」

 

 少女はすでに服を着終えていた。少女は平然として答えた。

 

「私? 私はソフィー。魔法使いの一族の娘よ」

 

 ソフィーと名乗った少女は、それからもあまり口を開かないシビラを相手によく喋った。この天幕は彼女の簡易工房であること、簡便な機材しかないが術の行使には問題ないこと、シビラの解呪には二日間かかったこと、毒素を抜くには裸で抱き合って経脈を通じる必要があったこと……

 

 シビラは赤面した。

 

「は、裸で……」

 

 シビラは言った。

 

「恥ずかしかった? でも、緊急事態だったのだからやむを得ないわ。それに……」

 

 ソフィーはウインクをした。

 

「私もちょっと、恥ずかしかったわ」

 

 しばしの沈黙があたりに満ちた。シビラはこの機会に、話を聞き始めてから気になっていたことを、意を決して尋ねることにした。

 

「あ、あの、ソフィーは魔法使いなんでしょ? それじゃ……」

 

 ソフィーは、何でもないというように答えた。

 

「ああ、包囲戦開始前の一斉検挙でしょ? 私もちょっと不覚をとって捕まってしまったけれど、逃げ出してやったわ」

 

 開戦に先立って、コリントス市当局は、以前より異教の神々の手先として迫害の対象とされていた魔法使いたちを一斉に拘束し、市外へ追放していた。

 

 ふぅ、とソフィーは溜息をつきつつ言った。

 

「本当に、愚策の極みよね。隔離政策に、即決裁判に、追放に……私たち魔法使いが、いったい何をしたって言うのかしら」

 

 魔術兵器を駆使するハカーマニシュ軍に対抗するには、同じく魔法に長けた一族を戦力化することが不可欠だった。それにもかかわらず、市当局は十数年前から隔離地域に押し込めていた彼らを、今度は放逐してしまった。幻覚弾が市内に降り注ぎ、キメラが送り込まれるようになってから、初めて当局は対策に大わらわになったが、すべてはすでに手遅れだった。

 

 ひととおり話を終えると、二人は食事をすることにした。種無しパンと水の食事をとりながら、ソフィーはシビラに言った。

 

「一度地上に出て、様子を確認しましょう。あなただって、お(うち)が気になっているんじゃない?」

 

 シビラは硬いパンを一口(ひとくち)一口噛み締めながら、ふと疑問に思ったことを言った。

 

「ねぇ、ソフィー。なんでソフィーは私の名前を知ってたの? 私、自己紹介してないのに」

 

 赤髪の魔法使いは、ふふっと微笑んだ。

 

「だって、魔法使いだから。なんでも私にはお見通し、なのよ」

 

 そうして、ソフィーはそっと視線を落とした。シビラには、その横顔がどこか寂しそうに見えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それから半月あまりの間、二人は共に暗渠(あんきょ)の中で生活をした。そこは地上で展開されている地獄絵図とは、地盤一枚のみを隔てた空間だった。シビラにとって、そこは天国に等しかった。

 

 シビラの家は、すでに燃え尽きていた。亡くなった両親との思い出の詰まった家は廃墟となって(むくろ)を晒していた。その前で、シビラはしばし涙を流した。

 

 近所の住人の話によると、家に敵軍の擾乱(じょうらん)射撃が直撃して炎上したとのことだった。アエーシュマ工廠製の新型焼夷弾のせいだろうと、ソフィーは言った。

 

 暗渠での生活は、ソフィーが数々の工夫を凝らしていたおかげで快適そのものだった。食事は粗末だったが健康を保つには充分な量があった。何より、魔法によって清潔な水を手に入れられることがシビラにとってはありがたかった。彼女は久しぶりに体を清めることすらできた。

 

 日が経つにつれて、シビラの心身は健康を取り戻した。ソフィーは、知的でどこか超然としているが、いつもシビラのことを気遣っているようだった。そのことに気づいた時、シビラは自分の乾ききった心が、慈雨を受けて急に潤ったように感じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ある日、ソフィーは面白いものを見せてあげるとシビラに言った。

 

「これから披露するのは変身魔法。私の一番得意な術よ」

 

 ソフィーは口早に呪文を唱え、次々と姿を変えた。彼女は大きなハウンド犬になったり、黒猫になったり、有名な二枚目役者のアキリオスになったりした。

 

 最初、シビラは夢中になってその光景に見入っていた。だが、ふと彼女は思うことがあった。ソフィーが黄金の鷲に変身した後、遠慮がちにシビラは尋ねた。

 

「ねぇ、ソフィー。変身してもらいたい人がいるんだけど……」

 

 黄金の鷲が首を(かし)げた。

 

「なあに、シビラ?……うん、分かった」

 

 次にソフィーが変身したのは、若い女性だった。群青の瞳に、亜麻色の栗毛を持っていた。シビラをそのまま大きくしたような、包容力のある瑞々しい容姿だった。

 

 今は亡きソフィーの母がそこにいた。

 

 万感の思いが溢れるままに、シビラはソフィーに駆け寄った。シビラは言った。

 

「お、お母さん! お母さん……!」

 

 泣きじゃくり、ひしと抱きつくシビラの頭を、ソフィーは優しく撫でてやった。

 

「良い子ね、シビラ……これまでよく頑張ったわ……」

 

 後になって、なぜソフィーが母のことを知っていたのか、シビラは訊いた。だが、答えははぐらかされてしまった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ハカーマニシュの軍勢はあまりにも強大だった。どれほど城壁を高く堅く築き上げても、強い意志を持った敵を前にしてはいずれは破られるものである。コリントス市もその例外ではなく、ついに最後の瞬間が訪れた。

 

 ある朝シビラが目を覚ますと、天幕の外からただならぬざわめきが聞こえてきた。彼女は幕の間から覗き見ると、そこは大勢の人で溢れていた。疲労と不安に押し潰され、土気色をした顔の数々が暗闇の中に浮かんでいた。どうやら、地上の市民たちが大挙して暗渠に降りてきたようだった。

 

 ソフィーが指導者らしき初老の男性と話をしているのを、シビラは後ろからそっと窺った。男性は言った。

 

「異教徒共が城壁をついに突破したのじゃ。キュプリス正門も破られたらしい。市内各所で略奪と虐殺が始まっとる。この暗渠なら安全だろうと思って、みんなで逃げて来たんじゃ」

 

 ソフィーは手を腰にやり、堂々とした態度で男性と話していた。

 

「アクロポリス要塞は? 陥落したのかしら?」

 

 男性は静かに首を左右に振った。

 

「分からぬ。とにかくほとぼりが冷めるまでここに避難したい。それに、わしらもう何日も飲まず食わずでな、もうこれ以上は動けんわい……」

 

 話し合いはまだ続くようだった。シビラは、来るべきものが来たと思った。彼女はお守りを握りしめた。これまでの楽しい生活を送ってきたが、その裏で、彼女は決して避けがたい暗黒と絶望の未来を予想しまいと必死に努力していた。いつかソフィーとの穏やかな暮らしが終焉を迎え、凶暴なキメラを従えた褐色の軍勢が押し寄せる光景を、一度ならず彼女は恐怖と共に思い描いていた。

 

 これからどうなるのだろうか? そう思い悩む割には、シビラの身体と精神はまったく動かなかった。彼女は呆然として、ただマットレスに座り込むだけだった。

 

 突如、外から聞こえてくる喧騒が大きくなった。ほどなくして、音もなくソフィーが天幕に入ってきた。彼女はシビラを見つめると、にやりと笑った。

 

「シビラ。この暗渠から出ましょう。いえ、暗渠だけではないわ。この都市から脱出するのよ」

 

 思いがけない発言に、シビラはしばし唖然とした。半ば震えた声でシビラは言った。

 

「で、でも、外はハカーマニシュの軍勢でいっぱいだって……それに城門も……」

 

 ソフィーはシビラの隣に寄り添うように座ると、肩に手を置いて懇々と諭した。ここに居続けても状況は改善しない。敵はいずれここを見つける。そうなると逃げ場はない。それなら、イチかバチか脱出するほうに望みをかけたほうが良い。

 

「それにね、私が魔法使いだって外の人たちにバレちゃったのよ。ほら、私の髪の毛って赤いでしょ? それを見咎められちゃってね。それで、市民の皆さんがここから追い出せってうるさくて。先にここにいたのは私たちなのにね……」

 

 

☆☆☆

 

 

 それからの二人の行動は迅速だった。

 

 ソフィーは小さなポーチを一つだけ腰に帯びると、シビラを伴って天幕を出た。二人は指導者の初老の男性に一声(ひとこえ)だけ挨拶をすると、ひしめく群衆を掻き分けて、脇目も振らず地上への梯子をのぼった。

 

 地上の空は、赤く染まっていた。それは市内の各所で破壊と放火が盛んに行われている証拠だった。戦闘騒音に加えて、キメラのあの魂すら引き裂くような醜悪な鳴き声も聞こえてきた。

 

 ソフィーは、シビラにはすでに聞き慣れた呪文を唱えた。次の瞬間、シビラの目の前に、ハカーマニシュ軍の兵士が立っていた。色黒で、逞しい筋骨を持ち、ぼうぼうと髭を伸ばした中年の兵士だった。

 

 中年の兵士は、腰のポーチから小さな小瓶を取り出した。犬が低く唸るような声で、ソフィーが口調すら変えて言った。

 

「これを飲め、シビラ。こんなこともあろうかと作っておいたものだ。大丈夫、副作用は一切ない。それに、お前の好きなザクロ味だ」

 

 一瞬、シビラはためらった。だが、ソフィーの作ってくれたものだと、彼女はすぐに思い直した。この期に及んで否やはなかった。彼女は小瓶を受け取ると、一息に紅色の中身を飲み干した。

 

 ソフィーが会心の笑みをこぼした。

 

「さすがは私、大成功だ。おい、自分の手を見ろ」

 

 そう言われて、シビラは手を目の前にかざした。そこには何もなかった。

 

 ソフィーが言った。

 

「それはプラヴァシの透明薬。端的に言えば、姿が誰にも見えなくなる薬だ。体臭すら秘匿する。だが、気を付けろ。精神が平静状態でないと、正体が露見する。常に心を冷静に(たも)て……」

 

 

☆☆☆

 

 

 二人は、混沌と暴力の坩堝と化した市内を歩いた。二人は南門へと向かった。話によると、そこだけは未だ敵の手に落ちていないということだった。

 

 そこここでキメラが蠢き、兵隊たちが笑いながら白刃を振るっていた。破壊と殺戮が繰り広げられていた。目の前に生首が転がってきた時、シビラは思わず叫び声を上げそうになった。

 

 ソフィーが小声で注意をした。

 

「……落ち着け、シビラ。深呼吸しろ。頭の先が少し見えているぞ」

 

 たったの一メトロンを進むだけで、シビラには永遠の時間が経ったように思われた。悠然と歩を進めるソフィーの後ろで、彼女は息を殺し、精神を殺して歩き続けた。

 

 しかし、最後になって、真なる試練が待ち受けていた。

 

 声が響いた。

 

「止まれ!」

 

 まだ南門はすでに敵の手に落ちていた。長槍と短銃を持ったハカーマニシュの野戦憲兵が、そこに立ちはだかっていた。憲兵は言った。

 

「司令官が許可するまで、略奪品を市外へ持ち出すのは禁止されている。一応、改めさせてもらうぞ。こっちに来い」

 

 揉み手をして、ソフィーが愛想笑いを浮かべた。

 

「へっへ、憲兵の旦那、わっしはちとあぶれちまって、いまは何も持ってねぇんでさ。ここから外に出ようというのは、ちょいと要塞攻囲軍のほうへ友人を訪ねに行きたいだけですんで」

 

 憲兵はソフィーをじっくりと、しかしどこかなおざりに眺めた。明らかに、憲兵はこのような仕事に対してうんざりとした気分を抱いているようだった。やがて、憲兵は言った。

 

「そのとおりのようだな。なにも持っていない。ふん、薄汚い兵卒が。通って良し」

 

 ソフィーは、難なく突破した。次はシビラの番だった。

 

 見えてはいない。絶対に見えてはいないはず……シビラは自分に強くそう言い聞かせた。深呼吸をし、前だけを見て、ソフィーの後ろについて行くだけ……

 

 突然、シビラの目の前に黒い影が現れた。それは、憲兵の連れている軍用犬だった。

 

 あっと叫びそうになるのをシビラは必死に(こら)えた。しかし、動揺は隠せなかったらしい。憲兵が訝しげな声を上げた。

 

「むっ、なんだ? 今、なにか見えたような……」

 

 すかさずソフィーがごまかしの声を上げた。

 

「へえ? わっしには何も見えませんがね」

 

 憲兵が歩を進めた。シビラとは至近距離だった。憲兵は言った。

 

「兵卒、うるさい! うむ、確かに何かが見えた気がするが……」

 

 シビラは息が上がり、膨れ上がる緊張感が心の枠を破壊しようとした。

 

 その時、シビラはお守りのメダルを握りしめていた。完全に無意識だった。

 

 すると、お守りのメダルが急に熱を帯びた。お守りはあたたかな力を発し、その奔流をシビラの深奥に送り込み始めた。シビラの心は穏やかになって、視界が広くなった。彼女はそんな気がした。

 

 憲兵は首を傾げた。

 

「むぅ、気のせいか……? もしかしたら、殺された市民共の亡霊かもしれんな……」

 

 憲兵は頭を掻いた。軍用犬も座って頭を掻いていた。その横を、シビラは今までにないほど自信に溢れて、優雅に通り過ぎていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 数時間後、都市から離れた野原で、二人は抱き合っていた。野原には花が咲き乱れていた。

 

 シビラは、懐からお守りを取り出して言った。

 

「これのおかげだったの。これを握ったら心が落ち着いて、もうどんなことでも大丈夫って思えて……」

 

 ソフィーは、しげしげとお守りを眺めた。そして、ひとつ溜息をついた。彼女は言った。

 

「もう、シビラったら。まだ気づいていないの?」

 

 そして、懐に手をやると、ソフィーは何かを取り出した。

 

 それは、半分に切った銀のメダルだった。ソフィーはそれを、シビラのそれに合わせた。二つを合わせると、分断されたアカンサスの花の意匠がぴったりと一致した。

 

 シビラは声をあげた。

 

「あっ! これって……!」

 

 シビラの脳裏に、幼い日のあの光景が鮮やかに蘇った。花咲く野原、丸い頭巾の女の子、アカンサスの花輪、笑顔……

 

 シビラは言った。

 

「ソフィー……そうだった、あなた、ソフィーだったのね……!」

 

 ソフィーは笑顔を浮かべて言った。

 

「シビラ。私の初めての、たったひとりの友達。どんなに離れていても、シビラの危機には絶対に駆けつけて守るって、私はあの時、誓ったの……」

 

 柔らかな日の光に照らされた二人の影が、一つに重なった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「シビラとソフィー」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第87回「女同士・男同士」に応募した作品です。2018年11月1日公開。

 キャッチコピーは「瀕死の都市が上げる絶叫のなかを、二人の少女は懸命に生き抜く」
 
 テーマは「女同士の友情」でした。字数制限が最大8000字なので、エブリスタ版では削った要素が多かったのですが、今回ハーメルンにアップするにあたり、多少の書き足しと修正を加えました。

 この作品、ほいれんで・くー(らいん・とほたー)のオリジナル短編四作目で、そろそろ短編用のプロットの立て方が分かってきた頃に書かれたものです。

 ハカーマニシュは、アケメネス朝ペルシアをイメージしております。コリントス市はギリシアをイメージ。

 シビラとソフィーは、長編用に考えていた別のプロットから、名前だけを借りました。そのプロットでは、シビラが女聖騎士、ソフィーが聖女となっていました。剣と槍でバリバリ戦うシビラ……いつか書いてみたいものです。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/26/月)

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