ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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50. インフェルノ 太陽の下へ

 小さなクモが壁の上を這っていくのを、タケルは視線だけで追っていた。

 

 クモの大きさは小指の先ほどもなかった。茶褐色の体で、細い前腕(ぜんわん)を盛んに動かしている。おそらくハエトリグモの一種だろうとタケルは思った。前に生物の資料集で読んだことがある。蚊とか蠅といった羽虫を捕まえているに違いない。なるほど、そういった類の獲物ならばこの場所は事欠かないが……タケルは横になったまま、クモが壁の向こう側へと消えていくまで見続けた。やはり小さくて無害なハエトリグモは、何かこの場所には不釣り合いな存在だった。

 

 余計なことをして体力を消耗するわけにはいかなかった。タケルはなおも横になったまま、もうしばらくそこに留まることにした。出発するにしてもどうせ一人しかいない。だからタケルは気が楽だった。ただし、そこを出る時間は慎重に見極めなければならない。外に姿を晒しても良い、その時間を……そのようなことを考えると、彼の気分はまた重くなった。気分の重さがそのまま体の重さへと転化した。

 

 タケルは痩せていた。もともとはそうではなかった。ここに来るまでは、彼はけっこう体重があった。同じクラスの生徒たちと比べても彼は上背があり、筋肉量も多く、骨格もがっしりとしていた。今では見る影もない。慢性的な栄養不足で彼の肉体はすっかり衰えていた。身につけている黒の詰襟の学生服は白い土埃で汚れている。それでも、彼の目つきだけは依然として鋭いままだった。元より精悍(せいかん)だった顔立ちは、飢えと疲労と、なにより緊張によって、一種の凄愴(せいそう)ささえ帯びるようになっていた。彼はすでに青年ではなかった。

 

 廃墟の中には紫色の日の光が差し込んでいた。今が朝であるか、それとも夕方であるか、タケルには分からなかった。とっくの昔に彼の中から時間の感覚は消え失せていた。しかし、大まかな時間帯を知ることはやはり必要だった。

 

 タケルは横になった姿勢から上体だけを起こして、壁を遮蔽物(しゃへいぶつ)にしながら太陽の位置を確認した。空は濃い緑色でところどころに渦を巻いており、千切れたような黒い雲が黄色い輪郭を描いて二つか三つ浮かんでいて、水平線の少し上に紫色の太陽が浮かんでいた。タケルは、今は朝方だと判断した。夕方だと太陽はもっと赤色を帯びているし、それにこの世界では太陽は水平線の下に沈むのではなく、空を昇っていってそのままどこかへ消えてしまう。まるでその日ごとに新しい太陽が生まれ、また死んでいるように……だが、タケルにとって太陽の生き死になどはどうでも良いことだった。問題なのは太陽の位置だけだった。

 

 地上には見渡す限り廃墟が広がっていた。どの丘の上にも白い石材と煉瓦の破片がまるで海底のクジラの死骸のように散らばっていて、谷の底の森林はすべて枯れて灰色になっていた。川は干上がっており、平原はすべて砂漠と化している。生き物の気配はどこにもなかった。タケルは槍を手にした。どこかで拾った棒杭にボロ布を巻きつけただけの武器だったが、ないよりはマシだった。いつそれを拾ったのか、タケル自身もすっかり忘れていた。

 

 槍を持ったまま、タケルはさらに時間が経つのを待った。もう少し太陽が昇るのを待った方が良い。今はまだダメだ。連中はまだ眠っていない。夜に活動をして餌を漁っていた連中は、まだ寝床に戻っていないだろう。何も獲物を得られなくて、空腹で苛立っている奴は特に危険だ。神経が過敏になっていて、どんな小さな物音にも反応する……

 

 どこに行っても捕食者と被捕食者がいて、そしてタケルはいつも被捕食者(食われる者)の側だった。捕食者たちが主に夜に活動をし、その時間帯に凶暴性と貪欲さが頂点に達するということを知るまで、タケルは随分と多くのものを失った。

 

 この世界に来た時、タケルには五人の仲間がいた。今も残っているのはタケル一人だった。最後の仲間がいなくなったのは……タケルは槍を握り、空の太陽の位置を確かめながら思った。ヨシアキが消えたのは、何日前だったか? つい最近だったような気もするし、遠い昔だったような気もする……ヨシアキの苗字は何だったっけ? サトウだったか、あるいはサイトウだったか……?

 

 太陽が次第に高度を増し始めた。気温が上昇し、肌に汗の粒が浮かんだ。タケルは耳を澄ませた。何も聞こえない。地鳴りのような、あるいは地虫(じむし)が発する軋み声のような音が聞こえたら要注意だった。踏み殺されるネズミの頭蓋骨が悲鳴と共に破裂するような音が聞こえたら即座に逃げなければならない。だが、そのような音はいずれも聞こえなかった。

 

 ただ風の音だけが聞こえていた。それは穏やかな波の音にも似ていたし、テレビの砂嵐のような人工的な音のようにも聞こえた。この世界の風の音には魔力があるとタケルは思った。聞いているとつい過去を思い出してしまう。そして、過去を思い出している人間は、つい隙を晒してしまうものだ。隙を晒せば喰われてしまう。ぼんやりとした、どこか間の抜けた顔をしたまま……シンタロウもそうやって消えた。

 

 時間になった。もう活動を始めても大丈夫だろう。タケルは立ち上がると、右手に槍を持ち、左肩に青い学生カバンを提げて廃墟の中を歩き始めた。どこに行っても似たような景色が続いていた。どの廃墟の中にも白骨があり、それはだいたい人間の骨だった。捕食された者が生きたまま消化され、そのまま排泄されたものだった。廃墟の中に骨があるということは、つまり捕食者が廃墟の中にも侵入してくるということを意味していたが、タケルはそれを恐れなかった。捕食者たちが排泄をすることは滅多になく、また、連中が排泄をするのは決まって夕刻で、つまり彼らが捕食活動を開始する前であることはタケルには分かっていた。

 

 廃墟の中では方角などまるで分からなかった。それでもタケルには行くべき場所が分かっていた。とにかく、太陽の方向へと進んでいけば良い。太陽が消えていき、そして太陽が昇るところはこの世界ではいつも変わらずまったく同じだったから、太陽を目指して歩いていけば目的地に辿り着くはずだった。この世界の太陽の昇るところに「約束の場所」があるということは、摩耗したタケルの精神にいまだにしっかりと刻み込まれていた。

 

 誰がそんなことを言い出したんだっけ? 廃墟の中を低く吹き抜ける風の音を聞きながら、タケルはそう思った。「約束の場所」が太陽の(もと)にあるなどと、誰が言い出したんだっけ?

 

 そうだ、それはアキラが言い出したのだ。タケルは大きな瓦礫をよじ登った。今から思うとアキラは大した詩人だった……この世界の太陽の下に「約束の場所」があるなどというのは、まったく奴の詩情(ポエジー)に依らなければ分かることではなかっただろう。理性でもなければ、感情でもなく、欲求でもない。ただの詩情(ポエジー)……それが今も俺をこの世界に漂わせている……たった一人になっても、なおもその場所を目指しているのは、あるいは俺がすでに奴の詩の一部になっているからかもしれない。死んだ人間が死んだ後も歌い続けている詩、その一部に俺が……次の瓦礫はさらに大きかった。タケルは槍を放り上げ、カバンも投げた後、瓦礫の隙間に手を入れて登り始めた。

 

 一つの廃墟を通り抜けるのに随分と時間がかかった。廃墟はどれも構造が違っていて、内部は違ったように崩れ落ちていたから、タケルは瓦礫を乗り越えたり潜ったりしなければならなかった。それでも、廃墟の外に出るのは問題外だった。廃墟を出ればまた別の廃墟の中に通じており、そうやって廃墟を伝って廃墟の外へ出ることは可能であるかもしれないが、それは時間がかかりすぎるし、何より廃墟の外に出てしまうと身を隠す場所がなく、捕食者に捕捉されやすくなる。昼というこの時間帯ならば捕食者の心配をしなくとも良いかもしれないが、それは廃墟の中に限った話だった。廃墟の外には、昼に活動する捕食者がいるかもしれない。それを考慮すると、やはり廃墟の外へ出るわけにはいかなかった。

 

 この廃墟のエリアに来た時、タケルは心底からではないにしても、やはりほっとしたものだった。それまではどこまでも平原が広がっているエリアだった。そこで三人が喰われて消えた。ハジメ、シンタロウ、ヒロキ……

 

 次の廃墟に入った時に、タケルは瞬間的に全身が強張るのを覚えた。そこには捕食者がいた。ピンク色の管状の体に黒色の縮れた微毛がびっしりと生えていて、先端の開口部には掘削機械のような鋭い歯が環状に並んでいる。毛に絡みついている粘液からは濃い腐臭が漂っていた。だが、捕食者はごく小さかった。その上、捕食者は苦しんでいた。大きな瓦礫の上でのたうち回り、電動モーターが駆動するような音を立てている。タケルは、捕食者が脱皮しつつあるのに気が付いた。脱げかかった皮が半分だけ体にへばりついていた。

 

 タケルは躊躇することなく槍を捕食者の口の中に突き入れた。脱皮の最中ということは外皮が柔らかくなっているかもしれないことを意味していたが、それでも彼は一番確実な弱点である口の内部を狙った。人間とまったく同じ色をした赤い血が迸った。捕食者はしばらくのたうち回った後、動かなくなった。タケルはなおも様子を窺った。動かない。死んでいる。この世界に死というものがあるのならば。タケルは顔を近づけた。食べられるだろうか? 無理そうだった。捕食者の死骸からは焦げた鉄の臭いがしていた。タケルはすぐにその場を離れることにした。もしかしたら、奴の仲間たちが来るかもしれない。そうなったら勝ち目はない。

 

 これまでに多くの種類の捕食者と遭遇してきたが、時間が経つにつれて、また移動する距離が長くなるにつれて、捕食者はより大型になり、凶暴になり、そして狡猾になってきた。初めてこの世界に来た頃は、まだ捕食者は大して脅威ではなかった。そう、あの頃は……タケルは手足を動かし続けて廃墟を進んだ。それはカブトムシそっくりだった。力を込めて叩き落せばすぐに死ぬような弱い存在だったが、鋭い牙が生えていて、集団で群がり寄られると重傷を負う。それで、アキラも……

 

 そうだ。ひと際強い風が廃墟の中を通り抜けた時に、タケルはまた過去を思い出していた。俺をまだこの世界を彷徨わせ続けている元凶、そもそも「約束の場所」などと言い始めたアキラは、あの時、ああやって死んだのだ。カブトムシの捕食者に襲われて、群がり寄られて……俺たちはみんなで必死になってカブトムシを叩いて、叩いて、叩き落して……だが、カブトムシたちは自身の体が潰されているその最中にもアキラの肉を齧り取っていた。やっとの思いで敵を全滅させた時、アキラはもう瀕死で……白い骨が見えていた。ピンクの内臓膜(ないぞうまく)の下からは灰色の臓器が覗いていて……臓器は動いているように見えた。

 

 それでもアキラは言った。頼む、「約束の場所」へ行ってくれ。俺の手紙をあの子に届けてくれ……廃墟はまだまだ終わらなかった。「約束の場所」はきっと太陽の下にある。太陽の下にあの子はいる……そこまでアキラは言ったっけ? タケルはふと疑問に思った。あれだけの重傷を負っていたのだから、そこまで長い言葉を言うことはできなかったはずだ。

 

 もしかしたら、アキラはあの時すぐに死んでしまって、その後で俺たちの誰かがアキラの手紙を「約束の場所」まで持っていこうと言い出したのではなかったっけ? どうせこの世界で俺たちの目指す場所などないのだから、それだったらアキラとその子との「約束」を俺たちが代わりに果たしてやる方が良い……そんなことを言い出したのは誰だ?

 

 考えつつもタケルはさらに進んでいった。次の瓦礫を登りきった時、彼は廃墟の隅にキノコが陰気に生えているのを見つけた。彼は即座にキノコをむしり取ると、そのまま口に運んだ。毒キノコかもしれないが、どうせ死にはしない。死ぬほど苦しむだけだ。タケルはキノコを咀嚼(そしゃく)した。味は何もなかった。この世界で死を迎えるのは、捕食者に喰われた時、ただその時だけだ。飢え死をすることもないし、脱水症状で死ぬこともない。病気で死ぬこともないし、高いところから落ちて死ぬこともない。

 

 キノコを食べ終えると、タケルは今度は瓦礫を降りて、小さな隙間の中を身を(よじ)るようにして先へ進んでいった。気温は高く、暑さは耐えがたいまでになっていた。ここから空は見えないが、おそらく今が昼の真っ最中だろうとタケルは思った。捕食者たちはみんな、寝床にいる。脱皮に失敗して悶えているような、そういう例外を除けば……だが、とタケルは思った。だが、その例外に殺されたのは、ユキハルじゃなかったか?

 

 思い出した。隙間から抜け出して広い空間に出た時、タケルは急に眩暈(めまい)がして、先ほど食べたキノコをすべて吐き出してしまった。数秒も経たずして、吐瀉物には真っ黒になるほど小さな羽虫が(たか)った。タケルは口を手の甲で拭きつつ、振り返りもしないで先へ進んだ。思い出した。ユキハルだ。ユキハルがアキラの遺志を継ぐと言い始めたんだ。みんなで墓穴を掘って、俺がアキラの死体の頭を持って、ユキハルが足を持って……足にはほとんど肉が残っていなかった。墓穴に死体を収めた後、みんなで土を被せている時に、ユキハルが「約束の場所」へ行こうと言い始めたんだ。俺たちはみんな頷いて、そして太陽の下を目指して進み始めた……

 

 なんとなく、廃墟が終わるのではないかという予感をタケルは抱き始めていた。これと似た予感はこれまでに何度もあり、そして何度も彼を救ってきた。廃墟の次に何が来るのかは分からなかったが、タケルは予感を信じることにした。案外、目的地はそう遠くないのかもしれない。それで……また瓦礫の下を這いずりながら、タケルは過去を思い出していた。ユキハルは、昼間にやられたんだった。そこは沼沢地帯で、昼間、あまりにも暑かったから木陰で五人で休んでいる時に……ユキハルは沼から出てきた大きな巻貝に喰われた。捕食のための(くだ)が水中から伸びていて、それがユキハルの頭に喰らいついて……気づいた俺たちがユキハルの体を引っ張ったら、首が千切れてしまった……

 

 ユキハルが二人目の死だった。後に残されたのは、ハジメ、シンタロウ、ヒロキ、そしてこの俺の四人だった……次の瓦礫はあまりにも巨大で、下を這って進むべきか、それとも()じ登っていくべきか、タケルには少し見当がつかなかった。彼は思いきって小休止を取ることにした。気温の変化から見て、まだ夕刻には時間があった。今日はもう少し進むことができそうだ。

 

 もう少し進む……そう言って死んだのはハジメだったか? ハジメは良い奴だったが、ちょっと鈍いところがあった。いや、鈍かったからこそ優しくて良い奴だったのかもしれない。沼沢地を抜けて、平原に出て、捕食者たちが夜行性だということも知らずに俺たちは昼夜兼行で先を急ぐことにした。ハジメがそう言い始めたのだ。俺たちはこの世界に来てから飢えでも寒さでも寝不足でも疲労でも死ぬことはなくなった。だから急げるだけ急げば良いと……ハジメを喰ったのは巨大なカタツムリだった。カタツムリのくせに、それはものすごく素早かった。地中から突然現れて……

 

 タケルは学生カバンを開けた。中にはほとんど何も入っていなかった。罅割れて変色してしまったクリアファイルをタケルは取り出して、それに挟まれていた一通の封書を手にした。なんの飾り気もない封書の裏にはアキラの名前が書かれていて、表には「ミギワ様へ」と書かれていた。神経質なまでに細い線にはどことなく秘められた熱情が感じられた。タケルは封書をなおも眺めた。風がまた廃墟の中を吹き抜けた。アキラの遺品のカバンの中にあったこの手紙を俺が持つようにと言ったのは、ハジメだったか……? いや、ヒロキだったな。タケルはヒロキの顔を思い出そうとした。だが、思い出せるのは彼の最期の時の顔だけだった。

 

 平原は、ところどころに丸い円状の砂地があった。それはまるですり鉢だった。どうせろくなことにはならないだろうということで、俺と、残ったシンタロウとヒロキはそれを避けて歩いていた。だが、ムカデ型の捕食者に追われた時にヒロキはそこに落ちてしまった。そこにいたのは大きなアリジゴクで……砂に足を取られて、下へ下へと滑り落ちていくヒロキの顔は恐怖心でもなければ焦りでもなく、絶望感すら浮かべていなかった。ヒロキはただ無表情だった。俺は手を伸ばしたが、そんな表情のまま、一言も言わず、最後は穴の中心へとヒロキは落ちて……

 

 そこからはけっこう順調な旅路だった。残ったのは俺とシンタロウだけだった。特別に親しい仲でもなかったが、奴と一緒だとなぜか気分が和らいだ。しかし、それも俺が一方的にそう感じていただけかもしれない。先へ進むにつれて、シンタロウは次第に何も言わなくなっていった。タケルは封書をクリアファイルに挟んでカバンにしまうと、また歩き始めた。俺も何も言わなくなった。その頃から、この世界に怪しい風が吹くようになった。風には魔力があって、俺たちはそのせいで、歩きながら過去のことばかり考えるようになってしまった。

 

 その時、シンタロウは俺の後方五メートルほどのところを歩いていた。タケルはまた瓦礫を()じ登った。いつの間にか、暑さがかなり和らいでいた。もうすぐ夕刻だろう。あの時も夕刻に近かった。タケルはまたぼんやりと過去を思い出していた。何かが飛び去る音がして、はっとして俺が振り向いた時には、シンタロウの首はなくなっていた。巨大なバッタ型の捕食者が、その鋭い切れ味の(はね)で、シンタロウの首を()ねたのだった。捕食者は大勢の仲間を連れて帰って来て、首のなくなったシンタロウの体を貪り食い始めた。俺はその場を走って逃げた。あるいは、シンタロウがあそこで死体になってくれたからこそ、俺が生き延びることができたのかもしれない……

 

 今では、俺一人だ。タケルは、次に登る瓦礫で今日はもう最後にしようと決めた。これを登りきったら天井を抜ける。その天井の上で、遥か彼方へと遠ざかっていく古い太陽を眺めながら、今日の眠りを迎えることにしよう。最後の苦闘は長くはなかった。彼は無事に天井に辿り着き、円形の開口部から廃墟の外へ出た。

 

 タケルは息を呑んだ。

 

 昇りながら沈んでいく赤紫色の太陽は、ほぼ真上にあった。滴り落ちる血液のように、残光が垂直にタケルを照らした。緑色の空は毒々しい水色に変わっていて、浮かぶ星々は赤く、暗く、無数に明滅していた。タケルは我に返ると、周囲を見回した。彼が立っているその廃墟こそが、このエリアにおける最後の建物だった。

 

 建物の先には砂地が五十メートルほど続いていて、その向こうに小さな緑の庭園が見えた。庭園の中心部にはこじんまりとした白い小屋があった。おそらくその場所こそが太陽の下であり、「約束の場所」であった。

 

 あそこに行けば、約束が果たされるのか? アキラの恋人の、「ミギワ」に手紙を渡すことができるのか? タケルは無表情のまま、闇に沈みつつある遠くの庭園を眺めた。

 

 行きたくない。ふと湧いた自分の感情を認識して、タケルはしばし呆然とした。

 

 そこを目指して来たはずなのにどうして目前にすると気後れするのか、タケルには我がことながら不思議だった。なぜだ? どうして行きたくないなどと思ってしまうのだろう? まったく気が進まない。もしかすると、今までも自分は心の底からそこに行ってみたいなどと思ったことはなかったのではないか……? ただ、誤魔化し続けていただけで。

 

 行きたくない。だが……行かねばならないのではないか? 風が吹くように、星が落ち、太陽が沈むように。

 

 タケルは意志を奮い立たせた。行ってみよう。これまでの自分が本当のところ何を考え、何を感じていたにせよ、もう自分には選択する余地などない。どうせ、行くしかないのだから。

 

 

☆☆☆

 

 

 庭園の中には赤い煉瓦組みの小さな水路が通っていて、清らかな水が流れていた。いくつもの丁寧に刈り込まれた植え込みの側を通ると、彼は白い小屋へと向かった。小屋の前には花壇があり、赤や黄色や白のバラが咲き乱れていた。芳醇な香りは、しかししつこくなく、花というものが本来持っている美質をさりげなく伝えていた。

 

 白い小屋の木製のドアを開けると、タケルは無言のまま中に入った。中は暗かった。目が慣れてくるに従って、彼は誰か一人の人間が部屋の中央にいるのに気がついた。彼は手に持っていた槍とカバンを床に置くと、その人間に近寄った。

 

 それは黒い髪をした若い女性だった。女は美しく、凛々しかった。だが完全なまでに無表情で、ただ目つきだけが鋭かった。女は学校の制服を着用していた。赤いスカーフが妙にタケルの目についた。年齢はタケルと同じくらいだった。

 

 なんと声をかけたものか? これまでの自分が「この時」のためにどのような言葉を発するか考えてこなかったことに、タケルは自嘲めいた気持ちを抱いた。それでも、彼の口はほぼ半ば自動的に開いていて、女生徒に向かって言葉を発していた。

 

「ここが、約束の場所だな?」

 

 女生徒は無言でゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。タケルもまた頷き返した。ほんの数秒の沈黙を挟んだ後、タケルはカバンから封書の手紙を取り出した。彼はそれを相手へと差し伸べながら言った。

 

「これが、アキラからの手紙だ。あんたへの手紙だ。ミギワ。それがあんたの名前だろう」

 

 反応は薄かった。女生徒は無言で封書を受け取ると、しばらく表と裏を眺めた。それをポケットにしまってから、女生徒はまたタケルの顔を見つめ始めた。おそらく、これまでの経緯を話してくれということだろう。そう思ったタケルは、また話し始めた。

 

「俺たちは仲の良い友人だった。ある日、アキラは『好きな人ができた』と言った。それは違う学校の女生徒で、たまたまバスで一緒になった時に他愛のない会話をしたという。それからは何回も会うようになって……好きになった。俺たちはアキラに、『お前はその子に告白の手紙を書くべきだ』と言った。だが手紙を渡す前に、俺たちはこの世界、この地獄(インフェルノ)に来てしまって、そしてアキラは真っ先に死んでしまった。だから俺はここへ、この『約束の場所』へ手紙を持ってきた。ミギワ、あんたはこれを受け取って読まねばならない。俺以外の仲間はもう、みんな死んだ。みんな命を散らしながら、ただこの『約束の場所』へ手紙を届けるために、太陽に焼かれながら歩き続けた……」

 

 すると、女生徒はおもむろに床にしゃがんだ。黒いスカートが空気を孕んで膨らみ、一瞬で萎んだ。女生徒は傍らに置いていたカバンを開くと、シールで綺麗に装飾された分厚いクリアファイルを手に取り、その中から一冊のノートを取り出した。女生徒はタケルにそれを差し伸べながら、言った。

 

「そう、ここが『約束の場所』で間違いない。こうして、ミギワのことを知っているあんたに会えたからな」

 

 威圧感があり、力のこもった凛々しい声の中には、ほんのりとした慈愛と優しさが含まれているようにタケルには感じられた。タケルは差し出されたノートも受け取らず、相手の顔をただ見ていた。女生徒はさらに言った。

 

「これが、ミギワのノートだ。アキラへの愛が書かれている。ミギワは、私の友人の名だ」

 

 タケルはノートを受け取った。ピンク色の、いかにも女の子の好みそうなノートは、ところどころが破けて汚れていた。彼はノートを開こうか一瞬迷ったが、やめた。女生徒はタケルを見ながら、また言った。

 

「私たちはみんな、仲の良い友達だった。ある日ミギワが私たちに、好きな人ができたと言った。通学のバスの中で知り合って、それから毎日おしゃべりをするようになったという。ミギワが口を開くと、必ずアキラの名と話が出た。私たちは、『自分がどれだけその人のことを愛しているか、日記という形で書いておくべきだ』とミギワに伝えた。この世界に来た時、この地獄(インフェルノ)に来てしまった時、ミギワは『太陽の下にいけばアキラに会える』と言った。そこが『約束の場所』だと彼女は言った。ミギワはすぐに死んでしまったが、私たちは力を合わせてここまでやってきた……だけど最終的に五人が死んで、私だけが残った」

 

 しばらく、二人は無言のまま見つめ合った。小屋の中では物音一つしなかった。風の音さえ聞こえなかった。女生徒の視線と、タケルの視線が絡みついた。タケルは、そうやって見れば見るほどに女生徒のすべてが分かるような気がした。きっと、向こうもそう思っているに違いないと彼は思った。

 

 やがて、二人はそれぞれノートと手紙を持って、小屋の外に出た。花壇のバラの香りがタケルの嗅覚をくすぐった。小屋から少し離れたところには、何もない空き地があった。二人は隣り合って跪くと、一緒に手を動かして二つの小さな穴を掘った。そして、ノートと手紙を隣同士にして埋めてやった。二人は手折ったバラを一輪ずつ供えた。手紙の上には白いバラを、ノートの上には赤いバラを載せておいた。

 

 赤紫の太陽は頭上にあって、ますます上へ上へと昇って消えていった。夜が迫っていた。冷涼な風が吹き始めていたが、その風には生気があった。この世界に来て初めて、タケルは風を浴びて身震いをした。それが心地良かった。横を見ると、女生徒も風を受けて体を震わせていた。タケルが見ていることに気づくと、女生徒は顔を背けた。

 

 夜になった。残光は水に溶けた鮮血のように赤かった。赤い光を真上から浴びながら、二人は地面に座り込んでいた。

 

 タケルが独り言のように言った。

 

「これから、どうする?」

 

 女生徒は気怠そうに答えた。

 

「分からない。だが……」

 

 タケルは言った。

 

「だが?」

 

 彼女は続けて言った。

 

「ここは良い場所だと、私は思う。あと、あんたは良い人だとも、私は思う」

 

 女生徒はタケルを見つめていた。その目は温かく光っていて、口元には笑みが浮かんでいた。初めて見る笑顔だった。タケルも、自分の表情がほころぶのを感じた。彼はゆっくりと頷き返すと、忍び寄りつつある闇を払うように言った。

 

「俺も、ここは良い場所だと思う。それにあんたは良い人だと、俺も思う」

 

 二人は立ちあがった。影はほとんどなかった。真上の夜の太陽の残光を浴びながら、二人は並んで白い小屋に向かって歩いていった。

 

 小屋に入る前に、タケルは女生徒に尋ねた。

 

「あんたの名前は、なんていうんだ?」

 

 女生徒はドアを開けながら、なんということはないというふうに答えた。

 

「ヒカリ」

 

 ヒカリか。タケルは頷いた。何度か彼は頭の中で繰り返した。ヒカリ、ヒカリ……やはり良い名前だ。この世界の太陽の赤い光線とは違う、甘くて、透明で、黄金にきらめている光……ヒカリ。小屋の中に入りながら、タケルはすでに室内に入っていたヒカリに向かって言った。

 

「俺の名前はタケルというんだ」

 

 ヒカリは「タケル」と口に出した。そして、何回か小声で名前を繰り返した。そして、最後にヒカリは独り言を呟くように言った。

 

「タケル、いい名前ね」

 

 タケルも返事をした。

 

「ヒカリ、あんたの名前もな」

 

 二人は見つめ合った。それから、静かにドアが閉められた。それきり庭園の中で物音は絶えた。夜の太陽はますます上へ上へと昇っていき、そして姿を消した。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「インフェルノ 太陽の下へ」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第235回「約束の場所」に応募した作品です。2024年12月30日公開。エブリスタ版と比べて3,000字ほど加筆されています。

 祝! 50話目に到達! 作者としてはまことにめでたい気分です。こうしてこれまで小説を書き続けることができたのはひとえに読者の皆様の温かい応援のおかげです。心より感謝いたします。これからも倦まず弛まず、私にしか書けない私だけの短編小説をお送りしていく所存です。またお付き合いくだされば作者としてはこれに優る喜びはありません。

 50話目は書き下ろしにしようと言っていましたが、色々と雑事が重なって(ていうか花粉症がきつすぎ&風邪を併発)無理でした……しかしいずれ書いて公開するつもりですので気を長くしてお待ちください。

 次回もお楽しみに! 
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