冬も真っ最中だというのに、川から漂う臭気は私の嗅覚を酷く痛めつけた。黒々とした入口から
私の右側を川は無言で流れ続けていた。私はすでにこの臭いに慣れていたが、いちおう布切れでマスクをした。臭いのせいで病気になるとはまったく科学的な考えではなかったが、やはり臭いと病気とは私の中で何らかのつながりを有していた。ここに来るのはもう十回目だったが、布切れでマスクをするのもまた十回目だった。
入口から遠ざかるにつれて、内部は薄暗さを増していった。光線量が減るにつれて圧迫感も薄れていった。ただし、臭気だけは消えなかった。それもあと五分ほどすれば気にならなくなるのを私は知っていたが、もし臭気が消えなかったらという疑念が影のように付きまとっていて、なんとなく私は落ち着かなかった。私は照明もつけずに暗渠の中をさらに歩いていった。そもそも灯りになるようなものなど私は持っていなかった。
気がかりなものを感じつつもそれを振り払えないままに私はさらに奥へ行った。川が流れている大きな通路に無数の小さな通路が左右から接続しており、その各通路は都市の各区画の下水道へと通じていた。汚水から発する陰気な熱が、あたかもガラス張りの温室のような蒸し暑さを暗渠内に醸し出していた。どこで浄水システムへと接続するのか分かったものではなかった。あるいは、この国のこの都市においては浄水システムとは一種の形而上学的な存在であるのかもしれなかった。議論はできるが、手に取ることはできない。
通り過ぎた
フランクはそこにいて、そこがフランクの家だった。
彼は暗がりの中に横たわっていた。遥か高いところの格子状の排水口から注いでいる太陽光が、彼の痩せこけて汚れきった顔を照らしていた。髭には白いものが混ざっていて、それが何か神聖なものであるかのように日光によって輝いている。寝具の代わりに新聞紙を体に巻きつけていて、傍らには空になった酒瓶が二、三本転がっていた。近くにはさらに何やら形容しがたいガラクタもいくつか置いてあった。等間隔にきちんと並べられているところをみると、どうやらこれらも彼の立派な財産であるようだった。
なるべく足音を立てないようにして私は彼に近寄った。死んでいるのかもしれないと私は思った。それほどまでに彼は身動き一つしなかった。しかしフランクは呼吸をしていた。微かに腹部が動いているのが確認できた。そう、死んではいない。彼はただ、じっと眠っていた。時々、薄い瞼が痙攣したように動いた。私は、彼を起こすか起こすまいか迷った。そして、私は待つことにした。何人たりとも他人の眠りを妨げてはならない。
フランクは長身だったが、ひどく痩せていた。おそらく昔はもっと太っていて、筋肉もついていたのだろうと思われた。その身に纏っているものを見ても、彼が昔はもっと裕福で余裕のある生活をしていたことが窺われた。彼は垢と汗によって真っ黒になってしまったシャツの上に、擦り切れて退色しきった紺色のスーツを着ていて、その上に裾がほつれて糸の塊のようになっている長外套を着用していた。
履いている革靴は両方とも靴先が綿花の実のように割れていて、足が外に見えていた。足は何も履いていなかった。分厚い汚れの上からでも分かるほどにその素足の肌は蒼ざめていた。爪は伸びていて真っ黒に変色している。今度、靴下を買ってやろうと私は思った。安物の靴下を三足ほど。それだけでもけっこうフランクにとっては大きな贈り物になるだろう。
五分か、十分が経っただろうか。やがて、フランクは目を覚ました。彼は上体を起こすと、しばらく
「やあ、旦那。気分はどうかい?」
枯れきった声にはどことなく張りと潤いがあった。私が悪くないと答えると、フランクは何度かゆっくりと頷いた。君の方はどうなんだと私が尋ねると、フランクは笑みを浮かべた。しかし彼は何も言わなかった。
ここでも奇妙な観念連合の登場だった。フランクは家も持たなければ金も仕事もない人間である。そういう人間に対しては通常、不潔、陰惨、怠惰、脱落、落伍といった暗いイメージがついて回る。しかし、実際にフランクと話したり挨拶を交わしたり、一緒に街を歩いたりすると、そのような観念連合はすべて真実から遠いところにあることが分かる。あるいは、私がフランクのところにもう十回も来ているのも、自分の中にある無数の虚偽的な観念連合を破却したいと、心のどこかで思っているからかもしれなかった。
つまるところ、私はフランクが好きだった。友情を覚えていた。また、フランクが私に対しても同様に友情を抱いていることを知っているだけに、なおさら友情の念は深くなった。
私は煙草の箱を胸ポケットから出すと、一本を彼に向かって差し出した。彼はさらに笑みを濃くして煙草を受け取り、口に咥え、私に向かって何かを期待するように眉を動かした。私はホテルのギャルソンのように、恭しい手つきでライターを持ち、彼の煙草に火を点けてやった。彼は満足そうに何回か煙を吸い、そして薄い煙を吐き出した。だいぶ残りが短くなってから、彼はおもむろに口を開いた。
「旦那、今日は行かなくちゃならないところがあるんだ。ついてきてくれるかい?」
意外な申し出だった。彼がこの暗渠から自発的に外に出ることなどほとんどなく、たまに外に出ることがあったとしても、それは本当に金も酒も食べ物も尽き果てて、
ついていくことは結構だが、いったいそれはどういう理由なんだい? と私が問うと、フランクはどこか夢見るような顔をして語り始めた。
「いやね、旦那。昨日は旦那からもらった金で久々にちょっと高いボルドー産の葡萄酒の四分の三リットル瓶を買ってね、それでこの『家』に戻ってご機嫌に飲んでたんだ。つまみはなかったけれども、酒はけっこう美味かった。それで楽しく飲んでたんだが、朝から何も飲んでなかったものでね、早々に酔いが回っちまった。いつの間にか豚みたいに眠っちまったんだが、そしたら夢を見たんだよ」
どんな夢だったんだい? と私が訊くと、フランクは私の顔を見つめながらどことなく恥ずかしそうな口調で答えた。
「天使様が出てきたんだよ。夢の中にな。えらい
そもそも私がフランクに興味を持ったのは、ただの浮浪者にしては異様なまでに知的で語彙力の豊富な会話をすることができるからだった。今の彼もそうだった。彼はよどみなく、夢の内容という不確かで捉え難いものをはっきりと言語化して私に話してくれた。私は彼になんと言ったのか? と尋ねた。彼はすぐに答えた。
「美しい天使様は微笑んで、『フランクよ。私はあなたを待っています。サン=ドニのガール地区東にある、私の聖堂を訪れなさい。そこが私とあなたとの約束の場所です。明日の十八時にそこへ来るのです』と、まあ、そういうことを言ったのさ。優しい口調だったが、怖くもあった。天の国に住む者の威厳ってやつなのかな。それを聞いて、これはいよいよ間違いない、この人は天使様だと俺は思ったから、跪いて、『はい、天使様、必ずそのとおりにいたします』と俺は言ったのさ」
私は興味深く話を聞いていた。私はこのフランクという男が、私がこれまでも思っていた以上に、信心深く、純粋で、なにより美しいものに対する憧れの気持ちを持っていることに、心のどこかで心地良いものを感じていた。
それで、天使様は他に何か言ったのかね? と私はさらにフランクに訊いた。フランクは頷いて、煙草をさらに要求した。私がもう一本渡すと彼はすぐに火を点けた。それを美味そうに吸いながら彼はまた言った。
「天使様は言ったのさ。『フランク、そこに来るまでにあなたはきちんとした食事をし、人助けをし、日の当たる場所で日の温かさを知り、靴を履き替え、最後には持っているものをすべて誰かに施さなければなりません。そうしてそこに来れば、私はあなたに祝福を授けましょう。あなたがこれから豊かに生きていくための祝福をあなたに授けます』ってな。天使様はそう言うと天へと昇っていかれた。そんで、ここからサン=ドニまではどれくらい距離があったっけと夢の中で考えていたら、いつの間にか旦那がそこに立っていたってわけで……」
私は時計を見た。時刻はすでに午前十時になりかけていた。私はフランクにさっそく出発しようと言った。私も是非、彼と天使との「約束の場所」を見てみたかった。フランクは私の申し出に頷いた。だが、フランクは立ち上がれなかった。二日酔いが彼を苦しめているようだった。私の手を借りて彼はようやく立ち上がった。フランクからはあまり良い匂いはしなかったが、私はそれを快いものとして受け取っていた。観念連合はここでは正しく機能しているようだった。
暗渠の中を一緒に歩いていると、「もうここに来るのは何回目になるっけ、旦那」とフランクが話しかけてきた。十回目だと答えると、彼は「そんならもう充分書くことはできただろう」と言った。私はちょっとからかうような口調で、今日になってこんなに面白いことが起こったんだから、今後はまた百回でも来ても良いなと答えた。フランクは薄く笑った。その笑い方は彼なりの照れ隠しだった。
暗渠を抜けると、午前の終わりかけの強い日差しが私たちの目を焼いた。外界に出てきたフランクは、やはりみすぼらしかった。髪の毛は伸び放題で、川の臭気ほどではないにしても、独特の体臭は外気においてはさらに強烈なものとして私の感覚器官に届いた。
フランクは眩しそうにあたりを見回した後、「まずは腹ごしらえをしなくちゃ」と言った。金はあるのか? と私は訊いた。だが彼はにやにやと笑うだけだった。それはつまり、俺の金をあてにしているということか? と私が言うと、彼は急に真面目な顔をして言った。
「いや、確かに俺は今まで旦那の金に何度も救われてきた。病気になって死にそうになった時は医者に連れていって薬をもらってくれたし、栄養のつく食べ物も買ってくれた。ある日には風呂にも連れていってくれたよな。酒も煙草もくれたし。それは全部、旦那のお金のおかげだったよ、間違いない。本当に感謝している。今までの旦那は、
どういうことだ? と私が問い返すと、フランクはさらに言った。
「俺の夢に現れたあの天使様の姿を、旦那にも見せることができたらなぁ! 悪魔ってやつは大抵は天使の格好をして人間を誘惑するらしいが、あれは間違いなく本物だったぜ。本物の天使ってことは、本物の神様からの使いなんだろう。その神からの使いが『これこれこのようにせよ』と言っているということは、逆に考えれば、それを実行するためのすべての手段は神から与えられるんじゃないか、と俺は思うんだよ。というわけで……」
そこまで言ってから、フランクは私の顔をまじまじと見つめた。小さくなった目は充血して真っ赤だったが、その灰色の瞳だけは真摯な色を
「というわけで、今日の俺にとっては、俺の周りに現れる人間は全員、神からの使いなんだ。『約束の場所』へ行くという、神から与えられた俺の、俺だけの神聖な目的を果たすためのな。だから旦那、あんたも俺の目的を果たすために神から遣わされてきた以上、俺に金銭的な援助をしなければならないぜ。あんたは、今日に限っては俺の天使様なんだからな」
あまり納得できなかったが、私はあえて納得することにした。フランクがここまで確信を持って物事を口にするのを私は見たことがなかった。取材を始めた当時のフランクは無口で内向的で、自分の心の殻の中にじっと閉じこもっていた。私が何回か彼のもとを訪れて会話を繰り返すうちに、彼もだんだんと自分から話をするようになってきたが、今日に至ってここまで彼が自己の考えを堂々と述べるようになったことが、私には嬉しかった。
私はフランクに、今は三百フラン持っていると言った。しかし、これを使うと私はもうこの国に滞在を続けることができなくなるとも、私は言った。だから今日は百フランを君に渡そう。そのように私は彼に伝えた。フランクは「そりゃ豪勢なことだ!」と言ってはしゃいだ。彼はしばらく紙幣と金貨を手で弄んでから、そっと外套のポケットにしまった。「こんな大金は、天使様じゃなきゃ与えられねぇよ。ありがとな、天使様」 そう言ってフランクは私に笑いかけた。私も笑みを返してやった。そうこうしているうちに、私たちは川から岸の上に上がり、繁華街を目指して歩き始めていた。
時刻は十時半だった。繁華街のカフェにはまだちらほらと空席があった。ひと際高級なカフェに目を付けると、フランクは近くにあった外の座席に腰をかけた。彼は私を呼んで、向かい側に座るように促した。ギャルソンが来て、私たちの注文を聞いた。フランクは「ちょっと早い昼食だ」と言って、かなりの量の肉料理を注文した。私は空腹ではなかったので白ワインを一杯だけ飲むことにした。
料理が来るまでの間、私たちは話をした。他愛のない話だった。明らかにフランクは浮浪者で、カフェの瀟洒な座席や真っ白なテーブルクロスにはあまりにも不釣り合いな見た目だった。そう、ここでも観念連合だ。世間的な通念では、綺麗なものに汚いものがあってはならないということになっている。
少し離れた場所にいた外国人と思しき男女の二人の客が、ギャルソンを呼んで、いかにも聞こえよがしにフランクを追い出せと言っているのが聞こえた。英語だった。その初老の裕福そうな男女の客は、どうやら新大陸の方から来た観光客であるようだった。フランクはその言葉を聞いて、少し身を縮めた。英語など分からなくとも、自分に向けられた敵意くらいならば分かる。
しかし、ギャルソンは冷静な口調で、二人の男女に対してきっぱりと言った。
「当店においては、すべてのお客様が料理を楽しみ、憩いを得ることができます。仮にあの方があなた方のおっしゃるとおり浮浪者だったとしても、だからこそあの方はこの店において食事をし、憩いを得ることができるのです。ご理解いただけましたか」
男女の客は憤然として席を立っていった。ギャルソンはそれを気にした様子もなく、私たち二人に料理と白ワインを運んでくると
フランクは料理を食べ始めた。案外、その食べ方は礼儀に適ったものだった。食事の前に彼は帽子を脱ぎ、そして胸の前で十字を切った。ゆっくりと時間をかけて料理を食べ終えると、彼は満足そうに腹を擦り、また祈りをしてから支払いをし、席を立った。
フランクと私はまた歩き始めた。時刻は十二時を回っていた。
「あのギャルソンも天使だったってわけだな」とフランクは言った。ああ、間違いなく天使だったよ、と私が言うと、フランクはちょっと悪戯っぽい顔をして、「今朝、俺が言ったことがだんだんわかってきただろう?」と言った。私は黙って頷いた。
ここからサン=ドニのガール地区東まではかなり距離があった。私たちは地下鉄に乗車することにした。改札を通過したらちょうど電車が来たところだった。車内は混みあっていた。私とフランクはそれぞれ離れたところに立った。鳴り響く轟音の中で、私は手すりに掴まって立ちながら、次に書くべき記事について考えていた。
すると、車内で騒ぎが起こった。はっとしてその場を見ると、フランクと三人の男とが
フランクは口を切って血を流していた。私が声をかける前に、フランクは一人の若い女性に対して「大丈夫か」と話しかけていた。女性はフランクに何度も礼を言ったが、その時電車は駅に到着してしまった。フランクは女性を置いて、逃げるように電車から降りた。私もフランクの後を追った。地上に上がるまでの間、何度も殴打を食らって腫れあがった顔をしてフランクは、一部始終を私に教えてくれた。
「若い女があの三人に絡まれていたからね。助けてやった。これで天使様から与えられたもう一つの指示、『人助けをしろ』もこなすことができたわけだ」
私はフランクに、あの若い女性も俺と同じく、君にとっての天使だったのかなと言った。するとフランクは呆れたような顔をして私に言った。
「わかっちゃいないね、旦那。あの女だけじゃない。あのチンピラ三人も、俺にとっては天使だったのさ。カフェのあの外国人の旅行者夫婦もそうさ。なんせ、あいつらはみんな俺の役目のために神から遣わされたんだからな……ということは、へへ、俺は天使をぶん殴っちまったことになるな。旦那、あんたもな、へへ……」
駅から出ると、そこには広い公園があった。私は彼に少し休もうと提案した。日の当たっているベンチを見つけると、私は彼を横たえてやって、濡れたハンカチで彼の打撲傷を冷やしてやった。穏やかな天気だった。日差しは子猫の毛のようだった。手当てをされながら、彼は温かい湯を浴びているような口調で言った。
「『日の当たる場所で日の温かさを知り』か。これも果たした。そんなら、最後は靴と施しだよな」
十五時になるまで私たちはそこにいた。フランクが眠ってしまったからだった。私はその間に靴屋がないか探した。ちょうど古着屋が公園の近くにあった。目覚めたフランクはそこで靴を買うと、「あまり時間がない」と言って、ガール地区東へ向けて歩き始めた。休んだ甲斐もあって彼の足取りは軽やかだった。
歩きながら唐突に、フランクが言った。
「しかし、ガール地区東に天使を祀った聖堂などあるのかな? そんなこと、今までに聞いたことがない」
どことなく弱気な口調だった。探せば良いじゃないかと私は言った。まだ時間ならば二時間ほどある。それに、神様は約束を果たすための手段を君に提供してくれるのだろう? そのように私が言っても、彼は浮かない顔をしていた。
私たちは探し続けた。教会に行き、路地を巡り、地元の住民に声をかけて、「天使が祀られた聖堂がないか」訊いて回った。住民たちはみな、首を左右に振るばかりだった。
残り一時間を切った。フランクは少し休もうと言って、狭い広場の階段に腰を掛けた。広場の向こうの方には、一人の浮浪者が新聞紙に包まって横になっていた。フランクは「あいつは、ああなってから日が浅いな」と言った。なぜと私が問うと、「広場で寝ると、夜は警察官がやってきて追い払うんだ。公の場で寝ることは法律違反だって言ってな。ベンチで寝るのも、公衆便所で寝るのもダメだ。法律違反だからな。だから俺たちは人の目の届かねえ暗渠にいくのさ。そこには警察官だってやって来ねえ」
私が煙草を差し出すと、フランクは受け取り、黙ったまま吸い始めた。やがてフランクは言った。
「今日はすべて天使様の言ったとおりに事が運んでいる。多分、俺は約束の場所に行けるだろう。でも、だんだん俺は怖くなってきた」
何が怖い? と私は彼に言った。そこに行けば祝福が授けられるのだろう? そのように言っても、フランクの表情は沈んでいた。やがて彼は、独り言を言うように言った。
「地下鉄で
私はフランクが続きを言うのを辛抱強く待った。彼は燃え尽きた煙草を投げ捨てると言った。
「本当は、俺は祝福なんか望んじゃいないのかもしれない。祝福を授かるということは、幸せになるってことだ。でも、幸せになるっていうことは、その後はずっと幸せであり続けないといけないってことだ。俺は幸せにはなりたいが、幸せであり続けるのは無理だと思う。俺だって、これまでの人生で何回か幸せになったことはある。でも、みんな自分でダメにしちまった。だから俺はその場に行くのが怖いんだ。また、おんなじことの繰り返しになるんじゃないかと思っちまうと……」
日が傾いてきた。十八時までもう三十分もなかった。私はフランクに諦めるのか? と訊ねた。意外にも、はっきりと彼は首を左右に振った。
「いや、天使様の言うことは絶対なんだ!」
私たちは広場を出ようとした。出口へと進んだ時、あの新聞紙に包まって横たわっていた浮浪者が、私たちに声をかけてきた。
「おい、そこのお二人さん。すまないが、少し金か食べ物を恵んでくれないか? 俺、もう何日も食べてなくて……」
浮浪者はまだ若かった。二十歳になったかならないかという年齢だった。着ているものは上等で、まだあまり汚れていない。どうしてこんなところにいるのかと私が訊くと、若い浮浪者は「一か月前に失職した」と答えた。「期間工だったんだが、生産調整とかなんやらで解雇されたんだ」 そう言ってから若者は再度、私たちに向かって「金をくれ」と頼んだ。弱々しい声だった。叶えられるわけもない願いを何度も口に出して、そして何度も期待を裏切られてきた者に特有の弱々しさだった。
フランクは跪くと、若者の手を握って言った。
「少ないが、使ってくれよ。なにせ、お前は俺の天使様なんだからな」
そう言って彼は、残った金をすべて若者に渡してしまった。残りは五十フランほどもあった。若者は驚いて、そして何度もお礼を言った。フランクは若者に尋ねた。
「ところで、俺はガール地区東にあるという天使の聖堂に行かないといけないんだ。お前、それについて何か知らないか?」
若者は顔を紅潮させたまま答えた。
「このまま広場を出て大通りを南に進み、郵便局を見つけたら、その角を右に曲がってください。すると大扉に雄鶏の紋章が刻まれたアパルトマンが見えるはずです。その中庭に天使様を祀った聖堂がありますよ」
私たちは礼を言ってその場を去った。この時になると二人ともほとんど走っているかのような急ぎ足だった。街路は暗くなっていて、建物の窓から漏れてくる仄かな黄色い光が、私たちの焦る気持ちをさらに増幅した。
アパルトマンはほどなくして見つかった。私たちはすぐに中庭に入った。周囲には要塞のように建物の壁面がそそり立っていて、窓という窓からは薄く光が漏れていた。こじんまりとした中庭は、冬であるために草木も枯れ果てていて寒々しかった。
その中で、その天使の小さな聖堂だけは、聖浄な雰囲気を纏ってそこにあった。小さな灯明が供えられていて、仄かな光が少し崩れかけた天使の石像の顔を優しく照らしていた。
時刻はちょうど十八時になった。フランクは天使の石像の前に跪くと、祈りを捧げた。しかし、それ以外のことは何も起こらなかった。突如として空に雷鳴が起こるわけでも、大地が揺れるわけでもなく、天使が降臨するわけでもなかった。だが、そこには祈りがあった。祈りというものは、やはり一つの奇跡だった。
私は祈っているフランクの顔を見つめた。彼は目を閉じ、汗を流して祈っていた。灯と、影が重なった。私は彼の顔に、カフェのギャルソンと男女の客、地下鉄の女とチンピラ三人、そして広場の若い浮浪者の顔を見た。最後に、自分の顔がフランクの顔に重なったように見えた。
フランクは長い祈りを終えた。顔は汗で濡れていたが、それでも彼は晴れ晴れとした表情で言った。
「なるほど、祝福ってのはありがたいもんだね。俺は今、すごく幸せな気持ちさ。それに、これからもけっこう幸せにやっていけるって気がしているよ。たぶんね」
私はフランクに、今日の君と、君の天使たちについて記事を書いても良いかと訊いた。彼は「もちろんさ。ぜひ書いてくれよ」と答えた。私は彼に感謝の言葉を伝えた。
その後、私はほどなくしてその都市を離れ、フランクに会ったのもそれっきりになってしまった。それから十五年後、私はまたこの都市を訪れる機会があった。私は用い得る手段をすべて講じてフランクを探したが、どうしても彼を見つけることはできなかった。
彼は幸せだっただろうか? きっとそうだったのだろう。フランクという名と、はにかんだような笑顔、そしてあの枯れつつも潤いのある声は、今でも私の中で幸せという観念と強く結びついている。
・らいん・とほたー「フランクの約束の場所」
小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第235回「約束の場所」に応募した作品です。2024年12月29日公開。エブリスタ版と比べて2,600字ほど加筆されています。
改稿に着手する前はなんとなく「この作品はあまり面白くないからなぁ。改稿が大変そうだなぁ」と思っていたのですが、読み返してみると細かな表現の部分で甘さが目立ったものの、話の大筋としてはまったく悪くなく、むしろけっこう面白い作品であることに気づきました。こういうことがあるから改稿はやめられませんね……舞台はパリです。イメージとしてはジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』を元にしています。
次回もお楽しみに! 次回はたぶん「ドラゴサイド 嘆願者」になります。