ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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52. ドラゴサイド 嘆願者

 夜行(やぎょう)の官人が遠くで時を奏でた。ちょうど()の刻だった。

 

 すでに皇帝は眠りに落ちていた。眠りに重さはなかった。脆くおぼろげな夢は次第にはっきりとした輪郭を纏って、絹のように皇帝を包み始めた。

 

 皇帝は夢を心地良く感じた。このような夢は久しぶりだった。まだ何も見えず、何も聞こえず、何も味わうことができなかったが、ただ皇帝は快い気分に浸っていた。

 

 やがて、夢がさらにはっきりとした。皇帝は離宮の庭園の中にいた。血のように赤い花が咲き乱れていて、丸い水盤に張られた透明な水にその花弁の色をやや不吉に映じていた。

 

 皇帝は水盤に自らの顔を映してみた。いつもどおりの自分自身の顔だった。伸びた髭は美しく切り揃えられていて、眉は細く、その下の目には悲しみが湛えられている。壮年期の精悍な顔にはいくつかの刀傷の跡があった。そのうちのいくつかは彼が皇帝になる前、北方の戦陣生活において負ったものであり、その他は彼が皇帝として親征した二、三の戦役において得たものであった。彼はこれらの傷を好んでいた。それは嘘からではなく、皇帝自身が経験した紛れもない真実から生まれた傷であったから、なおさら彼はこれらを好んだ。

 

 思ったよりも自分の顔が柔和であることに皇帝は驚いた。今日は三人もの人間を処刑したというのに。もっと自分の顔は殺伐としていて、殺気が余韻のように表情の上に残っていても良いものだが。なにせ、三人とも重臣だったのだ。いずれも自分がこの位に登極(とうぎょく)する前から仕えていた臣下だった。三人とも命乞いはしなかったが……死ぬ時は、泣き喚いて命乞いをする人間と同じように死んだ。刎ねられた首は、どれも穏やかな顔をしていた。今の自分のように……皇帝は、ここが夢の中であることを確信した。ここが現実ならば、私がこのような顔をしているわけがあるまい。彼は頷くと、庭園の中を歩き始めた。

 

 歩いているうちに、皇帝は微かな違和感を覚え始めた。寸時も経ずして、違和感はより強固なものとなった。この庭園は、自分が知っているようで知らない庭園であるようだ。赤い花に見覚えはなく、もちろん名前も知らなかった。泰西(たいせい)風の石造りの橋も、直線的に浅く掘られた水路も、水路を流れている水の中を泳ぐ黄金色の魚も、皇帝は知らなかった。それらのいちいちを知りたくて、彼は侍従を呼ぼうとした。だが、すぐにここが夢であることを思い出すと、彼はそれをやめた。侍従を呼んでも来ないかもしれない。夢の中とはいえ、皇帝の不可能性を自ら示すような真似はしたくない。それに、どうせならば、もっと一人でこの未知な世界を楽しんでみたい。

 

 水路に囲まれた花畑を抜けると、そこは林だった。林に生えている木々も皇帝は知らなかった。どれも見事な枝ぶりで、よく手入れがされていた。海南(かいなん)越南(えつなん)よりもたらされたと思われる、変わった形と色合いをした木もあった。女性的で肉感的な木だった。皇帝は目を細めてそれを眺めた。越南は未だに皇帝の支配下に収まっていなかったが、海南は先年に手に入れたばかりだった。海南の国と王と民は皇帝の率いる軍に対して頑強に抵抗をしたが……結局は粉砕された。海南の王は皇帝の目の前で処刑された……首を刎ねられて。

 

 そういえば、あの王の首も至極穏やかな顔をしていた。皇帝はさらに先へ進みながら思った。死力を尽くし、神々に祈り、父祖の加護を信じて戦い、そして最終的に敗北してすべてを失った男の顔は、どこまでも朗らかで、清らかだった。私は彼を助命しようとしたが……彼はそれを拒んだ。重臣たちも将軍たちも助命には反対だった。だが……皇帝は大きな木の実が地面に転がっているのに目を付けた。ちょうど人の頭ほどの大きさで、細かい茶色の毛がびっしりと生えていた。だが……皇帝であるから、私は彼を助命することもできた。私は皇帝であるがゆえに万能であるはずだった。それでも私は彼を処刑した。

 

 すべてはこの帝国のためだ。

 

 皇帝はその木の実を拾い上げた。実は首のように重かったが、血は流れていなかった。

 

 ほどなくして林が終わった。そこには広い池があった。池には水草が青々と生えていて、その間に白い水鳥が浮かんでいた。形の良い大きな岩がそこここに配置されていた。なんとなく、皇帝はその岩に既視感を覚えた。彼はしばらくそれを眺めた。おそらくこの池は、山東(さんとう)の霊峰である泰安山(たいあんざん)とその麓にある五東湖(ごとうこ)を模したものであろうと彼は推定した。若い頃、彼は軍団の司令官として山東に出征したことがあった。

 

 水鳥たちは声もなく水上を滑っていた。皇帝はしばらく水鳥たちを見た。そういえば……皇帝はあることを思い出した。ちょうど二ヶ月前、皇帝は泰安山にいる年老いた巫術士を引見した。その巫術士は不死の妙法を扱うことができ、生者を不死に、死者を生者にすることができるという話だった。皇帝は何人かの死刑囚を連れてこさせると、巫術士の目の前で首を刎ねた。では、これらの死刑囚をこの場で、朕の目の前で蘇らせてみせよ……巫術士は何もできなかった。皇帝はその場で巫術士の首を刎ねさせた。自らの帝国と父祖より受け継いだこの天地に邪教(じゃきょう)を広めるわけにはいかぬ……皇帝は死刑囚と巫術士の首を並べさせた。どちらも穏やかな顔だった。皇帝は、少し期待をして両者の首を見た。もしかしたら、眉か唇くらいは動くかもしれぬ。結局、そのようなことはなかった……

 

 皇帝は疲労感を覚えて、しばらくその場に立ち尽くした。思えば、皇帝になる前からも、そして皇帝になってからも、自分は人を殺してばかりいる。皇帝の溜息は重かった。彼は空を見上げた。夢の空はどこまでも晴れていた。小さな黄色い太陽は中天よりやや西へ傾いていた。午後の日差しは皇帝の長身を優しく照らしていた。仄かに体が温まると、皇帝はさらに先へ行く気になった。庭園にはまだ先がありそうだった。

 

 だが突然、空が曇り始めた。何処からともなく黒雲が湧き出てきて、青く澄んだ空を覆って太陽を隠した。雷鳴が響き、白い稲光が走った。ほどなくして大粒の雨が大地に降り注ぎ始めた。皇帝は動かなかった。彼は獰猛に変化を続ける空を眺め続けた。雨も嵐も皇帝には好ましいものだった。雨は、程度さえほどよく保たれていれば田畑に潤いをもたらし、民たちの得る実りを豊かにする。嵐は、激しければ激しいほど敵の隙を突くことができる。皇帝はこれまで幾度となく嵐を利用して勝利を得ていた。雨によって全身が濡れたが、皇帝は微笑みすら浮かべてそれを楽しんでいた。

 

 その時、空から何かが一直線に降って来た。

 

 小さな何かだった。それは皇帝のすぐ目の前の地面に落ちると、素早い動きで彼の足元へと走り寄って来た。皇帝は目を凝らしてそれの正体を確かめようとした。だが、この庭園の花と木の名前が分からないのと同様に、彼にはその名前が分からず、従ってその正体も分からなかった。それはそれとしてそこにいた。それは震えていた。泣き声が聞こえた。宦官たちの媚びたような泣き声ではなく、また後宮の女たちの悋気(りんき)と激情に駆られた泣き声でもなかった。その声は悲しみに満ちていて、怖れと絶望に見舞われた者に特有の激しい揺らぎがあった。

 

 皇帝は足元のそれに声をかけた。名乗るが良い。もし名乗る気が起こらないのならば、名乗る気が起こるまで朕の足元にいるが良い。低い声には威厳と温情が含まれていた。それでもそれは、なかなか名乗らなかった。皇帝は待った。その間にも雷は鳴り続け、雨は大地に降り注いでいた。

 

 やがて、それは名乗った。皇帝陛下、私は龍でございます。天に住み、天に舞い、天にて正気(せいき)を練る龍でございます。

 

 皇帝は意外な思いに打たれた。これほどまでに小さな存在が、龍だと? この天地の正気(せいき)を司り、天候を支配し、王朝を守護する聖獣である龍が、これほどまでに小さくて正体の分からぬものであると、そのようなことがあり得るのだろうか?

 

 私が出師(すいし)し、征服し、拡大し、新たに組み込んだ版図はそれこそ膨大にして巨大であるのに、それを司る龍がこの程度とは……まさか、本当に? この程度のものが龍なのか?

 

 それでも皇帝は普段通りの平静さを保ったまま言った。龍よ。そなたが龍であることを朕は疑わぬ。しかし、龍が泣くということを朕は知らぬ。なぜ、そなたは泣いているのか? かくほどまでに沛然(はいぜん)と降るこの雨にも劣らぬほどに、そなたは涙を流しているではないか。

 

 龍は泣きながら答えた。皇帝陛下、私はまだ年若い龍でございます。私はまだ五千歳に達しておりませぬ。それでも自らに迫る命運だけは、天地の運行と星の動きを見れば理解することができるのでございます。皇帝陛下、私は死の運命に直面しております。残酷にして無惨で、無益にして無意味な死が私を待ち受けているのでございます。それゆえ、私は泣いているのです。

 

 皇帝は濡れてしまった黄色い(ほう)を強く握った。それでも、なおも表情を変えずに皇帝は言った。龍よ、詳しく話すが良い。あるいは朕が助力することも可能であろう。

 

 少しだけ泣き声が収まった。龍は言った。皇帝陛下、私はこの眼を用いて星回りを観察いたしました。それによれば木星が正位置よりさらに遠ざかり、不遜にも暗い金星が輝きを増して、木星を覆い隠すことが分かりました。木星は龍を暗示し、金星は金属と刃物を示します。金星の輝きは刃が振るわれる(きら)めきです。これによれば、私は明日、真夜中になる前に、剣によって命を失うことになります。それゆえに私は泣いていたのです。

 

 龍はさらに言った。どうか皇帝陛下、私の命を御救いください。明日の運命を乗り越えることができれば、私は今後十万五千四百余歳もの寿命を得ることができるのです。そして私はあなたの王朝を守護し、千年も二千年も続くものとすることができます。皇帝陛下、私をお守りください……ただ明日の運命を乗り越えることさえできれば、私も、そしてあなたの王朝も盤石になるのです……

 

 明日、夜明けになる前に、自らの王朝を永年に渡り守護する龍が命を失うかもしれない……内心で慄きと高揚感を同時に覚えつつ、皇帝は身を屈めて、足元で平伏しているそれに親しく声をかけた。龍よ、そなたが直面している運命についてはよく分かった。それでは、朕はどのようにしてそなたを守れば良いのか? 朕は誰をそなたより遠ざければ良いのか? 詳しく教えるが良い。

 

 龍はまた泣き声を激しくした。近くに雷が落ち、大地を揺らした。龍は言った。皇帝陛下、私を明日、真夜中の()の刻に害する者の名は、韋成(いせい)でございます。皇帝陛下の第一の臣にして、勇猛心比類なき将軍である韋成(いせい)が、明日の()の刻までに私の首に剣を振り下ろし、私の首を刎ねるのでございます。どうか陛下、私をお守りください。韋成(いせい)を遠ざけ、私の命が損なわれないように、どうか御聖慮をお示しください。私を守ってください……

 

 もはや、足元のそれは龍だった。それは皇帝の足先で長く伸びていた。雨雲に覆われて暗闇に包まれた大地の上で、龍はその鱗を白銀に輝かせ、角と牙と爪とを雨に濡らして皇帝にただ嘆願していた。

 

 皇帝は考えていた。あの、韋成(いせい)が? あの韋成(いせい)がこの龍を、明日の()の刻までに殺すというのか? 朝廷にあっては温良恭倹譲(おんりょうきょうけんじょう)、家にあっては父母に孝、友には信、温雅にして君臣の義を違えることなく、詩を詠んで精気を練り、戦地にあっては鬼神のごとく干戈(かんか)を振るい、千軍万馬の兵を指揮し、皇帝の(めい)とあらば万軍の敵の只中に真っ先駆けて突入する、あの韋成(いせい)が、この若い小さな龍を殺すというのか? 私の帝国、私の祖廟(そびょう)、私の社稷(しゃしょく)を今後永年にわたって守護するというこの龍を、あの韋成(いせい)が……?

 

 それでも、皇帝はすぐに返答をした。安心するが良い、龍よ。そなたは朕が守ってやろう。韋成(いせい)のことは怖るるに値しない。この夢から覚めた直後より、朕は韋成(いせい)を呼び出し、明日の()の刻まで寸時といえども彼を朕の傍から離れないようにさせよう。朕がこの目で韋成(いせい)を監視し、彼がそなたを害することがないようにしよう。安んじて次の朝を待つが良い……

 

 そのように皇帝が言うと、龍は突然宙に浮かび上がった。龍の目は黄金に輝いていて、一対の鋭い角と、両手の五本の爪が冷たいきらめきを放っていた。龍は泣きながら皇帝に何度も礼を述べて、空へ向かって螺旋を描くようにして飛んでいった。

 

 

☆☆☆

 

 

 そこで、皇帝は眠りから覚めた。寝台の絹は雨に濡れたようになっていた。寝汗の激しさを目の当たりにした宦官は、皇帝に今日の朝議は控えて、一日休息をなさるべきではないかと進言した。朝廷は現在安定しておりますし、これからもずっと安定したままでしょう。玉体を損なうわけには参りませぬ。薬師を呼び、霊薬を煎じさせましょう……皇帝は最後まで聞かず、宦官に対してただ一言、韋成(いせい)を呼べと命じた。宦官は礼をすると、部屋から出ていった。

 

 今日は片時も韋成(いせい)を私の(かたわら)より離れさせまいぞ。皇帝は寝台の上にありながら、夢の中の龍の言葉を反芻していた。

 

 ほどなくして報告が戻ってきた。大将軍涼国公(りょうこくこう)は今、洛外に狩りに出ています。即座にお呼び戻し致します。皇帝は、それならば朕が自ら韋成(いせい)の元へ出向いてやろうと言った。少し体を動かしたい。皇帝は宮殿にある(うまや)に飼われている駿馬(しゅんめ)に跨ると、士大夫が着るような簡素ながらも実用的な狩り衣を身に纏い、軽い良弓と(えびら)を持って洛外へと向かった。即座に精鋭の護衛兵が三十騎集まり、皇帝の周囲を守護した。

 

 洛外の平野に達した時、まだ太陽は中天に達していなかった。午前はこのまま狩りをして終わることになるであろう。皇帝が近づくと、韋成(いせい)は転がり落ちるようにして下馬をして、皇帝の足下に跪いた。皇帝は平伏している韋成(いせい)を見た。筋骨隆々のたくましい肉体に、太い首の上には額の広い大きな頭が乗っている。

 

 (おもて)を上げよ、韋成、と皇帝が言うと、韋成は顔を上げた。長年の戦陣生活で顔は真っ黒に日焼けしているが、表情は少年のように朗らかで、笑みを絶やさない。今も韋成は笑っていた。皇帝も笑って、朕は今日、夜の()の刻までずっとそなたと共にいることにしたと言った。なんとなく、そのようにしたいのでな。身に余る光栄でございます、陛下。そのように韋成は厳かながらも爽やかに言った。

 

 夢の内容を、皇帝は韋成(いせい)に告げなかった。皇帝には、なんとはなしにそのようにすることは不吉であるような気がしていた。また、それ以上に、あの夢の内容を誰かに教えることが、何かしらの弱みを露出させることになるのではないかと皇帝は危惧していた。龍の弱み、皇帝の弱み……この帝国の弱み! しかしそれは決して韋成の弱みではない。

 

 なによりも……皇帝は馬に乗って先をゆく韋成の姿を見た。そのことを韋成に告げれば、おそらく……いや確実に、韋成は自らの首を刎ねて自決するであろう。自らの死でもって王朝の安泰をはかるため、そして自らの忠誠心を示すために……皇帝は龍を守ろうと思っていたが、韋成もまた守ろうと思っていた。だからこそ、龍が韋成を遠ざけよと言ったのに、逆に皇帝は韋成と共にいることにしたのだった。

 

 その後、二人は巻狩りを楽しんだ。護衛兵たちが勢子(せこ)となり、銅鑼(どら)と楽器と武器とで茂みや森に潜む動物たちを追い立てた。皇帝は全力で馬を飛ばし、弓を引き絞り、楽しみつつ矢を飛ばした。韋成は控えめに馬を動かし、最小限の動きで弓に矢をつがえ、よく狙って射撃をした。二時間後、皇帝は十五匹の獲物を得た。それに対して、韋成(いせい)は十四匹の獲物を得た。

 

 自らの剛勇を常に恃みとし、戦場においてはどんな剽悍(ひょうかん)決死の士にも負けぬ私ではございますが、狩りの腕では到底陛下には及びませぬ。そのようにへりくだって言う韋成に対して、しかし皇帝は、ふと暗い感情が湧くのを感じた。この者はいつもそうだ。朕に対していつも少しだけ負ける。狩りならば、いつも一匹少ない。象棋(しょうぎ)の対局では、いつも熱戦の末に負ける。蹴鞠では朕よりも先に玉を落とし、碁や詩歌でも似たようなことをする……この者は、勝つことができるのと同じように、自在に負けることができるのだ。

 

 この韋成は、本当に忠臣なのか? 

 

 そう思った皇帝は、自分で自分のことが信じられなかった。今まで皇帝は韋成のことを疑ったことなどなかった。韋成はまさに腹心の部下だった。だが、今では別のことを思っている。あの白い龍の見た天文によれば、この男は、あの龍を殺そうとしている。あの龍を殺すということは、我が帝国と王朝の未来を奪うということである。そのような運命にあるこの男……この男は、もしかすると簒奪者(さんだつしゃ)なのではないか……? あの笑み、あの態度、あのへりくだり……そのすべてが、私の地位を奪い取るための策略なのだとしたら……

 

 この韋成は、いつか叛逆を起こすのでは?

 

 しかし、皇帝は内心でその考えを打ち消した。韋成こそは第一の臣、私の腹心である。この男が裏切ることなどよもやあるまい。そして、もしこの男が龍を殺して私の王朝を破滅させるというのであれば、そのような大罪を犯さぬようにしてやるのが、皇帝たる私の役目であろう……

 

 皇帝は韋成に、宮殿へ帰ろうと声をかけた。政務が溜まっている。韋成よ、今日は朕の傍にあって、朕のなすべきことに助力するが良い。韋成は馬より降りて平伏し、謹んで陛下の御英慮に服しますと返答した。

 

 宮殿に帰り、衣服を着替えて身を清めた後、皇帝は執務室に入り、各地方の統括者や上級・下級官僚から挙げられてきた報告書や上書に決裁をし始めた。韋成が傍らにいた。皇帝が疑問に思ったり、不明確に感じた箇所を質問すると、韋成はよどみなくそのことについて明確な回答をした。皇帝は満足して、ますます朱筆を振るって仕事を続けた。韋成もまた黙々と、皇帝の傍にあって皇帝が読むべき資料を整理していた。

 

 問題が山積していた。北方には異民族が跋扈し、南方には海賊たちがいて沿岸を荒らしている。貧富の格差は拡大していて、しかも貴族や士大夫たちは既得権益を手放さない。汚職や贈賄が横行しており、徴税人は民から膏血(こうけつ)を絞り取っている。富裕層の大土地所有に対する制限と財産への課税はまだ上手くいかない。新法には反対者が多い。科挙の合格者は年々増えてきているが、政治はますます硬直化が進んでいる……

 

 このような(もつ)れに縺れた帝国を、この韋成ならばどのように立て直すのであろうか? 皇帝は、その時手に持っていた報告書から目を逸らして、隣にいる韋成の横顔を見た。彼は私の元にいて、この帝国の現状を私と同じほどに知っている。あるいは、私以上に知っているかもしれない……皇帝は視線を戻したが、何か落ち着かない気分がずっと続いて、それからはあまり集中することができなかった。

 

 皇帝以上に、この国を上手く治められると、この男は考えているのではないか?

 

 また、皇帝は韋成を見た。韋成は美しかった。歳は三十歳で、すでに五人の子どもがいる。男盛りの美丈夫であるが、妻は一人しかおらず、妾もいないという。領地にあっては民に恩恵を施し、質素倹約を心がけ、憂うべきことは真っ先に憂い、楽しむべきことは一番後に楽しむというのがこの韋成だった。韋成は湖南(こなん)長沙(ちょうさ)近くの貧農の出身で、若い頃は相当な苦労をしたという。そのような男が、よくぞここまで立身出世を遂げ、至尊の座にある皇帝の傍らにいて、まるで愛人であるかのような打ち解けた雰囲気で仕事をしている……

 

 この男は……皇帝は思った。この韋成は、今の状況に満足しているのだろうか? 韋成は三十歳にしてすでに軍における最高の位に上っている。大将軍はこの帝国のすべての軍勢を統率・指揮する権限と実力を有している。翌年に計画されている越南侵攻作戦においては、この韋成が三十万の大軍団と百万の輜重(しちょう)を引き連れて、歩武堂々と南へと進軍することになっている。

 

 この男は……皇帝はなおも考えた。この男は、これだけで満足なのだろうか? これ以上のことを、この男は望んでいないのだろうか?

 

 たとえば、皇帝の座を。

 

 仕事が終わった。時刻はすでに(うま)の刻だった。皇帝は韋成に対して、昼餐を共にするように命じた。韋成は喜色を満面に漲らせて皇帝に対して平伏をした。何事も簡素を好む皇帝は、その昼餐もごく質素なものであったが、酒だけは最上のものを提供した。

 

 韋成はこの上もなく美味いものであるかのようにそれを食べ、飲んだ。そればかりではなく、余興として韋成は剣を抜くと、その場で剣舞を踊り始めた。皇帝は手を叩いて彼を誉めた。美しすぎる。剣舞は余興にしては完成され過ぎていた。あの剣舞も単なる余技ではなく、本当は私に取り入るために身につけたものであるとすれば……?

 

 皇帝は、なぜ自分が今日に限ってこれほどまでに疑念を深めているのか、不思議に思った。龍の話によれば、韋成はむしろ気の毒な男ということになる。韋成が龍殺しの罪を犯すのを看過することは、この帝国の滅びを自ら招き寄せることである。そして、その韋成は今の帝国にとってなくてはならない人物である……

 

 いや、なくてはならない人物こそが、実は最も危険なのではないか?

 

 その時、奇妙なまでに鋭く、韋成の振るう剣が日光を反射した。煌めきは皇帝の目を貫いた。龍の言葉が蘇った。どうか私をお守りください。韋成を遠ざけ、私の命を……その時、韋成が回転を激しくし過ぎたために床に転び、剣を投げ出してしまった。周りの文武の官人たちが息を呑む中、韋成は何事もなかったかのように起き上がり、頭を掻きながら言った。いやはや、私に命を下すものは三つございまして、一つは皇帝陛下であらせられます。もう一つは天であり、そして最後の一つは、酒でございます。酒に転べと命じられたら、私は転ばざるを得ませぬ……笑いが湧きおこった。皇帝もまた笑った。今度は皇帝も心の底から笑っていた。

 

 皇帝は韋成に言った。それでは、朕がそなたに酒を飲めと命じ、酒がそなたに酒を飲むなと命じれば、そなたはどうするのか? 韋成は即座に答えた。もちろん、その時は皇帝陛下の命に服しまする。酒を飲んで、飲んで飲み続けて酩酊すれば、酒からの命令はもはや聞くことができなくなりましょう……周りの者たちはみな笑った。だが、皇帝の笑みは先ほどよりも薄くなっていた。

 

 昼餐の後、皇帝は韋成を象棋(しょうぎ)に誘った。このまま夜まで、真夜中の()の刻まで、食事も取らず、皇帝は韋成にずっと勝負を挑み続けるつもりだった。皇帝は韋成に、今日はそなたが勝つまで勝負を止めぬぞと言った。韋成はいかにも困ったという顔をした。なんともご無体なことを仰せになられます。それでは、今夜私は寝ることができませぬ……皇帝は、やや声を低めて言った。いや、それがこちらの狙いなのだ。しかしその声は韋成には届かなかった。

 

 皇帝と韋成は庭園へとやって来た。夢の中とは、やはりどこか庭園は違っていた。庭園には水路が掘られていて、流れる水が静謐さを醸し出していた。庭園中央の農民風のあずまやに二人は座ると、象棋(しょうぎ)台を挟んで対局を始めた。勝負は長く続いた。予想されたとおり、皇帝は勝ち続けた。

 

 皇帝は、韋成がわざと自分に負けているのではないかと疑った。対局が終わるたびに韋成に問いを投げかけて、あの時のあの一手にはどのような意味があったのか、あの時のあの受け方はどのようなことを目指していたのか、あの時の駒の動かし方はどのような定石に基づいていたのかといちいち尋ねた。そのたびに韋成は丁寧に返答を続けるのだった。すべては私の実力不足にございます。また一局、ご指導をいただきたく存じます……

 

 さらに三時間ほどが経過し、時刻はすでに(とり)の刻に達していた。夕陽が空を染めていた。小高い丘の上にある宮殿からは、城内の民たちが上げる炊煙がよく見えた。皇帝と韋成はさらに対局を続けた。空は次第に暗くなり、やがて完全に太陽が没した。宦官が燭台を運びこみ、二人の勝負はさらに継続した。

 

 ()の刻となった。宮殿はすでに静まり返っていた。庭園の中に淡い月光が降り注いでいた。すべての草花が月の色に染まっていた。次第に、皇帝は眠気を覚えるようになっていた。それでも、皇帝は眠らなかった。彼はただ、目の前の韋成だけを見ていた。韋成の首は、ゆっくりと上下していた。強い眠気に襲われているのは韋成も同じであるようだった。

 

 この男は、どのような夢を見るのだろうか?

 

 だが、もうすぐこれで終わりだ。皇帝はそっと夜空を見上げた。あと少しで、()の刻になる。時を告げる官人の声が、皇帝には待ち遠しかった。それはあと二時間ほどのはずだった。

 

 ふと、皇帝は眠りに落ちかけている韋成に向かって尋ねた。韋成よ、もしこの帝国が今後も千年続くとしたら、そなたは子孫に何を残す? 韋成ははっとして居ずまいを正すと、即座に答えた。ただ皇帝陛下より賜った数々の恩愛と恩恵をこそ子々孫々にまで語り継ぎたく思います。それ以外に望みはございませぬ。声は明瞭そのものだった。

 

 皇帝はさらに言った。韋成よ、そなたにとって武功を積み、官位を極め、公に封じられ、千金万金を山として蔵に積み、良馬に車を引かせ、有徳にして賢明な士人と交わうことは、いったいどのような喜びであるのか? 韋成は答えた。そのような喜びは確かにこれまでの私が本願とするところでございました。ですが、今こうして陛下と親しく象棋(しょうぎ)をすること、そして陛下と親しく会話をすることの方が、そういったことよりも遥かに素晴らしい喜びであることを知りました。願わくば陛下、これからも私を象棋(しょうぎ)の相手として用いてください……

 

 これまでの返答はいかにも韋成らしいものだった。皇帝は最後に、一つだけ質問をすることにした。韋成よ、もしそなたが皇帝になるならば、いったいどのようにして国を治めるか?

 

 その時、韋成の顔は一瞬だけ蒼ざめた。しかし、すぐに彼は表情を改めると、こう言った。私は陛下の傍らにあって陛下の仕事を(つぶさ)に見て参りました。それゆえ、もし私が皇帝として帝国を治めるのならば、きっと陛下のやり方をそのまま採用することでしょう。それはつまり、真心を持って統治するということです。民と臣にとって最もありがたい恩恵とは、ただ皇帝陛下の民を思う真心だけなのでございますから……

 

 では、と皇帝が言った。もし、朕が真心を失えば、そなたはなんとする? 韋成の顔はさらに青ざめた。ややあって、韋成は答えた。それならば私は陛下が失われた真心を万難を排して探し出し、再び陛下にお返し申し上げます。この命に替えても……

 

 命に替えても、か。

 

 皇帝は韋成の顔をじっと見た。韋成は少し目線を下げて、皇帝の目を直視しないようにしていた。嘘はついていない。皇帝は結論した。この男は、決して嘘を吐くような男ではない。

 

 そうか、と皇帝は言った。もはや()の刻は半時間以内に迫っていた。皇帝は侍従に酒を持って来させると、手ずから杯に酒を注いで、韋成に向かって差し出した。飲むが良い、韋成よ。朕はそなたの忠誠心を疑っていた。だが、そなたの赤心(せきしん)は真のものであることがよく分かった。この酒を朕の謝罪の証として受け取るが良い。韋成は拝謝して盃を受け取り、酒を飲み干した。その酒がさらに彼の眠気を強めたようだった。韋成は眠ってしまった。

 

 皇帝は満足しきっていた。おそらく()の刻まではあと十分もないだろう。そして、今日の真夜中()の刻にあの龍を殺すとされている韋成は、今ここにいて、眠っている。もはや、この韋成が龍を殺すことなどあり得ない……

 

 韋成こそは真の忠臣、真の忠義の持ち主である。この者がいる限り、我が帝国は盤石であろう。

 

 本当に?

 

 韋成はいびきをかいていた。時折、瞼が痙攣したように動いた。完全に彼は寝入っていた。

 

 その瞬間だった。突然、夜空に雷鳴が響いた。無数の稲光が蜘蛛の巣のように空中に走り、目に見えるほどの大粒の雨が降り始めた。落雷が大地を地震のように揺らした。突然の天候の急変に、皇帝は一瞬だけ放心した。それでも韋成は起きなかった。彼はまだ眠り続けていた。

 

 すると、皇帝のもとに二人の兵士が雨に濡れながらやってきた。

 

 兵士は何か大きなものを二人で抱えて運んでいた。皇帝は、瞬時にして自分の心中に何か不穏なものが満ちるのを感じた。

 

 兵士は皇帝の前に立つと、それを地面に投げ出した。大きな、鈍い音がした。兵士たちは大きな声で報告をした。

 

 これが、空から落ちて参りました。

 

 皇帝はそれを見た。それは巨大な龍の頭部だった。黄金の瞳の眼は絶望と苦痛によって見開かれていて、一対の折れた角が夜闇の中で光っていた。白銀の鱗に覆われた頭部は花のように赤い血に塗れていて、切断面は鋭く、輪切りになった白く太い骨が覗いていた。何かの刀剣で斬られたのは間違いなかった。

 

 兵士たちはさらに叫ぶように言った。落雷と共に、これが中庭の外れに落ちてきたのです。

 

 ひと際大きな雷鳴が鳴り響いた。大きく全身を震わせた後、韋成が目を覚ました。韋成が起きた気配を感じて皇帝が振り返ると、韋成は目を見開いて、兵士たちが持ってきたそれを見つめていた。

 

 韋成は呆然としたように、呟くように言った。

 

 不思議だ。実に不思議だ……たった今、夢の中で、このような龍を剣で殺したところなのです。

 

 雨の中、夜行(やぎょう)の官人が遠くで時を奏でた。ちょうど()の刻だった。




・らいん・とほたー「ドラゴサイド 嘆願者」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている新星ファンタジーコンテスト、「聖獣/魔物/ふわふわ」に応募した作品です。2024年12月31日公開。エブリスタ版と比べて1,200字ほど加筆されています。

 聖獣! ということならば書くのは鳳凰か龍しかない! そして龍ならばあの話がある! まず私はそんなふうに考えました。あの話とは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが『ボルヘス怪奇譚集』で語っていた中国の話です。気になった方は読んでみてください、ほいれんでが何をイメージソースにしたのかは一目瞭然でしょう。(ボルヘス、カサーレス『ボルヘス怪奇譚集』(柳瀬尚紀訳、2018年、河出書房新社))

 これは私が初めて書いた中華ものファンタジーでした。書いていて一番気を遣ったのは「中華の雰囲気を出すための文章」を書くことでした。そのために漢語を多用するという結果に……「譜代」がどうやら日本初の言葉であることを知らずに書いてしまい、後で書き直したりしました。

 次回もお楽しみに! と言いたいところなのですが、ついにストックが枯渇しました。これから先はまた不定期更新となりますので、何かの折に更新された時にはまたほいれんでの作品に付き合ってやってください。
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