ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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……行かないで。あなたが行ってしまったら、きっと私はもう、涙を止められない。


06. 涙雨のスコール

 後部デッキで本を読んでいると、小雨が降ってきた。

 

 雨が降ると、いつも僕は濡れることも厭わず空を見上げる。そのたびに、あの南の島で体験したスコールのことを僕は思い出す。

 

 そして、ダクリのことも、僕は思い出す。

 

 肩を震わせ、大粒の涙を流す、儚く美しい彼女の姿が目に浮かぶ。濡れた蒼い髪が白い肩にはりついていた。僕は、今でもあの光景を鮮明に記憶している。

 

 僕は本を置くと、黒い横笛を袋から取り出して、低く奏で始めた。やはり、彼女のようには上手くいかなかった。

 

 これから、彼女に会いに行くのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 十二歳頃の話だ。僕は父と共に、ススペ島に移住することになった。ススペ島は、帝国の南方委任統治領レウコネシア諸島の中心だった。

 

 母は胸を病んで、ずいぶん前から郷里に帰っていた。父は、元々は大陸の戦争に従軍した歴戦の勇士だったが、負傷して退役してからは恩給で生活していた。

 

 世界的な経済危機の煽りを受けて帝国の恩給制度が事実上崩壊すると、父は困窮のままに死ぬよりはむしろ一勝負しようという気になったらしい。妻を本土に置き、一人息子である僕を連れて、父は南溟(なんめい)瘴癘(しょうれい)の果てに新天地を求めた。

 

 帝国首都から、南へ二千四百キロの大洋の只中に、その巨躯をゆったりと浮かべるススペ島は、訪れた文人たちによって「この世の楽園」とも評されていた。

 

 だが僕は、まったくこの島が好きになれなかった。狭く暗い船室で過ごした長い航海は不快だったが、この島での生活から受ける苦痛の度合いは、それを遥かに凌駕していた。強烈な南国の太陽と空と海、極彩色の魚介と果実……なにもかもが、僕の幼い感覚器官にとって刺激が強すぎた。

 

 おまけに来島して間もなく、僕は熱病に罹患して生死の境を彷徨うことになってしまった。奇跡的に一命はとりとめたが、この事件のせいで僕はすっかり臆病になってしまった。

 

 官舎の一室に引きこもって、ひたすら本ばかり読む毎日を僕は送った。外に出ればまた病気になるかもしれない。それに、遊んでくれる友達は一人もいない……夜、母恋しさに一人涙ぐむことも多かった。僕はこの島の人間でありながら、この島とは似ても似つかない白い肌のままだった。

 

 時折窓越しに見上げる空は、馬鹿馬鹿しいほどに晴れ渡っていた。僕はすぐに暗がりへ逃げ込んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 母から引き離し、こんな南の島に連れてきて、おまけに死の寸前へ追いやったという負い目があるせいか、退嬰(たいえい)的な生活をしている僕に対して、父は当初何も言わなかった。あるいは仕事が忙しくて、父は息子にかまう余裕がなかったのかもしれなかった。

 

 しかしある日のこと、ついに父は行動を起こした。まだ太陽も昇らない紺碧の明け方、父は眠っている僕を寝台から無理矢理引き摺り下ろすと、抱えるようにして浜辺に運び、小さなボートに乗せてしまった。

 

 ボートは暗い海面を進み始めた。やがて水平線上に薔薇色の朝日が姿を現した。その光を浴びてキラキラと輝くエメラルドグリーンの海の上を、僕と父を乗せたボートが、オールの軋む音と共にしずしずと進んでいった。

 

 リズムよく漕ぎながら、父は命令するように僕に言った。

 

「おい、レンよ、このままでは、お前は社会の、いや、人生の落伍者になる。父は大変憂慮している。母さんはもっと悲しむだろう。少し手荒いが、これからお前には男の修行をしてもらう。覚悟は良いな?」

 

 拒否権などなかった。消え入るような声で僕は「はい」と答えた。そして、「あの、行き先は……?」と、勇気を振り絞って尋ねた。

 

 父は短く答えた。

 

「アグルブ島だ」

 

 その島のことは、本を読んで知っていた。南洋庁が編纂した地理書には、アグルブ島は「ススペ島の付属島。無人。猛獣、毒蛇の類はなし。洞窟多数。ススペ島現地住民は霊地としている」と書かれていた。

 

 この無人島について現地住民は、あそこには神様か精霊が住んでいる、枝一本、貝一粒損ねてはならない、きっと雨と風を起こして天罰を下すだろうと言い伝えていた。

 

 そんな曰くつきの孤島に、父は僕を置き去りにした。アグルブ島の白い浜で、父は僕に布製のザックを渡しながら言った。

 

「その背嚢には三日分の食糧が入っている。水はスコールを飲め。一人で生き抜いてみせろ。三日後に迎えに来る」

 

 本当にとんでもない父親だったと今では思うが、あるいはそれは元軍人らしい不器用な愛の表現だったのかもしれない。当時の僕にとっては、ただ父は恐ろしいだけの存在だった。

 

 我に返ったその時、僕はたった一人で浜辺に立っていた。浜辺には椰子の木がまばらに生えていた。白い砂の上をカニが数匹、横歩きしていた。海鳥の鳴き声が耳に響いた。足元には背嚢と水筒が一個ずつあった。僕はぐったりとその場に座り込むと、指先で砂をいじった。

 

 不思議と、恐怖や絶望感はなかった。あるいは、思いもよらない事態に、幼く未発達の頭脳が追いついていなかったからかもしれない。

 

 

☆☆☆

 

 

 何分、何時間経っただろうか。そろそろ歩き出そうかと思い始めたその時、急にあたりが陰った。ゴロゴロという雷鳴も聞こえた。

 

 空を見上げると、真っ黒な雨雲が海上を素早く這うように移動して、このアグルブ島に差し掛かっているところだった。

 

 スコールの到来だった。

 

 僕は背嚢を背負って、水筒を鷲掴みにすると、一目散に駆け出した。

 

 雨に当たると熱病になる。僕はそう信じ込んでいた。というのは、熱病を発症した前日、僕は父から言われてスコールをシャワー代わりに入浴していたからだった。

 

 ポツポツと、背中に大粒の雨が当たった。数分も経つと、これが弾丸のような威力を持った大雨になるのだ。僕は一目散に森を目指して走った。

 

 森に入った段階で、いよいよスコールは本降りになった。猛烈に降り注ぐ雨粒によって、視界は白く閉ざされようとしていた。僕は必死になって雨風を防げる場所を探した。すると暗い森の奥に、どうやら洞窟の入り口らしいものが見つかった。僕は夢中で駆けて、その中へ飛び込んだ。

 

 洞窟は、当然のことながら真っ暗だった。一歩中に入っただけで、スコールの音は遠くなった。僕はおずおずと壁を手探りして、洞窟の奥へ進んだ。入り口近くにいては、吹き込んでくるスコールから逃れることができないからだった。

 

 その時、突然、僕の鼓膜をある音が刺激した。

 

 それは笛の音だった。

 

 笛の音は、洞窟の奥から聞こえてきた。反響に反響を重ね、奇妙に彎曲した旋律になっているが、たしかに笛の音だった。

 

 一瞬、僕は恐怖した。しかし次に覚えたのは、純粋な安堵感だった。母の笛と似ている。そう感じたからだった。母はよく笛を吹いていた。

 

 僕は音に導かれるように、そのまま洞窟の奥へとさらに進んでいった。

 

 そして、僕は見えない縦穴に落ちた。

 

 穴は深かった。魂も剥離するような浮遊感を数瞬の間に味わったあと、僕はどこかに頭をぶつけて、呆気なく意識を失った。

 

 

☆☆☆

 

 

 岩に頭をぶつけたのだから、下手をすれば死んでいただろう。

 

 しかし、僕は生きていた。生きていて、不思議なことに無傷で、しかも、誰かに抱かれていた。

 

 僕を抱いていたのは、少女だった。気づいた時には、僕の頭は彼女の膝枕の上に寝かされていた。

 

 彼女の瞳は大きかった。その色はまさしく南海の色、透き通るようなエメラルドグリーンだった。肩まで届く髪は艶のある群青色で、肌は血管が透き通るほど白かった。彼女は空色のワンピースドレスを着ていた。彼女は僕の頭を(もも)に乗せて、ほっそりとした指先で優しく撫でていた。

 

 明らかに、彼女は現地住民の一般的な容姿からはかけ離れていた。言うまでもなく、彼女は美しかった。だが、当時の僕はそれをあまり意識しなかった。

 

 周囲は、淡い緑色の不思議な燐光に満ちていた。その空間は光を放つ鉱石で彩られた、いわば石室だった。

 

 僕と少女は、どちらも言葉を発さなかった。僕は、なんと彼女に話しかけたものかと思案していた。彼女の膝枕の柔らかさが遠い故郷の母を連想させた。そのせいで、僕の精神はぼんやりとしていた。

 

 そんな状況を打ち破るように、突然、空腹を告げる腹の音が石室に響いた。僕は顔を赤くした。一方、少女はただ不思議そうな表情を浮かべただけだった。

 

 僕は身を起こした。恥ずかしさを誤魔化そうと、僕はいつもより半音上がった声を出した。

 

「ね、ねえ、ご飯にしようか。君も一緒に食べる?」

 

 父が僕に渡した背嚢は、傍らに置いてあった。僕はその中から乾麺麭(かんめんぽう)の缶詰を一つ取り出すと、手早く蓋を開けて、二枚取り出した。僕は彼女にそれを差し出しつつ言った。

 

「これはね、乾麺麭。かんめんぽう、だよ。ビスケットみたいなものさ。君も一枚どうぞ」

 

 だが、少女の口には合わなかったようだった。彼女は小さな口で遠慮がちに齧ると、細い眉をちょっと寄せて、あとは僕に返してきた。

 

 僕は戸惑いつつ、さらに言った。

 

「いらないの? うーん……じゃあ、これならどう? ほら」

 

 次に僕が取り出したのは、乾麺麭の缶詰に必ず付属している氷砂糖だった。その一粒を彼女に手渡した。

 

 彼女は、氷砂糖を細い指で(つま)んでしばらく見つめていた。そのうち、彼女はそれをそっと口に運んだ。そして、幽かに声を発した。

 

「おいしい」

 

 水晶のように透き通った、美しい声だった。

 

 僕は、ここぞとばかりに尋ねた。

 

「僕はレン。君は?」

 

 返答は、彼女が氷砂糖を舐め終えてからだった。

 

「……ダクリ」

 

 聞いたことのない響きの名前だった。でも、僕はすぐにその名前が気に入ってしまった。

 

 

☆☆☆

 

 

 静かで、涼しくて、薄暗いこの石室は僕好みではあったが、いつまでもここにいるわけにもいかなかった。僕は、ダクリと名乗った少女に、ここから出たいと申し出た。

 

「ここは、洞窟の地下だよね? 地上に出る道はないの?」

 

 ダクリは軽く頷いた。そして、僕の手を取ると、彼女は石室の正面の壁へ向かって歩き始めた。

 

 壁面には階段のような段差が彫られていた。子ども一人がやっと上がれるような、小さな階段だった。段差は不揃いながらも、確かに上へと続いていた。僕たちは段差を登り始めた。

 

 前を行くダクリのワンピースドレスの裾がフワフワと揺れていた。彼女の細くて白い足が、魔法のような軽やかさで段差を登っていった。

 

 一方の僕は、やや覚束ない足取りだった。なんとか段差を登り終えると、今度は小さな横穴が空いていた。覗き込むと、ほのかに光が見えた。どうやら外に通じているようだった。

 

 腹ばいになってやっと通れる穴を、攀じ登るようにして僕たちは進んだ。はあはあと、僕の息は切れた。引きこもっていて運動不足の僕には、その穴を進むのはなかなか困難なことだった。

 

 やっとのことで、僕とダクリは地上に出た。

 

 出たところは、なだらかな丘の裾だった。丘の上には、樹齢何年なのか見当もつかないほどに大きな、ガジュマルの樹が生えていた。周りには赤色も鮮やかなハイビスカスが咲いていて、虫たちが楽しげに飛び回っていた。

 

 ダクリは、洞窟を出るとパッと駆け出して、ガジュマルの樹の下に身を投げだした。彼女はゴロゴロと地面を転がって、全身で伸びをした。僕も息を弾ませて彼女を追った。同じように地面を転がって、僕は伸びをした。

 

 僕たちは隣り合って地面に横たわった。空は晴れ渡っていた。降り注ぐ日光が目に痛かった。僕のすぐ隣には少女がいた。石室も心地良かったが、ここも同じほどに気持ち良い。太陽をこれほどまでに良いものとして感じたのは初めてだった。何より、久しぶりに心が落ち着くのを、僕は感じていた。

 

 僕はここで、これまでダクリに感謝の言葉を述べていなかったことに気づいた。僕は彼女へ顔を向けてから言った。

 

「ダクリ、どうもありがとう」

 

 彼女は目を瞬かせた。やはり彼女は言葉を発さなかった。どうやら極端に無口なようだった。

 

 やがて、彼女は得心がいったように軽く頷くと、おもむろに体を起こした。そして、どこからか黒い横笛を取り出した。彼女は笛で、悲しげな調べを奏で始めた。それは、ススペ島で嫌になるほど聞いた、太鼓を連打する南国の底抜けに陽気な音楽とはまったく違っていた。彼女の奏でる音色は、どこか涼しげで、単調で、うら寂しい曲調だった。

 

 僕はそれを聞いて、故郷の母を思い出していた。雪深い北国の郷里で、今も胸の病に苦しめられているであろう母……その姿が、ダクリの旋律と共に鮮やかに脳裏に思い起こされた。

 

 そうだ。穴に落ちる前に聞いた笛の音もきっとこの子が……僕はそう思った。

 

 いつしか、演奏は終わっていた。僕は彼女に言った。

 

「ありがとう、ダクリ。とっても良かったよ……あれ? おかしいな、涙が……」

 

 僕は気づかないうちに目から涙を流していた。音楽で感動して泣くなど、生まれて初めてのことだった。

 

 ダクリはそんな僕に手を差し出してきた。僕はその意図をはかりかねた。そして、おそらく彼女は対価が欲しいのだろうと思い、僕は氷砂糖を差し出した。

 

「お礼の氷砂糖だよ……って、あっ……」

 

 ダクリは僕に顔を近づけた。

 

「ん……」

 

 彼女は、唐突に僕にキスをした。柔らかで、ほのかな甘ささえ感じられるダクリの唇がぴったりと、僕の子どもっぽい桜色の唇に重ねられていた。

 

 ガジュマルの樹が僕達に影を落とした。ダクリはなかなか僕を離してくれなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

「キスされるなんて……」

 

 長い口付けが終わった後、僕は呆然としていた。一方、ダクリは無表情のまま、氷砂糖を口の中でコロコロと転がしつつ、じっと僕を見つめていた。

 

 しばらくしてから、丘の右手の浜辺の方から、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「……おーい……おーい……レン、どこにいる……おーい……」

 

 聞き覚えのある声だった。僕は思わず声をあげた。

 

「父さん?」

 

 ガジュマルの樹から離れて、僕は声のする方向へ耳を傾けた。声はなおも聞こえてきた。

 

「……おーい、おーい……レン、どこだ……出てきてくれ……」

 

 やはり、父の声に間違いない。僕は喜んだ。

 

「父さん! 父さんがきた!」

 

 厳格で、ともすれば虐待まがいの躾をするけれども、僕にとってやはり父は父だった。父は私を見捨てないで、ちゃんとこの島に戻ってきたのだ。

 

 振り返って、僕はダクリを呼んだ。僕は言った。

 

「ダクリも行こうよ! 父さんに君を紹介するから!」

 

 だが、ダクリは忽然と姿を消していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ギシギシと、オールの音を立ててボートが進んでいた。ススペ島に帰るのだ。

 

 僕は空を見上げた。カモメが五、六羽、円を描いて飛んでいた。空はどこまでも高く、青かった。

 

 父が言うには、僕は五日間もあの島にいたとのことだった。父は約束通り、三日目になってから僕を迎えに行ったという。だが、浜辺に僕の姿はなかった。父は必死になって島中を探し続けたが、どうしても見つけられなかった。

 

 僕は、経緯を説明した。

 

「スコールから逃れるために洞窟に入ったら、穴に落ちて頭を打ったの。数日間、ずっと気絶してたのかも」

 

 ダクリのことは言い出せなかった。父と話しているうちに、彼女のことは自分だけの秘密にしておきたい気持ちになっていた。

 

 父は深々と頭を下げた。

 

「レン。お前には本当に悪いことをした。愚かな父をどうか許してくれ」

 

 父の目尻に涙が浮かんでいた。こんな父を見るのは初めてだった。やがて、ボートはススペ島に帰った。僕と父は手を繋いでボートから降りた。

 

 この事件の後、僕は部屋から外に出られるようになった。どこか遠く感じていた父とも仲が深まったように感じた。それに、だんだん島にも愛着を覚え始めた。

 

 その一方で、ダクリのことはいつも気になった。どうしても彼女の面影が忘れられなかった。

 

 どうしても、彼女にもう一回会いたい。あの笛の音、あの瞳、あの唇……彼女のすべてが、僕の幼い精神を悶々と掻き立てた。

 

 僕はもう一度、一人だけで、アグルブ島へ行くことを計画した。その機会は案外早く訪れた。父は定期的に他の島へ出張に行くことになっていたが、僕はその隙をついたのだった。漁師をしている地元の若者に頼み、父のタバコを報酬として船を出してもらった。

 

 僕は若者に言った。

 

「いい? くれぐれも父さんには内緒だよ」

 

 若者は独特な抑揚のある口調で答えた。

 

「わかってますよ。それにしても、ぼっちゃん、アナタは勇気があります。あの島は、雨と涙のセイレーイが住む島ですよ」

 

 僕は言った。

 

「セイレーイ? ああ、精霊のこと?」

 

 若者は頷いた。

 

「雨を降らせるそのセイレーイは、コワーイ(けもの)の姿らしいです。毛が生えていて、骨ばってて……」

 

 僕はふんと鼻を鳴らしてそれを聞き流した。ダクリが(けもの)なものか。あんなに可愛い子が獣なわけがない。彼女は精霊だ……

 

 あれ? なんで僕はダクリを精霊と思ったのだろう? ふと、僕は疑問に思った。だが、次第にそれは自然と霧散した。

 

 

☆☆☆

 

 

 僕を島に送り届けると、漁師はまたボートを漕いでススペ島へ帰っていった。僕は彼の姿が遠くに消えたのを見届けるや、すぐにあの場所へ向かって駆け出した。

 

 僕は彼女の名を呼んだ。

 

「ダクリ!」

 

 彼女は、あのガジュマルの樹の下に寝そべっていた。僕は彼女に声をかけた。

 

「ダクリ! また来たよ! こないだは……って、うわっ!」

 

 彼女は僕の姿を見ると駆け寄ってきて、またキスをした。そして彼女は、僕の手を引いて樹の下に導くと、また笛を吹いてくれた。

 

 演奏が終わると、僕は色々とお菓子を並べた。それはススペ島の商店で買ったものだった。僕は言った。

 

「ありがとうダクリ。これはお礼だよ。なんでも好きなものを選んでね」

 

 しかし、ダクリはそういったものにまったく興味を示さなかった。

 

 もしやと思って、僕は氷砂糖を差し出した。彼女は頷くと僕からそれを受け取り、口の中でころころと転がし始めた。

 

 僕たちはそれから遊んだ。僕たちは海で泳ぎ、砂浜ではしゃぎまわった。もっとも、楽しんでいるのは僕だけで、ダクリは黙って隣にいるだけだった。

 

 日が傾いて、空と海が橙色を触媒にして溶け合う時間が来た。遠くから、漁師の若者が僕を呼ぶ声が聞こえた。

 

 僕は、ダクリの瞳を見つめながら言った。

 

「また来るからね」

 

 ダクリは、キスで僕に応えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからも僕は、父がススペ島を離れる度に、ダクリに会いに行った。僕は彼女からキスをされる。僕は彼女の笛の音を楽しむ。一緒にお菓子を食べて、島内を遊び回る。

 

 ボートの漕ぎ方、泳ぎ方、魚の捕り方を僕は覚えた。すべてダクリと一緒に練習して、習得したものだった。

 

 母譲りの僕の白い肌は真っ黒になり、体つきも頑健になった。父はそんな僕を見て喜んでいた。どんどん逞しくなっていく息子に明るい未来を見たのかもしれなかった。

 

 ある日、僕はダクリに尋ねた。

 

「ねぇ、一緒にススペ島に行かない? 向こうに行けばもっと楽しいよ?」

 

 しかしダクリは、いつもの無表情にどこか悲しげな色を乗せて、沈黙を保っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 一大事が出来(しゅったい)したのは、僕が十三歳になった誕生日の三日後だった。部屋で本を読んでいた僕を、父が呼んだ。

 

 父が手にしていたのは一通の電報だった。それを僕に寄越しながら、父は静かに言った。

 

「母さんの病状が思わしくない。レン、お前は国に帰れ」

 

 まさしく青天の霹靂だった。父は顔色一つ変えず、続けて言った。

 

「母さんが良くなっても、ここには帰ってくるな。内地の学校に進学しろ」

 

 何も言うことができない僕をおいて、父は煙草に火を点けると、深々と一服した。

 

「三日後に港から出る飛行艇で内地に帰れ。父は急遽入った用事で、午後からテイニアン島に行かねばならない。だから、三日後のお前の出発を見送ることはできない。悪いが、一人で国に帰ってくれ……」

 

 父の話が終わった後、僕はふらふらとした足取りで家の外へ出た。僕は完全に打ちのめされていた。

 

 思わず、僕は空を見上げた。南国の空は相変わらず、憎々しいまでに晴れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それから数時間後、僕はボートを漕いでいた。

 

 ダクリとお別れをしなければならない。そのことを考えるたびに心臓が早鐘をついた。こんなことは予想だにしていなかった。彼女と離れ離れになったあとの寂しさを想像して、僕はすでに涙ぐんでいた。

 

 彼女は浜辺に立っていた。どうやら、僕の到着を待ちわびていたようだった。青い髪が風に靡いていた。彼女はとても綺麗だった。そんな彼女を、もう二度と見ることができないのだと思うと、僕の胸はなおさら痛んだ。

 

 浜辺にボートを寄せ、浅瀬に足を浸しながら、僕はどういうふうに話を切り出したものかと思案を巡らせていた。

 

 声がした。

 

「レン」

 

 驚いて、僕はダクリを見つめた。彼女が僕を呼んでいた。彼女が僕の名を呼ぶのは、これが初めてだった。彼女は僕に駆け寄るといつものようにキスをして、さらに僕の名を呼んだ。

 

「レン、レン」

 

 ついに、彼女が名前を呼んでくれるようになった! これで、このまま遊べたらどんなに良かっただろう。いつまでも一緒にいられたら、どんなに良かっただろう。

 

 しかし、伝えなければならなかった。僕は、ダクリの両肩を掴んだ。緊張で手が震えた。そして、声も震えた。彼女の目を見据えると、低く押し殺したような声で僕は言った。

 

「ダクリ。今日は、君にお別れを言いに来たんだ。もうここには来れない。僕は内地に帰る」

 

 彼女は声を漏らした。

 

「えっ……」

 

 彼女の反応は、劇的だった。瞬く間にエメラルドグリーンの瞳に大粒の涙が溢れ、ポロポロと頬を流れ下った。彼女はその場に崩れ落ちた。

 

 僕は叫ぶように言った。

 

「ごめん!」

 

 いたたまれなくなって、僕は走って逃げ出した。素早くボートに乗ると、僕は全力でオールを漕いで島を離れた。

 

 ダクリが叫んでいた。

 

「レン! レン!」

 

 涙で顔を濡らし、青髪を乱しながら、彼女は叫び続けていた。

 

「レン! レン!」

 

 ごめんダクリ! もうお別れなんだ! もう会えないんだ! そう叫ぼうとする声は、結局出せなかった。

 

 その日の夕食は、まったく喉を通らなかった。日が沈み、月が昇る夜になっても、僕は眠れなかった。

 

 夢の中で、僕はダクリを見た。月明かりに照らされた彼女は、ただ泣いていた。僕の名を呼びながら、肩を震わせて、彼女は大粒の涙を流していた。

 

 泣き続けるダクリの姿が、突如として陰った。見ると、彼女の頭上に広がる夜空に、黒い雲が渦を巻き始めていた。雲の流れは激しさを増して、次第に雷鳴と稲光を呼び始め、ついには地上へ向けて雨を降らし始めた。

 

 激しい雨音で、僕の目は覚めた。まだ夜は明けていなかった。家の外は、猛烈なスコールが降っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そして、僕は空を見上げた。黒雲が天を覆い尽くし、スコールが止むことなく島に注いでいた。

 

 ダクリに別れを告げたその日の夜から、天の底が破れたような大雨になった。船は出港できず、飛行艇の発着もできず、道路は川のようになり、サトウキビ畑は水浸しになった。他の島にいる父は帰ってこれなかった。

 

 地元住民にとっても、このような異常気象は前代未聞だった。南洋庁の役人たちも対策に必死だった。みんな一様に空を見上げ、罵った。なんて酷い雨だと彼らは言った。

 

 しかし、ただ一人、僕だけは、この大雨の正体が分かっていた。

 

 この雨は、ダクリの涙だ。精霊の涙だ。

 

 確たる証拠などない。ただ、そう直感した。僕を帰らせまいと、船を出させまいと、ダクリが涙雨のスコールを呼び起こしているのだ。

 

 もう一度、会いに行かなければいけない。僕はそう思った。さもなければ、内地に帰還するどころか、島そのものが水没しかねない。

 

 なにより僕は、ダクリの泣き顔が忘れられなかった。突然に別れを告げられ、その衝撃に突き飛ばされて、浜辺にくずおれた彼女の姿……

 

 僕は彼女を悲しませてしまった。僕は自分で自分が許せなかった。もう一度あの島へ行って、どうしても直接、彼女に謝りたい。

 

 こんな悪天候の中、単身海に出るのは自殺行為だった。だが、僕はボートに飛び乗った。僕を見咎める者は誰もいなかった。激浪に翻弄されて、ボートは木の葉のように揺れた。

 

 この一年で学んだ技術をすべて発揮して、僕は全力を出して懸命に漕いだ。だが、ボートは途中で転覆してしまった。それでも、波に襲われ半ば溺れかけながら、僕は必死に手足を動かして泳ぎ続けた。

 

 絶対に、ダクリに会うんだ!

 

 死の恐怖はなかった。彼女にもう一度会えるという望みが、僕に力をくれた。

 

 どんな人にでも奇跡というものが人生で一度だけ起こるのだとしたら、僕の奇跡はあの時起こったのだろう。常識的に考えれば、十三歳の少年があの海を泳げるわけがなかった。でも、僕は泳ぎきることができた。

 

 僕は無事にアグルブ島に辿り着いた。海水を飲み、筋肉は疲労していたが、歩けないほどではなかった。

 

 僕は暗い空を見上げた。スコールはますます激しくなっていた。

 

 ダクリは、きっとあそこだろう。確信に()き動かされて、僕は駆けた。足はもつれかけていた。僕は何度も転び、そして何度も立ち上がった。二人がいつも一緒にいた所。いつもキスを重ねた所、あそこにきっと、彼女はいる。

 

 思ったとおりだった。あのガジュマルの樹の下に、ダクリはいた。肩を震わせて大粒の涙を流す、儚く美しい彼女の姿がそこにあった。雨に濡れた蒼い髪が白い肩にはりついていた。

 

 そんな彼女を見て、僕は叫んだ。

 

「ダクリ!」

 

 彼女は、肩を震わせた。そして、僕のほうへ振り返った。

 

 ダクリは小さな声で僕の名を口にした。

 

「レン……?」

 

 それははっきりと僕の耳に届いた。僕は、萎え果てた両足を懸命に動かして、ダクリへ向かった。ダクリも、ふらふらとした、今にも倒れそうな足取りで僕に向かってきた。

 

 僕は彼女の名を呼んだ。

 

「ダクリ!」

 

 彼女も僕を呼んだ。

 

「レン!」

 

 いつもはダクリからだが、今度はこちらからだ。僕は両腕を回して、彼女の細い体を抱きしめた。

 

 そして僕は、ダクリにキスをした。彼女の唇は冷たく、でも柔らかだった。僕はその時、初めてキスの意味を知った。僕はキスをすることで、僕のすべてを彼女に明け渡していた。

 

 ダクリとの思い出が僕の心の中を駆け巡った。彼女は僕に、何もかも教えてくれた。恋をすることも、愛することも、そして、人はいつか別れを経験しなければならないことも……彼女は僕にすべてを教えてくれた。

 

 いつしか、スコールは止んでいた。僕はそっと唇を離した。ダクリは小さく声を上げると、指で唇を抑えた。

 

 彼女を抱きしめたまま、僕は言った。

 

「ダクリ、聞いてくれ。僕たちはお別れをしないといけない」

 

 僕を抱く腕に力が入ったのが分かった。それでも、彼女は静かに聞いてくれていた。僕はさらに言った。

 

「でも、永遠のお別れじゃない。何年、何十年経っても、僕はまたここに来る。必ずダクリに会いに来るよ」

 

 ダクリが叫んだ。

 

「レン!」

 

 そして、今度は彼女のほうからキスをした。長いキスだった。それが終わると、彼女は名残惜しそうに僕から離れて、黒い横笛を差し出した。

 

「レン」

 

 僕は彼女の顔を見つめた。

 

「ありがとう、ダクリ。大切にするよ」

 

 僕が笛を受け取ると、ダクリは涙ぐみながらニッコリと笑ってくれた。

 

 その笑顔は、嵐の後のハイビスカスのようだった。

 

 僕たち二人は空を見上げた。黒雲は晴れて、穏やかな風が吹いていた。太陽は常にない優しい笑みを浮かべていた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「涙雨のスコール」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第88回「そして空を見上げた」に応募した作品です。2018年11月16日公開。

 キャッチコピーは、「吼える海を少年は泳ぐ。涙の精霊にまた会うために」

 ほいれんで・くーのオリジナル短編5作目になります。書いた時は会心の出来だと思ったのですが、今回ハーメルンに上げるためにもう一回見直してみると、なかなか反省点が多く見つかります。長編を書くよりも短編を書く方が力量が必要だと言っている人がいましたが、なるほどその通りだと最近痛感しております。

 劇中の人名や地名について

・帝都ツキウ 東京のアラビア語読みから。
・レウコネシア諸島 元ネタ的にはミクロネシア諸島ですが、メラネシアをもじってレウコネシア(白い島々)としました。
・ススペ島 元ネタはサイパン島。
・ダクリ ギリシア語で涙

 構想を立てた時、ダクリのポジションにはもっと別の神様・精霊を考えていました。日本神話に登場するナキサワメ様です。しかし南方奇譚と日本神話がどうしてもマッチせず、「そんならオリジナルの女の子の精霊でいいじゃない」となりました。

 次回もお楽しみに。

※2020/12/25
読み返してみると手直ししたい気持ちに駆られたので、かなり加筆修正を加えました。

※加筆修正しました。(2023/06/26/月)

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