ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 彼女は本が大好きな女の子でした。彼女は黒ずくめでした。彼女はいつも大きな帽子を被っていました。大きなお屋敷にたった一人で、お父さんもお母さんもいません。
 
 でも、彼女は寂しくなんかありません。本を読めば夢と物語の世界に行けますし、それに、村の人たちはとても親切でしたから。毎日がとても楽しくて、みんな笑顔いっぱいでした。

 大好きな本と大好きな人たちに囲まれて、彼女はあの時まで、確かに幸せだったのです。



08. 魔女はティーシポネーに誓った

 敵の砲撃は払暁(ふつぎょう)から始まった。鉄の暴風はたっぷり三時間は吹き荒れて、ありとあらゆるものに破壊と死を振り撒いた。

 

 兵士カレルは、魂魄すらも粉々に打ち砕くような猛砲撃にただ耐えていた。彼は塹壕の壁面にぴったりと体を押し付け、銃を抱え、嵐の過ぎ去るのをひたすら待った。

 

 やがて、砲撃が止んだ。死体と残骸の傍らで、やれやれと言いつつ兵士たちは体を伸ばした。カレルは重い鉄帽を脱ぐと、茶色の髪をかき上げて、泥だらけの顔を拭いた。

 

 カレルの隣にいるジークムントが、煙草に火をつけて言った。

 

「こう砲撃が酷くちゃ、クソもションベンもできやしねぇ」

 

 しかし、彼らが休息を楽しむことはできなかった。誰かが悲鳴のような声で叫んだ。

 

「おい、着弾(こう)から紅い霧が出ているぞ! ガスだ、毒ガス弾だ!」

 

 すぐに誰かが言った。

 

「防毒面を着けろ! 急げ!」

 

 ほどなくして、塹壕を紅い霧が満たした。それはフランク王国軍の魔法技術の産物、フランボワーズ・ガスであった。その可愛らしい名前とは裏腹に、このガスは甘い果実の香りを放って、全身のあらゆる細胞組織を急速に腐敗させる能力を有していた。

 

 突然、ジークムントが咳き込み始めた。兵士たちの視線が一斉に彼のほうを向いた。ジークムントの咳は次第に激しくなった。ついに彼は、激しい痙攣を始めた。

 

 仲間たちが群がり寄った。彼らは口々に叫んだ。

 

「ジークムント! しっかりしろ!」

「この馬鹿が! ガスを吸い込んだな! おい、手足を抑えろ! 防毒面を外させるな!」

 

 だが、遅かった。抑えつける(いとま)もなく、ジークムントは苦しさのあまり防毒面を自分で引き剥がしてしまった。

 

 数回の瞬きを挟んでから、ジークムントは大量に吐血した。その次に、彼の眼球がどろりと溶けて、眼窩(がんか)から零れ落ちた。歯は砂糖菓子のようにボロボロと崩れた。最後に、彼は溶けた内臓を二つ三つ吐き出した。

 

 兵士たちは悲鳴を上げた。

 

「ひでぇ……! ジークムントが……!」

「ジークムントが、溶けちまった」

 

 カレルもまた、今や溶解してピンクのムース状になってしまった戦友を、呆然と見つめていた。だが、彼の心中を満たしていたのは、他の兵士たちとは違った種類の恐怖だった。

 

 彼は背中の背嚢を探った。彼は固い手触りを布越しに感じた。

 

 また、この本の「予言」が当たった。やはりこの黒い本は、死を予言している。彼は身震いした。

 

 

☆☆☆

 

 

『カトリーヌはご機嫌ナナメでした。にっくき隊長とその部下の大半、それにトマーシュは死にましたが、自分を(はずかし)めたあのジークムントはまだのうのうと生きています』

 

『どうやって、あのジークムントを殺してやろうかしら? 空を飛び、戦場のあちこちを見て回って、カトリーヌはとても面白そうなものを見つけました。フランク軍の魔法兵器、フランボワーズ・ガスです。これを使って、あの卑劣漢のジークムントをできるだけ(むご)たらしく殺してやりましょう!』

 

『カトリーヌはちょいと杖を振るって、ジークムントの防毒面に細工をしました。見かけには何も問題はないですが、これを被ったら最後、息が詰まって、息が詰まって……最終的に、美味しそうなピンクのクリームの出来上がり! カトリーヌは舌なめずりをします。ああ、それは復讐の女神ティーシポネー様への最高のお供え物になるでしょう……』

 

 

☆☆☆

 

 

 カレルがその本を手に入れたのは、半年ほど前のことだった。

 

 貨車に家畜のように詰め込まれ、遠く祖国を離れて戦線に送り込まれたカレルの部隊は、すぐに前線には行かなかった。彼らはまず「害虫駆除」を命じられた。

 

「ミニーの森の中に、フランクの魔法使い共の隠れ里がある」 連隊本部の作戦参謀が言った。「劣等種を一匹残らず駆除しろ。帝国の国是は分かってるな?」

 

 小隊長がぼそっと言った。

 

「まあ、なんだ。新兵共を殺しに慣れさせておかんとな……」

 

 情報通り、森にその隠れ里はあった。大きな屋敷が一つと、畑と厩舎を備えた農家が十ばかりの、ごく小さな村だった。

 

 小隊長は命令した。

 

「住民を見つけ出して、広場に集合させろ!」

 

 兵たちは、粛々と命令に従った。兵たちは怯える住民の髪を掴んで家から引きずり出し、抵抗する者は銃床で殴りつけ、軍靴で蹴り上げて狩り集めた。逃げ出す者は、容赦なく射殺された。悲鳴と銃声と哄笑が入り混ざった。

 

 カレルが担当したのは、村の中央にある屋敷だった。やや年配の兵隊、トマーシュとジークムントも彼と行動を共にした。

 

 気負いこんで突入したカレル達だったが、屋敷には誰もいなかった。

 

 人はいなくとも、金目のモノはあるかもしれないとトマーシュが言った。ジークムントも煙草を吸いながらそれに頷いた。カレルは、略奪は軍法で禁じられていると反対した。だが、二人は鼻で笑った。トマーシュが馴れ馴れしくカレルの肩に手を置いて言った。

 

「カレル、お前、まだ学生気分のままなのか? これは戦争なんだ。楽しんだもの勝ちさ」

 

 家捜しをする二人と分かれて、カレルは書斎に行き着いた。大きな扉を開くと、壁一面の本棚と大量の書物が視界を圧した。

 

 そこに、一人の少女がいた。少女は椅子に座っていた。

 

 少女は、全身黒ずくめだった。魔女帽子を被り、ローブを身に着けていた。黒い瞳に、黒い髪だった。部屋に乱入してきたカレルに対して何を思っているのか、その美しい顔はまったくの無表情だった。少女はカレルに、じっと視線を向けてきた。

 

 たぶん、いやきっと、これが魔女なのだろう。カレルはぼんやりと思った。赤子の血を啜り、少年の心臓を邪神に捧げ、毒薬を調合するという、忌まわしい劣等種なのだろう……

 

 突然、声が響いた。

 

「魔女じゃねぇか! 捕まえろ!」

 

 いつの間にか、カレルの背後にトマーシュとジークムントがいた。二人は即座に少女に駆け寄ると、乱暴に腕を掴んで捻り上げた。

 

「来いっ!」

 

 少女は不快げに顔を歪めた。しかし、声は一言も発さなかった。

 

 ジークムントは少女の体をまさぐるように撫で回した。彼は言った。

 

「コイツ、見た目によらず、結構肉付きが良いぜ。なあ、ここでいっちょ楽しむってのはどうだ?」

 

 トマーシュが(たしな)めるように言った。

 

「それはやめとけ。コイツら、変な菌だか毒だか持ってるって話だ。突っ込んだら先っぽが腐っちまうかもしれねぇぞ。さっさと広場に連れて行こう」

 

 カレルはそれを見て不愉快に思った。だが、彼には何もできなかった。彼はただ付いて行くだけだった。

 

 すでに村の広場には住人が集められていた。住民たちは穴を掘らされていた。深い穴だった。兵隊たちがそれを囲んでおしゃべりをしていた。黒ずくめの少女が連れてこられると、どよめきが起こった。

 

 カレルたちを一瞥してから、小隊長は言った。

 

「おお、いかにも魔女って感じのする奴を連れてきたな。でかしたぞ。一匹も魔法使いがいないんじゃつまらんと思っていたが……これで上にちょっとは良い報告ができるってもんだ……さて」

 

 小隊長は住民たちを立たせると、穴の前に一列に並ばせた。兵隊たちが銃を構えた。日の光を浴びて、銃口が鈍く光っていた。

 

 小隊長はカレルに目を向けると、言った。

 

「カレル、お前はこの魔女だ。ちっとは殺しの味を覚えて、娑婆(しゃば)っ気を抜かないとな」

 

 カレルは、動揺した。こんな女の子を撃たなければならないのか? こんな、妹みたいに幼い子どもを? 彼の心臓が早鐘を打った。照準がどうしても定まらない。

 

 彼が躊躇っている数秒の間に、小隊長は腕を振り下ろしていた。銃声が連続し、住人はバタバタと倒れて、深い穴へ次々と落ちていった。

 

 しかし、カレルには撃てなかった。少女は未だに無傷で立っていた。少女はぼんやりと彼を見つめていた。奇妙なほどに澄んだ、雲ひとつない冬の夜空のような黒い瞳だった。

 

 僕には、撃てない。カレルは銃を下ろしかけた。

 

 カレルの隣で、声がした。

 

「まったく、しかたのねえ奴だなぁ」 

 

 パンッと、軽い銃声が響いた。少女は地面にくずおれた。はっとしてカレルが見ると、そこにはトマーシュが立っていた。その手には拳銃があった。銃口からひとすじの白い煙が上がっていた。

 

 トマーシュは蔑むように言った。

 

「劣等種の一匹も殺せねえんじゃ、これから先が思いやられるぜ」

 

 それを見届けると、小隊長が声を張り上げた。

 

「よし、家に火をかけろ! カレル、お前はその魔女を埋めろ! 殺しはできなくても、それくらいはできるだろ!」

 

 兵隊たちは散っていった。カレルは、ふらふらと少女の死体に近寄った。

 

 これ以上命令に背くわけにはいかない。それに、せめて弔いくらいはしてやらないと……

 

 カレルは死体に手をかけた。彼は少女の死に顔を直視できなかった。顔を背けつつ死体の上半身を起こすと、ローブの下から何かが落ちた。

 

 彼はそれを手に取った。それは、一冊の本だった。光沢のある黒革で装丁された、厚みのある本だった。カレルは何とはなしに、その本を背嚢に入れた。

 

 半時間後、隠れ里は炎に包まれていた。煙が踊り、火の粉が舞っていた。整然とした軍靴の響きは冷たかった。弔歌を歌うように、雲雀(ひばり)が鳴いていた。

 

 

☆☆☆ 

 

 

 それから数週間が経った。いよいよカレルの部隊も陣地に入った。古参兵の話によると、どうやら突撃が近いようだった。手榴弾と小銃の弾薬と、特別な高栄養食のエダメルチーズが配布された。兵隊たちは死の予感におののき、口数が少なくなった。兵隊たちはやたらと煙草を吸った。煙が塹壕に充満した。

 

 どろどろという遠雷のような砲声が響く空の下、カレルは一人、円匙(えんぴ)(ふち)をやすりで研いでいた。古参兵からそのようにしろと彼は言われたのだった。

 

 その時、ふと彼は、背嚢に重みを感じた。中身を探ると、手に吸い付くようにして、あるものが出てきた。

 

 それは、あの黒い本だった。風もないのに、パラパラとひとりでに(ページ)(めく)られていった。

 

 何も書かれていない白い頁が開かれた。そこに、文字が浮かび上がってきた。文字は連なり、文章となった。文章はフランク語で書かれていた。もともと学生だったカレルは、それを読むことができた。

 

 文章は述べていた。

 

『カトリーヌは怒っていました。みんなを虐殺し、村を焼き、自分を撃ったあの兵隊たちに、なんとか復讐してやろうと思いました』

 

『肉体を失い魂だけになっても、魔女の力が失われたわけではありません。戦場の上空を彷徨っていると、ついにあの兵隊たちを見つけました。あの口髭を伸ばした隊長も、自分の清らかな体をいやらしい手つきで撫で回したジークムントも、自分を撃ち殺したトマーシュも、見つけ出すことができました』

 

『よーし、まずはあの隊長を殺してやろうっと! 復讐の女神ティーシポネー様、どうか私に力をお貸しください! カトリーヌは杖を振るいます。まずはフランク王国軍の兵士の頭の中へ、予感を吹き込みました。兵士たちは帝国軍の奴らの突撃が近いことを知りました。兵士たちは杖を磨き、機関銃を整備して、待ち構えました』

 

『次にカトリーヌは、地雷を埋めました。ちょうど両足を吹き飛ばすような、でも即死はしないような威力の、特別な地雷です。それを踏んだ奴は、きっと痛みに泣き叫ぶことでしょう。死ぬまで苦しんで、苦しんで、苦しみながら死んでいくのです』

 

『ああ、ティーシポネー様! きっと私は、あの連中を皆殺しにしてみせます!』

 

 そこまでカレルが読むと、バタンと音を立てて本が閉じた。カレルの意識は現実に引き戻された。彼はもう一度それを読もうとした。だが、頁は閉じた貝のようにぴったりとくっついていて、どうしても開くことはできなかった。

 

 その次の日、いよいよ突撃命令が下された。耳障りな金属音を発する号笛(ごうてき)が吹き鳴らされると、兵隊たちはぞろぞろと塹壕を出て、敵陣へ目掛けて駆け足を始めた。

 

 敵は一発も撃ってこなかった。もしかしたら成功するかもしれない……だが、カレルはその甘い考えを打ち消した。あの黒い本の文章が彼の頭に蘇った。

 

 あれを読んだ後、彼は一応、仲間たちに相談した。本のことにはいっさい触れず、ただ「敵が突撃を予期しているかも」とだけ彼は言った。

 

 返ってきたのは嘲笑だった。

 

「おい、二等兵カレル殿が参謀総長に昇進したぞ! バカな俺たちに戦術論を教えてくださるってよ!」

「臆病風に吹かれたか? 今からおうちに帰ってママに泣きつくがいいさ」

 

 カレルは押し黙るしかなかった。あの時魔女を撃てなかったせいで、ただでさえカレルは臆病者と蔑まれていた。これ以上何かを言おうものなら部隊に居場所がなくなるのは明白だった。

 

 本の内容は現実となった。

 

 敵陣まで五十メートルの地点で、カレルたちに敵の猛射が降り注いだ。火点の機関銃が一斉に咆え、兵士たちを薙ぎ倒した。地面に伏せてやり過ごそうとすると射撃魔法で狙撃され、砲撃痕に逃げ込むと手榴弾が投げ込まれた。

 

 間をおかず、この殺戮劇に砲兵と火力魔法が加わった。誰かが退却だと叫んだ。一人として敵陣に到達したものはいなかった。

 

 カレルはなんとか生き残ったが、部隊の大半は帰ってこなかった。そして、小隊長も戻ってこなかった。だが、兵士たちはそんなことは気にしなかった。敵の逆襲に備えなければならなかった。

 

 敵の反攻突撃を阻止したその夜、誰かが苛立たしげに言った。

 

「なんだ、あの呻き声は。うるさいったらありゃしねぇ」

 

 その言葉のとおり、どこかから呻き声が聞こえていた。神経に障る呻きだった。誰かが言った。

 

「きっと、中間地帯に取り残された負傷者だろう」

 

 誰かが唾を吐いてから言った。

 

「なんだよ馬鹿が、死ぬこともできねぇのか」

 

 一晩中、その断末魔の呻きは続いた。明け方になると声は止んだが、その頃になるともはや誰もそれを気にしていなかった。

 

 数日後、呻き声の主が判明した。それは、小隊長だった。斥候兵が回収してきた死体には、両足がなかった。

 

「どうやら小隊長は地雷にやられたな。かなり苦しんだようだ」

 

 死体は凄まじい形相を浮かべていた。その右手には何かが握り締められていた。それは家族の写真だった。小隊長、妻、ひとりの娘にひとりの息子……家族はぐちゃぐちゃに潰れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 部隊が半壊したことも、小隊長が戦死したことも、新兵のカレルにとっては衝撃的な事件だった。だが、戦争全般から見るとまったく大したことではなかった。機械の部品を交換し、油を差し、燃料を補給するように、部隊には新しい隊長が着任し、兵隊が補充され、兵器が配布された。

 

 戦況は完全に膠着(こうちゃく)していた。果てしない砲撃の応酬、突撃と逆撃、後退と再進出……空しく擦り減らされ消耗していく人命と、帝国の奥地から続々送り込まれる新しい血と肉。戦場はミキサーとなって、赤黒く生臭い肉汁を生産し続けた。

 

 カレルは、いつの間にか新兵ではなくなっていた。見知った兵隊はもう幾人もいなかった。あれから彼は何回も突撃に参加した。殺した数よりも、殺された数の方が多いように彼には感じられた。泥水に浸り、ドブネズミを退治し、(うじ)(はえ)を追い払い、砲撃に耐え、新兵に塹壕戦の作法を教えながら、彼は毎日をやり過ごした。三ヶ月も経っていないのに、彼には数世紀が経過したように思われた。

 

 あの村での出来事も、黒い本のことも、カレルは忘れつつあった。

 

 トマーシュとジークムントは数少ない生き残りだった。三人はいつしか戦友という絆で結ばれていた。ある日、トマーシュが言った。

 

「休暇が取れることになったんだよ。それから、配置換えだ。申請が通って、俺はこれから飛行機に乗ることになったよ。今度から俺は飛行士様だ」

 

 カレルとジークムントは我がことのように喜び、そしてやっかみの言葉を浴びせた。三人は隠し持っていた火酒と食料庫から盗み出した缶詰で、ささやかな祝宴を張った。

 

 その晩のことだった。半地下式の掩蔽壕(えんぺいごう)の中で、カレルが蚤とシラミだらけの毛布を被って寝ようとすると、背嚢の中で何かが動く気配がした。どうせネズミが入り込んだのだろうと彼が手を伸ばすと、何かが転がり出てきた。

 

 それはあの黒い本だった。あの時と同じように、ひとりでに頁が捲られ、文章が綴られていった。息を呑んで、カレルはそれを見つめていた。

 

『カトリーヌは満足していました。村を襲ったあのにっくきチェスカ人の部隊は今やごく僅かになり、生き残りは十人に満たないほどです。毎日戦場の空で杖を振るい、呪いの言葉を撒き散らした甲斐があったのでしょう』

 

『ですが、カトリーヌは先ほど聞き捨てならないことを耳にしました。なんと、あの自分を撃ったトマーシュが戦線を離れて、故郷に帰るというではありませんか!』

 

『ああ、ティーシポネー様! カトリーヌは涙を流してお祈りをします。あの卑劣なる殺人者トマーシュを、生かしてこの戦場から逃して良いものでしょうか? そんなことが許されるわけはありません!』

 

『カトリーヌは杖を振るって呪文を呟くと、フランク軍の砲兵にインスピレーションを与えました。彼らが発射する砲弾は奇跡的な角度で撃ち出され、奇跡的なタイミングで起爆し、奇跡的な確率を引き寄せてトマーシュを殺すでしょう』

 

『後に残るのは、バラバラになったトマーシュの残骸です。きっとティーシポネー様もお喜びになるでしょう。それに、カトリーヌは誓ったのです。きっと私は、あの連中を皆殺しにしてみせますと……』

 

 そこまで読むと、バタンと音を立てて本が閉じた。それと同時に、大爆発の音と凄まじい衝撃がカレルを襲った。

 

 気が付いた時には、カレルは担架に横になっていた。口の中には砂粒が満ちていた。彼が目線を上げると、衛生兵が心配そうな顔をしていた。衛生兵は言った。

 

「敵の重砲が塹壕に直撃したのさ。あんたは生き埋めになっていた。助け出すのに苦労したぞ」

 

 カレルはその言葉を聞いて、棍棒で頭を殴られたような心地がした。次に口から出てきたのは、トマーシュがどうなったのかという問いかけだった。

 

 衛生兵は答えた。

 

「トマーシュか? 可哀相にやっこさん、明日にはここを離れるってのに、でかい破片にやられて上半身と下半身が泣き分かれさ。それでも即死できなかったみたいで、俺が駆けつけた時にはまだ息があった。目をきょときょとさせてたよ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 トマーシュが死んだ一週間後に、ジークムントがフランボワーズ・ガスで溶けた。それから部隊はまた戦闘を何回か繰り返した。ついに、着陣以来の生存者はカレルだけになってしまった。

 

 四人目の小隊長は、気の毒そうな顔をしてカレルに言った。

 

「どうだ、カレル。ここらでひとつ休暇をとって故郷に帰るってのは? お前もだいぶ苦労を重ねたことだし、大隊長もカレルのような古参兵は後方に返して、新兵の教育に当たらせるほうが良いと言ってる。お前だってひさしぶりに母ちゃんに会いたいだろう……」

 

 カレルはそれを拒絶した。彼は虚勢を張って、ここで一人部隊を離れるのは帝国の軍人精神に(もと)ると、ことさら胸を張って述べ立てた。しかしその実、彼の心中は恐怖におののいていた。

 

 ここで逃げてみろ。トマーシュのように、俺は絶対にカトリーヌに殺される!

 

 彼は戦場に留まり続けた。不思議なことにジークムントが死んで以降、黒い本は背嚢の中で沈黙を続けていた。その静けさがなにより雄弁な魔女の殺害予告のように思われて、カレルの心はいつも恐慌一歩手前にまで追い込まれていた。

 

 彼は何回も本を捨てようとした。焚き火に放り込んだこともあったし、手榴弾を括り付けて爆破したこともあったし、銃で撃ったり銃剣で切り裂こうとしたこともあった。

 

 本はまったく傷つかなかった。どこかに放置してきても、いつの間にか本はカレルの背嚢に戻って来ていた。そのうち彼は、本を捨てることを諦めた。

 

 黒い本の無言の圧力を受け続けて、彼の精神は明確に変化した。少女を殺すのを躊躇っていた素朴で純真な性格は押し潰され、凶暴で残忍な、あたかも飛行機や戦車や毒ガスといった近代兵器のような、完全なる戦闘機械として、彼の精神は生まれ変わった。

 

 カレルは先頭に立って数多くの突撃に参加し、かつ生き残った。彼は泥と蛆と死肉に塗れながら、無数の敵を殺し幾つもの火点を潰した。下士官に昇進し、受勲を重ね、いつしか彼は生ける伝説として語られるようになった。彼は帝国の英雄になった。

 

 

☆☆☆

 

 

 従軍してから一年が経った。カレルは一人、手に余るほど大きな勲章をそっと撫でていた。それは帝国の最高の勲章、ブラウアー・マックスだった。数時間前、前線視察に赴いた皇帝(カイザー)から手ずから授けられたものだった。

 

「朕は汝を帝国の誇りと思うぞ」

 

 カレルは、久しぶりに気分が安らぐのを感じた。一年前、祖国のためと思って学校を飛び出して黒い軍服に身を包み、重い銃を手に取ったのは間違いではなかった。戦友は一人も残っていないが、その亡き戦友たちが自分をここまで生かしてくれたのではないかと思える。黒い本はもう何も語らない。きっと、あの魔女も諦めたのだろう……

 

 バタンと音がした。カレルが目を上げると、そこには黒い本があった。ひとりでに頁が捲られ、文章が綴られていく。

 

『カトリーヌはこの半年間、とても辛抱していました。最初はもっと早く、最後の生き残りのカレルを殺そうと思ったのです。しかし、呪いをかけようと杖を振ろうとするたびに、ティーシポネー様がそれを止めるのです。女神様は、その理由までは教えてくれませんでした』

 

『でも今日になって、ようやくカトリーヌには分かったのです。女神様は、カレルが素晴らしい捧げ物になるのを待っていたのだと。カレルが単なる一兵卒ではなくなって、殺すのに価値ある存在になるのを待っていたのだと』

 

『カトリーヌはさきほど、カレルが帝国で最高の名誉に輝いたのを目撃しました。カレルはもう疑いようのないほどの、光輝と血飛沫に彩られた英雄です』

 

『そんなカレルを殺せば、ティーシポネー様はどれほどお喜びになるでしょう! それに、自分と村のみんなが死んでから、ちょうど今日で一年になります。カレルの断末魔の悲鳴を、私たちの追悼ミサで奏でる聖歌にしよう! それは素晴らしい思いつきだと、カトリーヌは喜びました』

 

『カトリーヌは杖を振るいます。フランク王国の一兵士にインスピレーションを与え、彼を大陸一の狙撃兵に仕立てあげました。兵士は今、呼吸を整えてカレルに照準しています。そら、今です! 絶好のタイミング……』




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「魔女はティーシポネーに誓った」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第89回「一冊の本」に応募した作品です。2018年11月30日公開。

 キャッチコピーは「黒い本は、女神へ高らかに復讐の詩を謳いあげる」

 オリジナル6作品目。オリジナル短編のキモは、どれだけ緻密にプロットを組み立てられているかということにあると、この頃になってようやく気付きました。個人的にはやりたい放題やった作品です。「一冊の本」というテーマをもう少し掘り下げておくべきだったという反省点があります。

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/27/火)

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