ラインの娘   作:ほいれんで・くー

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 一九四四年末、祖国の退勢は覆うべくもなかった。戦線は各所で破られ、軍と師団は各地で敗北を重ねていた。空には敵の爆撃機が乱舞し、海には敵の艦隊が満ちていた。国民生活は圧迫され、日々のパンと肉にも、燃料にも、医薬品にも事欠くようになっていた。

 何事にも暗い見通ししか立たなかった。当時の私はまだ幼かったから、祖国の現状も行く末も、まるで分からなかった。それでも、父母の暗い顔から状況の深刻さは分かった。父母の感じている辛さは私に伝染した。

 それでも、夢の世界だけは違った。そこには、乳色の眠りのベールに覆われた、黄金の夢が煌びやかな光を放っていた。

 そう、ただ眠りだけが、私の唯一の楽しみだった……


09. ヒュプノスに抱かれて

 目が覚めると、そこにはお姉さんがいた。

 

「あっ、起きた」

 

 僕はベッドに横になっていた。僕を見て、お姉さんはにっこりと笑った。彼女は美しく澄んだ声に喜びの色を重ねて挨拶をした。

 

「おはよう。よく眠れたかしら?」

 

 なんだか、何もかもがぼんやりとしていて、意識がはっきりしない。でも、挨拶をされたんだから、返事をしないと……僕はしどろもどろに答えた。

 

「……おはよう……ございます。でも、えっと、ごめんなさい。お姉さんはだれですか?」

 

 お姉さんは腰掛けていた椅子からすっくと立ち上がった。ドレスの深いスリットから細くて白い綺麗な足が見えた。僕は思わず目を逸らした。

 

 それをどう思ったのか、お姉さんは少しムッとした表情を浮かべた。彼女は僕が横になっているベッドの傍らにそっと歩み寄った。

 

 不満げな表情を隠さないで、お姉さんは人差し指で僕の胸をぐりぐりと抑えながら言った。

 

「もう……私達、これまでに何回も会ってるのに、あなたはちっとも私の名前を覚えてくれないのね」

 

 何回も会っている? 僕が? この人と? そんな気がするような、しないような……でも、お姉さんが嘘をついているようには思えなかった。僕は言った。

 

「あ、あの、ごめんなさい……」

 

 お姉さんは、そこでふっと笑った。その笑顔は、春の陽射しのように明るかった。ああ、そうかもしれない。たしかに、この笑顔は前に見た気もする……

 

 お姉さんは言った。

 

「まあ、いいわ。あなたが覚えてくれるまで、何度でも教えてあげる。私の名前はヒュプノス。あなたのお友達の、ヒュプノスよ」

 

 僕はお姉さんの言葉を繰り返した。……ヒュプノス。ヒュプノス。そう、そうだった! 僕はもう一度よく彼女を見てみた。豊かな長い金髪、ルビーのように真っ赤な瞳、ふっくらとした大きな胸……純白の絹のドレスを着て、金色の後光を背負ったお姉さんは、間違いなくヒュプノスだ。

 

 僕は頭を掻いた。どうしてすぐに名前が思い浮かばなかったんだろう? 僕は言った。

 

「ヒュプノス……そうだ、そうだった。ごめんね、覚えてなくて」

 

 僕のすぐそばに腰掛けたヒュプノスは、穏やかな笑みを浮かべて、僕の頭を優しく撫でた。

 

「ううん、謝らないで。私のほうが悪かったのよ。名前を覚えるなんて、そんな無理なことを言っちゃって……ここで過ごした記憶は一度『リセット』されるから、あなたにはどうしようもないことなのにね……」

 

 リセット? 何を言っているのだろう? その時、彼女からうっすらと香水の良い香りが漂ってきた。ああ、そうだった。僕はこの香りも大好きだった。

 

 それにしても、ここは何処(どこ)だったっけ? 僕は周囲を見回した。空は雲一つない快晴だった。僕たち二人は開けた草地にいた。ベッドの周りには良く手入れされた生垣と、背の低い木が数本立っていた。

 

 ヒュプノスが撫でるのをやめて、微笑みながら僕に尋ねた。

 

「ところで、今日は何をしようか? なんでもあなたの好きなことをしていいのよ。お茶を飲んだり、お喋りをしたり、本を読んだり……もちろん、前の続きでも良いのよ」

 

 何をしようかな……そういえば、ヒュプノスとは前に何をしていたっけ? 頭はまだぼんやりとしていて、まるで乳白色の靄がかかっているみたいだった。

 

 ポリポリと頭を掻きながら、返事にならない声を僕は漏らした。

 

「えっと、えっと」

 

 そんなはっきりしない僕を、ヒュプノスは微笑みながら辛抱強く待っていてくれた。僕は言った。

 

「そう……そうだ。空中散歩、空中散歩だよ。ヒュプノスに、えっと、その、抱っこ、してもらって……空を自由に飛びたい」

 

 バサッと、羽ばたく音がした。見ると、ヒュプノスの背中に白鳥みたいな大きな翼が広がっていた。彼女は言った。

 

「ふふ、やっぱりそう言うと思ったわ。あなた、空を飛ぶのが大好きだものね。さあ、おいで……」

 

 僕はヒュプノスに正面から抱きついた。彼女の大きな胸が僕の顔に当たった。僕はとても恥ずかしい気持ちになった。

 

 ヒュプノスが悪戯っ子のようにニヤリと口の端を歪めて、僕をからかった。

 

「なあに? いまさら照れてるの? もう何回もしてきたことじゃない」

 

 僕の心臓はドキドキと力強い響きを立てていた。顔は、きっとリンゴのように真っ赤になってるだろう。何回もしてきたとヒュプノスは言うけれど、女の子を抱きしめるのに慣れるなんてことがあるのかな。僕はそう思った。

 

 ヒュプノスは言った。

 

「今日は前よりももっと高いところへ飛びましょう。さあ、行くわよ!」

 

 二、三回地上で羽ばたくと、その後は一気に加速して、上空までヒュプノスは飛び上がった。轟々と風を切る音が僕の耳を貫いた。下界はどんどん遠ざかって、僕が寝ていたベッドも見る見るうちに小さくなっていった。

 

「あっ……」

 

 僕は寒さを覚えた。それも当然だった。空の上は常に気流が渦巻いていて気圧も低い。前に本でそんなことを読んだ気がする。僕は薄手の寝巻きしか着ていなかった。

 

 ヒュプノスは、僕が寒がっていることにすぐ気づいてくれた。

 

「あら? 可哀想に、寒いのね。震えているわ……ちょっと待ってて」

 

 彼女は胸元から金属の光沢を放つ小さなプレートを取り出した。プレートの表面はガラスで出来ているようだった。彼女はそれを指先でなぞり、次にそれに向かって「ハロー?」と話しかけ始めた。いったい何をしているんだろう? 僕がそう思っている間にも、ヒュプノスは話し続けていた。

 

「ハロー、ハロー? オネイロス? いつも悪いわね。大至急、この子に服をあげて。そう、とってもあったかいやつよ」

 

 驚いたことに、小さなプレートから、ヒュプノスではない、誰か別の女の人の声が聞こえてきた。

 

「了解でーす、ちょっと待っててー」

 

 緊張感のない、のんびりとした口調だった。また声が聞こえた。

 

「はい、準備できました。そんじゃ、防寒着いっちょう入りまーす。ポチッとなー」

 

 突然、体があたたかくなった。僕の服はいつの間にか、ふわふわのファーがついた革の防寒着になっていた。真っ白なウサギの毛皮で出来た防寒頭巾も被っていた。

 

 ヒュプノスが満足げに言った。

 

「寒い思いをさせちゃって、ごめんね。今度からは防寒着を用意してから空を飛びましょうね」

 

 僕は彼女にお礼を言った。

 

「ありがとう、ヒュプノス」

 

 それから僕とヒュプノスは二人っきりで、空中散歩を目一杯楽しんだ。下界に広がる光景について、彼女はとても丁寧に教えてくれた。

 

「あの海に浮かぶ緑の島々が『浄福なる島々』よ。賢くて正しい人たちが住んでる所。それから、あの山が『高く白い山』 あの(ふもと)剽悍(ひょうかん)にして勇敢なカウカソスの民が住んでるわ。それから……」

 

 空を飛ぶのはとても気持ちが良い。顔に当たる大気の冷たさも、ひゅうひゅうという風の音も、足がブラブラとして何となく心もとないのも、全部好きだ。

 

 何より、ヒュプノスと一緒なのが好きだ。彼女が羽ばたく音も、彼女の温もりも、彼女の良い香りも、彼女の柔らかな胸と腕も、すべてが僕を優しく包み込んで、僕を幸せな気持ちにしてくれる。

 

 僕は思わず呟いた。

 

「まるで、夢みたい……」

 

 僕の独り言が聞こえたのか、ヒュプノスの腕の力が強くなるのを感じた。

 

「夢……そうね、本当に夢みたいね」

 

 彼女のどこか寂しげな声を聞いて、僕の胸がチクリと痛んだ。それを誤魔化すように、僕は彼方(かなた)を指さしてヒュプノスに尋ねた。

 

「ねぇ、ヒュプノス。なんで、あの方角は真っ暗なの?」

 

 そこは、濃い闇に閉ざされていた。僕たちが飛んでいるこのあたりはいつも晴れていて、太陽は黄金色の輝きを振りまいているのに、そこだけは真っ黒な暗幕が張り巡らされているようだった。

 

 ヒュプノスがハッと息を呑む音が聞こえた。彼女が慌てたように言った。

 

「あそこはダメ! 見てもダメだし、私に質問するのもダメよ! さあ、別の場所へ行きましょう!」

 

 それでも、僕は言った。

 

「えっ、で、でも……」

 

 なぜか、僕はどうしてもあそこがどういう場所か知りたかった。というより、なんだかあの場所に呼ばれているような気がした。そう呼びかける声もないし、手招きしている人影もないけど、僕の心はなんだかあの場所に惹きつけられて離れられないのだった。

 

 僕はなおも言った。

 

「ごめんねヒュプノス。僕、どうしてもあの場所が気になるんだ。ねぇ、ちょっとだけで良いから、あそこに行ってくれない?」

 

 ヒュプノスは明らかに狼狽えた。僕がそこまで執着するのに驚いたのだろうか? 彼女は言った。

 

「そんな!? ダメよ! 絶対にダメ!」

 

 僕は食い下がった。

 

「で、でも、なんでも好きなことをして良いって……」

 

 自分でも、なぜここまで粘るのか分からなかった。ヒュプノスは困っていた。

 

「そっ、それは……」

 

 結局、僕は嫌がるヒュプノスに何度もお願いをして、あの場所に連れて行ってもらうことになった。それでもそれは、境界線ぎりぎりのところまで、という条件付きだったけれども。

 

 ごうごうと、風を切る音だけが聞こえた。真っ暗な世界が目の前に迫ってきた。そろそろ到着だ。ヒュプノスは黙って飛んでいた。僕は急に彼女に謝りたくなった。

 

「ごめんなさい、ヒュプノス。本当はダメなのに、僕、ワガママを言っちゃって……」

 

 ヒュプノスは笑って答えてくれた。

 

「ううん、良いのよ。あなたが望んだことなんだから。それに、もう仕方のないことなのかもしれないわ。あなたがあそこに興味があるということは、それはつまり、あなたに残された時間がもう……」

 

 そこまで言ってから彼女は突然黙り込み、言葉が途切れてしまった。僕は言った。

 

「どうしたの? 大丈夫? ヒュプノス?」

 

 僕の声に、ヒュプノスは気を取り直したように答えた。

 

「ううん、なんでもないわ。さあ、ここが『夜の国』よ」

 

 そこは、やっぱり一面の闇に覆われていた。うっすらと透けて見えるのは、背の高い、先の尖った針葉樹の森だった。それ以外は何もなかった。

 

 本当に、「夜の国」には樹木以外は何もなかった。せっかくワガママを言って連れてきてもらったのに……僕はちょっとがっかりしてしまった。でも、なぜか見るのをやめることができなかった。まるで、何かに引き寄せられているような、そんな気がした。

 

 しばらく眺めていると、森の中に、何か二つの光るものが見えた。それは赤かった。紅い宝石みたいだった。そう、ヒュプノスの瞳と同じように、それは光っていた。

 

 それと、僕の目が合った。そんな気がした。僕の背筋に悪寒が走った。僕はヒュプノスに尋ねた。

 

「ねぇ、ヒュプノス。あの紅い光は何?」

 

 僕の言葉が終わる前に、突然、ヒュプノスは宙返りを打った。そして、正反対に方角を変えると「夜の国」に背を向けて、今までにないくらいの猛スピードで飛び始めた。

 

 目まぐるしく景色が回転した。どうしてその場から逃げ始めたのか、僕は彼女に訊こうとした。

 

「ヒュプノス、どうし……ムグッ!?」

 

 でも、手のひらで口を塞がれてしまった。

 

「しっ! 静かに! 黙って! 今は口を開いてはダメ!」

 

 ヒュプノスの声は、緊迫感に満ちていた。まるで何かを怖れているような、敵に追われているような……そんな彼女の思いが伝わってきた。

 

 僕たちは、全速力でベッドのところまで戻った。ヒュプノスは僕をベッドに寝かせると、優しく(ひたい)を撫でながら言った。

 

「ごめんなさい、さっきはびっくりしたでしょう。でも、あなたのためだったのよ。さあ、もう寝なさい」

 

 その口調にはまだ緊張感が残っていた。僕はなんだか不安になった。

 

「う、うん……ヒュプノスがそう言うなら、僕、寝るね」

 

 僕の心臓はまだドキドキしていた。あんなに激しい飛行は初めてだったからというのもあるけれど、それより、いつも落ち着いているヒュプノスがこんなにも取り乱しているのを初めて見たからかもしれなかった。

 

 目を(つむ)って、僕は寝ようとした。でも、なかなか眠れなかった。そんな僕の様子を見て、ヒュプノスはやっと緊張を解いて、微笑みながら言った。

 

「眠れないの? それじゃあ、子守歌を歌ってあげるわ」

 

 すぐに、綺麗な歌声が聞こえてきた。歌は異国の、聞いたこともない言葉だった。でも、どこか懐かしかった。

 

 なかなか眠れない時、ヒュプノスはいつも子守唄を歌ってくれる。いつも? 僕は前にこの歌を聞いたっけ? でも、たしかにそうだ。歌詞は分からないけど、どこか悲しげで、どこかあたたかい、そんな歌。そんな歌をヒュプノスはいつも歌ってくれる。僕はそれを聞くと、いつもすぐに寝てしまう。

 

 とろとろと眠りに落ちる寸前になって、僕はなんとか言葉を振り絞った。

 

「……ヒュプノス……また、遊ぼうね……」

 

 (ひたい)に、何か柔らかい感触がした。ヒュプノスの声がした。

 

「もちろんよ。また遊びましょうね」

 

 次第に僕は、暗く静かな眠りの世界へと落ちて行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 遠くから、でも近くから、声が聞こえてきた。激しく言い争っていて、でも、泣き出しそうな声だった。それは男の人と女の人の声で、とても聞き覚えのある声だった。

 

「……そんな! じゃあ、この子はもう助からないって言うの!? あなたはそれで諦めるって言うの……!?」

「……しかし、医師が言うにはもってあと二日だと言うじゃないか。最近は党員でなければ病院にも入れない、薬だって貰えない。私達だって、やるべきことはすべてやった。それに君だって、薄々覚悟はしていたんじゃないのか……?」

「……いいえ、いいえ! 私は諦めないわ! この子を諦めるなんて、そんなことは絶対にできない! 親がそう信じなければ、どうしてこの子が助かるというのよ! あなたこそ諦めないで、どうか一緒に祈って……!」

「……祈り……祈りか。今は本当に、祈るしかないのか……?」

 

 僕の意識は、また暗黒の世界へと潜っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 目が覚めると、そこにはお姉さんがいた。僕を見て、お姉さんはにっこりと笑った。彼女は美しく澄んだ声に喜びの色を重ねて挨拶をした。

 

「おはよう。よく眠れたかしら?」

 

 それからは、また名前の確認をした。そう、やっぱり彼女の名前はヒュプノスだ。僕といつも一緒にいてくれるヒュプノス、楽しい遊びをいっぱい教えてくれるヒュプノス、僕の大好きな空へと連れていってくれるヒュプノス……

 

 でも、しばらく空には連れていけないのだと、彼女は申し訳なさそうな顔をして言った。

 

「ごめんね。少し翼の調子が悪いの」

 

 だから、僕たちはベッドの周りでできる遊びをした。僕がチェスをやりたいと言ったら、ヒュプノスは胸元から金属製のプレートを取り出して、その表面を指先でちょんちょんとつついて、それから耳に当てて話し始めた。

 

「ハロー、オネイロス? 今すぐチェスがやりたいんだけど。そう、十八世紀頃の上等なやつがいいわ。できれば象牙製のもの。さっそく手配して頂戴」

 

 プレートからどこか能天気な声がした。

 

「はいよー。最高級象牙製チェスセット、いっちょう入りまーす。ポチッとなー」

 

 それから二人で、僕の気の済むまでチェスを楽しんだ。そのあと、お茶を飲むことにした。僕は結局、ヒュプノスに一回もチェスで勝てなかった。学校では誰にも負けたことがないんだけど……あれ? 学校ってなんだっけ?

 

 そんな僕の疑問をよそに、ヒュプノスはまた例の金属のプレートを取り出していた。

 

「オネイロス? たびたびで悪いけど、今度はティーセットを……って、あら? そういえば、あなたはコーヒーが好きだったわね。オネイロス、コーヒーを飲みたいから用意して頂戴」

 

 プレートが答えた。

 

「はいよー。最高級コーヒーセットいっちょう入りまーす。ポチッとなー。それにしても、アツアツですなー。あ、コーヒーじゃなくて、あんたらのことですよ」

 

 僕はヒュプノスに頼んで、コーヒーミルで豆を挽くのをやらせてもらった。ハンドルの取っ手は、僕の顔が映り込むほどに磨き抜かれた純銀製だった。ミルはちょっと大きくて僕の手には余ったけど、ハンドルは軽くてやりやすかった。それに、ハンドルを回すとヒュプノスの子守歌が流れてくるのがすごく面白くて、心が躍った。

 

 機嫌よくハンドルを回す僕を見て、ヒュプノスが茶化すように言った。

 

「慣れた手つきね。私よりもよっぽど上手いわ。チェスよりも才能があるわね」

 

 僕は言った。

 

「母さんも、僕が挽いたコーヒーは美味しいって。でも、最近は代用コーヒーしかないから……」

 

 ヒュプノスは言った。

 

「そう、お母さんがそう言ったのね」

 

 ヒュプノスの声が、少し翳|(かげ)った気がした。

 

 そういえば、母さんって誰だっけ?

 

 

☆☆☆

 

 

 もう何日が経ったのだろう? ここには昼もないし夜もなかった。時計もないし、教会の鐘楼もなかった。だから、時間の経過は分からなかった。

 

 ヒュプノスの翼はまだ調子が悪いようだった。空は飛べなかったけど、そのかわり二人で色んなところを歩いて巡った。僕たちは広い平原や遠い丘を越えて歩いた。羊たちがどこか遠い目をして草を食んでいるのを眺めたり、小魚が群をなして泳ぐ澄んだ小川で、はしゃぎあったりした。

 

 ヒュプノスは綺麗なドレスが濡れるのも気にせず、僕にバシャバシャと水を掛けてきた。

 

「それっ、それっ! ほら、反撃しないともっと濡れるわよ!」

 

 僕も負けずに反撃した。僕の頭からズボンの裾まで、彼女の頭からドレスの裾まで、水気を吸ってびしょびしょになるまで、僕たちは夢中になって川遊びをした。

 

 やがて、ヒュプノスは言った。

 

「楽しかったわね。さあ、そろそろ岸に上がって、火に当たりましょう」

 

 ヒュプノスのドレスは濡れていて、その下の素肌が透けて見えていた。それを見た僕は恥ずかしくなって、目を背けてしまった。きっと顔が真っ赤になっていただろう。でも、ヒュプノスは何も言わなかった。

 

 火を囲みながら、僕たちはお喋りをした。お喋りが終わると、ヒュプノスは例のプレートの表面をなぞって、一心に見入り始めた。何をしているんだろう? 僕は彼女に言った。

 

「次はどこに行こうか、ヒュプノス?」

 

 ヒュプノスは、まだそのプレートを見ながら答えた。

 

「……そうねぇ。検索によると、山登りがオススメらしいわ。よし、決めた! ねえ、次は山登りにしましょう?」

 

 そんなわけで、僕たちは険しい岩山を制覇することになった。僕は登山なんてしたことがなかったから、登っている最中はヒュプノスの手を借りてばかりいた。

 

 登り始める前に、ヒュプノスはまたオネイロスとかいう人に頼んで、ぴかぴかの素晴らしい登山用具を用意してくれた。

 

「オネイロス、登山用具を一式頂戴。大人用と子供用の二セットよ。杖はアルミ合金製の軽いものをお願いね」

「はいよー、登山用具入りまーす。ポチッとなー。それにしてもあんた、最近爆買いしてますなー。カードの利用限度額、大丈夫か?」

 

 数時間かけて、僕たちは岩山を登り切った。山頂からの下界の眺めは、空からとはまた違った面白さがあった。空を飛ばなくてもこんなに美しい風景を見ることができるなんて、僕は思ってもみなかった。

 

 僕の口から自然と言葉が零れ出た。

 

「綺麗だね……」

 

 ヒュプノスが茶化すように答えた。

 

「あら、それって私のこと? 小さいのにお上手ね……って、ちょっと待って、電話だわ。発信者は……オネイロス? おかしいわね、向こうから電話してくるなんて」

 

 彼女は胸元から取り出したプレートに向かって話し始めた。

 

「もしもし、オネイロス? どうしたの?」

 

 プレートの向こうの声は、相変わらずの口調で言った。

 

「あー、ヒュプノス? あんたの御寝所に来客よー。そう、あなたのよく知ってる、あの人だよ」

 

 その途端、叫ぶような声をヒュプノスはあげた。

 

「なんですって、あいつが? 分かったわ、電話してくれてありがとう!」

 

 そう言うや否や、ヒュプノスは背中から大きな白い翼をバサッと音を立てて広げた。彼女は僕を抱きしめると、突然空へ飛び上がった。

 

 僕はびっくりした。最近、翼の調子が悪いとヒュプノスはよく言っていた。無理をして大変なことになったらどうしよう?

 

「ヒュプノス!? 翼は大丈夫なの!?」

 

 僕がそう訊くと、ヒュプノスは力強く答えた。

 

「ええ、もう大丈夫! 実は最初から翼は絶好調だったんだけど、事情があって嘘をついていたの、ごめんね。ちょっと急ぐから、少し口を閉じてて。舌を噛むといけないから」

 

 

☆☆☆

 

 

 あっという間に今まで時間をかけて歩いてきた道を遡って、僕たちはベッドのところまで戻ってきた。

 

 そこには、お姉さんがいた。お姉さんはコーヒーカップを手に持っていた。そのお姉さんは僕たちを見て、言った。

 

「あら、ヒュプノス、早かったじゃない。それにしても、この最高級のコーヒー、美味しいわね」

 

 僕は驚いた。

 

「あ、あれ!?」

 

 そのお姉さんは、ヒュプノスと双子のようにそっくりだった。金髪も、ルビーの瞳も、ふっくらとした胸も、まるで同じ鋳型から生み出された銅像みたいに、なにもかもが同じだった。

 

 ただ一つ、背中の翼だけが違っていた。そのお姉さんの翼は、烏のように真っ黒だった。

 

 僕は、凍えるような視線の力を感じた。黒い翼のお姉さんが、僕のことをじっと見ていた。お姉さんは言った。

 

「ふうん、その子があなたのお気に入りの坊やね。ふむ……たしかに『私好み』でもあるわ。あの時、森から遠目に見た時からそれは感じていたけれど。まあ、好む好まざるとにかかわらず、私は私の役目を果たすわ」

 

 このお姉さんは、なんだか怖い。体の芯から冷えていくような、心臓を鷲掴みにされるような、言いようのない怖さがある……

 

 僕はヒュプノスを見た。その顔は、見たことがないほどの敵意に満ちていた。ヒュプノスは言った。

 

「タナトス! 『夜の国』からわざわざ出てきて、いったい何の用かしら! ただのコーヒーブレイクなら自分の家でやって頂戴!」

 

 タナトスと呼ばれた黒い翼のお姉さんは、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。そして、ヒュプノスと全く同じ色の瞳で、僕をじっと見つめて言った。

 

「何の用って……それは決まってるじゃない。私はその子を迎えに来たのよ」

 

 僕を迎えに? どうして? 彼女はさらに言った。

 

「ヒュプノス、あなたがその子に情を持ち始めたことは知ってるわ。この『眠りの国』に留め置いて、できるだけその子の寿命を延ばそうとしたわね? オネイロスに頼んで、いっぱい品物を注文してもいた。全部その子のためでしょう? 空を飛ばなかったのも、わざわざ遠くへ散歩に出かけたのも、私の目を(くら)ますため。そうでしょう?」

 

 いったん言葉を切ると、お姉さんはひとくちコーヒーを飲んだ。そして、お姉さんは静かに言った。

 

「でも、私は『タナトス』 その子がどこに行こうと私は絶対に見つけ出すし、絶対に冥界へ連れていくわ。それが私の役目なのだから」

 

 ヒュプノスが叫んだ。それは悲鳴みたいだった。

 

「待って、タナトス! たしかに、死すべき存在たる人間には、あらかじめ定められた命数というものがあるわ。それは、私もよく知ってる! でも、この子はまだこんなにも小さいじゃない! 同じ仕事をするなら、誰か別の人間を連れていきなさい……!」

 

 ヒュプノスが悲痛な表情を浮かべて必死に訴えているのに、タナトスは全然動じていなかった。タナトスは言った。

 

「……これでも、あなたの気持ちを推し量って、私は一日猶予してあげたのよ。私は鉄の心臓と青銅の精神を持つ存在。取ってつけたような理屈も、泣き落としも効かないわ。さあ、その子をこちらに渡しなさい」

 

 そういうとタナトスは椅子から立ち上がって、僕の左腕を掴んだ。彼女の手は、ぞっとするほど冷たかった。

 

 タナトスは僕の目を真っ直ぐに見つめた。その目は(あか)かった。冷たい紅色だった。タナトスは言った。

 

「さあ、おいで坊や。これからあなたは新しい世界へ行くのよ。悩みも苦しみもない、静かで穏やかな世界へあなたは行くの……」

 

 僕は、なぜか抵抗できなかった。タナトスの言葉はすんなりと僕の心に染みわたった。もうあの「夜の国」に、いや、冥界に行くことは避けられないのかな。僕は納得しかけていた。

 

 その時だった。ヒュプノスが言った。

 

「待ちなさい!」

 

 ヒュプノスは何かを掲げていた。それは、あの金属のプレートだった。その表面には、映画が映っていた。映画には全部色がついていた。

 

 映画には、女の人と男の人が映っていた。二人とも跪いてお祈りをしていた。それから、男の子もいた。男の子は横たわっていて、苦しそうな息をしていた。僕は、その三人に見覚えがあった。でも、誰かは分からなかった。

 

 三人がいる部屋は薄暗くて、時々振動していた。天井からバラバラと土塊が落ちていた。遠くから爆発音や、サイレンや、鋭い金属音が聞こえてきた。

 

 ヒュプノスが言った。

 

「見なさい、タナトス! この両親の姿を! 生きようとしているこの子の姿を! あの世界で、この子は、フリードリヒは、今も懸命に戦っているわ! まだ死んでいない!」

 

 タナトスの僕を掴む力が、少し緩んだ。タナトスはヒュプノスの持つプレートに顔を近づけて、まじまじと映画を見つめた。やがて、タナトスは言った。

 

「……たしかに、まだ死んではいないわね。でも、同じことよ。この子はもう。死を受け入れつつある。掴んだ時にそう感じたもの。私が無理に連れていかなくても、この子は自分から冥界へ行く気になっている」

 

 ヒュプノスは涙目になっていた。その手は震えていて、プレートも震えていた。ヒュプノスは言った。

 

「でも最後に、もう一度だけ、この子に選択をさせるのよ! あなたと一緒に行って現世(うつしよ)へ永遠の別れを告げるのか、それとも、私の歌に送られてこの眠りの世界から目が覚めるのか、それをこの子自身に選ばせるのよ!」

 

 はぁ、とタナトスはため息をついた。

 

「自由意志による選択ね……まったく、それを持ち出されると私でもどうしようもないじゃない。いいわ。それなら、この子に選んでもらいましょう」

 

 ヒュプノスの顔が輝いた。彼女は僕に向かって、綺麗な澄んだ声で言った。

 

「さあ、フリードリヒ、選ぶのよ!」

 

 タナトスも僕に向かって、ヒュプノスより少し低い声で語りかけた。

 

「選びなさい。決して取り消すことのできない選択をしなさい。それこそが、あなたたち人間の特権なのだから」

 

 僕は二人に挟まれた。さっきまでは、僕はタナトスと一緒に行く気になっていた。でも今は、心が揺らいでいた。

 

 僕はヒュプノスの泣き出しそうな笑顔を見た。次に、僕はタナトスの無表情の顔を見た。

 

 金属のプレートから声が聞こえてきた。

 

「フリードリヒ、帰っておいで……」

 

 これは、母さんの声だ。その時、はっきりとそう分かった。

 

 そうして、僕は選ぶことにした……

 

 

☆☆☆

 

 

 小さい頃、私は体が弱かった。折しもあの忌まわしい戦争の時代で、薬もなく栄養もなく、私は原因不明の高熱で一週間も生死の境を彷徨った。母と父は、医師が諦めたにもかかわらず、連合軍の爆撃の最中、狭い防空壕の中で懸命に看病し、そして祈り続けたという。

 

 その甲斐があったのか、私は奇跡的に魂をこの世に繋ぎとめることができた。

 

 病床にあった時の記憶はない。だが、不思議なことに、あるイメージだけは私の脳裏に、いやおそらくそれよりもっと深層の、霊魂にこびり付いている。

 

 それは、誰かに優しく抱かれて、広く青い大空を飛んでいくイメージだ。金の髪と、宝石のように赤い目と、白いドレスの美しい女性が、私を抱いている。

 

 夢の世界で目が覚めたらそこには、私を抱いていたその人がいるかもしれない。そう思いながらも、私は、おそらくその人に会うことはあるまいとも思う。

 

 それでかまわない。彼女のことを思い浮かべるだけで、私は眠くなる。彼女こそが、眠りそのものであるかのように。

 

 私は今日も眠る。彼女のイメージを抱きながら……




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「ヒュプノスに抱かれて」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第86回「目が覚めるとそこには……」に応募した作品です。2018年10月16日公開。今回ハーメルンに投稿するにあたり、1800字ほどの加筆、および修正を行いました。

 キャッチコピーは「少年は眠りに抱かれて、覚めない夢の空をゆく」

 オリジナル3作品目。今まで『ハイラル・ドキュメンツ』で回顧録形式には挑戦していましたが、今作では一人称小説に初挑戦しました。なかなか話が組みあがらず、苦労した覚えがあります。

 みんなも大好き(?)なおねショタやぞ! なおほいれんで・くーはおねショタを分かっていない模様。

 言うまでもないことでしょうが、フリードリヒは1944年当時はまだ少年。重い病気になり、医者も匙を投げています。そこで彼はヒュプノスの夢の世界に迷い込みました。ヒュプノスは幼いながらも優しくて気立てが良いフリードリヒに「惚れこみます」。一度夢の世界から覚めてしまうと、記憶はいったん「リセット」されてしまうのですが、ヒュプノスは力を使って何とか記憶の残滓を存続させていたようですね。

元ネタ ヒュプノス 眠りの神
    オネイロス 夢の神
    タナトス  死の神

 次回もお楽しみに。

※加筆修正しました。(2023/06/27/火)

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