「おいお嬢様。とりあえず状況的な判断ってやつでこの、いかにも女を食い散らかしてますって面したナニの先っぽみたいな奴から捕まえたが、まさかこいつがお前の父親って訳じゃないよな?」
レイリアは部屋に突入するや否や、速やかにギルバートの首を掴み上げながら視線を後方へと向けた。その華奢な腕からは想像もできない膂力で締め付けられ、ギルバートが声にもならないうめき声をあげる。
彼女が視線を向けた先、まるで爆薬で吹き飛ばされたかのような大穴から恐る恐る顔を覗かせたリリィは室内の凄惨な光景に顔を真っ青にする。短く息を呑み、やがて部屋の中央で倒れている父の姿を見つけると、とうとう一切の血の気がなくなった顔でその傍へと駆け寄った。
「酷い、どうしてこんな……! お父様、お父様っ!」
その身が血で汚れることすら厭わずに彼を抱き起し、目に大粒の涙を浮かべながら呼びかける。その声は、まるで悲鳴のようであった。
「ああリリィ、無事だったのか……。しかし、あの少女はいったい……?」
以前とは違う、どこか力強さを宿した愛娘の瞳を見上げながら、呻くように辺境伯が呟く。
意識がはっきりしていることに喜び一瞬顔を綻ばせたリリィであったが、次の瞬間にその笑顔は消え失せ、睨みつけるようにレイリアの方へと目をやった。
「お父様、私、“あの場所”に辿り着いたんです……彼女とは、そこで出会いました」
“あの場所”
それが何を指し示すのか。それを理解した辺境伯は目を見開き、いまだギルバートを壁に叩きつけたままの少女へと視線を向けた。それに気づいたレイリアが軽薄そうな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。
「なるほど、アンタが辺境伯か。なかなかいい男じゃねえか、また今度酒でもやろうぜ」
「き、さま、何者だ……! 護衛の連中はなにをやっている!」
レイリアの腕をつかみ、何とか拘束を解こうとあがきながらギルバートが叫ぶ。しかし彼がどれだけ暴れようとも、その首を掴む腕はまるで微動だにしない。
混乱の極みにあるギルバートであったが、リリィにはその足掻き続ける姿がひどく滑稽に見えた。それもそのはず、レイリアはあの巨大な戦斧を片手で振り回すほどの怪力をもっているのだ。その拘束が、常人に振りほどけるはずもない。
「護衛だァ? ああ、無抵抗な女を組み伏せて腰降ってた、あの猿共のことか。連中ならここにいるよ」
そう言って、レイリアはその巨大な戦斧を見せつけるように彼の目の前に掲げてみせた。銀色の、美しい斧である。それを見たリリィが、何かに耐えるようにその顔を伏せた。怪訝そうに眉を顰める辺境伯とギルバート。
それは、彼らには知りようがない事実であった。
「連中は
この少女は、この美しい少女はなにを言っているのだ。
ギルバートは背筋に氷を入れられたような得も言われぬ寒気を感じ、ぶるりと身を震わせた。
「くそ、化け物め! おい、貴様! 貴様の顔は見たことがあるぞ、雇い主である私を裏切るのか!」
どうしてもレイリアの拘束を振りほどけず、窮したギルバートが次に目を付けたのはリリィを守るように立っていた大男、ベルガラであった。アルセン諸島連合から流れてきた傭兵で、この辺りでは珍しい褐色の肌もさることながら、雇った男たちの中でも群を抜いた巨体であったのでギルバートも彼のことはよく覚えていた。
思えば、初めに辺境伯の娘を捕まえたとギルバートを扉の前まで誘い込んだのも彼である。それなりの大金をかけて彼らを雇い入れたギルバートからすれば、ベルガラの裏切りはまさしく寝耳に水であった。
「俺、負けた。金は、返す」
ぎこちない言葉でそう返すベルガラに、ころころと笑い声をあげたのはレイリアである。それはまるで無邪気な少女のような笑みで、鈴を転がすようなその笑い声は屋敷の中によく響いた。
「おいベルガラ、お前もなかなかの悪党だな。これからぶっ殺す相手に、金を返すもなにもないもんだ。だろう?」
だがその前に、とレイリアは続ける。
その瞳を覗き込んだ時、ギルバートは短く悲鳴をあげた。
血のような赤い瞳の奥深く。そこにあったのは、僅かな光さえ宿さない深淵であった。魂さえ引き込まれそうな闇が、ギルバートをまっすぐに見据えている。
「だが、地獄に落ちる前に知っていることを全部吐いてもらうぜ。どこで〝天使〟について知った。テメエの飼い主は誰だ。何を考えてる」
「レイリア様、この屋敷でこれ以上人を殺めるのは止めて下さい! ギルバートへの取り調べは、後日こちらで行います。それで宜しいでしょう!」
ぎょろりと深紅の瞳が動く。
「宜しくねえんだよお嬢様。辺境伯を拷問にかけてまで〝天使〟を狙う連中だ。牢に入れたところで、あの手この手で口を封じようとしてくるだろうぜ。そうなってから、真実は全て闇の中、だなんて馬鹿な結末は御免被るんだよこっちは」
リリィの抗議をそう言って突っぱねると、レイリアはより強くギルバートの首を締めあげた。しかし、喉を潰さんばかりの力で首を絞められながらも、ギルバートの心にあったのは死ぬかもしれないという恐怖ではなく、歓喜であった。
満足に呼吸すらできず、青白くなっていたその顔に狂気の色が浮かび上がる。
「レイリア……まさか、貴様があの、明星のレイリアか! おお、なんという幸運か。よもや、既に覚醒していたとは思いもよらなかった!」
舌打ちをして、レイリアがまたリリィへと鋭い視線を向ける。表情にこそ出してはいないが、敵に無駄な情報を与えるなと、その瞳が雄弁に語っていた。
「……人違いだ。名は同じだが、俺様は天使だなんて大層なモンじゃない」
「いや、この力、そしてその美しい姿! 伝説に語られる〝天使レイリア〟に相違ない! 素晴らしい、傭兵共では相手にならん訳だ!」
口から泡を飛ばしながら、まるで恋に浮かれる乙女のように語るギルバートに対し、レイリアの表情はまるで氷のように冷ややかなものであった。
殺すか。
脳裏に湧いて出た考えを、彼女は即座に否定する。
ここで彼に止めを刺すのは至極簡単なことだ。首を掴むその手にあとほんの少し力を加えてやれば、脆弱な人間の身体などいともたやすく壊すことができるだろう。
だが、それはこちらが欲している情報を引き出してからだ。
裏で誰が糸を引いているのか。ギルバートという傀儡を誰が操っているのか。
それを聞かずにこの男を殺してしまうことは、あまりにも軽率な行いといえた。
そして、そのほんの僅か、刹那にも満たない彼女の葛藤。それこそが分水嶺であった。
「月光が如き銀の髪に、紅蓮の瞳。ああ、
歓喜に打ち震えるギルバートが発したその一言。それはまるで巨人が振るう大槌の一撃にも似た衝撃を以て、レイリアの心を打ち震わせる。
は、と一瞬目を丸くしたレイリアであったが、ギルバートの言葉の意味を正しく理解した次の瞬間、その喉元に食らいつかん勢いで、彼に食って掛かった。背後で、リリィの慌てふためく声が響く。
「貴様、今何て言った……?」
彼が発した一言。それは彼女にとって到底看過できないものであった。首を掴む手にも、自然と力が入る。ぐっと、ギルバートが短い悲鳴をあげるのを見て、たまらずリリィが止めに入った。
「レイリア様、落ち着いて下さい! これ以上は本当に死んでしまいます!」
「喧しい! どこまで間抜けなんだテメェは! これ以上邪魔するなら部屋から叩き出す――」
その時、レイリアの言葉が不意に途切れた。同時に、何か、硝子が砕けるような音が室内に響き渡る。
ぐらりとレイリアの小さな身体が揺れ、軽い衝撃を伴ってリリィの胸へと背中から倒れこんだ。
突然の出来事に声をあげ、たたらを踏むリリィ。何事かと目を丸くし、受け止めたレイリアの姿を見下ろして彼女は悲鳴をあげた。
その原因は彼女の右手。今までギルバートの首を掴み上げていたその細い腕の、肘から先がない。まるで枯れ枝を無造作にへし折ったように、そこには無残な傷跡だけがあった。
「この、糞がァ……!」
変わり果てた己の右腕を見て、レイリアがぎちぎちと歯を食いしばりながら前方を、右腕を奪った下手人を睨みつけた。
リリィもまた、その視線を追うようにして前方へと目を向け、そして息をのんだ。
そこには、男がいた。言わずもがな、先程までレイリアが取り押さえていた男、ギルバートである。レイリアの腕から脱してはいるが、いまだに息苦しいのか胸元のボタンを外して大きく息を吸い込んでいる。しかし、今のリリィにとってはそんなことどうでもよかった。
彼女が目を離させないでいるもの。それは彼の右腕であった。
明らかに、人のモノではない。
それは三本指があり、カエルのようにぶよぶよとした湿り気のある皮で包まれ、熊のように太く巨大で、鷹のような爪が生えていた。時折皮の下から気泡のようなものが浮かび上がり、ぱちんと弾けては腐った魚のような悪臭を放っている。
そしてその大きな手の中には、しなやかな細い少女の腕があった。他でもない、へし折られたレイリアの右腕である。
それを見てリリィは顔をしかめ、背後に控えたベルガラと辺境伯はその姿に戦慄し、身震いした。
「ギルバート、お前はいったい何者なのだ……」
力ない声で、辺境伯が言う。
握っていたレイリアの右腕を無造作に投げ捨てながら、ギルバートが不敵な笑みを浮かべた。
巨大な右腕が振り上げられる。真っ先に動いたのは、レイリアを胸に抱いたリリィであった。
レイリアの小さな身体を強く抱きしめ、身を挺してギルバートの攻撃から彼女を守ろうとしたのである。だが胸の中の少女が、それを是とする筈もない。
「馬鹿が! テメェは引っ込んでろ!」
声を荒げ、レイリアは乱暴にリリィを突き放した。
彼女の膂力は先程見せたとおりである。リリィの細腕でどうこうできる筈もなく、あっさりと弾き飛ばされた彼女は、あわや転倒するその直前でベルガラに抱き留められた。そこで、衝撃的な光景を目にすることになる。
振るわれる巨大な右腕。
残った左腕で身体を守りながらも、まるで小石のように打ち払われる少女。
けたたましい音をたて、崩れ落ちる壁の音。それが何度も。
隣の部屋どころか、下手をすれば屋敷の外にまで飛ばされてしまったかもしれない。
馬鹿な。と、リリィの頭上でベルガラが重苦しい声を吐き出した。
あれほどの強さを見せていたレイリアが、こんなにも呆気なくやられてしまったのだ。信じられないのも無理はない。リリィに至っては、まだ正しく状況が呑み込めてさえいない様子であった。
「伯よ、私は人を超えた力を手に入れたのです。何者も逆らうことができない、圧倒的な力を!」
どこか恍惚とした表情を浮かべたギルバートがそう叫び身を縮こませると、その身体はさらなる変貌を始めた。
床がきしみ、絹を裂く音ともに上着が引き裂かれる。その下から現れたのは、腕と同じく、どう見ても人ではない異形の身体。
見る見るうちに倍以上にまで膨れ上がったその肉体は、見るに堪えない醜悪極まるものであった。
悪臭を放つカエルのような皮。端正だった顔つきは見る影もなく、本来頭があった場所には水膨れの塊のようなものが引っ付いているだけである。
背には蝙蝠のような翼が一対生え、鹿のような蹄のついた足が耳障りな音とともに床板を削った。
ぶくぶくと泡を立てながら、怪物の胸からギルバートの顔だけが浮かび上がる。
リリィが悲鳴をあげ、彼女を守るようにベルガラが前に立った。
「化け物め……!」
それはあの遺跡で、彼がレイリアに吐き捨てた言葉であった。
だが、彼女は力こそ人間離れしているが、見た目は美しい少女であり、人間そのものだ。それに引き換え、この、目の前で吐き気すら催す悪臭を放つモノはなんだ。
化け物とは正しくこのようなモノなのだろうと、ベルガラは理解した。
浮き上がったギルバートの顔が歪に歪む。
「化け物とは失礼な。これこそは、かつて人類を窮地においやった悪魔の力そのもの! 私は今、あの伝説の力を手に入れたのです!」
化け物が両手を天高くつき上げ、歓喜の雄たけびをあげる。その拍子に皮に引っ付いていた水泡が弾け、辺りに粘液をまき散らした。
「
「ああ、そんな、レイリア様まで……。どうして、どうしてこんな……」
文字通り、唯一の希望を打ち砕かれた心持ちなのだろう。リリィは力なくその場にへたり込み、ただただ涙を流し続けた。だがそれも、この化け物にとっては加虐心を煽る調味料にしかなりはしない。
垂れ下がった頭部が裂け、口のようになった部分から霧のような息を漏らしながらギルバートが嗤った。体液を滴らせながら、異形の化け物が迫る。
どうすればいい。
リリィを庇いながら、ベルガラは考える。
武器ならばここに来るまでに他の傭兵から奪った剣があるが、それがこの化け物相手に通用するかどうかは怪しいところだ。
ならば背後の二人、辺境伯とリリィが逃げるだけの時間を稼ぐことは可能か。
正直、これも難しいところだ。
なにせ相手はあのレイリアを一撃で吹き飛ばした化け物だ。リリィだけならまだしも、負傷している辺境伯がいることを考慮すると十数分はここでやつを足止めしておかなければならない。
それを自分一人、加えて剣一本で為せるかと問われると、ベルガラは首を捻らざるを得なかった。
だが、やらなければならない。この場において、まともに戦えるのは自分一人なのだから。
そう決意し、ベルガラは腰の直剣を引き抜いた。それを嘲笑うかのように、化け物が身を震わせる。
「おやおや、抵抗しようというのですか。まったく度し難い、そこまでして守るほどの義理などないでしょうに」
「俺、一度死んだ」
それはぎこちなくも、確固たる強い意志を乗せた言葉であった。
剣を構え、緩やかに息を吐きながらベルガラは目の前の化け物を睨みつける。
「俺の命、奴の物になった。主人が守るもの、俺も守る」
あの時、レイリアはまるで託すかのようにリリィをベルガラの方へ突き飛ばした。
無論、彼女にそんな意図はなかったのかもしれないし、ただの偶然だった可能性もある。だが、彼女はリリィを守ろうとした。それだけはたしかだ。
ならば、その遺志は尊ぶべきものだと、ベルガラは剣を握る手に力を籠めた。
「愚かな、全くもって度し難い。いいでしょう、それほど死にたいのならば、二人仲良く殺して差し上げましょう!」
化け物がその巨大な腕を振り上げ、鋭い三本の爪が鋭く光った。
そして轟音とともにその腕が振るわれ、ベルガラの身体を無残に引き裂かんと――
「――誰が、誰を殺すって?」
銀の光が走る。
振り下ろされた剛腕が、ぴたりとその動きを止めた。
「ば、馬鹿な……!」
化け物の腕を止めたもの。
それは先端に十字の重りがつけられた、巨大な銀の鎖だった。それはベルガラもよく見知ったもので、だからこそベルガラは驚愕に目を見開き、鎖が伸びる方へと弾かれるように目を向けた。
視線の先、崩れ落ちた壁の陰から美しい少女が現れる。
「まったく、
「レイリア様、ご無事だったのですね!」
もはや見ることはないと思っていた。打ち砕かれたと思っていた
しかし、それも一瞬のこと。舞い上がった煙の向こうから現れた少女の姿を見て、リリィはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
失われたはずの、先程折られたはずの右腕が完全に治っている。これは、まだいい。
たしかに俄かには信じがたい出来事だが、彼女が人間ではない、女神より生み出された天使であることを考えれば、まああらゆる負傷を治癒することも可能かもしれないと、多少は納得できる。
だが、その変わり果てた身体は、いったいどういうことなのだろうか。
現れたレイリアの身体を先程まで覆っていた、あの絹のような褐色の肌が、ない。
いや、あるにはある。腰や胸、腕の一部には、まるでそこだけ焼け残ったかのように、少しだけ以前の肌が残っている。
だが、その肌の下。
そこにあったのは、まるで人形のような、人工的な関節や継ぎ接ぎだらけの白い骨格であった。
「れ、レイリア様、その身体はいったい……」
「ん? あー、これか。だから言ったろ、天使なんてお綺麗なもんじゃないって」
「ぐ、ぐぐ、おのれェ!」
腕を絡めとられ、寸でのところで獲物を捕らえ損ねた化け物がレイリアを睨む。ぎちぎちと、腕を締め上げる鎖が耳障りな音をたてた。
「天使めが、所詮は使い捨ての人形如きがよくも私の邪魔をォ!」
「おっ、詳しいな、それもあの御方って奴に聞いたのか? まあ、いいや」
ぐっと、レイリアが鎖を引く。
ただそれだけで、絡みついた化け物の腕が不快な水音とともに千切れとんだ。
刹那の間。怪物の絶叫が屋敷中に響く。
「もう、死んでいいぞ。お前も、俺の糧になれ」
血のような深紅の瞳が、静かに化け物を見据えていた。