父の応急処置を済ませたあと、大穴から飛び出していったレイリアを追って中庭に駆け込んだリリィが目にしたものは、まるで地獄と見まごうほどの凄惨な光景であった。
中程からなぎ倒された木々、砕け散った正門、無惨に抉られた大地。
むせかえるような血の臭いにリリィは咄嗟に口元を押さえ、喉をせり上がってきた物をすんでのところで飲み下した。
「これはいったい……!」
リリィの大きな瞳が驚愕に見開かれる。
彼女が、レイリアが屋敷を飛び出してからまだ十分と経っていない。
たったそれだけの間でこれほどの破壊をもたらすなど、いったいどれほど、あの二人の戦いは苛烈を極めたのだろう。
震える両手を胸元できつく握り締めながら、リリィは意を決してその変わり果てた中庭を進んでいく。
そして、その身を半ばから吹き飛ばされた門を抜けた先、まるで大量の火薬を爆発させたように大きく抉られたその場所にたどり着いた時、彼女はとうとう言葉を失った。
「よう、随分と遅かったじゃねぇか。もう粗方終わったぜ」
その中央に居たのは不敵な笑みを浮かべ、美しい白銀の髪を月の光で輝かせる少女、レイリアであった。
手にした巨大な戦斧は大地へと突き立てられ、そのしなやかな脚の下で何者かが蠢いている。
僅かな水音とともに呻き声をあげるソレの正体を目にした途端、リリィは口から漏れる悲鳴を押さえることが出来なかった。
「ああ、そんな、ギルバート……!」
ソレは自身を、そして父を裏切り、命を奪わんとした男、人であることを捨てて化け物と成り果てたギルバートの末路。
あれほど巨大に膨れ上がっていた身体は千々に砕かれ、辛うじて原型を留めている頭部をレイリアの脚が踏みつけている。
浮かんだのは僅かな同情、憐れみの念。
だがそれ以上に、これほどまでの破壊を受けて尚、死にきれずにいるそのおぞましさに、彼女は恐怖した。
身を震わせるリリィにレイリアは鼻を鳴らし、その踵で化け物の、カエルのような頭部に浮かび上がったギルバート本来の顔、そこにある眼球を踏み潰す。
化け物が身の毛もよだつ叫び声をあげた。
「どうだ、笑えるほど無様だろ? こいつらは身体のどこかにある“核”を砕かない限り死ぬことはない。こうして頭だけになったとしても、周囲から魔素を吸い取りながら身体を修復してやがて復活する。まったく、反吐が出る歪さだ」
踏み潰した眼球を丹念に磨り潰しながらレイリアは顔を歪める。
「オ、オジョウ、サマ……」
それは風の音に吹き消されてしまいそうな、余りにもか細く、弱々しい声。
レイリアの脚の下、残ったもう片方の目玉がゆっくりとした動きで、頭上から自身を見下ろすリリィの方を向いた。
「タスケ……シニタ、ク、ナイ……」
それは赦しを請う、救いを求める声であった。
信頼を裏切り、大切な人々を傷付け、あげく人を捨てて化け物となった男が、今は涙を流しながら命を乞うている。
なんと哀しく、憐れな人なのだろう。
静かにただ一筋、リリィの頬を涙が流れ落ちた。
「レイリア様……彼を人へと戻してあげることは、できないのでしょうか」
「無理だね。これは周囲に漂う魔素と、人を構築する魔素を混ぜ合わせ、作り替える術式だ。一度形を成してしまえば、もう元に戻すことはできない」
レイリアは苛立ちを隠そうともせず、その整った顔を歪めながら言う。
これは血と水を混ぜ合わせたようなものなのだと。核を砕き、魂を解き放つことこそが唯一与えられる救いなのだと。
そしてレイリアはおもむろに手にした戦斧を振るい、ギルバートの顔が浮き上がる化け物の頭部を切り裂いた。
露になったその内部に覗くのは、宝石のような赤い結晶。
人の拳ほどあるそれは怪しい光を放っており、よく見れば周りの肉へと根を張り巡らせ、僅かに脈打っているのがわかった。
「これが核だ。こいつが宿主の魂を縛り、魔素を食らう化け物へと堕とす」
戦斧の刃先が僅かに、爪の先ほど赤い結晶へと食い込む。ただそれだけでギルバートは獣じみた断末魔の叫びをあげ、その悲痛な声にリリィは堪らず目を伏せ、唇を噛んだ。
「本当に、本当に手立てがないというのならば、お願いします、どうか、どうかせめて安らかに……」
「……あまっちょろいなぁ。ま、俺様としてもこいつはもう用済みだからな。手早く片付けて問題がないならそうするさ」
戦斧を持つ手に力がこもる。レイリアがギルバートの核から一度刃を引き抜き、それを大きく天へと掲げた。
月光に煌めくその白刃を見上げ、己の末路を悟った化け物が絶叫する。
「イヤダ、イヤダイヤダイヤダアアア!」
「テメェもつくづく往生際が悪いな。最後ぐらいは男らしく、潔く散ってみせろ」
頭だけの状態で、尚も拘束から逃れようと足掻くギルバートに、レイリアは底冷えするような冷たい視線を向けた。
そして掲げられた刃が無慈悲に、一切の容赦なく、ギルバートという化け物を殺し尽くす為に振り下ろされる。
闇夜に響き渡る断末魔の絶叫。
リリィは決してその光景から目を逸らすまいと、必ず見届けるのだと固く拳を握り、戦斧の一撃が核を打ち砕くその瞬間を待つ。
唸りをあげて振り下ろされた戦斧の一撃はギルバートの核を正確に撃ち抜き、その余波を受けてまるで雷が落ちたような爆発音とともに地面を大きく抉りとる。
舞い上がる土埃がリリィの視界を奪い、やがてその中から、しかめっ面を浮かべたレイリアが小さく咳き込みながら現れた。
その背後では散り散りに吹き飛ばされた肉片のようなものが、嫌な音をたてながら煙をあげて燃え盛っている。
「けほっ、けほっ。あーくそ、ちょっとばかり加減を間違えたか。思ったよりも身体が鈍ってやがる」
肌についた埃をはたき落としながら、レイリアはそう一人ごちる。その手の内には、きらりと光る宝石のようなものが。
二つに砕かれてしまっているが間違いない。先程彼女自身が打ち砕いた、ギルバートの核だったものだ。
「レイリア様、それをどうするおつもりですか?」
無論、それを見たリリィが黙っているわけもなく。赤くなった目元を隠そうともせず、リリィはレイリアの行方を遮った。
それに対し、レイリアはその顔に愉悦の色を浮かべながら握っていた核を指先で弄ぶと――おもむろにそれを口内に放り込んだ。
突然の奇行に、リリィは思考が追い付かない。
しんと静まり返った月夜の下、レイリアが宝石を噛み砕く音だけが響く。
リリィがようやく正気を取り戻したのは、レイリアが小さく喉を鳴らし、甘い吐息を漏らした直後であった。
レイリアの赤い舌先が小さな唇を妖しく舐めあげ、彼女の全身に刻まれた紋様が脈打つように蠢く。
「何を、したのですか」
顔を青くし、唇を震えさせながらなんとか発したのは、風に吹き消されそうなほど小さな呟き。
彼女は先程、核は宿主の魂を縛るものだと言った。ならば、それが砕かれた今、そこに縛られていた魂はどうなってしまったのか。
解き放たれ、女神リアディアのみもとへと旅立っていったのか、あるいはまだあの核の中に縛られたままなのか。
「そう真っ青にならなくても、あの屑の魂ならもうここにはねぇよ。砕いた核に残るのは人間を変異させ、魂を縛るほどの力、その残りかすだけだ」
ため息を吐き。
「そもそもあんな糞みたいなやつの魂なんざ、頼まれたって食わねえよ。ネズミの糞でも食らった方がまだましだ」
肩をすくめながら、レイリアはそう締めくくった。
「あらあらぁ、いけないわお姉様」
リリィがレイリアの言葉にほっと胸を撫で下ろしたその時、蕩けるように甘い声がリリィの肌を撫でた。
それはまるで蜜のように芳醇な香りを放ち、心を絡めとるような魔性を孕んだ声。
そしてレイリアがゆっくりと視線を向けた先、打ち砕かれ、もはやその役割を果たせなくなった門の上に、その少女は立っていた。
透けるような白い肌を黒いドレスが包み、淡い月明かりがその華奢な体つきを闇の中に浮き上がらせている。
真っ赤な瞳が爛々と輝き、瑞々しい唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「せっかく用意した玩具でしたのに、もう壊してしまったのですね」
夜風を受けて、少女の長い金髪が揺れる。
その少女の姿に、リリィは見覚えがあった。といっても以前会ったことがあるだとか、そういった訳ではない。しかし――
「レイリア様……?」
意図せず、リリィはその名を呟いていた。
そう、目の前のこの少女の顔立ちは、あまりにもレイリアと酷似していた。
勿論、肌や髪の色、体つきなど多少は異なる部分もある。しかし、まるでそこだけを差し替えたのではないかと思ってしまうほど、レイリアと少女は瓜二つであった。
双子、あるいは姉妹。いずれにせよ、無関係というわけではないだろう。
「やっぱりテメェの仕業か。随分と久しぶりじゃねぇか、フィーエルさんよぉ」
フィーエル。
その名を聞いた瞬間、リリィは不思議な既視感の正体を悟り、それと同時に己の耳を疑った。
何故ならばそれはかつて悪魔を打ち倒し、人々を、世界を救った天使たちの、幼い頃から憧れた名のひとつであったから。
くすくす、くすくす。
言葉を失うリリィをよそに、少女は穢れを知らぬ子どものような笑みを浮かべるとその指先でドレスの裾を摘まみあげ、優雅に一礼してみせる。
「お久しぶりお姉さま。そしてそちらの貴女は初めまして。私はフィーエル。貴女たちが天使と呼ぶ者の一人よ。ふふ、仲良くしましょうね?」
そう言って、少女――救世の天使たちの一人、双星のフィーエルは妖艶な笑みを浮かべた。