りびんぐでっど→どぉるず   作:野良野兎

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父と子

 

 その部屋は床、壁、天井、その全てが磨き上げられた大理石で覆われていた。

 部屋の中心には円形に掘り下げられた湯舟があり、その周囲を装飾が施された円柱がぐるりと囲んでいる。

 湯舟の縁に置かれている獅子の像からは止めどなく熱い湯が流れ落ち、そこから立ち昇る湯気が浴室内を真っ白に染め上げていた。

 そしてそんな室内に充満した白い湯気を払いながら、静かに現れる者があった。

 揺れる銀髪。すらりと伸びた、異国を思わせる褐色の手足。赤い瞳。

 慎ましくも僅かに女を感じさせる肢体を惜しげもなく晒しながら、少女――レイリアは感嘆の声を漏らす。

 

「へぇ、こりゃすげえ。どんな世の中だろうと、持ってる奴は持ってるもんだなァ」

 

 ぺたぺた、ぺたぺた。

 小さな足が大理石を叩く。

 レイリアは浴室の中を歩き回りながら壁や浴槽、彫像などをまじまじと眺めながら、その都度なるほど、なるほどと興味深そうに頷いて見せた。

 

「お粗末な出来だが、仕組みは魔工技術の応用か。水に〝火〟の属性を加えて湯にしている。術式はこの不細工な獣(彫刻)の中か? いやはや、何年経っても強かだねぇ、人間って生物は……なァ、お前もそう思うだろ?」

 

 獅子の像を平手で叩きながら、レリアが振り返る。

 その先には白い腰布だけを身に着けた浅黒い肌の大男、ベルガラがどこか呆れた表情をして立っていた。

 何故、レイリアの手によって奴隷として捕らえられた彼がここにいるのか。

 それは昨夜、ギルバートの裏切りを端に発した事件が一時的な終息を迎えたあと、レイリアが辺境伯へと、身を清めたいからすぐに湯を用意しろと、辺境伯に要求したことから始まる。

 勿論、辺境伯の癒えてはおらず、事件に巻き込まれたことで多くの使用人を失った――これは使用人に死者が出た訳ではなく、心に傷を負い憔悴(しょうすい)した者へ伯自ら暇を出したからである――直後で人でもろくに足りていない状態で、だ。

 しかしその身に強大な戦力を宿す彼女の要求である。下手に突っぱねて機嫌を損ねる訳にもいかないし、何より自身と最愛の娘の命を救ってもらった大恩もある。

 そして我こそはと手をあげたのは顔を真っ青にして街から駆け戻ってきた兵士たち……ではなく、意外にも屋敷に残った数少ない使用人たちであった。

 彼らは自身の窮地を救ってくれた恩人に少しでも恩を返したいと、疲弊する身体に鞭打って立ち上がったのだ。

 ちなみに街へ出ていた兵たちはというと、現在は全員が懲罰房へと入っている。それはギルバートの策に嵌まって守るべき主君を危険に晒したことへの罰であり、兵たちもその決定に粛々と従うのみで異論を唱える者は誰一人としていなかった。

 裏切り者に対して随分と生ぬるいものだとレイリアは毒づいたが、辺境伯がその決定を覆すことは終ぞなく、現在へと至る。

 そもそも己の過ちを悟り館へと駆け戻ってきたのは古くから辺境伯に深い忠誠を誓う一族の者たちであり、比較的新参の者や、元々ギルバート側だった者たちはいつの間にか街から姿を消していた。

 数にして全体の約三分の一。

 これは辺境伯にとって正しく寝耳に水といえるものであったが、それをレイリアに皮肉られた伯は、獅子身中の虫を一掃できていっそ清々しいと返してみせた。

 東方の獅子いまだ衰えず、といったところだろう。

 ともかく残った使用人、主に女中たちの手によって湯が用意された訳だが、いざ湯浴みへと向かうその直前でレイリアは何を思ったかベルガラを捕まえ、否応なくここまで連れてきたのである。

 勿論ベルガラも始めは何事かと抵抗したが、いかに鍛え上げられた彼の膂力があろうと、相手は伝説に名を連ねる存在であり、その力がどれほどのものかは先日目の当たりにしたばかり。

 彼がどれだけ抵抗しようが、それは彼女にとってそよ風ほどの影響も与えるものではなかった。

 

「何故、俺を」

 

 言葉少なく、ベルガラが問う。

 するとレイリアは湯舟の縁に腰を下ろし、その細い脚を艶めかしく組みながら呆れたように鼻を鳴らした。

 あまりにも無造作に座り込んだ為、彼女の長い銀髪が半ばから湯舟の中で泳いでしまっているのだが、本人はそのことに関してあまり頓着していないようである。

 

「阿呆が。テメェは何だ? そう、俺様の奴隷だ。なら、主人の世話をするのが当たり前だろうが」

 

 手招きする。深紅の瞳が流れる。

 玉の肌は湿気を纏い輝き、髪先へと伝った水滴が滴り落ちて水面へと波紋を描いた。

 口元が歪む。 

 

「ま、触れていいのは髪だけだがな。いかに慈悲深い俺様であっても、貴様のような下郎が肌に触れることを許す程お人よしじゃあない」

 

 やれやれ。よっこらしょっと。

 いまだに頭の整理ができていないベルガラに業を煮やしてか、レイリアは少しばかり身体を揺らして飛び起きると、浴室の脇に置かれていた椅子やら木桶やらを拾ってきて好き勝手に湯浴みの準備を始めた。

 溜息。

 肩を落としたベルガラが重い足取りでそちらへ向かう。

 

「しかし、あの嬢ちゃんの話じゃあ俺様は千年以上寝てたらしいが、その間に他の阿呆共はいったい何をやってたんだ? 見覚えのある物が、そのまんまの形で残ってやがる」

 

 次に溜息を漏らしたのは、レイリアの方であった。

 その手には茶色い正方形の物体が握られており、湯を汲んだ木桶にそれを漬けて軽く揉んでみれば花のような爽やかな香りとともに白い泡がもくもくと沸き出してきた。

 そうして木桶が泡でいっぱいになると彼女は満足げに一度頷いて、それをベルガラへと渡す。

 くるりとレイリアが回る。銀髪が踊り、まるで天幕のようにベルガラの前に広がった。

 

「そら、手早く頼むぞ。慣れてるだろ(・・・・・・)?」

 

 首を回し、僅かに覗く瞳が光る。

 その瞳に射貫かれたその瞬間、ベルガラの身体が石像のように硬直した。

 くつくつと、少女の華奢な肩が揺れる。

 それを見てベルガラは諦めたように肩の力を抜くと、溜息とともにレイリアの髪へ手を伸ばした。

 軽く全体を湯で湿らせた後、木桶の泡をすくい上げると手櫛を通すようにして髪全体に馴染ませていく。

 それは無骨な外見からは誰も想像できないであろう細やかな仕事っぷりであり、相当手慣れていることが伺えるものであった。

 くかかっ。

 満足げにレイリアが笑う。

 

「やっぱりな。こんな仕事、日ごろ召使いにやらせてるあの嬢ちゃんや色男にゃあちと難しいだろうからなァ」

 

「……どこで、気付いた」

 

 天井に張り付いた水滴が落ち、水面を叩く。

 

「お前と初めに打ち合った時だよ、阿呆。あんときのテメェの目を見てな、ピンときた。迷い、焦り、戸惑い、まあ随分とわかりやすかったぜ?」

 

 白い泡が、絹のような銀色の上を滑り落ちていく。

 

「……で、娘か女房か、どっちよ?」 

 

 まさかこれだけ手慣れてて、相手が妹ってわけないわな。

 そう言って少女はまた肩を揺らす。

 

「……娘、だ」

 

 そうしてぽつりぽつりと、言葉少なくベルガラは語り始めた。

 彼はかつて南方のアルセン諸島連合に属する、名もなき小さな村で暮らしていたのだという。

 妻を流行り病で亡くし、忘れ形見の娘とともに貧しいながら平穏な生活を送っていたのだと。

 しかしある日突然、村を盗賊が襲った。

 多くの村人が殺され、女が、子どもが奴隷として売り払う為に攫われることとなった。

 当時まだ幼かったベルガラの娘、ソフィまでもが。

 彼は元々猟師であり、獲物を売る為に街へと向かっている最中に襲撃は行われた。

 己の手で最愛の娘を守ってやれなかったことを彼は悔やみ、もし娘が生きているのならばきっと探し出してみせると、傭兵にその身をやつしてでも大陸へ渡ってきたそうだ。

 

「襲った盗賊、すぐ討伐された。そこ、俺もいた。やつら、聞いた、村の女、王国の奴に売った」

 

「それ、いつの話だ」

 

「五年ぐらい、昔。生きてる、お前と同じぐらい、恰好。髪、黒い、肌の色、同じ」

 

 レイリアは知る由もないが、彼女と同じ褐色の肌はアルセン諸島連合に暮らす民族の多くにみられる特徴であり、だからこそ、初対面の際にベルガラは彼女に刃を向けることを躊躇(ためら)っていたのである。

 ふぅん、とレイリアはさほど興味もなさそうに木桶の泡をすくい、自身の肌へと馴染ませていく。

 

「まともな奴隷商に仕入れられてりゃいいが、まあ、仕入れ先に盗賊を選ぶような下種だ。商品(・・)が流れていく先にもおおよそ見当がつくわな」

 

 良くて娼館、悪ければそういう趣味(・・・・・・)の変態共を相手に死ぬまで慰み者にされる。

 非情ではあるが、ベルガラもそれは覚悟していた。

 覚悟の上で、それでも救わねばならぬと娘を奪われてから五年、泥をすする思いで生き残ってきたのだ。

 みしりと、木桶が音をたてる。

 湯が髪についた泡を綺麗に流し落とし、待ちかねたとばかりにレイリアはぐっと伸びをした。

 ベルガラの手から木桶をひったくり、すくった湯を豪快に自身の身体へとぶちまける。

 そうして乱暴に身体についた泡を落とすと、足先からゆっくりと浴槽へと浸かっていく。

 

「ま、幸いここの家主はこの辺り一帯を仕切ってる領主だ。あの色男がそんな阿呆を見逃すとは思えねぇが、風呂から出たら一度聞いてみるといい」

 

 手足を伸ばし、ともすればそのまま眠ってしまうのではと心配になりそうなほど寛ぎ始める少女の口から漏れたのは、ベルガラが思いもよらないものであった。

 まさかこの暴君を絵に描いたような少女から、他人を気遣う言葉が出るだなんて誰が想像できようか。

 これがリリィならば、驚きのあまりひっくり返っていたかもしれない。

 だからこそ、問わなければならない。問わずにはいられない。

 

「どうして俺、気にする」

 

 飢えた狼よりも獰猛で、蛇よりも狡猾で、なにより軽薄。

 それがベルガラから見た、レイリアという少女――いや、化け物であった。

 ベルガラは目の前で寛ぐ小さな、自分の愛娘ほどの年頃の姿形をした少女の背中を見やる。

 別に邪な思いがある訳ではない。むしろそんな余計なものを抱えていれば、今頃自分は壁の染みにでもなっているだろう。

 彼の視線の先にあるもの。それは傷一つ無い、小さな背中。

 跡形もなかった。

 昨夜、間違いなく袈裟懸けに切り裂かれたはずの傷が、まるで嘘だったかのようにその姿を消している。

 切り飛ばされた左腕だってそうだ。

 どんな魔法を使ったのか、まるでとかげの尻尾のように新たな左腕が生えてきた。

 そこらの大人が数十人束になっても勝てない膂力と、なまくらでは傷一つ付かない肌。そしてどんな重傷もたちどころに完治させる強力な治癒能力。

 底が見えない。

 

「……ただの気紛れだ。面白そうだからテメェを生かして、ちょうど思い浮かんだからそのまま口に出した、それだけだ。特に深い意味なんかねェよ」

 

 静かに冷や汗を流すベルガラをよそに、レイリアはぼんやりと天井を眺めながら呟いた。

 ぐっと伸びをした後、ゆっくりと湯舟から立ち上がる。

 湯舟からあがったその身体は熱を帯び、濡れた肌に長い銀髪を張り付けたその姿は、妙な妖しさを纏っていた。

 それはベルガラでさえも一瞬目を奪われるほどで、そういえばこの少女は伝説の天使であったな、などと、彼はぼんやりとそんなことを考えた。

 去り際に、レイリアの小さな手がぺちぺちとベルガラの肩を叩く。

 

「ま、娘が可愛いなら、せいぜい俺様に尻尾を振るこった。気が向きゃあ、迷える子羊に手を差し伸べることだってあるかもしれねェぞ?」

 

 からから、ころころと少女が嗤う。

 天使。

 悪魔たちを滅ぼし、魔王を討ち果たし人々を救った女神の使い。

 こんなものが、そうであると言うのだろうか。

 ベルガラは先程浮かんだ考えを即座に否定する。

 天使だって? 悪い冗談だ。

 

「……あれは、悪魔、だ」

 

 しんと静まり返った室内に、水音だけが響いていた。


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