落ち着いていられるか、と内心何度も呟いた。
時間が来ると、すぐにドアから飛び出した。駅まで数分、全速力で駆け抜けた。電車の中でも足踏みをやめなかった。周りの視線なんか心底どうでもよかった。
電車を降りると、また駆け出した。タクシーを使うほど、遠くはない。むしろ走りたい。今の自分はなにより速い。人波を縫うようにかわしながら、途中から車道を走り続けた。不思議と息は上がらなかった。今のこの瞬間だけは、きっと、誰よりも。
着くと、流石に走ることは出来なかった。その代わり、出来る限りの大股開きで早足の限りをつくした。
途中で、見たことのある看護婦さんとすれ違った。速攻で掴まった。
「廊下のつきあたりですよ」
もうそれからは何も耳に入らなかった。早足もやってられなかった。人がいないのを確認して、もう駆け出していた。
部屋に飛び込んだ。もう、泣きそうになっていた。
「あ、来たな。遅刻魔め」
「あああああのそそれで」
「はい」
混乱して、頭に血が上って視界がぼやけていた。それでも、はい、といわれて彼女から受け取ったとき、一瞬で全てが止まった。
体のいたるところが、震えた。もう止められなかった。泣いていた。ボロボロと泣いていた。
すやすやと、今、生まれたばかりの命。自分と彼女の、子供。
腰に手を当てて、少し疲れた顔の彼女は苦笑していた。みっともないくらいの泣きっぷりが収まるまで、ずっと待ってくれていた。
ようやく落ち着いて、お茶を一杯飲んで、またちょっと泣いて、拭いて、なんとかなった。
あらためて、腕の中の赤ちゃんを見た。男の子だった。どこがどっちに似ているのか、わからない。目元とか、鼻とか、口とか、どっちがどっちに似ているのか全然わからない。わからないけど、こいつ絶対ハンサムで最高の男前になると思った。いや、今の段階でだってそうだ。
デレデレ笑ってばかりでないでさ、と前置きして彼女は言った。そんなにデレデレしているだろうか。
「それで、宿題はどうなったの?」
宿題。名前を考えてくることである。
名前については、二人して唾飛び交う大激論を何度も交わした。向かい合ってダメダダメダと言い合い、飛び交ってたのが唾だけならまだしも、最後には皿がヒュンヒュンと舞い飛ぶ粗相をかまして、どうしようもない体たらくとなったのだ。
「それが実は」
「あんた、もしかしてまだ考えてないっていうんなら、離婚もんよこれは。せっかく権利を譲ってやったって言うのに、いい度胸してんじゃない」
「まあ考えてきたんだけど。だから胸倉から手を放して」
「聞こうじゃない?」
教えれ教えれ、と彼女はずいっと顔を寄せてきた。
はにかんで、子供のほっぺたを撫でた。なんて柔らかいんだろう。世界で、今、一番新しい命。どうしようもないくらい弱くて、どうしようもないくらい温かくて、一番純粋な、命。
抱き上げた。一瞬、腕が上がらなかった、なんて、重いのだろう。そして不思議なくらいに軽い。
「士郎」
口にしていた。彼女は、笑みを浮かべて頷く。
「シロウ……字は?」
手の平に指で書いた。士と、郎。士郎。
一秒も悩まなかった。彼女はポンと、子供の額をつっついた。
愛らしすぎる仕草で、むずがった。
「……いいんじゃない? うーん、悔しいけど、離婚はまだ先延ばしかな」
「そりゃありがたい」
そして呟いた。呼び続けた。二人して、飽きることもなく言い合った。
名前を、君の命を、君の、君の全部を。
また涙がこぼれてきた。冷やかされるかと思ったけれど、彼女も泣いていた。あふれて止まらないんだ。それでも、君は健やかに眠っている。泣いて、泣いて、嬉しくて泣いて、いや、意味なんてないんだ。笑って、また泣いた。僕たちは交互に感情をぶつけあって、全てをもって喜んだ。
そして、祈った。
この命の未来に、ただ光がありますように、と。
士郎。
君の幸せを、心から願う。
2004年発売直後の「Fate/stay night」を夜を徹してプレイし、居ても立ってもいられずに短編SSを書いたものの全くモヤモヤが晴れず、勢い余って書き始めてしまった作品が本作です。
一生懸命戦った彼に幸せになってほしい、というわがままを叩きつけてる感じです。
かなり前の作品なので恥ずかしい点もありますが「当時読んでました」とお声がけ頂いたりすると本当に嬉しく「書いてよかったな〜」と思います。書き直したい部分もいくつかありますが、やむを得ない部分以外はそのままにしております。(今読むとわかりにくくて拙い仕掛けがたくさんあって死にたくなります)
最後までお読み頂き、ありがとうございました。