ペッシェ・ドゥ・アプリーレ――イタリアで「四月の魚」を意味するこの日は、世界各国でも嘘をついていい日として有名だ。他愛ない冗談めいた嘘はもちろん、お決まりの悪戯として魚の絵やシールをこっそり人の背中に張り付けて笑うというものがある。どうして魚なのかはこの慣習をイタリアに持ち込んだお隣フランスに聞いてほしいところだが、この時期になると菓子屋やバールはこぞって魚の形をしたチョコレートを売りに出すし、楽しいことが大好きなイタリアーノはどんなユーモアを披露してやろうかと皆こっそり頭の中で算段しているものである。
だからブチャラティがチームに女を入れるなんて急に紹介してきたのも、ボスに目を付けられるかもしれないのに麻薬の流通まで弄くろうなんて言うのも、今日がその四月一日だからに違いない。
アバッキオは車窓からネアポリスの街並みを眺めてそんな現実逃避をしていたが、あの真面目なブチャラティがこんなタチの悪い冗談を言うわけがないとも理解していた。そりゃあ、確かにあの人はギャングらしからぬ茶目っ気があって街の子供たちからも懐かれているが。
去年はいつも通りの飄々とした態度でナランチャ相手に、ネアポリスに大型カジノができるから今後はお前がナランチャチームを作って治めるんだぜ、と大嘘を言ってのけたり――ブチャラティに心酔しているナランチャにとっては笑えない話だった――嘘をつくとしてもそんな罪のない程度の可愛い冗談だ。そうそう、うっかり本気にしたナランチャがフーゴに泣きついて、二桁のかけ算もできない人がカジノなんてお金の出入りの激しいとこにやれるわけないでしょう、と呆れられたんだったか。
いけないとは思いつつも、アバッキオの思考は緩やかにそれていく。もちろんそうやってぼんやりしていても、相変わらず表面上は眉間に皺を刻んで不機嫌そうに見えるのだからこういう仕事でなければ損な面構えだったろう。
「あのさぁ、」
しかしそんなアバッキオの表情にも全く怯えも躊躇いも見せず、話しかけてくる勇者がいる。これがいつもの仲間ならば慣れているからだと納得できるが、彼女の態度はアバッキオの目にはどうしても生意気に映った。気のきつそうな、マラカイトグリーンの瞳が真っすぐにこちらを射抜いてくる。
「……あぁ? なんだよ?」
助手席から半ば身を乗り出すようにして振り返ったベルは、アバッキオに負けず劣らず険しい顔をしていた。
「さっきから辛気臭い顔して……気にしてるようだから言わせてもらうけど、さっきのアレ本当に飲んだわけじゃあないからッ!」
ビシィィッ、と音が鳴りそうなほどの勢いで指を突き付けられ、アバッキオは思わずちょっとのけ反ってしまう。別にリストランテでの一件に思いを馳せて黙り込んでいたわけじゃあない。だが改めて口に出されると気まずいのも本当なので、かあっと顔面に熱が集まった。
「ッ、気にしてねぇしわかってるッ!」
とはいえ、正直なところ現実逃避したくなる一番の原因は女がチームに入ったこと自体より、先ほど自分がこの女にやった仕打ちのほうだった。警官、ギャング、と体育会系の男社会で過ごしたアバッキオは、女の生意気な後輩をどう扱っていいのかわからない。しかもチームでは後輩だが、ギャング歴でいうなら彼女はアバッキオよりずっと長いのだ。
最近ブチャラティが相談なく新しい人間を入れるのが不満だったのと、その新人ジョルノに煽られたことでつい
そして“あれ”を飲んでいないと言うことは、やはり彼女はスタンド使いであり、自分の能力でなんとかしたということだった。ブチャラティチームは先日二十一になったばかりのアバッキオが最年長であるように非常に若いメンバーばかりで構成されているが、ベルもせいぜいフーゴかミスタあたりと変わらないくらいだろう。その若さで密輸事業を仕切って、これまで一人でやってきたというわけだ。生意気なのではなく、舐められないように片意地張って生きてきただけ。
麻薬うんぬんに関しても最初に聞いたときは絵空事だと思ったが、皆の前で説明する彼女の瞳は真剣だった。この計画をいつか実現するために、密輸事業の担当を志願したのだと。それくらい本気なのだと。
――気に入らねぇ。気に入らねぇが……これまでの実績だけは評価してやる
アバッキオはじりじりと焦げ付く嫉妬と羨望を感じながら心の中で呟いた。彼女が自分にできなかった信念を貫こうとしているのが、まだ折れてしまわずにその途上にあるのが、酷く眩しくて羨ましかった。
そしてまだ多くは知らないながらも、アバッキオは強い意志の片鱗を彼女の隣のジョルノにも感じている。ブチャラティの目の色を変えさせたそれを、密かに脅威に感じている。ジョルノは何を考え、何のために組織に入ったのか。彼のメンバー入りが、このチームに何をもたらすのか――。
実はアバッキオが
「それにしても涙目のルカが薬の方面まで手を出してたとは知らなかったわ。組織には上納してるんでしょうけど、ポルポにも黙ってあんな何の能力もないチンピラが……盲点だった」
腰を浮かせるようにして座りなおしたベルは腕を組んで、ほとんど独り言のようにそう言った。
後部座席からでは前を向く彼女の表情は窺えないものの、聞こえてきたその声にはありありと悔しさが滲んでいる。
「ナランチャが言っていましたね、子供にも売っていたと。でも、ポルポは本当に知らなかったんでしょうか?」
十五のくせに少しの危なげもなく運転しているジョルノは、彼女のその呟きを拾うことにしたらしかった。
「見て見ぬふりをしていた……その可能性は高いわね」
「では、どうして今になって突然あなたを寄こしたんです?」
「……そりゃあ、物事には限度ってモンがあるからよ。これだけはどうしても超えちゃあいけない、許しちゃあいけない、そういうラインが何にだってあるの。死にたがりが好きで
彼女は年下の少年を教え諭すようにそんな弁舌をぶったが、肝心の少年の方は黙っただけで、なるほどの一言すら発さない。車内を奇妙な沈黙が包み、走行に伴って車体が小刻みに振動する音がやたらと大きく耳についた。「おいッ、」いや、音だけではない。車自体が本当に揺れている。そのがたつき具合は悪路によるものではなかったらしく、ジョルノのハンドルを持つ手には力が入っている。
するといくらも経たないうちにバンッ、と心臓を握りつぶさんばかりの破裂音がして、車はずるりと反対車線の左へと滑った。ジョルノが素早くハンドルを切らなかったら、危なかっただろう。
幹線道路を外れて細い通りに入り込み、なんとか路肩に車を止めることができたときには全員が胸を撫でおろした。
「タイヤがパンク……いえ、これはバーストしたみたいですね」
車を降りてタイヤを確認したジョルノは、左前輪が酷く裂けています、と短く報告した。確かにさっきの音からして、パンクなんていう生易しいものではないだろう。アバッキオもベルも続いて車から降り、他のタイヤには異常がないことを確認する。
「何やってんだよ、釘でも落ちてたのか?」
「いえ。そもそも車に使用されているほとんどのタイヤはチューブレスタイプですから、釘が刺さったからといってすぐにパンクするわけじゃあありません。ましてやこんな風に破裂するなんて妙だ」
「空気圧が減ってたわけでもないのよね」
「借りてきたばかりのレンタカーですしね。そのあたりはきちんと整備されていると思いますが」
疑問は残るが、いつまでもこの場で途方に暮れているわけにはいかない。空港まではあと一キロほどだし、歩いたほうが早いだろう。あまり遅くなると警備員が夜の顔ぶれになってジョルノの顔が利かなくなるし、誰も口には出さないまでも今日もう一度車に乗るのは勘弁してくれという気分だった。
空港までの道のりにちょうど車屋があったのも大きい。行きがけにそこへ声をかけておいて、調査をしている間に修理してもらう。そういう算段をして、三人はそこから徒歩で空港に向かうことにした。
「チッ、ツイてねぇな」
「別に大きな事故になってないんだからいいじゃない」
「いや、今日は色々と厄日だぜ……」
言ってからしまった、と思ったが、彼女はあからさまにムッとした表情になった。
「厄日って言いたいのは私のほうだわッ」
とんでもないもの飲まされそうになるし、という追撃に、アバッキオは冷や汗をかく。しかしここで悪かったと素直に言える男であれば、そもそもジョルノに対してもあんなイビリ方はしなかっただろう。決まり悪さを誤魔化すようにわざと大股で歩き、ずんずん彼らとの距離を引き離すと、アバッキオ! と後ろから生意気な少年に大声で名を呼ばれる。
「あぁッ? なんだよ、文句あ……」
振り返った瞬間、目に飛び込んできたのはこちらに真っすぐ突っ込んでくる自転車。慌てて飛びのけば、ドライバーはそのまま歩道の脇のゴミ箱に派手にぶつかりひっくり返る。
「あ、あぶねぇだろッ!」
「す、すみません、急にブレーキが変になっちゃってッ!」
幸いにも自転車のカゴがぐにゃりと歪んだだけで、怪我はないようである。が、それにしてもさっきから心臓に悪い。これは本格的に厄日なのかもしれない、とアバッキオが思い始めたところで、駆け寄ってきたジョルノが「厄日ですね」と駄目押しした。そのジョルノの後ろではベルが通りすがりの子供にジェラートをぶつけられているし、そうかと思うとなんだか焦げ臭い匂いと煙が通りに立ちこめる。
「おいッ、ジェリーノの店でボヤ騒ぎだッ!」
「あのオッサン、キッチン新しくしたばっかって言ってなかったかッ!?」
「とりあえず、水だッ! バケツッ!」
近くの商店の者がこぞって水の入ったバケツ片手に火元に向かい、そのうちの一人が石畳の隙間に足を取られて盛大にすっ転ぶ。空を舞ったバケツの水は、見事にジョルノを頭から濡れ鼠にした。
「ハッ、どうやらてめえも厄日らしいな」
ここでジョルノが苦笑でもしたのなら、ちょっとはアバッキオもこの新人に心を許したかもしれない。不運というのは時として、奇妙な連帯感をもたらすからだ。
だがジョルノはびしょ濡れのまま顎に手をやると、やはり妙だ……と考え込んだ。
それを見たアバッキオは、やっぱりどうもこいつは気に入らねぇ、と不機嫌そうに鼻を鳴らしたのだった。