我輩は猫である。名前は幾つもあるがどれで呼んでもらっても構わない。
生を受けたのもこの辺りなら、むくむくと大きくなったのもこの辺りで、今現在日向ぼっこをしているのもこの場所であるからして、この高い石の壁でぐるりと囲まれた一帯は我輩の土地であるのは幾らも道理に外れたことはない。
我輩は今、お気に入りの石の床の上で優雅に日光浴と洒落込んでいるのだが、いかんせんどうにも先ほどから耳の辺りがピクピクとして座りが悪い。理由は判然としているのだが、我輩が背にしている向こうっかわに何人もの人間たちが群れて、何やらひそひそブツブツうんたらかんたら南無阿弥陀仏とふけっている。人間という生き物は大変に変わった(大きく変わっているうえにさらにまた変わっているのだからその度合いは推して知るべし)生き物であるからして、その習性には我輩も一昔前より着目しているのだけれど、お天道様が昇ったそのあとより順にわらわらと現れては消え現れては消え、挙句の果てに優雅に日光浴をやっている我輩の、よりによって尻に向かってお行儀良く頭を下げたり何やら懇願をたれるものだから理解に難しい。自分で言うのもいささか手前味噌ではあるが、尻の形には自信がある。そんじょそこらの猫と比べてもらっては困るといったくらいに上質な尻であるのは周知の事実なのだが、いつの間に神さま仏様と同等にまで扱われるようになったかは知らぬ。悪い気はせぬ、といってもいい気がするわけでもないので我輩はそうなったからにはいつもさっさと朝の寝床を移す。それに気付かずにいつまでも頭を垂れる人間たちはやはりいささか間抜けな種族だ。
我輩の顔は他のやつらを集めるほどに端麗だというのは納得至極だ。目はキリリと男性的で、鼻にはつやがありいかにも機微に満ちていると道理のわかるものにはわかる。口を一度開けば雄々しい牙が生え揃い、しかしだからと言って無闇矢鱈に出っ張っているわけではなく、出ると所と引く所の両方を良くわきまえている。しかしなんと言っても一番の自慢はひげである。どこぞの捻くれ者や融通の利かぬ頑固者とは違い、ピンと筋が張り、かといって固すぎるわけでもなく、まことちょうどいい具合の張りで我輩のほっぺたからピョコンピョコンと生えている。こんな立派な物は中々お目にかかれるものではない。
だというのに我輩の美猫振りは同族からはあまり支持を得られない。理由はわからぬわけでもない。どこの世にいつでもはびこる(蜘蛛の巣かのごとく)、嫉妬やひがみ等というしがらみに囚われているように思える。むしろ人間たちの方がより私の面を支持してくれる。簡単な理屈である。彼らには雄々しい牙もひげもないのだから。嫉妬よりもひがみよりも憧れが先に立つのである。(勘違いしないで欲しいのは、彼ら人間が猫族よりも懐が深いわけではない。我輩も猫族の端くれであることも努々忘れぬよう)
「あっ、あれはメリーさんじゃないかしら」
といったわけで人間たちは我輩を目にするとわらわらと集合しだす。そのでかい図体が一つだけでもいかめしいのに、二つも三つも群れて詰め寄ってくるのだから、我輩としては肝が冷えるし何より恐ろしい。猫三匹は軽々と吊り上げる怪力の種族である(いや、四匹かもしれない。まさか五匹ではあるまい)ので、一度掴まれたのなら全身の毛という毛を毟り取られて尻尾まで引き千切られてしまうかもしれない。そんなことはないと頭は理解すれど尻尾は恐ろしがる。抗おうと爪は飛び出る。牙は出る。狩猟を生業とする種族に生を受けたからには闘争を好む性質は当然備えているが、所構わずそれを振り回すのは蛮勇というものであって識者の取るべき行動ではない。また石の内側の敷地には猫族より人間たちの方が多くいるのだから、喧嘩沙汰を起こしたならば窮地に陥るのは彼らではない。無粋な金勘定ではないがそれぐらいの分別は当然備えている。だというのに人間たちはそんな我輩の配慮にも気を配らずに無遠慮にずかずかやって来る。奇声を上げる。
大体人間というのは自分本位に物事を考えすぎる。身も知らぬ者に体を掴まれ物珍しげに撫で回される身になったことはないのか。
声を大にして批判をすれど、人間という種族は他の動物の言葉を理解できるほど頭が良くないので暖簾に腕押しのていである。仕方がないので我輩はその人間たちからぱっと離れていくのだが、決して臆病者ではないのだということをあえて言っておく。勇気をもって立ち向かわんとする気概と蛮勇との境目を我輩はよくわきまえているのである。せめてもの証として尻尾はぴんと伸ばしおくことにしている。しかしなんとも、居丈高に物事を推し進めようとする人間たちの礼儀のなさにはいつも閉口してし足りることはない。
人目にさらされるのははっきり言って嫌なので、気に入らないではないが気に入るという表しもややそぐわない程度のねぐらで我輩は一服をした。陽射しは良好だが少しばかり風がなさ過ぎる場所なのである。この春先の時節は無風よりもちょっとヒゲが揺れるくらいのそよ風が非常に心地よい。つまり開けた場所でなくてはならないので自然人目につく。今の我輩の境遇からしてそこは遠慮したい。ちなみに我輩が今のところ甘んじているこの場所は、冬には重宝されるということは言うに及ばない。
「やあご同輩」
背後より声をかけてきたのはあまり見たこのない猫であった。梅雨時期に土の上で転げ回ってそのまま汚れが取れずじまいになったしまったかのような、焦げ茶色の毛並みをしている。
「人が昼寝をしている最中に邪魔をして、やあご同輩もあるまい」
「それは失敬した。今日もヒゲは張ってるかね」
「しっかり張っている」
「失敬ついでに豪胆な背中をしてらっしゃる。これはまたどこの誰と格闘した爪痕なのですかな?」
「いちいち言いふらすことでもないと思う。言いたくないので言わないが、まあ座りたまえ」
我輩がどけた尻の辺りに焦げ茶は尻尾を下ろした。
「君は初めて見る猫なのだけれど、この近くに住んでいらっしゃるのかね?」
「流れでね」
「流れかね。それはまたどうして」
「己の縄張りを持って暮らしていくのも悪くはないと思うが、ある日思ったのだよ。世間は狭しというか、井の中の蛙の境遇が不意に憐れに思えてしまったね。せっかく親より頂いた四つの足なのだから使いきるべしと思い至って五回目の夏だよ」
「それはまた豪な生き方をしてらっしゃるが、世間の何たるかを先生は見極められたのですかな?」
「見極めたのならこんな所にいるかい。小生いまだ勉強中。しかしここは変わった場所だね。なんだか変な場所だ」
「変だとはまた、仮にも我輩の縄張りだから、それは失礼じゃないか」
「いやこればかりは言わせてもらう。人間のメス、それも子供のメスばかりが群れているこんな場所、長年旅をしているが初めてだ。ここはきっとおぞましい場所だ」
「なんだって」
「人間なんて極力避けるに越したことはない。特に若い内の人間などは見るにも耐えない。暴虐の限りを尽くすなんて話はよく聞くじゃないか。しかもここはメスときた。まったく君は変わった猫だ」
「少しだけ待とう。日があの枝に達するまでに匂いもなにも持ってさっさと出て行くがいい。そうでなければ耳を噛み切ってネズミの餌にしてやるぞ」
驚いたように尻を浮かした焦げ茶は我輩の目を見るや否や捨て台詞もまともに吐けずに一目散に走り去っていった。
あの無粋な宿無し猫のせいで気分が悪くなった。今の焦げ茶は人生を求め歩くなどと高尚を気取ってはいるが、何もわかっていまい。旅などと称してはいるがきっとどこぞの虎猫にでも追い出されたのであろう。嘘つきは信用できぬ。
人間のメスを女ということすら知らない間抜けである。人間の悪口しかいえぬ輩に彼女たちの良さを語っても無駄であろう。まあ尻尾を巻いて行ってしまったのでもはや近くにはいないであろうから関係ないけれど。今時分は浜松くらいだろうか。
さらに場所を変え、日が中天に差し掛かったころまで睡眠をとり、いつものように腹が減ってきたので我輩は活動を再開した。朝夕に続き昼時にも人間がたくさん出てくる。皆のんびりとしたもので、そんなことではネズミは取れぬとうっかり言ってしまいそうになるが、予備の食べ物を持ち歩いているので取らずとも良いらしいとのことは我輩の観察の結果でわかったことである。猫には真似できぬ、人間の叡智である。
「そこでぬくぬくしているのはランチかな?」
声のした辺りに目を向けると、やや離れた場所に人間の女の子が立っていた。彼女の名を由乃さんという。人間というのは時に同じ名前を持つ者がいたりするので大変ややこしく思うときがあるが、彼女は我輩が知るうちでは唯一人の由乃さんである。
「やっぱりランチだ」
耳の辺りからふりふりとした毛が垂れているのが由乃さんの外見での特徴である。見るたびに触ってみたいとは思うのだが、いかんせん人間に近づくというのは多大な勇気がいるからして中々難問である。しかし欲求というのは満たされることが無ければさらに膨らむ厄介なもので、我輩は由乃さんのふりふりで遊ぶという目標を抱えつつ、密かにその願いが成就する日を楽しみにしている。
人間ではあるが、それでも由乃さんは人並み以上に礼儀のわかる人で、顔を合わせたとしても無闇に触れてこようとはしない。全体の評価というのは一部の愚者のせいで著しく下がってしまうのが常ではあるが、彼女のような人種は大変損をしていると思う。
「お腹空いてないかな? ここに私のお昼の残りを置いておくから気がむいたらお食べ。令ちゃんが作ってくれたものだけれど大変美味しいのだよ。残すのも申し訳ないので譲ってあげる。残念だけれど、今日は少し体調が優れないから」
昨今人間の社会では義理人情が希薄となってしまって大変嘆かわしい。とてもよくない風潮が人々の心に隙間風となって吹き荒れている。とは知り合いの飼い猫の言であるが、我輩は決してそうだとばかりだとは思わない。彼女や、ここに住まう人々は思いやりという精神をしっかりと持つ者が非常に多いと思う。飼い猫の某氏が運が悪いか、それとも我輩が幸運なのかはわからぬが、塀の内側のみが我輩の世界なので正直なところ世間の風潮というのは知ったことではない。さきほどの焦げ茶の件もそうである。先入を先見と履き違えた輩ほど厄介なものはない。周りの人々がこうやって食べ物をわけてくれるというのに、やれ人心は乱れているだの、やれ昔と比べて荒んでしまっただの、「ちょっとそこに座って話をお聞き。そうして食物を譲ってくれるのはとても嬉しいのだがね、しかしね、君達は礼儀を忘れてしまったそうで思うのだが、この食べ物も不義の策略かなにかなのかい」などとのたまうべきではない。恩義を忘れて流言飛語に惑わされては、それこそ猫心が疑われてしまう。
「お体の調子が優れないようだが気を付けてくださいな。最近は風が強いのでしっかりと毛をつけるがよろしいと思う」
「やあ今日は幸運な日かも知れないね。ランチの鳴き声を聞くのは二度目だが君のその声は学園の中ではちょっとしたステイタスなんだよ。祐巳さんや志摩子さんに自慢をしてあげよう」
彼女はそう言いながら嬉しそうに歩いていった。私の鳴き声が「ステイタス」になるとは買い被り過ぎではないかと思うがやはり悪い気はしない。しかしよく考えてみるとステイタスになるというのは希少価値があるという意味だから、頻繁に披露してはその価値が無くなってしまう。ということは人前でおいそれと鳴けぬでは無いか、と結論づく。鳴くにも周りの目を気にしなければならぬとは、人気者というのもいささか困りものだと思う。
再びの昼寝の時である。
「おやゴロンタ。久しぶりじゃないか」
その声には多分に聞き覚えがあって、我輩はとっさに嬉し鳴きをした。振り向くとやはりそこには聖さんがいた。聖さんは見慣れぬ服で見慣れぬ靴、いわゆる見慣れぬ格好をしていたがそれでも聖さんには違いない。すたすたと歩いてくるので我輩も四つの足で歩いて迎えた。
「私がここを卒業した以来だから、ほんとに久方ぶりとなるね。元気でやっているかい。しばらく見ない内に少し大きくなったように見受けるけれど」
距離が縮まるにつれ、我輩は嬉しくなって聖さんの足元に駆け寄った。彼女は柔らかい手で私の体躯をいとも簡単に抱き上げる。
「あら。本当に重くなっているようだ」
「自分の重さは自分では判然としないが、そのようだね。しかし聖さんこそ元気そうでなによりだ。君は相も変わらず大きいのだね」
我輩は再会を喜んで彼女の細長い指をぺろりと舐めてやる。彼女も喜んでくれているようで我輩の背筋を優しげに撫でてくれる。
彼女は聖さんといって、特に懇意にしている人間である。むしろ友人であると我輩は思ってさえいるのだが、彼女がどう考えているかは深くは知らぬ。余計な詮索や何やらの強要は愚かな人間に任せておけばいいことなので遠慮することにしている。
「しかしまたどうしてお久しぶりである」
「うん。私もとても懐かしく感じるよ。君を見た途端、リリアン時代がパッと思い浮かんじゃった。懐かしい気持ちがする。まあ今でもリリアンと言えばリリアンにいるのだけどね」
彼女は人差し指と中指を器用に使って我輩の顎の下から首の辺りまでくすぐるように撫でてくれる。顔と匂いと、またそのくすぐられる感覚で我輩は彼女との記憶を三度彷彿する。ほんの少し前のことのような気がするが、大分長い間のような気もする。我等猫族は過ぎ去りし日に固執したりしがみついたりする非生産的な感傷はあまり持ち合わせておらぬが、たまになくはない。今がそのたまというやつだった。
「さてさて、実は会えるんじゃないかと思ってちゃっかり持ってきたのだけれど、いやはや正解正解」
察して、我輩は聖さんの腕の中からピョンと飛び降りて足元で待った。聖さんは肩にかけた鞄からがさごそやると缶を取り出した。
「おうおう。そんなにこれが好きかい」
「わかってるくせに。焦らすでないよ。時折君は性格悪いよ」
「えへへ。ごめんよ怒らないでちょうだい」
その名前が何なのか我輩は知っておる。キャットフード(猫の食べ物という意味らしい。非常にふざけた呼び名だと思う)の一種類である。水気はなく、かといってパサパサではなく、カリカリとしておるかつ抑えた旨みが舌の上で踊る。我輩が始めてこれを口にした時は飛び上がったものである。なんと人間はかように素晴らしい食材までを作り上げるか。仰天至極、人間を心より我輩は見直した。これほどの美味な食べ物を作ることができる才があるなら、皆これを作れば良いのにと残念にも思った。無骨な建物やら固い道路やら臭くて危ない車やら、そんなもの全部放っぽり出して皆キャットフードを作れば良いのに。いや、それが出来ぬ相談というのであれば道路も建物も車も全部キャットフードで作れば良いのである。なんとまあ我ながら名案を思いつく。腹が減れば建物を齧り、昼時になれば道路を砕き、人間の乗り物もキャットフードが走ると思えば何も怖いことはない。これである。これこそが今まで百害を生んできた人間が我等猫族やその他に対しての贖罪となるであろう。食材で贖罪とは上手いことを言ったと、ガリガリ食い散らかしながら我輩は内心得意げに思う。
「美味しいかい。おいおい、目の前に私がいることを忘れずに夢中になるんじゃないよ。寂しいじゃないか」
「いや、とても美味い。聖さんも見ているばかりではなく、お一つカリッとやったらどうか。あと今話し掛けないで欲しい」
「本当に夢中だね。猫まっしぐら。あらまあ本当のことだったか。さて人間もまっしぐらになるのか、お一つ頂戴」
ふと見ると聖さんも足を折りたたんで、我輩と同じ高さの視点でキャットフードをパクパクカリカリとやり出した。猫の食べ物、を人間が食う。なんら悪いとは思わない。我輩だって人間の食べ物を食べる。鳥だって食う。誰もが食う。そいつらをまた人間が食う。猫も負けじと食う。なんだって食うのだ。食ったもん勝ちであるというのはこの世界で唯一不変で完璧な解答であるゆえ、我輩も食う。
「あ、こら。それは私が目をつけてたやつなのに」
「君はその中途半端に欠けたやつを食ってればよろしい」
「いい度胸だ。お返ししなくては。えいや」
「やっ。それはやっちゃいかん。今、やっちゃいかんことをしたよ、君」
二人して口をモゴモゴさせながら言い争いつつ食事をする。こんなにも活気に溢れた飯は久々である。久々だというが、その前の楽しかった食事というのも相手は聖さんだし、その前も聖さんだと思う。それより以前は覚えておらぬ。だが多分聖さんで間違いあるまい。
ハンケチの上に置かれたキャットフードはものの五分もせぬうちに、みんな私と聖さんで平らげてしまった。久々に味のある食事が出来、我輩は満ち足りた腹持ちで前足で顔を洗う。
「やっぱりこれ美味しいね。ゴロンタが夢中になるわけも納得だ」
「当然である」
「人間用キャットフードも作ればよいのにね」
そう言いながら聖さんは声を上げて笑った。ひとしきり笑い続けると、聖さんはその場ですっくと立ち上がった。
「さて、そろそろ行こうかしら。不本意かもしれないけれど君に会いに来るのが目的というわけじゃないんだ。いや、会えればいいなと思っていたのは間違いないんだよ」
「気遣い無用。理解しているよ」
「楽しかったよ。また今度遊びに来るから。そのときは長靴一杯キャットフードを抱えてくるから期待してて頂戴」
ごきげんよう、と言い残して聖さんはすたすたとあちらの方へと歩いていく。
聖さん。我輩は貴君のことを大変好いている。人間の内では唯一の友人であるし、我輩を窮地から救ってくれた命の恩人でもある。けれど何より君は春先の陽光に似た匂いをさせている。我輩の大好きな匂いである。
彼女が角を曲ったのを確認して、我輩もきびすを返した。眠気が強くなってきている。
と物思いに耽っている最中、我輩は悪寒とも取れるびりびりとした感覚に襲われてぱっと後ろを向いた。
見るとなるほど我輩の野生の勘の働きっぷりが至極正しく機能しているという事を証明するかのように、尻尾三本分ほどの胴回りをした銀杏の木の陰からやけに背の高い人間がこちらを向いてじっと身構えている。己の勘の良さに満足を覚える反面、飽きにも似た気持ちが混じった嘆息を我輩はゆるゆるとこぼした。
またである。本当に毎日会いに来るものだと感心しつつ呆れもする。
名も知らぬ彼女だが、春の訪れと共に初対面するが早いか、日に一度は必ずと言っていいほど我輩の元へとやって来る。ただやって来るには問題などなく、土産だという風に缶詰入りの上等な食事を戴けるのもありがたいが、如何せんかのように木を盾に顔半分を覗かせた奇妙な姿勢で、我輩の一髭一尻尾を逃すべくかと意気込みが伝わるほどに、じっと見やってくるのだからやり難くて仕様がない。無理強いして近寄ろうとはせんのでそこらの奴等よりは何分もましであるが、どちらの方がより気味が悪いかと問われれば顔半分の女と答えるほかはない。
これが人間の社会で言う所の「ストウキング」という行為なのだろうかと憮然と思考すれど、置かれた食事を常にぺろりと平らげている我輩には、彼女に対して何を言う権利も持ち合わせてはいないだろうし、別になにをするつもりもない。
人間のうちでも特に背の高い彼女は我輩から見ればもはや動く山である。昔一度、馬なる動物を見たことがあるがやはり馬並という言葉があるのも全くだと思えるほどに大きく、そしてその体躯以上に何故かひどく圧倒してくる雰囲気があったのを覚えている。彼女もそのような気迫に似たものを備えているように思える。まさか食われはすまいが。
我輩はしばらくストウカアと思われる彼女を観察してみたが、木の陰で大きな体躯をしているにも関わらずもじもじとまるで乙女のような仕草で一向に顔と指先以外を出そうとはしないのだから困る。動きはもじもじなので取って食ってやろうと計画を立て、虎視眈々と我輩の柔肉を狙っているようにも思えんので一歩ずつ近づいてみた。すると面白いことに一定の距離を詰めるとぱっと彼女は第一の銀杏から離れて、もう一つ後方の第二の銀杏へと居を移したのである。中々な俊敏さ加減に我輩はうむと唸らずにはいられなかった。
「君、それは達磨さんが転んだの訓練か何かかね」
「あ」
不意にストウカア娘の挙動がぴたりと止まる。ぼんやりとした表情のまま、銀杏の幹から体がずるずるとはみ出てくる。達磨さんが転んだは終わりを迎えたようである。
「鳴いた。鳴きましたわ」
鳴かない猫など居ぬ。犬ですら鳴く。彼女は我輩を鳴かぬ物として観察していたのだろうか。だとしたら我輩は憤慨せずには居られぬ。
「初めて、私の前でニャアと鳴かれました」
我輩の憤慨をよそに彼女は呆けた表情でふらりふらりとこちらへ歩いてくる。そこまで茫然としてしまうほどに猫が鳴くという事実は衝撃を呼んだのであろうか。もはや憤懣やるかたなしのていである。じりじりと距離を保ちつつも我輩は毛を逆立てようかと気をためる。
「なんて綺麗で可愛らしい鳴き声なのかしら。ああ。お願い、もう一度聞かせて欲しいの」
いざ、なる瞬間にまるで方向の違った科白を言うものだから、我輩は思わず肩透かしをくらい行き場を失った気はくしゃみとなって鼻と口からくしゅんくしゅんと飛び出た。
「あら、本当に可愛らしい猫ちゃん」
そんな我輩の失態を目にしてすら恍惚とした表情を持って覗き込んでくるのだから、我輩の怒りはまことに見当外れのものだったようである。彼女はどうやら我輩の美声に酔いしれているらしい。先ほど負なる感情を抱いた相手なれど、それは我輩の勘違いであったからして今この時より彼女を褒め称えようとすれどそれは己の感情に節操がないという意味ではないことを予め断っておこう。
いつか誰か言っていたような気がするのだが、我輩の鳴き声はこの辺りではちょっとした「ステイタス」になるそうである。ステイタスというのはつまり誇れるという意味であるから、我輩の鳴き声に対して執着を見せることは仕方のないことかも知れぬ。いや、むしろ他の誰彼に比べ目の前の彼女はより我輩の鳴き声に対して高い評価を持っているという事なのだから、彼女を褒めるべきかも知れぬ。良い所を良い、悪い所は悪いと素直に言えるものが正しいということは異論を挟むことを許さぬ大前提の道理であるのだが、羞恥心やら自尊心やらが、悲しいかな我等猫族においてもかような愚物に囚われるものもいる所にはいるので人間を一概に愚かものと評することは出来ぬのだが、人間においてその比率が最も高しというのも歴然たる事実において発言するのだけれどやはり人間に多い。だというのに彼女は非常に率直に我輩の美声をとても良く理解しているようだ。
「君は、中々に物分りのいい娘のようだね」
「可愛い。もう一度鳴いてほしいですわ」
「気の済むまで鳴いてあげたいところだけどね、お互い時間も都合もあろう」
ここまで猫に寵愛を示す人間に我輩は初めてお目にかかった。それこそ心眼を見分ける眼力以外にも愛猫家である資質を兼ね備えている女性であろう。
そこまで考えを巡らした後、我輩ははたと気づいたことがある。ならばなおさら「ストウカア」なる言い表し方は的を得ているのではないか。
「もしやと思って聞くのだけれど、君は我輩という猫を引っ捕まえてどうにかしようなどと企ててはいまいね」
「お名前はどうしようかしら。いい名前が思いつかないわ。これから一緒の家族として暮らしていくというのに」
寒気を感じるとはこのことであろうか。我輩は飼い猫になどなる気はなく、自由気まま勝手気ままな野良猫暮らしを我が生涯の身の置き方としてすでに固く心に決めているのである。我輩の了解なく身の置き場をあちらの一存で右へ左へと移されたのではたまらない。
「そうね、祐巳という名前はどうかしら」
「申し訳ないがどうするつもりもない」
我輩はきびすを返してたったと壁を蹴り屋根の上より向こう側へと駆け出した。尻尾の方よりなにやら声が追ってきたが、振り返る暇を我輩は惜しいと思ったので何より先に駆けた。追ってはこれまいという所まで駆けてきた時、我輩は少々己の行いに恥じ入ってしまった。思い起こしてみれば食べ物を分けてもらっていたのである。挨拶も抜きに脱兎を決め込むというのも礼儀がなっていなかった気がする。次に会いまみえる時はもう少し慎重を期そうと心に決める。次まで覚えていればの話であるが。
比較をしてみて、最も安全である、危うきは遠し、と思われるねぐらにおいて我輩は何度目かなる睡眠を貪った。目を開けた時は日も大分傾き猫の目もお月さんと呼ばれるほどにぱっちりとしてくる暗さとなっていた。さていざ縄張りの巡回を、と思い立ち石畳の上をゆっくりと歩を進めた。道すがらに用を足し、今宵は塀の外の飼い猫某氏と会合があるのを思い出し、では今から準備をしようと池で水を飲み、手先で髭を整え顔を洗っていると、この時間では人とは出くわさぬであろうと考えていたのだけれど、意外なことに人影に出くわした。しかも初対面の彼女である。
「おや」
植え込みから生えている光の灯る灰色の冷たい木(街灯と呼ぶらしい。人間が植えたようだとは他猫から聞いた話なので確かかどうかはわからぬ)があるのでお互いの表情までしっかりと確認をすることが出来る。不意なる出逢い、妙なる拍子での対面であったので一人も一匹も何をどうすればよいのか手に余る妙な雰囲気となってしまった。
先に均衡を破ったのは彼女の方であった。
「こんばんは。さて、ゴロンタだったかメリーさんだったか」
「どちらも我輩である。どちらで呼んでも構わぬし他の名で呼んでも構わぬ」
「あらら、気難しい猫だとは聞いてたけれど、思ったより社交性があるようだね。生憎だけれど食べ物を持ってないのでお裾分けは出来ないんだ。残念だな」
「何も食べ物を貰えぬであれば話も出来ぬ食いしん坊でも打算を好む気性を持っているわけではないので構わないよ。また今度会った時にいただければそれで」
「悲しいな。君の言葉が理解できたらどんなに楽しいだろうと思うけれど。私は特別な人間じゃないから」
「気持ちが通じるのに特別も何もないと思うがね」
「何か、慰められたような気がするけれど。当たってるのか外れてるのか、わからないや」
彼女は薄く笑いをこぼしながら街灯の近くに置いてあるベンチに腰を下ろした。我輩も何故か彼女に非常な興味を抱いたので、彼女の隣りへと体を丸めた。
「私の名前は二条乃梨子というの。よろしく」
「我輩のことは何と呼んでもらっても構わない」
それよりしばらくは何故だかとても不思議な時間を過ごすこととなった。乃梨子さはこの辺りに人間にしてはどうにも異なる雰囲気をもっている。それがなぜか我輩の内から好意を引き出した。その雰囲気を好んだのではなく、この場において異なる雰囲気を一人保ったままだという事に我輩は好意を抱いたのだ。
「それにしても私のお姉さまは遅いこと。何をなさっているのかしら」
「時間をしっかり守れぬ人間は駄目だと思う。人間ばかりではなく猫でもそうだが」
「何かお仕置きをしてやろうかしら。そうね、ほどほどに面白くて、ちょっと苛めるくらいがちょうどいいと思うのよお仕置きって。うん、どんないじわるをしてやろうかしら」
「やり過ぎはいかんがね」
「こんなこと言ってても、実際には出来ないのだから、私も祐巳さまを笑えないくらいの姉馬鹿だわね」
我輩は尻尾を顔の前にやった。こうすると気持ちが良いからである。我輩の尻尾は非常に触りごこちが良い。心地よい尻尾に触れているのなら、座り心地の悪いベンチの上で長丁場であろうと耐えれないことはない。我輩は乃梨子さんとしばらくこうしていたいと望んでいるようだ。
風の音がひゅうんと巻き上がる。あちらの建物と建物の間は至って狭いのでそういう風な音がよくする。反面この辺りは開けているので強い風が吹くことはあまりない。しかしなぜ風の音を聞くだけで背筋が震えるほど寒い心持ちになったり、寂しげな気分になってしまうのだろうか。昔からの疑問なのだが答えはいまだに見つからない。乃梨子さんもあまり気分が優れないように思える。夜は寒気を伴うものだ。人間は猫や犬と違い、ふっさりとした毛並みを持たずにあまり温かそうにない衣服に身を包んでいるので実に寒そうである。我輩の何倍も寒いであろう。気の毒になった我輩は、乃梨子さんの太腿の上にお邪魔することにした。
「おいおい、君」
じっと乃梨子さんが我輩に目を向けてきた。我輩は言う。
「寒かろう。我輩もこうしていれば君の体温が腹に心地よい。お互い利害の一致を見るとは思わないかい」
「まったく。君は気難しいんじゃなかったのかい? 触ろうとしたら怒るだなんて誰が言っていたのやら」
「触れてもよいよ」
我輩は彼女が気に入ってしまったようだ。聖さん以来、気の合う友人となることが出来るかも知れぬ。触れてもらっても構わないと思ったほどなのだから。
合った視線を乃梨子さんは肩を竦めて外した。
「やめた。君に触ってみたいと思ったんだけどね。やめた」
「我輩は構わぬよ」
「君とは友達になれそうな気がするんだ。独り善がりな考えじゃないと、何となく気付いた。でもね」
彼女は遠くを見つめる視線のまま我輩に向けていった。
「別に、触れ合わなくても友達になれると思う。触れないと友人になれないなんて、私は思わないから、今は君には触れないことにするよ。でもいつか触らせて欲しいんだ。約束。こうやって約束しておけば、また君と話せると思うから。ずるいかしら」
ふふふと笑みをたたえながら彼女は立ち上がろうという気配を見せたので、我輩は太腿の上よりお暇をした。乃梨子さんは立ち上がると、いつの間にやら現れている建物の方でうろうろとしている人影に向かって声を発した。
「お姉さま、こっちこっち」
我輩は立ち去ることにした。やはり彼女は爽やかな精神の持ち主に間違いはなかった。友達になれると思っていた自分自身の心があさましくさえ思えてきた。友達とは一方的になるものではなく互いの同意の上に成立するという事を、長らく忘れていたかもしれない。
乃梨子さんがお姉さまという人間がやがて姿を現した。人間は姉妹という間柄をもち、妹が姉をよく敬う。そのような関係を築くということに我輩は並々ならぬ関心を抱いている。
「ごめんなさい、乃梨子。少し手間取ってしまって」
「うん。いいの」
我輩は、うっ、と詰まった。何を言う言葉も失うとはこのことであると痛感した。
「あら、ランチ?」
何やらよからぬ気配がする。我輩の体内は嵐となりそうな気配である。立ち去る事とする。
「それじゃ我輩は去ぬとする。今度会う時は友達になって欲しいと思う。よろしく」
「行くの?」
別れの挨拶もほどほどに、我輩は駆け出した。あ、と心残りな声が聞こえるがもはやそれ以上とどまってはいられない。
乃梨子のお姉さまの名前が志摩子ということを我輩は知っている。聖さんの妹であるということをまず知ったのであるが、その時より我輩は彼女は危険である認識を改められずにいる。
聖さんが認め、乃梨子さんが敬うような人間なのだからその人柄は推すまでもなく信頼の置ける人物なのであろうが、しかし如何せん、あのぎんなんの匂いがたまらぬ。我輩を近寄らせぬようにと考えて匂いを振りまいているのかと思えてしまうほどである。鼻につんとくる上に腹の辺りをぐちゃりとかき混ぜ終いには頭の奥をがんがんと叩く、狂暴な悪臭である。かような匂いをあえてまとうその神経を我輩はまず疑う。乃梨子さんは幸運である。鼻が悪いということを神仏に感謝するのを忘れてはならぬ。
やがて人影もあたりに消えると、我輩は空を見上げた。良い月が出ている。くっきりとした、良い月である。
我輩は闇に向かって駆けた。今日一日は中々楽しく過ごせた、清々しい心持ちである。今宵は、ぐっすり眠れるであろう。ぎんなんの匂いもすでに遠くになった。ねぐらは月明かりがさし、星のよく見えるところにしようではないか。
我輩は一度夜鳴きをして建物の屋上へと向かうのであった。