祝福の夜、祝祭に出かける遠野志貴とアルクェイド。
しかし惨劇はすでに終わっており、いつ始まるともしれない。
彷徨える子羊は、そう遠くない時に息絶えるだろう。安らかに、凄絶に。

自サイトで掲載していた作品ですが、ジオシティーズのサービス終了にともないこちらに移行させて頂きます。

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Ode to joy

 

 

 

 

 

『死に至る病とは絶望のことである』

――キェルケゴール――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラララ。

 衝撃が身を貫いた。

 いや、むしろまとわり付いたに似ている。光がどんどんとどこかへと逃げていく。

 粘質の闇を切り裂いた。

 手応えは重く、水銀のように滴った。闇が死と同義語であるのなら、断末魔の叫びなど上げるはずがない。死んだ。しかし闇が消えることはなかった。綻びの先には、さらに濃密な闇が横たわっていただけだった。闇は山のような質量をもってメリメリと現実を押し潰した。世界は闇に染まっているのに、それをさらに闇が潰したのだとしたら、先には一体なにがあるというのだろうか。

 主体も背景も何もかも黒が鈍重に塗りつぶして、とうとう前後を失った。左右はかすかに残っている。上下など元よりない。

 光を探して何時間もの間歩き続けた。どうしても諦めきれるものではなかった。この世がすでに滅んでいて、宇宙に粒子と砕けて溶けてしまっていたのだとしても、あの懐かしい日々が光を放っていたことに変わりはない。

 しかしもはやここは夢幻。有って無く、生きて亡く、死んで泣く。

 絶望の向こうには希望があるなどというのは子供をあやす昔話だ。その世迷言は魅力的過ぎるがゆえによくよく愚者を生み燃やす。燃えていいのはマネキンと肉だけ。ならば愚者がそのどちらかなのか答えてみろ。

 眩暈と耳鳴りにいつから襲われていたのか定かではない。ただ耳はずたずたで鼻はもっとずたずただった。眼窩に指を突っ込んでみてももう何もなかった。いつ、なくしたのか。どこにいったんだ、目。

 狂おしい衝動に突き動かされてじたばたと転げまわった。思わず足元の何かを蹴り飛ばしてしまったけれど、運がよければ手鞠だか何かで、悪かったとしてもしゃれこうべ。ずたずたの耳に届く歌があった。ラララ。鐘の音も聞かずに死んだ。ラララ。母にも会わずに死んだ。ラララ。人の愛も知らずに死んだ。

 頭の先からつま先まで、余すことなく裏返りを開始した。皮膚が裂けて肉がはみ出て、さながらさなぎの羽化の如し。ぶるぶると直接的な官能に震えながら、脱皮とはここまで気持ちのよいものなのかと考え、ならば自分は今よりさらに美しく変身することができるのかと恍惚に溺れていく。けれども元が闇ならば、裏返ってもやはり闇で、この快感も痛みも屈辱も悔しさも、一から十まで全て擬態と呼べるのではないのか。

 ぴりぴり。毀れ落ちていく、遠野志貴の欠片と欠片を砕いて撒いた。塵は天地の狭間で虹となり、懐かしい君たちの顔を染める。やあ、まだ俺を覚えてる? けれども誰一人こちらを向いている者はいない。皆が皆、百万個の粉塵に涙している。頼みが二つある。どうかこの愚者の懺悔を受け取って、そしてどうか早く殺して。

 一筋血が流れてきた。鈍色の天空から滴っているそれを辿れば現つへと再び戻ることが出来る。冷たい床に這いつくばり血より赤い血をさらに赤い舌で舐めとる。あそこもここと同じく闇ばかりと知りつつ、光は闇の擬態と知りつつ、ああしかしあそこへ戻ろう。そこに光が満ちているだなんて、間違っても信じれないけれど。

 血の味。間を置かずに発火。物凄く熱い炎に舐められて、今の自分はただの肉と知った。

 

 

 

 アルクェイドの冷たい手が頬を撫でるので、目が覚めた。

「戻ったの?」

「……ああ」

 世界に寝そべっていた。耳を何かがくすぐり、そして少し湿っている。どうやら草の上のようだ。まず、起き上がった。いつものように貧血の気配がしたけれど、なんとかよろけずに立ち上がることが出来た。

「アルクェイド、俺は」

 記憶がしっかりしている自信はなかった。元より自分の記憶なんて一番当てにならないものだけれど。アルクェイドがやや重たい口調で言った。

「覚えてない? あなたが、襲ってきた敵を倒して」

「戦ってたのは間違いないんだな」

 頭の中が少しだけはっきりとしていく。確かに避けたり弾いたり、そんな感触はかすかに残っていた。

「うん。で、いつもどおり逃がしちゃったのはもういいんだけど、置き土産みたいに放った呪詛が直撃したの。いたちの最後っ屁ってやつ」

「変な言葉ばかり覚えるなって……そうか、お前殺しちゃったんだな」

「殺すな、っていう話なら聞かないわ。仕方なかったし、何より志貴の命を優先した結果なのだから」

「そう、か。そうだな。お前に力を使わせた、っていう点でもやっぱり俺が悪い」

「……大丈夫?」

 不意に、大丈夫とはどういう状態なのかを考えた。

「平気だよ」

「ウソは通じないわ。ねぇ志貴」

「なぁアルクェイド」

 手を目元に当てた。包帯はしっかりと、それこそ痛いほどに巻かれていた。緊縛している。俺を、この世に緊縛している。

「遠野志貴が大丈夫だったのって、いつだ?」

 アルクェイドは何も言わなかった。黙って、俺の手を取り歩き出した。少しの間をおいて、黄昏のような罪悪感が重くのしかかってきた。梟の鳴き声を聞き、すでに黄昏が去ったことを知った。

 草木をかきわけて進みながら、もう城はすぐ目前であるということに気付いた。この魔力を乗せた風の匂いが教えてくれる。俺もすっかり、住む世界を違えてしまったものだとぼんやりと考えた。

 死んだ男のことを想った。半年振りに、アルクェイドと街まで行った帰り、強烈な魔力の塊をぶつけられた。避わしたあとはすぐに肉弾戦であった。武器を叩き落し、さらに飛んできた魔術力場を殺し、撤退を促した。沈黙の後、撤退する旨が告げられ、しかしさらに飛来したらしい黒い塊。そこまでしか覚えていない。後にその男がどうなったかは、想像しなくてもわかる。

 自業自得という言葉は使いたくない。どこかでこの事態を回避する手段はあったはずなのだ。それを運命だ、自己責任だと諦めてしまうのは、罪だと思う。だといってアルクェイドに強要することなど出来るはずもない。間違えば、殺される。血を求める暗い衝動はアインナッシュの実を食べた時からしばらくはおさまったはずだけれど、今は再び進行の兆しが現れ始めている。傷一つ、それが致命傷にすらなりかねない。

 だが、もう今さらじゃないかと、思う日もある。

「なら簡単なことじゃないか。俺が全部悪くて、あいつも俺が殺しちまったんだ」

「うん? 志貴、なにか言った?」

 質問を聞こえなかった振りして過ごし、やがて二人して城門をくぐった。世界を遮る歯車を鳴らして城門が閉まりゆく。その音は泣き声めいていて、悲鳴のようで、しかし所詮ただの錆鉄の摩擦でしかない。あばらが痛んだ。中身は違ったとしても、器はただの人間でしかないのだからどうしたって体には無理がたたる。けれどもそれが幸いへと傾くときが近頃は増えてきた。俺は、にじみ出てくる痛みに意識を向けて、ようやく正気をひねり出す術を学んだ。

 豪奢な調度品に埋もれた廊を、音も立てずに歩き続け、やがてアルクェイドの寝室へと辿りつく。疲れた顔をして彼女が言った。

「疲れたから、寝るわ。志貴?」

「俺も寝ようかな。もう少しだけ、起きているけど」

「あのね。一緒に、いてほしいんだけど」

 遠慮がちに、服の袖を引っ張られた。抱きしめたいという気持ちと、引き離したいという気持ちが瞬間せめぎあった。

 手を取り、やさしく離した。

「もう少しだけ、起きてるよ。そしてお前が寝たころに、俺も寝よう。目が覚めたら、目の前でおはようを言ってやるから」

 ついばむように口付けをする。うん、とはにかんでアルクェイドは扉の向こうへと消えた。何度か振り返って階下へと歩いた。振り向いたとして見えはしない。知ってる。

「君の寝息が聞きたい、ってのはキザだよな」

 束の間答えが返ってくるのを待ったけれど、いくら待てども返事はありえなかった。どっちが先に痺れを切らすか我慢比べをしても良かったけれど、結局自ら動くことにした。あんまり長引かせて、彼女の寝起きの悪さを目の当たりにするのは決して喜ばしいことではない。

 肉の味のする、唇を、袖で拭った。

 

 

 

 階段を下りて、広間にでた。

 緊張をしないときなんてない。三つ数えて、自分を落ち着かせて、一つ深呼吸をした。

「さて……よい、しょっ――!」

 七つ夜を引き抜いて構えるのと空気が裂けるのは同時だった。飛来する幾重もの鋭利な何か。空気の断層を読み、わずかに身をずらす。飛んできた槍のようなものは、甲高い音を鳴らして床に突き刺さった。

 黒々とした刃。

「黒鍵。埋葬機関の」

 さらに飛来する音たち。避け、叩き落したその数一から二十二。駆け出した。同時に包帯に手をかける。いざという事態となればいつでも引き千切れるほどにひ弱なそれは、最初で最後の命綱である。そんな襤褸で生を保っているというのは、矛盾なのだろうか。

 侵入者の気配を手繰って後を追う。完全に戦いなれしてる動きだったが、妙なことにどこか殺気がない。それでも敵だった。巨大な城の玄関口、血で染まった絨毯の上で、どっちが早く死んでしまうかを決める。不思議の国のアリスの結末が脈絡なく思い浮かんだ。まだ毒が抜けきっていないのを再確認しつつ、侵入者の剣を弾き魔弾を避ける。飛行機が落ちたのは、星の王子様だったか。

 体は滑らかに相手の攻撃を殺して、気付けば組み伏せていた。

「俺の勝ち。というわけで、出てって欲しいんだけど泥棒さん」

「いくらなんでも、先輩に対して泥棒扱いはないんじゃないですか」

「わ」

 すぐさま飛びのいた。懐かしさや嬉しさより、何よりまずは赤面した。この柔らかいのは何だろう、と疑問に思っていたりしたのだ。何を言えばいいのか見当が付かず、もう一歩しりぞいて怪しげな挙動で何をすることも出来ない。

「お久しぶりですね、遠野くん」

「うわー、本当に先輩だ」

 何ていうか、というより何をいえばいいのか迷い、結局何もいえないままどうしようか迷った。だから頭の中が上手にまとまらないうちに、とりあえず謝っておくことにした。

「はい、私にも落ち度がないわけじゃないので、埋め合わせ一回で許してあげちゃいます。優しいですね」

「うわー、本当に先輩だよ……」

「ま、とりあえず武器を収めましょうかお互い」

 床に突き刺さった黒鍵を一本ずつ引き抜いて、ごそごそと隠していく先輩。七つ夜を懐に戻してから、俺もそれを手伝った。馬鹿みたいな量だったその長剣は、なぜか一部の隙もなくカソックの下に隠れていく。魔術は二十二世紀の科学技術を模倣できるらしい。最後の一本を四次元に放り込んだ先輩は、階段の一番端っこにちょこんと座った。所在なさげに立っているのもあれなので、隣にお邪魔する。

 ふと、どうして闘いの最中に彼女だと気付かなかったのか、疑問に思ったけどすぐに消した。

「ええと。先輩久しぶり」

「はい、お久しぶりです」

「ええと。なんていうか」

「尋問が始まるんですね?」

「は?」

 きょとんとなる。

「あらゆる攻撃手段を封じられた私は、真祖の胎内ともいえるこのブリュンスタッド城の中で、その眷属『殺人貴』こと遠野志貴日本人から反論及び黙秘は即死という非人道的な尋問を、今から受けるのですね。私は死にたくないから、答えるより他ない」

 まぁそういうことにしとけ、と笑顔で先輩は伝えてくる。俺も笑って、頷いた。

 王貴族の屍を用いて作った巨大な階段で、俺と先輩二人して、端っこにちょこんと座って話をする。

「って、まずはどうしてここにいるんですか?」

「……はー」

 本気で言ってます? と目で先輩が訴えてくる。

「えーと……」

「本当に忘れちゃったんですね。ま、いいですけど。貴方が呼んだんじゃないですか」

「え? そう、でしたっけ?」

「そうですよ」

 よく、覚えていない。けど、先輩と話していると、本当にそんな気になってくるから不思議だ。

 俺はいった。語った。これまでの苦労や、楽しかったことや、怖かったことに、不意にさびしくなってしまうこと。

 それでも、俺は笑顔で語る。殺されそうになったことや、わけのわからない理由で襲われることですら、顔には出さずに、笑顔で語る。

 この笑顔が、先輩には不吉にみえることだろう。俺の笑顔に、彼女が硬い表情のまま向かい合ってることで、それが実によくわかる。

「遠野くん、あなたは人非人ではないし、鬼畜でもない。だから」

「うん、でもさ」

 先輩の言を遮っても、そのあとに続く言葉は出てこなかった。人非人を否定したとしても、自分が人だということに対する肯定にはならない。人であるけど人でなく、さりとて鬼でも畜生でもない。

「遠野くん、もうあなたそこまで」

「先輩、俺はもう終わってしまっているけれどあいつは」

「だとしてもあなたが消えれば彼女も変わってしまうでしょう」

 先輩が、肩を揺すって囁く。

「負けたらダメです。あなたはあなたなんだという、確たる核を抱いていないと」

 先輩の目を見た。いや、見ようとした。心の底から、ものを見ようという気持ちになるのはいつ以来か。

 ああ、先輩。正直に言おう。俺を救って欲しいんだ。俺は、最近、悪夢ばかり見るから。

「悪夢、ですか?」

「そう、悪夢」

 急に、握られている肩に、力が強くなる。

「たとえば、どんなのです?」

 先輩が、笑った。

 先輩。

「たとえば、って」

 これまでとは違う、柔らかい表情で、笑った。ぐにゃりと、柔軟に。顔のパーツが歪なぐらいに動いてしまう、柔軟さ加減。

 先輩。

 黙らないで。

 そんな顔で黙らないで。怖いんだ。

 その沈黙が、俺は。

「もしかして、こんな感じの、ですか?」

 先輩が懐から黒鍵を一本、無造作に引き抜いた。そして振り上げる。それを、一体どうするというのか、

 輝く軌跡を描いた。刃は皮膚を容易く切り裂いて、ピンクの肉をむき出しにした。あぁそれが先輩の色なのか。内臓も健康的な色をしているし、鮮血は噴水のように何メートルも飛んだ。

「どうしました遠野くん」

 皮膚とは、拒むためにある。つまりその下が本当の姿なのだ。中身こそが、人足らしめる。内臓本位。このひどく醜悪な匂いが人間の匂い、本性なのだ。脈々と胎動するはらわたは、けして沈黙することが出来ない。

 刃はさらに身体を切り裂いた。理も法も無視した力任せに広がっていく切断面は、粗く神経もほつれて刃には血管が絡み合って実に汚い。

「きれいでしょう?」

 これをきれいというのは、人間の汚濁を全て無視することに他ならない。なんていう、エゴイズムなのだろう。そんなこと、俺は出来ない。顔の皮まで剥ぎ取って、お前は何様のつもりだ。お前は先輩を、そうやって汚すのか。

 脊髄がびちびちと音を立てた。脊髄がびちびちと音を立てた。

「きれいでしょう」

 喉なんかとうに抉り出して、声帯は床に転がっている。けれどなんでお前はまだ声を出すんだ。何がきれいだというんだ。なにが、なにが。

 そして俺は、この悪夢から卒倒することで逃避を果たす。勢いは、まさに己を殴り殺すそれ。

 

 

 

 さて、問答しよう。

 この死の淵に立った今、まずは貴様が何者なのかを俺は問う。

「俺はお前で、お前は俺」

 不十分だ。

「遠野志貴」

 不十分だ。

「じゃあ、七夜志貴?」

 まだ足りんな。

「人間。男で、この前は日本に住んでて、今はアルクェイドの城に彼女と一緒に住んでて、直死の魔眼なんていう厄介なものを持ってて、ナイフを使って、そうだ、秋葉っていう妹がいる」

 それで?

「そうだな、えーと。秋葉は、遠野秋葉。実の妹じゃないけど、妹だ。でっかい屋敷に、住んでる。使用人に琥珀と翡翠っていう双子の姉妹がいて、使用人っていうより家族なんだけど、うん」

 その前は?

「えーとな、矢継ぎ早だなしかし。えーと、有間っていう家に預けられていて、おばさんとおじさんと、都古ちゃんていう、まあこっちも妹みたいな女の子がいる。そこにいたよ」

 その前は。

「覚えていない。秋葉から聞いたり、日記とかで何となく知ってるってくらいだ……もう十分だろう」

 過去が十全足りうることなどありえない。

「とはいえ俺たちは共有している存在だろ」

 それも定かではない。次元の違いを認識することは誰にも出来ない。

「お前にも?」

 これは一つのフラクタルである。範囲と単位が食い違い、理解を手中にするには更なる時間と労力を要する問題である。

「だったら、俺にもわからないということだ。俺だって、一枚岩じゃないんだから」

 放棄は美徳とは呼べない。アプローチは常に多彩であるべきだ。

 たとえば、こういう実験。

「秋葉……」

 そうだ、そう。これは遠野秋葉の姿だ。お前が愛した妹であり、今でもお前を愛している女性だ。私が彼女なのではない。彼女の姿を借りているだけだ。とはいえ、かなり精巧な近似値を弾いてはいるがね。正確にいえば、君の中の彼女の偶像を私が鏡面として映し出しているだけなのだが。

「知ってることを、わざわざ語るのは、時間の無駄だ」

 再確認することを無駄とは呼ばんよ。

 ここに、認識論における生命実存の命題を提示しよう。

 君が思うことはすなわち愛するということだ。

 君が彼女を思う限り、ここに存在する。思うことをやめた途端、消滅する。

「おい」

 遠野志貴の人生で遠野志貴が主役を張っている。遠野志貴の一存で人間は明滅する。

「おい」

 君はいま彼女を思い、愛しているからこの私は彼女の姿を借りて存在している。

 重大な実験をする。君の愛を、一度解除してみよう。

「やめろ……」

 どうなるかな。

「やめろ!」

 計算。閾値。近似値。減少傾向。

「……く」

 解除してみた。

 どうだね、君からはどう見えるね? この実験の重大な欠点は、観測者が君ひとりであるという事だ。私には、いまいちどうなったのかよくわからない。語ってみてくれ、この身は、どういう形状をしている? 美しく成長した黒髪の女性ではないだろう。

「お前は、お前はやっちゃいけないことをした」

 倫理的な問題は存在しない。自分に向けてのプライバシーなぞというものはありえない。重複した自己に対するプライバシーというのもこの場合は当てはまらない。我々は完全な同一なのだから。観点の違いから、お互いを理解しあおうという、この場はそういう類だ。

「消えろ」

 そうか、君がそう望むのなら、私という遠野志貴も去らねばなるまい。

 謝罪はしない。これに善悪はないのだ。表裏というわけでもなく、観点が違うだけで、他にたいした違いはない。これは自己を見つめなおす作業だ。遠野志貴は複雑になりすぎた。亀裂は縦横無尽。欠片は千差万別。損傷は複雑多岐。総じて、お互いは不測不離なのだ。

「消えろ」

 消えよう。だがイーブンであるべきだ。君も一つ問うべきだ。権利や義務などという変な言葉ではない。約束だ、これは。

 あるだろう、聞きたいこと。

「聞くこと?」

 そうだ、君が一番、知りたいことだ。私はそれに答えよう。とはいえ、答えは君が知っている範囲のものだがね。知らないことは聞き取れないし理解できないのだから、どのみちそうなんだけど。

「悪夢が、終わらないんだ」

 眼を覚ましたいのかい。

 悪夢から眼を覚ましたいのか。

「眼を覚ましたい」

 そうか。いいだろう。

「どうすれば、いい?」

 死ねばいいと思うよ。

 

 

 

 手に触れた感触に、ビクリとして、俺は目を覚ました。

「志貴?」

 アルクェイドの顔が近い。どこか、心配そうな眼差しを向けてくる。

 現実を、掴むのが難しい。懸命に、糸口を見つけた。ここはどこなのか、今はいつなのか、自分は誰なのか。

「志貴、大丈夫? 汗が」

 彼女は、彼女である。

 それだけが、どうしようもないくらいに明確だった。

 手を伸ばして、柔らかい頬に触れた。両手を伸ばした。耳から首筋、髪の毛へ。手で包んで抱き寄せた。ここにいる。彼女は、生きている。ああ、それはどうしようもないはっきりしたことだ。アルクェイド。お前は、ここにいるんだな。

「今日は、やっぱりやめにしとく?」

 抱き寄せた耳元で、小さく彼女が囁いた。

 何のことか、忘れていた。自分の存在さえ忘れそうなのだから、覚えていられるはずがない。それでも罪悪感があったが、彼女は気にもせずに続けた。

「今日、私の誕生日だから、久々に街に出よう、って……」

 そんなこともあったかもしれないと、思う。けどどうでもいい。

「いや、いこう」

 なかったとしても、いま決めた。

 立ち上がって、アルクェイドの肩を抱いた。ここは、城の玄関口だった。寒い、窓辺からは雪がさらさらと流れ込んでくる。門番が、寝てどうすると束の間笑った。

 うながして、外へ出る。この世界に、二人きり。いつ死ぬともわからない二人だ。アルクェイドも、もう長くない。それ以上に自分は長く生きれるはずもない。

 空を見上げた。夕暮れ時だ。

 ああ。

 どうしようもないくらいに痛い。心が痛い。張り裂けそうな想いが、乱反射する。行き場のない不確かさが、それを終わらせない。

 でも、彼女がいるのなら、大丈夫だ。大丈夫だと、言い聞かせることが、出来るだけでもたいしたものだ。

 アルクェイドに聞いた。前に街にいったのは、いつだったかと。

「半年前かな?」

「そうか」

 今日は、全部忘れてはしゃごう、そう決めた。

 歩いていく。街に近づいていく。人の気配が濃くなっていく。

 さあ楽しもう。聖なる夜だった。アルクェイドの、手を握る力が少し強くなった。

 クリスマス。クリスマス。

 メリーを詠い、生を喜ぶ。

 メリークリスマス。メリークリスマス。

 流れてくる歌声を聴くだけで、なにやら希望が湧いてくるような気がする。

 アルクェイドと顔を見合わせて、微笑みあった。

 変な夢ももう見ない。こうやって、街へ向かって歩いていくのが、何十回目のような気がするなんて、錯覚に決まってる。

 悪夢なんかない。そんなもの、見たとしてもとっくに覚めてる。覚めてるはずだ。

 ああそうだ。馬鹿なことを考えるのはやめよう。今日はクリスマス、この夜、きっと願いは叶う夜。

 さあ、楽しもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラララ。

 

 

 

 

 

 

 



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