そんなことより、昼飯買おうぜ。

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 安易に参考にした文献:
恣に――――各国の動向
命に嫌われている。/初音ミク――――歌詞。
漫画でわかるニーチェ――――思想
日本人として知っておきたい「世界激変」の行方――――思想
日本資本主義講座――――価値の変遷



第1話

「僕は安易に良心を前面に出すことを、嫌います」

 

 

 僕はいつかそういった。

 

 なんといえばいいのだろうか。

 

 そうだな……。

 

 君がもしも、その右手に握りしめられている500円で誰かを助けられる、なんて言われたら……。

君は助けるか?

 手段なんてどうでもいいんだ。

 ただ、君はその手に握った誰かの命を、誰かの、見知らぬ誰かのために使うことができるのか。

君の意見を聞きたい。誰かの洗脳や戯言、繰り返され耳に胼胝ができるほど口酸っぱく当たり前・常識のように、リピートする蓄音機から促される催促。

 

 誰かによって決めつけられた自分の価値観。

 定められた自分の当たり前を使わずに、今まで味わった感覚を思い出して答えてほしい。

 

 え、僕?

 

 

 そうだな……。

 

 うん、この誰かによって作られた価値で、僕がこれに含められる限界を超えた価値と誰かの価値が見合うなら。

そしてその対価として、その地獄かどうかわからないその世界から抜け出した証明を、僕に示してもらいたい。

 僕がその500円をどのように手にしたか、どんな気持ちでその誰かを助けたいと思ったか……。

 そもそもこんなことをうじうじ言い訳しながら後悔したって意味がない。

してしまったんだから仕方がない。その誰かに自分の僕の何かを満たしたかっただけなんだよ。

 

 誰かに褒められるわけでも、満たされるわけでもない。

 エゴ、自己満足といっても過言ではない。

しかしそれはルサンチマンなのだろうか。

 そうではなく、それに対して僕は満たされた気になっている。

 誰かによって押し付けられた価値観でも、価値でも、道徳的な心でもない。

 

 今までに感じて味わってきた自分のすべての心を持って、自分が持つ500円に最大の価値をその誰かに付与しただけなんだよ。

 

 これはエゴイズム?ルサンチマン?ニヒリズム?

 

 結局それも一つの見方だろう。

 だってそのなんとかリズムは、誰かがその人の心や感じ方を識別するための名称なんだから。

結局は同じなんだよ。根底も。基礎となるものは、なんの學も必要がない。

そこにあるんだから仕方ない。

 絶対になくせない。ないと思ってるのは、あることを認めないからだ。諦めてしまったから。

 

 結局人は、どんなことも感じてそれを自分の価値として信じるしかない。

それくらい心というもの、感情というものはただのたんぱく質の塊には荷が勝ちすぎなんだ。

 そんなことがない?

心、人の持つその感情を自分自身のものであると認識する前に、誰かによって染められるともしらないで、のうのうと自分のものだなんて言えるよね。

 それだけ心は空虚なんだ。この500円玉に付与した僕の価値は、誰かによって埋め込まれた形だけの常識が詰まったもの。

 僕という誰かが勝手に決めた価値。そんなものに気づくこともなく、手放され価値があると思われたもの。

それは今日も価値があると思われながら、ただの500円の価値があるとして透明なケースに放置される。

 

 

 放置された500円玉や他の価値がつけられた銅・鈴・ニッケルの合金は、その積み重なれた価値を見てどう思うだろうか。

 彼らを模範的な人道家として褒めたたえるのだろうか、広告につられたただの愚か者なのか。

それもまた、違う価値を持つ者によって500円玉の価値は、上書きされる。

 そこにはもう、僕の願いや思いはない。

 

 そこにあるのは、ただの500円玉だ。

 

 誰かが始めた遊戯かわからないこの世において、僕らのちっぽけな願いはこの無機物の塊に自分勝手な価値を付与して、ほかの誰かの価値に有意義に使われるだろう。

そこに犠牲はなくて。そこにあるものとして。恒常的な当然な措置として。

 

 疑問は甚だしい。 

 結局は考え方でしかないんだよ。

 

 あの500円玉に妄想も過剰な空想も、それぞれ勝手に入れ込んで。

 

 あれの価値のために、僕という人間につけられた値札は今日も、使用料を払われる。

 

 いつか手にした500円玉。

 

 価値のないものに価値をつける。それそのものに何を投資したかで、価値は変動する。

入れ込むほど価値や希少性は増加する。人間の貪欲な価値への入れ込みは、価値のないものへ過剰な価値の付与をする。

 それが常識なのか当然なのか、当たり前なのか、専門的に法律や憲法において、社会的に道徳的に人道的に、原理や心理的で能動なものなのか。

 

 僕の人生は、この500円を得るために、他人によって定められた価値に従事させられる。

 その価値に僕の価値はあっていない。

価値に価値を見出し、勝手に絶望し失望し、この世の価値や値札のつけ方を批判する。

 耐えるべきなのか楽しむべきなのか、無頓着まじめに不真面目に傲慢に自由に平等に行えばいいのか。

 

 この500円を得るために、次々生まれる価値も中身のない人間は命というものを使って、贖うのか抗うのか受け入れるのか突き放すのか、それぞれの与えられた道具を自分なりに改変して一秒一秒今を消費して、全力で怠慢に怠惰で強引に手繰り寄せている。

 

 

 そういえば、誰かが言っていた。

 

 すべてにおいて、結局はいつかは訪れる無により、今まで自分という価値のないものが

価値あるものとして満足に不満足に歩んだ軌跡が、無意味になる瞬間があると。

 

 今まで歴史においても、宗教だったり歌だったりにも示されてきたその瞬間のことだ。

 

 僕らはあちらを感じることはできない。感じれるのは命というものだけ。

何もなかった自分に、唯一価値を見出し再度落ちるか必死につかみ取る。

 

 その誰かは全ての遍く人の心理を、原理や前提にまで引きずりおろしてこういった。

 

 ”人はいのちに嫌われている”と。

 

 そこに培われた思想や無理やり繰り返された常識を入れ込むことなく、

躊躇なんてなくて、死んでよどんだ目ですべからく言った。

 

 僕が手にする子供の500円だまと今を必死に生きているサラリーマンが握る五百圓玉。

 

 価値は彼我が決め、それによって生かされている世界。

生きるかどうかは自分が持つ形だけの、そう……形骸化した常識に則って決めるんだ。

 全てが変わっていき、その中でも変わらぬ世界がある。

 けれど僕らの価値だけは変動していく。

 

 そんな誰かによって決められた価値によって、人は己の命の有無の是非を決定される。

 僕らは彼我によって決められた裁量で、無意味に無価値として世界を変えられてしまう。

 

 そこに意味なんてない。不特定多数による価値観の押し付けを行い、最大多数の幸福を満たす。

新聞に無慈悲に綴られる価値あるらしい情報は、価値を見出すものによって対価を払われる。

 ああ、むなしい。

 

 集められた価値観の塊は、それ以上の価値を付与されてどこかへ消えて行ってしまった。

 

 願わくばと思った自分勝手な解釈をしたその箱にあった500円玉は、無残にも価値を消してしまった。

だから僕はなんども反芻するんだ。

 

「いのちはいのちを嫌うんだ。結局、いのちとは空虚でしかない。

でも、空虚だからって、死ぬこととは違う。いきるとはいのちを生かすことだけど、

それは誰かの価値のためじゃない。僕が僕を生かさないといけない。

僕の価値を知っているのは、僕しかいないのだから」

 

 

 そうして僕は、次の月にもらった500円玉を貯金した。

 

 価値は決められるけど、価値を積み重ねることもできる。

それが意味あるかは知らない。

けれど価値は他のものに変換できる。

 僕に価値を見出せないのならば、ほかの価値を使って僕に価値を見出させてやる。

 最大の価値を、彼我の裁量によって都合よく決められた詐欺まがいの価値をつけられた市場へ、僕の価値を付与するために、今日も明日も明後日も……。

 

これからも、僕は誰かの価値観によって揺さぶられていくんだ。

 




HDDと心を壊した人間が、ボカロ曲を聴きながら書いた戯言です。

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