おひさしぶりです。
半年以上、あいております。
私も変わらないようで変わっているようです。
それも、流れなのでしょうか?
今回は、流れについて思考していきたいと思いますので、お付き合いしていただけましたら嬉しく思います。
流れとは、なにか?
私の流れ…肉体の変化…心の変化…感情の流れ
世の中の流れ…制度の変化…他者の変化…社会の流れ…
我と他による流れが出合うことで事柄が生まれる。
たまたまの偶然による出来事が生まれる。
努力や才能を上回る流れがある。
成功と失敗。
勝者と敗者。
支配者と奴隷。
良いことも、悪いことも
私にとって、世間にとって?
それぞれの都合による解釈。
どちらの解釈も、検討違いのまとはづれでしかないのではないか?
偶然という、運によって生まれた出来事でしかないことを、思い込み錯覚する思考に、うぬぼれと嫉妬に一気一様する感情はふりまわされ、あらたな流れを生み出すのであろうか。
流れとは変化なのだと思う。
様々な出合いによる変化する様なのだと思う。
自由意識という錯覚。
自分が選択しているという勘違い。
もっと、大きな流れによる縁を感じてならない。
そんなことを思考していると、人というものは、つくづく脳が発達したことにより、過去と未来に思考はとらわれてしまい、今という現実を生きられない生き物なのだと感じてしまう。
記憶と期待により振り回される今。
いちいち反応する感情は、無意識に思考し、夢をみる。
夢という幻想は希望と不安を生み出す。
利己と利他。
どこまでも、矛盾した存在。
どちらの感情も人が生きていくためには必要な感情であり、それゆえに思考する脳が発達したのであろう。
思考は集団幻想となり、社会を生み出す。
伝染する思考。
集団心理も個人の心理も、愛とエゴも、人そのものなのでしかない。
人は自然にあらがい、抵抗する存在なのか?
自然とは、循環する構造による流れである。
だがしかし、そんな人という生き物も自然が産み出した事柄なのだ。
自然は、不必要な流れを生み出さないと思う。
人が夢をみることで創造される世界なのかも?
虚像と実像なのかもしれないが。
それすらも、縁の一部なのだと思う。
せめて、たまたまによる流れに身をまかせて生きたいと思う。
最近の私は、[ついでに生きている]と感じてならない。
はたして、
この感情は、自然な流れによる思考なのか、
それとも、つかれているのであろうか、
まぁ、どちらにしても、たいして差はないことはわかるのですがね。
そんな流れに生きているということなのでしょう。
私は、子供の頃から仙人や賢者に成りたかった。
社会を外から眺めて生きたかった。
歳をとるごとに近付いているようです。
それも自然、私にとっての。
これも、たまたまという錯覚が みせた記憶なのかもしれませんがね。
あぁ、たそがれてしまいました。
こんなことを思考してしまう原因が、私の思い出せない深層心理に押し込まれているのでしょうが、無理にこじ開けない方がよいでしょうね。
パンドラの箱かもしれませんからね。
そのうち、
自然の流れにより開くことでしょう。
忘れた頃にね。
そんな、今日この頃なのであります。