太陽の時間が短くなってきました。
秋がはじまる頃に入ってきました。
食欲の秋。
読書の秋。
冬に向けて
物思いにふける季節ですね。
今回の内容は、あくまでも一般論ではなく、個人的な妄想による思考を記録したものであり、なんの根拠もありません。
人とは、社会からの影響を受けながら生きる生き物である。
社会とは世間である。
世間があるから私があるのか?
私があるから世間があるのか?
私とはなんだろう?
世間との調和するものが私なのではないか?
そのために最低限に必要なことは、自立だと思う。
自立とは?
私をととのえる思考である。
そう、自律する行為のことなのだと思う。
どんな状況でも、世間と私は対等の関係でいる行為のことなのだと思う。
世間とは、思想と文化による地域性から生まれる。
それを、コミュニティと言う。
私、家族、町、市、県、国、、、、
あなたが属する集団がコミュニティである。
あなたが、理解していようがいまいが、互いに意識しあいながら存在をしており成り立っているのがコミュニティである。
私が思うに、あなたが容認できるコミュニティがあなたの思想的な次元世界なのだろう。
そこに、納得できるかいなかにより、感情はゆさぶられ、生きやすさが変わるのがコミュニティであるからだ。
どんな人にも世間なくして生きることはできないので、世間を無意識が捉え私を押し込もうとする(同調圧力)のがコミュニティであるのであれば、
不満を感じ現実を受け止めきれない感情は不安を避けるために世間に無関心になりがちになるのが大衆である。
世間を捉えられないのは、無意識の抵抗か?理想がかなわない劣等感からか?もしくは、現実を認識する知識がないからか?
無知なるものが、大衆と言えよう。
私とは、集団から排除され孤立することを恐れる。
大衆とは、群れることで、孤立への不安を忘れようとするが、自身すらも忘れてしまい、認識できなくなった人なのだと思う。
そこに気づくことすら忘れた人達のことなのだと思う。
そんな大衆ほど、操り操作しやすいことはないのであろう。
なんらかの役回りを与え働かせることで無関心にする。
だから、集団心理を操る、少数の権力者にとっては、実にたやすい世界なのだろう。(どちらが善悪とはいえないのが社会であり、互いに影響しあっている)
私を律するのが理性ならば、世間を律するのは法律による規制であろう。
本当に、無関心になってよいのか?
つまり、今という世間を生み出しているのは私であり、
同時に世間が私を生み出しているのでもある。
「大衆よ、世間に噛みつけ❗️」
(そんなことをすれば、生きられない時代?)
とは言わないが、
せめて、世間にたいして無関心になることだけはやめないか。
どんな人でも、あなたが生きている時代を学ばなければならない。
あなたの生きている、存在理由を感じなければならない。
私も世間も互いに影響しあって今があるのだから。
そのためにすべき行為が自律という自身を知り世間(コミュニティ)と対話(コミュニケーション)することなのだと思う。
それでは、自律をするためには何をすればよいのか?
西洋的に言えば、自身を知るための哲学と心理学が社会学なのであろう。
しかし、何か足りない気がする?
一昔前と違い、現代社会は変化が速く、資本主義によるグローバルな世界と言えども、情報量が増加し多様な地域に分裂した世界である。
伝統文化や歴史感も大切であろうが、コロコロ代わり、いまひとつ、真実味にかける。
東洋的に言えば、仏教思想による瞑想なのか?
私は自身の立ち位置を認識することが大切だと思う。
自身の存在理由を感じることが必要だと思う。
そして、
自身の流れを感じ出合いと経験による自身の変化を認めること。
つまり、自分軸をもって生きることなのだ。
人は、自分の興味関心が有ることからしか世間を認識できないと思う。
そんな、個人が集まり地域を運営することにより多様な世間に変化していくのだと思う。
これからの生き方とは、
多様な地域を自分軸の変化により渡り歩く時代なのだと思う。
それは、自身が地域を変える原動力になってもよいし、生きやすい地域に移動してもよいだろう。
私は、そんな世界を望む。
できれば、個人の自由が多く、他人の自由を束縛しない世界を望む。
そんな生き方が可能な情報を学びながら、分別のある人になりたいと思う。
それが、私にとっての自分軸なのだと思う。
新しい時代とは、発想の新しい人が生きることで始まるのではないか?
技術の進歩は人に新しい知識を授けたのではないのか?
その技術を使いこなせなければ、文化にならないだろう。
現実と仮想によるデジタルのコミュニティに関係なく、社会は個人を育み、個人の集まりによる社会は統合され分析されることにより進歩するのではないか?
デジタルは自動に個人を記録し集団として管理しているが、反対に私達も社会を監視し地域に影響を与える構成員なのではないか?
自身を記録する技術は、自身を認識し、新たな社会を構築するのか?
情報量が増えることにより、認識できない不安に怯えて生きるか、
それとも、自分を律する
理性と直感による自分軸により、最適化した自身と技術による情報を利用して生きるのか?
それは、私の時代ではないだろう。
情報は統合され、多様な地域の時代が始まるのか?
自身の思考のモヤモヤをネットにばらまけばいい!
(もちろん、表現方法は学びましょう)
かってに監視して分析する世界を認識できるのか?
(生きやすさを求めて自然淘汰する)
個人と社会を繋ぐ世界は操作されるのか?
(無料コンテンツによる代償は個人情報だが、おてがるな快楽にいやしを求め)
誰もが引きこもりの時代になるのかもしれない?
(自身が一番大切だと当たり前に感じられる)
ふれあう、触覚が技術により変化しただけなのか?
(とまどいの先にある感覚が求める想像力)
しかし、社会なくして自身など生まれないと悟るだろう。(それこそが集団で生存してきた生物の本質)
互いに縁の世界。
新しい時代は扉が開いたばかりだ。
旧世代の私は、妄想により虚像と実像の間をゆらぐくらいであろうか?(私にとって妄想も想像も同じ)
21世紀に生きる人が生み出す世界なのだろう。
今回の思考は、
最近、読んだ本から影響を受けているかと思います。
実力も運のうち 能力主義は正義か? マイケル サンデル
つながり過ぎた世界の先に マルクス ガブリエル
虫とゴリラ 養老孟司 山極寿一
明治維新という名の洗脳 苫米地英人
FREE経済学入門 苫米地英人
社会学的想像力 ライトミルズ
哲学入門 戸田山和久
等々