楽笑おじさんと絶望こぞう   作:楽笑

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最近の私は、社会学に興味がわいてきているようなのですが、個人が集まり集団となることで、人類は生存率をあげ文化をきずいて今があるのですよね。

どうしても思考ぐせのある私は、あれこれと考えてしまいます。(無意識に社会学のような情報が目につき入っています)

この世界は、生まれつき不平等ですよね。

体力も知力も人並み以上のめぐまれた人がいます。

どちらかの能力をもっている人もいます。

体力がある人は体力で自身の願望をかなえようとしますが、私のように体力がない人は知力で願望をかなえようとするから考えがちになるのでしょうか?

それでは、体力も知力も人並み以下の人は?

願望を実現することをあきらめるしかないのか?

それとも、社会の仕組みにすくわれるのか?

今回は、そんなテーマで思考していきたいと思います。

ではでは、



体力か知力か?どちらもないと?人生あきらめるしかないのかな? (番外)

 

私は、社会とは世間であり、世間とは人間が生み出した歴史と文化の積み重ねによるものだと思います。多様な国家(大企業)があるように、同じような価値観を共有する思想文化圏(経済圏)が複雑にかかわりあってなりたっているのが現在の世界てすが、その文化圏も小さな地域ごとの人々の集まりによってなりたっているかと思います。

もっとも優れた思想文化をもつ集団とは、結果的に、永く続く集団なのではないのでしょうか?

永い時間軸で見ますと、悪い集団も、一時は繁栄しますが、内部のいざこざにより、衰退を迎えると思います。(そもそも善悪で考えている時点で無意味なのてすが)

結局は、人類が生き残るためには、細々とでも多様な集団が可能性を広げ、さまざまな個人が存在していることが大切なのではないのか?

そんな、人々の集まりに法則はないのか?

なんとなくでも、タイプを見極められないのか?

まずは、人のタイプを見極める方法を考えていきたいと思います。

 

 

 

 

<人の4タイプ>

 

社会というのは、集団により持続します。

 

永く続く社会には文化が生まれます。

 

文化とは、人々のかかわりに関係するかと思います。

 

そんな人々を、心理学者のユングはタイプ論で分析しました。

 

私にとっては、もっと解りやすいタイプ論があります。

 

私の思考に影響を与えた人である、岡田斗司夫さんは、人には4つのタイプがあると言います。

 

タイプごとに欲求のかたよりがあり、世界のとらえかたが違うようです。

 

お互いに解りあえないですが、それぞれのタイプごとに、優位劣位があることでまとまるようです。

 

注目型…外向的で抽象的、天真爛漫で人とのかかわりを好むムードメーカータイプ(気長)

 

司令型…外向的で合理的、勝ち負けにこだわり目的達成のために人を動かすのを好む常識人のリーダータイプ(短気)

 

法則型…内向的で客観的、沈着冷静で論理的な思考を好むパターン行動がちな参謀タイプ(気長)

 

理想型…内向的で感情的、頑固者で自由な自身の理想の生き方を好む職人気質なクリエイタータイプ(短気)

 

*外向的とは、集団行動を好み他人に意識が向かう。内向的とは、独りでも平気で自身の内面に意識が向かう。

 

[心理学のユングのタイプ論では8タイプ(外向的.内向的ごとに思考.感情.感覚.直感)に分けられています。更に人には二面性がありシャドウという裏の人格があると言っています。あまり、ペルソナという社会的な役割りとした人格に自身をかためすぎるとシャドウが暴走しだすのではないのかと思います。又、ユングは人の意識は、集合的無意識という無意識の深いところでつながっていると言っています。私は、進化の過程でDNAに刻み込まれた原初的な反応原理が元なのでわないのか?もしくは、社会的な生物ゆえに成長過程で無意識が文化を引き継いでいるのかもしれない?と思います。どちらにしても、それがあっての人類の繁栄なのだと思います。]

 

もっともまとまりのある集団とは、この4タイプがバランスよく集まっていると良いそうです。

 

お互いに、足りないところをおぎないながら、より良い集団へと進歩していくからだと思います。

 

集団の規模が大きくなったのが国であり、同類の思想をもつ地域が共有する文化圏なのだと思います。

 

くわしく知りたい方は、[岡田斗司夫、人の4タイプ]で検索してみてください。

 

 

どことなく、神道の[一霊四魂]という考え方にも似ているかと思います。

 

私は、前もっておおよそのあたりをつけ、人をタイプで見分けることで、余分なトラブルを避け、効率の良いコミュニケーションがとれるようになると思います。

まだまだ、完全ではなく、当たらないことが多いですが(違っていたら、あたりを修正するだけです)、自身の特性を知り、相手の特性を想像することで、不安感が減り、人に関心を持ち人間関係に悩まなくなりました。(悩んでいるとは、立ち止まっていること、行動をするとは、流れが生じること)

こんなことに関心をもつのも、私が法則型だからなのかもしれませんがね。

 

 

 

<体癖論>

 

タイプ論といいますと、体型ごとに姿勢の特徴で分けた[体癖論]というものもあります。

 

体癖論は、整体師の[野口はるちか]さんが考案しました。

 

ちなみに私は、Youtubeで心理学の[名越康文]さんから知りましたので、興味のある方は検索してみてください。

 

くわしく説明しだすと長くなりますので、今回は簡単に書かせていただきます。

 

体癖論とは、1種から10種までの10タイプに分けられております。タイプごとに、活発に機能するそれぞれの体の部位があることで、その人の性格と行動がきまってくると言われています。

 

ひとりの人間には、2.から3種類の体癖のタイプをあわせもっているそうで、年齢や体の疲れぐわいによってあらわれるタイプが変わってくるそうです。

(私は、体調にあわせて、体の全体のバランスを無意識が調整しているからたと思います。)

 

1種と2種は、頭にエネルギーが集まりやく、体を上下させることでバランスをとっています。(善悪、規則)

1種、丸顔、首が太い、頑固で知的好奇心が強く学者や教授など、話すのが得意

2種、目がはなれている昆虫顔、細身、長身で想像力が豊か、漫画家や小説家など、妄想癖に注意

 

3種と4種は、胃にエネルギーが集まりやすく、体を左右させることでバランスをとっています。(好き嫌い)

3種、ぱっちゃり、大食い、愛嬌があり可愛がられる、色や形に敏感、感情的になりやすい

4種、色白、細身、聞き上手、気配り上手で謙虚、ストレスをためやすい

 

5種と6種は、呼吸器にエネルギーが集まりやすく、体を前後させることでバランスをとっています。(合理性)

5種、肩幅が広くがっちり、行動的、運動能力が高い、損得に敏感、傲慢になりやすい

6種、なで肩、平和主義でのんびりや、のび太タイプ

 

7種と8種は、泌尿器にエネルギーが集まりやすく、体をねじることでバランスをとっています。(勝ち負け)

7種、色黒、筋肉質、負けず嫌い、派手好き、めんたるが強い、体育会系

8種、大柄、自分主義、理想が高くひねくれもの

 

9種と10種は、生殖器にエネルギーが集まりやすく、骨盤を開閉することでバランスをとっています。(愛憎)

9種、筋肉質、太りにくい、ゴリラ顔、職人気質、こだわりが強い

10種、顔のパーツが大きい、世話好き、おおらかで気前良く器が大きい

 

奇数系は、エネルギーがかたよりやすく白黒はっきりつけたがる性質があります。(せっかち)

 

偶数系は、エネルギーがかたまりにくく曖昧を許せる性質があります。(ゆっくり)

 

 

名越さんは、Youtubeでゲーム実況をしながら、体癖論をつかって、ゲームのキャラクターを見ただけで、心理的な特性を見事に分析しています。とても、おもしろいですのでおすすめします。

 

皆さんも、なんとなく、人の見た目から、相手の特性を想像しているかと思います。私は、人生の経験から無意識に情報をえることで相手の特性を予測しているかと思います。それを、体の特徴と性質の関係を知り尽くした整体師が論理的に考えたのが体癖論なのだと思います。

(体からの心理的な影響は大きいですからね。)

 

 

 

 

<天才だけでは社会は成り立たない>

 

 

岡田斗司夫さんは、「天才とは、発想力と表現力と論理力の3つの能力がバランス良く高い人」と言っている。

 

他人が思いつかない事柄を思いつき、他人が関心をもつように表現し、他人が納得できるように論理だてる。

 

この3つの能力がなければ、世の中には広がらないからだ。

 

ということは、その他の大勢の人々が、秀才と凡人である大衆なのであろう。

 

そんな大衆をタイプ論で分析したことで、凡人である大衆も他者を知り自身を知ることができるのであろう。

 

他者を知り自身を知るということは、社会がアップグレードすることではないかと思う。

 

大衆がより良い集団を形成することができるようになるからだ。

 

数少ない天才だけでは社会は成り立たない。

 

そこに、大衆という大勢の人々がいなければ、天才も孤独の存在にすぎないのだろう。

 

とるにたらない、さまざまな集団が生存できる大衆の日常こそが生きる世界なのだから。

 

なにをもって善悪とするのか?

なにをもって損得とするのか?

なにをもって勝ち負けとするのか?

 

すべては可能性のままに

 

個人は、自分を信じて自身の人生を歩めばいい

 

世界は、原始に帰っていく

 

私は、それこそが多様な縁で繋がりあう社会だと思う。

(今、流行りのワンネス、もしくは、全体主義?)

 

 

<十二支縁起>

 

 

縁起といいますと、外的なお互いの因果による関係性(社会的)でありすが、十二支縁起とは、世界の中心となる自身の内的な芽生えが自我となる(一方的に)外的な世界との関係性(心理的)だと思う

 

十二支縁起という考え方は、私が44歳の頃に出会った思考方法だ。

 

遥か昔に釈迦が広めた、原始の仏教の根幹とされる法則だ。(瞑想の為の思考方法かもしれません)

 

この頃の私に丁度良かったのか、難解な法則であったが、私の頭と心にすんなりと入ってきた。(この頃はYoutubeを良く見ており、水道橋博士の異常な猥談の苫米地さんと宮崎さんの仏教についての話しがきっかけで興味をもった。)

 

無知(無明)→志向作用(行)→識別作用(識)→名称と色形(名色)→六つの感覚があるところ(六処)→接触(触)→感受作用(受)→渇愛(愛)→執着(取)→生存(有)→経験(生)→苦(老死)

 

この十二支の無明からの順番による芽生えにより、私が生じるのが流転縁起といい、この流れを思考により見つめることを循観という。

反対に、老死からの順番により私が滅するのが、げん滅縁起という。(正確には老死が滅する時には残りの十一支も、同時に滅するのですが)この流れを思考により見つめることを逆観(瞑想による悟りの感覚だと思う)という。

 

 

言葉だけを見ると、とても解りにくいですが、ある程度の人生経験をされた方ならば、なんとなく感覚で捉えられるかと思う。

 

要は、生物としての人類と、社会的な思考する存在ゆえに、私という自我の仕組みを法則化しているのだと思う。

 

私なりの捉え方ですと、

 

無明は、空に有る無、

 

行は、もやもやした根元的な衝動

 

識は、みつける、認知、認識

 

名色は、みつけたものに名前をつけ区別する

 

六処は、目、耳、鼻、舌、体、心の感覚の芽生え

 

触は、感覚器官が触ること

 

受は、触って感じること感受性の芽生え

 

愛は、感受性の中から、もっと触っていたいという、好きなものを選択すること(好き嫌いの選別、時間)

 

取は、好きに対する執着というこだわり(自我)の芽生え(好きに囲まれていたい、空間)

 

有は、自我を感じた私が存在したいという欲求(時空の感覚にいる私)

 

生は、人生の経験のこと(私の記憶による成長)

 

老死は、自我が消えて無に帰ること(私の死)

 

だと思う。

 

釈迦は、人には、[生、老、病、死]という4つの苦しみがあると言っています。

 

苦しみが有るから自我が有るということなのだと思う。

 

楽しみが有るから自我が有るとも言えると思う。

 

生と自我は同時に存在する。

 

仏教とは、まるで、哲学のようですね。

 

有る意味、相対的であり、互いに打ち消しあえば消えて無に帰るのでしょうか?

 

生きている間、道なかばということかな。

 

いったりきたりのゆらぎのような。

 

 

十二支縁起の思考で社会をとらえてみる。

 

個人に自我があるように、集団にも自我があると思う。

 

すんなり、納得してしまう私に気づく。

 

納得できれば、それでよしの私に気づく。

 

 

 

 

<欲求の5段階>

 

人の欲求には、5段階の構造があるそうです。

 

[マグローの5段階欲求]という考え方です。(詳しく知りたい方は検索してください。)

 

欲求の段階が、ピラミッド構造になっており、下の欲求が満たされなければ上がれない仕組みになっています。

 

1階は、生物的欲求、2階は、安全欲求、で物理的(衣食住、病気)に生存できる状態になりたいという欲求です。

 

3階は、社会的欲求、4階は、承認欲求、5階は、自己実現欲求、で精神的(自身が感じるより良い集団)に安定した自身でいたいという、社会的な自分の立場による欲求です。

 

その上には、6階の欲求があるそうです。

 

自己超越、という、欲求を手放していく欲求だそうです。

 

社会的に影響力をもち、社会に拡大した自身は、社会の流れを、ただ見守るということだと思います。

(悟り、エネルギーの節約なのか?)

 

 

人という生き物は、自身よりも、より良い社会の集団意識という思想文化を育てるために進化しているのかもしれない。

 

 

 

 

<日本の個人資産の分布>

 

 

世の中は、大概のことはお金で解決できます。

 

日本の個人資産の分布と検索してみますと、

 

両端から、2%ほどの極端な存在、次に15%ほどの変革者、中央に残りの66%ほどの大衆がいます。

 

世の中の情報を統計し分布すると、だいたいこのような形になるそうです。(年収やIQや発達障害率など、平均値で捉えるからか?)

 

 

個人が、どんなに望んでもかなわない現実があります。

 

すべては、運がなせる業なのだと思います。

 

努力なんてものは、誰もがいきていればしているかと思います。

 

だからといって、社会を学ばないのはダメなことだと思います。

 

自分がその立場でなくても、学んでいたほうがよいでしょう。(学べば学ぶほど、いろいろな人がさまざまな価値観で生きていてわからなくなるかと思いますが、はじめはそれでいいと思います。)

 

現在の世の中は、検索すれば、手軽に情報をえることができます。

 

その情報をどう捉えるか?(それで、どうするの?)

 

それが、あなたという自身を育てることなのだと思います。

 

ひとりぼっちでは、お金があってもなにもできません。(日本の個人資産のほとんど多くが高齢者がもっています。つかいきれないほどの資産はふえていくばかりです)

 

お金に縛られている人は、お金で喜べますがお金で泣くことになると思います。

 

だから、社会的な欲求へと向かい、自己実現した先に欲求を手放していくのかと思います。

 

争ってばかりで、明日、核ミサイルで町が滅ぶ世界では、安心できません。(現実でも仮想でも複雑にからみあう世界はひとつの共同体なのか?それとも……)

 

だから、互いに助けあう社会があるのだと思います。

 

できごとは、きっかけにすぎません。

 

きっと、誰もが、似たような者だと気づくことでしょう。(両端の極端な2%はわかりませんが)

 

お金もちにはお金もちの悩みがあります。

 

それぞれの状態による悩みがあります。

 

 

 

 

 

<内需による国家社会とデジタル化による仮想社会>

 

 

デジタル化した社会は、個人が発信する時代。

 

反対に、大きな存在から監視されもする。

 

私は、安易に自由ばかりをおい求めて、本当の自由を手放す愚か者になりたくない。

 

自身の欲求を安売りして束縛されたくない。

 

流行りを操られ、ただ闇雲にほんろうされるのがオチなのだと思う。

 

それほどまでに、信用できなくなってしまった社会なのか?。

 

大きな社会メディアがあった時代は、良くも悪くも社会的な共通概念があり、話しができた。

 

これからの時代は、どうなることだろうか?

 

時代は加速化していく。

 

不変の教養といえば、哲学なのではないのか?

 

哲学こそが、積み重ねられた思考の先を目指すものなのではないか?

 

それこそが、知性としての人類の存在と繁栄をもたらす共通概念なのではないか?

 

もうひとつは、原初的な人という生物としての身体性が共通概念になりうるかと思う。

(細かくは、タイプごとによる違いはあるが、集団としての人類の強みととらえたい。)

 

これを前提に国家のありようを考えてみたいと思う。

 

現実としては、内需での経済圏とする社会が良いかと思う。

国家の役割りとはなにか?

最低限の、安定と安心を国民に与えることだと思う。

その為には、同じような思想を共有しながら、互いに支え会う社会でなければいけないと思う。

簡単に言えば、限定的な鎖国状態による内需での経済圏での国家運営を目指すことだと思う。

もちろん、世界のグローバル化は止まらないだろう。

それでも、互いに主張し理想を守りながら、国民の国益のために議論しなければならないのが国家なのだと思う。

他国と価値観があわなくても分かりあえないのを認め、根気よく外交し続けることで、お互いに納得せざるおえない線引きという国際ルールが決まり、平和が訪れるのだと思う。(なにも主張しないことが平和ではない)

要は、抽象度をあげた思想で個人をまとめた社会が国家であり、国家が代表して世界と対等に存在場所を維持しているということだろう。(平和がなければ自由も平等もない)

 

デジタル化した、仮想社会はますます広がりを見せることだろう。

国家をこえた、同じ神(好き嫌いによる主義思想)を信じる繋がり。

細分化された思想に個人は集まり、細かく分裂した集団を形成することだろう。

そのうちに、自分たちと違う神(主義思想)の部外者とは、言葉が通じなくなるかもしれない?

 

それが、自分にあわせた生き方を選択できるようになっていく、現状での自然な流れなのかもしれないが、まだまだ、人々のとまどいは隠せないのだろう。

 

それぞれの個人が自分にあった自由を求める時代に、あまりにも大きな枠組みの、国民国家という概念は存在しにくいかもしれない?

 

それでも、なにがしらの個人をまとめるための国家の役割りは必要だと思う。

 

 

 

<結局は、現実社会も仮想社会も心理的には変わらない?>

 

 

体力がある人は現実社会で、体力がない人は仮想社会に向かっていくように感じる。

 

自分の能力に合う生きやすさを求めて。

 

私は、どちらの社会も個人には大切だと思う。

 

片方によりすぎてはいけないと思う。

 

細分化された個人はもろくなる。

小さな神にぶらさがり、必死に自身を肯定しようとしがみつく。

まるで自分を裏切らないように、世界と争っている。

それが、引きこもりだと気づけない。

自ら、がんじがらめに縛りつけていることに気づかない。

 

変化を恐れるあまりに、社会から取り残されていく。

 

現実に引きこもる人も、仮想に引きこもる人も、結局は、同じように思う。

 

その人の、心理的な要因が表象化しているのだと思う。

 

 

それは、あまりにも、能力以上に世間を意識しなければ生存できなかった反動からか、頭でっかちな時代のなごりなのかもしれない。

 

 

 

 

<思考は抽象度をあげて、実生活は村社会程度で>

 

 

生まれながらに能力に差があることは不平等だが、生きていることじたいは平等な世界。

 

あなたにとっての、

 

それぞれの人生を生きる。

 

畑を耕す人

 

部屋に引きこもりデジタルに繋がる人

 

ひとり妄想にひたる人

 

大きな組織で人に囲まれている人

 

自分の好きなことを広める人

 

その他のさまざまな人

 

みんな、働いている

 

なにもしていないわけじゃない

 

それぞれの欲求にしたがって

 

お金を越えた価値

 

難しいことは解らないけど

 

なにがあってもなんとかなるという、安定した社会という場所があるからだと思う。

 

 

デジタル技術を活用しながら世界中と繋がることで、思考は抽象度をあげて、実生活はふれあえる村社会程度の距離で生きる。

 

 

それぞれの生き方の時代。

 

そんな時代の生き方。

 

 

 

 

 

 

終り

 

 

 

 





自分なんてものは、つきつめたところで捉えられない。
こうじゃなきゃいけない!
なになにであるべきだ!
なんて考えかたはやめたほうがいいと思う。
あなたが生きたいように生きればいいのだから、
どんな生きかたでも、社会とつながっているから、
社会が、かってに評価して、あなたの人物像ができあがる世界に私たちは生きている。
それが、思想文化が進化する仕組みなのだと思う。


これからの時代に必要なものは、世の中の共通概念である、哲学(科学を含む)と身体感覚(心理学を含む)なのだと思います。

主義や宗教は、それぞれの価値観にすぎないかと思います

哲学が生まれたギリシャ時代、紀元前の世界、縄文の日本 も同じ。
ある程度の平和を手にいれ、生きることに不安感を感じなくなった人類は、あるようでないものそれでもあるものにほんろうされるのがオチなのか?
大衆とは、[陽気なロボット]だと誰かが言っていたな
歴史が繰り返すのではなく、人類の意識が根元的に共通なのだからかもしれない?
(世界を巻き込んで、人口の規模が違いますがね。世界という集団の可能性)

今回、読んでいた本(影響を受けていた)

人生の法則 岡田斗司夫

評価と贈与の経済学内 内田樹 岡田斗司夫

仏教論争 宮崎哲弥
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