人には二面性があります。
表があれば裏がある。
どちらが、あなた?
いえいえ、どちらもあなたなのよ!
今回の内容は、私がふと感じたことを書いているだけですので間違いとか正しいではありません。
ただ、記録として残しておこうかと思ったしだいです。
(なんだか、公開日記のようですね。)
子供のころに、あなたの夢は?と聞かれてとまどったことはありませんか?
卒業式で発表したりして、なんか嘘くさいと感じたことはありませんか?
どこからか、声がします。
「そもそもなのですが、愛とか夢とか必要なのかな?」
「そりゃ、いるでしょ」
表さんが当然のように言います。
「そうかな、それって欲望なんじゃない?」
裏さんが真顔で言います。
「愛とか夢は欲望じゃないよ!むしろ、世の中にとって美しくよいものだよ」
表さんが言います。
「美しくよいって、誰にとって?…それに、美しくよければ欲望じやないの?」
裏さんが言います。
「なにいってるの?…美しくよいことは、正義でしょ!」
表さんが肯定します。
「正義って?…今は欲望かどうかの議論でしょ!…だから、愛とか夢は言いたくないのよ。」
裏さんが真顔で言います。
人は調子のよいときは、愛とか夢と言いたくなるようです。
そんな自分を肯定してがむしゃらに突き進むのではないのか?
周りを見ているようで、実際は自分にとっての正義という欲求に酔いしれているのではないのか?
まぁ、欲求があることは悪いことではないですし、そんな人の特性があるからこそ、新たな可能性が広がるのですからね。
それでは、調子が悪いときはどうなのか?
自分を肯定しにくいから愛とか夢を言いたくなく、内向的な保守的になるのか?
まぁ、誰にでも調子の波がありますからね。
どちらかに引っ張られるのが意識ですからね。
私は、欲求があることは人間らしさだと思います。
それに、愛とか夢を言うと、目的が明確になり、エネルギーが増えたように感じますからね。(エネルギーの総量はかわらないと思います)
ですから、欲求であろうが、愛とか夢を肯定します。
ただし、その愛とか夢も自分で選らんでいるのではなく、あなたの調子によって、周りからの影響による反応した感情によるものなのだと思います。
結論としては、「好きなように生きなさい!」なのです。
できれば、今回の内容を知ったうえで、愛とか夢を言えれば、もっと美しくよいかと思います。
人の調子の波があるのは、調子がよいと疲れを忘れてやりすぎてしまい、気づいた頃には調子が悪い状態になっているからだと思います。
おそらく、この疲れの感覚(肉体的にも精神的にも)が人によって違いがあることで、さまざまな人のタイプがあるのだと思います。
精神と身体の時間の感覚にも影響しているのでしょうか?
それは、思考にも影響しているかと思います。
疲れを感じにくい人は、体調がよいときの波の波長が長くて欲求が多くて勢いがある思考をするのだと思います。
私は、逆に疲れを感じやすく、内向的な慎重であり保守的なパターンを好む思考をしがちです。(エネルギーの節約?)
ですから、大概の事柄は「どうでもよい」と考えがちです。
子供のころに、「あなたにとっての愛とか夢」と聞かれても、答えられなくて悩んだ思い出があります。(先生は、現実的な職業でなければいけないと言われます)
私にとっては、「生きている」こと、それだけで、満足であり幸せなことだったのだと思います。(苦しみもふくんで幸せ)
私のように、無気力な人にも、欲求がないわけではなく、他の人よりも、愛とか夢に対して現実的な意識なのでなないかと思うのです。(本当になりたいと思っていなければ言えないから、子供のころは、周りを見てもなりたいと思えるものがなかったのが現実だった)
それだけ、「生きている」と感じやすいだけなのだと思うのです。(いつも調子が悪くて疲れていることのほうが普通だからか。たまに調子がよいときもあるのですがね)
結局、どちらが表でも裏でもよくて、二面性があることで、両極の間をゆらぎ、バランスがとれているのだと思います。
思考の進化のためには、本当に良くできた仕組みだと思います。(波を繰り返すほどに、世界観が螺旋に上がっていけますからね)
できれば、調子が悪いときに愛とか夢にしがみつかないほうがよいかと思います。
自分の救いは、愛とか夢しかないと感じてしまうと、疲れた状態をさらに追い込んでしまいます。(あまり、世の中も自分も否定的にならないほうがよいかと思います)
いずれは、体と心のバランスがくずれ、なかなか精神のバランスがとれなくなるかと思いうのです。
調子が悪いときは、空っぽにして、なによりも楽に生きることでエネルギーの回復力が増すのではないのでしょうか。(めくる季節のようなものだと感じます)
できるかぎり楽に生きたいという夢ではいけないのでしょうか?
子供のころに、教育された感覚からするとクズのダメな人ですが、なによりも楽に生きたいといつも思考するこは、努力ではないのでしょうか?
どうせ、つかれるのであれば、自身にあったつかれのほうがよいかと思います。
*つかれとは、自然な私ではなくなっている状態、もしくは、生きづらいのだが気づけない状態……何かに憑依されている状態
眠っているときにみる夢は、あなたが現実の事柄から感じたものが、抽象化されたシンボルとなったものだと思います。
おきているときにも夢をみていると思います。
それは、想像とか妄想とかいうものだと感じます。
(私はこちらの夢のほうが身近に感じています)
人は、世界の変換器なのかもしれません。
可能性は無限ですね。
愛とか夢を、うまく表現している言葉があります。
「おてがるな愛を正当化してすかしてればいいだろ」
忌野清志郎さんの歌詞です。(RCサクセションのハートのエースというアルバム)
若いころは、とかくカッコつけたがるものです。
いろいろとためして、自身にあう事柄をさがせばよいでしょう。(体を壊さない程度に)
そのうちに、自身の特性が見えてくるでしょう。
自身にとって合わないものは、いらないものと気づくことは重要なことだと思います。
あなたにとって、より良い世の中が近づいて来るかと思います。
私は、愛とか夢を安売りしたくないと感じています。
自身の心にあればよく、言いたくないと感じます。
現在の世の中にあるものは、私にとって、愛とか夢ではないのです。
それくらいに、自身でもハッキリとしないものであり、自身の成長にともない、ふくらみながら形作られてくるものなのだと感じます。
それは、「私になにがてきるか」が、感じられればその先が感じられ、自身にとって確かな事柄となる、自分が信じる世界観のようなものだと感じます。
もしかしたら、誰よりも強欲なのかもしれません。
おかげさまで、年齢をかさねるほどに楽に生きれるようになってきております。
いつも、遠くにあるものであり、なんとなく感じられるものであり、常に追い求めるもの…だけど、自分自身の中にあるもの、いつもね
それが、私にとっての「愛とか夢」なのです。