…いやはや、やられました。
心をえぐられたのです。
錯覚だとしてもね。
そんな言葉の力を感じたのです。
記録として描いておきます。
言葉は映像のように感じます。
心の記録なのです。
…名越さん、すごいよね。
私は心理学の名越康文さんのTwitterをフォローしているのですが、2日つづけて心をつかまれてしまいました。
まずは、今日の言葉です。
何でも知っていないと不安な人が、何でも知っているふりをしないと不安な人に先導される社会は見事に作られた。身体と自然を抜き取ればよかったのだ。でもまだ希望がある。
逆も真であるから。
おー、まさに、最近考えていたことではないか。
構造主義であり、小林秀雄であり、ベルクソンでもあるのだ。
知覚と身体は両輪であり、連動しているから、どちらかの刺激がもう一方にも影響を与える。
そして、イマージュの錯覚。
まいったね。
唯物論と実在論かな。
私たちは、動物ですから、嫌なら移動すればいいはずなのにね。
なぜか、自ら社会という現実場にからめとられてしまうのです。
多様性の時代と言いながら、しがみついて、自身と社会的な立場の積み上げた記憶をかえられないのです。
そして、昨日の言葉がこれです。
人は何故生きる。死ぬのが怖いから、というのが最も最先端の答えであることから目を逸らしてはならないだろう。それが有史以来数千年、人間が血みどろで築き上げた真の哲学であり、それ以外はただの趣味と見栄であった。今哲学と宗教は何を語るか。
これは、私の本質をつらぬく言葉なのです。
最近、社会学という哲学にはまっており、あれこれと思考していましたが、それって、死ぬことに比べたら、ね、ってな感じです。
私は、子供のころに母の死を身近に接して、死ぬことを強烈に感じて以来、自身で勝手に作り上げたイメージで死を遠ざけてきました。
私自身、今は死を怖くないと感じていますが、実際は怖いのです。
きっと、現実にせまってきたら、オタオタすることでしょう。
だから、人類は、宗教や哲学であらゆる死後の世界を語っているのでしょう。
ですが、現代は死が遠くに追いやられていき、挙げ句は、死なないことばかり語られています。
これも、いつかひっぺがされて反転しそうな気がします。
私は、言葉という物語の本が生きるという記号なのだと思います。
表紙が産まれであり、背表紙が死であり、間のページが、その人の人生なのだと思います。
時の流れとも言えるかな?
誰もが、自分だけの本を持っているかと思います。
それは、感情をともなう記憶なのかもしれませんし、データ化した記録なのかもしれません。(ベルクソンは記憶は二種類あると言っています)
死とは、人類共通の最も強い象徴なのかもしれませんね。
あとは、太陽と月もそうかなと思います。
あらゆる神話にでてきますからね。
名越康文さん、
勝手に、引用させていただいて、すみません。
そして、素晴らしい言葉をありがとうございます。
なんせ、私に向けられた言葉のように感じてしまいましたので、………不思議ですね。
それでは、又
生きていると、思ってもいない不思議な感覚にであえれますよ。
まだまだ、生きますよ。
だらだらとね。
あ、そうそう、死んだら唱えるとよい魔法の言葉があるそうです。
「天国、ただいま!」
だそうですよ。
これ、私、信じています。
天国があるかないかは知りませんがね。