楽笑おじさんと絶望こぞう   作:楽笑

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新しい年がはじまる。

なにも変わるわけでもないのだが、思考する者にとっては、何かのきっかけを感じてならないだろう。

そんなわけで、世界観のまとめをしてみたいと思う。

今回の文章は、私の勝手な妄想であり一般的な考えではありませんので、こんなことを思考している暇なオッサンがいるのだと思ってくださればよいです。

ただ、それだけのことであり、現実でも幻想でもありません。…あくまでも、私にとってはですがね。

今回の働くとは、サラリーマンとしての用意された役回りをするという行為のことです。




∞あれやこれやとなんだかな~?そんなこんなでひがくれて! その⑲ 元旦からボンヤリと思考するおバカな私とふれあう縁で世界は生まれる。

 

[働いたら負け]という思考。

 

 

人は永く生きていると、おかしなことを考えだすのか?

 

 

私の場合は、ただ生きていることに幸せを感じているようだ。

 

特別、やりたいこともない。

 

目的とか、夢とか言われてもね?

 

生きていて、世界を感じられれば、それで十分なようだ。

 

だから、やりたい仕事も、なりたいものもないようだ。

 

実際は、そこまで深刻に考えなくても生きていけるという状況の星の下に生まれたからなのだと思う。

 

戦後の貧しい世代をしらないし、のらりくらりと生きていける性分なせいか、精神的な抑圧も

あまり感じないようだ。

 

子供の頃に、抑圧された記憶があったとしても、やり過ごすことに慣れ親しんだ私ときたら、適当にはぐらかすスキルと、場に合わせての相手に合わせた立場上の振る舞いをするスキルばかり身に付いたのだと思う。

 

つまり、仮面ばかりで自分がないのだと思う。

 

 

今、思うことは、どうやっても、[人は社会なくしては生存できない生物]だということなのだろう。

 

このことは、子供頃から私は直感的にわかっていたのだろう。

 

[感謝の呪縛と押しつけの優しさの美化]なのかな?感じない人が幸せとも思えないけど、私にとっては重しなのだと思う。

 

それでも、自分自身のことを自己責任と自己完結的に生きていける時代になりつつあることと、それなりのゆとり(精神的にも金銭的にも)を手に入れた者ならば、目的などなくても幸せを感じられる時代なのだと思う。

 

だから、せめて、働くことをやめようと考えるのだろう。

 

その裏には、[借りをつくることのわずらわしさ]を感じやすい思想形態を無意識のうちに構築してしまった幼少期があったからなのだと思う。(借りは恩であり、返すものという文化に育った影響。子育てを借りと感じる時点でいかれてますよね。それだけ、母親のいない状況で家族に余裕がなく感じたのでしょう。それぞれの求めることのボタンの掛け違いだったと、今はわかるのですがね。)

 

これが、洗脳を上書きするための自己回避としての発想として、必要以上なまでの、働くことへの抵抗感なのだと思う。

 

もっと、自然になれたならと思うのですが、自然こそ、人それぞれの世界観ですからね。

 

 

 

 

[身体感覚]からの世界観の構築は縁なのか?

 

 

人は、生まれた瞬間から、外世界とふれあう。

 

外からの刺激により、身体は脳に情報をおくり、繰り返すパターンにより思考回路はつくられるのだと思う。

 

例えば、物をとる動作にしても、障害物をよける動作にしても、五感からくる情報(視覚による距離感や触覚くによる皮膚感覚など)により身体の連動した動きにより思考はうながされているのだと思う。(感受性にしても繰り返されたパターンによる反応なのかもね?)

 

だから、人により世界観は異なることのほうが普通なのだと思う。

 

しかし、社会がひとつにまとまるほどに、[ああなればこうなる]という、誰もが同じであるという世界観でなかれば不都合な世界となったのだと思う。

 

私にとっては、アドラーであり、前提も目標も同じように感じてならない。

 

どちらか一方をいじれば、もう一方にも影響が伝わるという世界観を感じる。

 

これは、身体的にも思考的にも同じ作用をしていると思うのだが、分業化が進んだ世界観の中では、互いに繋がらないというジレンマがおきているのだと思う。

 

このジレンマが、世界観のしこりなのだと思うのだが、認識できないがゆえに、どうにもならないだろうし、認識しようとしても、抑圧によるブロックにより、更なる重しを感じるのだと思う。(認知バイアスですかね)

 

 

だから、私の場合は、[働いたら負け]という思考に落ち着くのだと思う。

 

 

だけどね、そもそも、働くことにたいしては、それほどの辛さは感じてないのが現実であり、[自分自身と向き合う]という意味では、仮面をかぶってごまかすことができるので、働いているほうが楽ではあると思う。

 

[暇をもて余す]ということを、どうとらえるかによるのだと思う。

 

結局は、それぞれの立場により(生いたち)、世界観がかわってしまうということなのだと思う。

 

 

[先入観は創造上の世界を広げ、客観的な自己肯定感を育て上げるのか?]

 

 

自分自身を広げる行為とは何か?

 

人生経験であろう。

 

どれだけの場数。

 

どれだけの知識。

 

どれだけの想像。

 

をしてきたかなのだろう。

 

それが、自分自身の財産なのだと思う。

 

だから、私は、

 

[好きなように生きたらいいんじゃない]

 

と思う。

 

そう思えるのなら、大丈夫なのだと思う。

 

あらゆる、立場のあらゆるタイプであろうが、どんな時代であろうがね。

 

それぞれの人生を味わいましょう。

 

それぞれのはじまりが違うだけでしかないのだと思う。

 

 

きっと、どんな人でも幸せになれると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






私にとっては、あたりまえのことなのです。


全部、過ぎたこと。

全部、これからのこと。

今、ここに生きているのが私なのです。

ボンヤリと思考している、この瞬間がね。


ある意味、落ちぶれたオッサンの世界観ですがね。


それぞれの無意識に向けて。


不思議な縁なのです。


あぁ、人生。

0=∞


つけたし

今回の影響

日本の古武術では、骨接ぎという発想があるそうだ。

元は格闘家であった、平直行さんのYoutubeを、最近よく観ている。

何かを知る(感じる)ということは、無意識に影響を受けるということだと思う。

骨接ぎとは、体の不具合を骨格である骨から修正する活法のことだそうだ。

逆に、皮膚や筋を指でひっかけて動かすことで、より少ない力で相手のバランスを崩すことができるそうだ。

こわれた身体を、とりあえず、動けるようにさせるということが優先された戦場での技法であり、人類の経験からの凝縮された身体理論なのだと思う。

治すという行為とわ。(意識しすぎると不自然になるからか?)

人の行動も、無意識での神経伝達によりうながされる。

外からの刺激にたえずバランスをとり、反応しながら。

骨の間接の接点によりスイッチが変わる。

ほんの少しの角度の変化でもバランスがくずれる。

五感の接点により最適な連動がうまれる。

五感の接点にふれたとき、身体は最適な姿勢と肉体の連動により、次の行動をうながす。

より楽に動けるように進化したのが現存する身体なのだと思う。

つまりは、外からの刺激にたいする反応なのだと思う。

脳だけで思考しているのではなく、身体を伝わる神経伝達により思考しているのだと思う。

生まれたときからの繰り返された身体の記憶。

楽に動けるときほど力が生まれる。

楽に動けるときほど気にならない。

それこそが、自然なのかもしれない。

身体も感情も思考も同じ原理なのかもしれない?

それが私の世界観を生み出しているのだと思う。

あらゆる刺激が私の一点に集まり、その先に新たな何かを生み出すのかもしれない。

わかったようでわからないこと、それでも思考する、そんなボンヤリとした感覚の中に何かがあるのかもしれない?

私のたわごとが何かのヒントになれば幸いに思う。



つけたし1月3日

[マドマーゼル愛]さんのYoutubeで、こんな言葉を聞きました。

本当の自分に出会うと、輪廻転生からぬける。

水瓶座は変化しないことに不安を感じる。

はっとした瞬間でした。

真実なんて、どちらでもかまわないのです。

私にとっては、[だよね]とうなずく言葉なのです。

魂に響く言葉なのです。


[自由を求めるほど不自由を感じる]

昨年は、この感覚によく出会いました。

自由も不自由も隣どおしなのです。

真逆なようで、もっとも近い発想なのだと思います。

ということは、好きも嫌いも同じことだと思います。

自由なんてまやかし。

本当に自由な人は、不自由さえ気にならない人なのだと思います。

現実の自由を手に入れたとしても、自身の造り上げた思想による制限になやまさられることでしょう。

しかし、

人は何かにもたれかかりたい生き物だと思います。

あまりにも垣根のない世界では不安を感じるのだと思います。

それが、常識であり社会なのだと思います。

今、現在の私としても、自分が造り上げた垣根の範囲の中でしか生きられません。

せめて、[そうぞう]だけは無制限でありたいと思います。(これが私にとっては瞑想なのかな?)

その行為が、客観視であり、外世界を感じることなのだと思うのです。

つまりは、客観的に自身をフカンして観ることで、自分に写りこむ世界を感じるということなのだと思います。

ぞくにいう、[この世界は自身の投影]ということなのでしょうね。

これが、昨年のわかったことです。

ついでに、わかったからといって、なんてこともないということも感じたのです。

こちらのほうが、大きな影響なのかもしれませんけどね。

昨年の小説を読み返してみると、無意識にそのようなイメージを感じていたように思います。

本当の自分とは、何でしょうかね?

初期仏教でいう、大我と小我ですかね?

真我と自我のことですかね?

どちらにしても、言葉だけを知っていてもわかったことにはならないですし、わかったとしてもなんてこともないのですがね。

頭で考えることではなくて、ただ生きていることに幸せがあるように感じる気がします。

お暇なかたは調べてみては?

底無し沼かもしれませんがね。

おかしな宗教に依存しないでくださいね。

人それぞれの立ち位置がありますから、ほとんどの人にはおすすめしませんので、自己責任ということで。

私にとっては、

生きているついでの暇つぶしなのです。

それぐらいしか、感心がないのかもしれません。


あっ、はっとしたのは、これか?

なんか、繋がった。


そんな気分なのです。





1月5日つけたし

先に書いておきます。
訳のわからないことばかり書いてすみません。


はじまりが生まれた瞬間に終わりも生まれるのだと思います。

ループする存在。



私が感じる高次元の存在とは?
(あってもなくてもかまわないけどね)

自身の内にあるのではないのか?

自身と向き合い、自身に問いかけてみる。

自身の根源上の高みの位置により、発言がかわるのだと思う。

私が思うに、高次元の存在とは一神教のような一点の集約された存在ではなく、逆円錐形のように無限に広がる外側の存在なのだと思う。私とは隔離された存在なのだと思う。

より高みに近づくほど、同一の世界観となるのではないかと思う。

それは、こだわりも自我もない存在。

ある意味、もっとも無に近いのかもしれない。

私とは、高次元に囲まれた存在なのだと思う。

本当の自分に出会うのも、自分を許すのも、世界を許すのも、境をなくすことなのだろう。


ただ、3次元の世界観ではイメージすることは難しいだろう。

多角的な視点が必要なのだと思う。

自身を中心にしながら、多角的な視点を持つ技術が必要なのだと思う。

自分で感じて、自分で考えて、自分で選択して、自分で行動して、自分で納得することで近づくのだと思う。

今回のつけたしは、あくまでも、私の世界観ですので、共感できる方だけでかまいませんが、宇宙を想像してもらえるとわかりやすいと思います。

私の内にある宇宙と、私の外にある宇宙は、次元の裂け目のようなワームホールで繋がっているのかもしれません。

やはり、この世界は自身の投影なのだと思います。

しかし、その外宇宙も、更なる外側の宇宙に囲まれているかと思います。

なんだか、イメージという想像は無限に感じるのです。

私が、限りある命という有限でよかったと思います。

有も無も同じこと。

遥か先の存在から見れば、全てはどうでもよいのでしょうが、そのどうでもよいことの一部が私という身体であるのでしょうね。

人生を味わいましょう。

自身の身体が有る限り。

好きなように生きたらいいんじゃない

そんな気分なのです。



あ、愛なのか?

自身を許す愛

世界を許す愛

この世界は愛に包まれている


愛によって、生かされている



つけたし1月6日

またまた、つけたし日記のようになってきました。

以前も、後書きにこんなことをしていました。

私には、自分の思想を外に出すという能力があるようです。

特別に考えるわけでもなく。ただ、思いついたことを文字にする能力。

子供のころは、毎日の日記が嫌いだったのですがね。

なんだか、自己カウンセリングをしているようで、自身の立ち位置の変化と癖が、見えてきます。

いつのまにか、無意識に自分の内面と対話しているようです。

誰かに読んでもらうためでもないので、適当な文章ですが、書いているうちに。これは自分が書いているのか、何かに書かされているのか、わからなくなることがあります。

考えているようで考えていない、そんなボンヤリした感じなのです。

おそらく、これだけ続けられるということは、書く能力なのでしょうが、誰かに必要とされなければ才能とは言えないでしょう。

たまたま、私の書いた文章に出会い、なにかしらの影響を受けてくださった縁のある方は、きっと、私と似ている部分があるのだと思います。

そんな数少ないあなた。

どうも、ありがとうございます。

誰にでもなにかしらの能力があるかと思います。

それを才能にするのは、外側の世界の誰か。

しかし、自身はなんとなく、能力とも気づかないままに、やっている行為なのだと思います。

好きとか、努力を超越した行為。

特別な目的もないままにする行為。

それでも、そんなことが自分を生きることなのだと思います。

本当の自分なのだと思います。

ちょと、現実的な真面目な話しになってしまいましたね。

たまには、いいかな?

どうでもよい話しはおいといて。

とにかく、皆様、ありがとうございます。

私が誰かに伝えたいことは、これだけなのです。



つけたし1月16日

ボンヤリと思考していると、おかしなことを思うものです。

わざわざ、新しくまとめて書くほどでもないので、ここに記録しておきます。

私が生きている現実の世界とは、2次元なのだと思うのです。

実際には3次元なのですが、私は私からしか世界を眺められません。

360度の空間だとしても、私に向き合うものしか感じられないのならば、奥行きがあるようで、それは平面なのかもしれない?

そう思うとゲームのようなプログラミング世界に自分の位置により、世界との関係性が生まれるということなのだと思います。

それは、出会いや時間などに影響去れるのでしょう。

その影響は、私の感受性や思考にも影響することでしょう。

その、感受性や思考している行為により、多次元に世界は分裂していくのではないか?と思います。


やはり、縁の世界なのだと思います。


だとすると、私の存在は一次元なのかもしれない?

対面する現実の世界が2次元。

現実でおきてもいない感受性や思考という内面世界により次元は増えていくのかもしれない?

だから、感情に振り回されるのも、考えすぎるのも危険ということなのでしょうね。

ほとんどの人は、生きていれば現実的であるのが当たり前だと思います。

私としても、妄想が好きですが、現実のほうが馴染みがありますので、VR空間には馴染めそうにありません。

どちらにしても、こんなことを思考しているじたいが、満たされた証拠であり暇なのですが、そんな暇があることは、ありがたいのです。


これも、私の立ち位置なのでしょうね。


ほどよい距離感の次元で生きたいと思います。


きっと、伝わらないかと思いますが、こんなことを思った記録として残しておきます。


死んだらどの次元なのか?

それは、ゼロか?

それとも、無限か?

どちらも大差ないのかもね。



つけたし1月17日

昨日のつづきなのですが。

現実というものは、私が向き合う対面した2次元の世界。

ぞくにいう、ホログラフィー世界とかプログラミング世界なのだとすると、向き合う私の選択は、あわせるか、さからうか、さけるか、なのだと思います。

物事には適切な時期というものがありますので、私の状態により、同じ出来事でも違った結果となるでしょう。

なにも、現実というものは、私が対面する外側の世界だけでなく、私自身の、内面世界のほうが影響しているのでしょうね。

内面世界も、あわせるか、さからうか、さけるか、なのだと思います。

怠け者の特性をもつ私としては、極力、余分なことはしたくないので、自分の生き方にあわない物事との関係性をはぶこうとするのだと思います。

しかし、それでも降りかかってくる関係性にたいしては、最低限の認識ですまそうとしているのだと思うのです。

私と同じタイプの方で悩んでいるのでしたら、そこら辺をほんの少しだけ意識するだけで生きやすくなるかと思います。

わからない人は、生きるうえにおいて、自分が独りでも寂しくなくて平気かどうか?と自身に問いかけてみるとよいかと思います。

私は、独りのほうが楽に生きれるお子様なおじさんなんですよね。

いらいろなタイプがいますので断定はできませんが、私は、生きることには、焦らずじっくりタイミングを待つことが大切だと思います。

私は、物事が起こってから後悔したり文句を言うタイプの人が苦手なんですよね。
(本人もわかっているけど認めたくないからかな?)

「そんなこと、今さら」と思ってしまうのです。

だいたい、「考えるまでもなく、学生までの人生経験で結果の予想くらい感じるでしょ」と思ってしまうのです。(ただ騒ぎたいだけなのかな?他人に伝えることで認識するのかな?)

本当にいろいろな人がいるのですよね。

そんなことに気づくのも、時期があるのだと思います。

縁と運という、自身ではどうにもならないことは待つにかぎると思うのです。

孤独が平気か苦手か?

短気か気長か?

行動派か思考派か?

そんなことがタイプに影響しているのかもね。




つけたし1月18日、Aバージョン


去年の今頃は50歳の節目にあたり、とてつもない変化がおきたのだと感じます。

 

あ、これは私ごとですので、興味のある方は、一年前の回を読んで見てください。

 

こうやって、私ごとを記録に残していると、様々なことに気づくようになりました。

 

他人様にとっては、たいしたことではないのですが、私にとりましては、客観視というメタ認知の向上になります。

 

人というものは、わかっているけど同じようなことを繰り返しているようなのです。

 

嫌なことも、楽しみも、そこにあわせもってしまっているようで、変わりたくても変われないようなのです。

 

自分自身で囲った世界とは、勝手に思い込んで決めつけた思想の牢獄のようなものなのだと思います。

 

馴染みがありますので安心しますが、抜け出せないストレスさえも抱え込んでいるようです。

 

生まれた時代により、ある程度の社会的な義務感のような抑圧は違いますが、[本当はそんなものなんて初めから無いと気づく]のには、人それぞれの時期があるのでしょうね。

 

私の場合は、何度も気づきそうにはなっていましたが、やるべきことがあったせいか?、見逃していたように思います。(無意識での認知バイアスかな)

 

その気づきが、去年だったのだと思うのです。

 

 

[本当の自分なんてどこにもない]と思っていますが、自分自身が楽に生きれることは、本当の自分のようなものだと思うのです。

 

ですから、

 

「好きなように生きたらいいんじゃない」

 

無責任を越えた責任が、この感覚なんだと思うのです。

 

 

なんだ、そんなこと!

 

伝わるといいな☺️

 

 

この世界は私とその他でおりなす世界。

 

いやがおうにも比べるしかないない世界。

 

それが生き残るすべな世界。

 

対比があるから私がある。

 

そんなこと!

 

なにも、悩んだり心配したりしたところでなにも変わらない世界。

 

起きることは起きるべくして起きる。

 

どうにもならないことは、突然やってくる。

 

そんなことよりも、生きていることを味わいましょう。

 

「好きなように生きたらいいんじゃない」

 

それが、私が生きる責任。

 

つけたし1月18日、Bバージョン

去年の今頃は50歳の節目の年であり、とてつもない変化がおきたのだと感じます。

自分自身が生まれ変わったような感じる体験でした。

あ、これは私ごとですので、興味のある方は一年前の回を読んでみてください。

私の内面世界の立ち位置が、ガラリとかわったようなのです。(変わるといっても、一気に変わるわけではなくて、半年ほどかけての感じです。)

そんな気づきが、去年の今頃だったのだと思うのです。


[本当の自分なんてどこにもない]と思いますが、自分自身が楽に生きれることは、本当の自分のようなものだと思うのです。

人というものは、わかっているけどやめられない生きもの。

なにも悩んだり心配したりしたところで、なにも変わらない世界。

この世界は起きるべくして起きる世界。

どうにもならないことは、突然やってくる。

私とその他でおりなす世界。

いやがおうにも比べるしかないない世界。

対比があるから私がある。

自分自身が囲った世界で、もがいているにすぎない。

嫌なことも、楽しみも、そこにあわせもってしまっているようで、変わりたくても変われない。

無責任を越えた責任があるのだと思います。

私が生きる責任を手放さないでください。

十分、やったではないか?

私も、その他も楽に生きればいいんじゃない。

まずは、私からでしょ。

だからさ、

「好きなように生きたらいいんじゃない 」

なんだ、そんなこと!

伝わるといいな 


すでに、このような[気づき]が起きた方、これからの方、どちらの方もお幸せに。

人それぞれの時期の幸せを生きたらいいんじゃない。

私が、とやかく言うことでもないけどね。


あ、1月18日を二回書いてしまった。(一方は消してしまったと思って書き直したのですが。)せっかくですので残しておきます。あなたはAとBのどちらのバージョンが伝わりやすいですか?

まっいいか。




つけたし1月19日

崖っぷちに追い込まれて、はじめて自身に向き合うのかもね。

最後の最後に残ったものは、私ということなのかな。

世の中、いろいろなタイプの方がいますが、結局、たどり着く境地は悟りなのかもしれません。

やるべきことをやりつくした先にかんじること。

我が道を生きてみれば、わかるのだろうね。

私は、やっと入口に入ったところですが。

それぞれの道を生きればいいんじゃない。

私にとりましては、それは、

怠け者の道だったのだと思うのです。

あなたにもきっと、子供のころから気になること、いつもかんじることがあるかと思います。

なんでこんなことを思うのだろうか?

たとえ、それが少数派で常識はずれの価値観であったとしてもね。

おそらく、私に近いタイプの方にしか伝わらないでしょうが、それでも、なにかのヒントになればよいかと思います。

きっと、違うタイプの方は、私の文章など興味も持たないでさけてしまうでしょうからね。

それでいいと思います。

それが私の世界ですからね。

きっかけはなんでもよいのです。

なによりも、このハーメルンに出会い書くことで、私は救われたのだと思います。

ありがとう☺️


つけたし1月20日

ハーメルンでの小説投稿をして、はや4年。

はじめは息子の真似をして書き出したのですが、いつの間にか、小説というよりも自身の日記のようになりました。

現実と空想がまざりあったような。

私は、自身の人生を生きることが一番の娯楽なのだと思います。

生きている間の楽しみ。

現実も空想も楽しめばいいと思います。

誰かがつくった物語も楽しみですが、それを味わうことを含めた自身の人生ほど波乱万丈なことはないかと思います。

たとえ、誰にも伝わらなくても、楽しめれば、それでいいと思います。

おそらく、[書くことで楽しめる。]物書きとは、そんな性分なのだと思います。
(私は、子供のころから文字を書くことが苦手でしたが、入力という手段を覚えたから続けていられるのだと思います。)

これは私の記録なのです。



ありがとう☺️


つけたし1月21日


しょせんは、人が想像する事柄など現実が9割だと思います。

ほとんど似たり寄ったりになるのはそのためなのかな?

思考じたいが、現実を根元としていますからね。

より抽象的な事柄に向かうのは、そのためなのかな?


若い人にはわからないかもしれませんが、長年生きていると物事を選択することが、めんどくさくなってきます。

たいがいのことは、どちらでもかまわないことばかりなようになってきます。

怠け者だからなのか?それとも、そういうものなのか?

私には、わかりませんが、最近はひどくなってきている気がします。

なにかを選択する行為ほど、つかれるようなのです。

自由というものは、つかれるのかもね。

そんな私は、

自動にエネルギーの節約をしているのかもね。

歳をとったといえば、それまでなのですがね。

これはこれで、いいものだと感じています。

また、あれほどに興味があったものに(映画やアニメやゲーム等)長時間関われなくなってきました。

ある程度の転回が見えてしまったり、ありきたりの設定だと、その行為のほうがしんどくなってきます。

だから、ボンヤリとしているのかもね。

それでも、生きていると実感している私がいます。

なんだか、そんな自身を楽しんでいるようなのです。

繰り返してきた日常を味わう幸せとでもいえばわかるかな?(季節の変化や1日の時の流れ等)

生きがいがなくても幸せなのかもね。

やはり、若い人にはわからないかもしれませんがね。


オッサンのたわごとから、ジジイのたわごとになっていくようです。



つけたし1月22日

今年で51歳になります。

年齢を気にする歳でもなくなってきました。

老いていくことに、あらがうもよし、気にしないもよし。

人、それぞれの生きる道があってもよいと思います。

歳上からみれば、みんな若造な感じの人もいますが、私は、それすらも気にならなくなってきているようです。

いつか死ぬ、その日まで、生きているだけのこと。

たとえ、平和ボケといわれてもね。

そんなこと、どちらでもかまわないのです。

自身の体の老化は、私が一番感じております。

確実に、老いていくのです。

そんな幸せがあってもよいとよいと思います。

ありがとう☺️。



つけたし1月23日

これからは選択の時代だと言われています。

世界が多様化していくことによる選択。

どんな人生を選ぶかは、あなた自身。

だけどね、生まれた時に、ある程度の能力と特性は決まっているのだと思います。

歩んできた人生の体験を、なかったことにはできないと思います。

忘れることはできるけどね。

私は、生まれ持った能力と特性が潜在意識なのだと思います。

だから、潜在意識の書きかえはできないと思います。

ただ、生まれ持った能力と特性の範囲の中からの潜在意識の選択はできるかと思います。
(コーチングで言う、自己洗脳ですかね?)

できないことをして嫌な思いをして生きるか、できることで楽に生きるか、選択できる時代なのだと思います。

これが、怠け者の道を歩む私の基本です。

今の時代のことはわかりませんが、私の時代は、たいがいのことは学生時代までに体験できたかと思います。
(人間関係や自身の能力や特性による向き不向き)

社会人になってまで、嫌な生き方をすることはないんじゃないのかな?
(自身にあわないことはしない。)

まぁ、人それぞれですがね。
(違うタイプの方、違う道を歩んでくださいね。私にはわかりませんがね。)


ジジイのたわごとですね。



つけたし1月24日

一年ほど前の[はっと我に変える瞬間、自分さえも消える瞬間。]の回にもつけたし日記をしていましたが、一年でづいぶんかわったと思うのです。

相変わらず、おかしなことを自問自答していることはかわらないのですが、内容の視点が一段階あがったようなのです。

今まで気にしていたことが気にならなくなったこと、時間の流れのパターンによる様々な可能性をボンヤリと感じていること、大きな枠の中のうねりによる変化と自身の立ち位置をなんとなく感じること。

あくまでもなんとなくですので、うまくは説明はできません。

人には、それぞれののタイミングがあるのだと思います。(誰もが自身のタイミングを生きればいいと思います。わかっている人ほど、ヤボなことを口出さないのです。)

それが、縁と運なのだと思います。

勝手に目的を感じて理由つけをする世界。

自我を越えることはできませんが、エーテルのように広げれば、大きな影響を感じることができると思います。

偶然による、錯覚と直感は思考のきっかけなのかもしれません。

身体で思考するたとは、忘れ去られた体験の感情からの導きなのかもしれません。(遺伝子の記憶もね。)

私は自然の一部。

あまりにも、意味不明かな?

ジジイのたわごとですね。



つけたし1月25日

なぜだかわかりませんが、人は生きていると[自身が生まれた理由を思い出す。]と言われています。

おそらく、若い頃は世間体という社会的な常識を気にするあまりに、なにかと生きずらさにより寄り道をしているのだが、ある程度生きていると、そんなものは人それぞれの価値観でしかなく、時代にあわせた、上っ面でしかないと気にならなくなるからなのだと思います。
(ごまかしと反発によるストレスのループからの離脱かな。
無駄な争いをさけるためにも上っ面は大切でけどね。
何も誰とでもわかりあう必要もないと思います。)

それぞれの生きやすさに戻ることが、自身が生まれた理由を思い出すということなのだと思います。

本来の生まれ持った能力と特性に、生き方が近づくということなのだと思います。

そのタイミングも、人それぞれですがね。


うろたえなさるな。

まだ、生きているでしょ。

やるべきことをすればいいんじゃない 

感情は錯覚。

だいたい、覚えがあるでしょ。

今まで、生きてきて、生き抜いてきた私。

うまくいったり、いかなかったりさ。

いちいち、気にするなよ。

それも楽しみな。

人それぞれの生きる理由でね。


ジジイのたわごとですね。



つけたし1月26日

若い頃は、外側の世界を体験することで、自身の生まれ持った能力と特性を少しずつ広げているのでしょう。

自身と違う人たちを学ぶ体験なのかな?

ある程度の体験をして、自身の生き方に取り込んだ人は(ふにおちた方)、根元的な自身に戻っていくのだと思います。

比べる必要もないほどに、あなたも私も大差ないのかな?


さぁ、今年は何がおこるやら?

私の内面世界の変化。

私の外側世界の変化。

ただ、みつめて、味わっていきたいと思います。

昨年の私は、どうすれば外側の世界をフラットに感じれるのか?(全体をふかんできるのか?)と思っていました。

一年間たって、私なりに、理由つけや価値つけよりもボンヤリと感じることだと思いました。(みるというよりも感じることかな?)

時が来た。

今年は、ただ生きていたい、と感じています。

感情による欲求も含めてね。

ある意味、現実的(社会的)に生きる、最後の年のような気がします。

今までの私。

これからの私。

あいだの私。

新しい世界に向かって。

現実を懐かしむのもよいかと思います。

なんだか、どんどん変化していくのだよね。

これも、また、自然。

あくまでも、私にとってですがね。


つけたし1月27日

毎日、このつけたし日記という形で自身と向き合っている。

自分自身に写り混む外側の世界を観察しているかのように。

私は鏡のように感じる。

それを抽象的な文章にかえて記録している。

私を通して出てきた世界。

私の願望と特性が入り交じり、私なりの現実を生み出す。

半分は自身に酔いしれているのだろうね。
(自身の根元からの投影かな?)

残りの半分は、私にもわからない意味不明なもの。
(外側の世界の幻影によるかげろうのようなものなのかな?)

なんだか、生きてみれば謎解きに出会うように思う。
(その接点が、折り合いのついた現実世界かな?)

それは、あまりにも不確かな感覚だから、夢や幻に近い感覚なのだと思う。

あぁ、これはいつかみた世界。

デジャブとは、なんとも摩訶不思議ではあるが、それこそ私が今も生きているということなのだと感じるのです。

「オーイ、戻ってこいよ!」

私が私を呼ぶ声がする。

立ち位置は大切にしましょうね。


つけたし1月28日

お金のブロックについて考えてみよう。

私はお金にシビアだと思う。

人生、自力で生きていくと感じた時から、お金に関して学んできたように思う。

だからといって、努力してまで金持ちにもなりたくなかったのだと思う。(家が商売をしていたからか?)

今まで、お金にかんしては、収入があれば必ずといっていいほど増えている。

子供の頃から、あまり計算して計画するのは好きではないので、余分なことには使わない生き方がルールとなっているのだと思う。

生まれ持った特性なのか、なんらしかの影響を成長期に受けたからなのかはわからないが、自分自身の生き方を法則化するタイプなのだと思う。

お金がいくらほしいか?よりも、どんな生き方がしたいか?なのだと思う。

コーチングでいう、コンフォートゾーンなのだと思う。
(お金を求めなくなるとお金が増えるのかもしれない?)

別に気にならないし、そんな自身にも嫌な気もしないので、これでよいと思う。

私が生きていくのにたいして、さほどお金はかからないという現実がある。

病気になったら、としても、死ぬだけだと思う。

死ぬだけと言っても、この歳になってまで、死ぬことを怯えるよりも、生きていることを楽しめればよいと思うけどね。(人は遅かれ早かれ死ぬものですから、お迎えが来るのも楽しみなくらいですね。)

なんにせよ、子育てをしていた頃はそうとも言えずに、お金の計画ばかりしていたことを考えれば、今は気楽なものだと思う。(他人にたいする責任感をかんじやすいタイプなのかな?)

気楽になったことで、私とお金の関係性もかわったようで、あまりお金のことを考えなくても生きていけるようになった。

これは、お金のブロックがはずれたということなのか?

それとも、ただ単に世間と私の関係性がずれただけなのかな?

どちらにしてみても、気楽に生きれることは、私にとっては、幸せなことなのです。

今年は、お金だけでなく、いろいろなブロックがはずれていくようです。


つけたし1月29日

占星術占いをYouTubeで見ていて、水瓶座の特性について「なるほどな!」と感じた。

疑り深い私なので、そうかもな、くらいではあるのだがね。

水瓶座は、我が道を行く。

水瓶座は、枠の外側に独りでいることを好む。

水瓶座は、独自の視点をもつため、問題点に気づきやすい。

水瓶座は、変革者。

なんだか、この歳になって、とても納得してしまうのだが?

そもそも、占いなんて、解釈しだいであり、確率的には、当てはまる人もいて当然だと思う。

たまたま、今の私に都合のよい答えなのかもしれないしね。

だけど、宇宙の大きな周期的な法則の影響がないとも言えないのが、今の私の心情なのです。

それだけ、生きているということは、自分自身を超えた力に委ねられていると感じているのです。

水瓶座の人は、集合的宇宙意識の外側からやって来たのかもね。

否論理的ですよね。

独自の世界観といえば、水瓶座なのかもね。

私の根元なのかもしれないね。

とにかく、占いなんてものは、ほどほどにしましょうね。



つけたし1月30日

昨日のつづき

水瓶座にとっては、占いにかぎらず、自分以外の情報は全て疑っているのかもしれない。

たまたま、自身にあうタイミングの情報を選んでいるのだと思う。

根元的には、外側から世界をふかんしているのだろう。

おそらく、自分自身ですら、その内側の世界を生きている存在として感じているのかもしれない。

常に一歩退いた所から眺めているのかもしれない?

そう考えれば、世の中は現実的であり、生きている間の関わりでしかないのだろうね。

クールな存在というのも、めんどくさくと、私は思います。

自閉的であるがゆえに、感情がとぼしく見えるだろうが、しっかりと感じているのです。

ただ、他のタイプのようにハシャゲないだけなのだと思います。

せっかく、生まれてきたのに、悟り癖のある変り者ということなのだと思います。

やっぱり、今回が最後かな?

それとも、始まりだったりしてね。

わからないという楽しみに

ありがとう☺️

そもそも、信じるって、何?


皆さんは、生まれながらに適当なんだろうね。

私は、長年生きてきて、やっと適当になれたようです。

水瓶座とは、ノリの悪い、はみ出し者ともいえますね。


つけたし1月31日

今年の1月も今日で終わる。

人が認識の為に勝手に線引きした概念。

それも情報という仕組みであり、仕組みが合わさったものが枠という文化となる。

それぞれの枠が常識を無意識で囲うコミュニティ。

生まれながらの能力と特性を、それぞれのコミュニティがおおいつくす。

現実も思想もね。

学びにしても宗教にしても、自分自身に近いものを選んだほうがよいと思う。

私にしては、全てがなくなる仏教と、我が道を生きる神道なのだと思う。

その他の制約が多い宗教は、私にあわない。

答えや戒律なんてものは、人生で味わうものだと思う。

真理なんてものがあるとするならば、

[人それぞれ]

ということなのだと思う。

それぞれのタイミングでそれぞれの縁と運で生きる。

それすらも、生きている間の出来事でしかない。

無情を超えた導きがあるのだと思う。

生まれた理由があるとすれば、

我が道を生きることなのだと思う。


あくまでも、私の解釈ですよ。


人それぞれでよいと思います。


なんだか、[それ]が多い文章だな。

人それぞれのそれを生きましょう。


そういうものだと思います。



つけたし2月1日

今年の流れをボンヤリと感じる。

人が働くのは自然のことだと思う。

ただし、世界に対して働きかけるのであって、サラリーマンとしての働き方しか知らないのは、残念な生き方だと思う。

時代により、仕方がないのも分かっているのだが、長年生きてきて、自分自身にあった働き方(世界との関わり方)を見つけられたなら、その人は幸せなのだと思う。

現在の私は、週4日、1日5時間のパートを2年程しているのだが、今年の10月で辞めることにした。
(世間体や暇つぶしのために働くのもおかしく感じる)

どうにも、私の生き方にあわなくなってきたからだ。

おかげさまで、生活は残りの人生なんとかなりそうである。

この先、どうなるかわからないが、[働いたら負け]とは違い、なにかに気を使う生き方をしないため(とにかくめんどくさい)にも働かない生き方をはじめてみたいのだと思う。

それだけ、世間様にたいする価値観がずれてきたのだと思う。

私も、そんな歳になったのだと、あらためて感じる。

心配とか不安を超えた、自身の根元にさからえなくなってきたのだと思う。

いざ、怠け者の道へのカウントダウン。

やりたいことをやりなさい。

好きなように生きなさい。

ありがとう☺️



つけたし2月2日

自分のことは後回しにして、人様のことばかり気になる人がいる。

それはそれで悪いわけではないが、私は個人がない人生はおかしく感じる。

なぜ、人様のことばかり気になるのか?

その裏には、どんな心理状況があるのか?

大多数の側に属する人たちほど、人様のことばかり気になるような気がする。

同じように振る舞う人が多いほど安心感は増すはずなのだが、実際は逆のように感じる。

タイプにもよるのだろうが、私が感じる疑問すら感じない人たちが多いのだろうね。

しかし、そんな人たちほど、ストレスが多いように感じるのです。

だからといって、私がどうこうしようとも思わないけどね。

どうにもならないでしょうからね。

自業自得の世界だと思うのです。

とても、クールなのです。

それぞれがあるだけで、ワザワザかんしょうせず。

怠け者の道。



つけたし2月3日

生まれながらにして自分に疑問を感じないで、自己中心的に考えて生きれる人。

生まれながらにして他人がどう感じるのか優先してしまう人。

私は、ひとつ上の視点から観れば、どちらも自己中心的な発想なのだと思う。(お互いに遠回りをしている状況かな?)

好かれる必要もなければ、嫌われる必要もないと思う。
(どちらも、他人のことがわからないことにかわりはなく、学びの過程が違うだけなのだろう)

一番よいのは、他人がどう感じているのかわかったうえで、柔らかく自己中心的な生き方ができる人なのだと思う。

そういう私も、以前は他人に気をつかってばかりいて、とても疲れやすかった。(不安や心配というよりも、生存戦略としての生き方が染み付いて不自然になっていたようだ。)

本来の私の根元は、周りを気にしない我が道をいく自閉的なタイプなのだが、成長期の過程で人の顔色を気にするようになったようだ。
(今では、それもよい経験だったのかも?と思えるようになりました。)

相手に合わせて、ペルソナを使っても疲れるのはかわらない。

悩んだところで仕方のないことがある。

悩むよりも気づくことが重要なのだが、とても難しく思う。

幸い、私は紆余曲折して我が道へともどれたようなのだが、そうでない人たちのほうが多いことだろう。

そんな人たちに「他人のことなんて気にするな!」と言ったところで意味がないように思う。

言われるまでもなく、無意識ではわかっていて悩んでいるのだから、気晴らしをつくるか、逃げ場をつくるか、だろう。

それでも、おいこまれたなら、おもいきって生き方を見直すしかないのだと思う。

きっと、それまでの生き方は自分にあっていなかったと気づくことだろう。

それぞれの幸せを求めて生きていいのだと思います。

皆さん、お幸せに。


つけたし2月4日

愛について考えてみよう。

とても抽象的ですね。

誰もが知っているようでとらえようがない。

愛とは、幸せなのか?

愛とは、心地よさかな?

愛とは、人それぞれ?

答えのない、愛。

以前に私は、❤️=愛、夢、とした。

まずは自身から心地よく生きましょう。

ゆとりのない人に、他人を気遣う純粋の愛が自然にあふれてこないと、私は思います。

満たされたあなたに愛があふれますように。


なんてね❤️


ちょっと、逆から考えてみよう。

個人が満たされない世界に愛はあふれるのかな?

モラルに厳しい制限の多い社会。

私の尊厳はどこにあるのだろうか?

誰にも私がない社会に満たされた未来は訪れるのだろうか?

他人を監視することで、満足感をえるのか?

どこまでいっても、折り合いのつかないような気がする。

それは、私の内面をかきみだして愛を奪っていくような気がする。

不安と心配を撒き散らしながらね。

それが愛と感じる人もいるだろうが、私は醜く感じる。

私はなるべく醜い生き方をしたくないと思う。

どれだけ、落ちぶれたとしても、自身の尊厳だけはなくしたくないと思う。

おっと、あぶない、私の中にも怒りの種があるようです。

なんだか、ネガティブな私ですね。


そんなときもあるものです。






つけたし2月6日

世の中、物質から精神の時代へと、言われるようになってきました。

私は、「いまさら?」と感じております。

子供の頃から、質素倹約で生きています。

老後の心配と言われましても、ずっと老後の生活のようなものです。

一時は、恋愛やパチンコや酒にお金を使ったこともありましたが、私の生き方ではなかったようです。

どうように、子育てと仕事が中心な時期も体験しましたが、私の生き方ではなかったようです。

ということで、現在はボンヤリと何もしたくないと思う生き方をしております。

何もしたくないと思う生き方といっても、毎日あれこれと楽しみはあるもので、私の慣れ親しんだ世界と共感する瞬間を多く感じております。

今のところ、この生き方が私にはあっているように感じております。

世間様は、どうしておしえてくれなかったのだろう?と思うのですが、少数派の例外的な生き方だからだと思うのです。

あれこれと、試してみてたどり着く生き方でしかないのだと思います。

それぞれの生き方があるだけで、かんしょうせずということなのだと思うのです。

このような、少数派の感性をお持ちの方には、自分にあった情報が少ない世の中ですが、私の価値観がなんらかの参考になれば幸いに感じます。

はじめは言語で思考するしかないかと思いますが、あなたの身体で感じてみると良いかと思います。

理屈や道理も大切ではありますが、素直に生きてみてはどうですか?

まぁ、私自身に話しているようなものですがね。

全ては生きるついでに起こることでしかなく、ただ流れているだけのようなもの。

それぞれの流れがあるだけであり、たまに互いに影響を与えあっているようなもの。

おそらく、それが愛なのかもしれないね。

共有する世の中に誕生するとは、そのようなことなのだと感じております。

存在とは愛なのだと感じております。



ありがとう☺️


おまけ…精神の時代といっても、私のような感覚過敏タイブの方は、勝手に世の中の情報が入り込んで精神の暴走がおきかねませんので、感覚の制御の仕方を学んでおいたほうがよいと思います。
いわゆる、反すうという状態のことですが、私はボンヤリと生きる生き方で楽になったように感じております。
様々な経験と知識によって、思考に上がる前に、無意識で取捨選択しているような気がします。
それぞれの対応の仕方があるかと思いますので、なんとも言えませんけどね。


つけたし2月7日


精神の時代について考えてみよう。

私はスピリチュアルやオカルトという精神的なことに興味が向かうようです。

人には、生まれながらなに特性がありますので、生まれた時代と自身の特性の相性が生きやすさに影響するのだと思います。
(肉体の体質のように霊的体質というものにも特性があるかと思います。)

スピリチュアルといっても、さまざまなタイプがありますので、自分にあうタイプを探すことから始まるかと思います。

それも含めて学びだと思いますので、物質の時代とかわりはなく、経験が必要となるかと思います。

教える側にしましても(私は人に何かを教えるタイプではありませんが)、完璧ではなくて理解度の差が大きく関わってきますので、お互いに理解していくのかもしれません。(人によって表現の仕方が違いますし、感覚の捉え方も違うようです。)

スピリチュアルを突き詰めていくと、自分自身の特性上の次元の高みがあるようで、それを高次元の存在と言ったり、抽象度をあげた思考と言ったり、ワンネスと言ったり、宇宙意識と言ったりするようです。

確かに人には、言語を超えた感覚での意思の交流があるかと思います。

くれぐれも、スピリチュアルは万能ではなくて、学んだからといって、苦悩がなくなり思い通りに生きれるとは限らないと思いますので、皆様、お気をつけください。
(むしろ、感じられなかった苦悩に敏感になり生きにくくなることもあるようです。)

私は、スピリチュアルとは、世の中の関係性を感じとることで、自身と向き合うことだと感じております。

私と皆様に安らかな幸せが訪れますように。


ありがとう☺️


つけたし2月8日


スピリチュアルについて考えてみよう。

スピリチュアルに興味関心を持って生きていると、感覚と世界との関係性が分かってくるような気がします。

元から感覚が敏感な人も、そうでない人も、「人間も地球と共生しているのだなぁ、]と感じてならないです。

たまたま、化学文化の時代に生まれただけで、誰もが地球と連動して生きていると思います。

忘れてしまった能力があるのでしょうね。

それを、霊感というのかもしれません?

世界の流れが発する意識のようなもの(意識にもならない気もあるかな?)人の意識は特に強いような気がします。(気配のようなものかな?)

動物や植物からも感じられますよね。

それらが、集まった山や川等の自然にもね。

長年かけて進化した反応パターンがDNAに組み込まれているからなのかな?

瞑想をしていると、それだけではなく、何か別の要素があるような気がしてきます。

信じる以前の根元のようなものかな?

考える必要すらない、心地よさかな?

反対に不安や恐怖も感じられますよね。

人であるかぎり、あくまでも気がする程度でしかないのですがね。

肉体の生存こそが、優先される現実に生きているということなのだと思います。

たまに、無防備に肉体からはみ出したりしている人もいるようですがね。

おかしな意識にとりつかれないといいのですがね。

とにかく、人によっては、スピリチュアルは危険なものだと思いますので、ほどほどがよいかと思います。

私は現実的なスピリチュアル好きなのだと思います。

結局、スピリチュアルなんてものは、どれだけ学んでも答えはありませんね。

そんなところは、現実の生き方とかわらないのでしょうね。

できれば、スピリチュアルなどに興味をもたずに、現実的に生きたほうがよいでしょうね。

ここまで読んでいるということは、あなたはスピリチュアルに興味があるのでしょうね。

スピリチュアルを学びたい人は、せめて、客観的に自身をふかんするメタ認知能力を覚えたほうがよいかと思います。



つけたし2月9日


百年ほど前は、人も大人になるまでに半数ほどがなくなっていたようです。

嫌な言い方ですが、自然に間引きをしており、人口バランスを保っていたようです。

生存率の高い者は、その時代に適応できた人だったのだと思います。

しかし、現代はほとんどの人が大人となります。

病気や事故でなくなってしまう人もいますが、特性により自らなくなる人もいるようです。

それでも、多くの人たちは、昔よりは生き残り大人となることでしょうね。

一昔前なら生き残れなかった特性をもつ人が多くなっていくことでしょうね。

新しい時代の価値観をもつ、新しい生き方が始まることでしょう?

さまざまなタイプの人があふれてきた理由も、そんなところにあるのかもしれませんね。


つけたし2月10日

私は熱帯魚を飼うのが趣味でボンヤリと眺めているのが好きだ。(自閉的なタイプには多い趣味だそうだ)

魚にしても様々な形があり、体型によりヒレの動かしかたがそれぞれに違う。

進化の過程において獲得した能力。

生まれながらにそなわった能力は、自覚なしに無意識に作動して生存の優劣となる。

私たち人はさほどの体型の違いはないが、感情や思考の見えないところの能力の違いは大きいように思う。

私は、なるべく目立ちたくないと思う。

あまり、大勢の人と関わるとろくなことがないように思う。

静かに我が道を生きたいと思う。

なかなか自分自身に気づけないのは、あまりにも無意識だからなのだと思います。

だからといって、意識した瞬間に自然は壊れて関係性がくずれてしまう。

世界をありのままに観ることは、それだけ難しいのだと思います。

私はボンヤリと客観的な視点で生きております。


人ゆえの嵯峨ということなのてをしょうね。


つけたし2月11日

スマホについて考えてみよう。

スマホの使い方により、その人の生き方がわかるような気がする。

普通の人では、

一番多いのは、SNSでのコミュニケーションだろう。

そのつぎは、調べものかな?

買い物をするときの、財布のかわりという人も多くなってきているようだ。

暇つぶしにゲームって人もいるようだ。

私はというと、音楽を聴くことが多い。

あとは、このハーメルンでの文章を記録することかな。

メールは、ほとんどが必要のない読まずに削除のものが多いね。

電話はたまにかかってくる程度で、かけることは月に一度くらいかな。

ツイッターは二年程試してみたが、私とは合わないようで、今ではもっぱら、趣味の観賞魚の情報を観るくらいだね。(共有したり発信するタイプではないようです。)

YouTubeは、画面が小さいので観る気がしない。

仕事で使っている人も多いようだが、そもそも、私は働きたくない。

たまに、株価の検索はするけどね。(これは仕事にはいるのか?)

私にとって、スマホは、そんなものであり、電話ができればそれでいいのかもしれない。
(インドア派のタイプはパソコンのほうがよいのかもね。)

だけど、以外とスマホからの情報の影響を無意識に受けているのだとも感じます。

アプリひとつダウンロードすれば、楽しみが増える、魔法のようなものがスマホなのかな?

快楽の報酬を求めて、のめり込む人も多いようです。

スマホもほどほどがよいのでしょうね。



つけたし2月12日


私は、子供の頃から特撮ヒーローものやアニメが好きだ。

毎日、夕方の再放送を楽しみにしていた。

特に思い入れがあるのは、小学一年生の時に観ていた、スーパー戦隊のバトルフィーバーJである。(初めてロボットが出てきた。戦艦と超合金を買った。)

内容はあまり覚えていないが、今でも主題歌を聴くとワクワクしてくるのだ。

中学一年生の時に観ていたバイオマンもすてがたい。

親になってからも、子供といっしょにタイムレンジャーを観ていた時は懐かしい感覚だった。(仮面ライダークウガやウルトラマンティガも観ていた。10年くらいはいろいろ観ていた。)

今でも、形をかえながらも時代に合わせて戦隊シリーズは続いているようで、これは日本の伝統文化なのかもしれないね。

さすがに全部は観れないけれど、人生の節目に出会いがあるシリーズ作品に感謝します。

ありがとう☺️


つけたし2月13日


名越康文さんの[存在的憂鬱]というYoutubeを観て思うこと。

2年ほど前にも観たのだが、この頃は[私はひとりではなく、複数の人格がまじりあっていて、バイオリズムにより、体調と気分が変化している。]こんなことをよく考えていたことを思い出した。
(今でもかわらないかな?)

[呪いプーム]の頃だったと思う。(過去の回にも書いてありますので興味のあるかたは読んでください。)

なぜ、日本語には、[私、自分、自身、僕、俺]等とわたしを表す言葉が多いのだろうか?そんなことも考えていた。

今では、あたりまえのことなのですが、[本来のわたしなどどこにもいない。その時の状態があるだけ。]ということなのだが、ふにおちるまでに何年もかかったのだ。

昨年の半年ほどの気持ちの落ち込みにより、私はかわったような気がする。

それ以前と以後では世界観が違うような気がする。

あくまでも気がする程度でしかないのですがね。

私は、気温により気分がかわるようで、寒いのが特に苦手でネガティブになりようだ。
季節の変わり目は、体調が悪くなる。

自分自身の特性を客観的に理解していると、「また、お会いしましたね、鬱さん。」と受け流すことができるようになり、少しは楽に生きれるようになりますよ。

毎日の体調管理のように、気分の管理の仕方も学んでみるとよいかと思います。

しかし、自分自身ではどうにもならないときは、他人の力をかりましょうね。


今回のつけたし日記は、これで最後となります。

皆様、読んでくださり、ありがとうございます。

それぞれの、幸せを願っております。









































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