楽笑おじさんと絶望こぞう   作:楽笑

89 / 95

皆様、お元気ですか?

私は、かわりばえもなくボンヤリと生きております。

「生まれながらに身体的な特性があるように、霊的にも特性があるのかも?」

ばっさんのYouTubeのライブ配信を観て思ったのです。[霊能、スピリチュアル、瞑想、わかりやすい次元の話、徐霊のためのお経の使い方など]興味のある方は観てはいかがですか?私は、とても、現実的なスピリチュアルの感覚を感じます。


今回は、そんな思ったことを記録として描いておきます。

今回の内容は、あくまでも、私の感覚ですので一例として読んでくださいね。



生まれながらの霊的な特性があるのかもね?

 

 

精神とは、なんだろう?

 

 

スピリチュアルなのか?

 

チャクラなのか?

 

ハートなのか?

 

オーラなのか?

 

言葉は曖昧であり、曖昧のままに使われているのだと思う。

 

その人なりの、決めつけでしかないのだと思う。

 

なんとなく思い描くイメージが精神なのだと思う。

 

それぞれの感覚でしかないのだが、それぞれの内なるイメージが[念]となり外側の世界(共有世界)に残されたものが言葉により概念かされるのだと思う。

 

本来は言葉などにできないほど曖昧なイメージは、本人が感じるだけのものなのだろう。

 

人ゆえの嵯峨であり、業とも言えると思う。

 

次元を越えて、やっと見つけた私に気づく感覚。

 

生存のための次元に生まれて生きている業を背負った生きもの。

 

人だからこそ、気づく感覚が嵯峨なのだろう。

 

思考する生きものゆえにね。

 

思考という精神は、本人を越えてどこまでも拡がるのだと思う。

 

ありもしないものを念じながら生み出しているのだと思う。

 

それこそが、人間の歴史なのだと思う。

 

 

私は、どこから生まれたのか?

 

その問題に答えはない!

 

答えのないことが、生きることなのだと思う。

 

ただ、進むだけでしかないのだろう。

 

答えがあると思い込みながら、願いながら進むしかないのだろう。

 

祈りとは、そんなものであり、それが精神なのかもしれないね。

 

 

そんな精神は、共有世界である現実の三次元空間を越えて思想空間をただようのだと思う。

 

空間と時間のない次元の感覚とは、意識の感覚の世界。

 

それぞれの精神が思い浮かべることで生まれる世界。

 

それを[霊的世界]というのだろうね。

 

それぞれの特性にあう[霊的世界]があるのだと思う。

 

三次元は、物質的な特性をもつ霊的世界の一部なのだと思う。

 

次元が上がるほどに、言葉では説明できないほどに曖昧なイメージの世界なのだと思う。

 

あくまでも、それぞれの感覚の世界であるが、わかる人どうしでは伝わるのだと思う。

 

その特性をもつ人が、気づくことにより(思い出すのかも?)それぞれの感覚の生きやすい世界へ向かう(感覚が感じる)のだと思う。

 

それは、錯覚なのかもしれないね。

 

だけれども、疑問を感じるとはなんだろう?

 

なぜ、そう思うのか?

 

なぜ、そう感じるのか?

 

そもそも、なぜとは?

 

生存に重要でない、なぜなのか?

 

生物を超えた、なぜとは?

 

答えなど、求めていないのにね。

 

おそらく、そんな[なぜ]こそが特性なのだと思う。

 

ひたすらに追及する特性なのだと思う。

 

他人は、好きなように生きればいいと思う。

 

同様に、私は、好きなように生きればいいと思う。

 

これは、他人も私も同じということなのだろう。

 

ただ、それぞれがあるだけであり、次元があがるほどに、そのような感覚に気づくのだと思う。

 

 

もしかして、[存在そのものが答え]だったりしてね。

 

それぞれのね。

 

 

 

 






皆様、読んでくださり、ありがとうございます。

なんのことやら?

我ながら意味不明な文章だと思います。

うまく説明できなくて申し訳なく思います。

それでも、興味のあるかたは、スピリチュアル好きなのでしょうね。

それぞれの[気づき]がありますように祈ります。

それこそが、今の私の精神世界観だと思います。

あくまでも、私が感じて思っているだけですけどね。


また、あいましょう。



つけたし、

今、この瞬間の私は、ここに閉じ込められた[念]なのだろう。

二度と現れない私を記録し、公開する世界にありがとう。

私の中の一部となり生きましょう。

あなたの中の一部となり生きましょう。

認識するとは、そういうこと。

出会うとは、そういうこと。

記憶に残すか忘れるか?

打ち消し会う、ベクトルは真逆の存在。

気づくとは、そういうこと。

ただ、記録にただよう[念]となりし存在。



2月28日、つけたし

今回もつけたし日記をしようと思う。

こうして、なんらかの記録をつけることにより、何かが感じられるとよいかと思います。

YouTubeで[自分の構造理解1]sorrowmaharsinという動画を観た。

インド仏教のヨーガの解説をしているようであるのだが、10年前の動画であり、いまだに418回視聴なのだ。

たしかに古くさくて誰も興味をしめさないだろう。

私が、なんとなく加藤諦三さんの[自分の構造]という本の要約動画でもないか?と検索していて、たまたまであったのだ。

しかし、観だすとすんなり観れてしまった。

まだまだ続きがあるようで楽しめそうである。

加藤諦三さんの[自分の構造]という本も、Kindleで読んでいる。

1980年の出版で、私が8才と時の本なのだが、私が加藤諦三さんの人生相談をラジオで聴いていた時期があったり、何冊か本を読んだりしていたせいか、抵抗なく読めるのである。

いつの間にか、加藤諦三さんの世界観を取り込んでいたのだろうと思う。

ということは、私の感覚も古くさいということなのだと思う。

ついでに、気になったユクスキュルさんの[生物から見た世界]という本も読み出した。

これも、かなり古い本のようだが名著だそうだ。

おそらく、何年か前の知識の私では、興味があったとしても、文字をおうだけでほとんど理解できなかっただろうと思う。

わからないなりに探求してきた生き方が、今になって私の世界観を造り上げているのだと思う。

皆様も、生きていればわかるかと思います。

頑張っている人もそうでない人も、頑張っている時もそうでない時も、その時になればわかるかと思います。

そんなことを書いている私も、まだまだ道なかばですがね。

誰もがそれぞれにあう表現にであえますように。

そんなことを思ったのであります。



3月1日、つけたし

今年も3月に入った。

日付は区切りでしかないのだが、その1日の私は二度と現れない区切られた存在でしかないと思う。

先ほど起きて、朝一番にこれを描いておきます。(人は、毎日リセットされるのか?アップデートされるのか?わかりませんがね)なんだか、そのような気分だということなのです。

記憶が私を同一視しているのだが、その記憶とは、どこにあるのだろうか?

思考する存在である人が感じる疑問なのだろう。

本や動画等を観ていると、そんなことを思う。

これは、私の根元の感情なのだろう。

ただ、最近の私は、それぞれの存在にそれぞれの意味を感じることが、それぞれの答えなのだと思います。

これも、日によって変化しているのだけれどね。

ただ、流れを感じているだけのような記憶する存在。

ただ、生存のための(身体の維持)存在。

繋ぎとめる根元の存在があるように感じるのです。

それは、私という概念を取り払った存在のような気がするのです。

分離と統合は、同じという錯覚に陥りそうです。(矛盾を超えた感覚)

これが、今日の私の答えかな?


3月6日、つけたし

私は、生まれ持った特性とよくいっている。

今回は、そんな、生まれ持った特性について考えてみよう。

生まれ持った特性とは、その人の根元であり、変えようとしても変わらない、どうしようもない嵯峨のようなものだと思う。

その人の性質であり、精神(内面的)と体質(外面的)は、DNAにプログラミングされているのだと思う。

人類には、人という枠の共通する特性があるが、それぞれに生存のための性質に少しずつ違いがあることで、多様な生存戦略があるのだと思う。

これは、意識でどうにかなるものではないが、それぞれの特性のままにそれぞれが生きることはできない。
(そんなことをしていたら、争いばかりで人類は滅んでしまうからね。)

人生を通して、どうしようもない特性に気づくことが、認識するということなのだと思う。

どうしようもない特性は、自身が感じることで、整えるくらいでしかないと思う。

感情はたえず変化する。

肉体は確実に老いていく。

それぞれの特性におうじての流れがあるのだと思う。

意識とは、そんな流れに逆らうことなのかもしれないし、流れを止めてしまうことなのかもしれない。
(流れとはエネルギーであり生命が発する気のようなものだと思う。)

そんな流れを、いかすもころすも、その人自身なのかもしれないね。
(流れを止めれば反乱をおこすことだろう。タイミングをわずかにずらすくらいしかしないほうがよいと思う。起こることはおこるであろうし、それが次へのきっかけとなったりもするからね。必要以上に恐れるなかれなのだと思う。)

つまり、「こだわりはほどほどにしましょう」ということかな?

ただ、流れを見つめて、見極めることなのかもしれない。

それぞれの、生きやすい世界へ向けて、あなたは何を感じますか?



3月7日、つけたし

府と思い出したのであります。

「苫米地英人さんの宇宙を語る」という本を読みたかった。
ということを。

YouTubeで、この本の一部朗読を観たからなのですが、8年ほど前に本屋を探しまくっていたがみつからなかった本なのです。

なぜか忘れていたのですが、「読んでみなさい!」ということかな?と思い、アマゾンで注文しました。

3月12日に届くのが楽しみです。

おそらく、YouTubeを観たかぎりでは、現在の私の苫米地的解釈と、さほど違いはないようですので、おさらいのような気がします。

しかし、内容はとても抽象的で理解することは難しいようで、いきなり読んでも解らなかったことでしょう。

今だから良いのでしょうか?

何か、新しい発想の発見があるかもしれません。

言葉とは、言葉そのものよりも、その言葉からイメージする発想力が重要なのだと思います。

その人なりの体験と知識によりイメージは変わるのだと思います。

私にとっては、この本は、何度も読み返すことになるような気がします。

気になる方は、読んでみては?

きっと、私の小説に興味のある方なら理解可能だと思います。
(小説の中に[8話カインドオブブルー]苫米地さんの感覚に影響をを受けた発想が散りばめられています。)


3月8日、つけたし

夜中にボンヤリと思考しております。

せっかくですので、描いておきます。

私はスピリチュアルという精神的な世界観が気になる。

今日は、そんなことを考えてみよう。

何かを特別視するということは、同時に真逆の意思も存在しているということだ。

精神的の反対は現実的である。

現実的とは、生まれた時代の価値観に染まるということだと思う。

ということは、現実的なことも気にしているということだが、私は、そちらがわの感覚をよく思わないでいる。

なぜなのだろうか?

心理学からみれば、劣等感からなのであろう。

自身のたりないと感じている不安があるということであろうが、何がたりないのか?

普通に働くことに満足できないからか?(働くことに疑問を感じる。自分の時間配分で生きたい。自意識過剰だからか?)

子供の頃になんらかの精神的な抑圧を感じていたからか?(思い通りにならない。我慢する。本心を無視する。無意識では他人や社会を過剰に意識していることに気づかないからか?)

こんなことを感じるのですが、過去の感覚(感情の記憶)は過ぎ去った出来事でしかなく、今は違った状況に生きているのですが、今だに過去の感覚を引きずって生きているのでしょうね。

こんような流れのなかで私は生きている(生きてきた)。

あの頃の私は、誰かに伝えたかったのでしょうか?

寂しかったのでしょうね。

そこに気づくと生きやすくなるかと思う。

インナーチルドレン(取り残された子供の頃の本音の感覚)を認めて生きるということで、現在の私の生き方に自信を持てる(疑問を感じて否定しない)ようになるのだと思います。

個人的なことですので、[思う]くらいでよいのだと思います。

現実的であれば断言できなければならないでしょうが、私は[決めつけ]が好きではありませんし、学術的な論文思考も受け入れにくいようなのです。

曖昧という余白を残して生きていたいタイプのようなのです。

私にはカウンセラーはむいていないということでしょうね。(ですから、参考にするならば自己責任でお願いします。)

曖昧という余白は、精神的な世界観と相性がよいのだと思います。

このようなことを思考していると、私の構造が見えてきますよね。

おそらく、それが、いつまでも同じような不安感を永遠に繰り返す、[反すう]することを納める手法なのだと思います。
(感情は勝手に沸いてくるものなので止めようがありません。無理に蓋をすると、別の発散の仕方として沸いてくるかと思います。なるべく、素直に認めてあげることでおさまるかと思います。ポジティブもネガティブも内面からの信号ですので、ただ見つめるだけでジャッジはいらないのです。)

だから。私は、現実的なスピリチュアルが好きなのだと思います。


ただ今19時。

夜中にボンヤリと思考していたことをなんとなく思考した1日でした。

子供の頃に感じた不安な思いを誰かに相談していたら違ったのかも?

そんなことを思うのです。

おそらく、話しを聴いてもらい、相手の反応を感じることで、無意識に私のなかに「そんなもんだよね」という安心感をあたえる人格が生まれていたように思うのです。

大人になってからの情報は人格ではなく、知識でしかないので、不安感のほうが勝るのだと思うのです。

誰もが感覚に反応した感情を脳内で情報に変換して判断しているのだと思うのです。(情報ですので思い浮かべれば現れたことになります。)

成長期に無意識にトレースされ、ストックされた記憶を元に基本的な複数の人格により、現状の自己分析を無意識にしているのだと思うのです。

意識にあがり言語化され思考するのは、その次の段階なのだと思うのです。

意識的に思考するとは、それだけ成長した脳機能なのだと思うのです。(前頭前野の発達ですかね。)

脳にも、年齢にあわせた成長の段階があるのだと思うのです。

現在の私は、苦手[劣等感]なんてものは、誰にでもあるものであり、[恥ずかしい]という感情を抱えてやるべきことをやればよいと思っています。

「苦手なことでやらなくてもよいことはしないでよい」
このような価値観も、あたりまえに感じております。

これは、今頃になって、私にも「そんなに劣等感を気にしなくてもいいんだよ」という人格が生まれたということなのでしょうか?

あたりまえとは、人それぞれなのでしょうね。

霊的には、幼少期に生まれた人格[無意識に対話する基本的な判断力]が、守護霊とかいわれているものなのかもしれませんね。(もっとも根元に近い人格なのかな?)

ボンヤリと生きていると、私のなかの基本的な世界観がシンプルになっていくような気がします。

最近読んだ本や動画がトリガーとなっているのかもしれませんね。

[時間は未来から過去に流れている]まさに今がかわれば過去(脳内感覚)もかわるということなのかな?



3月10日、つけたし


上には上がある。

下には下がある。


だからこそ、焦ったり救われたりもする。

ありもしない感情に振り回されて。

「皆、そんなものだよ。」


次へいきましょう。


流れるままにね。


3月11日、つけたし

本当の私が求める世界観とは?

本当になりたいもの、本当にやりたいことだったら、嫌なことでも我慢できるし、恥ずかしくても頑張れるでしょ。

それが出来ないとなげくなら、それだけのことなのだと思う。

無理してまで、私を飾らなくてもいいよね。

カッコつけでは、長続きはしないからね。

人生は私が選択するものだよ。

あなたが思い描く未来の私をイメージしよう。

そのために必要な[今]を始めよう。

自然に[逆算思考]になっていくのだと思う。


私は、なにもしたくない怠け者ですが、それでも、あれこれと[逆算思考]で生きてきました。

今は、[なりゆきまかせ]ぐらいが丁度よいバランスなようです。

[焦りは禁物]なのだと思います。(私にとっては)

私は、目標を掲げることにストレスを抱えるようですので、ボンヤリくらいの感覚で生きるくらいがよいのだと思います。(私にとっては)

それぞれの特性にあわせてのバランスのとりかたがあるようなので、それを感じましょう。

なにも沸き上がってこない人は、ひたすら待つことから始めましょう。


偽りの私から本当の私に向けて生きましょう。
(この言葉がストレスとなりプレッシャーに感じる人は、それだけ危ないと思います。頑張らなくてはならない状況なのでしょうが、お気をつけください。)

お気楽にね。



3月12日、つけたし

ひさびさに学生の頃にやっていたゲームを買った。

セガのジェネシスミニ2(国内版はメガドライブミニ2)という1990年頃のゲームの復刻版だ。(メガドライブは友達が持っていた)

私の世代は家庭用ゲームの成長期とともに生きてきたようなものだ。

ファミコン、pcエンジン、マスターシステム、セガサターン、プレステ2、ゲームキューブ、プレステ3、と遊んできた。

働きだしてからは、私はほとんどスパロボとプロレスくらいしかやらなくなったのだが、子供たちが遊んでいるのを見ているのが楽しかった。(二十歳くらいまではアクションゲームもやりこんでクリアーできたのですがね。)

昨年はpcエンジンミニを買って遊んでいた。

それぞれの育った時代により、基本的な世界観の思考するイメージは違うのだろう。

現在のプログラミング思考(逆算思考や構造思考)は、ゲーム(RPGやシュミレーションやキャラデザ)をしながら学んだのだと思う。

私は、学生の頃のシンプルなドットで描くゲームのほうが楽しめるようだ。(3D視点のゲームは気持ち悪くなるから続けれないからね)

それにしても、お金を払ってまで欲しいものがあるというのは、とても幸せなことなのだと思う。(年齢を重ねてくると食べ物以外には欲しいものがなくなっていくようだ)

誰かが生み出してくれたことに、ありがとう。

情報はたえず待っている。(古いも新しいもないよね。)

それが選択の時代なのだろうね。(時空を超越した感覚)

それぞれにあった出会いを待っている。

暗記することでもなくて、教わることでもない。

これからの時代は、センスの時代なんだろうね。

それぞれの世界観をひろげましょうね。


3月15日、つけたし

苫米地英人さんの宇宙を語るという本を読んだ。

やはり、おさらいのように感じる。

苫米地さんを知ったのは、[かみのげ]というプロレス雑誌本でのコラムのようなページだったと思う。(前田日明さんの特集の号だったと思う。催眠やら葉巻やら何者?というのが第一印象でしたね。)

読みたいと思いながら随分たってしまったが、その間に私なりに苫米地さんの本やYouTubeを観て、私なりの解釈で世界観を取り込んでいたのであろう。

同じ情報源でも、人それぞれの特性により世界観のあらわれかたがあるのだと思う。

必ずしも苫米地さんの伝えたいことと一致しているとはいえないが、私にとっては納得できる人生なので、同じようなものだと思う。

私には、あれこれと外世界である共有空間に吐き出したところで、あまり意味がないように思う。(まだまだ未熟者だからかな?)

この内世界と外世界があることに感謝します。

私なりのゴールへ向かっているのだと思う。

人の思考は、外世界の受け売りを集めたものでしかないのかもしれない?だけどね、それを踏まえて私は私を生きるだけなのだと思う。

私が私を忘れてしまうほどに、この世界は(思いもよらない)魅力に溢れているように感じます。

今になって、そんな自身に出会えて嬉しいのです。(元からあったような気もします)

この世界は、すべてのものを受け入れてくれるようです。

きっかけは、そこらじゅうに溢れています。

外にも内にもね。


[時間は未来から過去に流れている]


[空]を感じましょうね。


そこにみえるものは、何かな?



沸き上がるじゃない、、ほら、!


3月16日、つけたし

[生命体とは、内世界と外世界にまたがる唯一無二の存在]

この言葉が、沸き上がってきた。

私のなかに溜め込まれた情報と外からの情報という刺激により、私はかわっていているようだ。

私の根底にある発想は、[自然]なのだろうね。

生命体とは自然エネルギーを発する存在だと思います。

[外世界である物理空間はもっともカオスな場、内世界である精神空間は抽象的な統合な場]

こんな言葉も沸き上がってきた。

苫米地さんは、[抽象度があがるほど空に近づく]といっています。

私は、根源的なエネルギーからの信号なのだと思うのです。

どこから伝わる信号なのか?あるのかないのかもハッキリしないのですが、そんなものなのだと思えるのです。

それぞれの生命エネルギーが集う場である物理空間を現実というのですが、私にとっては、私が思い浮かべることも現実的に感じているようです。

未来からの信号なのか?

それは、外世界である共有空間にも影響をあたえているようで、新たな発見となってあらわれます。

時間をへて、あたりまえになり、情報は統合されていくのでしょうね。(私のなかで)

私の記録を読み返すことも含めて、自然を見つめることなのだと感じます。

そこには、時空をこえた次元の統合を感じています。

[空]とは有ると無いが、共有する矛盾な場なのだと思います。

それは自然な生命エネルギーだから感じられる場なのでしょうね。

分散と統合はゆらぎなのかな?(エントロピー)

数式思考が苦手な私は、言葉や体験からのイメージ情報のほうが沸き上がるようです。


3月18日、つけたし

こうして記録として言葉をつづっていますと、おかしな錯覚におちいります。

暇潰しに読み返したりしたときに、自分で書いていながら解釈が違ったりするのです。

たしか、あのときはこんな意味あいで書いたのだが?言葉のニュアンスがおかしいのか?それとも、無意識にこちらの意味も感じていたからか?

そんなことを思うのです。

もっとも、私のなかにも、その時どきのさまざまな人格がおりますので不思議ではないのですが、一旦、外世界に出した思考を眺める行為とは、客観視とは別の感覚を感じます。

私にとって、これは自然な流れか?そんな現実的な時空を超越した感覚なのかもしれません。(時系列がわからなくなるような)

おそらく、我を忘れるほど集中する(夢中になる)ことで、地に足がつかない状態(心理的にも現実的にも)なのかもしれません。(意識がトリップしているのかもね)

外世界でボンヤリと日向ぼっこをしているときなどのように、自然とふれあうときにも、同じような感覚になると思います。(ボンヤリに集中するとは、自然に解放するということかもね。我を忘れて時を忘れてかな?よくわかりませんが、そんなものなのだと思う。)

しかし、不安感はなくておだやかな感じがします。

歳をとったからなのかな?

言葉のトリックというやつかな?

[たまたまですよ。深い意味などありません。]

やはり、錯覚なのだと思います。


自由意思の謎ですね、(有るのか無いのか?)


3月19日、つけたし

なんでもかんでも成果を求めない生き方。

最近の私の生き方は、そんな感じなのです。

それでも、なにやら思考している。

頭のなかに沸き上がる思考。

自然とふれあうとき、気づくと何時間かたっている。

これといって、なにもなかった時間。

それは、とても気持ちのよい感じがするんだよね。

自然とはなんなんでしょうね。

それは、人、それぞれなのでしょうね。

ボケとも思いますがね。


自然を繋ぐもの。

現実的な自然は肉体。

意識的な自然は精神。

私は人生によって繋ぐ。

生命だからね。

君にも、わかるだろ。

それが奇跡というやつさ。

私の連続ってことさ。

私なんてものは、錯覚なのだと思うけどね。

ということは、本当の自分なんてものも勝手に強く意識された一部でしかないのでしょうね。

その辺は、私とコーチング思考とはあわないようです。

目標を掲げるのも遊びなのかもしれませんね。

意識が高いも低いも遊びと思えば楽になりますね。

意識が低いことを悪く思わなくてもいいんじゃないのかな。

そんな根源な感覚があってもいいんじゃないのかな。


3月24日、つけたし


最近、やたらとヨーガに関連した出来事に出会う。

どうやら、また、瞑想ブームがきたようだ。

瞑想とは、ヨーガの一部であり、ヨーガとは生き方そのものだと思う。

昨日は、YouTubeでぱっさんの[覚醒]というライブ動画を観た。

それで、以前に気になった、苫米地英人さんと成瀬雅春さんの[瞑想と認知科学の教室]という本があったのを思い出して読んだ。

私は、定期的に瞑想ブームがくるようで、先日みた、YouTubeの[自分の構造理解1]というヨーガの解説動画がトリガーとなっているのだと思う。

私のなかにある東洋的な思想は、ヨーガという思想体型に近いのかもしれない?

もっとも、それすらもヨーガの一部でしかないほどに大きなものだとも思う。

皆さんも、興味があるが解らないという人は、これらの動画や本とふれあうとよいかもね。

だからといって、わかったようでわからないままなのですがね。

それでも、感覚は深まるのがヨーガなのだと思います。

このハーメルンでの私の記録も、私の一部ですよね。

これは、私の人生(私から生まれた現実的な体験と空想)でしかありませんよ。


それでは、あなたの人生とは何かな?


まずは、気になる言葉から調べるところから始めればよいでしょうね。

その言葉を自身の体験での感覚と照らし合わせることで、あなたの世界観が感じられるかと思います。


どうやら、私は死ぬまで、これらの思考体験を繰り返す定めのようですが、それも楽しめればよいかと思います。


3月25日、つけたし


それぞれの世界観がある。

自身が感じる世界観を生きることを肯定する必要もないけど、無理してまで疑う必要もないと思う。

共有してまで争う必要もないからね。

だけれど、騒がしさに、反応してしまう。

それでも、私の思考は目まぐるしくめぐる。

私は、静かに生きていたいだけなのよ。

感情に操られて、思考にだまされて、悩み始める。

それも抱えて生きましょう。

大概のことは、先が見えてしまうつまらなさに嫌気がさす年頃でもないからね。

わかっていても、伝わらないもどかしさに、罪悪感を感じる年頃でもないからね。

そんな私を眺めながら、私という存在を演じながら生きましょう。

「そんなもんだよ☺️」

おだやかな世界観がおとずれる。

私なりの解釈だけどね。


気になるけど気づかない。

気づかないけど気にならない。

バカと天才は同じようなものだと思う。

気づいているけど気にならない生き方とは、バカと天才を超越した感覚なのだと思う。

それは、人を超越しているのかもね。

生きる価値を持たない無意味な存在なのかもしれませんね。

言葉にするなら、浄化かな?

よくわかりませんがね。

こんなものを目指して生きている生物は、壊れているのかもしれませんね。

朽ち果てるということなのかな?

とけてなくなるということなのかな?

ボンヤリと思うのです。

「もう、いいんじゃないのかな。」

私にとっての幸せとは、このような感覚なのだと思います。


3月27日、つけたし

時代がかわろうとしている。

伝統を守ることは、自分を価値化するようなことだと思う。

密かに守られてきた伝統を公開しようとしている。

もちろん、反対派も多いだろう。



植物はかれてよみがえる。

次への糧となりよみがえる。

動物は子孫としてよみがえる。

文化は糧であろう。

知識は伝えることで文化となるのだと思う。

大衆にひろがることで現実は生まれる。



私は
「もう、いいんじゃないのかな。」
と感じる。

私は、伝えることは苦手であるが、広めることは賛成である。

未来からか、神のような者からか、なんだかわからないものから伝えられているような気がする。

誰もが世界の変革者なのだと思う。

それぞれの世界観があっていいと思う。

どの方向に向かうかなのだと思う。

私は、朽ち果てることを望んでいるように感じる。

輪廻から解脱することを望んでいるように感じる。

外世界に発することが使命だと感じる者がすればよいと感じる。

私ができることは、私の内世界を客観視した記録をこの場で発することぐらいなのだと思う。

未来は私が決めることではないと思う。

私は自身の人生を生きることぐらいなのだと思う。


世界の法則なんてものは、このように簡単で単純なことなのだと思います。

それが自然なことなのだと思います。

「好きなように生きましょう」


自然淘汰。


諸行無常。


膨張と縮小は同時におきているように感じます。

どこに視点を置くかなんじゃないのかな?




3月28日、つけたし

信じるとは、なんだろうね。

信仰の歴史は文化の記録なのかも。

自力か他力か?

人を超越した存在が、ひとりでもあらわれると世界観がかわるのだと思う。

ということは、自力も他力も同じようなものであり、表裏一体なのだと思う。

可能性が信じる意識を生み出すのだと思う。

世界に広がるとは、大衆に広がり文化になることなのだと思う。

深層心理にただよう意識が信じるということなのだと思う。

ということは、信じる(肯定)も疑う(否定)も、そのような深層心理(集合的無意識)にある可能性の発想があるからであり、同じようなものだと思う。(不安というゆらぎの仕組み)

日本の信仰の歴史をみても、きっかけは意図的だとしても大衆が受け入れなければ広がらなかったのだと思う。

個人と大衆も同じようなものだと思う。

分離と統一も同じようなものだと思う。

なんだかな?

なんとなく、そんなことを感じたので、言葉にしてみたのです。

あれ、存在が有る無いも同じようなものになるのかな?

ただ、広まってないだけで気づかないだけでね。

これが、時空をこえた感覚なのかな?

私をどこに置くかなんだろうね。

「そんなもんだよ☺️」



3月29日、つけたし


最近、岡潔という人が気になりYouTubeで観ている。

小林秀雄と同じ昭和の世代の人で、数字の天才と言われていたそうだ。

[人間の建設]という、小林秀雄との対談本を読んでいる。

ひとつの物事を徹底的に思考探求した人は、時空を超越した自然観にいきつくように感じる。

そのような人達の記録がデジタルに残り、今、ふれあえる世界に生きていることに感謝します。

私は、バカであります。

平凡な、たいしたことのない者であります。

それでも、人知の境界線を感じられることに、(錯覚だとしても)とても幸せだと感じるのです。


この世は、不思議な世界なのですね。


3月30日、つけたし


ヨーガの達人である成瀬雅春さんは、「ヨーガとは人生を愉しむことだ」という。

すべての感覚と感情を味わいつくすことが、愉しむということであり、選り好みをしないで自身の人生を俯瞰することなのだと思う。

岡潔さんは、「人は情緒で時空をとらえている」という。

情緒とは、感覚と感情なのだと思う。

その人の蓄えられた世界観からくる直感が感覚と感情なのだと思う。

生きることとは、それぞれの世界観なのだと思う。

それは、そぎおとされた自然なのだと思う。

肉体と精神で自身となる。自然なのだと思う。

疑いようもない、自身が、そこに存在している。

観測気であり、変換器であり、特異点であり、創造者であるのだと思う。

自然とは。調和なのだと思う。


3月31日、つけたし

個人の時代。

自身の人生を生きる。

こんなにも単純で簡単なことなのにね。

「なにやってんの、人類?」

それぞれの世界観を疑うなかれ。

ただ、目の前の今に反応するだけなのに。

よけいな、何かが邪魔をするのだよね。

これは、雑念なのかな?

どうでもいいもので、いっぱいの頭。

あれでもなければ、これでもないのよ。

しっくりこないもので満たされない心。

「そりゃ、そうだよな!」

わかっているけど、ひとりぼっちは嫌だから。

ひとりぼっちのジレンマに生きているのよ。

やるせない毎日がつづく。

相も変わらず、そんな人生なのさ。

「そんなもんだよ☺️」

生きてみればわかるさ。

次へいこうよ。

誰も、みたことのないつぎへ。

くらべるまでもない。

そぎおとした私。

「好きなように生きましょう。」

人生を深めましょう。

時空を越えて。

すべてとふれあう。

個人の時代。



4月1日、つけたし


まずは、[わからないということ]をわかろうね。


わからないから、それを確かめるために生きているのだと思うのです。

記憶をたどることで、その人なりの時間の感覚を感じるのだと思うのです。

それが、人生なのだと思うのです。

思い出すのか、気づくのか?

時間なんてものは、変化の認識でしかないのでしょうね。

人の観念なんてものは、それぞれの世界観ということであり、思い込みなのだと思う思います。

つまり、「生きてみればわかるさ。そんなもんだよ☺️」

その人が、納得できれば、それでいいのでしょうね。

これが、私の人生観です。



4月2日、つけたし

自身の人生に納得するとは、未練をなくすということ。

未練がなくなるとは、執着を忘れるということ。

自然な欲求とは。いきるために必要なこと。

今を生きましょう。

調和なのだと思う。


責任感や罪悪感なんてものは、どこにもない。

きっかけは感情なのだと思う。


人生は選択の繰り返し。

寄り道も遠回りも、迷ったりするのはあたりまえにあるものだと思います。

そこに、あなたがいれば、それでいいと思います。

ひとつづつ確かめて体験していくうちに、未来と過去を
こえたような感覚に出会うかと思います。

そのうち、よりよい選択が、自然にできるようになると思います。

結果として、後悔がなくなり、未練がなくなるのだと思います。

まずは、自分自身を確かめましょうね。

「なにがしたいんだい?」


4月3日、つけたし

自分自身を探求するとは?

なぜ、生きるのか?

なぜ、生まれたのか?

なぜ、思考するのか?

結局、自身に執着しているのだと思う。

執着という欲求。

そのエネルギーの方向を、ほんの少しずらすだけで世界の感じかたは違うのだと思う。

期間限定の私を愉しみましょう。

[そんなもんだよ☺️]


その人の人生観とは、地図のようなものなのだと思う。

その人の意識の呪縛(業)にしても、視点(感覚)の角度を変えることで景色が違ってくる。

はたして、かわったのは私か世界か?

実際には、なにもかわってないのかも?

生きることとは、そのようなことなのだと思います。


4月4日、つけたし

人の行動と思考は、目的に向かって自動に発動していると思う。

生きてきた体験により、自動化されたものが私ということなのだと思う。

悩みとは、トリックでしかないのかも?

脳と肉体の能力以上のことにであい、バグっているのかも?(ふたつの感覚基幹のずれが違和感かな?)

単なる処理待ちの時間かせぎなのかも?

それが、長年付き添った生きる癖なのだと思う。(それぞれのおぎないかたが癖なのかな?)

まずは、現実的に生まれた時代を学ぶことから始まると思う。

その後は、それぞれのタイプにより人生観がかわるのだと思う。

自身を確かめ知ることで、ある程度までは肉体と精神を調整できるようになると思うが、どちらにしても、個人的な感覚でしかないので、大まかな法則でしかないのかと思う。

どうやら、人の文化の歴史とは、そのような、人の法則に気づいて利用してきたことなのだと思う。

学ぶほどに思うのですが、やっぱり、自身も他人も、だましあいなのかな?

法則と客観視を重視する私のタイプだと、わかったうえでの生き方をしている。

[嘘も方便]というやつなのだと思う。

私なりの癖である、無意識にしてきた調整の仕方を、意識的に感じる感覚基幹を育てているのだと思う。

これが、[気づき]ということなのだと思う。

[意識の階層]があるということなのだと思う。


4月5日、つけたし


意識の階層とは、抽象度の階層なのかな?

意識の階層とは、私の内にいる潜在的な基本的な人格による、俯瞰した視点のことなのだと思う。(自身をこえた範囲が時空をこえてふれあう視点は宇宙すらも凌駕する感覚とは、神の視点なのかもね。)

意識の階層とは、思考と感覚による次元の階層ともいえるかな?

ということは、階層ごとに人格がいるということで、その人格にアクセスするということかもね。

古来より、さまざまな宗教や文化で、いろいろな表現がされていますが、私なりの解釈なのだと思う。
(神話や文化で言われてきた想像上の神や、歴史上の現実的な偉人がシンボル化され深層心理のイメージのトリガーとなっているのだと思う。だから、人それぞれの表現であり、抽象度が上がるほど内包していくのだろうね。)

[自身をそぎおとした、フラットな精神からの直感]とでもいえるかな?


自然に沸き上がるような感覚(イメージでしかないので思い込みによる錯覚ですが、これがまんざらでもない心理なのかもね?)


あくまでも、私なりの感覚ですがね。
(これが、根拠のない自信ということなのだと思う。信じるとは、そのようなことなのだと思う。科学的にいえば、ブラシーボ効果ですかね。)


[目的が見えれば、後は地道に進むだけ。]私のようなタイプは、このような感覚だと思います。


4月6日、つけたし

岡潔さんは、[心には2つある]といっています。

私という自我である意識から離れられない内世界である心。(自分の解釈で囲った循環世界)

私を無くした無私という外世界である心。(わからないが感じる世界)

相反する2つの心を持つ存在が人なのです。

瞑想(ボンヤリ)をしていると、私から離れていき、意識があるが思考をしていないような反応状態だけの感覚になったりします。

今、この瞬間をとらえるということは、感じることであって思考することではないようです。

言葉で思考するわずかな時間の差は、今ではないのです。

岡潔さんは、この内と外の世界は決して交わることがないといっています。

ただ、全体の一部となり同化している心とは?(悟りなのか?その先なのか?)

まだまだ、わからないことばかりであり、わかったということは、単に決めことでしかないようです。

それが、私という心なのでしょうね。

生きている間の一瞬が、私という人生なのでしょうね。

どの尺度の視点で世界を感じるか?

人は切りとることをやめられない存在なのかもしれませんね。


4月7日、つけたし

梵我一如というヨーガの思想体系の言葉があります。

たしか、インドのバラモン思想のひとつだったと思います。

自我(小我)という、私の欲求から始まるアルトマーがいます。

真我(大我)という、私から離れた世界の一部としてのブラフマーがいます。

このふたつは同等であり、同化した状態が梵我一如ということです。

仮観、中観、空観という思想なんかもあります。

言葉は言葉でしかないのですが、感覚を認識するためのトリガーとなるかと思います。

なんだか、インド思想はとても奥が深い、なんでもありのカオスに感じます。

とても古い思想の根源が隠されているように感じます。

仏教として、日本的にアレンジされていますが、根っ子は同じように感じます。

まずは、自分自身の現実的な生活に満足感を感じられるように、生き方を整えることから始まるのでしょうね。

おそらく、片側が整うともう一方にもエネルギーの影響が伝わり整うのだと思います。


4月8日、つけたし


YouTubeでAmritaChannelさんの[丸わかり各仏教とヨーガの方法論の違いが一瞬で分かる!]という動画を観ました。

最近、気になっていたことが説明されており、なるほど!と感じました。

あくまでも、知識でしかなく。わかった気になっているだけなのですが、焦らず気長に生きるだけなのです。

わかりたいという欲求もごまかしですからね。

ひとつづつ手放すことで、気にならないようになるのだと思います。

わかったと思いたいというエゴを手放す。

こんなことを気にしている阿保がいます。

悟りすらもエゴなのでしょうね。

だけれど、愉しくもありなのです。


4月9日、つけたし

世界は0と1で表せる。

数字的な感覚だと、このような表現になるようです。

私は、数字が苦手ですので感覚でしかとらえられませんがね。

無という0の世界と有という1の世界。

0も1も、それ以外には成り立たない絶対的な存在。

他の数は、1とさほど変わらないように感じます。

これは、私の思想にも重なります。

仮に決めごとで囲った世界が0以外の数なのでしょうね。

0という世界とは、決めようもない、わからない世界なのだと思うのです。

しかし、その存在が後ろだてとなり、それぞれの世界が表せるのだと思うのです。

誰もが0を追い求めて生きているのかもしれません。

しかし、すべての感覚は0を感じているのだと思います。

数を積み重ねるほどに0は感じられなくなるように思います。

あらゆる根源の法則性というものですかね。



4月11日、つけたし


0の概念を発見したのはインド思想だといわれている。

0に近付くほどに直感的になっていくように感じる。

これが五感を超えた感覚なのだと思う。

思考をしているが、私から遠ざかる状態である。


0以外のすべての数は色でしかなく、まとめたとしても0にはかなわないのかもしれません。

近付けば消えるか、離れれば寂しくなるか、いったりきたりのゆらぎが私なのかもしれませんね。

0の法則(真理)ということなのだと思う。


どこまでも私を肯定するために修羅の道を求めるエゴの世界。

消えまいと離れようとするほど、近付く0なのかも?

お釈迦様の手のひらの孫悟空のようなもの。

意識と宇宙も同じようなものだと感じる。

錯覚と直感も同じようなものだと感じる。

どの色を求めるかなのだと思う。

その先にあるものは0。

0の法則とは、ループの世界のようなものかもね?

ドーナツのようなものかもね?

穴が0ということなのだと思う。

すべての世界が穴で繋がる世界観。

無数にドーナツが産まれる世界観。

次元を超えた感覚のイメージがしませんか?

そのうち、そんな宇宙が観測されるかもね?



4月12日、つけたし

生まれながらに知識を学ぶ(言葉にふれる)だけで気づくタイプの人がいる。

それ以外の人は、欲求となり体験して味わうことで気づく(浄化)のだと思う。

何が違うのか?

おそらく、[足るを知る]の違いなのだと思う。

生まれながらに[足るを知る]の感覚を持っているかどうかなのだと思う。

つまり、イメージする力であり、変換する力であり、繋げる力なのだと思う。

それでは、その力が少ないタイプはどうするのか?

時間をかけて、体験するしかないのだろう。

言葉などの情報を臨場感をあげたイメージにより体験することで、自身のその後を感じる能力。

必要かどうかは、その人しだいであるが、望んだところで生まれながらに差があるのだと思う。

どちらにしても、欲求を浄化することで、0に近付くということなのだと思う。

皆、たいしてかわらない!

早いか遅いか、それだけのこと。

くらべるまでもない。

自身を生きるだけで周りを感じるのだと思う。

根源との出会い。

そんなことを感じるのです。


4月14日、つけたし

個人の時代。

学ぶほどに、この世は苦しみばかりだと思う。

不平等であり、理不尽であり、相対的な世界。

格差を比べているのは誰なのか?

感じて、苦しんでいるのは誰なのか?

知ることは、恐ろしくて辛いことなのだと思う。

耐えられないのならば、普通を演じて生きればいいと思う。(仲間とは依存であり不安なのだと思う。浄化するのは個人でしかないとだと思う。)

普通に耐えられないのならば、自身を感じるしかないのだと思う。(矛盾に向き合い孤独に向き合い、ありのままをみつめることなのだと思う。)

それぞれに合う生き方をすればいいだけなのだと思う。

私は、静かに生きたいだけである。

心の清らかを求め、この世の真理を感じたいだけである。

「座りなさい」


「手放しなさい」


それだけのこと。


[0の法則]なのだと思う。



4月16日、つけたし


どんどん未来が気にならなくなる。

絶望ではないのです。

ただ、私という奇跡に感謝しているのです。

過去も気にならなくなる。

今、私があるという奇跡を感じるのです。

希望でもないのです。

ボンヤリとした感覚なのです。


善悪も好き嫌いもとおく離れていくのです。

そこにあるという奇跡なのです。


私という奇跡とは?ひとつの可能性の先端なのだと思うのです。

それは、すべてが後押ししてあらわれた存在なのです。


「そんなもんだよ」



4月17日、つけたし

全体主義というあやまち。

ひとつのあやまちが世界中を脅かした全体主義。

全体主義からポストモダンという思想へ。

ポストモダンは個人の時代。

個人の時代とは多様な可能性ということ。

個人の時代とは、それぞれの世界観を生きるだけだで、全体が広がるということなのだと思う。

大きな視点からとらえれば、これもひとつの思想なのだと思う。

誰もが、それぞれの先端を生きるだけなのです。


私にとって、仲間とは、同じ目的に向かう電車にたまたま乗り合わせたようなものだと思います。

「あれ、よく合うね」

といった感じで、依存とはことなるかと思います。



4月18日、つけたし


YouTube[中野信子にきく]私たちは何故こんなに気難しいのかを観た。
(他人と関わることのめんどくささから、個人的な感覚に向かうという発想に共感した)

話題のチャットGPTに思うこと。

世界大戦から学んだポストモダンという思想。
(大きな独占的な権力に任せる恐怖から各自の独立による自然淘汰)

個人の時代が確立したとしてもね。

自然淘汰という弱肉強食の世界観も、抽象度をあげた視点から観れば取捨選択をしているのだよね。

個人が脳内で情報を取捨選択していることが思考だと思うのですが、地球規模で観てみると、自然淘汰も同じようなものだと感じる。

どちらもバランスをとっているのだよね。

ただ、個人的であるがゆえに感情が客観視をさまたげるのだろうね。
(基本的には自身の特性の反対側を認識することでバランスがとれると思う。)

人は感情ゆえに仲間を求め、互いにごまかすことで不安を静めるのだろうが、同時に派閥もうまれて格差を感じるのだろうね。
(互いに足を引っ張り合うことでバランスをとるタイプもいれば、孤独に可能性を探求することでバランスをとるタイプもいる。)


わかっていても、どうにもならない。

私は、距離をとることぐらいしかできないのだろうね。
(無意識の多重世界に生きている。少なくとも2つの人格を使い分けないと生存できない現実があることはかわらないのかな?)

内にいようが、外にいようが、どうにもならない。


結局、間接的に巻き込まれることになるのだろうね。


時代の流れがあるだけで、原理法則はかわらないということかな?

「そんなもんだよ」



4月21日、つけたし


最近、インド思想に興味があるようです。

輪廻転生からの解脱が気になります。

なぜ?

私の源流なのかも?

人生というゲームにあきたから?

欲求に任せて世界観を構築することで自己が確立しますが、その自己の集まりにより格差という摩擦がおこり世界は変化していくと思います。

破壊と再生が輪廻転生なのだと思う。

ということは、その間がそれぞれの人生なのでしょうね。


どちらかだけでは成り立たない相対的な世界。


私は静かにいたいだけなのですが、おそらく、私の[いたい]すらもなくならなければ解脱はできないのだろうね。(その思いすらも欲求なのよね)

それぞれの思想の源流があるのだと思います。

思考するほどに思考は無駄なことなのだと感じます。

そもそも、有るとか無いとか事態が執着というこだわりなんだよね。

思考とは景色の流れのようなものかもね?

人間だからね。


「そんなもんだよ」


4月22日、つけたし

夢を観た

知らない人達が家にきて、私の感情をかきみだす夢を

人間だからイライラとモヤモヤ?、なんともいえない複雑な気持ちになった

「わかっていても、やめられない」

この言葉につきる

腹をすえて生きるだけ

自身の感情すらもサンプルなようだ

社会に揉まれて

生きるだけ

内と外のしくみ

たのしむだけ

夢と現実を

ゆらぎながら

生きるだけ

それぞれの人生

「ありがとう」


4月23日、つけたし

私の感覚ですと、神も仏も悪魔も同じようなものだと感じる。(記号のようなものかもね?)

どれも役割があるからであり、それすらも手放すことが解脱なのだと思う。(頼まれて管理者をしているのか?)

子供のころは、純粋にダイナミックプロの作品を感情的に味わうことができたのだが、今は、どれもが修羅のようなものだと思う。

世界中の神話にしても、同じようなものだと思う。

どうように、現実の世界も同じようなものだと思う。

今の私は[自然体の鬱]とでも言えばよいのか?
(自他ともに最低限の関わりで生きる。余分な感覚を狭める。)

人それぞれの世界観があるのだろうね。

生きやすく生きるだけなのです。

答えは、自身の中に。

自身が発想したことが帰ってくるように思う。

[役回る愛]の仕組みなのだろうね。

解脱したら愛すらはずれるのかもね。

「頼まれてもしらないよ」

めんどくさいの裏にあるもの?

「そんなもんだよ」



4月25日、つけたし

つきなみな発想ではあるのだが、この世は[ソウゾウ]の力によって成り立つのだと思う。

森羅万象、より複雑な存在ほどその力を持っているのだろう?

無意識に発動しているその力により、世界は決定し続けるのだろう?

誰もが、それぞれの望んだ決定が結果としてあらわれているのだろう?

意識できない、無意識の望みの力。

ただ、眺め感じることが存在なのだろう?

理解できない、無意識すらもソウゾウなのかもしれない?

それが、感じるということなのかもしれない?

単に、根元に近い無意識から影響をうけてソウゾウの力を使っているのだろう?

身体も思考も、精神が生み出しているのだろう?

それぞれの仕組みに則ってソウゾウされているのだろう?

私は、[ソウゾウ]という視点からこの世を観ているのだが、解脱すれば幻のごとく消滅するのだろうか?

有るとか無いとか、空すらも概念化できない未知の感覚が解脱ならば、それは[ソウゾウ]からはずれた表現できない感覚であろう?

「とてもいかれている」としか言えないね。

神や仏や悪魔の方が、救いようがあるよね。(それぞれの属性のシンボルとして残ったのかな?残らされた?)

[この世界のために](欲求)という感覚すらなくならなければ解脱はできないのだろうね。

くだらないことをボンヤリと感じているのです。

[自然体の鬱]とは解脱の通り道なのかもしれませんね。

過去の偉人に触れていると、[自然体の鬱]状態の人がいたように思います。

良いか悪いかは、それぞれの判断でかわってくるのでしょうね。


手放すとは、いかれたことなのだと思います。

解脱とは、0に吸収されるという気がします。

その思考の先に、行着く感覚があるのだと思います。


[そんなもんだよ]



4月26日、つけたし


どんなにいかれたくだらない望みでも、かなえるためには勇気が必要なんだよね。

それぞれの望みがあるのだろうが、信じることができるならば、勇気はついてくるのではないか?

それが、本当の望みならばね。

いつわりやごまかしのツケがまわってくるぞ!

自身に向き合う勇気。

それまでは、逃げ回るのも悪くないと思う。


4月27日、つけたし

誰もが、魂の望む方向に進めばいい。

生きていることなんて、通過点でしかないのだろうね。


4月28日、つけたし


不安がつきない、あなた


また、悩んでいるの?


いつまでも悩んでいても解決しないよ


それは[自然体の鬱]という状態なんだよ


あなたにとって、必要だったからね


そんな自身をごまかさないで?


釈迦もキリストも通った道なのさ


誰かがはじめた共同幻想につきあうのもいいよね


私は[怠け者の道]をあゆむだけ


未知なる道をあゆむだけ


解脱なのかな?



一般的な現実の世の中の感覚に馴染めない人だったとしても、私のように解脱を望まなくてもいいよ。(私はそこに流れついただけだからね。)
[自然体の鬱]の感覚を感じとれた人は、機械的な
孤高の人だと思う。
そんな人は
顕在意識と潜在意識の仕組みを学んだほうが楽に生きれるかと思う。
客観視のできる人格を、自身の中に取り入れて発想の反応の流れを整えるといいよ。

ハワイジーザス(ヒーリング)さんのYouTube[潜在意識のメカニズム。他者批判・自己否定の仕組みを解説!]という動画をオススメします。頭を柔軟にして、そんな感覚もあるのかな?という感じで観るといいよ。


あなたの感覚が特殊であったとしても、この世の中で同じような感覚の人がいるからね。

認識はするが依存はしないという生き方もあるのだと思います。


4月29日、つけたし


いじっぱりなあなた

私のような変わり者でも生きていけるのよ

楽になりなさいな

おまかせしなさいな

感謝しかないよね

感謝はするが依存はせず

歳をとるのもいいもんだ


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。