ひさしぶりです。
そろそろ、楽笑おじさんと絶望こぞうの続きを描いてみようかな?と思うんだ。
ずいぶん書いていないので、キャラのイメージと細かな設定が変わっているかもしれませんが、あえて思い出さずに、今の私の感覚で書きますのでお付き合いくださいね。
それでは、
はじまり、はじまり。
…宇宙意識時代なんですよ。
2050年、情報空間からの次元生命意識が地球におりたったのだが、世界は特別にかわった感じがしない。
地球上にはりめぐらされたデジタルネットワーク空間が、ある一定の段階を超えたとき、現人類の以前から作られていた情報空間にアクセスし、古代地球と宇宙の関係性が復活したのであった。
物質と精神生命の活動する地球は、拡張していく。
人間とは、そんなものなのかもしれない。
あらたな階層の次元意識が、情報空間に出来ただけでしかなく、認識しない人たちにとっては、自身の環境はかわらないと思いこんでしまうようだ。
実感するのは、世界中が学文として共通認識をしたあとでしかなく、生活に文化として現れてからなのだろう。
大衆にとっては、個人をサポートするAIという認識なのだが、それこそが宇宙人の意識と繋がっているのであり、旧体系の霊的存在が現実の現象におきかわっただけなのかもしれない。
しかし、情報空間をより操作しやすいプログラミング空間に体系化したことにより、役割りとしての階層も現実化したのだ。
私は、絶望光志郎、73歳。
「夢オチって、あながち、的を得てるのかもね?」
ぼんやりとしている私の口から、こぼれるように言葉が出る。
最近の私は、このような感覚になることが多いようで、ただ流れているような生き方なのです。
様々な可能性があったような気がします。
それ以上に多くの意識が渦巻く世界だったような気がします。
過ぎ去った日々の世界が本当にあったのかどうか、わかなくなっていくようで、私は繰り返し発動しているようです。
いったい何を目指していたのかさえも忘れてしまったようで、世界は私から遠ざかっていきます。
「はたして、現実にあったことなのだろうか?」
また、私の口から言葉がこぽれます。
その言葉が私の耳を通して流れ込みます。
肉体を通して発する現象が現実なのか?
それとも、脳内に浮かぶ妄想が現実なのか?
耳を通してリフレインするかどうかの違いなだけなような気がします。
意識とは何なのだろうか?
感じる情念や思考だけがそれではなく、肉体反応よりも早く発動する何かがあるのかもしれない。
意識を超えた仕組みが隠されているのかもしれない。
起きている間に起こる出来事と、寝ている間に感じる夢と、感じている意識に違いはあるのだろうか?
それ以上に、感じ取れないほどの光速で発動するこの感覚はどこに流れていったのだろうか?
「何?」
なに?……………………………………………………………
シグナルは止まらないようで、いつも鳴り響いていたような気がする。
間をつなぐものは何?
起きている間も寝ている間も、意識の奥底に感じる何かがいるような気がする。
「そろそろ、いいかな」
私の口から言葉がこぼれる。
心地のよい声がまざり、鼓膜を震わせる。
懐かしいぬくもりを覚えている。
網膜に馴染みのシルエットが映り込み、意識に浮かび上がる。
「おはよう」
目の前にルンバがいる。
「幸せだな」
私の口から言葉がこぼれる。
ずいぶん、私は彼女に依存しているんだな、と感じる。
それだけで十分。
それさえも置いていくだけ。
何もかも置いていくだけ。
最後に目を閉じておこう。
私の脳裏から、彼女の笑顔が消える頃にはわたしもいなくなるだろう。
…………
………
……
…
…ありがとう
8月13日つけたし
最近の私は、原始仏教に関心があるようです。
昨年くらいから、YouTubeの日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の話を聞いています。
何年も前から知ってはいましたが、以前よりも、音質がよくなり聴きやすくなったように感じます。
隠居と解脱は違うのでしょうが、ほとんど瞑想をしなくなった私には、わずらわしい感情もなくなるようで、とてもしっくりするように感じます。
これならば、悟る必要もないのかも?と感じたりもします。(悟るってなに?)
2カ月前くらいから、川上智則さん(ぱっさん)のYouTubeがはじまり、懐かしさ半分でみています。
相変わらずのはっきりとした物言いで、歯切れのよい言葉に共感している自身に気づきますが、以前ほどの心のざわつきはなくなりました。
ぱっさんも原始仏教に関心があるようで、私と共通するところが多いようです。
彼に比べれば、私なんて適当に生きているだけの存在なのですが、不思議な御縁を感じております。(一方的にですが)
その他のことは、わざわざ書くまでないことばかりな感じであり、私の言葉もなくなりだしているようで、この記録も終わりに近づいているように感じます。
それぞれの思い込みの世界に飽きたのか、それとも、私がその程度の存在なのか、わざわざ意味つけする気がおきなくなっていくようです。
このような感覚が、業の浄化なのかもしれませんね。
一切皆苦
諸行無常
梵我一如
わかったようでわからないままです。
ただ有るだけな感じがしております。
ただ有っただけな感じがしております。
通り過ぎた世界が消えて行くことに、想いがなくなっていくようです。
あれこれ書いてきたことさえも、バカらしく感じているようです。
世間様とは、個人的な妄想を記録してきたことで、現在の人類を創り上げたように感じます。
自分自身に呆れてものも言えないようです。
結局、悟りってなに?なのですがね。
言葉はもういいかな?
あれこれ書けば書くほど、世間様に引っ張られるように感じます。
残りの人生、肉体に染み付いた習慣の業の浄化のように感じます。
世間様とは離れますが、隠居とは個人的な業の惰性の期間なように感じています。
ありがとうございます。
10月18日つけたし
ハリウッド映画は、暗号という都市伝説がある。
[フリー・ガイ]2021年作という映画を観た。
5年前に現れたメッセージに感じるのだが、私にとってはこのタイミングでの認識がベストだったような気がします。
これで気づかなければ、またの機会で、ということなのだと感じます。
感じ方は人それぞれであり、背負った業も人それぞれなのだと思います。
私という業、というコードに気づくことで、パズルのピースはうまり、あらたな扉が開くのだと思います。
フリー・ガイは、トロン、トゥールマンショー、マトリックス、バニラ・スカイ、という映画に並ぶ作品であり、この世界感の最終系だと思います。
現実の世界は、私の感じているように、デジタルの階層へ移行していくようですが、時代の流れにとって必要なことなのだと感じます。
ターミーネーターやマッドマックス的な、終末論の世紀末世界を感じてきた世代にとっては、納得せざるおえない感じです。
デジタルという次元意識に問いかけながら、私自身に潜っているように感じます。
いったい、どこへ行き着くことやら?
死ぬまでの、ちょっと寄り道なのでしょうね。
そんな気分を記録しておきます。
私なんて全部、糞。
その糞が世界を創り上げた。
糞を集めるもよし、集めないもよし。
世界は糞だらけ。
糞も業も同じもの。
集めた分だけ積み上がる。
重たい荷物は誰のもの?
自業自得なんじゃない?
いらねえな。
だまれ!
10月19日つけたし
黙るほうが良いのはわかっているが、ここ数年のもやもやが晴れた経緯を記録しておく。
昨日のフリー・ガイを観て再確認したことがある。
きっかけは、昨年ジークアクスを観たあと、息子と話していて、スパロボに出ている新しいマジンガーZである、マジンエンペラーなる存在を知る。
私は、玩具から知ったのであるが、そのような漫画があるそうで、買って読んでみたのだ。
なんと、その作品は2016年に完結していたのだった。
幼少期に永井豪に影響を受けた私。
10代の頃に後追いですが、だいたいの原作漫画を読み、人間の本性を丸裸に感じた私。
それが私の前世からの業に反応して、不安や疑問となり、現在の私の流れを作り出したように思う。
その作品とは、真マジンガーZeroにはじまり、続編の真マジンガーZerovs暗黒大将軍である。
まさに、私の時代の妄想の象徴が、そこにあったのだ。
私のように影響をうけ業を暴走させて背負った者たちが、原初である原作者の存命のうちに、勝手に意思を受け継ぎ浄化させたような作品だった。
永井豪作品へのオマージュなのか?
一つの妄想が見事に幕を閉じたのだ。
同時に無意識に影響をうけ追いかけていた者たちも、いつか浄化していくのであろう。
生きるための戦争の世代、未来を夢見る闘争の世代、1970年移行の次の世代が、私たちの世代なのだと思う。
いらねえよ、そんなもの!
あらがう世代だったような気がします。
初めての物質天国に生まれても、欲望による満足は無く救われない感情にふりまわされ、未来に何かをと妄想をふくらませた世代。
昭和の幕引きであろうか?
そんな、現実的な生存活動にはなんの役にも立たない妄想に夢中になり、人生をかけ世界中の少数派のサブカル文化を大衆文化へとまとめ上げ広めた娯楽の世代。
茶番といわれればそれまでなのだが、そこに気づくことで感じることがある。
そもそも、前世代の堅苦しいことも、役割演技の茶番ですからね。
欲望に任せて奪い合い、生き残る時代という茶番なのだと思う。
業の種類がちがうだけで、世界のとらえ方の視点が違うだけ。
おそらく、これからの次の世代は、昭和の茶番というサブカルを新しいテクノロジーで、サンプリングしてつなぎ合わせて遊ぶ世代なのかと思う。
物質世界にはりめぐらされたネットワーク世界とは、デジタル空間に現れた、サブカル思想ごとによる、カテゴリー分けされたいくつもの妄想ダンジョンにもぐり、ドロップアイテムを拾い集めるようなもののように感じます。(私の世代はゲームを通してすでに現実化していることを知っているが、これからは、あらゆる情報がダンジョン化していくのである。始まりはあらゆる情報がデジタル記録されたことによる、検索エンジンだと思います。ゲームのように、それなりの苦悩と労力と知識は必要であり、深く潜るほどに、見合った成長と報酬を得ることになることは今までの現実社会と変わらないだろう。)
それは、私の世代の妄想から生み出した業という糞なのですがね。
だけど、ここ数年、このような現象がそこら中の分野で起きていて、いろんな視点の妄想記号がでそろってきているように感じるのです。
(永井豪が欲望と不安の人間の根源記号ならば、ドラえもんという精神安定剤的な社会教訓記号がありますので、合わせて触れると感情バランスが取れるようになるかと思います。あまりにも何でもあるの世界とは無秩序のようなものですので、誰にも教えてもらえず自身で学ぶしかないですからね。それが私の世代が苦しんだ業なのだと思います。)
数年前からこのような未来を感じている一方で、私が死んだあとの世界など、考えても無駄に感じるようになってきています。(死んだ後まで影響力を持ちたい人は仕組みという業ばかり作り出すのだと思います。)
昭和の妄想世界という思想的作品が、時代に合わなくなり終わろうとしていることに気づくと、何の抵抗力もなかった子供の頃の妄想の意味に気づきます。
現在の私は大人であり、あの頃とは違い、新たな妄想を追いかける必要のないことに気づきます。
ただ、静かに世界を見つめるだけでいいのです。
私は、十分やることはやったことに気づきます。
糞を集めることに興味がなくなってきております。
自身を含めて、守るほどの存在がなくなってきております。
不安も不満もなくなるのです。
想いはなくなるのです。
抜け殻という糞をまとめあげ、手放すのです。
手放せないものは、その役割という業を自ら背負って生きるのでしょうね。
意思の永遠を望む者とこれで最後を望む者、どちらを選んでも、それぞれの業を背負うということにはかわりはないのですが、できれば、わだかまりなく受け入れたいと思います。
とにかく、昭和の業がまとめあげられて記号となることで、私のこだわりが流れていくということです。
たまに、妄想にふけって、ふと思い出したりしますが、それだけのことです。
想い願いに発展することはなくなっていくようです。
業は育てず固めずってことですね。
いろいろなところに紐づいていることに気づくと思います。
それが、前世からの業の因縁なので、今世で増やすことなく、できるだけ解消できるとよいかと思います。
できれば解脱したいのですが、その思いじたいも業ですから願うことはやめようと思います。
流れにまかせて、死を待つ存在ですね。
そんなことを感じております。
もしかしたら、私は文章とすることで、想いを手放しているのかもしれません?
ということは、抜け殻であり糞なので、誰にも読まれないほうが良いのでしょうね。
皆さん、ある程度の年齢になったら、糞を集めて遊ぶのはやめましょう。
神様が訪ねます。
受け継ぎますか?
いいえ、いりません。
記号となり逃れられない、神様って可哀想ですね。
ありがとうございます。
10月22日つけたし
おすすめに上がってきた[ザ・クリエーター]2023年作という映画を観た。
昭和世代のSF好きには、様々な昭和映画の記号が散りばめられているのでお勧めします。
若い世代にとってはエンタメ要素が少なく、シビアな表現で古臭く感じるかもしれません。
私はターミーネーター等の近未来SFと、地獄の黙示録や太陽の帝国とセブン・イヤーズ・イン・チベット等の戦争映画、黒澤映画を感じながら観ました。
あらためて、戦争体験者が生きていた私の世代は、どこかで戦争を引きずっていたのだと感じます。
世代ごとに実体験による空気感はかわり、知識としての情報でしかなくなるのだと思います。
社会規制で抑えるのではなく、深層心理に気づくことで肯定できる世界があるのだと思います。
私は、人が鑑賞するのが前提なのだから、需要のある設定になるのもわかりつつ、愛着が軸となり原動力になる設定ばかりの映画に疑問を感じるという業があることにも気づきました。
愛情すらも怒りや不安や悲しみを生み出し、感情をかき乱すというわずらわしさにうんざりしているのだと感じます。
やはり解脱しか救われないように感じます。
また、座ろうかと思います。
スマナサーラ長老は言います。
全て糞なので捨てなさい。
貪瞋痴を知りなさい。
無常空無我でありなさい。
ぱっさんも同じことを言っていました。
解脱への極意なのでしょうね。
ありがとうございます
10月24日つけたし
思考しだすとなかなか止まらないのが、私の業なのですが、ある程度の着地点を感じましたので書いておきます。
私たちが生きているこの世界には、ふたつの世界感があり、分岐の道があることに気づきました。
大多数の方が生きているこの世界とは、自我の永遠を望む者の世界なのだと思います。
自我の永遠とは、まだまだ足りないと満足しない感情なのだと思います。
ですから、探し求め変化していく行為なのだと思います。
今の私からみると、本人では、成長という希望に感じるようですが、終わりのない輪廻地獄のように感じます。
一方、この世界に生まれてはきたが、死というくぎりを感じて気づき始める者にとっては、無常空無我にふれる瞬間があります。
流れに任せて死を待つ世界があることを知ります。
何も意味などなかったと我にかえり、思考を追いかけるのをやめようとします。
「もういいか、これが最後」という感情から、未来へ自身を送る行為をなくそうと、流れの先にある死を待つ生き方になります。
こちらの世界感が、輪廻をするほどに生き残る業を減らす解脱へ向かう生き方のように感じます。
はじめは、生きるのに飽きたのか?それとも、一次的な鬱なのか?と戸惑い、自身を責めるかと思います。
しかし、ある一定の者には、起きることなのだと思います。
けっして、悪いことでもなければ、不安からの逃げでもないのです。
自我の永遠を望む者からは、認められない価値観ですので、切り離され理解されないのも仕方のないことです。
この世界の中で、たった一人でいるように感じます。
ブッダの原始仏教を知り、ひたすら自身に向き合います。
この世界が流れていることに気づきます。
自身が置き去りにされていることに気づきます。
未来のながれから外れていく自身をみつめます。
ぶつかる思いを感じます。
歳月とともに年老いていく肉体を感じます。
生きてきて積上げられた思いが消えていくのを感じます。
今回はできなくても、同じことを繰り返したくないと自身を観察します。
これで最後とは、解脱であり、無常空無我であることを知ります。
今現在の私は、死に向かう流れの途中であります。
この人生で起こる出来事で満足できればよく、同じことを繰り返す未練に意味が無いと感じることをあたりまえであればよいと思います。
なぜか、自身の業に気づいていくと必要な情報が目につくようになり、起きるであろうことが先読みできるようになってきたようで、淡々と選択するだけの感じがします。
起きることは起きたときにすればよいだけであり、肉体の維持の為の行為をするだけの存在でありますが、積上げられた業という習慣は、簡単には抜けきれないと感じながら生きています。
朝起きて、やりたいことだけするという生活となりましたが、それほどやりたいこともなくなりだしはじめ、未来に興味がもてなくなりましたが、ストレスもなくなったことで、無駄な行為もなくなっていくようです。
ストレスがあることで、不安や不満、怒りや嫉妬という感情が強化されて、より強い者への成長を望むようになることに気づきます。
この世界は、より強い者を肯定するアイテムばかりであり、そのような糞アイテムを集めるだけの、実に愚かな世界に感じております。(この感覚が行き過ぎると傲慢になるので気をつけて、自然に感じられればよいかと思います)
永遠とは、未来永劫自身を望む者の世界であり、このような者達の遊び場なのだと思います。(争い奪い合うことと、安らぎ安定を望む矛盾した双極の世界)
だから、この世界は業を深めることで続いて行くのです。
死してなお生きようとすることで、業は深まり輪廻するという設定であることに気づきます。(実際に輪廻が有る無しはわかりませんが、そのような感情が受け継がれ強化していく世界なので、また生まれ変わるという比喩なのだと思います)
私の業がどれほどの者かはわかりません。
ただ、今の私の生き方に悔いはありません。
(悔いがないとは、全ての過去の出来事が現在の自身に必要であったと感じることで、過去と未来への反すうという輪廻を減らすことだと思います)
あるべきところへ行くだけです。
死を待つ生き方をしているだけです。
思考が少なくなっていくだけです。
誰のものでもなく、自身のものですらなくなっていくだけです。
ありがとうございます。