別に誰より好きでもなかった。普通だった。ただ、ああはならないだろうと思っていたからOKした。それだけだったはずなのに。
「杏さん!杏さん!」
今日は幸子が家に来ている。そしてやたら名前を呼んでくる。数ヶ月同じ調子で飽きないのだろうか。てきとーにあしらいながらこの状態になった経緯を思い出す。
「杏さんが好きなんです。」
唐突なカミングアウトには流石に面食らった。
「ボクと…ボクと付き合ってください。」
定型文のような告白。私には真っ直ぐすぎだよ。それにこういう言葉にはあまりいい思い出がないけれど…相手は幸子だ。きっと、ああはならないだろう。
「いいよ。」
この一言で幸子の顔が明るくなった。涙も見せるくらいに喜んでいた。不思議だなあ。大してなにかが変わるでもないのに。
…という感じであっさりとOKを出してしまったわけだけど、事あるごとに出かけることを強要されるのはとても面倒だなあと思う。…思ったより楽しいからいいっちゃいいけど。こんな感じならこういう関係も悪くはない。
「杏さん…その…ボクたちってトクベツな関係じゃないですか。」
「まあそうだね。」
「だから…一緒にお出かけしたりとか、お部屋に来たりとか、そういうことをしてるわけじゃないですか。」
「うん。」
「それで…もっと仲良くなりたいなと…」
「仲良くったって何をーんむっ!?」
「…こういうことはボクたちには早いのかもしれませんけど、どうしても特別を感じたいんです…!」
「ちょ、幸子!?待って…」
力強い…!?待ってよ、こんなの…
『お前が好きなんだ。』
あの時みたいな…
「待って…」
「ごめんなさい。もう…」
ー!!
「『抑えられない。』んです!」
「駄目ッッ!!」 パシンッ
「…はっ!?」
「…」
「さ…幸子、ごめん…ちょっと驚いて…叩くつもりは全然無くてー」
「…ごめんなさい。」
「幸子…?」
「ボクってば…杏さんの気持ちも考えずに…勝手にそういうところまで行ってるとか思っちゃってて…」
「違うの、違うの幸子」
「そうですよね、行きたくもないのにしつこく誘ったからしょうがなく一緒に出かけてくれたり」
「ねぇ、待ってよ」
「嫌でしたよね。怖かったですよね。こんな自分勝手なのに付きまとわれ」
「違う!!」
「じゃあその顔を見てどう思えって言うんですか!」
「え…」
「…ごめんなさい、もう帰ります。」
「待って…待ってよ幸子…」
「ボクには…あなたの近くにいられる資格がありませんから。」
「そんな勝手なこと…」
パタン
「…なんで…どうして…」
「どうして進もうとしちゃうのさ?」
昔を思い出していた。私は昔から好きなものが普通の女子とは違った。どっちかといえば男子が好きそうなゲームとか、そういうのの方が性に合っていた。だから仲良くしてたのも男子が多かったと思う。ゲーセンに行ったり、家で遊んだり。昔からよく遊んでるやつがいた。
「だー!!また負けた!!」
「へっへーん!あんずに勝とうなんて100年早いよーだ!」
「くそー!!もういっかい!!」
「さっきもう時間って言ってたじゃん。はやくしないとまた怒られるよ〜?」
「うわっ!そうだった!!じゃーまたな!」
「おうおう!」
そいつは私よりゲームが弱かった。だけどいっつも挑んできた。そのうちほぼ毎日のように一緒にゲームをするようになっていた。それ以外にもグラウンドでサッカーをしたりして遊んだりもした。運動の方はあいつの方が強かった。
小学校から中学校に上がって、あいつはサッカー部に入った。私は面倒だったから帰宅部だった。それでも関係は続いてた。
多分あいつが好きだったんだと思う。でも、今のままでいたいとしか思わなかった。
「しっかし杏は全然大きくならないな〜。」
「女子だからしょうがないじゃん。てかそっちが伸びすぎでしょ。」
「そりゃあお前みたいにぐうたらじゃねーしな!あんだけ運動してるんだから!」
「しすぎで頭まで筋肉になってんじゃないの?テストのたびヤバイヤバイ言ってるのは誰だったかな〜?」
「うぐっ…そこは頼むよ〜今回もよくわかんなくてさ〜。」
「それじゃあこの後教えたげるからコンビニでスイーツ買ってよ。」
「あっゴメン!この後部活なんだよ〜また今度な?」
「ふーん、そっか。」
「お?なんだなんだ?また杏といちゃついてんのかよアツいね〜」
「違っ、そんなんじゃねーし!」
「こんな脳筋と付き合ってたら杏まで筋肉になっちゃうじゃん。」
「あぁ!?」
周りから茶化されることも多くなった。でも日を追うごとにあいつとは予定が合わなくなってきた。それでもたまに遊んだりはしていた。少し寂しいと思ったりもした。しょうがないことだけど。
ちょっとした用事であいつと待ち合わせをしていた。けれど私は遅刻した。目覚まし時計の電池が切れかかっていたせいで、針が進んでいなかった。
「…やば。」
私から誘ったことだったのに、あいつは全然怒ってなかった。
「どーせお前のことだから遅くまでゲームでもしてたんだろ?」
「目覚まし時計が業務放棄しただけです〜」
「どうだかな。それじゃとっとと行こうぜ。」
その後の時間は楽しかった。久しぶりに長くゲームもやれたし、楽しい時間は過ぎるのが早いとはよく言ったものだ。
帰ってきたら、時計は同じ時間を指していた。登れないからその場で動き続ける秒針。
「本当の時間も、こんな感じならいいのにな。」
柄にもなくそんなことを口に出していた。その願いは、小さいままの身体にだけ叶っていた。
中学校生活も残り少なくなったある日、新作ゲームの発売日に、私の家で一緒に徹ゲーする約束をした。
「……っはあぁぁぁ〜!!やっとクリアできたな〜!!」
「そこそこの難易度だったから遊びごたえはあったかな。」
「…なあ、俺たち、あとどれくらいこうやって遊べるんだろうな。」
こいつと私は別の高校に決まっていた。
「卒業までくらいじゃない?」
「お前は頭いいもんな。」
「そっちがバカすぎるだけでしょ。」
「言うなよそういうこと〜」
「ま、杏も多少寂しい気はするかな〜。小学校からだったし。」
「…なあ、杏。」
「なにさ。」
「俺たちさ、周りのやつらにもからかわれるくらいの関係だろ?」
「まあ、そうだね。」
「もし、さ。俺がそういう関係になりたいって言ったら、どう?」
「え?」
「…杏、俺、お前が好きなんだ。」
まさかこいつがそんなこと言うなんて。それが一番に思ったことだった。付き合ったらなんて、考えたこともなかった。パニックに近い状態になって、頭が真っ白になった。
「杏…杏…ッ!」
抱きしめられた。強い力が、こいつが男だってことを認識させる。徐々に不安を覚えるくらいには頭が回り始めていた。
「ごめん、杏。」
これ以上進んだら、何かされたらー
「俺…もう…」
私たちは、戻れるの?
〜翌日〜
「ッハァ!!…はぁ…はぁ…」
…ここは?…そうだ、あの後ずっと泣いて、昔のことを思い出して…今何時だ?スマホは……プロデューサーから電話?
「…もしもし?」
『起きたか、杏。だいぶ急ですまんが、今日のレッスンは休みだ。』
「…休み?」
今は休みを素直に喜べるような状態じゃないけど、そもそもこんな都合よく急な休みなんて。
「何かあったの?」
『あー…まあ、色々だ。』
「??」
『まあ、とにかくあれだ。…しっかり休めよ。』
ブツッ ツー…ツー…
唐突な知らせで驚いたが、ふと気づくと昨日ずっと泣いていたからか、喉がひどい。目の周りもかゆい。…もしかしてプロデューサーにもわかるくらいだったかな。
…そういえば、幸子から連絡はないか。あったらあったでどうすればいいかわからなかったけど。
「…ヴオェッ」
夢も相まってすごく気分が悪い。胃も喉も焼けるような痛みを感じる。昨日のことを、あの時のことを思い出すと尚更ひどい。…苦しいけど出すもの出してしまおう。これ以上部屋が汚れるのは良くない。
この感覚も久しぶりだ。心のもやを、罪悪感を、全部胃液といっしょに吐き出すような感じ。この苦しさが、まずい味が、一瞬全てを忘れさせる。すごく嫌だけど、勝手に溢れてくるから従うしかない。…あの時はお互いに避けあっていればよかったけど、今回は仕事がある。いつまでもこのままじゃいられない。
酸っぱい匂いに包まれ、どれだけ気持ち悪くても吐くものが嗚咽以外無くなった。そろそろ何か幸子に言わないと。なんて言えば…まず謝って…
杏『昨日はごめん ちょっと急で驚いちゃっただけなんだ 』
杏『ちゃんと話したいから時間をとりたいんだけど』
「…」
今のままではいたくない。でも、話すってことは進むってこと。進まないと、幸せがいつしか壊れるのはわかってる。わかってるけれど。
「…戻れるかな。」
それから、もう夜になろうとしていた。何もやる気になれなくて、既読が付くのを待っていた。普段の幸子は忙しいから返信は遅い。でも既読はできるだけ早く付けている。だけど、未だに付いてない。
「幸子…」
突き放すように帰った幸子。きっかけは私だったけど、ここまでされると少し腹立たしさすら感じてしまう。元はと言えば幸子が勝手に…いや、よそう。幸子のせいにしてどうする。全く悪くないわけじゃないだろうけど、幸子の想いを壊したのは私だ。あの時と同じように、中途半端だったから。そこまで嫌ではないはずなのに。…でも、あの目を見てしまったから。
日が変わっても、既読はつかなかった。重苦しいながらも人前に出られるくらいにはなったから事務所に来た。
「おはよう、杏。早速だが、色々日程が変わってるから確認しておいてくれ。」
そう言われて新しくなった予定を受け取った。たしかにところどころ変わってるみたいだけど、何より気になっていることを確認した。
「この後のレッスンは予定通りあるから、そろそろ向かっておいてくれ。」
無い、無い、無い。
「ねえ、プロデューサー。」
「…」
やっぱり何かあったんだ。
「…答えられない?」
「…何か察してるみたいだな。」
「……ごめんなさい。」
「詳しくは知らんし口も出せんが、俺にはそうするしか出来なかった。協力もできない。」
「いいよ。…時間はかかると思う、とは言っておくよ。」
「わかった。」
「それじゃ、行ってきます。」
真っ先に気になったこと、それは幸子とする仕事やレッスン。いくつか入っていたはずなのに、新しい方では一切入っていなかった。多分幸子がプロデューサーにお願いしたんだろう。私と会わなくていいようにか、はたまた会いたくないからか。
それ以降、まるで身が入らなかった。レッスンでは普段絶対しないようなミスばかり。仕事でもプロデューサーが私のことで小言を言われているのが聞こえてきた。突発的に思い出してやって来る吐き気もあって、すっかり事務所のみんなの見る目が心配にまみれていた。ただ、家にいるよりはずっと気が楽だった。少しでも体を動かすことでずっと楽になれた。せめてもう少し数を増やして…
「しばらくお前には休んでもらう。」
「…え?」
「最近のお前の評判は知ってるか?疲れてるとか、キレがないとか。根も葉もない噂まで立つ始末だ。これ以上仕事をさせるのはまずいと判断した。」
「待ってよ!そんな急に言われても…」
「いいからまず聞け。これはあくまで表立った理由だ。」
「表の…?」
「時間は作った。向こうは意地になってるみたいだ。…何かしらケリをつけてくれ。俺含め、みんな心配なんだ。」
「…」
「向こうにはこのことは伝えてない。場所が使いたかったら部屋は貸す。」
「どこまで幸子から聞いたの?」
「それは言えんな。あいつとの約束だ。何も知らないかもしれないし、全部知ってるかもしれない。ただ、俺ができる最善のつもりだとは言っておく。」
「…ごめんなさい。」
「謝るのはこっちだ。難しい問題を急かすようなこと勝手にして。」
「謝らないでよ。悪いのは…」
「それ以上は言わんでいい。なんでも自分だけで抱えるな。俺は受け取れないがな。」
「…ひどいプロデューサー。」
「その調子で普段のお前に戻ってくれよ。」
「…」
戻ってくれよなんて、難しいこと軽々しく言ってくれちゃって。そんなに軽いことならああもならないってのに。しかし未だに既読がつかない辺り、ブロックされてるんだろうな。どうやって連絡すればいいやら。
ピロン♪
「ん…?輝子から?」
輝子『大丈夫か…杏さん』
杏『どうしたの輝子?』
輝子『さっき、実は机の下にいたんだ…』
プロデューサー…そのへん考えてよ。
輝子『幸子ちゃん、なにも話してくれなくて…』
輝子『でも、辛そうなのは見てわかるんだ』
輝子『それで、何か私に手伝えることはないか?』
「…」
幸子との関係は秘密にしていた。少なくとも私は誰にも話してない。幸子はどうか知らないけど、輝子の様子からして誰にも言ってないみたいだ。
輝子『トモダチが辛そうなのは、私も辛いんだ…』
輝子なら幸子と連絡は取れるだろう。何故か避けられてるみたいだけど。でも…
杏『ちょっと待ってね』
輝子と幸子は友達だから、助けたいと思うのは自然なこと。でも、この問題は私と幸子の問題。これに巻き込むのは、輝子と幸子の関係にも影響があるかもしれない。
杏『やっぱりこれはこっちの問題だから、巻き込むわけにはいかないよ』
どうにか連絡を取って、来てもらうしかない。今の杏が呼んでも来てくれないかもしれないけど。
輝子『巻き込んでくれても全然いいんだ』
輝子が食い下がってきた。
杏『でも、私のせいで輝子と幸子の仲が悪くなるかもしれないんだよ?』
輝子『それでも、何もしないのは嫌だ』
「…」
杏『わかった』
杏『今私は幸子と連絡が…』
この意思を断れるほど、私は強くない。
お願いしたのは1つ。幸子に嘘をついて、事務所の部屋に呼び出して欲しいということ。連絡が取れず、恐らくブロックされていることと、私が呼び出しても来てくれないかもしれないということを伝えたうえでお願いした。利用しているみたいですごく申し訳なかった。でも、ものすごく助かる。あとは私がやること。また幸子が逃げてしまうかもしれない。なんとしても止めて、誤解を解かないと。
「俺、もう…抑えられないんだ!」
「待って!」
聞いてくれなかった。とても強い力で腕を掴まれて、倒された。
「気づいたらずっと…ずっとお前が好きだったんだ!もっと近くに居たくて!もっと特別なことがしたくて!抱きしめたくて!キスがしたくて!」
怖かった。怒鳴り声みたいだったから怖かった。でも、何より怖かったのはー
「なあッ!!」
ーいつもと違う、私を見ていたのと全く違う、眼だった。
〜翌日〜
私は事務所のある部屋にいた。最悪な目覚めだったけど、そんなことは言ってられない。決着をつけないといけないんだから。もう、戻れないんだから。
コン、コン、コン。
「輝子さん?お話って一体……なん、で…」
「……久しぶり、幸子。」
私の顔を認識するなり、幸子は案の定出て行こうとした。
「待ってよ!!勝手に出て行くな!!!」
全力で叫んだ。走った。追いかけた。幸子は止まってくれた。
「……話そう、幸子。どうなるとしても、必要だから。」
「……はい。」
付き合う前ですら、こんな重苦しい、すぐに出て行きたいような空気にはなったことがない。
「……本題に入る前に言っておくけど、輝子は協力してくれただけだから、悪く思わないであげて。」
「…なにも恨んだりはしません。あなたと連絡を取れないようにしたのはボクでしたから。」
「スケジュールを別々にさせたのも?」
「はい。」
「……どうして私と距離を取ったの?」
「…あなたが優しい人だからです。自分のことばかり考えて、あなたにあんなに怖い思いをさせてしまった。なのに、あなたは怒るでもなく、ボクを庇った。なにも悪くないのに、あなたは謝って。あんな…あんなに怯えてる顔は見たことがなかったのに。あんな顔、させちゃいけなかったのに。ボクのせいであんなに怯えて…」
「幸子、落ち着いて。」
「あなたの顔をかんなに歪ませて!それに加えて罪も背負わせて!なにも悪くないのに!!悪いのはボクなのに!!」
「幸子ッ!!」
「…はっ…」
「落ち着いて。まだ、私はなにも言ってないから。」
「…ごめんなさい…」
「……今日は、杏の話、聞いてくれる?」
「…はい。」
「まず、昔の話から。」
それから、色々と話した。あいつのこと。あいつが好きだったこと。眼が怖かったこと。同じ眼をしていたこと。あいつを遠ざけたこと。本当はこうありたいこと。
あの後、あいつは冷静になった。押し倒して、キスをしてきて、我に返って。あの日以来、あいつとはなにも話さなかった。お互いに避けていた。気まずくて、早く学校が終わってほしいと思った。卒業後も、全く話さないまま、その後の連絡先すら知らないまま。
たった1つのことで、好きな人と他人になってしまった。その体験は、現実を突きつけながらも、私の理想への執着を、より一層強めた。そのままだったら、どれだけ幸せだったか。1歩進まないだけで、どれだけ幸せでいられたか。1歩進んだだけで、どれだけのものを失ったか。進まずにいるのは、どれだけ難しいことか。
「ー私の話は、これで全部。」
本当は、あの日に幸子に伝えたかったこと。
「わがままでしょ?私。わがままなのは、幸子だけじゃないの。だから、幸子ももっと、わがままでいいの。」
「……」
私が話せることはもう、なにひとつない。
「聞かせて?幸子の言葉を。」
あと出来るのは、待つだけ。
「『ごめん』なさい。」
「やっぱり、ボクはあなたの特別になりたいです。でも、それ以上に、あなたにもう、あんな顔はさせたくない。だから、ごめんなさい。」
それでいい。
「ボクから言い出したのに、ボクからこんなこと言うなんて、ほんとにわがままですよね。」
それでいい。
「だから、元に、戻らせてください。」
それで…
「うん。ありがとう。」
それで…
「…それじゃあ、また。」
それで…
「うん。バイバイ。」
パタン。
それで…
「いいわけ…っ 無いじゃんっ!!」
壊れた。また、壊した。
「うあぁう…ゔあぁ…」
戻らないことを一番知ってるのに。
「うわ゛ぁああ゛あ!!ぁあ゛あぁあ゛ああ!!」
また、留まろうとした。
気づくと、誰かに包まれていた。誰かが、私の名前を呼んでいた。知っている感覚だった。大きくて、優しくて。でも、そのことを考えられる頭は、残っていなかった。あの日みたいに、あの日よりも、たくさん泣いて、たくさん叫んで、たくさん吐いて。優しさにしがみ付いて、そのままでいるのがやっとだった。
しばらくして、やっと少し落ち着いて、その人を見ることができた。お気に入りの可愛い服が、私の涙ですっかりシミを作っていた。私の吐き出したものですっかり汚れてしまっていた。それでも、私を離さなかった。包んでくれていた。何も言わずに、そこに居させてくれた。幸子に自分を捨てさせて、自分で苦しんでる私を、受け止めてくれていた。今の私には、その優しさの上に、全てをぶちまけずにはいられなかった。
「ねえ。私…」
「止まっちゃ、駄目なの?」
彼女は、なにも答えず、そのまま包んでくれていた。その部屋には、すすり泣く声と、秒針の音だけが、いつまでも響いていた。