「あーそこ・・・もうちょっとそこ伸ばして」
「脚パンパンじゃないですか先輩、ダッシュメニューばっかりやってんですか?」
「あ〜効くぅ・・・」
「というか、先輩がスプリント戦に出ようとするとは考えてもみなかったです」
「・・・わたしもつい最近までそう思ってたんだけどね」
スプリントのコーラルステークスを次走に命じられたパーマーは、ここのところ練習後にダッシュの連続で疲弊した脚を、ルームメイトのナイスネイチャにマッサージしてもらうのが日課のようなものになっていた。
ひたすらに繰り返されるダッシュメニューに、暴走としか思えないペースでのヘリオスとの併せウマ。チームポラリスに移籍してから新たに組まれるようになったこれらのメニューは、パーマーがこれまであまり使ってこなかった筋肉を酷使しているようで、どうにも脚の疲労が抜けにくいのだ。
「それにしてもメジロがスプリントって珍しいですよね、なんというか、長距離至上主義!みたいなところあるように思ってたんですけど」
ネイチャは反対側の脚に手を伸ばす。
「・・・マックやライアンはそうなんじゃないの、わたしは違うってだけ」
「でもレースまで2ヶ月も猶予があるってことは、それだけ先輩の適性に期待してじっくり鍛えてるってことなんじゃないですか?」
「ポジティブに考えればそういう見方もできなくはないわね」
「先輩がネガティブすぎるんですよ〜」
至近距離のネイチャにも気づかれないような、小さなため息をつく。
人の気も知らないで──
ただ、会話が微妙に噛み合わないのは、ネイチャにはまだメジロ家から縁を切ったことを伝えていないからにほかならない。察しろと言う方が無理な話なのだ。
「それにしても明日は楽しみなんじゃないですか?」
「明日?なにかあったっけ」
「いやAJCCあるじゃないですか、ライアンさん出るんでしょ?」
身内が出る大きなレースを忘れるなんて、というところだろうか。信じられないと言った表情で見つめられ、仰向けになっているパーマーはバツが悪そうに顔を少し逸らす。
「・・・ごめん、普通に知らなかった」
「ってことは見に行かないんですか?」
「行かないもなにも、明日も普通に練習」
「ふ〜ん、言ってもまあGIIですし、わざわざ家の人たちも応援にも来ないんですかね」
「まああの子ならまだGIも勝てるだろうし、ただの前哨戦くらいで騒ぐこともないでしょ」
メジロ家では、生まれ育った子達が大レースに出る時には伝統的に大応援団を編成して北海道から出てくることになっていた。
実際にパーマーが出た唯一のGIレースでも、よく知らない顔も含めた大量の親戚が京都レース場に遠征して来ていた。
まあ最もそのレースでもあくまでパーマーはおまけであって、一同のお目当ては大本命だったマックイーンだったのだろうけど。
「──ふぅ、こんなもんでいいですかね」
「ありがとう、おかげでだいぶよくなった気がする」
その後もやれ食堂の限定メニューの話だとか、やれ2階のトイレの端の個室がずっと鍵がかかったままだといった他愛のない話をしているうちに、パーマーの両脚は軽くなっていた。
「少し気になったんですけど、先輩今ちょっとさすがにオーバーワーク気味じゃないですか?やりすぎて怪我しちゃったら走れないの退屈ですよ〜」
こう言うナイスネイチャも実は今脚を痛めてしまっており、休養を余儀なくされている。昨年の秋頃に勝ち続けてクラスを一気に引き上げて有馬記念にまでたどりついたが、脚は耐えられなかったようだ。
「いや量は大したことないのよ・・・単に慣れてなさすぎるだけで」
「でもスタートダッシュは今でもめちゃくちゃうまいじゃないですか、本当にダッシュ系のメニューあんまりやってなかったんですか?」
「あれはあくまで中長距離を走るメンバーの中では速いってだけ、スプリントだと先行集団になんとか取り付けるか、ってとこなのよ」
「ひぇ〜、おっそろしい世界ですね」
「ほんと、練習だけでも別世界って分かるよ・・・」
そう、別世界だ。パーマーがこれまで主戦としてきた中長距離レースとは全く違う。
だからこそ解せない。なぜトレーナーがわたしにスプリントを走らせようとしているのかが。
障害もそうだったように、これが全く向いていないのは自分でもよく分かる。トレーナーだってプロなのだ。それが分からないはずはない──と思うのだが。
『なんでなんですか・・・絶対に向いてないです、自分が一番わかります』
『いや、今のキミに一番必要なものがそこにある』
「・・・なんなんだろうなあ」
「ふえ?」
「こっちの話、気にしないで」
「なんですかそれー、それより明日も練習なんだったらもう寝ましょうよー」
「・・・そうね」
もしかしたら、また明日走ってみれば何かが見えてくるのかもしれない。自分でもまだ気づいていないトレーナーの真意に。
今は明日への希望がある。微かではあっても。
そんな想いが脳裏を巡りきる前に、疲労困憊のパーマーはすぐ深い眠りについた。
・・・・・・・・・・・・
「う〜ん、スプリントの練習をする理由?」
「そ。いろんな距離走ってるらしいあんたなら、なんの意図があるかとか分かったりしない?」
「え〜、わたしトレーナーさんじゃないし、そんな難しそうなことわかんないよぉ」
「・・・まあ、そう言うと思ってた」
翌日の朝、トレーニング前の準備体操をしながらパーマーはヘリオスにも疑問をぶつけていた。
が、案の定というかなんというか、ヘリオスも何もわからないようである。いや、明らかに適当というか深く物事を考えていなさそうなヘリオスにそこまで期待していたわけではないのだが。
「まあまあそんな難しいこと考えてないでぇ、はやく走ろうよぉパーマーちゃん!」
「・・・今日は一段とお元気なことで」
やはりお気楽モードなヘリオスに、皮肉のひとつでも言いたくなる。
「だって今日は日曜日だよぉ、他のチームのみんなは応援に行ってるから、このコースぜーんぶ使い放題なんだよぉ!」
目の前に広がる広大な学校グラウンド──工場跡の空き地とは比べ物にならないそれを指さして、ヘリオスは声を弾ませる。
「わーい、今日はいっぱいパーマーちゃんと走れるねぇ!」
「テンション高いのはまあいいとして、あんたの暴走ペースに付き合わされる身にもなってくれない?」
「え〜でもぉ、練習で飛ばさないと本番でもスピード出ないよぉ」
「マイルどころか1200すら全然持たないレベルのスピード出力は、どっちにしろ意味ないと思うんだけど」
「そこはぁ、限界を超える!」
左拳を握りしめ、目をキラキラさせているヘリオス。
希望に溢れていて眩しい──というよりかは。
(うーん、やっぱりヘリオスもアホの娘だな・・・)
どうせこのあたりの言動もツインターボから影響されたのだろう。眩しいと言うよりかは、言っちゃなんだがこれは痛々しいの類いだ。
そう考えると少々冷ややかな視線を浴びせたくもなるものだ。
「どうしたのぉ、準備体操ももうしたし早くやろうよぉ」
「はいはい、さっさと始めますか」
怪訝そうな顔をしているヘリオスをあしらう。まあとりあえず、今は他人のことよりも自分のことだ。課されたメニューをまたこなしていけば、なにか答えが見えてくるかもしれない。
どっちにしろ、このモヤモヤにはさっさと蹴りをつけたかった。
今日のメニューはこんな感じだ。まず準備体操を充分にこなしたあと、アップのランニングを軽いペースでウッドチップコース1周回(ヘリオスはアップにも関わらず爆走していたが)。そのあと1ハロンのダッシュを10本。2ハロンのダッシュを5本。トレーニングルームでバイクメニュー。坂路コースに移動して駆け上がりを2本。そして締めにコースに戻ってヘリオスとの併せウマを2本──
「ねぇ・・・ちょっとこれ・・・さすがにオーバーワークすぎない?」
坂路からコースへ戻る最中、息を切らしながらパーマーはヘリオスに問いかける。
「え〜そうかなぁ、わたしはまだまた走れるよぉ」
ヘリオスも同じようなメニューをこなしているにもかかわらず、全く疲れている気配がない。本当に凄まじい回復力だ。もっともメニューが終わる度にグラウンドにぶっ倒れてはいるのだが、10分ほどでピンピンした状態に戻り意気揚々と次のメニューに向かっている。
「そんなことより次は併せだねぇ!楽しみだなぁ!」
どうなってんだ、この娘は。
「・・・ねぇ、ちょっと休憩もらっていい?」
「どうしたの、そんなに疲れたのぉ?」
「まあ言っちゃえば、疲労困憊って感じ」
「う〜ん、でも、30分くらい休んだら全力のパーマーちゃんと走れるよねぇ!」
「生憎あんたみたいな回復力は持ってないから、その保証はできかねるけど」
「え〜!」
ヘリオスが素っ頓狂な声を上げるのを尻目に、パーマーは校舎前の道からグラウンドに降りていくスタンド席に腰を下ろした。プラスチック製でいやに冷たいそれの座り心地はお世辞にもいいとはいえないが、この姿勢を取るだけでも疲労感は幾分か軽くなる。
「よっこいしょっと」
すぐ横にヘリオスも腰を下ろした。もう夕方が近づいてきている。傾き始めた太陽と、冬の風が疲れた身体に沁み渡る。
「ふぅ〜、風が気持ちいいねぇ」
「気持ちいいってか普通に寒いような・・・」
「あっパーマーちゃん、脚ガチガチになっちゃうから伸ばしながら休んだほうがいいよぉ」
「そりゃそうね、ありがとう」
「パーマーちゃん元気ないねぇ、疲れだけじゃないでしょ、大丈夫?」
「・・・まあ、大丈夫」
リバーといいヘリオスといい、なんでこうも察しがいいのだろうか。なんだか嫌になって自然と膝を抱え込む。
実際、元気がない理由は疲労だけではない。まだ練習は終わっていないとはいえ、今日のところも自分がなぜこのトレーニングをしているのか、その真意が見えてこないままなのだ。
目的が見えないトレーニングをしている不安とモヤモヤが、今は心を覆い尽くしている。
出口の見えないトンネルほど怖いものはない。
「あー、リバーちゃんたちかなぁ、あれ」
「えーと・・・そうみたいね」
相変わらずの明るい声に誘われ、ヘリオスが指差す方向を見つめると、なるほど向正面のあたりにちんまいウマ娘とおそらくトレーナーだと思われる男がいる。
リバーは膝に手をついて肩で呼吸をしていた。彼女もパーマーが繰り返していたようなダッシュメニューをこなしているのだろうか。
──いや、ふたりではないか?
内ラチの下をくぐり抜け、ひとりのウマ娘がふたりの側に立った。遠目ではあるが、風にたなびくふわふわしたセミロングの黒髪がその女性を綺麗に見せる。
「・・・ねぇ、あの女の人知ってる?」
今度はパーマーが指を差す番だ。
「え〜、う〜ん、なんだろぉ、なぁんかどこかで見たことある気はするねぇ」
「やっぱりそうよね」
全くの同意見だ。パーマーもいつかどこかでその面影を捉えたことがあるような気がする。あれはいつだったか、学園に入った最初の模擬レース?それともレース場で見たのか?もしくはもっと幼い頃にテレビ越しに?
「あーっ!!!おねーさんたち!!!」
突如グラウンド全体に響き渡った嬌声に、思考を巡らせていたふたりは思わずびくりとする。まあ、今の状況から声の主が誰かと言うことくらいは1秒も経たないうちに分かったのだが。
「・・・せっかくだしあっち行きましょうか」
「そうだねぇ、またリバーちゃんのほっぺぷにぷにしようかなぁ」
おしりについた少量の砂を払い除けてから、声が呼ぶ方へ脚を進める。
「・・・あれ?あの娘と・・・お姉さまかしら?」
ふたりの背後、つまり校舎前を通りかかったウマ娘には、パーマーもヘリオスも気づかなかった。
・・・・・・・・・・・・
「おねーさんたちは練習終わったのですか!?」
「まだだよぉリバーちゃん、パーマーちゃんが併せやりたがらないんだぁ」
「えー!!!なんでですか!!!もったいないです!!!」
「いや、やらないなんて言ってないでしょう」
「パーマーおねーさんがやらないなら、あたしと走りましょう!!!」
「だから言ってないって・・・それに、リバーはまだダメって言われてるよね」
「あぅぅ」
「なんだ、キミたちまだ終わってなかったのか」
わざわざ4コーナーまで猛然と走ってきたリバーをつかまえてからパーマーたちは向正面に到着した。そこには、やはりトレーナー・・・と、あのウマ娘がいる。
「あとは併せやるだけなんだけどねぇ、パーマーちゃん少ししんどいみたいなんだぁ」
「なんだ、さすがにオーバーワークだったか?ダメなら休んでてもいいぞ」
オーバーワークを課している自覚はあったのか。
「・・・いや、大丈夫ですよ、もうやれるんでさっさと終わらせちゃいます」
答えながらちらりと目を横にやる。
今何よりも気になるのは、トレーナーの傍らでふわふわした雰囲気の笑顔を浮かべているそのウマ娘のことであった。
「ねぇトレーナーさん、そちらのウマ娘さんはどちらさまなのぉ?」
パーマーが聞くより先に、疑問をぶつけたのはヘリオスの方であった。
「あ〜、やっぱりキミらの世代だとすぐにわかんないもんなのかな」
「ふふふ、もう若くないからね〜」
「・・・いや、あなたそれでもそんなに歳いってないでしょ」
「まだまだ現役のマルゼンさんあたりがおかしいだけで、ワタシは充分おばさんよ〜」
「あーあー、聞かれたら怒られるぞー」
「・・・で、あの、結局そちらの方は・・・」
自分たちを置き去りに話が進んでいるような気がして、パーマーが口を挟んだ。
「あーこちら学園OGの──」
「まあまあワタシの自己紹介なんていいから・・・ええっと、どっちがパーマーさんかしら?」
「あ、わたしですが──」
呼ばれて小さく手を挙げる。なんだ?わたしに用があるのだろうか。
「じゃあこちらが・・・えーと、ヘリオスさんね」
「はぁい、そうです!」
「ふたりともよろしくね〜、トレーナーさんから話は聞いてるから」
よろしくおねがいしまぁす、と呑気に返しているヘリオスの横でパーマーは少し考え込む。
この人が誰なのかはもうこの際置いておくとしよう。やり取りの感じだとトレーナーが呼んできた外部の人、ってところだろうか、いずれにしてもまあ信用できない、ということはないのだろう。
ただ引っ掛かるのは学園OGという文字列だ。なんだろうか、なにか心当たりが・・・
『トレーナーさんが、おねーさんのために強いウマ娘を呼んできてくれたみたいです!!!おーでぃー?おーじー?とかいってました!!!』
ああ、もしかして。
「もしかして前に聞いた『一緒に走ってくれるOGさん』って・・・」
「そのおかたのことです!!!」
トレーナーが口を開く前に、もの凄いドヤ顔でリバーが答えた。
「ああそういえばそこはリバーに伝言頼んでたな、そうだよ、この人のこと」
「そういえばこの前はせっかく来たのに約束すっぽかされちゃったのよねーえ、トレーナーさん?」
「・・・その件についてはボクの力及ばない範囲だったとはいえ、申し訳なく思っています」
白い目を向けられたトレーナーは、苦笑しながら肩をすくめる。
まあ、実際にトレーナーは何も悪くない。あの日練習に行けなかったのは、今横でリバーの頭を撫でているヘリオスと、結局今になっても消息がよくわからないまま(保健室の先生は心配ないと言っていたが)のツインターボのせいなのだから。
「うそうそ、別に責めてないから・・・うーん、折角だしもう今日から一緒に走ってもいいかしら?」
「そう言えば終わってないのは併せだけって言ってたよね、折角だからふたり纏めて相手してもらえばいい」
「いいんですか?」
「そりゃ、併せやってくれって頼まれて来たんだからいいに決まってるじゃない」
何を当たり前のことを言っているんだ、というような感じで先輩ウマ娘はケラケラと笑う。
この人と併せをやるのか。
気付かれないようにちらりと視線を向ける。他者に興味を持っていなくても、オーラや雰囲気というものくらいならパーマーにだって感じることはできた。
今横にいる、正体不明(?)なウマ娘は明らかに只者ではないように感じる。走りたいという気持ちを取り戻しつつあるパーマーにとって、一緒にやってみたいという気持ちが湧き出てくるようなオーラだ。
「でもリバーとトレーニングしていらしたんじゃ・・・」
「もう彼女のぶんのトレーニングは終わったからね、レースが来週なんだからそこまで無理はさせないよ」
「それじゃあ、やりましょう!」
先に答えたのは、リバーのほっぺを伸ばして遊んでいたヘリオスの方だった。
「ヘリオスさんはやる気満々ねー、それでパーマーさんはどうかしら?もうできる?」
先を越された格好になったパーマーだったが、こちらとしても断る理由は別にない。
「・・・それじゃ、お言葉に甘えて」
「よーし、併せ2本って言ってたけどもうこの1本だけで終わりにしようか」
「それはまたどうして?」
「充分すぎるくらいに練習になるだろうってことさ」
「・・・それは楽しみですね」
「そうだ、パーマーくんちょっと耳貸してくれ」
「?なんですか、急に」
「いいからいいから」
言われるがままに、左耳をぴょこんと動かして彼の方へ向ける。
「あとひとつだけ・・・死ぬ気で逃げろ」
耳打ちの声は小さいが、口調は強かった。
命令口調を受けたのは家を出てから初めてではないか?指示の内容というよりは、普段とは異なるその真剣な態度に、自然と気が引き締まったような気がした。
「ヘリオスがいるのに、ですか」
「ヘリオスくんと言うより・・・いや関係ないな、死ぬ気で逃げろ、逃げられなくても食らいつけ」
「・・・善処します」
「おーい、そろそろ日が暮れちゃうしさっさとやっちゃいましょう、スタートは1600の地点からでいいかしら?」
いつの間にか先輩は30mほど先に立つハロン棒の下にいて、パーマーたちふたりを手招きしている。
「はぁ〜い、最後がんばるぞー!」
「すみません、すぐ行きます」
「あと少しだ、頑張ってな」
──あと少し、ね。
まあこれが終われば今日の練習は終わりなのだ。そういう意味では「あと少し」なのだろう。
でも、今わたしが探しているものは本当に「あと少し」で見つかるのだろうか──
ふーっと息を吐き出す。
・・・まあ、ヘリオスもいるから、勝敗はともかくとして逃げるのは実際問題厳しいだろう。それでも、やれるところまでやってみないと後で何を言われるか分からないな。
己の気持ちと靴紐を引き締めてから、今日最後のスタート地点に向かった。
「・・・よーし、じゃあリバーはもうクールダウンして終わりにしようか」
「えー!あたしもあたしもまだまだ走りたいのです!!!」
「だーめ、まだまだ身体もできあがってないんだし本番も近いんだ、無理なトレーニングはゲンキンだよ」
「むー!!!」
ぶーたれているリバーの背中を押しながら、ハロン棒の方をちらりと振り向く。
なんだか難しい顔をしているパーマーが目に入った。
──彼女なりに答えを探そうとしてるんだろうな。
『絶対に向いてないです、自分が一番わかります』
「まあ、それも『あと少し』で分かるんじゃないかな」
キミが追い求めているものはそうだ、すぐ近くにあるはずだ。
ボクだってそこまでボンクラじゃない。キミにとってスプリントは短すぎる、全くもって向いていないことくらい分かってる。
でも、今短距離を走ることで、改めてそのスピードを身をもって体感することで分かることがあるんだ──
・・・・・・・・・・・・
「おそいよぉ、はやく走ろうよぉパーマーちゃん」
「まあまあヘリオスさん急かさないで、ワタシは別に逃げないわよ〜」
「・・・思いっ切り内空いてますけどここ入っていいんですかね」
「「どうぞ〜」」
パーマーはいちばん内ラチに近い、所謂最内と呼ばれるポジションを陣取った・・・というか譲ってもらった。すぐ横にヘリオス、ふたりをよく見れるからここがいい、と言っていちばん外に先輩があらかじめ並んでいる。
「スターターもいないし、もうワタシのよーいドンに合わせてスタートでいいわよね?他になにか聞きたいこととかある?」
「せんぱい、なんだかいい匂いしますねぇ!」
「あら嬉しい、今日は香水もなにもつけてないんだけどね、ありがとう」
それは質問か?ご機嫌取り?いや、そんな器用なことをするヘリオスではないか。
満更でもなさそうな先輩に対して、パーマーはヘリオスに比べると至極まともな質問を投げかける。
「・・・先輩、お名前なんて言うんですか」
「あ〜、そういえばそこ聞くの忘れてたぁ」
気づかなかったよぉ〜、などと抜けたことを言っているヘリオスは一旦置いておこう。
「ワタシの名前ねぇ・・・そうね、じゃあこの併せでふたりのどっちかがワタシに勝てたら教えてあげる」
なんですかそれ。
「うわぁ〜、これは燃えずにいられないねぇ!」
いや、別にそんなでもないが。
「他は何もないのかしら?それじゃ、今度こそほんとに準備いいわね?」
「はーい!」
「・・・はい」
結局はぐらかされてしまったが、今はもう走るしかない。気持ちをレースに切り替える。
返事をすると同時に、全神経をスタート体勢に集中させた。
「それじゃいくわね、・・・よーい──」
わたしは、確かに先輩のドン、の声に被さるか被さらないかのギリギリのタイミング、いわゆる好スタートを決めたはずだ。
前傾姿勢から徐々に身体を起こしていく。このスタートなら、パーマーがかつて主戦場としていた中長距離のレースであれば、間違いなく集団のトップに立ち、ペースを支配する権利を手にしている。
しかし。
その好スタートから身体を起こしたパーマーの視界に飛び込んで来たものは、ヘリオスの背中・・・だけではなかった。
自分より幾分も前の位置で激しく競り合うふたりの姿がそこにある。
・・・ふたり?
あれ?なんだこのデジャブ?
今のパーマーが出せる最高のスタートを決めたとしても、ことハナ争いにおいてヘリオスにはまだ勝てないだろう。それは例の暴走トリプルマッチでも、併せウマという名の超全力疾走でもスタートでは勝てないことからも明白であって、今更驚くことではない。
しかし、今日はそれでもすぐ後ろの2番手にはつけられると思っていた。それだけのいいスタートを決めた自信があったからだ。
──では、そのヘリオスとスタートダッシュにおいて互角以上、いやむしろ子供扱いしているあの先輩はなんなのか。後先考えていないツインターボですら、あそこまでのスピードではなかった。むしろ引っ張られてヘリオスのスピードもいつもより増しているのではないか?
「おーいパーマーくん、言っただろ!食らいついて行かないと意味無いぞ!これはそういうトレーニングなんだから!」
遠くからかすかに叫ぶ声が聞こえる。
そういうトレーニング・・・
疲れた頭を回して考える。
ヘリオスの暴走ペースについていくことを良しとしたトレーナー。
スプリント出走を目指した練習計画。
そして今3バ身前で繰り広げられている、壮絶なハナの奪い合い。
そして、あのふたりを相手に何がなんでも逃げろと言ったトレーナー。
・・・ああ──やっと分かった。
脳内でバラバラになっていたピースが埋まっていくような感覚。
フッと微笑んでパーマーはギアを限界まで上げにかかる。
わたしのギアはいつ全開になるか?
前のふたりが勝手に落ちてくるまでに並びかけられるか?
そもそもヘリオスはともかくとして、あの先輩は落ちてくるのか?そんなことはわからない。でも、追いつかなければいけないのだ。
じゃあ追いつくためには何が必要なのか?それが今欲しいものの答えだ。
あの先輩が誰なのか?そんなことは今どうだっていい。
「やっと分かったよ・・・短距離でだって通用するようなスピードを手に入れるため・・・ってことが!」
心なしか、パーマーのギアはいつもより早くフルスロットルになった。
・・・・・・・・・・・・
『逃げ切り!逃げ切り!シニアクラス・トウショウファルコ、重賞連勝だー!!!』
同時刻、アナウンサーの絶叫が響き渡るターフコース。
名前をしきりに呼ばれているのは、断然1番人気だった彼女ではない。
鼓動がいつもより速い。右脚が鈍く痛む。
うーん、思ったよりもしんどいな。
片膝をついて掲示板を見つめる。勝ちタイム2分12秒8、8番、5番、1番・・・
「・・・ライアンさん、どうしちゃったんですか」
道中ずっとライアンと併走していた「5番」の後輩が、心配そうに駆け寄ってくる。
「シャコーちゃんお疲れ、うーん、今日少し寝不足だったからかな〜」
「・・・」
ざわつくレース場において、ふたりの空間はやけに静かだった。
中山レース場の着順掲示板には、彼女のゼッケンに記された数字は灯ることはなかった。
トウショウファルコ、好きでした。