あの日のことは今でも鮮明に覚えている、と言えば嘘になる。
 

 けどこれだけははっきりと覚えている。



 私は、貴女のことが────

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人生はバッドエンドで満ちている。

 

 相死相哀 IS ???END

 

 

 

 

 

 

 

 こつり、こつり。ハイヒールの音がやけに大きく響く。緊張しているせいで、上手く歩けているか自分でわからない。変な格好になっていたりしていないだろうか。

 大して人の通らないこの通学路も、しばらく見ないうちに変わってしまった。

 

 少し視線を移せば、そこには四月色をした大きな桜の木が並んでいる。再び足を進める。ハイヒールの甲高い音が桜の枝をくぐり抜けて空へと飛んでいく。

 こんなに気持ちのいい春だというのに、見上げた空は灰色の雲が重く立ち込めている。それはまるで私の心中を表しているかのようだった。

 

 こつり、こつり。どくん、どくん。だんだんと、ハイヒールの音よりも大きく心臓の音が聞こえて来た。ただ学校に行くだけなのに、こんなにも息苦しい。その原因はやはり、貴女のせいなのだろう。

 そのことを思い出そうとすると、胸に走る小さな痛み。

 あの時のことは今でも鮮明に覚えている……と言えば嘘になる。実はというと、あの日以来、貴女のことを思い出そうとすれば今のように胸に痛みが走って、上手く思い出せないのだ。

 そしてそれ以上に、私が考えたくなかったから無理して忘れていることにしていた、という理由が大きいだろう。記憶というやつは案外単純で、考えないようにしているとだんだんとその記憶も薄れていく。

 どんなに大事なことだろうと。

 どんなに大切なものだろうと。

 しんしんと降り積もる雪で汚い土が隠れるように、覆われていく。

 

 こつり、こつり。校門が見えて来た。少しずつ変わっていっているこの風景だったが、どうやら校門はいまだに同じらしい。それもそのはずか、と苦笑して校庭を覗いてみると、部活動をしている生徒たちが走っているのが見えた。

 

 あの日のことは忘れるようにしている。高校時代の友人ともあまり関わらないように生きている。何よりも、貴女のことも忘れようとしている。

 

 それなのに、忘れられない。

 顔も、性格も、あの日のことだってぼんやりとしか覚えていないけど、それでも覚えている。

 

 貴女と初めて会った日も、今日と同じように花曇りだった。

 

 

 

 

 

 ♦   ♦   ♦

 

 

 

 

 校門を潜り校庭に入ると、数人の生徒達からの視線を浴びる。どうやらスーツ姿で来た私が珍しいらしい。

 若い生徒達の場にこんなおばさんが入ってきたのだ、仕方ないと自嘲気味に漏らすと、それに答えるかのように優しい風がスーツの裾を揺らした。

 ふと横を見ると、校庭の隅っこにポツンと小さな桜が咲いている。変わったものもたくさんあったが、どうやらこれは変わっていないらしい。その事実に思わず頬が緩む。

 学校に入る許可なんて取ってないけれど、どうせ誰も何も言いやしないさ。

 そう高をくくった私は、ずんずんと桜の木に向かって足を進めた。土に突き刺さるハイヒールの感触が少し気持ち悪かった。

 桜の木の下に立つと、心なしか周りより少しだけ気温が高いような気がした。そっと幹に触れると、がさりとした樹皮の感触とその温かさが掌に伝わってくる。なんだか懐かしい、そう思えた。

 

「……っ!」

 

 不意に、鋭い痛みが頭を襲った。何かで殴られたというよりかは、細い糸で脳みそを擦られたような痛みだった。

 それと同時に、私の脳裏にふわりと思い出が舞い落ちて来た。それはまるで、私の目の前で花を散らす桜のように華麗で、儚いものだった。

 

 そうだ、思い出した。

 入学式の日、緊張していた私はお腹を壊して始業式に遅れて来たのだった。遅れてしまったという焦りとこれからの学園生活どうなるのだろうという恐怖で半べそをかきながら校門を潜ったあの時の私は、ふと視界の端で動く何かを見たのだった。

 

 

 泣いていた。

 一人の少女が桜の木の下で泣いていた。

 

 よくわからないけれど春が来た。そう思っている自分がいた。

 

 

 それが、貴女との出会い。思えば普通ではないものだった。

 

 物事なんて、角度によって見え方が変わるものだ。それと同様に、時に少し考え方が違うだけで恋だって呪いに変わってしまう。

 これは私の恋物語だったもの。しかし貴女からすれば、この恋物語はただの呪いだったのだろう。今はもう、知る由もないけれど。

 

 どうしたの、私は始業式のことなんか忘れてそう尋ねた。なんだか放っておけない泣き顔だった。

 貴女は急に声をかけて来た私を見て、大層驚いた顔をしていたような気がする。いけない、貴女の顔を思い出そうとすると胸に痛みが走ってしまうのだった。

 しかし先ほど私の頭を襲った鋭い痛みのおかげで、少しだけ貴女の顔を思い出せた。

 

 しだれ柳のようにすらりと長い眉に少し垂れた目尻。泣いていたせいであまり可愛いとは言えない表情だったが、笑えばさぞ可愛らしい少女なのだろうなというのが貴女に対する第一印象だった。

 しゃがみながら泣いていたため、正確な身長はわかっていなかったが、私より少し小さいくらいだろうなと思った。

 

『君こそ、始業式出なくていいの?』

 

 貴女の返答は聞く人によっては怒りを買ってしまうほどにマイペースなものだった。質問を質問で返すと怒る人がいるらしいと、中学の友人がよく言っていたものだ。

 それはともかく、そんな頓珍漢な返事をしてきた少女に、私は怒りはしなかったが少し呆れながらも応える。

 

 始業式は出る予定だけど、それよりもまず貴女のことが心配で。

 

 

 そんな当たり障りな、高校に入ってすぐだったため不安を凌ぐために放たれた友達が欲しいだけの女生徒の言葉を聞いて、貴女は再び涙ぐんだ。

 

『優しいんだねぇ、君は……!』

 

 優しいってわけじゃないよ。ただ泣いてる貴女が心配だっただけ。

 

『私は大丈夫。ただ桜が散っているのを見たら悲しくなっちゃって……うぅ……』

 

 そうだった、貴女は桜が散るなんて当たり前のことで涙を流していたのだ。

 生きていれば物事は変わっていく。私だって日々髪が抜けて、またそれを埋めるかのように生え変わっている。それを惜しいと思う人はいるかもしれないが、涙を流す人などそうそういないだろう。

 感受性豊かなのだなぁなんて思った私を、貴女はまっすぐ見ていた。

 

『君、新入生? じゃあ私と同じだね! これからよろしくね!』

 

 そういって立ち上がった貴女。やはり身長は私より少し低いくらいだった。にっこりと笑った貴女は、同性の私でさえもどきりとしてしまうほどに魅力的で、そして儚げだった。

 ぎゅっと繋がれる手、その柔らかさに鼓動が跳ね上がる。目の前の貴女はどぎまぎしている私に気づいてはいないらしく、無邪気に笑っていた。

 

 あの時、貴女が私の本質に気づいてくれていたなら、どれだけ良かっただろうか。気持ち悪がって私に近づいてこなかったのなら、どれだけ嬉しかっただろうか。

 今ではもう、そんなこと思うだけ、無駄なのだけれど。

 

 

 

 

 

 ♦   ♦   ♦

 

 

 

 

 近くに落ちていた桜の枝を拾う。まだ花びらがついていて、汚い土の上に落ちていたというのにとても綺麗だ。

 桜の枝で地面に貴女の顔を描こうとするが、枝が細すぎるので上手く力が入らない。結局小石を拾って子供のようにしゃがみながら貴女を描いた。

 先ほどまでは全く思い出せずにいた貴女の顔だったが、描いてみれば案外指が進む。高校にいた時は万年美術の成績が3だった私だが、どうやら勘は衰えていなかったらしい。

 細い、それでも女性特有の柔らかさと丸みを備えた貴女の顔。描けたのはいいが、どうもしっくりと来ない。私の頭の中の貴女は、もっと可愛らしかったような気がする。

 いや、そんなことはどうでもよいのだ。貴女の顔を描くためにここに来たのではない。

 立ち上がって、周りを見渡す。いまだに校庭を走っている生徒達はやはり私のことが気になるのか、ちらちらとこちらを見ていた。

 

 数年前までは私もああだったのかと思うと、何やら背中がこそばゆくなってくる。そういえば、私は運動神経が無駄に良かったので、よく運動部からスカウトを受けていた。だが私がそのスカウトを受けることはなかった。それはひとえに、貴女のせいだった。貴女は運動があまり得意ではなかったのだ。どちらかというとひたすら読書ばかりをしていた貴女を見て、何故か一緒にいたいと思った。ただ、それだけ。

 そう思った私は、貴女とともに文芸部を立ち上げてそこで色々な活動をした。ああ、人数が足りなくて結局同好会になってたんだっけ。まあ、名前なんてどうでもいい。大事なのは私と貴女がそこにいたという事実だけだ。

 立ち上がり、背中に突き刺さる視線を無視して校内に入る。部室は確か……旧校舎の二階端のおんぼろ教室だったような気がする。不思議だ、ここに来るまでは何も覚えていなかったのに、校内に足を踏み入れただけであふれ出る泉の源泉のように、思い出が沸き上がっては私の心を潤していく。

 上履きはないので来客用のスリッパを履き旧校舎を繋ぐ廊下を歩く。土曜日なので生徒はいない。不幸中の幸いだったか。

 ふと中庭に目がいった。小さな花壇だった。赤煉瓦とそこらの土で作られただけの、質素で簡素なものである。

 

「……いった……!」

 

 しかし、それを見た瞬間、再び私の頭に鋭い痛みが走った。

 まるで小人が私の頭の中に入りこんで、脳みそを思い切り揺らしているかのような、気持ちの悪い痛みだった。

 残念なことに今回は何も思い出せなかったが、その痛みの強さからこの花壇がどれだけ重要なものかが理解できた。今すぐ中庭に出て花壇に近寄りたかったが、今しがた私を襲った痛みのせいで少し足がすくんだ。怖かった。

 目を凝らすと、花壇の目の前には小さな看板が立てられていた。何を書いてあるのかは読めない。かなり前にたてられたものなのか、字が薄れてもはや解読不可能ともいえるほどだったからだ。

 それ以上考えていても頭痛がひどくなるだけなので、早急に旧校舎に入る。先ほどの本校舎とは違い、どこか懐かしい埃の匂いがした。

 少し湿気ている木造の床を踏みしめながら、文芸部の部屋まで歩いていく。旧校舎はやはりあまり手を付けられておらず、そこにいるだけで高校時代にタイムスリップしたのではないかと思ってしまうほどだった。

 ぎいぎいと嫌な音のなる階段を上り右を向き、そこから廊下の突き当りまで一直線に歩く。左を見るとあら不思議、するとそこが文芸部。

 

『その覚え方、楽だねー! 私方向音痴ですぐ場所忘れちゃうからすごく助かる!』

 

 どこかで貴女の声がした。覚えていないが、どうやら先ほどの道のりは学生時代に作っていたものらしかった。予期せぬ思い出に頬を綻ばせながら文芸部のドアに手をかける。スライド式の扉は鍵などかかっておらず、湿気ているせいで少し突っかかったが何とか開けることができた。

 目の前に広がる少し小さな部屋。真ん中に大きな机を置いて、しかし周りを囲んでいるのはたった数個のパイプ椅子。

 

「あの時から……変わってないや」

 

 瞼を下すと、そこには高校時代のワンシーンが描き出される。

 本があまり好きではなかった私は、文芸部の時間は読書をしている貴女の後ろでとにかく外を眺めたり窓の桟をなぞったりとしょうもない暇つぶしをしていた。しかし本に集中している貴女は私のことなんか見向きもしない。

 それが何故か悔しくって。

 ちょっとは構ってほしくて。

 色々ないたずらをした。そうすると、本で隠れていた、困ったような表情を浮かべた貴女の顔が現れるのだ。

 懐かしいあの時代。もう戻ってはこないと思ってはいるものの、どうやらそう簡単に切り捨てることはできないらしい。

 恐る恐る部屋に入ると、先ほどよりも強い、酸っぱい埃の匂いがした。どうやらこの部屋はあまり掃除されていないらしい。文芸部もすでに廃部になっているのか、人が使用している痕跡は見つけられなかった。

 長机は誇りによるデコレーションが施されており、パイプ椅子は長い年月の末にくたびれた風貌をしている。

 それなのに、こんなにも輝いている。私の眼には、そんなぼろぼろの物が宝物のように愛しく感じられた。

 

『君は本を読むのが嫌いなの?』

 

 再び貴女の声が部屋に響く。その声音に嫌味などは含まれておらず、どちらかといえば驚きの混じった声だった。

 これは覚えている。あまりにも読書の邪魔をする私に呆れた貴女が本を私に差し出した時に発した言葉である。三ページほど読んですぐに船を漕ぎ始めた私を、まるで信じられないものを見たというような瞳で見ていた貴女。そんな表情を向けられても、私は嬉しかった。私の知らない貴女の新しい表情が見れるだけで、何故かはわからないが幸せだったのだ。

 

「あの時は、嫌いだったなぁ……」

 

 貴女の言葉に返事をするが、もちろん返ってくる言葉はない。まあもとより期待はしていなかったので、そこまで落胆することはなかった。

 人という生物は人生という坂道を転がりながら変わっていくもので、これは変わらないと信じていたものがあっさり変わったり、これはすぐ変わるだろうと嗤っていたものが案外踏ん張ったりといつでも私を驚かせてくれる。

 まあ何が言いたいかと聞かれると、今の私は読書がかなり好きである。それもすべて、貴女のおかげなのだが。

 

『ねえねえ、手紙交換してみない!?』

 

 貴女の楽しそうな声が響く。

 手紙交換、とは主に友人同士で手紙を書いて交換するという、まあいうなれば女子特有のなれ合いの延長線上にあるものである。私はそういった行為があまり好きではなく、どちらかといえば見下していると言っても過言ではないほどだった。

 それでも覚えている。貴女は、いつもと同じ文芸部の時間に、いきなり私にそんなことを言ってきたのだ。

 先ほども言った通り、私はそういった類のものが好きではない。好きでもないことをする必要もないので断ろうとした──のだが、純粋な貴女の瞳を見ていると、断るなんてできなかった。結局力なく頷いた私は、その日から貴女と手紙を交換することになったのだった。

 

 懐かしい。私の心はその感情で占められていた。ほぼ毎日書いては手渡しし、読んではまた書いてを繰り返していた私たちは、周りの人々から見ればかなりおかしな人間に見えていたことだろう。

 

 そういえば、あの手紙たちはどこへ行ったのだろうか。捨てた覚えはないので、もしやどこかへ忘れてそのまま廃棄されてしまったのかもしれない。どんなことを書いていたかを思い出してみたかったのだが、どうやらその願いはかなわないらしい。

 パイプ椅子に深く腰掛けると、錆びた金属が甲高い悲鳴を上げた。いや、私はそこまで重くない。この椅子がポンコツなだけなのだ。

 

「あーあ、何してるんだろう。私」

 

 誰に対しての言い訳かもわからないまま頭の中でそう弁明した後、私は背もたれに思い切り背を預けながら、埃だらけで黄色くなった天井を見る。

 なぜ今日この場に来たのか、それは私自身にもわからぬことだった。ただ記憶の中にある、靄のかかった何かに操られるようにここへ訪ねて来たのだ。

 別に思い出そうとしていたわけでもないし、思い出したいと思っているわけでもない。

 

 それでも、何故かこの場に来なければいけないと、そう思ってしまったのだ。

 

 これもまた、貴女との思い出に関係していることなのだろうか。だとすれば貴女は一体どれだけの重い呪いを私に結びつけたというのか。もう五年もたったというのに私はいまだにそれ結びつけられている。ぼんやりとだが記憶の中にある、あの日の貴女。あの表情に、あの姿に私は今でも囚われているのだ。

 

『うん、うん。君は案外可愛い内容の手紙を書くんだね』

 

 からかう貴女の声が鼓膜を震わす。まるで鼓膜が久々に聞く貴女の声に喜び震えているかのようだった。

 

 私はよく周りの人間から冷たいと言われていたので、そんな私の印象と書いていた手紙の内容とのギャップが面白かったらしい。貴女の快活な笑い声が頭の中で木霊した。

 

『これからもずっと、手紙交換をしようね! 君が大人になっても、離れ離れになったとしても!』

 

 嬉しそうな声のまま貴女が続ける。そんな子供っぽい約束がうれしくて、意図せず笑みが零れ落ちた。

 しかしそれと同時に、言葉にできぬ悲しみと痛みが私の胸を襲う。何か大切なことを忘れている、そう思えてしょうがなかった。

 忘れていたということを思い出したと喜ぶべきか、今まで忘れていたということに対し悲しむべきか。私はため息を吐きながら考えた。

 しかし肝心なその内容は思い出せないままで、私はおもむろに立ち上がった。

 文芸部のほかにも久しぶりに見てみたくなった場所が複数個あった。

 窓の外を見てみると、先ほどまで窓枠から雲越しに見えていた太陽が既に見えなくなっていた。ということは、今頃は私の直上で雲たちに微笑みかけているのだろう。そう考えるとお腹がすいてきた。あとで何かを食べるとしよう。

 

 部室の外に出た私は、ゆっくりと、虫が食ったかのように所々に穴が開いている貴女との思い出を埋めるかのように、歩いていく。

 ちらりと横目で窓の外を見ると、そこは校舎裏だった。そういえば、貴女とよくここで結果が芳しくなかったテスト用紙を燃やしていたような気がする。いや、それは一人でやっていたんだっけな? 忘れてしまった。

 

 

 旧校舎を出て本校舎へ戻る途中の渡り廊下は、先ほどよりも少しだけ暑くなっていた。春とはいえ真昼はなかなかに暑いらしい。暑い、というよりかは蒸し暑いの方が正しい感じである。

 

 さて、次はどこへ行こうか。

 そう呟いた私に答えるかのように、グラウンドで活動を続ける運動部の生徒らの掛け声が廊下に空しく響いた。

 

『ここの高校、なんか変な造りしてるね~』

 

 その声に、ああと思い出す。

 入学して数週間、この高校のおかしなシステムに惑わされたものだ。

 これは私が一つの高校にしか滞在していなかったからほかの高校のことをよく知らなかっただけなのかもしれないが──この高校の教室はぐちゃぐちゃであった。

 二階も、三階も。とりあえずぐちゃぐちゃだったのだ。

 二階は一年生と二年生らが使うのかと思っていたのだが、何故か教室の位置は統合性を持たぬ配置で、一年生の教室の両隣が三年生の教室だったなんて愚痴を違うクラスの子が話していたことを覚えている。

 しかしそのおかしな構造も数週間ほどが経てば私の……私たちの日常として上手く溶け込んでいたのだろう。

 

 私のクラスは……確か三階だったような気がする。私の席は窓側の後ろから二番目の席だったので、えらく高い位置から校庭を見下ろせるものだと当時は胸を躍らせていたのだ。

 かさり、かさり。スリッパの底が固い床と擦れる、聊か気持ちの悪い音が廊下に響く。しかしその音は誰にも拾われることなく、虚しくも踊り場で溶けて消えてしまった。

 

 昔はスカートのことなど気にせず貴女と駆け上がっていた階段だったが、数年運動しなかっただけで今や三階までの道のりが果てしなく思えた。

 息を切らせながら階段を上り切った私は、若干ふらつく脚に鞭を打って教室を探し始めた。三階だったということは覚えているのだけれど、正確な位置は忘れてしまった。

 しかし忘れていても記憶の奥隅には思い出の欠片があったらしい。私たちの教室は案外すぐに見つかった。

 旧校舎とは違い開けやすいスライド式のドアを静かに開け中に入る。当然だが誰もいない。

 がらんと広い正方形の大きな箱。記憶の中の机配置と少しだけ異なっている。多分、何度か配置換えをしたのだろう。

 ふと、教室の後ろにある花瓶が目についた。

 

『ねえねえ、この花、可愛くない?』

 

 教室の後ろの方にあった花瓶を見ていると、貴女の声が聞こえて来た。

 もちろん、花瓶の中に花はない。というか、私の覚えている限り、その小さなガラス細工の容れ物に花が入れられたことはなかったはずだ。

 ふと窓側の席を見てみると、そこには少しだけ透けた貴女がいる──そんな気がした。

 

 実際はそんなことないのだけれど。

 

『私、実家が花屋さんだからさ、いつの間にかいろんな花について詳しくなっちゃったんだ』

 

 そうだ、思い出した。教室の後ろにある花瓶に花はなかった。しかし、貴女が花を持ってきていたのだ。丁寧に花瓶の中に入った花を見つめながら、貴女はよく楽しそうに話していた。その愛しいものを見る視線は、花屋の娘だからという安易な理由ではなかったはずだ。貴女は本当に花を愛していた。だからこそ色々な花を調べ、一つひとつの花言葉に胸を躍らせていたのだ。

 

『ねえねえ、君も、花に興味があるの?』

 

 どうだっただろうか。実際、私はあまり花に興味はなかったはずだ。ただ花について喜々として語る貴女が好きだった。それを見ていると、荒んで疲れていた心が洗い清められるような気分になっていた。

 

『興味があるならさ、私の家に来てみてよ! いっぱい花あるよ?』

 

 私は……なんと答えたのだろうか。多分、いや絶対頷いたのだろう。貴女の家でともに過ごしたということは覚えている。貴女の家は、貴女の両親が営んでいた花屋と繋がっていたため、私にとってはとても新鮮な感覚だった。店内を突っ切って家に入るなんて、あれ以来私は体験したこともない。

 貴女と一緒の部屋で過ごし、貴女と一緒に夜通し話し、貴女と一緒にお風呂は──入らなかったけれども。

 ずうっと、貴女と時間を過ごした。

 

 

 あの時からだろうか、私の中での、貴女の存在が少しずつ大きくなっていったのは。

 少しずつ、貴女に対する思いが、想いに変わっていったのは。

 変わっていく自分を戸惑ったりもしたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。少しずつ貴女に絆されていくという感覚は、どこか麻薬にも似た中毒性があって、やめようと思ってもやめられなかった。

 どちらにせよ、私は間違った選択肢を選んでしまったのだ。今ならわかる、私はこの時点で引き返すべきだった。私は、幸せを求めようとしては、いけなかったのだ。

 

 人生というものは、小さな明かりを私の前にちらつかせ、希望を見せた瞬間にどん底へと突き落としてくれる。それを知らなかった私は、さながら井戸の水に反射した月に手を伸ばし、結果的に冷たい井戸水へと落下した間抜けな猿のようになってしまったのだ。

 

 とにかく、貴女への想いに気が付いた私は、それは自分でもびっくりするくらいに貴女にアピールをした。かなりのことを忘れた今でさえうっすらと覚えているくらいなのだから、それはもう凄まじかったのだろう。

 必要以上に貴女と共にいたり、友達だからという理由では説明しきれないほどにべたべたとスキンシップをしたり。

 しかし貴女は存外鈍いようで(存外というか、見た目から少し鈍そうではあった)、私の想いに気が付いていないようだった。

 

 ふうとため息をつく。階段を上った疲れが今頃になって出て来た。足の先がじんじんと熱い。

 吸い込まれるように貴女が座っていた席に座る。窓側の後ろから三番目、私が座っていた席の一つ前だった。授業中、よく貴女の柔らかそうな背中を見つめていたことを覚えている。

 机に手を置いてみるが、貴女のぬくもりは感じない。まあ、当たり前のことなのだろうが。

 

「大人になったのに……何も変わってないや」

 

 使い古された木の椅子の背もたれに全体重を預け、手をぶらぶらと揺らしながら天井を見つめる。先ほどもこの格好をしていたような気がする。どうやらこれは私の癖らしい。

 大人になると、変わると思っていた。何もかもがリセットされると思っていた。

 

 あの時考えていたことや、悩んでいたこと。唇の右下にできた面皰や、貴女のことさえも。全部、全部、忘れて、新しい人間として生まれ変わるのだと思っていた。

 

 しかし現実というものは希望も何もないもので──それとも希望がないものが現実なのだろうか──私は新しい人間に変わることなく、昔の日々を背負いながら今日も生きている。

 面皰は消えたけど、あの日の迷いや悩みは忘れたけど。

 それでも、それよりも、悩みごとが増えた。つらいことも増えた。

 そして何より、貴女のことを、忘れられずにいた。

 

「ねえ、私……何が間違ってたんだろう…………」

 

 答えなどとうにわかっている。すべてが間違っていたんだ。

 最初から最後まで、今だって間違えている。間違え続けているのだ。

 まるでマークシートのずれたところを最初に塗りつぶしてしまったかのように、私の人生は連続して、やり直す暇もなく間違えているのだ。

 そしてその間違えの先をたどっていくと、そこには必ず貴女がいるんだ。

 

 別に貴女を私の間違えの原因にするつもりはない。しかし文字通り、貴女は、私の人生を丸ごと大きく変えてしまったのだ。

 変えられたことを後悔しているわけではない。むしろ、この変えられた自分を私は結構気に入っている。

 けど貴女はそうは思っていなかったらしい。

 ずしりと胸の奥底にのしかかる倦怠感を追い払い、立ち上がる。さて、今度はどこへ行こうか。

 

 

『お昼ご飯は屋上で食べよっ! いい景色を見ながらだと箸も進むってもんだし!』

 

 うん、そうしよう。屋上、開いてるといいけれど。

 

『大丈夫だよん! だってこの学校の屋上のドア──』

 

「おい、お前、こんなところで何してる」

 

 不意に、誰かが貴女と会話をしている私に声をかけた。

 見ると、そこには見慣れた──というわけではないが、昔知り合いだった教師の顔があった。

 

 教師も私のことを覚えていたのか、少しだけ毒気の抜かれた表情をした後、言った。

 

「お前……懐かしいな、何してるんだ? こんなところで」

 

「いえ、特に用事があるわけじゃなかったんですけど……あ、ごめんなさい。許可とか取ってなかったんですけど」

 

「まあそれくらいは、いい……のか? まあ俺が後で何とかしておくよ。それで、用事もないのにこんな所へ来たのか? ……その、この場所はお前にとって楽しい場所では、なかったような、気がするけれど」

 

 言葉を選びながらのその言葉に、私は苦笑を浮かべる。そういえばこの教師は昔からこんな性格だったような気がする。不器用な優しさというか、器用な残酷さというか……。

 

「ええ、何故かはわからないんですけど……ここに来なくてはいけないような気がして……」

 

 私は、貴女の机をそっと撫でながら、囁くように呟いた。

 

「何があったか、まだ少し思い出せないんですけどね」

 

「……まあ、思い出せないのも無理はないよな。あんな事件だったんだし」

 

「……ぼうっと、霧のような何かを通してなら見えるんですけど、肝心なものは見えないままですね」

 

 しんと静まり返る教室。しじまを破るように、風に吹かれた窓がカタカタと小さな音を立てていた。

 教師は何かを言いたそうに黒板をじっと見つめていたが、思い切った表情でこちらに視線を移し、言った。

 

 

 

「今日は、あいつの命日なんだ」

 

 

 

 

 頭痛が私を襲う。

 鋭い痛みに顔を顰める私だったが、今度はそこまで重症ではなかったようだ。

 多分、それは私がもうすでに知っていたから。

 

 貴女がこの世にいないこと。

 貴女が数年前にこの世を去って、どこか遠くへ行ってしまったこと。

 私が貴女を忘れようとして、それでも忘れられなかったその理由。

 

「そう……だったん、ですね」

 

「ああ……あいつと特に仲が良かった生徒はお前くらいしかいなかったからな……」

 

 そうだったのか、意外と社交的と思っていたのだが、どうやらそれは私の勘違いだったらしい。まあ、私も十分内気というか人見知りな性格なので、貴女を見下せるほど友達がいたわけではないのだが。

 そうだった、いつでもどこでもすぐに泣いていた貴女は、どちらかというと心配対象であって、友達だとかそういう関係の人間はあまりいなかったのだった。

 

 そういえば貴女は、持ってきた花の茎が折れたという理由だけで一日中泣いていたことがあった。よく泣くといっても限度があるのではないだろうか。

 

『そういう君は、全然泣かないんだねぇ』

 

 泣かないんじゃない。貴女の前で泣かなかっただけだ。いや、それは今もか。

 貴女がどこかから私を見ているんではないかと思ってしまい、結局ここ数年涙を見せていないような気がする。

 思えば高校生時代の私はどこか粋がっていた。黙っていることが格好いいと思っていたし、涙を見せることは恥ずかしいことだと思っていた。だからこそ貴女の前はおろか、クラスメイトの前で涙を流したことはなかったのだ。今思えばとても馬鹿らしいことである。そんな意地を今でもずっと張り通してしまうあたり、私はまだ子供なのだろう。

 

 とにかく、貴女が見ている前では泣きたくなかった。

 

『じゃあ私が遠くへ行って待ってるからさ、泣いててよ』

 

 いや、そんなことするわけないでしょ。

 

 頭の中で楽しそうに弾む声に苦笑する。

 貴女はよく泣いて、よく怒って、そしてよく笑っていた。そのまっすぐな性格が、何でも物怖じせずに突っ走る姿が、私にとっては羨ましかった。

 

「それで、何時くらいまでここにいるつもりだ? 帰るときは車で送って行こうか?」

 

「いえ、大丈夫です」

 

 私は教師に、というよりかは貴女に言葉を返す。

 

「もうすぐで帰りますし、今は一人でいたい気分なんです」

 

 その言葉で色々な事を想像したのか、教師は苦い顔をしながら頷いてくれた。実際はあまり人といたくないという人見知りならではの感覚ゆえのセリフだったのだが、今回はそれが良い方向へと傾いてくれたらしい。

 

「まあ俺は何も言わんが……そうだ、屋上は出入り禁止だからな。それだけは守ってくれよ」

 

「はい。わかりました」

 

 次の目的地は屋上だということを伏せて、私は頷いた。わざわざ問題にするようなことではないし、何も言わなければこの教師も気が付かないだろう。

 

 教師が去ったあと、私は何をするでもなく私が座っていた席の机に腰掛けた。なんだかそれだけで、今まで私の心に積もり積もっていた疲れがどこかへ吹っ飛んで行った。

 

『私ね、君のこと好きだよ』

 

 うん。私も。私も好きだよ。貴女にとってそれが呪いになってしまうほどに……好きだったんだ。好きなんだ。

 

 もしこの想いを押しとどめて、友達でいたのなら、貴女は今もこの場にいたのだろうか。私の隣で笑いあって、友達として時間を共有できていたのだろうか。私は、その道を選ぶべきだったのだろうか。

 いくら考えても、答えは出てこない。きっと時を巻き戻したとしても、私は私のままで、貴女は貴女のままなんだ。

 私は貴女に惹かれて、貴女は別にそうでもなくて。

 多分、そんな追いかけっこのような関係がまた続くことだろう。

 だからこそ、あの時の選択で、間違っていなかったのだろう。

 

 間違ってはいないけど、正しくもない。

 まあ、それはそれでいいのだろう。間違いの反対が正解というわけではあるまい。私が選んだあの選択肢だって、一つの見方からすれば正解だったのだろう。それによって貴女はいなくなり、私が苦しんでいるというだけで。

 

「屋上に……行ってみるかな」

 

 意図せず零れ落ちた言葉は、自分が出したものかと疑ってしまうほどにしゃがれていた。

 

 

 

 

 

 ♦   ♦   ♦

 

 

 

 

 屋上は施錠されていた。まあ、土曜日なのだから当たり前かもしれない。

 しかし私は、薄暗い屋上のドアノブに、何かフリップボードがかけられているのに気が付いた。

 

「屋上……出入り禁止……そういえばさっき言われたな」

 

 思いの外冷たい声だった。てっきり悲しむかと思っていたのだが、いやはや最近は自分の心すらもわからなくなってきている。

 まあ、わからなくなってきているからこそこんな場所に来ているのだろうけど。

 

 ノブを回してみる。当たり前だが開かない。やはり鍵がかかっているようだった。

 

 振り返ると、そこには薄暗い階段が下へ続いている。今までここを歩いて来たのかと疑ってしまうほどに真っ暗だった。

 

『うわぁ……雨降ってるね……これじゃ屋上のドアをこじ開けたって意味ないや』

 

「こじ開けた?」

 

 私は驚きに満ちた声で言った。

 

「このドア、鍵かかってるじゃん」

 

『このドアね、鍵がかからないようになってるの。君、知らなかったでしょ。えへへ』

 

 階段に座りながら弁当を食べている貴女。

 貴女は雨の日があまり好きではなかった気がする。なんでもお弁当がおいしくないからとか。私にはよくわからない理由だった。

 

 そういえば、この屋上の鍵穴には何かが詰まっているらしく、鍵はかけられないのだった。一度、何が詰まっているのかと貴女に尋ねてみたところ、何かを思い出すようなそぶりを見せた後「消しカスだよ」と答えていた。犯人は意外と身近にいたのだろう。

 

 とにかく、このドアは開いているはずだ。ならなぜ動かないのだろうか。

 

『へへ、コツがいるんだよ。見てて……ほら!』

 

 えっと……貴女が言っていたコツって、どんなのだっけ。

 ぐいぐいとドアノブと格闘すること約五分、何とかドアが開いた。どうやらコツというのは一度引いてから押すことらしい。それはコツなのだろうか、立て付けの悪いドアの開き方ではないか。

 そんなことは置いておき、屋上のドアを開く。先ほどまでの曇り空が嘘のように晴れていた。

 じめじめと暗かった階段付近は途端に明るくなり、心なしかコンクリート造りの階段たちが久しぶりの日光に喜んでいるかのようだった。

 しかし私にはそんなことを楽しむ暇はなかった。

 

「いっつ……!」

 

 屋上の、数年前までは毎日のように見ていたタイルを見た瞬間、頭痛が再び私を襲った。頭の中で何かの虫が蠢いているかのような痛みが絶えず私を襲う。あまりの痛さに、思わず膝をついてしまった。ぐわんぐわんと揺れる視界の中で、はっきりと、貴女の背を見た。

 

「っ!! ……、……、幻覚……?」

 

 床に両の手をついて、目を閉じながらゆっくり七秒数えた私は(昔から頭痛などが起きた時はこうして我慢するようにしていた)、揺れる頭の中で再び貴女の声を聴いた。

 

『手紙、多くなってきたね~……けど捨てるのはもったいないし、どうしよっか』

 

 困り果てた貴女の声。その声に、どうしようもなく涙があふれそうになった。

 しかし貴女の前で泣くわけにはいかない。下唇をぐっと噛むと、眉辺りに力を入れて涙を引っ込める。ああ、やっぱり私は子供だ。

 

『そうだ!じゃあこの手紙たちをさ、どこかに埋めようよ!タイムカプセルだよ!』

 

 タイムカプセル……そうだった。何十何百通もの手紙を書いて送ってまた書いてを繰り返していた私たちは、溜まりに溜まって溢れ出しそうなほどにもなった手紙の山々に困り果てていたのだった。

 思い出を捨てるわけにもいかず、かといってこのまま溜め続けるわけにもいかなかった私たちは、タイムカプセルという聊か安直な行動で問題を解決させることにしたのだ。

 

『うん、そうだ! タイムカプセルにして、あそこの桜の木の下に埋めようよ! それで十年後に二人で開けるの!』

 

 思い出の中の貴女は楽しそうにはしゃぐ。貴女が楽しそうにすればするほど、私の心は細い糸で締め付けられているかのように痛んだ。

 それ以上屋上にいたくなくて、私はついドアを閉めてしまった。再び暗闇に染まる階段。何故かそれが懐かしく思えた。

 

『よーし、善は急げ! 今すぐ埋めに行こう!』

 

 暗闇の中で佇む私のすぐ横を、ふわりと貴女が通り抜けていった──そんな気がした。実際は誰もいないし、いたところで私を覆っている暗闇のせいで何も見えないのだけれど。それでも貴女が確かにここにいた……そんな気がした。

 

「私も……行こうかな」

 

 私は全然変わっていない。いつだって……今だって貴女の後ろを追いかけるだけ。貴女の背中を見つめるだけ。

 

 人生という果てしもなく長く、終わりの見えない授業の中で、私は私の前に座って前に進み続けている貴女の背を、その場にとどまりながら追いつ付けているのだ。

 

「座りながら前に進み続けるって……どういうことだ」

 

 感傷的になりすぎていたせいで、よくわからないことを考えていた。私の良くないところである。

 手探りで手すりを見つけ、それに体重の半分以上を預けながら階段を下る。ゆっくりと進まなければ足を踏み外してしまいそうなほどに真っ暗だった。

 

 ようやく明かりで足元が見える程度まで下ってきた私は、先ほど見えたような気がした貴女の背を探した。

 しかしやはり、いくら辺りを見渡しても貴女はいない。まあ、わかっていたことである。

 

「さっさと桜の木の下まで行くか……」

 

 廊下にずらりと並ぶロッカーの群れを見るともなく見ていた私は、大きなため息を一つついて再び階段を下り昇降口を目指す。

 そっと、靴箱を触ってみる。

 鉄製の靴箱は冷たく、やはりと言うべきか、私の高校時代のぬくもりは既になかった。

 

 昇降口でハイヒールに履き替え、ざくざくと校庭の砂を踏みしめながら再び桜の木まで歩いていく。

 校内から再び現れた私の姿に、数人の生徒はぎょっとした表情になった。しかし私の知ったところではない。

 桜の木の下に立つと、やはりそこは周りより少しだけ気温が高いように思えた。太陽が出ていることもあって、その差は如実であった。木陰とかは関係ないらしい。

 

「さて、どこに埋めたっけな」

 

 木の周りをぐるぐると回る。しかしもちろんそんなことをしても思い出せるはずもなく、地面にハイヒールの踵部分によって開けられた穴が大量にできただけだった。

 

 とりあえず掘ってみようということで、しゃがんで地面を触ってみる。シャベルなどはないので、掘るとなると必然的に素手で掘らなくてはいけない。

 しかし校庭の土は思っていた以上に硬く、素手では惚れそうになかった。

 かといって職員室まで行ってシャベルを借りるというわけにもいかず。

 

「ハイヒールの踵でほぐせば、掘れるかも……」

 

 がつがつがつ。

 

 スーツ姿の大人が校庭で地団太を踏む姿がそこにはあった。

 

「お願いだから注目しないでよ…………」

 

 私の願いは叶うことなく、運動場にいたほとんどの生徒は私のことを異形の物を見る目で見ていた。

 こつん。

 

 恥の時間は終わり。ハイヒールに何か固いものが当たる感触がした。見てみると、金属の缶が少しだけ露出していた。

 急いで周りの土を除け、缶を取り出してみると、ズシリとその重さが掌に伝わってきた。どうやらそれほどに大量の手紙を入れていたらしい。

 まだ貴女と約束したタイムカプセル開封の年ではなかったので全てを持っていくわけにはいかなかったが、一通くらいは大丈夫だろうという割とガバガバな設定を用いて缶を開けた。

 細長い缶なので、手紙は綺麗に折りたたまれて入れられていた。

 ただの手紙だというのに、こういうところにも貴女の几帳面さがにじみ出ていた。

 

『よーしこんなのでいいかな。めちゃくちゃ綺麗だー』

 

 いいなぁ、私は不器用だからそういう風に小ぎれいなものを作れるって、なんだかすごい羨ましい。

 

『細かいことにこだわるのって、自分で言うのもあれだけど面倒くさいよ?』

 

 

 まあ、そこらへんは貴女にもいろいろあったのだろう。

 

 木の幹にもたれかかりながら、ぼうっと缶を見ていた。

 すると、少しだけの違和感に気がついた。

 缶の端っこ、綺麗に折りたたまれている手紙たちの中に、一通だけ乱暴に握りしめられたような跡がついた手紙があった。

 取り出して広げてみると、手紙の中央に貼られた可愛らしいシールが目に付いた。

 

 ぴり、と。

 私の脳が拒否反応を起こす。先程よりかは弱いけれど、これを見てはいけないと体が嫌がっている。

 しかし私の手は何かよくわからないものに操られているかのように、すうとくしゃくしゃの手紙を封じているシールに伸びていく。

 

『私たち、これからも手紙交換、してこうね!』

 

 はにかみながらのその言葉。

 しかし残念なことに、彼女がそう言った数日後に手渡したあの手紙が、私たちが交換した最後の手紙になってしまった。

 シールをはがす。長年くっついていたせいで、少しだけ粘着力が弱くなっていた。

 

 中から覗くのは淡いピンクの手紙。震える指先で手紙を取り出してみると、淡いピンクの他に黒色の染みのようなものが見えた。

 よく見てみるとそれは染みではなく、私が描いた花だった。

 緑の瑞々しい(私の絵の良し悪しはともかく、まあ緑なので瑞々しいということにしておこう)茎に、六枚の黒い花弁。

 項垂れるように描かれたその花は、私がよく知る百合であった。いや、ただの百合ではない。黒百合だ。思い出した。私が花言葉を調べ、ここに描いたのだ。

 

 黒百合の花言葉は────

 

 絶え間ない痛みが私の頭を襲う。しかし、ここで止めてはだめだと思った。

 

 思い出してきた。貴女の最期とこの手紙。

 私が記憶の中に閉じ込めて、数年間も陽の光を浴びさせて来なかった、忌々しいその記憶。

 震える貴女と怒る私。

 

 確か──

 

 立ち上がった私は、妙に力の入らなくなった脚に動かされるまま、渡り廊下の近くまで移動した。

 先程見た、簡易な造りの花壇。

 

 そうだ、私はこの場所で貴女への、貴女に渡した最後の手紙を書いたのだ。

 

 この花壇には、黒百合が咲いていた。誰が植えたのかは定かではないが、綺麗な黒百合が数輪咲いていた。

 私はそれをモデルに、貴女への手紙に黒百合を描いたのだ。

 

 当たり前だが私があの時見ていた黒百合は既に枯れており、花壇も既に荒れ果てていた。

 先程はよく読めなかった看板の文字だったが、目を凝らして見てみると、赤いペンキで『立入禁止』と書かれていた。しかし看板は長い間雨風に晒されていたため、文字は酷く掠れており、ほとんど読める状態ではなかった。

 

「ていうか、立入禁止って……花壇なんだから別に何もないでしょ」

 

 別に荒らすわけでもないのだしと言い訳めいたことを自分に言い聞かせながら花壇に近づく。

 やはり普通の、少し寂れただけの花壇だった。しかし破裂しそうなほどに加速する動悸は収まりそうにない。一体、この場所で何があったのだろうか。

 

 ちらりと、目を薄く開けて手紙を見る。痛みに少しだけ恐れてしまった。この手紙は、確実に私の脳へと少なくないダメージが来ると何故か分かったからである。

 案の定、痛みが私を襲う。しかし、それは想像していたよりかは幾分か……いや、ずっと弱い、今まで通りの頭痛であった。

 

「まあそれでも痛いんだけど……っ!」

 

 大きく息を吐く。少しだけ吐く息が震えていた。

 手紙の内容はありきたりで平凡な、凡庸で簡単な、誰でも書けるようなラブレターだった。

 

 ラブレター。

 恋文。

 色文。

 らぶれたぁ。

 

 いくつか同じ言葉が紛れていたが、つまりはそういうこと。

 

「って、全部一緒の意味なんだけどね……」

 

 くたびれた笑みを浮かべながら、空を見上げる。旧校舎と本校舎に囲われ、限られた視界の空だった。

 現実逃避をしていてもきりがない。

 まあ簡単に言えば。

 

 私は、雌である私は。

 同性で同じく雌である貴女に恋をして、告白したのだ。

 

 まあ、わかりきっていたことだったけれど。

 

「そういえば、手紙で言ったんだったっけな……」

 

 限られた視界から見える青空は、それでも綺麗だった。

 

 

 

 

 ♦   ♦   ♦

 

 

 

 

 

「えっと……こんなんだったっけな……」

 

 手に持った太い枝の先っぽを地に這わせる。フィギュアスケートの選手も驚くスピードでターンやらジャンプを成功させた枝は、無事に花壇の目の前の土に簡易な絵を残すことに成功した。

 先ほど描いた貴女の似顔絵といい、やはり私の芸術センスは数段とレベルアップしたらしい。地面にあるその絵を見て、私は満足げに頷いた。

 つうと、私の頬を一筋の汗が流れた。

 どうやらこの太陽の下で作業しているうちにかなり体が温まってしまったらしい。

 

「まるで……私みたいだ」

 

 儚く柔らかい雪も、暖かい太陽の光も、積もり積もれば人を殺せる武器となる。

 同じく貴女を想う純粋で、純白だったあの気持ちも、積もり積もって呪いとなっていたのだ。

 

 もう一度手紙を読む。頭痛はもう起きなかった。

 

「『屋上に来てください』……かぁ。なんだか乙女チックな呼び出し方だなぁ」

 

 実はというと、こういう自分の恥ずかしい部分を見つけるのは、少し憂鬱だったりする。

 とりあえず私は、見えるはずもない貴女の背を追いながら、再び屋上へと赴いた。いや、先ほどは全くと言っても差し支えないほど屋上にいなかったので、これが最初ということになるのだろうか。まあ、どちらでもよいけれど。

 

 屋上のドアを開けると(開け方をど忘れしてしまっていたので、少しだけ手こずった)、再び──今度は先ほどよりも幾らかは弱かったが──頭痛が私を襲った。

 それでも我慢して見渡した屋上は、笑ってしまうほどにあの頃のままだった。

 

 思わず両手を投げ出してくるくると回ってしまいそうなほどに近い空、太陽の匂い、誰もいない空間、少し古びたよくわからないオブジェに錆びたフェンス。フェンスの一部は……これもあの時と同じくぐしゃりと潰れていた。

 少し欠けたタイルまでも、あの頃と寸分違わずそのままだった。

 

「懐かしいな……」

 

 言葉が零れ落ちる。なんだかひどく震えて、みすぼらしいほどの声音だった。

 

 くしゃり。掌の中で何か気持ち悪い感触がしたので見てみると、知らぬうちに持っていた手紙を強く握りしめてしまっていた。元々ぐしゃぐしゃだった手紙が輪をかけて皺だらけになってしまった。

 

 広げて再び読んでみる。

 

 

「放課後屋上で大切な話があります……か」

 

 自虐するように呟いたつもりだったのだが、耳に入ってきた声はひどく強ばっていた。

 

 徐々に、頭の中にかかっていた靄が消えてきた。

 この屋上に貴女を呼んだ。ちょうど五年前の今日に。

 運命と呼ぶべきか、偶然と嗤うべきか。

 

『話って、何? わざわざ敬語に直したんだから、それはもう大切な大切な話なんでしょ?』

 

 私をからかう、声だけで貴女のニヤついた表情が出てくるほどにわかりやすい声音が頭に響く。こんなにもお膳立てされてなお、貴女は私の想いに気がついていないようだった。

 いや、気がつかないのが普通なのか。

 この場合、異端でおかしいのは私であって、貴女のその対応は決して間違っているわけではないのだ。

 

 三歩ほど前に進んで、フェンスの少し前に立つ。ここからなら向かいにある旧校舎が良く見える。

 ここで、このタイルの上で、私は貴女に告白したのだ。

 

 貴女のことが好きです。どうか付き合ってください。

 

 貴女の、私を揶揄する言葉を無視して放ったその言葉に、貴女はなんと応えたのだろうか。

 いや、そんなの、考える必要も無いことであった。

 

『な、なに……言ってるの?』

 

 その声は、困惑の声。親友だった私と貴女の距離を、まるで一年に一度しか会えないと言われている織姫と彦星ほどに開けたその言葉。

 簡単に訳すと、拒否。

 全てが崩れる音。いや、元々何も建ってなどいなかったのだろう。貴女は私と友情を建てたと思って、私は貴女と愛情を建てたと思った。両方が両方同時に違うものを建てて、同時にその基盤となる前提を壊しただけ。

 

『君……おかしいよ、だって私たち、同性じゃない』

 

 貴女の口から出てくるのは、ありきたりの、ありふれた言葉。それはもちろん、私が望んでいた言葉とは程遠いものだった。

 私と貴女の距離は1メートルと少し。手を伸ばせば届く距離。しかし、私の手は動かなかった。否、動かしても意味がなかった。

 既に貴女の心に私はなく、私の心に来るはずだった貴女もまた、消え去っていたのだ。

 

『な、んで? 私たち、親友でしょ?』

 

 親友? 何それ。意味わかんないや。一体私は貴女とどういった関係を結んでいたんだろうか。なんのために関係を結んでいたのだろうか。もう、どうでもいいや。

 

『そんな事言わないでよ。私たち、これからも友達なんだから』

 

 友達? ふざけるな、私たちの関係はもう壊れてしまったんだ。私の想いは消えてなくなったんだ。壊れたものなら直せる、曲がったものだって真っ直ぐにできる。けど、無くなったものはもうどうしようもないんだよ。もう、私には関わらないでくれ。

 

 

 貴女の、泣きそうな顔が瞼の裏に映し出される。

 その表情に、怒っている真っ最中だというのに、私の心は罪悪感でずきりと痛んだ。

 

『なんで? 私は君の想いに答えないと、もう友達を続けることも出来ないの?』

 

 ああ、もうやめてくれ。

 

 私の頭の中で始まった不毛な争いに、一時的なピリオドを打つ。いや、ピリオドというよりかはコンマ。一時停止の合図である。

 そっと、くしゃくしゃになった手紙を太陽にかざしてみる。

 突き刺すような……いや、春の日差しを突き刺すようなと表現するのは間違っているか。となると、人差し指でつんつんと刺すような(果たしてこれはあっているのだろうか。突き刺すの方がまだ正しいかもしれない)日差しが手紙に当たり、私の頬に黒い百合の影を落とした。

 

 フェンスにもたれ掛かる。金属が擦れる嫌な音がして、ぐにゃりと力なく曲がるフェンスの金網。フェンスはちょうど私の脇腹あたりまでの高さなので、手を折り曲げた時にちょうど肘が置けるようになっている。

 生徒を守るにしては些か心許ない高さではあるが、もとより立入禁止なのだ、文句は言うまい。

 

 あの日、あの時。私たちの友情は決壊して、消えてしまった。貴女は悲しんで、私は怒った。

 

 貴女は私のことを考えて涙を流し、私は私のことを考え腹を立てた。

 この決定的な違いが、全てを壊した。

 今思えば、なんと幼稚な心だったのだろうか。

 稚拙で、姑息で、汚らしい。

 私のエゴが、貴女を傷つけたのだ。

 

 もう後悔したところで、後の祭りなのだろうけど。

 

「いや、後悔先に立たず、だったっけ」

 

 頭の中を埋め尽くす問題から逃げるように呟く。返事はない。まあ、当たり前であった。

 

 はっきりと思い出した。

 貴女に拒否されて、私が怒って。

 

『ねえ、ほかに正解はないの!?』

 

 焦ったような、のんびりでマイペースな貴女にはそぐわない声音で捲し立てる声がする。

 斜め横を見ると、そこには少し透過した貴女の姿があった。

 しかし──自分の心の内を話すときに『意外なことに』と使うのはおかしいと思うかもしれないが──意外なことにあまり驚きはしなかった。

 それは、今目の前にいる貴女が私が作り上げた幻覚だということに本能的に気が付いていたからだろうか。それとも、もう貴女を見たところで私は同じような反応しかできなくなってしまったのだろうか。思い出したことによって、私の心は貴女から離れてしまったからだろうか。

 返答がないことに焦ったのか、貴女の幻影はさらに早口になる。

 

『お願い、私だって君と友達でいたい。仲よくしたい。けど、そういう関係にはなれないの』

 

 そんなの、じゃあそんなの意味ないよ!

 

 

 違う声がする。いつも聞いているような、それでもって少し違和感のある声。

 横を見ると、これまた少し透過した高校生時代の私がいた。

 若いころの自分を見て少し気恥しいという気分もあったが、それよりも貴女と第三者視点から見る私の喧嘩に目を奪われていた。

 これは過去の映像。私の人生がバッドエンドになった瞬間だ。その瞬間を、なぞるかのようにこの場に映し出しているのだ。

 

 だとすると、見るわけにはいかない。しかし、私の目線はがっちりとロックされたかのように動かなかった。

 

『意味ないって、どういうこと? そういう関係じゃなかったら、私は君と、いられないってことなの?』

 

 ゆっくりと一文字ずつ、確かめるように尋ねる貴女。もちろん、そんなことはない。私にとって貴女という存在自体が救いであったのだ。恋人になるならないはあまり関係ないことだった。

 今ならそう言える。しかし、あの時はそうではなかった。

 

 

 そうだって言ったらダメなの!? 私にとって、それだけがすべてだったのに!

 

 

 ああ、なんて幼稚なんだろうか。見ているだけで恥ずかしくなってくる。

 私の言葉に、記憶よりも少し薄めの貴女は衝撃を受けた表情になる。

 

『そ、んな……』

 

 もう、いいでしょ。さよなら。

 

 少しだけ……いや、明らかに冷たい声音でそう言い、貴女の横を通ろうとする私。やめてくれ、それ以上、続けないで、くれ。

 

 私が、壊れてしまう。私が、崩れてしまう。

 わたしが、わたしが、ワタシが、ワタシガ、わたしが、私が、ワタシがわたしがわたしがわたしが

 

 

 お願いだ、どうか時間よ止まってくれ。このまま、氷漬けになった世界のように何も動かさないでいてくれ。

 私に、もうバッドエンドを体験させないでくれ。

 

 願う気持ちは届かず、横を通る私の肩を、貴女が掴んだ。

 

『待ってよ! まだ話は終わって──』

 

 もう、私にかかわらないでよっ!!

 

 

 

 響く怒声、目を見開く貴女。

 ばしんと、反射的に肩に乗せられていた貴女の手を叩いた。

 

 その際に、その手に握られていた私のラブレターが、力みすぎてくしゃくしゃになってしまったラブレターが、宙に舞った。

 

 

 あっ。

 

 

 それは、どちらが発した声だっただろうか。貴女か、私か、あるいは両方か。

 ふわりと、私の想いが綴られた恋文は風に乗り空気を切り裂きながら前に進む。

 

 もう私には関係ないと思っていながらも、少し胸が痛む光景だった。自分が必死に書いたものが空気などに持っていかれるというものは。

 それを見る私は、瞬き一つしない。冗談抜きで、先ほどから目が乾いてひりひりとしてきた。もうすぐで目を開けていられる限界が訪れるだろう。しかし、目を閉じようとしても、金縛りにあったかのように瞼が動かない。

 

 あの時の私も、同じ気持ちだったのだろう。

 貴女への想いをすべて捨て、心の中に残る後悔という残響をも捨てた瞬間に起こったこの場面。

 

 だが、バッドエンドは終わらない。

 

 中空で舞い踊る手紙以外すべてが止まっていた世界を打ち破り、一つの影が動いた。動いてしまった。

 

 それは、貴女だった。

 舞う手紙だけをただまっすぐに見つめた貴女が走る。

 

 今しがた絶交にも似た関係になった親友の、恋文。貴女はそれに手を伸ばす。

 

 がしゃん、と。

 貴女のみぞおち辺りにフェンスが当たる。それでも手紙には届かない。あと少し、ほんの数センチだった。

 

 ああ。

 

 助けて。

 

 私はもう──

 

 

 

 だん!

 

 貴女が地を蹴った。

 フェンスに片手と片足を置いて、精一杯体を伸ばす。数センチ開いていた隙間は一瞬で埋まり、貴女の手が確かに手紙を握った。

 

『やった──』

 

 こちらを振り向いて、私が初めて貴女と出会った時の……桜の木の下で見せたあの時のような笑みを見せる貴女。

 

 

 

 

 ──それが、私が最後に見た貴女の顔だった。

 

 

 ぐしゃり。

 情けない音が……屋上でただ佇むだけの私(今も、過去も含めてである)よりも情けない音が、乾いたタイルの上に落ちる。

 

 片手片足でフェンスに乗っていたはずの貴女の体が、大きく前に傾いた。

 満面の笑みだった貴女の顔が、きょとんとしたものに変わる。

 

 

 そしてそのまま、屋上から消えた。

 

 

 かしゃん。

 

 目を少し横にずらすと、少しだけ潰れたフェンスの部分が目に入る。

 あの時の……まま。

 

 ──貴女はここから落ちて、死亡した。

 フェンスは錆びており、また人一人の体重を支えれるほどに強固なものではなかった。

 故に潰れて、それにもたれかかっていた……というか、全体重を預けていた貴女は態勢を崩してしまったのだ。

 

 落ちて、死んだ。

 

 

 

 否。

 

 

 落ちて、殺した。

 私が。

 誰でもない、この私が。

 

 貴女を殺したんだ。

 

 貴女がこの場所から落ちて来た理由は、すべて私のせいだ。

 

 

 

 

 もしあの時、私がラブレターなど出さなかったら。

 もしあの時、私が貴女の手を叩かなかったら。

 もしあの時、貴女が飛んで行ったラブレターを無視していたら。

 もしあの時、私が貴女の手を引っ張って屋上に戻していたら。

 もしあの時、私が違う場所で告白をしていたら。

 もしあの時、私が怒らなかったら。

 もしあの時、私が求めすぎなかったら。

 

 

 

 

 

 もし私が、貴女のことを好きにならなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もし私が、貴女と出会わなければ。

 

 

 

 こんなことにはならなかった。

 

 

 

 

 貴女は生きていて、今もこの世界のどこかで誰かと過ごしていたのだろう。

 

 それを奪ったのは私、ワタシ、わたし。

 

 

 

「ほんとに……馬鹿だなぁ……」

 

 

 誰に向けての言葉かわからないまま、小さく笑みを落とした。

 

「けどやっとわかったよ。なんで私がここに来たのか、今日、この場所に立っているのか」

 

 潰れたフェンスの前に立ち、足を少しだけ上げてフェンスを跨ぐ。足に引っかかる金網の端が少し鬱陶しかった。

 しかしそんなことを気にするのもあと少しだけ。

 眼下に広がるのは、旧校舎へと続く渡り廊下と中庭だけ。すぐ下に黒百合の花壇があった。私が先ほど描いた黒百合がうっすらと見えていた。

 多分、貴女はあの花壇に落ちて、死んだのだろう。最初に感じた途轍もない頭痛は、そういうことなのだろう。

 

「今更分かったところで、意味なんかないけどね」

 

 自嘲気味に呟く。今度はなかなか様になっていた……気がする。

 

 下を見ていると、覚悟を決めたはずなのになぜか脚が震えた。

 私は今から、飛び降りる。

 五年前の今日、貴女がそうしたように……いや、私が貴方にそうさせたように。

 今日、操られるがままにここに来た理由はこういうことだったのだ。

 

 貴女と私の全てを見て、そしてそのまま死ねということだろう。

 けどまあ、悲しいとは思わない。嬉しいとも思ってはいないけれど。

 

 生きることは、つらいことだ。

 一秒生きて、一秒息をして、一秒心臓が命の音を奏でるたびに、私は何千回も貴女のことを考えて、貴女の死を背負ってきた。

 それが解放されて、貴女のもとへ行けるというのなら、なぜ悲しむ必要があるのだろうか。

 

「これもまあ、後付け」

 

 

 本当は、逃げ出したかっただけ。

 貴女のことを考えるたびに痛んだ胸や、ふらついた頭。何か大切なものがあるはずだと信じて生きていたこの五年は、辛かった。貴女は私に呪いを与えたのだ。ちょっとやそっとじゃとれないほど重く、優しい呪いを。

 そこから、逃げ出したかった。

 しっぽ巻いて涙流してはいずりながらだっていい、どんな無様な格好さらしたっていい。ここから逃げ出したかった。

 逃げ出せるのなら、屋上から飛び降りるのだって、苦ではなかった。

 

 

 

 それほどの決意……否、言い訳をもってしても、心の中に残る一抹の恐怖心を拭い去ることはできなかった。

 

 震える脚を抑えながら、大きく息を吸う。もうあと半歩足を前に出すだけで、私は体重をかける場所がなくなって、五年前貴女がそうだったように真っ逆さまに地へと落ちていくだろう。

 

「恨んでるよね、嫌いだよね。けど今から、そっちに行くから」

 

 

 目を固くつむって、足を前に出す。

 ふわりと気持ちの悪い滞空感に、顔をなでる少し強い風。

 黒百合の咲くころに、私は貴女と共に──

 

 

 

 

 

 

 本当、君って、馬鹿だなぁ

 

 

 

 

 

 

 地面に向かって落ちている私の耳に届く声。

 女性らしく少し高い、猫なで声とはまた違う柔らかい声が。

 

 はっきりとわかるほどに、耳に響く。

 

 私が作り出した幻想や幻聴ではない、貴女の声が、聞こえて来た。

 

 

 ふわりと、腰辺りが暖かくなった。

 まるで、誰かが私の腰に抱き着いているかのように。

 

 

 目を閉じているのでわからないが、それでもわかる。

 貴女が、いる。

 

 

 

 

 

 ♦   ♦   ♦

 

 

 

 

 いつの間にか、私の顔に当たっていた風は止んでいた。

 うっすらと目を開けると、そこは先ほどと同じ光景。屋上のすれすれ、縁の部分だった。

 

 言葉にできないほどの脱力感が私を覆う。気を抜けば気絶してしまいそうなほどだった。

 

 しかし気絶などできるわけがない。

 

 だって。

 

 私の後ろに。

 

 フェンスの向こう側に。

 

 誰かがいるのだから。

 

 

 いや、『誰か』なんて白々しい。

 

 もうすでにわかってるんだから。

 

 

 

 

 

 本当に君は馬鹿だなぁ。

 

 

 

 先ほどと同じ声が私の耳をくすぐる。すぐ後ろから聞こえてきていた。

 しかし何故か、振り返ることはできなかった。もしくは、私が振り返りたくないと思っていたのだろうか。

 しかし幸いなことに、これは些事であった。

 

 

 なーんで、飛び降りちゃうのかなぁ。

 

「……なんて言えばいいのかな、わかん、ないや」

 

 それは会話というよりかは、独り言のようだった。

 貴女の言葉をまるっきり無視して、私は言った。

 その意図に気づいたのかそうでないのかは定かではないが、貴女はくすりと笑った。

 

 静寂が屋上に覆いかぶさる。

 優しい風が、フェンスを控えめに揺らしていた。

 

「……私のこと、恨んでる?」

 

 そう言って、思わず笑ってしまった。

 なんだか、馬鹿みたいである。

 

 貴女は少しだけ間を置いて、はっきりと答える。

 

 

 

 うん。恨んでる。

 

 

 

 その飾らない、貴女らしい答えに、今度は私がくすりと微笑んでしまった。

 

 

 

 

 そりゃ、恨んでるよ。私、死んじゃったんだもん。しょーらいゆーぼーだったJKが死んじゃったんだよ? 恨まれて当然ってやつだよ。むしろ呪われなかったことを感謝してほしいくらい。もう少しで君を呪い殺しちゃうところだったんだから。

 

 

 

 猛烈に恨まれていた。

 思わずずっこけそうになるほどに(ここは縁である。危ない)恨まれていた。

 

 多分冗談なのだろうが、貴女が言った場合どこまでが冗談でどこまでがそうでないのか、区別するのが難しかった。

 柔らかい声で、貴女は続ける。

 

 

 恨んでた。恨んでる。恨んでく…………。けど、死んでほしいなんて、思わなかったし、思ってないし、思うこともないよ。恨んでると同時に、君は私にとって大事な……親友なんだから。

 

 

 ちくりと、何かが私の胸を刺した。

 どうやら、親友という言葉に傷ついてしまったらしい。

 全く、私はつくづく馬鹿な女である。

 五年経った今でさえ、まだ貴女に好かれたいと思っているのだから。

 それでも、まあ、悪い気分では、なかった。

 

 

「ごめんね」

 

 投げかけた言葉は、何に対する謝罪の言葉なのか、私にもわかってはいなかった。

 しかし貴女は少しだけ考えた後、わかった、と少々微笑が混じった声で言った。

 

 

 黒百合、綺麗だね。

 

 

 それが私が恋文に描いた黒百合についてほめているのか、それとも先ほど地面に描いた黒百合のことを言っているのか。

 私は応えなかった。

 

「ごめんね」

 

 代わりに謝罪する。

 今まで言えなかった分、謝罪する。

 ひどく開いてしまった私と貴女の距離を埋めるかのように、謝罪する。

 

 

 

 

 ねえ、どうか自分を責めないで。いや、責めるのは自己責任だけど、どうか溜めこまないで。辛くなったら、発散してね? 私がとか、君がとか、そんなの関係なしに、嫌になったら悲しんで、泣いて、投げ出してもいいんだよ?

 

 

 

「そんなこと、できるわけないじゃん」

 

 器用に屋上の縁に座った私は、足をぶらぶらさせながら言った。胸が痛くなるほどに悲し気な声だった。

 

「私は貴女を傷つけて、結果的に死に追いやっちゃったんだよ。今更悲しむことも、泣くことも、ましてや投げ出すことなんて出来っこないよ」

 

 それは、弱音な本音。

 隠して隠して隠し通そうとした、私の見られたくない部分。

 それでも、貴女になら曝け出していいと、そう思えた。

 

 対する貴女は、大きなため息をついた。

 

 

 

 ほんっと、君って馬鹿だよね。

 

 

「…………私は別に、ふざけてなんかないけれど」

 

 

 ふざけてるよ。ふざけてる。ふざけすぎてて逆にふざけてるって感じ。

 

 

 

「……………………」

 

 よくわからなかった。

 

 

 

 あのね? 君が私を死に追いやったからって、私が君が書いた可愛らしいラブレターを追いかけて死んだからって、それが君が悲しんではならないっていう理由には、ならないんだよ?

 

 

 

 貴女は、あの時と同じように、一言一言区切るように言う。

 まるで、幼子を言い聞かせる母親のような声音だった。

 

 

 悲しいなら泣きなよ。辛いなら投げ出しなよ。誰も君を裁かないよ。いつも裁いてるのは自分自身。第三者視点からなんて言い訳して、格好悪いよ? もっと自由気ままに生きればいいじゃん。私のことなんて忘れて誰かと恋すればいいじゃん。

 

 

 

 

 だってさ、と。

 貴女は、続ける。軽い笑みを浮かべているその顔が容易に想像できる声だった。

 

 

 

 君が私を忘れない限り、私はずっと君の中にいるんだから。これこそ、相思相愛だね。

 

 

 

 

 かしゃん。

 フェンスが揺れた。

 風が強くなってきた。

 

 

 

「愛してるよ」

 

 

 私の背に吹き付ける風に乗せて呟いたその言葉。

 貴女とは反対方向へと飛んでいくはずの言葉は、やはりしっかりと貴女の耳に届いたらしい。

 

 にひひっと笑う声が聞こえて、いたずらっ子のような声で貴女は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、大好きだよっ!」

 

 

 

 思わず後ろを振り返る。

 まあ、誰もいなかった。

 

 

 当たり前だろう。

 

 貴女は死んで、私は生きて。

 

 死人がこんな場所にいるわけはないのだ。

 それでも、なぜだろうか。

 

 

 先ほどまで私の心を締め付けていた陰鬱な思いが、消えていた。

 どうやら貴女が、気まぐれな貴女が、そんな感情持っていってしまったらしい。

 

 

 フェンスを跨いで屋上に戻る。確かな命の硬さを足で踏みしめながら、大きく伸びをした。不思議と、先ほどの疲れは吹き飛んでいた。

 

 

 不意に、目も開けられないほどの強風が吹いた。

 風は数秒吹き続け、その間に私がしっかりとつかんでいた手紙が何故かするりと手から抜け落ちた。

 風に吹かれ舞う手紙。

 一気に加速した私のラブレターは、一秒とかからず屋上のフェンスを越えた。

 

 追いかけようかと一瞬迷ったが、それも一瞬だけ。

 私は空飛ぶ手紙をじっと眺めていた。

 

 ラブレターは止まることのない風と共に、私が見えないほどの遠くへと飛んで行った。

 

 

 貴女は色々なものを持って行った。

 私の陰鬱な心とか、疲労感とか。

 

 ────貴女に対する、想いとか。

 

 想いがなくなった私に、もはやあの手紙は必要ない。

 だって貴女と私は、親友だから。

 私は貴女のことを好きで、貴女も私のことを好き。

 

 相思相愛の関係なのだ。

 

 

「ま、帰るかなっと」

 

 帰りしなに下を覗いてみると、そこには変わらず私が描いた黒百合があった。

 

 さて、帰ったら手紙でも書こう。

 呪いでも恋でもない、ただの手紙を。

 友達に宛てて書く、普通の手紙を。

 

 

 貴女が、五年の時を経て読んでくれるような、面白くてわくわくする手紙を。

 

 空を見上げる。広く高い空だった。

 どこまでも広がっている青空で、貴女が微笑んだような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

Live the Life You Loved.

Love the Life You Lived.

 

 

 相思相愛 IS BAD???……

 

 


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