蟲の女王   作:兼無

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導入のつもりがなんだか変なことに。


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 体を弄られる違和に身を任せ、ただ、そこにあろうとする。痛み。もどかしさ。いきぐるしさ。怖気。水音。全てをただ受け入れる。

 目を開けば蠢くは醜悪な蟲達。体の上を這いまわるそれらをしたい様にさせておく。彼等は私を貪り、それ故に私は彼等を使役できるのだ。

 乳房の上を、節足を軋ませながら百足のような蟲が這っている。

 彼等は私の手足であり、目であり、肉だ。

 自らの手足を嫌悪する理由はない。

 ただ、手足なら上手く使えるに越したことは無いと考えた。

 故に私は蟲の女王になろうと思ったのだ。

 ともすれば上気しそうになる呼吸を落ち着ける。

 あらゆる感覚を感覚としてのみ受け取れば、意識はゆっくりと内側へ向かう。

 深く、ふかく。

 更に意識を深く落とそうとして、雑音に気が付いた。

 ざわざわと蟲達の蠢く音に混じって、こつ、こつ、こつ、と石段を刻む足音とコ、コ、コと高い音が暗い地下室に反響している。

 なにかと忙しない時期だからと気を使ってこうやって引き篭もっていると言うのに一体何の用だろうか。

 

「下れ」

 

 体の内外で蠢く蟲達を退け、ゆっくりと蟲の海から立ち上がる。

 生娘なら卒倒しかねないほど醜悪な見た目ではあるが、こんな物でも純潔をくれてやった生き物には違いないし、何より間桐の魔術を支える為には必要な物だ。今となってはさほどの嫌悪も湧かない。

膣口からぼとりと零れ落ちた最後の一匹を足で払い、彼等を踏みつけぬよう気を払って階段へと向かう。

 

「捗っておる様じゃの皐月」

 

予想通りのしわがれた声が振ってきた。足音に杖音が混じっていたし、爺様ぐらいしかここには寄り付かない。

父も私がこうなってからは修行をやめてしまったし、慎二はここを恐れている。

階段の上、地下室の扉を見上げる。機嫌よさげに歪んだ顔で爺様が私を見下ろしていた。

 

「ああ、爺様が来るまではな」

 

 取ってつけたような皮肉に、掠れた声で爺様は笑った。

 間桐臓硯。五百年を生きた怪人にして間桐の当主。対外的には祖父に当たり、私の魔術の師であり、そして間桐の魔術そのもの。

 自身を維持するために蟲を使役する術を極め、いまや間桐の魔術とは文字通り間桐臓硯を生かす為だけに存在する魔術だ。

 間桐はこの爺様から始まり、ゾォルケンの歴史はこの爺様で終わったと言えば分かりやすいだろうか。

爺様の底意こそ分からないものの、先祖より受け継いできたゾォルケンとしての使命を投げうち、子孫を貪り、磨耗した魂を引き摺って生き永らえようとする意志力だけは、一流のそれだ。

 ただ、真実ゾォルケンの魔術が失伝したかどうかについて私は確証を持っていない。どちらにせよこのままでは爺様の磨耗と共に消えていく事だけは確かだが。

 

「それはすまなんだ。いやなに、この間の話を蒸し返しに来ただけじゃ」

 

 この間の話。ここ最近爺様と私に共通の話題と言えば──────そうか。

 間桐の魔術は爺様の延命に集約すると言ったが、爺様の磨耗を見れば分かるようにその延命は確かな物ではない。

故に二百年ほど前、爺様は別の手段に長命を託す事にした。

 手段の名を聖杯戦争。

 聖杯を争い、魔術師達が秘奥を以って我意を通す、文字通りの戦争だ。

願望機たる聖杯を持って不老不死に至ろうと言う訳なのだが、私は度々次の第四次聖杯戦争に出ないかと爺様から打診されている。

 

「……耄碌したわけじゃないだろうな? その気は無いと言ったはずだ」

 

 石段に放ったままのタオルケットを羽織り、上へと登っていく。石段は素足には些か冷たいが火照った体には心地よい。

 

「そう話を急くでない。ちと状況が変わってのう」

「聞くよ。直ぐ終わるなら立ち話でも構いいけど、どうせ長い話なんだろう?」

 

 爺様は阿呆ではない。私の心変わりがありえるだけの材料を揃えているのだろう。

 となれば当然長い話になる。なにしろ私の心変わりなんてありえないのだから。

 聖杯戦争は次で第四次を数えるほど続けられてきた催しだ。決して愚かではない魔術師達が七人揃って三回も殺し合いをした挙句誰一人杯を手にしていないと言うのだから馬鹿げている。

 秘奥に至るためならば命を惜しむ魔術師はいないが、あまりにも効率が悪い。中には代々継いできた魔術刻印を失った者までいるという。

 聖杯戦争の成果として『』に至ったならば魔術刻印など些事かもしれないが、そうでないならば、何時の日か子孫が天元へと至ることを願い先代たちが積み上げてきたものを屑籠に放り込んだに等しい行為だ。

 或いは更に代を経て、子孫が至る事も万に一つはあっただろう。その可能性すら失ったとあらば、もうそれは愚行を通り越して凶行である。

 そんなわけで聖杯戦争に参加などしても、爺様の後釜を虎視眈々と狙っている私には何一つメリットがないのだ。

 

「カカカ、孫に年寄りを労わるだけの人間らしさが残っておってよかったわい。そうさな、続きは儂の部屋にしようかのう」

「着替えてから行く。シャワーを浴びたいから三十分くれ」

「構わんよ。孫とは言えその体は目の毒じゃ」

 

 ぞぞぞ、と怖気が走った。何言ってんだこの爺。

 

「……枯れた爺の冗談とはいえ八歳のガキに言う言葉じゃない。ご町内でも間桐の家は浮いてるんだからそういうのはほどほどにしてくれ」

 

 ただでさえ悲鳴が聞こえたとか、変な蟲が庭先を這っていたとか、間桐の家はなんだか湿っているとか、良くない噂が後を立たないのだ。全部事実なだけに誤魔化しにくくてしょうがない。

 

「ふむ、可愛い孫の頼みなら仕方あるまい。あい分かった。では後でな」

「ああ」

 

 滑るように廊下の暗がりに姿を消した爺様を見送り、浴室へと向かう。

いつものことなので着替えは先に用意してある。

 ひたひたと廊下を歩いていると、静けさも相まって妙に肌寒い。

つい先日、弟は留学先の下見にアメリカへと向かい、父もそれに付き合って出ているのでこの家には爺様と私しかいない事を思い出す。

 無能な上に姉さん姉さんとやかましい弟が居ないだけでこうも違うものかと、思わず笑ってしまった。

 タオルケットを床に放り浴室に入る。

 

「熱い湯を浴びたいな」

 

 何の気なしに呟いた言葉に一人頷きながら、私は体に纏わりついた粘液を洗い落としていった。

 

 

 

 

 

 濡れ髪もそのままにいつもの面白みの無い服を着て爺様の部屋を訪ねると、茶をすすっていた爺様が座布団を勧めてきた。

 

「で、何の話だったか」

「次の聖杯戦争、お前をマスターとしたい、という話じゃな」

 

 聖杯戦争。正直なところまるで興味が無い。間桐の魔術にとってそんな物がどれだけ価値があるというのか。目の前の化け物は詳しいことを聞かせようとはしないが、爺様の私利私欲に付き合うのも限度がある。

 魔術師の家系にあるまじき行為と言い切ってしまいたいが、最早この家は間桐であってゾォルケンではない。私がゾォルケンではなく間桐であるように。

 ならば初代当主である爺様の意向こそがこの間桐の行く末を定めるのは道理であり、爺様の私利私欲こそが、間桐の目指す先でもある。

 少なくとも今のところは。

 

「何かしら納得できる材料を持ってきたんだろうな?」

「もちろんじゃとも。実はの、遠坂から養子を取ることにした」

 

 遠坂から養子をとる事にした。

 言葉の意味を理解するのに一秒、その言葉が何を意味するのかを推し量るのに更に一秒。

 本来ならありえない話。この爺がした、というからには既に遠坂と話は纏まっているのだろう。

 養子。後継者としてか? ありえない。私が居る以上少なくとも、私が時期当主だと思われているはず。

 で、あるならば。

 

「…………今から私は魔術もろくに使えない出来損ない、ということか?」

「カカカカカ、飲み込みの早い孫で助かるわい。ま、あくまで対外的にということじゃがな」

「いいのか? のちのち遠坂との間に禍根を残すことになると思うが」

 

 懸念を覚える私とは対称的に、実に楽しそうに爺様の顔が歪んだ。

 遠坂の姉妹が優秀だと言う話は聞き及んでいる。姉の方とは同じ学校に通ってはいるものの年齢的には私の一つ下なので実際に見た事は無い。

 年始の挨拶に出ていれば目にする機会はあったのだろうが、生憎私は三が日を寝て過ごす事にしている。

 

「それこそお門違いよ。儂は優秀な後継を望んで養子を取ったというのに、出来損ないのお前に劣るようではとても間桐を継がせるわけには行くまい?」

「…………間桐の後継になることを前提として養子として出したというのに、出来損ないの私に間桐を継がせるとはどういうことか? ぐらいは言って来るんじゃないか」

 

 爺様の言葉を真似て言い返したものの、そんなことは爺様とて良くわかっているだろう。

 

「その時はその時よ。こちらにも理がある以上は文句は言わせぬ」

 

 爺様の老獪さを相手にしては、俊英と誉れ高い遠坂の当主とて押し通る事は叶うまい。

 だから問題があるとすれば。

 

「こっちにツケを回さないでくれ。言うだけ無駄だろうけど」

「そんなことはないぞ。孫の頼みじゃ、考えておこう」

 

 間桐の魔術も爺様もそんなに嫌いじゃないけれど、爺様のこういう態度だけは気に食わない。

 

「ところでその養子、一体何に使うんだ?」

 

 天賦にもよるだろうが、魔術は血に依存するところが大きい。

魔術は身に刻むもの。そして魔術の継承とは、魔術を刻んだ血肉を次代へと継いで行くものだ。

間桐の末である私と外様の魔術師とでは前提条件が違う。例えば私を超える才を持っていたとしても、私より優秀な間桐の魔術師になるとは限らない。

 

「胎盤と、そうじゃな、保険かの」

「益々分からなくなってきたな。胎盤だと? 一体何を孕ませる気だ?」

 

 間桐の胎盤としてその養子を使うのでは理が通らない。

 何しろ私は女だ。

 私が受け入れるかどうかは別としても、間桐の繁栄を求めるなら私に優秀な魔術師でもあてがった方が話が早い。

 そもそもこうして爺様が小娘に過ぎない私に耳を貸すのは魔術師としての才だけでなく、そういう価値が私にあるからに他ならない。

 であればそれこそ研究の道具として使い潰すぐらいしか見当が付かないが、それでは遠坂と完全に決裂してしまう。

 

「何をとはひどいことを言う。少しは歳相応に振舞えんのか?」

「寝言は寝て言えよ。人の処女を初潮前に切っておいて何を言ってる」

 

 何をされているのかすら当時の私は分かっていなかった。救いがあったとすればそれだろう。もう少し知識を身に着けていたらこうまで割り切れはしなかったはずだ。

 言うほど根に持っていないのは爺様にも分かったようで、鼻で笑われた。

 

「慎二にくれてやればよかろう。あるいは良い血と交わって間桐の魔術回路が蘇るやもしれぬ」

 

 冗談にしてもつまらない寝言を吐かれた。言う気はないということだろう。

 

「ああそう。それで? 今のは間桐の当主としての決定事項を告げただけだろう。それがどう私の聖杯戦争参加とつながるんだ?」

「だから言っておろう。保険じゃよ、皐月。これでぬしが死んだとて間桐の家は潰えぬだろう?」

 

 いやらしい笑み。お前の価値はたった今無に帰したと、その目は告げていた。

 全く以って度し難い。

 

「いい加減にしてくれ爺様。楽しくお喋りするために呼んだって言うなら帰らせてもらう」

 

 その纏わり付くような視線をため息で切って捨てる。

 ことこの身が、間桐にとって不要になることなどありえない。

 案の定爺様は喉を鳴らして笑いだした。

 

「いや、すまんすまん。しかしからかい甲斐のない孫じゃ。年寄りを少しは楽しませぬか。

 まあ保険というのは嘘ではない。サーヴァントを小娘に召喚させぬしが使役すれば、皐月、お前は十全に力を振るえる。たったそれだけで時臣相手とて不足無く振舞えよう?」

「……一考の価値はあるが、まずその小娘にサーヴァントが十全に振舞えるだけの魔力供給が可能なのかどうか。

 それにサーヴァントを連れて戦いに赴くことには変わらない以上、私が無事帰還するとは限らないこと。

 あと、間桐の魔術と遠坂の魔術の相性は最悪だぞ爺様。流石に真っ向勝負では相手にならんと思うんだが」

 

 そんなことは爺様とて分かっているだろう。何より当主として命令しないのがその迷いの現れだ。

 衰退しきった間桐において先祖還りと言ってもいい奇跡である間桐皐月を無為に失うのが惜しいのだろう。

 メイン、サブ合わせて百二十九の魔術回路。水と地の二重属性。流転と回帰を起源とし、全盛期の爺様に届かんとする魔力量を持つ魔術師。

 爺様に魔術刻印を譲る気さえあれば、今すぐにでも間桐の当主になりえるだけの才を持ち合わせていると自負している。

 そんなわけで割と爺様は私を認めてくれているのだ。

 今の話は判断を尊重しよう、ということだろう。

 

「…………だめかのう、いい考えだと思ったんじゃがのう」

 

 前言撤回。未練たらたららしい。

 だけどこれで本題は終わり。あとは定例になりつつある腹の探り合いだ。

 

「だいたい爺様はじゃあ今回は見送るかのう、とか言ってただろう。どうしても出ろって言うなら魔術刻印全部よこせ。一年あれば定着するだろう?」

 

 これは割と本気だ。むしろ魔術師としての私はその為だけに全力を傾けていると言ってもいい。

 

「儂に死ねというか? 刻印虫ぐらいなら貸してやると言ったじゃろう」

 

 同時に、既に自身の肉体をほぼ全て失った間桐臓硯にとって、魔術刻印は命を繋ぐ唯一の鎖だ。自らの肉体を失った爺様は、蟲にそれを刻む事によって機能させ生き永らえている。

 故にそれでは足りない。刻印虫を借りるのでは単に爺様の力を借りる事に等しい。

 

「蟲に刻んでどうする。身に刻まねば意味など無い。だいたい蟲共なんか爺様がその気になれば私の言う事なんか聞かんだろう」

「……最近そうでもないんじゃが、衰えたかのう」

 

 爺様の衰え云々は別にして、一部の蟲が爺様の制御下にない事は事実だ。私が侍らせている蟲共は九割方の制御を掌握している。これは私が魔術師として爺様より優れているなどと言う事ではなく、単に餌である魔力を供給する私に本能的に靡いているに過ぎない。

 実力行使で刻印蟲から刻印を剥ぎ取るにはまだ足りないのだ。

 

「妖怪爺が何を言ってる、まあ、どっちにしろ参加は見送りだ」

 

 その制御を強制的に引き剥がす手段を爺様が持っているかどうか。その当たりも暇を見て探っていこうと思う。

 

「仕方ないかのう」

 

 それでもまだ諦め切れてはいないようだ。釘を刺しておく必要があるか。

 

「ああ、でも参加者次第では出てもいいぞ。三流揃いなら私の勝ちは揺るぐまいさ」

「なんじゃ、時臣には勝てんのではなかったか?」

「もちろん私一人ではな。可愛い孫が爺様のために挑む戦いだ。その危機に楽隠居を決め込むほど人を止めちゃいないだろう?」

 

 私の命を賭けに使いたければ、自分の命も使ってもらうぞ、という警告。

 

「最近の若い者は年寄りに厳しいのう。わかった。その時には手を貸そう」

 

 当然のようにのらりくらりと爺様は渋る。

 

「馬鹿を言うな、全面的にバックアップしろ。大体監督役の言峰璃正は遠坂の後援者だろう?

 爺様が大手を振って私に手を貸したとて、問題は有るまい。まして家督を養子に奪われた無能な小娘一人には当然のことと皆目を瞑るだろうさ」

 

 爺様の老獪さならあの二人を相手取ってなお対等に立ち回るだろうし、これで乗ってくるようなら聖杯戦争参加もやぶさかではない。

 が、案の定と言うべきか、爺様は首を横に振って退出を促してきた。

 

「…………皐月は誰に似たのかのう。儂はそんなに性格歪んでおらんのじゃが」

 

 去り際爺様の投げた言葉について、後ろ手にドアを閉めてから考える。

 父か、母か。

 直ぐに結論が出た。

 

「大体間桐なんて皆どこか歪んでいるじゃないか」

 

 

 

 

 

 そんな話をした一週間ほど後だっただろうか。

 養子を迎えに行くからついて来いという爺様の言葉を、

 

「どうして私が出向かねばならない? 私を無能だと言う事にしておきたいならなおの事出向くべきではないと思うが」

 

 とすげなく切って捨て、自室で昼寝を決め込んでいた。

 実は体調が悪い。

 都合上魔術回路の補佐無くしてこの体は機能しないが、無能を装う為に魔術回路は最低調でしか回せない。

 これからずっと続くとなると辛い。無能なりの研鑽の結果として少しずつ調子を上げていくつもりだが、しばらくは学校も休まねばなるまい。

 などと、物思いに耽っているうちに浅い眠りに入っていたらしく、コンコンと部屋のドアを叩く音に目を覚ました。

 爺様はノックなどせずに勝手に入ってくるので違う。ならば件の桜だろう。

 慎二は部屋の外で姉さん姉さんとやかましいから直ぐ分かるし、父に至っては私の部屋により付こうともしないので、ともすれば私の部屋のドアがノックされたのは初めての事ではあるまいか。

 

「開いているよ」

 

 取って付けたような返事にゆっくりとドアが開いた。

 

「あの、初めまして。桜と言います」

 

 部屋の構造上ドアの方は見えないが、予想通りというところか。

 

「ああ、爺から話は聞いている。皐月だ。よろしく」

 

 ベッドから起き上がりもせず、ぞんざいな返事を返すと、おそるおそるといった風に桜はベッドの脇まで近寄ってきた。

 

「あの、寝ているところでしたか?」

「……見ての通りだ」

 

 そこで漸く私は桜を見た。少女らしい華奢な体に、艶のある黒い髪。可愛げのある顔をしているが表情は沈んでいて、その目は不安そうに私を窺っている。

 当然なのかもしれない。

 まだ親に甘えたい盛りだろうに家族と引き離されたばかりか、この家に少女が知る者は無い。ましてその不安は概ね的中するだろうから悲惨と言ってもいい。

 なにしろあの爺が手ずから調整するのだ。

 普通を知らぬ身であれば私のごとくさして苦痛も無かろうが、少女は普通を知っている。いくら魔術師の家系の出とは言え、この子は魔術師として育てられたわけではないのだろうし。

 

「…………その、お邪魔ですよね、失礼します」

「待ちなさい」

 

 慌てて退室しようとした少女を呼び止め、ベッドから起き上がる。

 

「どうあれお前は今日から間桐の人間で、私はお前の姉になった。妹など持った事はないが、姉が妹にする程度の助力はしよう。困った事があったら言いなさい。助けてやれるかは分からないが、相談には乗るから」

「…………はい、ありがとうございます」

 

 言っている意味が分かったのか、桜はぎこちなくも笑ってくれた。

 

「引き止めて悪かった。自室の整理もあるだろう。行きなさい」

「はい、皐月さん」

 

 パタンと閉まったドアを眺めながら考える。

 これから絶望を味わうだろう少女に中途半端な希望を抱かせて良かったのだろうか。

 まともに間桐の魔術を叩き込まれるならば、そう悪い事でもない。魔術師たろうとする覚悟さえあれば耐えることもできよう。

 しかし爺様の口ぶりではそうはなるまい。桜に何を求めているかは見当がつかないが、まともな魔術師にする気はなさそうだった。

 

「妹、か。分からんな」

 

 弟なら分かる。慎二とは付き合いも長いから。

 何かと纏わりついてくるアレを私は随分ぞんざいに扱っているが、決していじめたりはしていない。

 魔術師としての素養は皆無だが間桐の人間、それも長男だ。甘ったれた人間にしない為にもそれなりに厳しく接している。

 それでもなおあれが私を慕うのは、爺様への恐怖と、父が庇護者としてあまりに脆弱だからだ。

 ならば桜はどうだろう。

 ぱっと眺めただけだが、遠坂が悩むだけの素質を持っているように見えた。間桐の魔術にどれほど馴染むかは分からないが、最大限あの素養を伸ばせば魔術師として大成することは間違いない。

 とは言え今はただの小娘。爺様の前に立って意を通せるはずもなく、爺様は桜にとって恐怖の権化となるだろう。

 そしてこの家に桜の庇護者はいない。

 

「爺様次第か。廃人になるような無茶はすまいが、だからこそ生殺しだな」

 

 そして生憎当主に逆らってまで彼女を助けるほど、私は桜に思い入れがない。

 

「まあ、運が悪かったと思うほか無い。案外馴染むかもしれないし」

 

 ただ、蟲蔵に落ちると分かって娘を養子に出した時臣という男に、少しだけ興味が湧いた。

 

 

 

 

 

 適当に買って来た材料を適当に調理しただけの夕食を、無駄に広い食堂で桜と二人つついていると、爺様が食堂に顔を出した。

 余談だが、爺様は食べたり食べなかったり、或いは自室で食べたりと自分勝手なので、何か食べたければ出前を取って勝手に食ってもらう事にしている。

 

「おや、爺様。何かあったか?」

 

 萎縮している桜を横目に爺様に声を放る。

 

「桜にちと話があってのう。まだ飯であったか」

「茶ぐらい淹れるから座って待っていろ」

 

 いいつつ席を立って茶を淹れる。

 

「そうしようかのう────のう、桜よ。この家には慣れたか?」

「あ、えっと……」

「来て一日で慣れる訳がないだろう」

 

 言葉に詰まる桜に代わり言うと、すみませんと桜が頭を下げた。随分と参っているのかそれともこの子の素なのか。あまり気の強い方ではなさそうだ。

 

「カカカ、よいよい。間桐の魔術の修行に入れば嫌でもこの家の空気に馴染むことになる。話とはそれよ」

 

 淹れてやった茶をずず、と啜りながら爺様は喋り続ける。

 

「間桐の魔術と遠坂の魔術は全く別の系統でな、まずは桜に間桐の魔術に慣れてもらわねばならぬ。間桐の後継となる以上、桜には覚えてもらわねばならぬ事も多く、あまりゆっくりとはしておれんのだ」

「話が長いぞ爺様。要は今日から修行を始めるというだけの話だろう?」

「混ぜっ返すでない。時臣は桜を魔術師として育てておらなんだ。ならば詳しく話しておくに越した事はなかろう?」

「なるほどな。じゃあ私はしばらく蟲倉を使えないわけか」

 

 面倒な事だ。あれは所詮爺様の工房ではあるが、私の研究にとっても必要な場所なのだ。

 

「悪いがそういうことじゃな。なに、桜の素養を考えれば長くて三日というところか。そういうわけじゃから桜にはそれまで外出を控えてもらわねばならん」

 

 爺様の眼が可否を問うように桜を見た。

 なるほど、爺様は三日で桜を従順な羊に仕上げるつもりらしい。爺様の手管を鑑みれば妥当とも言える期間だが、『修行』は相当ハードになりそうだ。

 

「無論、それさえ済めば後は普段の生活をしながらゆっくりと修行は進める。三日だけ我慢してくれんかのう?」

「わかり、ました」

「桜は良い子じゃのう────さて、食事も終わったようじゃな。桜、ついて来なさい」

 

 爺様の後をついて歩く桜の背を眺めつつ、食器を片付ける。

 

「爺様」

「なんじゃ、皐月?」

 

 意外そうに爺様が振り向いた。私も特に考えがあったわけではない。

 

「せっかくできた妹だ。あまりいじめるなよ?」

 

 だから口を突いて出る言葉をそのままに告げる。

 

「……カカカ、分かっておる。いじめたりはせぬ。まあ、魔術の修練はそれなりに厳しい。それはどんな魔術とて同じ事よ」

 

 そうならない事など分かっていたが、それでもそうなら良いと思っている自分に驚いた。

 

「それだけか?」

「ああ。二人ともおやすみ」

「うむ」「おやすみなさい」

 

 今度こそ二人を見送り、台所へと向かう。

 なんて事の無い重さの食器が今はひどい枷になる。ゆっくりと気を配りながら私は膳を下げた。

 普段より幾分重たい体で食器を洗っていると、桜の悲鳴が聞こえた気がした。




全文一括を前提に書いているので変なとこで切れちゃいますがあしからず。

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