それから更に一年が過ぎた。私はと言えば桜に魔術師としての基礎を教え続けた。
例えばこの一年、爺様が地下で叔父が教えてきた蟲の使役は実のところ使い魔を用いる魔術の延長に過ぎない。
聖杯戦争のマスターとして急造される以上一点特化になるのは仕方のない事だが、叔父と違い桜には時間がある。
使い魔に造詣の深い間桐ではあるが、その本質は吸収にある。
その特性を活かす形になることが望ましいが、その道を選ぶのは私ではなく桜だ。
魔術師にしてやるという約束の手前、私は魔術を学ぶ上での基礎、つまり爺様が面倒臭がって教えない知識を書籍から得るために必要な知識を桜に与えたのだ。
現代でも用いられる英語、書籍数が多いラテン語、そして間桐、つまりゾォルケンの書籍を解する為のロシア語。
いずれの言語も書籍自体が書かれた時代とは少々形を変えているが、一通り学んでおけば読めなくもない。
読めさえすればいいのでハードルは低いと言える。
幸いというべきか、桜は熱心に学んだ。魔術を身に刻む前提となる教養は修了したと言える。
間桐の魔術系統は少々複雑だ。爺様から手ほどきは受けたものの、どちらかと言うと風土呪術に近いものがある。間桐が日本に本拠を変えて衰退しだしたのも、その普遍性が機能しなくなった事に起因するのではないかと最近は思っている。
桜の才を活かすならカバラやルーン、アストロロジーなど強固な魔術基盤を借り受ける事も考えておいた方がいい。
早い段階で起源を自覚してしまった私とは異なり、桜には広い選択肢がある。架空元素・虚と間桐の吸収。ちょっと考えただけでも研究しがいのある方向性が思い浮かぶ。
「…………さん、姉さんって」
「ああ、済まない。ぼうっとしていた」
少し不機嫌そうな様子を見れば、桜は随分前から私に呼びかけていたのだと察しがつく。
ノックの音にも気づかないほど深く潜っていたようだ。
「見ればわかります。お爺様が今日雁夜おじさんにサーヴァントを召喚させると。姉さんに言っておけとのことでしたから」
「そうか。私は叔父を侮っていたな。よもや本当に一年で令呪を得るとは」
間桐に優先的に与えられる令呪を得ただけの事、といえばそれまでだが、聖杯を望む意志だけでは足りない。
少なくとも聖杯に魔術師として認知されるだけの技量は修めたのだろう。
「…………だいぶ、無残な姿になってしまいましたけど」
「お前を思ってのことだろう?」
「どうでしょうか」
桜はすこしずつ可愛げが無くなってきた。可愛いだけで生きていける世界に居ないのだから悪いことではないが、からかっても面白く無い。
そんなことを考えて、面白いかどうかを気にする自分の思考に驚いた。
「何がおかしいんです?」
「いや、お前も間桐の女になりつつ有るなと思っただけだ。間接的であったにしろ、お前のため、であることには違いないだろう?」
「それは、分かりますけど」
間桐の女、というフレーズが不本意だったらしい。
私とて不本意に思うが、本当のことだ。
「前に言った通りだ。少なくともお前が感謝している振りをしておけば叔父は喜ぶ。どうせ勝ち残れはしないが、救おうとしたお前に嘲笑われては哀れだよ」
「嘘でも嬉しいものでしょうか?」
「嘘だと気づかなければな。稀に嘘だと分っても喜べる嘘というのもあるらしいが、この場合はどうだろうか」
言外にうまく騙せと伝え、開きっぱなしにしていた魔術書を閉じる。
「…………今度は何に手を出したんですか、姉さん?」
「ただの復習だよ。マナの変換効率を間桐の吸収で高められないかと思ってね。相性のいい魔術基盤を用いて儀式魔術化、テンカウントを礼装で短縮しつつ、ついでにオドへ変換して貯蓄するコンデンサの役割を持たせようか、ってとこだ」
限定礼装として成立させるためにクリアしなければならない課題は多いが、起源に縛られる私は工程が複雑化した魔術の行使に難がある。
間桐の魔術すら完全に修めていない以上儀式魔術に手を出すのはまだ先の事だが、今のうちから補助の手段を検討しておく必要はあるだろう。
魔術師としても礼装の充実には腐心しているのだ。
「…………それって魔術の探求っていうより戦闘魔術向きですよね?」
「そりゃそうだろう。雁夜さんが失敗するのは不可避だ。次の聖杯戦争に出るのは私か桜の子か孫だぞ。その子のためにも足しになる研究だ」
もちろん建前だ。実のところ対爺様の武装だったりする。いい加減魔術刻印が欲しくて仕方ない。いちいち魔術を一から構築する手間は、私の研究を確実に遅らせている。
「────姉さんは聖杯に興味が無いと思っていました」
心底驚いた、という顔をする桜。教えた手管を私に向けるのは想定内だったが、実にめんどくさい。
「それは何か? 真意を教えろと言うのか? 聞かせてやってもいいが、心労が増すだけだぞ?」
好意的な姉と意地悪な爺様の板挟みなど、めんどうな事を望みはすまい。
「…………ずるいなぁ、姉さんは」
「ずるくはない。私とてお前の内心は知らんからな。いまいち従順ではない私よりお前を爺様が可愛がりだすのは時間の問題だし、お前の目的が間桐の根絶であるならば、御しやすい私をどうこうするのが先だ。或いは爺様をけしかけて互いに消耗させてもいい」
「そんなこと考えてません」
桜はむくれてみせたが、こんな顔をするようになったのもつい最近の事だ。
「私ならそうする、というだけの話だ。まだ今の状況に不満があるのならな?」
意趣返しも込めて矛先を向ける。
どちらにせよ近いうちに確認しておかねばならないと思っていた。此処から先の研鑽は真実痛みが伴う。
「…………最近は魔術師であることも、そのための苦労も嫌じゃないんです。でも、それを肯定してしまうと、お父様────時臣さんの考えを認めてしまうようで」
「魔術師にもいろいろいる。桜は子を蟲蔵に放り込むような魔術師になりたいのか?」
「だって、必要なんでしょう?」
そうでなければならない、無意味だったなら無駄に辛く、痛い思いをした事になってしまう。
受けた苦しみが摂理ではなく不条理だったなんて耐えられない、と。
そんな悲壮な声だ。
「効率は悪くない。必要とあれば私は躊躇しない。が、それは本人の意志がなくては意味が無い。これも昔言った事だ。嫌々では身に付かない」
そんなものを育てる暇があったら他所から優秀な養子でも取った方が早いというのが私の考えだ。
「まあ、桜も気づいてはいるだろうが、あの蟲風呂とでもいうあれは、爺様の延命が第一目的だ。強く接触することでその本質を理解し、パスを作成する上で悪い手ではないがな。今現在、間桐の魔術とは間桐臓硯を指すんだよ」
「────姉さんはそれでいいんですか?」
「いいも悪いもない、間桐とはそういうものだ。ただ、間桐の魔術師として、爺様の摩耗とともに、その秘奥が失われていくのは我慢ならない」
それは連綿と間桐がゾォルケンであった頃から受け継がれてきた物だ。それらに進展を加え次代に残すのが魔術師の責務であり、欠くなどとはあってはならないことだ。
「お爺様を、殺めると?」
絞りだすような声。口にするだけでも恐ろしいのだろう。
「それは最終手段だな。私は正規の手続きで爺様から間桐の全てを譲り受けたいと思っている。桜、お前には嫌いな妖怪かもしれんが、私は師として、祖父代わりとして間桐臓硯の事を気に入っているのだ」
おかしいか、と問うとわかりません、と桜は答えた。
おかしいし分からないに決っている。私とていまいち納得がいかない。
今でこそ爺様は私の自由意志を認めてくれているが、随分とひどいことをされてきた。当時はそれがひどいことであるなんて知識はなかったけれど。
「爺様の願いが最初から自身の延命であったはずがない。何かを成すために長命を求めたというのなら、それは次に託すべき命題だ。いつまでも一人で背負う物じゃない」
それを預けるにはまだ私が未熟だというのであればさらなる研鑽を積もう。だが、その判断さえ付かぬほどに摩耗しているのなら。
「まあ、そんな話はいいか。爺様からも言われたと思うが、これからこの街は戦場になる。基本は夜中だけの争いとはいえ、昼間とて安心は出来ないし、何よりこの家からマスターが出た以上、場合によっては敵が乗り込んでくる事もある。できる用心もそうないが、私の目の届く所にいるように」
妹一人守れるぐらいの器量は持ち合わせている。
まあそのサーヴァントとかいうのがどの程度ぶっ飛んでいるかは知らないが。
「はい。わかりました姉さん」
「うん。じゃあ今日は遅いからもう寝なさい」
退出した桜を見送り、スタンドの明かりを消した。
今日も随分夜更かししてしまった。早く寝ないと明日が辛い。
ベッドに転がりながら聖杯なんてもののために命を投げ出すことを選んだ者たちの事を思う。
「物好きなことだ。蛾じゃないんだから火に飛び込む事もあるまいに」
陳腐な感想しか出てこない自分にも呆れつつ、ゆっくりと意識はまどろみに落ちていった。
その日も特に変わったことはなかった。
先日未遠川に現れたという怪獣以外は私の興味を引くものが無い。
子供ばかりさらっている殺人鬼だとか、港を誰かがふっ飛ばしただとか、ホテルが根こそぎ崩れ落ちたとかいろいろ耳にはしているものの、私の周囲には何一つ影響しないものばかりだった。
叔父は日が落ちるとともに出かけていくし、爺様も何か思うところがあるのか家に居ない事が多く、この家には桜と私しかいない。
魔術師の家に単身乗り込んでくる愚か者などいないだろうが、念の為に探知結界を常に励起させ、桜も私の部屋に置いていた。
「姉さん、まだ起きてますか?」
くぐもった声が私のベッドから聞こえてくる。私はと言えばソファの上に寝そべっていた。
「ああ。眠れないのか?」
「姉さんだって起きてるじゃないですか」
「違いない。いや、この馬鹿げた戦争のことを考えていた」
不遜な物言いに慌てる様子が手に取るようにわかる。桜は爺様に聞かれることを恐れているのだろうが、聞かれて困るような話ではない。
むしろ私がそう思っていることは知っておいてもらわなければ困る。
「馬鹿げた、ですか?」
「私はそう思っているというだけのことだ。身の丈以上の物を求める者には縋らずには居られない物なのかもしれないが。桜は何か聖杯に願ってみたいものでもあるか?」
訊くまでもないことだ。
「それは…………」
「言わなくていい。わかるから。ただ私にはそういう願いがないから馬鹿げて見える。それだけの話だ」
それっきり私は黙って目を閉じた。
気配を察したのか、桜もそれ以上口を開かず、しばらくすると穏やかな寝息を立て始めた。
じくじくとした回路の疼きで目が覚めた。
目を閉じてから二三時間ほどたっているだろうか。
「どんな馬鹿だ、いったい」
体内に飼っている刻印虫が、探知結界を抜け屋内に踏み込んだ者の存在を教えている。
通常魔術師の家ともなれば多数の結界で魔的に守られているのだが、間桐の屋敷における結界は基本的に地下の工房と爺様の部屋に集中している。
ほとんど無防備といってもいい。私の組んだ結界も言ってみれば従えている蟲を監視カメラ代わりに使っているような物で、さほど高度な物ではない。
起き上がりながらベッドに視線をやる。桜が起きた様子はない。
「ならば構わんか。
──────蟲毒の壷で我は謳う──────」
自己に埋没する暗示を受けて魔術回路が高速で回転する。久々の本調子に体がざわめいているのを感じる。
音を立てずに部屋を出て、蟲共に従うまま足を進めると、父の書斎の扉が開いていた。
ロングコートの男。歳は父と同じぐらいだろうか。
「当家に何か御用でしょうか?」
とりあえず、とばかりに声を放る。
男は機敏な動きでこちらに向き直った。
用がなければこんな幽霊屋敷に踏み込んでは来るまい。深夜、それも片手に銃器をぶら下げている男に対して言う台詞ではないなと、言ってから自分でおかしく思った。
「君は…………いや」
一瞬男は困惑したような顔を作ったが、すぐさま無表情に戻り、銃口を私に向けた。
「アイリスフィールはどこだ?」
質問の意味が分からない。アイリスフィールとはなんだろうか。固有名詞のようだが。
響きは西洋風で、目の前の男がそれで通じると考えているとなると、
「それはアインツベルンのマスターでしょうか?」
当たりらしい。が、望んだ返答ではなかったのだろう。男の顔が渋くなる。
「質問を変えよう。間桐のマスターの居場所を知りたい。答えろ」
先ほどよりも不躾な質問だが、内容自体はわかりやすい。予想通りこの男は聖杯戦争のマスターなのだろう。
「生憎ですが、存じ上げません」
銃声。耳元を何かが掠めていったのを遅れて察する。
「悪いが僕は急いでいる。時間稼ぎに付き合う暇はない」
「…………叔父と当主は不仲です。当主ですら叔父の行き先など知らないでしょう。今、屋敷にいる様子もありません」
いや、爺様ならきっと知ってはいるのだろうが、爺様自体今家に居ないのだからどうしようもない。
むしろ銃弾とともに散った数条の髪の方がいくらか気になった。
「一発目はただの脅しだ。次は膝か肩を撃つ」
冷えきった声。
新たな銃弾がその銃身に飲み込まれていく。
このような男ばかりが聖杯戦争のマスターなら万に一つも叔父の勝ち目はあるまい。
「警告有難うございます。ですが望まれた情報はお伝えしましたし、これ以上危害を加えられるようなら自衛しなければなりません」
ざざ、と蟲達が集まってくるのを感じる。
私は指示を与えていない。大方餌を取られては困るという本能だろう。
「やめておけ。君に僕をどうこう出来るとは思えない」
「これは私の意志ではありません。もっとも、自衛する旨はお伝えしたはずです」
銃声。
大きくバランスを崩した私は前のめりに倒れ、立ち上がろうとして失敗する。
左肘から先が無かった。
「驚きました。あまり痛くないのですね」
流れ出る血液が意識を漂白する。
ここからの私は生存本能に従って動く機械だ。
魔術回路が生成する魔力量を跳ね上げる。蟲達は命令ではなく、自発的にその姿を失い、私の傷に群がる。
私の肉体へ接続し、同化。自らの性質を消失してまで私を活かさんと欲するその様は、群体として人などより余程に完成されている。
その間にも私の楯になるように、ホバリングする翅刃虫の群れを前にして男は銃を構えたまま考えている。
歪な腕を引き摺って立ち上がった私と、銃を構えたままの男の視線が交錯した。
人としては既に死に体の私だが、生き物としては目の前の男より強いと自負していた。なにしろこんなにも生きたいのだから。
間を置かず男はす、と身を引いた。
「知りたい情報を得られないのならこれ以上留まるメリットはない。失礼する」
肩透かしだとは思わなかった。男の言葉は事実だろう。
「ええ、もう会うことはないでしょうけど」
男の気配が家から消えるのを待って息を吐き、蟲を下がらせ父の机に寄りかかる。
振り返ってみれば壁に大きな穴が一つ、そして床に打ち捨てられた私の左腕。
「恐ろしいな、全く」
思わず口にした言葉は紛れもなく私の本心で、爺様の勧めに乗って聖杯戦争に参加しなかった事に私は心底安堵しつつ、その意識を手放した。
zeroじゃねえかと言われるのもここまで。
ようやくstay nightに移れる!
駆け足気味なのは許してください。