墓地はその用途にふさわしく、しめやかな静けさに包まれていた。
空気が淀んでいるということもなく、見あげれば空は晴れ渡り、通路脇に植えられた木々からは小鳥のさえずりが聞こえる。
空気さえ澄んでいるようで、私は思いの外この場所を気に入った。
「すみません姉さん、付き合わせてしまって」
墓石の前に座り込み、手を合わせていた桜が振り向く。気が済んだのだろう。
「いつものことだ、気にするな」
墓の主は間桐雁夜だ。
爺様が叔父を間桐の墓に入れるを良しとせず、また叔父とてそんなことは望んでいなかっただろうから、こうして別の墓に収まっているのは良いことだと思う。
弔花を携えて訪れる者は少ないようだが、こうして桜が荒れない程度には足繁く通い、清掃に勤しんでいた。
因みに父は酒に溺れすぎて体を壊し、既にこの世にない。
娘としては悼むべきなのだろうが、魔術師としても一人の父としてもあまり尊敬できる死に様ではない。
間桐の墓に納まって入るものの、私は一度もそこに出向いたことなど無かった。
あれからもう十年近い年月が過ぎた。
あの数日のうちに、叔父が死に、遠坂時臣が死に、聖杯戦争の関係者もそうでない者もたくさん死んだ。おまけに誰一人聖杯を手にしていないというのだからお笑いにもならない。
未だに爺様が聖杯に縋っているのが不思議に思えてくる。いや、最早別の術を見出すだけの気力が残されていないのか。
桶を片手に通路を二人歩いていると、青と碧と灰色だけの世界に異質な赤が映った。
お互いとっくに気がついていながら目と鼻の先に辿り着くまで黙っていたのは遠坂の在り方に合わせたためだ。
「あら、こんにちは間桐先輩」
「ああ。奇遇、でもないか。遠坂はお父上の墓参りか?」
荷物が似合わないごついハサミだけなところを見ると、遠坂も帰るところなのだろう。
「ええ────失礼ですが間桐のお墓はこちらではなかったように思いますが?」
目こそ私に向いているが、気は桜へと向けられている。
桜は桜で私の後ろで縮こまっているのだから、この姉妹は面白い。
「ああ。叔父はうちの墓には入らなかったのでな。桜には縁があった人だというし、こうして良く通っている。私はただの付き添いだ」
「そう、ですか」
ふと、遠坂の目が通路の先、叔父の墓へと向いた。
「そうか、遠坂も雁夜叔父とは縁があったのだな。私が言うことではないが、気が向いたら線香でもあげてやってくれ。喜ぶだろう」
「そうさせてもらいます」
「じゃあ、お先に失礼するよ。桜、行こう」
「はい、姉さん」
すれ違いざま遠坂の顔が強張ったのを私は見逃さなかった。
見ぬふりをしてして早々に墓地を出る。
「なあ桜、お前遠坂の事をどう思う?」
「…………どう、とは?」
小首をかしげている仕草には誤魔化しなど見られない。
「お前の姉だろう。私が昔言った事も含めてどう思っている、と聞いている。言いたくなければ言わなくてもいいぞ?」
「それは────」
桜のこの臆病な質だけは生来のものだったようで、あまり私好みではない。
もちろん相手の出方を予測した答えを用意するのは悪いことじゃない。器用な生き方だと思う。ただ、予測した上での答えだと相手に見抜かれては話にならないし、そもそも予測が立たず、こうしてまごついているのでは意味が無い。
「────遠坂はお前のことを気に掛けているようだ。お前が私を姉さんと呼んだ時、顔が強張っていた。まだアレはお前の姉であるつもりなのだろう」
「…………私は間桐桜です」
「知っている。が、それはお前が思っていることではなくて、ただの事実だろう。どう在りたいかを問うているのだ」
「…………どうとも思いません。ただ────たまに見せる遠坂先輩の憐れむような顔は好きじゃないです」
あれはむしろ姉として、妹がどうしているか心配している顔だと思うのだが、まあ構うまい。二人の仲を取り持ってやる義務もない。
「そうか。妙なことを聞いたな。すまん」
もとより気にしすぎるのも余計なことかもしれないが、私はこの優秀な妹を随分可愛く思っている。
慎二のようにわかりやすいひねくれ方をしていないのが面白いのだ。
「いえ────姉さんはこれからどちらに?」
「いつも通り教会だ。それがどうかしたか?」
ここ最近の私は足繁く言峰教会に通っている。
信徒と言うわけではないからあちらもあまりいい顔をしないが、最も強固な魔術基盤と言ってもいい神の教え、摂理と言う奴を知識としてでも理解しておくのは後の私の糧になる。
面と向かって秘蹟を宗教魔術呼ばわりしたことはないが、あれは信仰心を働きかけることで作用する物なので、信徒でもない私には実用は難しいと言われたし、私もそう思う。
むしろ私の関心は、神父が得手としている体術にある。
戦闘となればシングルアクションでの魔術行使に頼れる状況ばかりでもないだろう。弟子にしてくれと言ったら凄く嫌な笑顔で了承されたので、時折見てもらっている。傍目にはただの婦女暴行な修行でも少しは身についたと言えるだろう。
少なくとも痛くない殴られ方は身についた。
「わたしはあそこの神父さん苦手です」
あれが苦手でない人間などどこかおかしい。
「遠坂もそう言っていたな。私とて苦手だ」
「…………遠坂先輩も言っていたってどういうことです?」
「なんだ、私も詳しくは知らんが、綺礼は遠坂の兄弟子に当たるらしいぞ。時臣氏が健在だった頃は遠坂邸に滞在していたようだし」
桜とてそんなことは知っていそうなものだが。
「そうじゃなくて、姉さんは遠坂先輩と良く話をするんですか?」
すごい剣幕で迫られた。こういう桜はあまりみないので面白い。
「友達付き合いをしているわけじゃないが、道で会ったら挨拶ぐらいするし、お互い暇なら世間話ぐらいはするだろう? 間桐と遠坂の不可侵は魔道としての話だしな」
「それは、そうかもですが…………」
「ふむ。よく分からんが私は教会に行くぞ?」
話しているうちに坂の上への道を通り過ぎそうになっていた。
「はい。あ、そうだ。これから夕飯の材料を買いに行くんですが、なにか食べたいものありますか?」
今となっては私などより桜の方がよほど料理が上手い。良い師匠を得たのである。自然食事の担当は桜になり、私は楽をさせてもらっている。
「なんでもいい。桜の料理は旨いからな」
「…………姉さんのそういうところは兄さんに似てます」
責めるような視線に、思わず唸ってしまった。
なんでもいいというのは料理人に対しては禁句だ。
「────料理をしなくなって久しいんだ、仕方ないだろう。そうだな、よさそうなキャベツがあったらロールキャベツとかどうだ?」
手間が掛かる料理だけに、桜もあまり作らない。
「分かりました。キャベツが無かったら勝手にします」
「ああ。それじゃ、気をつけてな」
手を上げて桜に背を向ける。
「姉さんこそ気をつけてくださいね」
半ばからかうような桜の返事に思わず苦笑いしてしまう。
確かに教会から帰る度に私は青痣の数を増やしている。一度は腕を折ったこともあるので鼻で笑うわけにも行かなかった。
教会の主は元代行者、言峰綺礼。
十年前の戦いを生き延びたというだけで、評価に値する化物だ。
なんだかんだで手入れされている花壇の先に、言峰教会が建っている。立地が丘の上なので、見栄えはいい。
綺礼が花壇の世話をしているところを一度見てみたいと思っているのは私の秘密の一つだ。似合わなすぎてきっと笑える。
ぎぎ、と軋む扉を抜けると、祭壇の前で神父が膝をついていた。
「皐月か。熱心だな」
「邪魔なら待つぞ?」
「構わんさ。しかし前々から気になっていたのだが、お前はマゾの気でもあるのか? 飽きもせず殴られに来るなどまともではない。そういう性癖から私の所に来るのであれば遠慮願いたいのだが」
邪険にするのもめんどくさいと言わんばかりの顔で、綺礼は私へと向き直った。こいつの言い草は毎回こんなものだ。
「魔術師なんてどいつもこいつもマゾばかりだろう。私は打たれるのも嬲られるのも好きではないがな」
「ほう? その割には私との組手では殴られてばかりではないか」
「…………好きで殴られているわけじゃない。お前を殴ってやりたいが実力が足りないだけだ」
身長と体重、手足の長さの差は如何ともしがたく、経験量、そして才能でも私は綺礼に劣っている。
それにこの男は加減などしない。
いやこの男に加減なく殴られれば私の絶命は必至だが、小娘相手にふさわしい手加減、というのをしない。
お陰で私の体にはどこかしら必ず青痣があるのだ。
以前小娘の形をした物を打ち据えることに呵責は無いのか、と尋ねたことがある。単純な興味と言うよりも、あんまりぼこすか殴られるので嫌味を兼ねていた。
何を当たり前のことをとでも言いたげに私を見下ろし、私は代行者だぞ? と綺礼が答えてみせたのをよく覚えている。
「それは申し訳ないがな、お前を打ち据えているうちに特殊な性癖に目覚めてしまったらどう責任を取ってくれるんだ?」
「結構な事じゃないか。つまらなそうな顔をして聖書を睨んでいるよりは余程健康的だ。犯罪に走らなければな」
冗談で返したつもりだったが、殊の外綺礼は驚いた顔をした。
「それで、だな。今日は殴られに来たわけじゃないんだ」
予想しない反応に多少の気まずさを覚えながらも、私は本題を切り出した。
「と言うと?」
す、と制服の袖を捲り、腕を言峰へと向ける。
「ほう」
あまり驚いた風でもない、わざとらしい感嘆を貰った。
「良かったではないか。間桐の直系たるお前が令呪を手にすることになるのは、半ば道理だ」
意地の悪い感想が返ってきた。
「馬鹿を言え。しかし驚かないな。前回から十年しか経っていない周期外れの聖杯戦争、お前はこれを予期していたのか?」
「もちろん違う。だが、前回は誰の手にも聖杯は渡らなかった。蓄えられた魔力が消費されなかった事で何かしらの影響は出るだろうとは踏んでいた」
矛盾はない。
つついても出てくる情報は無さそうだ。袖を直しつつ、歪な蟲の形をした令呪を隠す。
「しかし桜がマスターなら或いは間桐の勝利もあっただろうが、私ではな」
「なんだ、早いギブアップに来たのか?」
「まさか。ただ、心当たりが無くてな。お前は前回の聖杯戦争に出ただろう?」
「ああ。早い段階で敗退したがな」
何かを思い出すような表情も一瞬で、綺礼はすぐに神父らしい厳粛な雰囲気を取り戻した。
私が何をしに来たか察したのだろう。
「参考にしたい。お前は何を思って聖杯戦争に参加したんだ?」
「ふむ、答えるにやぶさかではないがお前の助けにはならないだろう。何、なんのことはない。単に師を手助けさせるために我が手に令呪は現れたのだ」
「…………へえ。そうなんですか」
そんな寝言を聞きに来たわけではないのだが、言いたくないのなら無理に訊くものでもないか。
「…………信じられない、と?」
「当然だろう。遠坂は敗れたじゃないか、前回。言いたくないなら聞かない。邪魔したな綺礼」
「…………一つだけ忠告しておこう。あれは望む物無しに生き残れる戦いではなかった。早く真に欲するものを見つけておくがいい」
さっさと背を向けた私に投げられた言葉は、今にして思えば綺礼なりの手向けだったのかもしれない。
言峰と別れ、なだらかな坂を下っていると、ライダースーツの男が正面から登ってきた。この先にあるのは言峰教会だけだから男の用もそこだろう。
教会には似つかわしくない雰囲気に当てられてつい不躾な視線を送ってしまう。
「小娘、この協会に何か用か?」
当然のように気づいた男が足を止め、こちらへ向き直った。
たったこれだけの言葉に自分は偉いと意志を込められるのだから、数奇な人物だろう。
「ああ。神父には良く稽古をつけてもらっている。初対面だと思うが、貴方はこの協会の縁者か?」
「我に対して不遜な物言い、普段なら許さぬが綺礼の客ならば大目に見よう。我は昔から厄介になっているがお前に会うのは初めてだな」
男の言葉が事実なら、今まで会わなかった事が不思議でならない。
「足繁くと言うほどではないが、ここ三年はそれなりに通っている。間が悪かったようだな。間桐皐月という」
「雑種の名などどうでもよい。しかし信徒なら兎も角、稽古のために通うとはな、おもしろい」
にやりと笑うその顔はどこか人を馬鹿にしたものだったが、それが当然であるかのような振る舞いは、何故かしっくりきた。
「…………話はそれだけか?」
「ああ。言って良いぞ。今の俺は機嫌がいい。運が良かったな」
「良く分からんが失礼する────ああ、ひとつ訊いてもいいか?」
止せばいいのに振り返って男の背に声を放る。
「…………つまらぬ話なら我の怒りを買うぞ?」
不機嫌を隠しもせず、しかし男は足を止めた。
「なに、教会の花壇を手入れしている者を知りたい」
「綺礼だが、それがどうかしたか?」
つまらんことを訊くなとでも言いたげな男だが、こっちにしてみればこれほど面白いことはない。
「くくく、似合わんだろう。いや、是非その様を見てみたいと前から思っていてな。通う目的が増えた。礼を言う」
「…………なるほどな、言われて見ればあの男が花の世話などと似合わぬにも程がある。見慣れているせいか思いあたらなんだ。それではな、小娘」
あっさりと男は機嫌を良くして歩き始めた。
その背を見送ってから、私も家路へと戻る。
「意外だな。綺礼め、男色の趣味でもあるのか」
禁欲的な教会に似つかわしくない男の客。それも長く滞在しているとなれば或いは。
「いかんな、無さそうなだけに一番笑える」
愚にもつかない妄想を噛み殺し、私は再び歩き出した。
相変わらず間桐の家は湿っている。
薄暗いのでよく分からんが部屋の隅にカビが湧いていそうだ。
ひたひたと廊下を進むと居間の方から争う声が聞こえてきた。
「だから、僕が出るって言ってるだろ桜!」
「に、兄さん、でも」
いつもの事だ。何かと桜にちょっかいを出す慎二と、煮え切らない返事をする桜。いまいち噛み合っていないが、腹の底に黒いものを抱えているという意味で私には仲の良い兄妹に見える。
「なんだよ、僕じゃ不足っていうのか?」
「違います。でも、お爺様に許可を取らないと…………」
しかし爺様に裁可を仰がねばならない話となると、少し興味が出た。
慎二の背中越しに首を突っ込む。
「お前たち何の話をしている?」
「げ、姉さん」
よろめくように慎二が私から距離を取った。昔はあんなに懐いていたのに。
「げ、とはなんだ。桜が可愛いのは分かるがあんまりいじめるな。小学生かお前は」
「そ、そんなんじゃないよ。だいたい俺はこんな牛みたいな女より──」
「より?」
「ぼ、僕の女の趣味なんかどうでもいいだろう?」
慎二をからかうのは楽しい。慎二の姿は虚勢で出来ている。打てば容易くひびが入る虚勢だが、それも貫けば一つの真実だ。
歪んでいるとはいえ弟の成長を楽しむのも、その薄皮の下を覗きこむのも姉の特権だと思っている。
「ああ。だから何の話をしてたと聞いてるんだ」
「姉さんには関係無いだろ?」
「別に言わなくてもいいぞ? 桜から聞くから────桜、慎二に何を強請られたんだ?」
「え、えっと」
ちらちらと慎二を盗み見る桜と、言うなよと表情で訴える慎二。
「言い難いことをされそうになったのか? 仕方がない、間桐の男は皆ちょっとおかしいからな。度が過ぎるようなら言いなさい。私が去勢してやる」
桜をあやすように抱きしめながら、汚いものを見るような目で慎二を睨む。
「そそそそんなんじゃないって、姉さんが言うと洒落になんないだろ!」
「もちろん冗談じゃない。だが、私も勘違いで間桐の種を枯らしては爺様に顔向けが出来ない。本当の所を聞きたいが」
「…………っち、爺様から聖杯戦争が起きるって聞いたからな。マスターとして出たいと思ったんだ。十中八九うちのマスターは桜だろ? だから、そうなったらサーヴァントを貸せって────」
「────く、ははは、本気か慎二?」
腹が痛い。私は少しも慎二の事を理解していなかったようだ。
慎二が望む程度の物は爺様に頭ひとつ下げるだけで手に入るだろうに。
「…………そうやって笑うから姉さんには話したくなかったんだ」
拗ねてしまった。今のは私が悪いので頭を下げる。
「いや、すまん。しかしお前にそれほど望むものがあるとは知らなかった。後学のために知っておきたいが、何が目当てなんだ?」
「それは、その」
「…………もしかして、遠坂先輩と────」
桜がおずおずと口に出したそれは私も噂に聞いている。
「余計なことを言うな!」
この反応、どうやら図星らしい。
「それは私も聞いたな。遠坂に振られたんだったか」
「ち、違う。僕はただちょっとからかっただけなのに、あいつが本気にしただけだ」
その言い訳は苦しいが、しかし。
「で、目的は?」
「…………目的って?」
不思議そうにこっちを見返す慎二。いまいち反応が鈍い。
「遠坂に振られた話が原因なら、聖杯戦争で遠坂を見返したいとか、いっそ聖杯に遠坂が自分のものになるように願うとか、そんなとこだろう。どっちなんだ?」
慎二は目を剥き、桜は体を竦ませた。
「…………姉さんはこれだから怖い。いくら僕でも聖杯で遠坂を自分の物にするなんて悪どい事は思いつかないよ」
となると前者か。
「見返すってことはつまり、えっと、いいとこを見せたいって事か? それとも遠坂を倒すところまで行くのか?」
「それは…………後者っていいたいけど、僕は馬鹿じゃない」
堪えるようにそう吐き出した慎二の頭を撫で回す。
小狡さでもあるが、分を知るのは大切なことだ。
まあ、見栄を張るために命を危険に晒すのは戴けないが、それぐらいの意地がなければ行く末は父のような逃亡者だ。
叔父のように暴走しない程度の無謀さであれば、男なら必要な物かもしれない。
「知ってるよ。が、天才でもないことを自覚しておけ────ま、万が一私が聖杯戦争に出ることになったら暫くサーヴァントは貸してやる」
喜びと疑いの色が慎二に浮かぶ。
「桜が出るなら間桐の本願を掛ける戦いだ。お前の私事に構えはしないが、私が出るのなら爺様は今回を捨て様子見に徹するだろう。ならば、そのくらいの好き勝手は見逃してくれそうだ」
「…………桜だったら諦めろってこと?」
不満気ではあるが、それ以上は私の判断では難しい。
「当然だ。爺様相手に直談判してみるか?」
「…………やめとくよ。でも今の約束だからな?」
どうなるかは想像に容易かったらしい。
「ああ。だが、止めてもいいぞ? なにせ命が掛かっている。前回の聖杯戦争で生き残ったマスターはわずかに三人。私はその内の一人に対面したことがあるが、身を守る術すらないお前がああいう輩と相対したら死は免れない。可愛い弟の死なんぞ見たくない」
嘘偽り無い言葉だったのだが、慎二は今から楽しみでしょうがないという顔のまま出かけていった。
聞こえていても頭に入ってはいるまい。
「あの、良かったんですか姉さん?」
心配そうな桜の顔は勝手に慎二と約束してしまった事に対する心配だろう。
「ん? 構わんだろ。令呪はもう桜に出てるんだから」
「…………知ってたんですか」
「爺様が悪そうな顔をしていたからな。今から策を色々練っているんだろう」
それでも桜の表情は暗い。
「衛宮が気になるか?」
「────」
桜の気配が一変する。ゆら、と周囲の影が蠢いた。
魔術師として既に桜は一人前だ。爺様でさえ桜が望まぬ修練は出来ない程に。
「怖い顔をするな。魔術師だと知られたくない、というのは私にはよく分からんがな。衛宮も魔術師なのだろう?」
「はい。ですが、その────」
「三流か。子を残す相手としては不足だろうが、それが気になるというわけではなかろう?」
爺様の命もあり、桜は暫くの間衛宮邸に出入りしている。料理の師匠もその衛宮だ。
それからというもの桜は少しだけ活発になった。単純に好意があっての事だろう。
「…………わたしの初めては蟲ですよ?」
儚げな笑いとはこういう物だろうか。
「私とてそうだが? なんだ気が引けるか?」
桜は小さく頷いた。
分からんでもないが、いや、やはり分からん。
「衛宮はお前が来るのを嫌がるわけじゃあるまい。それなりに好意を抱いているから熱心に料理を教える。ただの後輩への態度じゃないぞ」
「でも、先輩は優しいですから」
「それも噂に聞いている。お前は相手の気持ちを無視しすぎだ。勝手に好きになられて勝手に諦められては衛宮が哀れだな。学内でもお前は遠坂と人気を二分する美人だぞ?」
「ね、姉さんだってその────」
言いにくそうに桜が声を潜めた。一年の頃しつこく言い寄ってきた上級生に言峰直伝の鉄山靠を見舞って以降三年間、私の周りに男っ気はない。
肩を抱こうとした男がそのまま崩折れて救急車で運ばれたとなれば、当然の事だ。
「世辞はいい。で、どうなんだ?」
「で、でも、先輩の趣味は────」
「なんだ、衛宮は小児性愛者か?」
めんどくさくなってきた。叶わぬ夢なら見たくない、というところだろうか。そのくせ諦めきれていないから質が悪い。
「…………知りません」
「じゃあ知る努力をしろ。本当に好きなら虜にして飼い殺すぐらいの気概を見せろ」
半ば本気だ。実際桜の恋はそれぐらい厳しい。
爺様が存命である以上、それは爺様によって決められることだからだ。
「そ、それはちょっと」
「だが、先ほど衛宮のことを口にした時、私は殺されるかと思ったがな」
「それは、つい」
つい、で殺されては敵わないのだが。
「あまり真に受けなくてもいい。私とて恋愛経験など無いからな。あまり思いつめるなと言いたかった」
言うだけ言って私は廊下へと引き返す。
「姉さん、どちらに?」
「爺様にちょっとな」
関わるつもりは無かったが、この手に令呪が浮かんだ以上、私も無関係とは行くまい。
面倒だとは思いつつも私は爺様の書斎へ足を進めた。
特には。