ノース・ヴァストに謎の剣豪がいるという噂を聞いた一行が、登山したり問答したり斬り合ったりする話。グラン×ナルメア的な話です。
全編の六割がバトルシーンになりました。ひどい。そして三割くらいジジイファンタジーです。もっとひどい。
拙作『胡蝶の夢に浸る』(https://syosetu.org/novel/181435/1.html)のほんのり続き想定ですが、別に前を読まなくても大丈夫な感じになってます。今回はエロ抜きでごめんなさい。
話の都合で割と強めのオリキャラも出てます。時系列はナルメアさんの最終フェイトエピソード前、ついでに言えばバレンタイン前。
「あのアビリティはこんな原理なのかな」的な描写をしたかっただけという気もします。あとおじいちゃん達のすごいところが書きたかった。おかげで前作以上にごちゃっとした話になってしまっているような……。
まあそんな感じですが、それなりに読める内容にはなってる……といいなあ。
■壱 ノース・ヴァストの剣豪
「……エオニオ山脈に、すごく強い剣士がいる?」
僕がその話を聞いたのは、アレーティアさんとヨダルラーハさんに軽い稽古をつけてもらった後、揃って艇内でお茶を飲んでる時だった。
ふらっと現れたナルメアさんが僕達に手作りのお菓子を振る舞いながら、先日寄った街で耳にしたという噂を語ってくれた。
ノース・ヴァスト。
ファータ・グランデの端、他空域を跨いで存在する島だ。
年中雪が降り続く寒冷地で、その過酷な環境から島全体を統治する国がいない。長らく未開の地だったけど、最近になっていろんな国や団体、行き場を失くした無法者の集団が、土地や資源を巡って人を送り込み、各所で小競り合いをしているらしい。
僕達も以前、星晶獣を巡る騒動やマツヴァガニ漁のために何度か行ったことがあるけど、確かにとても厳しい場所だと思う。
そんな極寒の島で、あまり目立たないながら、あるひとつの噂が広まっているんだという。
例えば、雪山で遭難した人が、目覚めるといつの間にか港近くまで送り届けられていた。
小国の軍隊同士が衝突したところに横から乱入し、双方を壊滅させて去っていった。
様々な目撃情報がぽつぽつと出てきて、痛い目を見た国なんかは賞金を懸けたりもしてるそうだけど、未だにその正体も定かじゃない。話に聞く外見の特徴もバラバラで、笠を被っていた、いや被り物の類はなかった、白いひげを蓄えた相当な年寄りだった、いや初老で細身だった、がっちり筋肉質だった、人種はヒューマン、いやドラフだエルーンだ、ハーヴィンだったような……みたいに、まるで一貫性がない。
共通してるのは、剣のような武器を使うこと。
神出鬼没で、恐ろしく強いこと。
そのうちノース・ヴァストから外の島へ行った人達が、口に上らせるようになった。
雪山に隠れ住む謎の人物。エオニオ山脈の老剣豪――と。
「うん。やられた軍の人も、何をされたのかわからなかった、とか」
「なんか話だけ聞いてると通り魔みたいな奴だな……」
「でもナルメアさん、その人は相手を無闇に傷つけたりはしてないんですよね?」
「あくまで噂だけどね。誰にも気づかれずに指揮官だけ気絶させたり、そんな風にして追い返してたらしいの」
「優しい人……なんでしょうか」
頬張ったお菓子をよく噛んで飲み込んでから、ルリアが呟く。
気配を消すのが上手いのか、とにかく相当な実力者だとは思うけど、さすがに噂だけだとどんな人物か判断するのは難しそうだ。
「ふむ。そいつはちと気になるのう」
「噂の内容がですか?」
「当の剣豪じゃよ。話の全てを鵜呑みにすることもないが、恐ろしい手練れであるのは確かじゃろう」
そう考えたからこそ、この話を持ってきたんじゃないかと。
アレーティアさんの目が、ナルメアさんに訴えかける。
ルリアにあーんを敢行していた彼女は、手元のお菓子を食べさせ終えてから控えめに頷いた。
「そこのジジイはどうじゃ?」
「お前さんもジジイじゃろ。ま、ワシとしても、剣豪とまで呼ばれる者が本当におるのなら、その顔を見てみたくはある。筆頭弟子に関わりのある者かどうかも、念のために確認しておきたいしの」
不意に話を振られたヨダルラーハさんもそう言ってから、ずず、とお茶を啜った。
僕は右手のコップをテーブルに置き、ナルメアさんへと問いかけてみる。
「ナルメアさんも気になるんですか?」
「……その話を街で聞いた時にね。もしかしたら、あの十天衆に迫る強さかもしれない、って、そんな風に言ってて」
「それは……」
「蝶の姉ちゃん的には禁句だよなあ……」
「だからね、うん……私、確かめに行ってみたい」
十天衆、オクトーの名前に過剰なほど反応してしまうのは、ナルメアさんの癖みたいなものだ。
放っておけば一人でも行きそうな危うさは未だにある。それでも確認してくれるだけ冷静な方だろう。僕としても、なるべくナルメアさんの気持ちには応えたい。
何より、ここにいる三人――ナルメアさん、アレーティアさん、ヨダルラーハさんは、団内でも指折りの剣士だ。
三人に並ぶような実力の持ち主が果たして実在するのか、僕自身かなり気になっている。
少し考える。団の状況、メンバーの居場所と予定。
頭の中で往復するのにかかる時間を想定して、立ち上がる。
「とりあえず、何日か空けてもいいか、みんなに聞いてきましょうか」
○
そうして万全に装備を整え、僕達は朝方ノース・ヴァストの港まで来ていた。
もちろんちゃんと団のメンバーに話は通してある。元々常駐している人はさほど多くないし、今回はラカム達が残ってくれている。カタリナさんはルリアを心配してついていこうとしてたけど、つい先日までヴィーラの依頼でアルビオン軍学校での剣術指南をこなしたばかりだし、ナルメアさん達もいるから大丈夫ですよ、とルリアが固辞した。断られた当人はちょっと凹んでた。
まあでも、ただでさえ疲れを顔に出さないというか、無理をしがちなタイプだから、休んでもらうにはちょうどいい機会だと思う。
僕らを送り届けたグランサイファーが次にここを訪れるのは三日後だ。それまでに探し人が見つからなかったら潔く諦める。手がかりは少ないし、徒労になる可能性も考慮しておかなきゃいけない。
港といっても小規模なもので、飛空艇の発着場と管制塔、あとは倉庫らしき建物や軍の拠点跡が散らばってるくらいだ。食糧が補給できるお店もあるものの、だいたいびっくりするほど高い。もっとも数日分の備えは持ってきたから、何も買い揃える必要はないんだけど。
ともあれ到着してからまずは一旦手分けして、件の剣豪について話を集めてみる。
お店の人や物好きな登山者の人なんかに聞いてみたけど、あんまりめぼしい情報は得られなかった。
一応追加で判明したのはふたつ。
剣豪らしき人物の発見報告は、エオニオ山脈の中腹辺りが特に多いこと。
以前助けられた人は、噂の剣豪を一目見ればわかると言っていたらしいこと。
あの雪山に挑むにはまだまだ心許ない手がかりだけど、聞き込みはこのくらいが限界だろう。
全員集合して、出発。
白風の境、グリーフランドと呼ばれる広大な雪原を歩き始める。
「ノース・ヴァストはファータ・グランデでも一番過酷な島だっていうけど……この辺りは随分穏やかなのね」
ナルメアさんが呟いたように、今のところは魔物の襲撃もなく順調な道行きだ。
港を発ってからしばらく、既に背後の地平線まで真っ白。全周どこを見渡しても白一面で、遠くに目的の山々が辛うじて浮かび上がっているくらい。人の通った道……行軍なら踏み固められた雪だったり、乗り物なら轍やソリの跡が残っていればよかったけど、何度も降って積もった雪に覆われてしまったのか、そういったものはどこにも見当たらなかった。
「最初に来た時は、すごく広いなーってちょっと感動したのを思い出しました」
「オイラからすりゃ広過ぎてくらくらしそうだけどな。爺さん二人は初めてか?」
「うむ。しかしさすがに、老体にこの寒さは堪えるわい。少なくとも旅行気分で来るところではないのう」
「お前さんはまだマシじゃろうに。ワシなんて雪に埋もれたらそのまま凍死するぞ」
冗談めかしてヨダルラーハさんは言うけど、ハーヴィンの身長だと実際かなり怖いだろう。
足首ほどまである雪を、一歩一歩膝を大きく上げるようにして踏みしめる。そうしないと爪先から足首に雪の重みが強く来るし、結果的に無駄な体力を消費してしまう。何故かヨダルラーハさんだけはほとんど雪に沈まずひょいひょい跳ぶように歩いてるけど、いったいどうやってるんだろうか。
「グラン、気になるならあやつの着地跡と、属性力の流れを意識してみると良いぞい」
疑問混じりの僕の視線に、当人ではなくアレーティアさんが反応した。
横で聞いていたナルメアさんも一緒に、わざとらしく前に出たヨダルラーハさんの足を注視してみる。
小さな足が沈みかけた瞬間、周囲の雪の質感が変わったことに気づいた。属性力にピントを合わせた目が、微かな青色――水属性の発露を捉える。
「……足裏で、着地点だけを凍らせてるんですか?」
「その解答だと、ほっ、まあ六十点ってところじゃな。隣の娘っ子はどう見る?」
「着地の際、雪面に対して少し斜めに足を入れてる。体重が垂直にかからないようにするため……重心を細かく調整してるのね」
問われたナルメアさんの言葉に、ヨダルラーハさんはにぃ、と笑う。
なるほど言われてみれば、点々とつけられた足跡はどれも微妙に傾いた形で薄く凍っている。真っ直ぐ足を落とすより、そうした方が沈みにくいわけだ。
とはいえ、軽々と跳び上がれるのはハーヴィンの身軽さあってだろう。仮に僕が真似しようとしても難しいと思う。
足裏から着地点を凍らせるのだって、言うほど簡単な話じゃない。相当繊細な属性力の操作と調整が必要だからだ。
「あまりはしゃぐんじゃないぞジジイ。後でへばっても知らんからな」
「この程度で疲れるほど柔な鍛え方はしとらんわ。お前さんこそ寄る年波には勝てんわいー、とか言って途中で脱落しても骨は拾ってやらんぞ」
先行していたヨダルラーハさんが、僕の後ろについていたアレーティアさんのところまで下がって言い合いを始めた。
そんな二人に、景色を楽しんでてちょっと遅れてたルリアが追いついてから、ふと尋ねる。
「あの……前からちょっと気になってたんですけど、アレーティアさんとヨダルラーハさん、昔からの知り合いだったりするんですか?」
「知り合いと言えば知り合いじゃな。最初に会ったのはいつだったかの」
「だいたい四十年くらい前じゃろ。ルリアよ、こやつ、昔は強者と見るや所構わず勝負を挑むヤンチャをしとってな。ワシも人気のない道でいきなり挑まれた口よ。ほとんど通り魔じゃったろあれ」
「お主も喜々として受けて立ったじゃろうに。まあ、あの頃は独り身じゃったし、若かったからのう」
「うわぁ……なんつーか、そんなひとことで片づけていいもんなのか?」
「老いるというのはそういうことじゃよ。良くも悪くも、時は人を変える」
「きっちっち! ビィにはまだ早いかもしれんな」
「トカゲじゃからなあ」
「オイラはトカゲじゃねぇ!」
淡々と歩き続けてると時間の感覚を忘れそうになるけど、決まり文句みたいなビィの叫びに、僕達の気持ちは少し楽になる。
その後も程々に雑談を挟みつつ、途中深い雪を歩き飽きたアレーティアさんが一閃で文字通り道を作り出したりもして、どうにか昼頃にはグリーフランドを抜けた。
平坦な雪原から山に近づくと、周囲に起伏が目立ってくる。同時に、凍えるような寒さの中でも育つ草木がちらほら見つかるようになる。
木々があれば風や雪を遮ってくれるので、この辺りまで来るとだいぶ地面の積雪は減る。一方、植物があるということは、ほとんど餌もないだろうグリーフランドと違い、生態系が存在するということでもある。草を食べる獣がいて、その獣を食べる、より大きな獣や魔物がいるはずだ。
実際、まずナルメアさんが生き物の気配を察知した。
「襲ってきそうですか?」
「ううん。まだこっちには気づいてないし、動きが大人しいから草食だと思う」
それでも、警戒するに越したことはない。
近接戦闘ができないルリアを囲む陣形で、いつでも武器を抜けるようにしながら進んでいく。
ここまで迷わず山の麓を目指せたのは、港で調達した簡易的な地図と、飛空艇にも使われてる方位計のおかげだ。空の上でも島内でも基本的には一定の方角を示してくれるから、大雑把な向きを目指す分には頼りになる。
こまめに手元の方位計を確認しながら、広大な裾野を上る。
人の気配を感じてか、巨大な魔物が何度か襲ってきたけど、例外なくナルメアさんが一蹴した。
「グランちゃん、ルリアちゃん、ビィちゃん、大丈夫? 怖くなかった?」
「こっちは平気です。それよりすみません、全部相手してもらっちゃって」
「いいの。これくらいならどうってことないし」
僕の謝罪にひらひらと両手を胸の前で振り、仕舞った刀の柄から手を離す。
全て殺さずに追い払ったので、周囲に死体の類も残ってない。
血の匂いに誘われて寄ってくるようなのもいるから、これはナルメアさんの判断と手際が見事だった。
「にしても、相変わらずここの魔物はとんでもねぇでかさだな……」
「環境が過酷だから生態系も違う……でしたっけ。そんな風にカタリナは言ってましたけど」
「これだけの寒さだと餌も少ないじゃろうに、どうやってあの巨体を維持しとるのやら」
「ふむ。餌の少なさを、瘴気で補っとるのかもしれんな」
「瘴流域か」
ヨダルラーハさんの呟きと共に見上げた裾野の遙か先、エオニオ山脈の頂上付近は、雲とも霧ともつかない暗灰色に覆われている。かつて星の民が発生させたという瘴流域。ずっと離れた島でさえ、その影響で魔物が凶暴化したと言われてるくらいだ。より近いノース・ヴァストなら、比べ物にならないほど強い影響があるんだろう。
「……少し、急ぎましょうか」
「そうじゃな。夜が迫れば寒さも強まる。最悪、野宿が可能な場所を早めに探すことも考えるべきじゃろう」
言って、アレーティアさんが腰の剣を抜いた。
あまり使いたい手ではないんじゃがの、と息を吐き、切っ先を正面に向ける。両の瞳がすっと鋭く細まる。
直後、凄まじい殺気が全身を震わせた。ナルメアさんがルリアとビィを背に庇う。僕は反射的に柄を強く握り締めていた。全員の中で、ヨダルラーハさんだけが変わらず飄々としていた。
何をしたのか、すぐに悟る。
意思を乗せた存在感――剣気の放出。言葉を介さない魔物に対し、かなり乱暴な方法で伝えたんだ。
お前達では敵わない強者がここにいるぞと。
「これでほとんどの魔物はしばらく寄ってこんじゃろ」
「……アレーティアさん?」
「ナルメア殿、そんな怖い目で睨まんでくれ。ルリアとそこのトカゲはちゃんと避けるようにしたぞい」
「グランにはもろに浴びせとったがの」
「そやつなら儂の剣気にも耐えられると信じておった」
「…………アレーティアさん?」
さらに声のトーンを下げたナルメアさんに、正直すまんかったと剣を納めて頭を下げるアレーティアさん。
確かに少しびっくりしたけど、まあ結果的に何ともなかったし、と僕はナルメアさんを宥め、ペースを上げてまた歩き出す。
先ほどの強烈な牽制が効いたのか、魔物の襲撃はぴたりと止んだ。時折獣の足跡が残る雪を踏み固めながら、木々の多い場所を抜ける。視界が開けると、裾野よりも角度を増した坂が遠くに広がって見えた。ちらほらと草木が生えているけど、さっきまでのルートと比べれば随分少ない。かといって遮るものがないわけでもなく、小山のように高低差のあるところがそこかしこにできている。
「ごめんね、グランちゃん、ちょっと待って」
先頭を行こうとした僕の身体を、ナルメアさんの手のひらが遮った。
そうして無言で振り返り、背後のメンバーに彼女が目配せする。アレーティアさんとヨダルラーハさんが、揃って剣の柄に指をかけた。
「近い。けど、気配が読みにくい」
「魔物ですか?」
「おそらく。擬態だと思う。今は音も立ててない」
「降ってはおらんが、風が強いのう。これでは物音も聞き取れんわい」
「……ナルメアさんの耳でも駄目なんですか?」
ルリアの問いに、頷きが返る。
ナルメアさんの聴力は、相当遠くで流れる川の水音さえ感じられるほどの精度だ。それでも難しい辺り、雪山の環境の厳しさを身に染みて感じる。ひゅるひゅると鳴りっぱなしの風、防寒用の厚着越しでも遮断しきれない空気の冷たさ。薄曇りの空は平坦で、ときどき雪面との境を見失いそうになる。方位計がなければ、とっくの昔に迷ってしまってたと思うほど単調な風景。
まだエオニオ山脈に足をかけた程度なのに、やっぱりというか、そう易々とは進ませてくれないらしい。
「オイラが先行すんのはどうだ?」
「いや、危険過ぎるよ。どこから襲われるかわからない。全員で警戒しながら、慎重に行きましょう」
ビィの提案を却下し、ゆっくりと移動する。
この辺りはまた雪が深い。グリーフランドの雪原ほどじゃないけど、意識しないと立ち回りで足を取られかねない。
ぎゅっ、ぎゅっ、とブーツが柔らかい雪を押し潰す音だけが響く。
このまま何事もなければいい。
一瞬だけ気を抜いた。
本当に一瞬。
「っ、後ろ!」
ナルメアさんが叫んだ。
背後、左手の一際大きな小山が爆発した。
そうとしか思えない勢いで雪が飛び散る。振り向いた僕の目に映ったのは、文字通り小山と見紛う巨体の魔物だ。
毛むくじゃらの人型。以前読んだ魔物図鑑では、ビッグフットと呼ばれていた個体。
腕の長さだけで僕の背ほどもある。縮尺が違い過ぎて眩暈がしそうだった。有り得ないくらい大きい。前に相手をした奴より、軽く見積もっても三倍以上は違う。
振り上げた平手が、後ろから雪ごと吹き飛ばすように迫ってきていた。
「ルリア、ごめん! ビィはフードに掴まって!」
これだけ体格に差があると、咄嗟の動きじゃまともに受け止められない。
片手でルリアの腰に手を回す。後頭部に重みが来たのを確認してから、僕は大きく前に跳躍する。
踏ん張りが利きにくい雪面だと、単純に跳び上がるのは難しい。だからあの時のヨダルラーハさんを参考に、一度足裏を薄く凍らせて固め、同時に魔力でブーストをかけた。数秒の浮遊感。両足の踵を立て、膝をクッションに転ばないよう着地。
僕が心配するまでもなく、三人も回避していた。無数の蝶に解けたナルメアさんが、ビッグフットの背後に回る。身軽に宙へ浮いたヨダルラーハさんは通り過ぎた腕を足場にして距離を取った。そしてアレーティアさんは、仕込み杖で平手を受けた――と思ったら、その上を飛び越えるように一回転して元いた場所に戻っていた。
さすがに自分の目を疑った。剣技と体術の組み合わせだってことくらいはわかる。けれど、どういう原理なのかは全く想像もつかない。
「お前さん、そんな躱し方する必要なかったじゃろ! あやつらに格好良いところでも見せたかったか!?」
「たまには活躍せんと、お主に劣ってるなどと思われても堪らんしの!」
獣のような叫び声が上がった。
すれ違い様、アレーティアさんが腕を斬ったんだ。とはいえ無茶な姿勢だったし、毛皮が厚いのか傷は浅い。微かに噴き出た血が散って、雪を赤黒く染めた。
僕はルリアとビィを下ろし、鞘から剣を抜く。
「行ってくる。ルリアは援護お願い!」
「わかりましたっ。気をつけて!」
「油断すんなよ!」
二人の声を背中に受けながら走り出す。一歩のストロークを大きく、雪に足を取られないように。
しっ、と向かいで呼気が聞こえた。ナルメアさんが居合を放つ。鋭い一閃がビッグフットの背中を裂いた。けれど、やっぱり浅い。返り血を浴びるより早く彼女の姿がまた蝶になって消え、遅れて太い腕の大振りが何もない空間を薙ぎ払う。
そこにヨダルラーハさんが飛び込んで、低い姿勢から足元を斬り抜けた。毛皮が薄いところを狙った二重刃。ぐおお、という呻き声を上げて、ビッグフットが微かによろめく。
駆ける身体が不意に軽くなった。ルリアの力――ティアマトの加護だ。
「グラン、合わせるぞい!」
「はい!」
いつの間にか右隣を並走していたアレーティアさんの呼びかけに頷き、同時に跳び上がる。
速度を乗せた振り下ろしを、僕達は左右の肩口に叩き込んだ。鈍い。硬い丸太に剣の腹をぶつけたような感覚だ。隣のアレーティアさんは難なく刃を通していたけど、それでも腕を斬り落とすには至らない。
身じろぎをしつつ、ビッグフットが今度は右手を振り上げる。肩に乗る僕を吹き飛ばそうと迫る大質量。まだ残るティアマトの加護を頼りに正面、さっきまでナルメアさんがいた場所へと飛び込む。間一髪、残像めいて僕の背を追う幻影が、巨大な平手に吹き散らされた。
「ノース・ヴァストの魔物は例外なく大きいって聞いてたけど……これは想像以上ね」
「僕もこんな巨体を見たのは初めてです」
「ここいらの主みたいなものかもしれんのう。何にしろ厄介な手合いじゃ」
こっちが肩に一撃を入れてる間、ナルメアさんとヨダルラーハさんも削ってくれてはいたみたいだけど、まだまだ相手は倒れそうにない。身体の大きさは、そのまま体力の多さに直結する。細かい傷はしっかりつけられてるし、長期戦なら勝ち筋もあるだろう。でも、ここからさらに山を登らなきゃいけないことを考えると、なるべく消耗は避けたい。
「娘っ子よ、でかいの一発いけるか?」
「……少し時間を稼いでもらえれば」
「なら、もうちっとこの老体を酷使するかの。グラン、手伝ってくれい。攪乱する」
「何でもいいから早く来てくれんか! 儂一人で保たせるのもしんどいぞ!」
「お前さんなら平気じゃろ」
「ジジイの信頼は要らんわい!」
背中側に抜けた僕達三人と違い、ビッグフットの正面に残ったアレーティアさんは、繰り出される重い腕の連撃を凌ぎ続けていた。とはいえ、言葉の割には結構余裕そうだ。
横薙ぎのような面制圧の一撃だけは躱し、縦の振り下ろしは全て二刀で逸らしている。あれだけの質量、体格差があるのに、手品か魔法みたいに太い腕の軌道が変わる様は、なかなかに現実感の薄い光景だった。
かといってさすがに、任せっきりなわけにもいかない。
ヨダルラーハさんと一緒に渦中へと再び飛び込む。背後でナルメアさんの気配が膨らんだのがわかった。
迫る僕達に気づいたビッグフットが意識を散らす。もちろんそれを見逃すアレーティアさんじゃない。にぃ、と獰猛な笑みを浮かべ、交差した二刀が閃いた。毛皮で覆われた腹に、今までで一番深い傷が斜め十字に刻まれる。
僅かにうずくまった巨体の背を、先行したヨダルラーハさんが駆け上がる。小さな身体が後頭部を蹴り、空中で逆さの姿勢を取る。僕からは見えない位置で、けれど間違いなくビッグフットと目を合わせたことがわかった。
ヨダルラーハさんの剣は、軽く細い刀身。速度と鋭さ、手数で斬る戦法は硬い相手だと通じ難い。
それを補うのが、狙いを過たない精密さだ。
魔物の絶叫が雪原に響いた。鋭く正確な突きが、毛皮に覆われていない柔らかな箇所――目を貫いた。
人なら充分絶命に足る致命傷。けれど魔物、それもここまで巨大な相手だと、深手までしかいかない。
額を蹴って剣を抜いたヨダルラーハさんが飛び退く。遅れて見境なく暴れるビッグフットの両腕が宙を掻く。
僕は右手の武器に意識を集中した。宝剣アンダリス。アレーティアさんの勧めで持ってきたこの剣は、土の属性に偏っている。
刀身に属性力を纏わせるイメージ。雪原に棲む魔物であれば、おそらく最も影響を受けている属性は水だ。土は水を克する――元素の法則に従い、左から振りかぶった渾身の一撃が、厚い毛皮ごとビッグフットの背中を斬り割った。
全身を回転させるようにして、横合いから太い腕の薙ぎ払いが来る。右側に振りきった剣の勢いを利用しながら、身をひねって僕は後ろへ下がった。目の前を通り過ぎる魔物の手。噴き上がった雪と風圧がフードの毛を揺らす。
そして、ゆらりと。
さっきまでの威圧感が嘘みたいに静かな挙動で、ナルメアさんが歩いて僕の隣を抜ける。
「――精神一到、何事か成らざらん」
光が閃いた。そうとしか見えなかった。
気づけばナルメアさんは刀を戻していて、かちん、と鞘鳴りが響くのと同時、ビッグフットの背が斜めに裂かれた。肉や骨さえ見えるほどの傷痕。凄まじい量の血が噴き出し、巨体が前のめりに倒れかける。
アレーティアさんとヨダルラーハさんが巻き込まれないように離れた。さらに距離を置いていたルリアとビィは、真剣な表情で戦況を観察している。
まだ息があるけど、瀕死なのは間違いない。
油断だけはせず、一旦剣を仕舞って近づこうとして、
「みんな、下がって!」
ナルメアさんが咄嗟に声を荒げた。
ビッグフットは倒れなかった。辛うじて足がぐらつく身体を支えていた。
放っておいても死ぬ。だからそれは、後先の一切を考えない、最後の悪足掻きだった。
両腕が高く持ち上がる。十本の指ががっちりと組まれ、力任せに振り下ろされる。
大槌めいた地面への叩きつけ。山を揺らすような轟音と共に、着弾点で積もった雪が爆発した。視界が一瞬白に覆われる。どこかで何かにひびの入る音が聞こえる。それが足元から来てると理解した時にはもう遅かった。
がくん、と視界に映る全てが沈んだ。
僕とナルメアさんは反射的に、揃って後ろへと走る。直前まで立っていた地面が徐々に傾き、崩落し始めていた。
「あっ、きゃあああああ!」
「ルリア!」
同じように傾き出した地面に、向かい側の離れた場所にいたルリアが足を滑らせたのが見えた。アレーティアさんとヨダルラーハさんは悲鳴に気づいたけど、手が届く距離じゃない。
おそらく、さっきの衝撃で地面が割れたんだ。僕達が立っていたのは土の上じゃなかった。長い時間をかけて雪が凍ってできた、氷の床。元々不安定な地形に雪が降り積もって、見せかけの足場になっていたんだろう。
崩落の中心地でもう逃げる力も残されていない魔物が、真っ先に裂け目へと落ちた。断末魔の声を残したのかもわからない。それよりもルリアだ。ビィの浮力じゃルリアを掴んで引き上げることができない。
あのままじゃ……あのままじゃ、ルリアが落ちる!
僕は反転して、すぐにでもルリアのところへ駆け出そうとしたけど、ナルメアさんに止められる。
「待って。グランちゃん、私達からじゃ遠過ぎる」
「でも、ルリアが!」
「冷静に考えて。ここからだと間に合わない。下手を打てば一緒に落ちちゃう」
そう言った彼女の手は、微かに震えていた。
僕はナルメアさんの顔を見る。固く結んだ唇。今すぐにでも助けにいきたいのは同じなんだとわかった。その考えにすぐ至れないくらい、自分が平静さを失っていたことも。
一度だけ深呼吸。気持ちを落ち着ける。
「向こうには二人もいるから。ルリアちゃんのことは任せましょう」
「……はい。アレーティアさんもヨダルラーハさんも、頼りになりますからね」
だからまずは、全力で巻き込まれないところまで走り抜ける。
幸いにもこっち側はしっかりした足場が近く、多少離れたくらいで地面の不安定さはなくなった。
遠ざかってみると、徐々に中心の裂け目が大きくなっているのが見える。ビィがフードの端を掴んで必死に引っ張り上げようとし、ルリアもどうにか滑る速度を落とそうと頑張ってるけど、斜面の角度がどんどん下がってきていた。雪も滑落して、氷の表面が剥き出しになっている。
その斜面をアレーティアさんが駆け上がり、ルリアの真上側に辿り着いた。安定した足場であることを確認したのか、足元に仕込み杖の剣を深く刺し、柄を握って自身を固定する。
ヨダルラーハさんは、と思って小柄な姿を探すと、僕らから見て斜面を真横に走っていた。普通に立っていたら絶対バランスを取れない傾斜なのに、全く姿勢が崩れていない。そうしてアレーティアさんとルリア、二人と同じ縦軸まで来てから、今度は直角に斜面を、ルリアに向かって駆け下りていく。躊躇いのない速度だ。
迫るヨダルラーハさんに、滑り落ちるルリアが横へ手を伸ばした。少しだけ魔力で強化した僕の目に、不敵に笑うヨダルラーハさんが映った。ルリアの手を掴む。駆け降りる速度を落とさないまま、空いた手で腰から抜いた剣を氷に刺す。
勢いに引っ張られたルリアとヨダルラーハさんが、刺さった剣を軸にくるりと半円を描いて、逆上がりをした。
ハーヴィンは種族的に小さく、力が弱い。普通に考えれば、女の子とはいえ自分より大きな相手を引っ張り上げるのは不可能だろう。だからヨダルラーハさんは遠心力を活かした。大きく振り回されたルリアとビィが宙に浮く。最も勢いの乗るタイミングで繋いだ手が離れ、真上に放り投げられた。
それを迎えるアレーティアさんが、予測地点へと鞘に仕舞ったままの剣を突き出す。不自由な態勢ながら、浮いた鞘を辛うじて片手でルリアが握る。その一瞬を逃さず、力業でアレーティアさんは自分の方にルリアを引き込んだ。身体強化の魔法を一瞬だけ使ったのか、若干疲れた顔をしていた。
ほっとしたらしくぺたりと座り込んだルリアは、心配そうに斜面の下を覗き見ていた。まだヨダルラーハさんが戻ってこられてないからだ。
もう駆け上がるのは難しいほどの急斜面で、ヨダルラーハさんはさらに一回転。その勢いで上方に身を投げ出した。崖に近い角度をぐんぐん昇っていく――けれど、あと僅か届かない。
無理だとわかっていてもルリアが崖下に手を伸ばそうとする。それを隣のアレーティアさんが制止し、腰に差した剣をすらりと抜いた。何故、と考える間もなく、飛び上がるヨダルラーハさんもまた剣を宙に突き出す。
そこから起きたことは、それこそまるで魔法のようだった。
二人が剣の先端近くを合わせた。衝突の瞬間、アレーティアさんがヨダルラーハさんの剣を絡め取るようにし、失速して落ちるしかなかったはずの小さな身体が、不自然なまでに高く跳ねた。ルリア達がいる崖上に引っ張られる軌道で。
放物線を描いて引き寄せられたヨダルラーハさんは、逆さの姿勢になりながらも背嚢から釣り竿を取り出し、崖下に向かって針を投げ込む。狙い違わず氷に刺さったままの剣、その柄に糸が幾重にも絡まり、大仰な手首の動きと共に引き抜かれた。
空中で放り出された剣を掴み取る。危なげなく着地して、慌てて駆け寄ったルリアに人の好い笑みを返して見せていた。
「今の、見てましたか?」
「うん。やっぱり二人ともすごいね。グランちゃんは何をしてたかわかった?」
「僕には二人が剣を合わせた瞬間、ヨダルラーハさんが飛び上がったようにしか……」
「お姉さんから見えた限りだと、あれは剣を通しての重心操作じゃないかな。互いの刀身を当てたタイミングで、アレーティアさんは力の向きを掬い上げるように、ヨダルラーハさんはそれを利用して自分ごと浮き上がらせるようにしたんだと思う」
「……そんなこと、本当に可能なんですか?」
「同時に一瞬のズレも狂いもなく、それも完璧に息を合わせて、剣にかかる重さや力を調節できれば」
ナルメアさんの言葉通りなら、信じられない技巧だ。
剣聖。あるいは剣豪。そう二人が呼ばれる理由を、改めて理解できた気がする。
ともあれ、向こうの全員が助かってよかった。僕らも大きく手を振って無事なことを主張しておく。
それより問題なのは、今目の前に広がってる光景だった。
ビッグフットの最後の抵抗で生まれた裂け目は、左右共に遙か彼方まで続いている。幅も広くて到底飛び越せる距離じゃないし、さっきまで立っていた氷の地面は深い谷底に飲み込まれていってしまった。ここまで巨大な裂け目に分断されたとなると、すぐに合流するのは難しいだろう。
大声で叫べば聞こえるかもしれないけど、また魔物を呼び寄せかねない。
だから次善案として、僕は山の頂上方面を指差した。
目的地はエオニオ山脈中腹。仮に僕達かルリア達のどちらかが探し人を見つけられれば、上手く合流する当てが出てくるかもしれない。それに命を共有してるルリアなら、近くまで来れば僕の存在を探知できるはず。
身振り手振りで行き先を示し、上手く伝わったことを祈って、ナルメアさんに視線を戻した。
「行きましょう」
頷いた彼女と共に、登山を再開する。
遠巻きに見えた表情は、誰も諦めていなかった。もちろん僕も、ナルメアさんも。
捜索を断念しない理由はそれで充分だった。
■弐 剣の頂にはまだ遠く
山の傾斜が強くなるにつれ、足場はどんどん不安定になっていった。
ルリア達と離れ二人で登り出してから、結構な時間が経った気もする。天気は徐々に崩れ、気づけば吹雪に変わっていた。数歩前さえ霞んで見えない最悪な視界の中、方位計とナルメアさんの感覚に頼りながら、何とか足を踏み外さずに進んでいる。
「止まって。四歩先、風の鳴り方が違う。左側は音が抜けてる」
「了解。左に方向転換します。向きがおかしかったら手を引いてください」
方位計でわかるのは、あくまで大雑把な方角だけだ。
僕の耳では猛烈な吹雪の風音しか聞き取れないけど、隣からの言葉と繋いだ手より返ってくる力を信じて歩いていく。
やがて吹雪が少しだけ弱くなり、視線を上げても頂点が判別できないほど高い山壁が左側に見えてきた。起伏はあるものの、しばらく来たルートと比べれば平坦な雪道が正面に広がっている。
とはいえ、また雪に覆われた割れ目が潜んでいる可能性も否定できない。
慎重さを忘れちゃいけないと、改めて気を引きしめる。
「みんな平気かな。ルリアちゃんやビィちゃん、今頃吹雪に巻き込まれて、雪に埋もれちゃったりしてないかな」
「大丈夫ですよ。結構あれで逞しいですし、あっちには二人がついてますし」
「……そうだよね。アレーティアさんもヨダルラーハさんも、頼りになる人だから」
自分に言い聞かせるように呟いて、ナルメアさんは僕を見た。
「ごめんね。お姉さんのわがままでこんなことになっちゃって」
「ナルメアさんについていこうって決めたのはこっちです。気に病む必要はないですからね」
「でも……」
「みんなが心配なら、早く目的を果たしましょう。そのためにも、噂の剣豪には何が何でも会わなきゃですね」
「ん……そうだね。うん。グランちゃん、ありがとう。もうひと頑張り、お姉さんとしちゃおっか」
「はい」
決意を新たに、巨大な山壁に沿いながら歩いていると、また吹雪が強まってきた。山の天気は移ろいやすいって言うらしいけど、本当に落ち着かない感じだ。こうなるとどうしても進みが遅くなってしまう。
せめて、この雪風を凌げる場所があれば。
そう考えたところで、明らかに風の通りが違う空間にぶつかった。
視界の左手にぽっかりと穴が開いている。ほとんど全方位から吹き荒ぶ雪混じりの寒風は、僕らがくぐるには充分過ぎる高さの深い穴、その奥に吸い込まれているようにも思えた。
握ったナルメアさんの手をくぃっと引く。
吹雪の只中を歩き続けるというのは、体力もだけど何より精神をすり減らす作業だ。
消耗度合いで言えばナルメアさんの方が上だろうし、僕自身、終わりの見えない強行軍に滅入っていたところもある。
一時でも吹雪を避けて休めるなら。
そんな期待を抑えつつ、獣が棲んでいることも考慮し、いつでも剣を抜けるよう気を張りながら、ゆっくりと横穴を潜っていく。
吹雪はすぐに届かなくなり、真っ暗な中をさらに歩く。程なくして、行く先に光が見えた。この天候では有り得ない明るさにまず自分の目を疑ったけど、隣に浮かび上がるナルメアさんの表情も困惑だった。二人で顔を見合わせ、そっと光の出所を覗く。
相当に開けた空間だ。
横穴もだけど、人為的にできたような形じゃない。自然に生まれた洞窟なんだろう。空気は外ほどじゃないけどひんやりと冷たく、高い天井には薄く光を放つ何かがびっしりと張りついている。似たようなものをどこか別の島で目にした気がする。光の届かない奥所にのみ生息する、確か、植物の一種。
ざっと見渡した限りでは、自分達以外の生き物はいない。
これなら一息吐けそうだとナルメアさんに視線を向けて、
「何か……ううん、誰かがいる」
囁くような声と共に、刀の柄に指をかけていた。
そして彼女の言葉通り、奥からすっと人影が現れた。
しんとした洞窟の中なのに、全く足音が聞こえなかった。老人と言ってもいい外見の、エルーンの男性。外は激しく吹雪き、ここだって相当寒いはずなのに信じ難いほどの薄着――背中が大きく開いた白装束のみを身に纏っている。長い三つ編みの髪だけでなく、エルーン特有の長い耳を覆う毛も白い。最低限の手入れしかしてないらしき髭が鼻下と顎に深く生えていて、そのせいかほとんど表情は読めなかった。
しかもよく見れば裸足だ。外ほどでないにしろ、地面は土肌にうっすらと氷が浮いてるくらいで、どう考えても素足をつけられるものじゃない。それを全く意に介さないかのように、自然な歩調で出てきた。
もしここで僕やナルメアさんが重ね着を一枚でも脱げば、たちまち凍えてしまうだろう。
色々な意味で尋常ならざる人物であることは間違いなかった。
警戒心を少しだけ緩め、僕達は近づく。相手に構える様子はない。右手に白木拵えの杖を持っているのが見えた。足が悪いのかと一瞬考えたけど、重心は真っ直ぐで体重をかけてる風でもなく、どころか怖いほど体幹が揺れていない。
ゆったりした衣装でわかりにくいけど、たぶん、すごく鍛えられた身体の持ち主だ。
あと数歩のところまで来た。踏み込めば刃が届く距離。細く鋭い目が僕達をじっと見つめて、それから小さく顎を引く仕草をし、奥に消えていった。
ナルメアさんと、互いに顔を見合わせる。
「ついてこいってことでしょうか」
「うん。行こう」
二人で通るには若干狭い横穴に入ると、さっきの広場と同じく壁が薄い輝きを放っていた。まばらに散った光の帯がずっと先まで続いていて、ちょっとだけこの光景に見惚れる。幸い一本道で迷うこともなく、老人が待つ場所に辿り着いた。
洞窟の最奥は、いくらか生活感のある空間になっていた。端には草を敷き詰めた寝床らしきものと、几帳面に積み上げられた木の枝。中心には火を熾した跡があり、冷めきった炭が転がっている。
老人が何本かの木枝を取って燃え跡に重ねた。
「火は、出せるか」
初めて聞いた彼の声は、思ってたよりずっと芯が通っていた。問われたのが自分だと遅れて気づき、はい、と頷く。
日頃団の面々に教わってるおかげで、四元素の魔法はそれなりに使えるようになった。ここは水の元素にかなり偏ってるけど、薪の火種程度なら何とかなりそうだ。
体内魔力を指先から放出、それを軸にして、周辺に漂う僅かな火の元素をまとめていく。集まった元素に魔力を介し、指向性を与える。その属性に近しい自然現象を起こす、体系化された中では最も基本的な魔法――火の初級、ファイア。
ぼっ、と音を立てて生まれた小さな炎の塊が薪に落ちた。外とは離れているけれど、ここも冷気が滑り込んでくる以上かなり湿気が強い場所のはずだ。なのに薪は充分乾いていたらしく、すぐに火が燃え広がった。
やがて不規則に揺れる炎も安定し、老人が僕らの正面に座る。
無言のままだけど、きっと座って火に当たれってことなんだろう。恐る恐る腰を下ろす。土の地面は厚い服越しでもひんやりしていた。でも、耐えられないほどじゃない。
しばらくぱちぱち弾ける薪と、ゆらゆら立ち昇る火を眺める。
「……何故こんなところまで来た」
二度目の言葉もまた短かった。
僕とナルメアさん、どちらに対してかも不明瞭な問いかけで、答え方に迷う。
「噂を聞いたんです。ノース・ヴァストに、とても強い剣豪がいるって」
「剣豪か」
「はい。その……噂の剣豪は、もしかしたらあなたじゃないですか?」
「そう思う理由は」
「少なくとも、ここに来るまで僕達は誰にも会いませんでした。それに、あなたの身のこなしというか……立ち居振る舞いは、相当鍛えられた人のものかなと」
言って、真っ直ぐ目を向ける。
正面にいる老人の瞳は揺らがない。
隣のナルメアさんが、彼の仕草をじっとりとした重い視線で観察している。
「噂については知らん。が、確かに俺は剣を生業としていた人間だ」
「っ、じゃあ――!」
「待ってください、ナルメアさん。……とりあえず、今更ですけど自己紹介を。僕はグランと言います。彼女はナルメアさん。そちらの名前を聞いてもいいですか?」
「ハクシュウだ」
彼――ハクシュウさんに敵意がないのは間違いない。
洞窟の奥に案内してくれたし、薪も提供してくれた。善良な人格であるのも確かだろう。
目当ての相手かもしれなくて、逸るナルメアさんの気持ちも理解できるけど、まずは落ち着いて話をしておきたかった。
だから、改めてここに辿り着くまでの経緯を説明する。
島外から剣豪の噂を聞きつけて訪れたこと。自分を含めた二人以外にも同行者がいたこと。不慮の事態で離れ離れになったこと。ある程度近くまで来れば、同行者の所在はわかること。
相槌を一回も打たず、それどころか座った姿勢で微動だにせず聞き続けたハクシュウさんは、僕が話を終えた後、数秒だけ目を閉じて何事か考える様子を見せた。
「おそらく、だが、ぬしらが別れた場所に思い当たるところがある」
「本当ですか!?」
「ぬしらが辿った道より幾分険しい。時もかかるだろう。この付近まで至れば教える」
「ありがとうございます。助かります」
命のリンクがある僕とルリアはともかく、ハクシュウさんはどうやって近くに来たことがわかるんだろうか。
ちょっとした疑問を口に出そうか考えていると、ルリア達の件で返ってきた答えにさっき一瞬ほっとした表情を浮かべたナルメアさんが、我慢しきれず立ち上がっていた。
「貴方を、優れた剣士とお見受けします。是非、手合わせを」
「……構わん。が、慣れぬ山道だったろう。本調子で戦うなら、少し休むべきだろうな」
「でも……っ」
彼の言う通り、ここまでの道程はかなり過酷だった。特にナルメアさんは、敵襲や足場の確認で気を張り続けてたから、見た目以上に消耗してるはずだ。それでも焦りが出てしまってるのは……やっぱり、十天衆に迫る強さという噂を確かめずにはいられないのかもしれない。
十天衆。
その名前は、彼女にとって特別なものだから。
「ならば、一太刀打ち込んでみろ」
捉え方によっては、挑発とも取れる発言。
ハクシュウさんの静かな、けれど苛烈な声色に、ナルメアさんの手先が動いた。
大太刀の柄を握る。
努めて冷静さを保った表情。そこに僕は微かな動揺、怒りを感じ取る。
左足を引き、腰溜めに構えた姿勢から、右手が刀を抜き放った。精神に多少の乱れこそあれ、それで狂うほど彼女の腕は甘くない。流れるような一呼吸の動作で
届く、と思った。
脆い何かが砕ける、高く硬質な音が響いた。僕の顔に吹き散らされた冷気が当たり、目を細めた直後、全てが終わっていた。
ナルメアさんの首元に、炎の赤に照らされて光る銀色が突きつけられている。
それは武器なのかもしれなかった。けれど、到底剣や刀には見えなかった。白木の杖を柄にした、限りなく細い刀身。刃も峰もなく、厚みの偏りもない――カタリナさんの
あまりにも奇妙な武器だったし、それがいったいどうやってナルメアさんの居合を止めたのか、何も見えなかった。
「やはり、十全ではないか。尋常な立ち合いを望むなら、しばし身を休めるといい」
そう言って、広間へ続く横穴に歩いていってしまった。
呆然としたナルメアさんが、ゆっくりと刀を鞘に仕舞い、力なく座って項垂れる。
顔からは血の気が引いていた。信じられない、というような表情だった。
「……何が起きたんですか?」
馬鹿みたいな質問だけど、本当に一瞬過ぎてわからなかったんだから仕方ない。
僕の言葉に、ナルメアさんは宙へ視線を向けてから、
「私の居合を受けたのは、生成した氷の剣だった。一撃で砕ける脆さの。それで力が完璧に削がれたの」
「もしかして、さっきの冷気は」
「砕けた氷のもの。おそらく、武器に纏わせる形で作って……こっちは勢いを殺されたけど、向こうは中身をそのまま振り抜いた。二段構えの剣……。でも、それだけじゃ止められない。様子見とはいえ本気で打ったのに」
何もなく冷えた空間に、けれどナルメアさんは何かを見ているのかもしれなかった。
「起こりを読んで、居合に寸分違わず、同じ軌道、同じ力で剣を合わせた。氷の剣が砕けるのも全て計算づく……? だとして、どれだけの
同格の相手に対しての剣ではなかったと。
そう、感じてしまったんだろう。
ひとりごとめいた呟きでも、そこまで聞けば僕にだって理解できる。
静かに俯いた彼女の顔は、もうどんな風になっているか窺えない。
……ナルメアさんは僕にとって、師匠の一人でもある。
そんな人が打ちのめされていても、いったいどう声をかければいいのか、今の自分には考えつかなかった。
■幕間 剣士とは斯く在るものか
広い景色の中を、私達は進んでいました。
といっても視界は随分高くて、ずしん、ずしんと不定期に揺れています。
コロッサス。
かつてバルツで戦い、今は私が召喚できる星晶獣です。
彼――もしかしたら彼女? 性別があるのかどうかはわかりませんけど、とりあえず彼でいいんでしょうか――を呼び出し、今はビィさんと一緒にその右肩に乗っています。反対側には、アレーティアさんとヨダルラーハさんも。
大規模な崩落でグランとナルメアさんの二人から離れてしまった後、こちらも目的地であるエオニオ山脈の中腹を目指して動き出しました。大きな裂け目をぐるっと迂回し、そこから元々行こうとしていた道に戻るようにしたところで、一度吹雪が襲ってきたんです。
遮るもののない雪原にいたら、あっという間に埋もれちゃいそうな勢いでした。
急いでどこかに隠れようにもそれらしき場所が近くになく、どうしようと思ってた時アレーティアさんが提案したのが、星晶獣を吹雪除けとして頼ることでした。
私が召喚する星晶獣は、島と契約しているのが本体だとすると、影のようなものです。どう説明すればいいのか……私達が存在する現実の世界とはちょっとズレた世界があって、そこにあるものを実像として呼び出す感じでしょうか。島にいる本体はそのままで、意思とか記憶とかを共有してるんです。詳しい原理はわかりません。カリオストロさんがちょっと知ってるみたいで説明してくれたこともありましたけど、理解するのは難しい話だったんですよね……。
とにかく、呼び出したコロッサスは、吹雪が落ち着くまでの間、私達を守ってくれました。火の属性に寄ってるので、どう考えても水の元素が多いここで実像を保つのは大変なはずなんですけど……心根が優しい子だから、頑張って私達を運んでくれてます。
「年寄りにはきつい道程じゃからの。こうして少しでも休めるのは有り難い」
「こんな時だけ年寄りぶるでないわい。ま、有り難いのは同感じゃが。これでお前さんが隣でなければのう」
ほっほ、と笑うアレーティアさんに、ヨダルラーハさんが溜め息を吐いています。
何だかんだで二人とも仲良いですよね。えっと、こういうのはなんて言うんでしたっけ。
「爺さん達、喧嘩するほど仲がいいってヤツだよなぁ」
「あっ、ビィさんそれです!」
「ルリアもそう思ってたのか?」
「はいっ。あと、なんかちょっと羨ましいなって」
「羨ましい? こんなジジイに絡まれるのが?」
「それはこっちの台詞じゃろ」
「いえ、お二人と話すのも楽しいですけど……私、グランやカタリナ、艇のみんなともほとんど喧嘩したことないなって。だからそういうの、ちょっと憧れちゃいます」
だってそれって、お互いに遠慮がないってことじゃないですか。
もちろん、グラン達に遠慮してるつもりはないです。でもやっぱり、心のどこかで負い目みたいなものがあるのかもしれなくて。
自分では飲み込んだつもりでいるんですけど、なかなか難しいなって思います。
「嬢ちゃんは嬢ちゃんのペースでやればいいんじゃよ。儂らと同じになる必要はない」
「そう、なんでしょうか」
「人間関係なぞ、肩肘張ったところで疲れるだけ。自分にも相手にも素直でいるのが一番じゃな」
「へぇー、爺さん達もたまにはいいこと言うんだな」
「そこのトカゲはひとこと余計じゃぞ」
「だからオイラはトカゲじゃねぇっての!」
自分にも相手にも素直に、ですか。
……そんな風にできてるならいいなあ。
「そういやアレーティア、剣豪の正体は見当ついたか?」
「ふむ。しばらく考えとったが、儂らと同じくらいの年代と仮定すれば、やはり当てはまるのもそう多くはないはずよな」
「あやつはどうじゃ? 小刀使いの」
「昔にはしゃぎ過ぎて隠居したと聞いたぞい」
いくつかヨダルラーハさんが名前を出しては、アレーティアさんが違うと切っていきます。
そのうち思いつかなくなったのか、若干不機嫌そうな声色で返しました。
「ならお前さんはどうなんじゃ。思い当たる奴は」
「……そうじゃのう。一人、これはというのがおる」
「昔に
「その言い方に引っかかるところがないでもないが……立ち合いで交わした剣が印象的でな。名を、ハクシュウと言ったか」
「ハクシュウ……ふうむ。その名はワシも聞いたことがある」
「どんな人なんですか?」
気になって会話に割り込むと、記憶を引っ張り出すかのように空を見上げて、ヨダルラーハさんは語り始めました。
もう何十年も昔、ファータ・グランデのある島で幅を利かせていた大きな組織があったんだそうです。いろんな街の中枢にも入り込んで、悪い話ばっかり聞こえるそんな組織が、突然壊滅したって噂が広まったらしくて。それと同じ時期、ハクシュウさんという人は行方を晦ましたとか。
だから、組織を壊滅させたのはハクシュウさんだったんじゃないか、と。
島外にも散った噂は、結局誰も証明する人がいなくて、いつの間にか立ち消えたらしいです。
「結構有名な奴だったのか? そのハクシュウっての」
「剣士の間では知ってるのも多かったかのう。立ち会った身からすると、まず目が良い。そして覚えも異様に良い。こっちが少しでも甘えた筋で打ち込むと即座に手痛い一撃が来るし、そうでなくとも人の癖を読むのが早かった。長丁場になればなるほど怖い手合いよ」
「なるほど……。えっと、ちなみに、その時は勝ったんですか?」
「さて、どうじゃったかの」
惚けたような口調で、アレーティアさんが誤魔化しました。
隣のヨダルラーハさんがきっちっち、と笑います。
「このジジイはいくつになっても負けず嫌いじゃからの」
「ふん。お主だって人のことは言えんじゃろ。あの時は自分が勝ったなどとうそぶきおるし」
「そりゃ事実を言ったまでじゃからな」
「いやいや、勝ったのは儂じゃろうに」
「何を言っとる、ワシじゃろ」
「もうボケたか?」
「お前さんこそ物忘れが激しくなったか?」
顔を近づけて睨み合う二人の様子に、喧嘩するほど仲がいいという言葉を再び思い出しました。
本当に、不思議な関係です。いがみ合ってるようで認めてて、嫌っているようにも見えて違ってて。
そんな私は、首を傾げていたんでしょうか。気づけば二人してこっちを見て、柔らかい表情を浮かべていました。
「……嬢ちゃんの目には、儂らは奇異に映るやもしれんのう」
「あ、あの、別に変とか思ってるわけじゃないですよ?」
「きっちっち! そうは思っとらんから大丈夫じゃ。まあ何というか、これは剣士の性みたいなもんでな」
「剣士の性?」
「うむ。きっかけが何であれ、ワシらは根本的に負けず嫌いなんじゃよ。人より強くなりたい。より強く、速く、巧く剣を振るえるようになりたい。そんなことしか考えとらん。じゃからこそ、他人に劣ることが何より耐え難い。他人に負けることが、それこそ死ぬほどに悔しい。剣士ってのは、そういう生き物なんじゃよ」
静かなヨダルラーハさんの語りに、アレーティアさんも頷いていました。
剣士という生き物。
まるで、普通のひととは違うみたいな表現です。
だから私は、ひとつだけどうしても気になって、その疑問を口にしました。
「じゃあ、そうじゃない人は……?」
そうしたら、さっきまで口論続きだった二人が苦笑して。
ぴったり声を揃えて、断言したんです。
「――そいつはもう、剣士じゃない」
■参 過去は消えず、己を生かす]
膝の上に重みが乗っかって、どれくらい経っただろうか。
あの後、落ち込みに落ち込んだナルメアさんは気が抜けたのかそのまま眠ってしまった。ルリア達と別れてからここまでずっと神経の糸を張り続けてたし、こうなるのも当然だとは思う。
さすがに土混じりの地面で寝かせるわけにもいかず、男の膝なんて筋肉質で硬いだけだろうなーと思いながらナルメアさんの頭をそっと乗せ、しばらく寝顔をちらちら見ながらとりとめない考え事をしていた。
例えばルリア達は無事なのかな、とか。
ハクシュウさんはどこに行ったんだろう、とか。
この洞窟……洞窟? はどうやってできたのか、とか。
特に最後のは興味本位だしすごくどうでもいいことなんだけど、そういうところまで思考が飛んでったくらい時間を持て余してたんだから仕方ない。
目を閉じて、意識の奥深くに沈み込めば、どこか温かな、外へ向かう繋がりのようなものを感じる。僕とルリアを結ぶ生命のリンクは、互いの生存だけでなく、何となく近くにいるとか遠くにいるとか、曖昧な距離を把握することができる。といっても正確さからは程遠くて、本当に大雑把な、こんなものかな程度の感覚だ。まだもうしばらくかかりそうだ、みたいなことしかわからない。それだけで充分なのかもしれないけど。
集中を解いて息を吐く。まだ薪はぱちぱちと燃えていて、この空間に限れば結構暖かい。こんなによく火が立ってるのは、薪の水分がきっちり飛ばされてるからだ。ちょっと外に出れば氷に囲まれた、当たり前だけど湿気の強い場所なのに、いったいどうやって乾かしてるのか。
今更ながら出てきた疑問に首を傾げていると、出入口の方から物音が聞こえてきた。微かに何かを引きずるような音。念のため腰の剣に指をかけたところで、にゅっと顔を覗かせたのは巨大な毛皮を背負ったハクシュウさんだった。
「戻った」
「お、おかえりなさい。……その背負ったものは?」
「熊だ。ここで解体する」
あっけらかんと言うけど、相当大きい。
一人で抱えてきた膂力もすごいし、ぱっと見毛皮には全く傷がなかった。
額の一点に、小さく穿たれた跡がある。急所、頭を一撃で貫いて仕留めたんだろう。仮に自分なら、こんな綺麗にはできない。空恐ろしいほどの手際だ。
さすがにぼーっとしてるのもどうかと思い、手伝いを申し出る。ナルメアさんは静かに膝から下ろし、僕の剣鞘を枕代わりに置いておく。今回は食料の現地調達も考えてたから、解体用の短刀が懐にあった。それを抜いてハクシュウさんの隣につく。
作業にも慣れてるのか、刃入れに躊躇いがなかった。さくさく切って、塊をごそっとこっちに手渡してくる。僕はその肉を扱いやすい大きさにして、保存用の棚らしいところに並べる。
こんな極寒の地でも、熊の中身は湯気が立つほどに温かかった。魔物を相手にしてると時折忘れそうになるけれど、僕らは他の命を奪いながら生きている。ザンクティンゼルで暮らしていた頃にはよく感じることでもあった。旅に出ても、覚えておくべきことだと思う。
毛皮もなめして使うらしいけど、何故かハクシュウさんは頭部と両足の辺りを氷剣で刺して、壁に張りつけるようにした。いったいどうするのか見ていると、まだ肉と脂が残る皮裏の表面を手のひらでなぞり始める。小さく、ぴき、ぴき、という音が連続して響き、あっという間に全体が白く覆われた。
最後に氷で作った長板で、上からごそっと削るようにする。氷が砕ける小気味良い音と共に、表面の肉や脂が下に落ちていく。
ごわごわした皮裏には、傷ひとつついてない。
驚くべき精密性だった。凍らせる精度、長板で削る時の力加減。どれが欠けても成立しない。
壁にかけた皮を下ろして畳み、隅に除ける。それから切り取った肉をさらに食べやすく分け、焼き始めた。
三人分。
食べろってことなんだろうか。
かなり無口で無表情だけど、優しい人なのかもしれなかった。
熊肉から獣臭さの混じった香ばしい匂いが漂ってきた頃、ナルメアさんが起きた。
さすがに現状が現状だからか、寝起きでも神経が尖っている。即座に状況を把握し、若干警戒しながらも僕の横に納まった。少ししてよく焼けた肉を、三人で黙々と食べる。ちょっと筋張って脂っぽいけどおいしい。
とはいえ、無言のままで居続けるのもなんだか辛い。
思いきって、僕は声をかけてみることにした。
「ハクシュウさん。何か……僕達に、手伝えることはありませんか?」
返答はしばらくなかった。
それから表情を変えないまま、ハクシュウさんはのそりと立ち上がる。
壁の方に置いてあった、獣の皮と蔦で編まれた籠らしきものを背負い、
「付いてこい」
ひとことだけ残して、こちらの動向に構わず歩いていってしまった。
僕とナルメアさんは慌てて腰を上げ、後を追いかける。
小さな洞から広間を通り、外へ。
吹雪はこころなし弱まっているようにも見えたけど、ほとんど誤差みたいなものだろう。僕らは高めに膝を上げないと雪に足を取られてしまうのに、その中をハクシュウさんは躊躇いない速度で進んでいく。霞む視界もものともしない。
というか、いくらエルーンだからって、あんな背中の出た薄着、しかも裸足なのに、全く寒さを意に介してないのは異常だ。
「……イシュミールさんを思い出す?」
「はい」
ナルメアさんの問いに歩きながら頷いた。
氷と冷気を自在に操るドラフの女性。彼女も寒さには滅法強かったし、雪山で肌を晒していても全く苦にした様子がなかった。
それに、
「足跡。気づいてるよね」
あっという間に積もる雪で判別し難いけど、ハクシュウさんの歩いた跡が、薄く凍っている。グリーフランドの雪原でヨダルラーハさんが見せてくれた歩法と同じだ。
移動の速度が落ちないのは、だからだろう。時折目印のつもりなのか、無手から氷の十字架めいたものを作って地面に刺していく。あまり複雑な形じゃないとはいえ、生成が物凄く速い。
おそらくは、水属性の魔法。ナルメアさんと対峙した時の氷剣も、同様の方法で生み出したんだと思う。
剣と魔法の融合技術。
……もしかしたら、この人の戦い方は、ナルメアさんと似通っているのかもしれない。
そんな風に考えている間にも、ハクシュウさんはどんどん先へ向かっていく。
こちらが遅れ過ぎないよう振り向いては止まり、また進んでを繰り返して山をいくらか降ったところで、小さな森に差しかかった。
高い木々に囲まれている分、周囲は積雪が浅い。
地面から生えている草や小さな枝葉が、ひょこんと頭を覗かせている。
ハクシュウさんはそのうちの数本の草を目の前で抜いて、僕らに見せてくれた。
「これと同じものを。五本ほどでいい。あとは、この実だ」
先端の方がぐるりと渦を巻いた草、そして真っ赤な木の実。
どちらも見た目がわかりやすいから、比較的簡単に雪の中から掘り当てられた。
しばらく三人で、ばらばらに分かれて集める。
ハクシュウさんが持ってきた籠に、都度集めた草や木の実を放り込む。僕らが少量を採取する間に、彼はその倍以上の早さで、先ほど指定してない草や実も確保していた。
当然ながら、ザンクティンゼルの植生とは全く違う。似たような外見のものもあるけど、どれも見覚えがない種類だ。
土に栄養がないからか、植物は全体的に小さく細い。ただ、重たい雪に埋もれても萎れず、また起き上がれる強靭さを持っている。
淡々と腰を折って、足元の草を抜く年老いた背中を見つめた。
……改めて考えても、ノース・ヴァストの環境はとても過酷だ。万年雪と氷に覆われ、瘴流域の近さによって異常成長した魔物が数多く生息している。島の端々に造られた港周辺ならまだしも、常人ならただ登ることさえ命懸けなエオニオ山脈で暮らすなんて、いったいどんな経緯があってのことなんだろうか。
「あの、ハクシュウ……さん」
そう思っていたのは、僕だけじゃなかったらしく。
籠に採取物を入れに来たタイミングで、ナルメアさんがハクシュウさんに声をかけた。
「何だ」
「こんなところで生活しているのは、修行のため?」
探るような問いに、成果を籠へ落とした両手がぴたりと固まった。
広げたままの手をハクシュウさんはじっと眺める。
そうして静かに腕を下ろし、わからん、と呟いた。
「気づいたら、こんな島まで逃げていた」
「逃げて……? 誰かに追われてたんですか?」
「いや。人からではない。……過去から、かもしれん」
言って、顔を上げる。
細い瞳が、ナルメアさんを捉えた。
「もし産まれていれば、ぬしより少し上くらいの歳だったろう」
「その言い方だと、お子さんは」
「妻と共に死んだ。もう三十年も前のことだ」
「あ……その、ごめんなさい。言いづらいことを言わせてしまって」
「語ったのはこちらだ。ぬしらが気にする必要はない」
でも、と彼女は俯いた。
色々あってハクシュウさんとは距離感を測りかねていたみたいだけど、心根が優しい人だから、こういう話には結構弱い。
しょんぼりしたナルメアさんに、目の前の老人は微かに眉を動かし、口元を緩めたように見えた。
たぶん、苦笑したんだと思う。
ほとんど表情が変わらないけど、最初の印象よりもずっととっつきやすい人なのかもしれない。
間もなく目標数が集まったようで、再び籠を背負ったハクシュウさんの先導により、一度来た道を戻る。帰りはほとんど無言だったけど、これは吹雪が強くなってきて、単純に喋る余裕がなかったからだ。行きの足跡は降り積もった雪でとっくに隠れてしまってたので、目印代わりに残していた氷の十字架がしっかり道しるべになってくれた。
洞窟の奥に入り、また熾した火に当たって、ようやく人心地がつく。
ハクシュウさんは籠の中身を広げ、手早く仕分けして壁側に作られた棚上に並べていく。
軽く聞いてみたところ、半分は食用、もう半分はすり潰したりして薬になるそうだ。
僕達がノース・ヴァストを再訪する可能性は充分あるから、こういうことを覚えておけば、次に何かあった時にも役に立つだろう。採取した草や実の外見をしっかり記憶しておきたい。
一通り荷物の整理が終わって、言葉少なにハクシュウさんは僕らの事情を知りたがった。ここに来た経緯、これまでの旅路。勿論全ては話せないけど、一緒にノース・ヴァストを訪れた仲間についても伝える。
アレーティアさんの名前を口にした時は、珍しくというか、一瞬引きつったような声を漏らした。昔に噂で聞いたことがあるのかと思いきや、どうも直接戦ったことがあるらしい。何となくだけど、勝負を持ちかけたのはアレーティアさんの方なんだろうな、と想像がついた。あの人かなり負けず嫌いだし。
……それと、少しだけ。
ハクシュウさん自身のことも、教えてもらった。
僕やナルメアさんが産まれるより前の頃に、用心棒、傭兵みたいな仕事で生計を立てていたこと。
ある時立ち寄った島で一番大きな街、そこの領主補佐の娘さんと仕事絡みで知り合って結婚したこと。
その街が、
領主の護衛につき、相手を撃退し続けていたある日、身重の奥さんが攫われたこと。
助けに行った奥さんを目の前で失って、犯人達を一人残さず殺し尽くしたこと。
守りきった領主と義父を置き、報復の旅に出て……何年もかけて、いくつもの島に手を広げていた組織を跡形もなく潰したこと。
復讐を完遂し、愛した奥さんと産まれるはずだった子供を失ったハクシュウさんは、第二の故郷と言えるその島に二度と戻らなかったらしい。ふらふらとファータ・グランデ空域の島々を彷徨って、最終的に辿り着いたのがノース・ヴァスト。
以来、ずっとここで暮らし続けてるんだという。
剣豪として噂が立った理由は本人もよくわからないそうだけど、何度かどこかの国軍の偵察を追い返したり、遭難した人を助けたりしたからかと言っていた。やっぱりこの人、意外にお人好しなんじゃないだろうか。
互いの話も落ち着いて、またハクシュウさんは外に出ていった。ちょっと外の様子を窺いに行くだけで、戻ってきたら約束通り手合わせをしてくれる予定だ。
そして、ナルメアさんは。
刀を左手に置いて、正座の姿勢でじっと目を閉じていた。
瞑想……を、おそらくしようとしたんだろうけど、よく見ると足がぷるぷる震えている。
やがて大きな溜め息と共に、足を崩したナルメアさんが僕の肩に寄りかかった。
「……こういう時ならちゃんとできるかなって、ちょっと思ってたんだけど」
「寝なかっただけでも充分だと思いますよ」
そうかな、と小さな声。
「さっきのこと、気にしてますか?」
「そうかも」
ハクシュウさんが出る前の話だ。
自分語りを終えて、彼は己を弱者だと評した。どこにでもあるような悲劇に勝てなかった、ただの弱者だと。
大事な人を失い、大事な人と過ごした居場所から離れ、過酷な環境に身を置いて……そこでひたすら剣を振り、己を鍛えるだけの日々。誰がどう見たって、真っ当な生き方じゃない。自分を極限まで苛め抜くようなやり方だ。
僕は訊ねた。どうして剣を捨てなかったのか。
それは、何故剣を振るのかという根源的な疑問でもあった。
ハクシュウさんは答えに迷わなかった。反応は即座だった。
――それしかなかったからだ。
妻を亡くし、子も亡くし、復讐を終え、帰る場所も失い、最後に残ったのは剣だけだったと。他に生きる意味はなかったからだと。生の実感は、強くなることの先にしかなかったからだと。
ならば、何故強くなるのか。そうしてどうしたいのか。誰かに勝ちたいからなのか。
今度はナルメアさんが訊ねた。問う声は少し揺れていた。
答えには少しだけ間があった。けれど、簡潔だった。
理由はない。剣を振ることにも、強くなることにも――それは己に勝つ以上の意味を持たないと。
彼が去った後を、ナルメアさんは呆然と見ていた。
聞いた答え、その全てが認め難かったのかもしれない。そう思った。
だって彼女の強さの源泉は、憧れだ。
剣を振ること、強くなること、何もかも、理由は憧れた相手に近づくため。高過ぎる理想を追い求める気持ちはハクシュウさんと真逆で、けれど一度、剣を合わせて実力の差を見せつけられた。
まるで、そんな心持ちでは強くなれないと言われたような気が、したのかもしれない。
「ハクシュウさんは、すごく強い」
「はい」
「でも、それでも、ザンバには及ばない。だから、こんなところで負けてたら、いつまで経ってもあの人には追いつけない」
硬い声色で、自分に言い聞かせるように。
もしくは、自分を追い詰めるように。
僕は……どう声をかければよかっただろうか。
励ますことも、慰めることも、違う気がした。安易な言葉を口にするのは躊躇われて、結局何も言えなかった。
ふっと、ナルメアさんが姿勢を正し、刀を取って立ち上がる。
鋭敏な感覚で、戻ってくる人の微かな気配を察したらしい。さほど間を置かず現れたハクシュウさんに向き直り、準備はできた、と小さく頷く。
「……立ち合う前に、ひとつ聞く」
「私に答えられることなら」
「ぬしが刀を取る理由は」
「追いつきたい人がいるから。私の遙か先にいて……今も強くなり続けてる、そんな人」
「その者の名は」
「ザンバ。今の名は、十天衆、オクトー」
ナルメアさんの告げた名前に、一瞬ハクシュウさんは目を見開いた。
そうか、と呟き、振り返って背を向け、
「語るのは、得意ではない。続きは剣で問う。己が力の全てを示せ」
不器用な口調で言い残し、広間へと歩いていった。
火に照らされた影が消えるまで、その姿を見送る。
僕も遅れて立ち上がり、一歩前に出た。そうしてナルメアさんに手を差し伸べる。
「行きましょう。僕は、ナルメアさんを信じてます」
信じる。
それが軽く聞こえてしまわないように、祈るように手を握った。
握り返してくる力はいつもより弱い。迷いがあるのかもしれないと思う。
強さの違い。戦う意味の違い。どれもきっと、答えのない問いだ。
だから僕は考える。
彼女のために、今、自分ができることを。
■肆 比翼の蝶、連理の刃
洞窟内の広間は、何度見ても凄まじい広さだ。
足場は平たい土の地面。障害物の類も無し。遮るものがないのは、立ち回りでの小細工が通用しないということでもある。
およそ十歩先に、細身の人影が立っている。
ハクシュウと名乗った初老の男に明確な構えはなく、しかし自然体だ。腰帯に差した仕込み杖の柄に、まだ手をかける様子もない。ただ、視線は確実にこちらを捉えている。
初手は譲る、という所作。
私は離れた場所にいるグランちゃんをちらりと見た。真っ直ぐな目。私を信じてくれる、その眼差しに少しだけ勇気をもらう。
脳裏にちらつくのは、敗北の可能性だ。それほどにあの一太刀は恐ろしく鮮烈だった。受けと返しを同時に成立させる魔剣。
初見では為す術もなかった。けれど、二の轍は踏まない。手を誤るつもりはない。
開始の合図は不要。大太刀の柄を握り、私は駆けた。
疾走する視界の中で間合いを測る。明確にこちらが勝るのは、刀身の差だ。自分は届き相手は届かない、その微妙な距離を保つ。
一閃。
順手の居合は、当然のように一歩退くことで躱された。
振りきった刀を引き戻すまでの僅かな隙に、今度は大きく一歩詰めてきた相手の一撃が差し込まれる。いつの間にか抜いた獲物に纏わせた氷剣の縦斬り。速く、何より淀みない。牽制程度の手ではあっても、当たれば身体が割られる鋭さだ。それを私は半身で回避し、そのまま回転の勢いで横薙ぎを叩き込んだ。
氷剣を振り下ろした腕に当たる軌道。けれど、直撃するとは微塵も考えない。
節くれた指が霞んで見えた。頬に感じる微かな冷気。戻しの際、氷剣を解除していることに気づく。元より刀身がほとんどない、剣というより針のような武器は、こちらと比べて遙かに軽いはずだ。故に間に合う。
大太刀の振りは質量に見合った重みと速さがある。ただしそれは、充分に振り抜いた場合。出がかりを抑えられれば、威力は半減してしまう。
だからそうなった。
きぃん、という硬質な音。眼前で氷が砕ける。大太刀が止まり、刃のすぐ下を滑ってくる銀色の光。
「……ほう」
正面から、感嘆の声と吐息が聞こえた。
腹を裂く軌道で来た剣閃を、刀身が受け止めている。相殺の直後に刀を引き戻したからだ。
そうして来るとわかっていれば、対処できないはずもない。
二度は通さないと、視線で伝える。
ずっと無表情だった彼が笑った。
これまでとは似つかない――獣のような笑み。
剣戟が、加速する。
破砕の連音が響いた。十を超える氷剣を砕く。こちらも手数を増やしたけれど、それら全部を凌がれた。回避、防御、防御、反撃、回避、回避、反撃――時に混ぜられる弾きからの返しは全く精度を鈍らせることなく、神経を削り取ってくる。
縮地を織り交ぜ、背中や膝に狙いを散らしても、打ち落とす手は変わらず正確だった。
守りが、堅い。
攻めあぐね、後ろずさって一旦距離を取る。
一箇所に居続ければ、砕けた氷剣の冷気で手足が鈍りそうなのもあった。
けど、安易な仕切り直しを相手は許してくれない。
僅かな前傾姿勢。来る、と思った時には視界から消えていた。
……背後!
構えた刀ごと振り向けば、鋭い突きが間近に迫っていた。脇腹を抉られる寸前、辛うじて躱す。そうして見た。彼の足元、土の地面に薄い氷が広がっている。
また姿が消え、背後からの気配。反転して弾くも、文字通り八方から斬撃と刺突が飛んでくる。縮地のような直線的な移動では不可能な速度だ。防戦を強いられながら考える。有り得ない速さの種を。
地面に広がる氷は、今や私を取り囲むように幾重にも重ねられている。そして攻め手の間に聞こえる、何かが滑るような音。
そうか、と気づいた。
思い出すのは、草や木の実を採りに行った時のこと。
彼の歩いた跡にできていた薄氷。あれは雪に足を取られないためのものだったが、おそらく原理は同じだ。裸足の足裏から氷を地面に張り、さらに踵辺りから微量の魔力噴射をすることで推進力を生み出している。歩く動作がないから身体の動きで前兆を悟れないし、移動しつつ万全の体勢で攻撃に移れる。
けれどそれは、言うほど簡単な技じゃない。
氷の生成自体は、水属性魔法の中でもそう難しいものでもないらしい。以前イオちゃんに聞いた話だ。魔力噴射も同様。自分が一番扱いやすい形で、ある程度指向性を持たせて魔力を放出すればいいだけだという。ただ、二つを同時にこなし、さらには戦闘中に目まぐるしく切り替え、自在に扱っている。針穴に刀の切っ先を遠距離から突きで通すような、繊細かつ継続的な魔力操作。しかも開始から今まで、ほとんどずっと魔法を使い続けている。氷剣の生成と高速移動。どちらも一瞬と言っていい展開速度だ。魔法そのものの効率化も必要なはず。
何より剣の腕前もまた、魔境の域。
アレーティアさんやヨダルラーハさんにも劣らない……いや、間違いなく同等だ。
強い。
だからこそ――負けられない!
刀持つ手に魔力を通す。刀身から淡い色の蝶が溢れ、その姿が霞む。
変ずるは槍。
高速移動と共に迫る身体ごとの刺突を柄で受け逸らし、石突を振るようにして強引に氷剣を弾き飛ばす。そのまま一回転して周囲を薙ぎ払うも、既に相手の姿はない。それは予想通り。重要なのは一息分の時間と距離だ。
踵で回る勢いを保ちながら、獲物を再び大太刀に戻した。横目に対峙する彼の姿を捉える。軌道は上から下へ、刃を斜めに傾け、同時に属性力で刀身を倍化。届かないはずの場所に、紫の刃が届く。
右肩から入る袈裟斬り。不意打ち気味に打ち込んだそれは、回転によって速度、重さ共に充分。
向こうが斬撃を相殺するためには、こちらの初速を抑える必要がある。でなければ、打ち合いで砕けることを前提とした氷剣だと威力を殺しきれない。
故に、出がかりを止められない体勢と間合いから、回避も間に合わない状況で叩き込む。
脆い氷剣と、明らかに受けには向かない錐のような武器で迎え撃つしかない。
そのはずだった。
「想起」
彼の唇が動いた。呟きが辛うじて聞こえた。
そして私の眼前に、四本の氷剣が持ち手もなく突如出現した。
全て、こちらの袈裟斬りの軌道上だ。浮き上がった氷剣はひとりでに動き出し、衝突する。一つ、二つ、三つ、四つ――宙で脆く割れる音が連続する。一本は軽くとも、重ねられればそれなりに勢いを奪われる。
詠唱の言葉からして、おそらく、ここまでの剣閃の再現。
放った斬撃の軌道と場所を記憶していなければできない絶技だ。
今度はびきびきと派手な音を立て、彼の持つ武器が厚い氷を纏う。ほとんど私の属性刃と同じ長さ。逆手での振り上げが、袈裟斬りを寸分違わず真正面から迎撃した。
渾身の一撃が、鮮やかに止められる。
油断はなかった。加減もなかった。全力のつもりだった。
でも、届かない。届いてない。
互いを隔てて、粉々に散った氷の粉が煌めいていた。その光幕を抜けてくる、細い銀の閃き。
余計な思考が致命的な隙を生んだ。
私の利き手、右の肩口めがけて飛来する刺突。
事この期に及んでできるのは、来たる痛みに対しての覚悟だけだった。
なのに――。
きぃん、と。氷の破砕とは違う硬質な金属音が聞こえた。
「……グランちゃん?」
さっきまで離れて見守ってくれていたはずの人が、私の前に立っている。
けれどどうしてかがわからなくて、ただ茫然とその背中を見つめる。
「何故水を差す」
当然の問いだった。
グランちゃんは詰まった息を一度吐き、それから、はっきり言った。
「ハクシュウさん、勝負の前に言ってましたよね。己が力の全てを示せって。僕は……僕だって、ナルメアさんの力です。力になりたいんです」
「それは、如何なる意味か」
「ナルメアさんは一人じゃない。仲間だって、その人の立派な力じゃないですか」
「詭弁だな」
否定するような言葉でも、声色はほんの少し嬉しそうで。
ちらりと見えた彼の口元は、微かに緩んでいる。
甘く見られたのかもしれない。情けをかけられたのかもしれない。グランちゃんが増えても、二人を相手にしても問題ないと、そう態度が示している。強者の態度だ。それを私は非難できない。助けがなければ、利き手が使えなくなるところだったんだから。
認めなきゃいけない。
私は弱い。ザンバどころか目の前の相手に勝てないくらい未熟だ。
弱い――心の中で繰り返すほど、胸が張り裂けそうに苦しく、痛くなる。どこかで増長していた。己の努力、鍛錬、積み重ねた研鑽の、もしかしたら一端程度があの人に届くんじゃないかと。
そんなわけはなかった。
足りない。強さが足りない。努力も研鑽も時間も、何もかもが足りてない。
私より長く生き、生涯の大半を剣振ることに費やした人間が、目の前にいる。
時を以って心身を鍛える。才が同等なれば、流した時の多寡が強さを決めるは道理。
それを埋めるものが努力だと、ずっと信じてきた。
けれど。
最近ようやく、ちょっとだけ、わかった気がする。
己のために得たものは、己のためにしか力を発揮できない。
私は、私が持てる力でしか戦えなかった。
グランちゃんは違った。
いつも隣には誰かがいた。彼は自分だけでなく、誰かのために戦える。
こうして今、私のためにだって。
たぶんそれは私にも、そしてきっとザンバにもない力。
……強くなりたいな。
憧れた人に追いつくために。
そして――私を信じてくれる人のために。
刀を鞘に仕舞う。諦めたからじゃない。再び抜き放つ前準備、戦いの姿勢だ。
「グランちゃん」
「……余計なこと、しちゃいましたよね」
「ううん。ありがとう。……一緒に、戦ってくれる?」
「はい。僕じゃ足手まといになるかもしれませんけど、それでも、力になりますから」
「うん……うん!」
「二人で、勝ちましょう」
一歩。
踏み込んで、グランちゃんの隣に並んだ。
向かって立つ彼――ハクシュウさんが、表情を引きしめる。
「ならば今度こそ、己が力の全てを示せ」
返事はしない。これ以上の言葉も要らない。互いの意思は、戦いの中で伝わる。
最初から目では追いきれない速度。全方位より飛来する無数の剣閃が、私達を揃って斬り伏せんと迫ってくる。
一手、弾く。弾きながら私は左足の踵を下げ、くるりと回る。グランちゃんの後ろを狙った氷剣を返す刀で砕く。そうしてぴたりと背中を合わせた。防具の硬い感触。周囲に撒き散らされた冷気で、うっすらと霜が張りついている。私の服も濡れるけど、構わない。もう充分湿ってるし今更だ。
そこからは、踊るような剣陣だった。
背後の死角を任せ、一人では迎撃が間に合わなければ、もう一人が援護に入る。二人で向きを入れ替え、受け止め、氷剣からすり抜けてくる一閃も同じようにして止める。ひたすらに耐える時間。氷が飛び散り、さらに大気が冷える。防具越しなのに、グランちゃんの鼓動が聞こえてくるように思えた。あるいはそれが自分の鼓動なのかもしれなかった。
白い息。呼吸が重なる。弾く。また弾く。既に五十は超えたはずだ。並の人間、魔物であっても細切れにされかねない剣の嵐に放り込まれて、けれど不思議と焦りはなかった。まるで水中に潜り続けているかのような苦しい時間なのに、どこか楽しくすらあった。
そう。楽しい。
刀を振ること。戦うこと。強いと思った、敵わないかもしれないと思った相手と立ち合うこと。己の全てを吐き出すこと。
仲間と――大好きな人と一緒に、立ち向かうこと。
こんな気持ちになるなんて、はじめてだ。
私にとって、強くなることは通過点でしかなかった。あの人を追いかけ、並ぶための手段。
そこに辿り着かなきゃ意味がない。憧れた人に届かなければ、全部無意味だと思っていた。
弱さは悪だった。だからあの人は私を見なかった。そこに価値なんてないと知った。
ザンバが私を見てくれるようになるには、価値ある強さが必要だった。
忘れられない。冷たい目。無機質な視線。私を置いていった大きな背中。つまらない、と言われた気がした。
だからもう、子供の頃からずっと、私は弱い。あの人にとってのつまらぬモノ。
見向きもされないような自分にはなりたくなかった。二度と。次に出会う時には、認めさせてみせる。そのためには他の何も要らない。そう思ってた。思ってたの。
でもね。
私を認めてくれた人がいる。
あたたかい背中。まだ少し頼りないけど、私に勇気をくれる。力をくれる。
だから頑張れる。戦える。
勝ちとか負けとか、どうでもよかった。そのはずだった。今は違う。負けてもいいとは思わない。負けたくない。勝ちたい。乗り越えたい。
私は、弱い。少なくとも目の前の人より。
それでも。
負ける気だけは――全くしない!
「そこっ!」
胡蝶刃。刀を大振りの刃に変じて薙ぎ払う。三連の氷剣をまとめて砕き、流れるようにグランちゃんと立ち位置を替えた。
攻め手が僅かに、鈍り始めている。
ハクシュウさんは確かに、恐るべき腕前の剣士だ。斬撃どころか刺突さえも相殺し、斬り、あるいは突き返す正確無比な力加減と技量、剣速を両立させた壮絶なほどの術理。水属性、それも氷に関するもののみとはいえ、イシュミールさん並みの規模と生成速度を持つ魔法技術。それらの複合剣技は、一対多の不利を容易く覆しかねない。掛け値なしに、強い。本領は多数の魔物や軍隊相手なのかもしれないけど、凄まじい物量は個人に向けられても十二分に機能する。実際、二人がかりでも防戦一方なのが現状だ。
けれどそれを行使しているのは、あくまでハクシュウさん一人。
魔法や属性力は使うごとに魔力、精神力を消耗するし、当然動き回ればその分体力が削れていく。ましてや彼は老境の人だ。数の差もある。持久戦になれば、有利なのはこちらの方。
突きをグランちゃんが受ける。砕けた氷剣を下から抜けてくる錐。私が援護する前に、衝撃で浮いた剣を手首の捻りと先読みで、強引に落とした。剣の腹が鋼に当たり干渉する。金属が擦れ合う音。
足で回ってたら間に合わない。
私は右肩から背を反らすように跳び上がり、グランちゃんの肩に体重を預けた。そこから肩を軸に宙返り。逆さの視界はそのままに、足から落ちる身体ごと刀を振り下ろす。
錐剣は床へと弾かれている。受け止める武器はない――そう思いきや、彼の空いた左手がいつの間にか氷剣を握っていた。正面から受け止めるのではなく、刃で流すように逸らされる。ざりざりざり、と氷の破片を散らしながらも、辛うじて往なされた。
氷面を利用した高速移動。一気に間合いを離される。
綱渡りの攻防だったけど、ついに崩れた。
距離を取った彼の息は明らかに荒い。おそらく、限界が近い。
とはいえ、私もグランちゃんも、そう余裕があるわけじゃない。消耗度合いで言えば、向こうと大差ないだろう。
たぶん、次が最後。
そう感じた時、私の頭に閃くものがあった。
「ねえ、グランちゃん。ひとつ、試したいことがあるの」
「いいですよ」
即答だった。
「……失敗しちゃうかもしれないよ?」
「大丈夫です。ナルメアさんのこと、信じてますから」
そっか。
うん、と頷いて、私は前を見た。
グランちゃんの言葉が、言葉だけのものじゃないとわかる。
何をしたとしても、間違った選択だったとしても、ちゃんとついてきてくれる。
その気持ちが、本当にあたたかい。
だから、覚悟を決める。
……正直、私は誰かに物事を教えるのが上手じゃない。もっと言えば向いてないと思う。
グランちゃんに対しても、立ち回りとか心構えとかそういう話はできるけど、アレーティアさんやヨダルラーハさんみたいに、ちゃんと理論立った形で丁寧に技術を教え込むような方法は、逆立ちしたって取れない。
私の力。胡蝶刃。
これは技術であり、魔法でもある。刀を夢のようなもの、現と行き来するもの、即ち胡蝶と定義する――己が身を変ずるのは、肉体が刀の一部、延長線上にあるものだと私が認識しているからに過ぎない。
そんなにすごいものじゃないという自覚はあるけれど、かといって簡単に伝えて再現できるわけでもないのは、最近みんなに言われてわかってる。
だけどもし、自分がグランちゃんに教えられる、与えられる力があるとしたら。
きっとそれは、この力だ。
最近私はある魔法を開発していた。独学じゃ上手くできなくて、団内でも詳しい人……マギサさんやスフラマールさん達にも協力してもらって、一応の形にはなったけど、まだ実践したことがない。
ぶっつけ本番。試せるのは今この瞬間だけ。
あまりにも不確かで、か細い可能性。それでも私は、これしかないと思った。
静かに息を吸う。
背筋を伸ばし、合わせた背中、その奥にある彼の身体に意識を集中する。心臓の弾み、筋肉の震え、血のめぐり――やがて二人の音が同じ律動を響かせるまで。
触れた個所を通じ、互いが溶け合っているような感覚。
もっと。もっと深く。どくん、どくんと鳴る鼓動の中から、私とは違う魔力の波長を掴む。
微かに背中越しの身体が揺れた。けれどすぐに治まる。委ねてくれた。それが嬉しい。
本来、他人の魔力は操作できるものではない。間接的に、肉体の機能に干渉することは可能でも、例えば相手の体内の血や水を操れないように、人が持つ魔力には固有の波長があるらしいから。
曰く、波長を意図的に合わせる行為は、互いの命を預け合うのに等しい。
……故に、その成立には、両者の信頼が必要だ。
そして何より、心身を委ね合い、溶け合いながらも、決して己を見失わない意思が。
「我が腕は比翼、我が足は連理、刃の軌跡を此処に伝えん」
唱える。
比翼連理の魔法を。
「――胡蝶想伝」
○
それはきっと、白昼に見る夢のような光景だった。
僕の視界はいつの間にか下がっていて、誰か、大人のひとに頭を撫でられていた。
また景色が変わる。小さな腕が木刀を振っている。上段からの振り下ろし。真っ直ぐ、何度も、愚直に繰り返される素振り。風を斬る音には雑さが混じっていて、僕からしても未熟だってわかる。
楽しいとか苦しいとか、そういう気持ちはないらしかった。
……お父さんの娘だから。
いつか家を継ぐことになるのかはわからないけど、剣を振るのはただ当たり前のことでしかなかった。
けれどある日、あの人が現れた。
大きな身体。ドラフ族の男性としても、特別迫力があるようにも思えた。
彼は自分でも気づかない構えのぶれを、一目で軽く見抜いた。的確な指摘だった。言われて初めて理解して、その通りだと感心したくらいだった。
ザンバ。
遠い親戚だという彼は、強くなることにとても貪欲で。
毎日その背を追って、何をするにも真似をして、憧れて、けれど最初の時以来、彼は一度も声をかけてくれなかった。
ついには道場を去る時さえも。
自分が弱いからだと思った。だから強くならなきゃいけなかった。そうすればまた見てくれると、声をかけて、次こそは名前を呼んでもらえると信じた。
時間はいくらあっても足りなかった。いつしか生家でも敵う相手はいなくなっていた。それは父親も例外ではなく、けれど地に伏せた姿を目の当たりにしても、心に喜びは一切なかった。
そうして、
刀を振る。魔法を紡ぐ。そのためだけに人里離れた山奥にこもり、研鑽の日々を重ねる。
あの人の名前は噂で聞いていた。己の名すらも捨て去った剣神。全空の脅威にして最強の刀使い、十天衆オクトー。
伝説とまで謳われるようになるには、果たしてどれだけ強くならなければいけないのか。
鍛えることに際限はなかった。それでも、修行をすればするほど目指すものが遠ざかっていく気がした。
だとしても、自分にはこれしかない。
腕を磨くこと。強くなること。そうして、憧れた人に認めてもらうこと。
――
やがて僕は空を飛ぶ蝶になっていた。
羽ばたく軌跡を刃が斬り拓く。積み重ねた経験、記憶、その断片を、彼女の過去と壮大な技術を、身体が覚えていく。
ひたむきで、純粋で、泣きそうなほど泥臭い、それはナルメアというたった一人のひとの歴史だ。
人生を懸けて積み上げた、頂上が霞んで見えないような山の頂を目指し続けた強さの意味を、重さを、僕は本当に尊いと思う。
夢は覚める。
瞬きよりも短い間に駆け抜けた、二十四年の追体験。
胡蝶想伝。
ナルメアさんの技術と経験を、融和した魔力を通して一時的に共有する魔法。
言葉にしなくても伝わる。鼓動、息遣い、指先の微細な動きまで。
……ハクシュウさんは、およそ六歩先に佇んでいた。僅かな時間とはいえ、僕達の準備を待ってくれていた。
油断からじゃない。
どんな策、どんな力も、正面から受け止める自信を持っているんだ。
「想起」
いつもより鋭敏になった感覚が、目の前で発された魔力の波を肌で察した。
直後、全周に出現した氷剣が視界を埋め尽くす。二桁じゃ足りない。おそらく、数百本。
ここまでの斬突を再現し尽くしただろう圧倒的な物量の全て、その切っ先から感じる殺意が。
「――氷棺」
一斉に、牙を剥いた。
まるで刺々しい氷の壁が雪崩れ込むように、隙間なく降り注いでくる。
逃げ場はなかった。少しでも躊躇えば押し潰される。斬り刻まれ、刺し貫かれ、当然のように死ぬだろう。
ハクシュウさんの殺意は本物だ。真剣を交わすこの戦いに一切の加減なく、全力で相手してくれている。
ナルメアさんと僕を、認めて。
「グランちゃん!」
「はいっ! 行きましょう!」
踊るように回りながら、宙を走る大太刀の一閃が十数本をまとめて砕いた。氷片が散る。冷たさに痺れそうな右手で柄を強く握り締め、迫り来る氷剣を薙ぎ払う。僕らの周囲を舞う胡蝶が刃先に宿り、土の属性を纏って冷気ごと吹き飛ばした。
何本かがすり抜ける。最低限首の動きだけで回避。頬を掠って血がこぼれる。構わない。刺すような痛みも、寒さも、今の僕らを邪魔するものにはなり得ない。
叫ぶ。
腹の底から力を絞り出す。みっともないのかもしれなかった。けれどそれでいいと思う。気合と根性、上等だ。ちょっとくらいの無茶をしなきゃ、この場所にはいられない。実力では劣ってるだろう。僕は弱い。ナルメアさんより、ハクシュウさんよりずっと弱い。それでもここに立ってる。戦ってる。力になりたい。負けてほしくない。勝ちたい。一緒に。だから。だから――。
今できる、ありったけを!
絶望的なまでに分厚く見えた氷の檻に、亀裂が覗いた。
僕もナルメアさんも、満身創痍だった。回復魔法を使う余裕もない。頬、腕、脇腹、足、至るところに傷ができている。胡蝶想伝――ナルメアさんの魔法がなければとっくに捌ききれなくなってたに違いなかった。かじかんで硬直しかけた手指に力を入れ直す。砕け散った冷気に、微かな血煙が混じって薄赤く霞んでいた。
その、赤霧の奥。
弦を限界まで絞った弓に番えられた、鋭い矢のようだった。
白装束の姿が、腕を軽く引いて構えている。脱力。余分な力はなく、張り詰めた空気が彼の周りを満たしていた。
認識できたことは、奇跡に違いなかった。
叫びが途切れ、こちらが息を吸うまでの間隙。全身の動きからは決して察せず、意識の外から滑り込む、風よりも速い一撃。
動作に中間はなかった。一瞬で懐まで潜り込まれていた。氷の檻も、今なお襲いかかり続ける無数の氷剣も、何もかもを冗談のようにあっさりと抜けてきた――ナルメアさんと僕、二人を串刺しにする軌道で来た刺突。回避は間に合わない。ナルメアさんは氷剣の迎撃で既に刀を振った姿勢だ。だから胴体に迫る錐剣に対し、気づいて、何もしなかった。
振りきって、回る。地を滑る踵がざり、と音を立てる。凶刃に背を向け、そして僕と立ち位置を入れ替える。
背中から伝わる信頼に、応えたい。
足元の氷剣を横薙ぎで砕く、その流れで手首を斜め上へ。剣で止めようとしても届かない。けれど、拳なら――間に合う!
籠手に触れた錐剣の先端が、金属を削り取る強烈な音と共に表面を滑る。手首の角度を変え、籠手の曲線で刺突を逸らし、裏拳の要領で右側に弾く。腕を振る勢いは保ち、踏み出した右足から全身を振り回すようにして、どうにか姿勢を整えた。
そして再び僕からナルメアさんへ、攻守交替。
既に刀の先は宙にある。だから彼女は腰に差した鞘を、外套ごと身を回すことで武器にした。
僕の裏拳で身体が横に流れたハクシュウさんは、脇腹を鞘の振り回しで強打され、突進の速度も相まってそのまま斜め後ろへ殴られたように飛んでいく。意識の集中が切れたからか、未だ数十本を残していた氷剣が軒並み落下してがしゃんと砕けた。
二人揃って、肩で息をする。
彼の方を見やる。ハクシュウさんがゆっくり仰向けになり、
「見事」
満足げな声色だった。
それでようやく終わりの実感が湧いて、全身の力が抜けかけた。危うく腰から座り込みそうになるのを何とか耐え、ハクシュウさんに近寄って手を差し伸べる。節くれた手が、そっと僕を握り返してくれた。
納刀し、呼吸を整えながらナルメアさんもこちらに来る。
僕の肩を借りたハクシュウさんは、ナルメアさんと目を合わせて聞いた。
「楽しかったか」
「……はい」
「そうか。俺も久々に、楽しい手合いだった」
言って頬を緩める。
今までで一番わかりやすい笑みだった。
「生き方を、変える必要はない。強くなることに、優劣もない。ただ、勝つことを楽しめ。負けることを、悔しがれ。己のためでもいい。他人のためでもいい。……この俺にさえ、それだけは残り続けているのだから」
この人、やっぱり不器用なだけで、本当にいい人なんだろうなあ。
ナルメアさんが頷く横で、そう思う。
と、ハクシュウさんは虚空を見上げてから、僕の肩を離れた。
「羽目を外し過ぎたか」
「……何かあったんですか?」
「来客だ」
首を傾げた僕ら二人に構わず、外へ向かって歩き始める。
誰が、という疑問は、続く言葉が解消してくれた。
「そちらの探し人と、おそらく、招かれざる客が」
■伍 剣の果てに求めるもの
私達が外に出ると、すでに吹雪は止んでいた。
ハクシュウさんの案内で進んだ先には、ルリアちゃん達がいた。全員無事だ。特に怪我もない姿にほっとする。
そこは広く緩い下り坂の中途だった。少しだけ見下ろす視界の向こう側に、金属鎧を着用した人々が列を作っている。
これは、どういう状況なんだろう。
「おお、グランにナルメア、無事じゃったか」
「はい。みんなも大事なくてよかったです」
「うむうむ。積もる話もあるがそれは後での。と、お主、やはりハクシュウじゃったか」
「………………久しいな」
アレーティアさんの呼びかけに、物凄く渋い顔でハクシュウさんが答えた。
今までで一番わかりやすい表情だった。
「きっちっち、案の定嫌われとるな。まあ好かれる理由もないし当然じゃろ」
「ねえルリアちゃん。二人の間に何かあったの?」
「えっと……あはは」
「全く、若気の至りってことで片づけてほしいのう。今回は手を出すつもりもないわい。どうも三人で一戦交えた後らしいしの」
立ち合ってきたことは、当然のように見抜かれる。
飄々としていても、剣聖とまで呼ばれたアレーティアさんの眼力はさすがの鋭さだ。
横のグランちゃんは苦笑して、それから彼に訊ねた。
「……で、この人達はどうしたんですか?」
「いやな、儂らもこやつらにはさっきばったり会っただけなんじゃがな」
アレーティアさんが、顎のひげをさすりながら例の集団を見やる。
幾人かは剣を既に抜き、敵対的な空気を漂わせている。
合流した時には私達にも意識が向いてたけど……不躾な視線は概ね、ルリアちゃんに注がれているように感じた。
グランちゃんも気づいたのか、神妙に頷く。
「ルリア目当て、ですか」
「じゃろうな。蒼の少女を差し出せとうるさくての」
以前、グランちゃん達は神聖エルステ帝国と敵対していた。帝国に捕まっていたというルリアちゃんをめぐっての長い戦いを経て、星晶獣アーカーシャを打倒してからは、空域全体に周知されていた指名手配も解除されたものの、却ってそれはルリアちゃんの名前を広めることにも繋がってしまった。
曰く、あの帝国が求めた存在。星の獣すら御する少女。
そういう噂がもう止めようがないくらい勝手に独り歩きしているのは、団のみんなも理解している。普段はそう困らないというか、私達の団は結構な戦力を抱えているので、大抵の襲撃は簡単に返り討ちしてしまえるけれど、こういう状況だと話は別。
特にここでは、ノース・ヴァストという場所の性質的な問題がある。
ファータ・グランデの端、瘴流域を含むこの島では、土地や資源を求めて大小様々な国が領地争いをしているらしい。となれば、中には無駄な野心を持つ国だってあるだろう。領地争いで優位を保つために、戦力を望むような。
「違う。我々の国で保護すると言っているのだ」
「保護と来たか。本人は望んどらんようじゃがの」
「強大な力が一騎空団に所属している現状が異常だと言っている。それは遊ばせておくより、国家で有効活用すべきものだろう」
「な、なんつー言い草だこのヘルメット野郎! ルリアは絶対渡さねーぞ!」
「トカゲは黙っていろ!」
「オイラはトカゲじゃねぇ!」
……今発言していたのは、軍の指揮官か。
私は刀の柄に指をかけた。ルリアちゃんを
こちらの敵意を察したのか、集団が一斉に剣を抜いた。
「……む、よく見ればそちらのジジイ、もしや噂の剣豪か!」
「噂は知らんが、如何なる要件か」
「貴様、あの時はよくも……! 行軍中の我々を突然襲いおって!」
「森の草木を無闇に踏み荒らすぬしらが悪い」
「知るか! 上官には生死は問わんと言われている、蒼の少女と共にあの年寄りも標的だ! 総員、構え!」
ざ、と揃った足音が雪を踏んだ。
人数の割に、統率がしっかり取れている。少々厄介かもしれない。
そう考えながら一歩踏み出そうとした私を、枯れた二つの手のひらが差し止めた。
「娘っ子、グランもじゃ。ここはワシらに任せい」
「お主らはそこの無表情ジジイと充分楽しんできたじゃろ。こっちはここまで大人しい道行きじゃったし、いい加減身体動かさんと手足が鈍りそうじゃからの」
グランちゃんも同じ考えだったのか、握った柄から静かに手を下ろす。
少し後ろでは、ハクシュウさんが何とも言えない顔でアレーティアさんとヨダルラーハさんを見ていた。
「わかりました。二人にお任せします。ルリア、ビィ、危ないからこっちに」
「はいっ。あ、あの、お二人とも気をつけてください!」
「そこの小さいジジイより格好良いところ見せてやるわい」
「お主こそ、はしゃぎ過ぎて自慢のひげをばっさり行かれないようにな!」
軽口を叩きながら、アレーティアさんが二刀を抜いた。
動作自体は、緩やかだった。だからこそ、相手の誰も目で追えなかった。構えた、と思う間もない。一瞬で距離を詰めた影が、敵陣を文字通りに斬り分けた。
斬撃の起こりがほとんどない。一から四の動きに飛ぶような、異様な挙動だ。構えにあるべき拍子がない――無拍子。一瞬だけ刀身は属性力で延長され、直線状にいた人間をまとめて空に弾いて浮かせた。
重い鎧を着た状態では、空中で姿勢制御ができるはずもない。吹き飛ばされた勢いでそのまま緩い坂を数人が転がっていく。
あまりの光景に、戦場が固まった。勿論、その好機をアレーティアさんは見逃さなかった。
空いた人の隙間に身を滑り込ませる。一拍遅れ、間合いへの侵入を許した集団が、囲んで逃げ場をなくそうと動き出す。
けれど遅い。それは悪手だ。
老境に達しながら、二刀を回るように振る姿は美しくすらあった。
剣閃に淀みが一切ない。最小限の力と最低限の動作で、最大の結果を得るための術理。
宙を掻いたのは、獣の爪痕にも似た六本の斬線だった。身体強化と刀身強化の複合魔法を利用した、二刀六連の高速斬撃。とはいえそのまま相手を斬り刻むつもりはないらしく、直撃した兵士の鎧を凹ませるに留めていた。
それでも威力は、人ひとりを叩き伏せるに充分だ。アレーティアさんの周囲、円状に配置されていた六人が同時に苦悶の声を上げて倒れる。
若干引きながらもまだ戦意を喪失していないのは、小国とはいえ国軍の誇りがあるからかもしれない。指揮官が怯むなと叫び、気を取り直した兵士達がアレーティアさんに剣を向ける。
その背中側から、小さな影が跳び上がった。
アレーティアさんを飛び越え、敵兵の足元に着地する。と思った時には、既に抜き放った二本の小剣が兵士の手首を的確に強打していた。骨の芯まで響くだろう痛みに、剣が地面へ落ちる。小さく呻いた兵の股下をくぐり、膝裏を蹴った。一人、がくりと崩れ落ちる頃には、小柄な姿――ヨダルラーハさんは、さらに敵陣の奥へと入り込んでいる。
ハーヴィンの体格は、正面きっての斬り合いには適さない。膂力を比べれば、他種族に負けるのが道理だからだ。故にハーヴィンの剣士は、一般的な剣士とは戦い方を異とする。
それは例えば、身体強化と魔力噴射を主軸に、回転の速度を活かしてハーヴィンらしからぬ威力を発揮するシャルロッテさん。
対してヨダルラーハさんは、ハーヴィンの小ささと身軽さを存分に活用する戦法を得意としている。
小ささは捉え難さに繋がるし、身軽さは速さに通じる。ヨダルラーハさんの剣は立体的で、相手は常に死角を狙われる恐怖と戦わなければいけない。
「隊列を崩すな! 四人一組で押さえ込め!」
後衛から飛ぶ指揮官の指示は冷静だった。
それなりにしっかり訓練されているのか、すぐにヨダルラーハさんは取り囲まれた。
上から圧をかけるように、四人同時に剣が振り下ろされる。けれど、そのうち一本だけを一刀で軽く逸らし、生まれた空間に身を置いてあっさり躱す。
「腕だけで振っとるな。腰が入っとらんから、こうなる!」
「ぬおっ!?」
柄尻で軽く足を小突かれただけなのに、その一人がぐらりと姿勢を崩した。
倒れかかる兵士の下を抜けて囲いを脱し、後ろ宙返りで飛びながら、今度は残り三人の腕と肩を足場にした。ついでとばかりに回転斬りで彼らの武器を巻き上げ、弾き、器用に少し離れた一箇所へ積み上げていく。
アレーティアさんが一歩も動かないまま場を制圧し、ヨダルラーハさんが掻き乱す。
お互い好き勝手に動いているようで、けれど間違いなく息を合わせていた。
攻めあぐねた軍隊が、順当に切り崩される。鎧を凹まされ、あるいは手足を強かに叩かれ、あっという間に戦力が減っていく。
ほとんど戦線が瓦解した中、締めとばかりにアレーティアさんが短く詠唱する。土属性魔法、アースグレイブ。地から生えた幾本もの土槍は、落ちていた武器を残らず宙に跳ね上げる。
「これぞ白刃一掃、なんての」
光が空を分断するような一閃が、浮いた数十本の剣を残らず砕いて彼方に吹き飛ばした。
敵陣にそのまま放てば、同じ数の首を刈り取っていたに違いない鋭さだった。
兵士達の誰もが、呆然と天を見上げる。
同時に戻ってきたヨダルラーハさんが、一歩引いたアレーティアさんの隣に立った。
「ほれ、仕事は済ませた。あとは任せるぞい」
「全く……お前さん、手応えないからって気を抜くの早いじゃろ」
双剣を鞘に仕舞い、息を大きく吐いて、吸う。
「雪の海を割るのも一興よ」
言って、両の柄に指をかけた。
二刀を逆手で抜き、重ね、振り抜く。
一息。
鞘鳴りの金属音が響き、雪と氷の地面に、一直線の深い斬線が刻まれた。
誰を斬り伏せるでもない、絶妙な軌道で。
「万に及ぶ打ち合いを一太刀にて結ぶ、これ即ち万結一閃。……ま、今回の打ち合いは百がいいところじゃがな」
足元の裂け目を見た兵士達が、遅れてへたり込んだ。
もし直撃していれば真っ二つになってたはずだ。あまりにも一方的な展開に勝ち目はないと悟ったらしく、隊長らしき人もだいぶ引いていた。
ちょっと可哀想な気になりつつグランちゃん達と一緒に眺めていると、地鳴りのような音が聞こえ始めた。
近い。
眉をひそめた私に気づいてかどうかはわからないけど、ハクシュウさんが一歩前に出て、彼らに声をかけた。
「疾く退け。すぐに、地面ごと山を滑り落ちる」
「た……退却、退却だ!」
反発するかとも思ったけど、忠告に思い当たるところがあったのかもしれない。軍隊らしくこんな時でも足並みを揃えて、慌てて坂を下って逃げていった。
私達も巻き込まれるわけにはいかないから、少し離れた場所まで移動する。
「……やり過ぎだ」
「いやはや、すまんすまん。若いのにいいところ見せたくての」
言われたヨダルラーハさんが、軽く返して剣を仕舞う。
ハクシュウさんは仕方ないなと言うように溜め息を吐き、道の一点を指差した。
「早く、帰るといい。山の天気は変わりやすい。また吹雪く前に、麓まで降りろ」
突き放すような声色だった。
けれど言葉は間違いなく親切で、それこそが彼の、ハクシュウという人間の生き方なんだろうと思った。
「あ……あのっ、ハクシュウさん!」
「何だ」
「……これから、あなたはどうするんですか?」
グランちゃんが問いかける。
本当に言いたかったのは、もっと違うことのはずなのに。
一緒に行きませんか、とか。
僕達の艇に乗りませんか、とか。
あるいはハクシュウさんも、ここまでの道中で、そういう可能性を考えたのかもしれなかった。
孤独を捨てる未来。
失った人と過去の代わりに、新しい何かを得ることを。
けれど。
「俺の……終の住処は、ここだ」
それを彼は、良しとしない。
半生を懸けて、剣にのみ捧げた生き方を、捨てることはできない。
固い意思だと知ったグランちゃんは、もう何も聞かなかった。
ただ、ありがとうございましたと頭を下げた。
私も。
彼の剣と、言葉から得られた全てに感謝する。
そうして別れ、私達は山を下った。
グランちゃんは、別れていた間のことをルリアちゃんとビィちゃんに話していた。そう長い時間じゃなかったけど、なかなかに濃い内容だ。しばらくは賑やかなままだろう。
私は、三人を少し引いて見守る二人に聞きたいことがあった。
「ハクシュウさん……剣豪の正体には、気づいてたんですか?」
「ある程度の見当はの。確信を得たのは、お主とグランと別れてからじゃったが」
「ワシはアレーティアほど多方面に喧嘩打っとらんからな。上に見てくれるのは嬉しいが、買いかぶりというものじゃよ」
正直に言えば、わざわざ二人がついてくる理由はあったのか、ずっと疑問だった。
ヨダルラーハさんが当人の言う筆頭弟子との関わりを懸念してたのも確かだろうし、アレーティアさんも興味があったのは間違いないはずだ。
勿論、グランちゃん達が心配だったというのも、嘘じゃないと思うけど。
果たして本当に、それだけだったのか。
そう思いながらじっと見つめると、降参とばかりに二人が大袈裟に手を上げた。
「ふうむ……これは何というか、老婆心みたいなものじゃよ。儂らはジジイじゃが」
「老婆心?」
「お前さんが追う相手、十天衆オクトーは、強さを追い求め続けた結果、己の名すら忘れたそうじゃな。家族を失い、過去を捨ててこんな辺境にこもっていたあの男と、どこか似てるとは思わんか?」
似てる……ザンバと、ハクシュウさんが?
困惑する私に、二人ともが苦笑いを浮かべた。
「ま、少なくとも儂やヨダルラーハよりは近いじゃろう。儂は息子や娘を結局捨てられんかった身、ヨダルラーハも裏切った筆頭弟子を追いかけておる。お主の知るザンバに言わせれば、成長を阻害する雑事じゃろ」
「そんなこと……」
「ない、と言いきれるか? とはいえワシらもオクトーについての知識は伝聞じゃ。今言ったことが正しいとは限らん。限らんが、ワシらの立場から言っても伝わらんことはある。その点、別の人間ならば、違う視点から言えることもあるはずだ、とな。正体は何となくアレーティアが知ってそうじゃったしの」
「それとあやつ、性根は相当にお人好しじゃからな。昔いきなり斬りかかっても怒らんかったし」
「このジジイの戯言はともかく、誰であっても、少なくともお前さんのいうオクトーよりは遙かに教え上手じゃろ」
酷い評価だった。でも、妥当だとも思ってちょっと笑ってしまった。
娘っ子はずっと表情硬かったからのー、とおどけて言うヨダルラーハさん、さっきの失言を誤魔化しながらグランちゃん達に追いつこうとするアレーティアさんに、ありがとうございます、と小声で告げる。
……私は、強くなりたかった。
走り続けなきゃ追いつけないと思っていた。憧れた人は、出会った時にはもう随分遠くにいて、振り向いたり、立ち止まったりする余裕なんてないんだと、だから誰かに寄りかかったり、甘えたりする時間もないんだと、ずっと思っていた。
今はちょっとだけ違う。
グランちゃん達についていった動機も、初めは、うん、不純だった。ザンバに少し似てたから。一緒にいたら、いつか会えそうな気がしたから。みんなをダシにするみたいな、ずるい考え。でもいつの間にか、一緒にいることが楽しくて、嬉しくて、幸せで……みんなのことが大好きになっていた。
離れたくないって。
それはもしかしたら、鍛え続けてきた刃を、曇らせてしまう思考かもしれない。
ザンバに言わせれば、惰弱なものなのかもしれない。
しれない、けど。
ハクシュウさんと対峙して、一度負けそうになった時……グランちゃんは私を守って、言ってくれた。
――僕は、僕だって、ナルメアさんの力です。
――ナルメアさんは一人じゃない。仲間だって、その人の立派な力じゃないですか。
嬉しかった。嬉しかったの。
背中を預ける相手がいることが、あんなに頼もしくて安心するなんて、知らなかった。
あの瞬間、私は誰より強かったとさえ、思える。
だから……いつか本当に、ザンバと再会する時が来たとして。
どうなるのかはわからない。どんな形か、想像もできない。けれどその時みんなが、グランちゃんがそばにいてくれたらいい。
私は弱い。未だ弱くて、道半ばだけど……そうしたらもう少しだけ、強くいられるはずだから。
ふわっとした心のまま、私は軽い足取りでアレーティアさんを抜かし、グランちゃんとルリアちゃんを合わせて抱きしめる。
「ナルメアさん、どうしたんですか?」
「ううん。何でもない。いつもどおりだよ」
綺麗な瞳で見上げてくるルリアちゃんに、そう言って。
これが、これこそが私にとっての「いつもどおり」だと、大きく胸を張ってみせた。