ネタバレが嫌だという方は、先にそちらの方を読んでいただきたいなと思います。
化物なのに。化物なのに。化物なのに。
私は――化物なのに。
寄生星人編――①
千葉県某所――雪ノ下邸。
どこか浮世離れした――世界から浮いているような、馴染めていないような、異様な雰囲気を放つ、一軒の洋館。
その前に立てられた白いパラソル、その下に用意された白いテーブルを囲むように、三体の化物と、二人の人間は相対していた。
二人の人間――比企谷八幡、そして霧ヶ峰霧緒。
三体の化物――雪ノ下豪雪、雪ノ下陽光、そして霧ヶ峰霧緒と同一容姿の少年。
これまで、雪ノ下陽光によって、彼女という化物の――『彼女』という化物の、その長い物語が語られ続けてきた。
これは、化物の、化物による、化物の為の物語。
とある一体の寄生虫が、恐ろしく美しい寄生獣となり、ありふれた人間の家族に迷い込んだ物語。
化物としては余りにも美しく、獣としては余りに賢く、人間としては余りに醜かった、小さな生命の物語。
極寒の世界でしか生きられないのに、温かい陽だまりに手を伸ばしてしまった、雪の結晶の物語。
彼女は語る。
美しく、儚く、脆い――雪の結晶のような微笑みを浮かべながら。
比企谷八幡は、そんな彼女を――ただ、見ていた。
+++
「気付いていました――気付いていたのです。知っていた。私は、分かっていたのです。
「綺麗で温かい繋がりで輝いていたその世界の裏で、真っ黒で冷たい残酷な殺し合いで溢れる夜が――ずっと、繰り返されていたことを。
「年を経るごとに、年月を重ねるごとに――あの黒い球体が、その真っ黒な勢力を増し、己が支配を広げていることを。
「数多の“星人狩り”の組織を束ね、吸収し、または壊滅させていった某組織は、まるで自分達の植民地に自国の国旗を突き立てるように――各地に“黒い球体”をばら撒いていきました。
「そして、真夜中――唐突に、
「
「時に人間達の生活を脅かす
「急速に、本当に信じられないようなスピードで、“黒い球体”は世界を、地球を、その手中に収めました。
「何故そこまで加速的に支配を、勢力を広げることが出来たのか。長らくそれは謎でしたが……それを知った時、化物である私も、我が宿主の耳を疑いました。
「そう……死人です。
「……本来、ごく限られた家系の者、人並み外れた特殊な能力を持った者にしか資格のなかった“星人狩り”――数々のオーバーテクノロジーを開発した黒衣は、それをごく普通の一般人にも可能な仕事にしたのです。
「そして彼等は、残る問題――全世界に正しく星の数も程存在する星人に対抗すべく、同じく夜空に輝く星のように全世界に配置した“黒い球体”、そこに配属させる戦士達の補充を、つまりは人材確保の問題を解決するために、とんでもない方法を実現させ、そして躊躇わずに実行した。
「死人の回収――そして、復元。
「そんな、正しく神の如き偉業を、神をも恐れぬ奇跡を、
「地球人を――人間を、畏怖し、恐怖し、こう吐き捨てていたかもしれません。
「この――化物が、と。
「……正直に言いますと、ここまでの情報を得たのは、全てが終わった後なのです。当時、私が気付いていたのは、とんでもないスピードで“黒衣の星人狩り”達が勢力を広げ、恐ろしく精力的に“星人狩り”に乗り出しているということだけでした。
「それを知って、私は兎に角、寄生星人達の組織の制御に努めました――決して、動くなと。じっと息を潜め、隠れ、逃げ
「けれど、私達のような選択をするもの達ばかりではありません。中には黒衣達の行動に、その武力を以て反抗しようとする星人達も決して少なくありませんでした。
「八幡さんが知っているところだと、まさしくオニ星人がそうですね。篤さん達のグループが出来たのはつい最近ですが、オニ星人という種族自体の歴史はかなりふる――いえ、失言でしたね。……そんな顔をしないでくださいな。私にも立場というものがございます。いつか、お話出来ると思いますよ。
「ともかく、星人達も、ただで殺される気など、駆逐される気など――絶滅する気など毛頭なかったということなのです。戦力を集め、仲間を集めて……それは段々と、黒衣による一方的な虐殺から、実力拮抗した殺し合いへと推移していきました。
「つまりは――戦争です。
「……当然、戦争は時を経るごとにそのスケールは大きくなり、被害が広がっていきました。にも拘わらず、その凄惨な爪痕は、どれほどの激戦の後であろうとも、徹底的に表舞台には、表の、昼の日常世界には、その兆候すら見えませんでした。
「ただ、天災の後のように、大地に傷が残るばかり。人間の死体も、化物の死体も、まるで綺麗さっぱり消し去られていました。
「私は……そうですね、怖かったのでしょう。あれだけの地獄を、まるで何もなかったかのようにすることが出来る、何か。おそらくは、あの黒衣の戦士達を擁する組織は、そんなことが出来てしまうくらいの
「そんな組織が、何故か唐突に、“星人”達をこの地球から撲滅せんがばかりに、“星人狩り”を強行している。まるで、何かのタイムリミットが、近づいているかのように。
「……ええ。気付いていた――私は、気付いていました。
「知っていた。分かっていた。それでも――何も、しなかったのです。
「庭師の副官にも、問われたことがあります。――このままで、いいのか、と。
「決まって私はこう答えました。――今は、動くべき時ではない、と。
「私は未来を諦めていました。この身の、彼女の寿命が尽きるまで、ただやり過ごせればいいと、そう諦観していました。
「星人達は、いずれ地球から撲滅されるでしょう。寄生星人も、遠からず内に絶滅するでしょう。
「私は、それで構いませんでした。人間に勝てるとは思いませんでしたし、人間を殺してまで生きたいとも思いませんでした。そもそもの話、死んでいるようなものでしたしね。
「ならば、このまま、ひっそりと、こっそりと――あの綺麗な人間達を、この美しい家族達を。
「そっと、そっと、そっと。
「ただ見守って。このまま、近くで。
「この幸せに…………割り込ませて――。
「――そんな、傲慢で、醜悪なことを、願った……せいで。
「化物なのに。化物なのに。化物なのに。
「私は――化物なのに。
「繋がりを………求めて………しまった…………ッッ。
「私は…………化物。
+++
氷の美少女――氷の微笑女。
雪ノ下家のとある一部の者達から、そう称される一人の使用人がいる。
身請け同然に雪ノ下家へと放り出され、案の定、当時の雪ノ下家の当主である厳冬にその身を弄ばれたその少女は、実の家族と共に全ての感情を失ったかのような、氷のような無表情の人形だった。
だからこそ、まるで氷の彫刻のように美しく――厳冬は、当時僅か十二才だった彼女に魅入られ、廃屋の前で呆然と立ち尽くす彼女を、そのまま車を降りて問答無用で屋敷に連れ帰ったという。
そんな彼女が唯一感情を表す時――それは、ベッドの上で厳冬に犯されている時だった。
氷のようなその顔に涙を浮かべ、目を鋭く細めて、歯を食い縛り、その真っ白な頬を赤く染めながら厳冬を、燃え盛るような凍える瞳で睨み付ける。
そんな少女を見て、厳冬は――背筋の凍るような、この上ない昂揚感を覚えていた。
自分の行為が、自分のこの感情が、ひどく悍ましいものであるということは、厳冬は理解していた。
金にものを言わせて人権を無視して動物のように買い取った、成熟すらしていない、幼いと称するが妥当の、まだ明らかに子供の少女を。
このように力づくに、穢し、傷つけ、そして犯す。
しかし、反吐が出るような自らの行為の醜さを理解していても尚、厳冬は既に、この少女に魅入られ、そして取り憑かれていた。
あの美しい少女が――ボロボロの家でボロ衣を纏い、ボロボロに汚れながらも、それでも氷のように美しく佇んでいた、あの氷の美少女が。
自分の前では全てを曝け出し、その瑞々しい、未成熟ながらも光り輝いている裸身を晒し。
白い肌を赤く染めながら、氷を溶かすような苛烈な感情を剥き出しにし、この厳冬にだけそれを向けてくれる。
氷の中に隠されていた、ぐつぐつと煮えたぎるような――その真っ黒な激情を。
一代にして雪ノ下建設を築き、あらゆるものを屈服させながら栄華を極めたこの男が、唯一手に入れられなかったもの。
全てを手に入れたこの男も、ただ一つ、女の愛し方は知らなかった――愛される方法も、知らなかった。
汚れた陰謀によって婚儀を結んだ、自分よりも二十以上は年下の妻とは、当然ながら愛や恋など生まれる筈もなく――自分の家の中すらも、会社同様に
そこに後悔などない。
これが雪ノ下厳冬という男が自ら選択した末の生き方であり、人生だった。
戦い、戦い、戦い続ける。
敵を潰し、他者を出し抜き、その力と才覚を以て屈服させ――己の城を、雪ノ下建設を天下一の名城に築き上げる。
あの女との結婚も、所詮はその為の契約に過ぎない。
令嬢という己の立場を理解しつつも不満を持て余し、野心を燻らせ、己の能力に対する誇りを抱え、自らの家よりも己の欲望を優先させる――あの女は、己の契約相手としてこの上なく適当な女だった。
そう、安い契約の筈だった。
結果としてあの女は自分が思っている以上に手に負えないじゃじゃ馬ではあったが、女としてならまだしも、仕事人としては己も決して負けるつもりはない――むしろ、初めて出会った自身と同等以上の才覚を持った人材として、それは嬉しい誤算でもあった。……その結果、自宅すらも決して隙を見せることの出来ない戦いの場となってしまったが。それでも、あの女を手に入れることが出来た事実と比べればお釣りがくる。
そう、その筈――その筈だった。
既に人生を折り返した年齢に達した厳冬は、順調に己の人生の謳歌している筈だった。思い通りに生きていて、悔いのない生涯を送っている筈だった。
だが――時折、無性に胸が痛む。
あの女に男がいることには気付いている。
自分と同じように、仕事に全てを捧げている筈のあの女――だが、自分と、あの女には、決定的に違う瞬間がある。
決して派手派手しくはない――が、前日から念入りに何着もの候補から厳選し、いつもの仕事の時以上に早起きをして、気付かれるか気付かれないか程度のメイクを念入りに施して。
そして、何より――美しく、笑う。
見合いの時も、式の時も、一度たりとも感じなかった美しさを、この時、不覚にも厳冬はこの女から感じてしまった。
顔や身体の造形が美しい女だとは知っていた――だが、今まで幾人もの女を抱き、目を張るような美女を送り込まれて来た厳冬にとって、それは心を揺らす要因にはなり得ない、筈だった。
だが、自分に向けられたわけでもない、その笑みの横顔に、厳冬は胸の痛みを覚える。
嫉妬ではない――否、嫉妬なのかもしれなかった。
だが、それはこれから女が会いに行くであろう男にではない。
自分と同じように規格外の才覚を持って生まれ、自分と同じように己の並外れた能力に誇りを持ち、自分と同じように、己の力で何処まで上り詰めることが出来るか、その証明に生涯の全てを捧げている――筈の、あの女に。
自分と同じである筈なのに、自分が持っていないものを持っている――あの女に。
己の妻であるこの女に、厳冬はきっと嫉妬していた。
そして、厳冬は、見つけてしまった。出会ってしまった――出遭ってしまった。
荒れ果てた街の、腐り果てた民家――その軒先に、みすぼらしいボロ衣を纏って佇む、氷の美少女に。
だから、雪ノ下厳冬は、今日も少女を犯している。
己の人生の全てを懸けて、雪ノ下建設という一つの城を築き上げた豪傑が、その身を女として成熟すらさせていない少女に狂わされている。
厳冬は少女を組み敷きながら嗤う――この雪ノ下厳冬が、何と滑稽で、何と無様な有様かと。
だが、少女を己の手で喘がせる度に、己の手で少女の氷に罅を入れる度に――己の心に空いた穴が、何かで満たされていく感覚に陥るのだ。
まるで獣だ。この少女には、己はどれほど恐ろしい化物に見えているのだろうか。
愛されている可能性など微塵もない――この少女は、恐ろしく怜悧で、そして聡い。
己の境遇を理解しているし、だからこそ、このような悍ましい暴挙を受け入れているのだろう。
それでも、屈辱は消えない。成熟しきっていない身体が、心が、この現実を認めてくれやしない。
どうしても溢れてしまう――溶岩のような憎悪が、業火のような憤怒が、氷の美少女の内に秘めた剥き出しの黒い感情を引き擦り出す。
そして、それが厳冬を満たすのだ。
少女に憎まれることで痛む心を、それ以上の耽美な快感で包み込む。
ああ――ままならない。
どれほど年を重ねても。どれほど欲望を満たしても。どれだけ野望を叶えても。
無様に、醜悪に。己が全てで築き上げた、その全てを失ってしまうような愚行だと理解していながらも――繋がりを、求めてしまう。
(……そうか。儂は――)
これが心。これが獣。
これが――人間というものなのか。
なるほど。何と醜く――。
(――ああ……何と、美しい)
そして、厳冬は、己を憎々し気に睨み付ける氷の美少女に、そっと口付ける。
氷の美少女は、涙を零しながら、力無く――目を、瞑った。
+++
(…………随分、昔のことを思い出しましたね)
かつての氷の美少女は、未だ健在の氷のように美しい無表情で、静かに額をその細い指で押さえる。
『彼女』が思い出したのは、自分が“初めて”呼ばれた夜の褥で、行為に耽っている中、無表情無感動無反応の自分に対し、大いに慌てふためいていた厳冬の姿。
滑稽というのならまさしく滑稽の極みだったあの姿を思い出し、『彼女』は静かに微笑みを浮かべる。
氷の美少女――氷の微笑女。
いつからか、『彼女』が浮かべるようになったその微笑みの余りの美しさに、雪ノ下家の家中で密かに広がっているその異名は。
しかし、目の前の若者に対しては、一瞬たじろぎ、頬を赤く染めさせるものの、その激昂を止める程の効果は惜しくもなかった。
「――聞いているんですか社長!? このままじゃ……このままじゃあダメなんですよ!」
若者はオフィス机を叩きながら、事務所全体に響くような怒声を上げる。
室内にいた数名の視線が集まるが、皆静かにPC作業に戻る――これは、ここ最近、幾度となく繰り返された光景だ。
社長と呼ばれたのは、平日は雪ノ下家に使える家政婦長であり、かつて、そして今も密かに氷の美少女と呼ばれる、静謐な美女である。
幾つもの机が固められた島から少し離れた場所に置かれた窓際のオフィス机の椅子に座る彼女――その横に侍るは、休日の今でさえ本業の庭師の恰好から着替えていない細身の青年。
机を挟んで美女と相対するは、Tシャツにジーンズというラフな格好で、スラリと背が高く、髪はオールバックな目つきの鋭い、高校生くらいの若い少年。
他にも、机が固められた島で各々作業する面々は、年若い女性から壮年の男性、果ては歩行に杖が必要そうな老人まで、老若男女が一切の統一性なく集められていた。
事務所の名前は『スマイルカンパニー』。
資材の運送からイベント会場の設備運営まで、様々な業務をこなす――『会社』である。
社長と呼ばれたこの美女が、かつて雪ノ下家の反乱分子を粛清した際、送り込ませた手先を使って系列会社に紛れ込ませた、雪ノ下建設の配下のとある一企業。
氷の微笑女は、偽
勿論、普段は真面目に業務を行っている。
人間社会に溶け込む上で、仕事というのは切っても切り離せない重要なファクターだ。だが、並みの
ならば、そんな劣等生な
そこにはその職場を美女が運営する
千葉のとある駅から程よく離れたオフィスビルのワンフロア。
これが、地球に降り立ち、この惑星で生まれた化物――
つまり、ここに集まっている人間は、全員が人間ではなく化物であり、
この美女も、この庭師も、このOLも、このオタクも、このギャルも、この外人も、この老婆も、このアスリートも、このイケメンも、この教師も、この探偵も、この眼鏡も、この仲居も、みんな、みんな、みんなみんな――化物だ。
どいつもこいつも星人だ――人間に擬態した、
そして、それは、この、高校生も――。
「――シン。何度も言っているでしょう。それは、ダメよ」
氷の微笑女は、その微笑みを消し、氷の名に相応しい極寒の眼差しを、シンと呼ばれた高校生に送る。
「我々『
「――ッッ!! ………だから………それじゃあ、ダメだって言ってるんだ……ッッ」
氷の微笑女の冷たい言葉に、シンは机に叩き着けた両手を拳に変えて震わせる。
そして、睨み付けるように自分達の長である社長に向かって言った。
「黒衣の星人狩り達は、もう確実にこの辺り一帯を手中に収めてるッ! もういつ『標的』にされてもおかしくない!」
「だからこそ、よ。今、この状況で何か行動を起こしたら、それこそ『標的』にされてしまう。私達
「戦おうと言ってるんじゃない! 逃げるなって言ってるんだ!」
シンは、これまで数々の戦いを経てきた歴戦の氷の微笑女の極寒の眼差しを受けて、真っ向から、真正面から言い放つ。
「戦ったって勝ち目がないことくらい分かってる! でも、逃げてるだけじゃあ、隠れてるだけじゃあダメなんだ! 守るんだ! 守る為に……守る為に、戦うんだ!」
叫ぶように言い放ったシンは、何も言わず、ただ冷たく己を見据えて来る氷の微笑女に、項垂れるように目線を逸らしながら、懇願するように言った。
「……社長。あなたも、知っているでしょう。……奴等は、確かに人間の脅威になるような、危ない星人達を優先的に狩ってはいるけれど……今では何の罪もない、ただ地球にいるというだけで、人間達にまるで関わっていない無害な星人達だって、容赦なく討伐していってるんです」
黒衣の星人狩りは、その勢力と支配を増すごとに、その討伐対象を広げていた。
この間、奴等に滅ぼされた『ねぎ星人』は、
そのねぎ星人ですら、黒衣の討伐対象となった。
人間社会に、星人が紛れ込んでいる――それだけで、奴等に脅威と判定されるなら、シンの言う通り、自分達『
この言葉で、氷の微笑女の無表情が、初めて翳った――かのように、隣に侍る庭師には思えた。項垂れているシンは、それに気付かない。
だが、それでも庭師は、何も言わず、こちらは樹木のような無表情で、ただ美女とシンのやり取りを黙して見守るだけだった。
氷の微笑女は、項垂れているシンから目を逸らして、冷たく言う。
「……それでも、私達は、何も出来ない――何もしない」
「っ!? 社長!」
「ならば――あなたは捨てられるの?」
再び顔を上げ、目を合わせる両者。
冷たさを増した美女の眼差し。シンはゾクリと、背筋が凍る錯覚を覚える。
美女は告げる。冷たく、告げる。
「人間を――棄てられるの?」
此処が、この場所が、この千葉が。
既に黒い球体の支配下だというのなら――そして、戦って勝ち目がない相手からの生存を目論むのなら。
逃げるしかない。隠れるだけじゃあ、いつか見つかるというのなら。
でもそれは、その選択は――人間として築き上げてきた今のこの生活を、棄てるということに他ならない。
「……出来ないでしょう――特に、あなたは」
「………………それでも……なら――」
「武力を整える? 戦力を掻き集める? それこそ、奴等の思う壺。ほんの僅かでもそんな素振りをした時点で明確な人類への敵対行為と見做されるわ」
話は終わり。
そう告げるように、氷の微笑女は席を立つ。
「……………もしも」
項垂れ続けるシンは、自分の横を通り過ぎていく美女に、搾り出すように、言った。
「……もしも……あなたが逃げてくれるというのなら――俺は……棄てます」
――人間を、棄てます。
その言葉に、美女の足が止まった。
「あなたが戦えというのなら、黒衣とだって……戦います。……あなたが一緒に死ねというのなら――俺達は、あなたと一緒に死ねます」
シンは、背中を見せる美女に向かって宣言する。
気が付けば、他の従業員も――他の
「………………」
庭師は、氷のように動かない彼女の、背筋が凍るような美女の背中を、誰よりも近くで見守っている。
「俺は、あなたの戦いの、ほんの一部しか知らない。それでも、此処にいる“人”達は、“社長”の戦いをずっと見て来て、社長の為に――死ぬことが出来る者達だ」
シンは言い放つ。自分達を導き続けた、偉大なる
「……俺は……あなたのように、頭が良くない。……だけど、このまま……あなたが作り上げたものが壊されるのを……黙って見ていることなんて出来ない……っ」
歯を食い縛って、俯きながら――己が右手に、縋るように目を向けて。
「あなたの…………それが、どんな答えだろうと、どんな末路であろうと……それがあなたの答えなら……あなたの選択なら――きっと、俺達は」
その右手を開き、見詰め、そして強く拳を作りながら。
氷を溶かすように、熱く、熱く、言い放つ。
「だから――逃げないでください! 俺達を……見てください。それが、どんな選択だろうと……あなたに付いていきますから」
事務所の中に、冷たい、静寂が満ちる。
やがて、氷の微笑女は、己が集めた
「――もう、我々には……守るものが、有る筈です」
社長は告げる――
OLに、オタクに、ギャルに、外人に、老婆に、アスリートに、イケメンに、教師に、探偵に、眼鏡に、仲居に――高校生に、告げる。
――守る為に、生きなさい。
そして、背を向けたまま、氷の微笑女は、寄生星人の棲み家の事務所を後にした。
+++
静謐な美女は――氷の微笑女は、先程の会合を思い返しながら、雪ノ下家への帰路を歩いていた。
今日は家政婦としては休日だが、昼過ぎから外せない用事が入っている。
それは雪ノ下家にとってはとても重要な行事であり、庭師はともかく、美女は会長と社長夫人から直々に参加を要請されているので、こうして朝だけ会社に顔を出した後、速やかに自宅へと向かっているのだ(今でも彼女は雪ノ下家に住み込みで働いていて、庭師も屋敷の離れを住居として使わせてもらっている)。
お互い無言で歩いていた庭師と美女だが、やがてぽつりと美女が呟いた。
ちなみに庭師は街中でも平然と庭師ファッションだったし、美女も流石に家政婦ファッションではないがぴっちりとしたOLスーツと眼鏡姿なので、その氷のような美しい相貌と相まって十分に注目を集めていたが、既に二人は――というより美女は、そんな自分達が注目は集めるものの(人間達にとって)近寄りがたい存在であるということは自覚しているので、周囲に漏れない声のボリュームというのを把握した上で会話している。
話題は、当然ながら、先程の会合のことであった。
まず真っ先に議題に上がったのは、やはり――。
「――変わったわね、あの子も」
「……奴は、元々
あの部屋では遂には一言も喋らなかった庭師も、美女の言葉には相槌を返した。
シン――ほんの数か月前に、美女と庭師が発見して直接スカウトした逸材。
通常の寄生星人とは大きく異なる事情を持つ特別製であり、それ故にか、瞬く間に美女と庭師――
これには、他にも大きな事情がある。
美女が把握している範囲内においては――既に、
氷の微笑女が築き上げた組織は、いわば寄り合いのような集まりだった。
明確にリーダーを決めるのではなく、あくまで種族としての方向性は合議で決める――まぁ、かといって全員が円卓に座って会議するわけにもいかず、選出された代表者によっての少人数での会議となり、そうなると、その有力者を旗頭とする派閥が生まれるのは自明の理である。
つまりは、
複数に分かれれば、それぞれ相手の意見を否定し、自分達の意見を通り易くするために、それぞれの派閥のカラーが出てくる。
美女が率いる派閥が穏健派なら、その意見を潰す為にといわんばかりの好戦派が生まれ、彼等の顔色を窺いつつ身の振り方を考える中立派が生まれる。
創設者の美女は、それもまた一つの成長であると放置していたのだが、此度の黒衣の進撃に当たって――端的に言えば、好戦派が暴走した。
氷の微笑女達の懸命な説得も虚しく、彼等は黒衣達に戦いを挑んだ――何とか、美女は千葉ではなく東京でその戦争を起こすように誘導はしたのだが――結果だけ言えば、大敗であった。
好戦派筆頭派閥の首領、その他会議出席者の幹部等も軒並み討ち取られる大惨敗である。
早まった愚か者の当然の末路――そう割り切れたものは、美女を含めてのほんの一部だった。
同族の敵討ちと復讐に走った奴等がいた――負けた。
武力だけで言えば最強派閥の敗北に恐怖に呑まれた奴等がいた――死んだ。
真に危機感を覚え、隠れ、潜み、逃げ続けた奴等がいた――殺された。
一人、また一人――化物達が死んでいき。
一つ、また一つ――派閥が消え、集団的に狩られ、会議の椅子が空白になっていく。
氷の微笑女の表情が、みるみる内に――凍っていった。
こうして今、
残っているのは、ほんの一部――氷の微笑女が率いる、穏健派派閥のみだった。
元々スマイルカンパニーは美女が用意した隠れ蓑の一つに過ぎなかった。
設立理由は前述の通りで間違いはないが、しかし、今ではあの会社のメンバーと、そして雪ノ下建設の各グループに忍ばせている一摘みの精鋭――のみが、
幸いなのは、気休め程度に幸いなのは、残った
問題は――最大の問題は、
そして――奴等が、牙を剥いたもの達だけでなく、
あの事件により、種族会議にて最大の発言力を持っていた美女の意見に流されていた奴等も、こぞって迂闊に動いてしまった――結果、早死にし、犬死に、無駄死にした。
シンに言われた通り、このまま隠れ潜んでいても、奴等に見つかり、奴等の標的とされる可能性は高いのかもしれない。
だが、戦うにしろ、逃げるにしろ、はっきりとした行動に移すのは、黒衣に発見されるリスクを更に大きく高めるのも確かなのだ。
それは、きっと――致命的な程に。
「………………」
氷の微笑女は、その異名の微笑みを浮かべることなく、氷のような無表情で、氷のように冷たくなってきた空を見上げる。
一面の曇天。今夜は、もしかしたら雪が降るかもしれない。
雪は嫌いでもなければ、好きでもない――それは、彼女にとって、この世の殆ど全てが当て嵌まる枠組みだけれども。
絶滅するか。それとも生存するか。
氷のように冷たい美少女は、その美し過ぎる相貌に――終ぞ、微笑みを浮かべることはなかった。
ただただ、哀れみだけを、浮かべていた。
氷のように冷たい彼女の、氷のように冷たい思考は、ずっと――たった一つの答えのみを出し続けていたから。
「――なぁ」
滅多に聞くことが出来ないけれど、彼女にとっては聞き慣れた声が、何故か横からではなく背後から聞こえた。
立ち止まり、振り向くと、街中でどうしようもなく浮いている庭師姿の男が、彼女を樹木のような無表情で真っ直ぐ見据えている。
「……あら、珍しいわね。あなたの方から話しを切り出すなんて。今夜は雪でも降るのかしら」
そんな風に茶化してみるが、それでも庭師は何も返さず、ただ静かに口だけを動かす。
「お前の――守るものとは何だ?」
庭師の、その言葉に――彼女は。
一瞬、大きく目を見開いて――微笑みを、浮かべて。
「――行って来るわ。……今夜は、きっと遅くなる」
振り返り、背を向けて、一人――雪ノ下家へと、帰っていく。
「………」
その背中を、庭師は立ち止まり、佇んで、見送る。
ブルルルと庭師の懐で振動する携帯電話。
庭師は、パカッとそれを開いて、彼女の背中から目を離さずに応答した。
「――俺だ。…………ああ。分かった。すぐ戻る」
その表情は、樹木のように無表情で。
「…………ああ。アイツは戻らない。客には――俺が
その瞳は、冷たく――氷のようだった。
そして。
灰色の空は、黒く染まり――夜が、来る。
暗い、暗い、夜が。
冷たく、寒い、夜が。
美女は、庭師は、そっと息を吐く。
そして吸い込んだ冷たい空気は、恐ろしい程に、借り物の身体にしっくりと滲んだ。
夜が来る。
暗い、暗い、夜が。
冷たく、寒い、夜が。
息が凍るほどに、冷たく寒い――真っ黒な、夜が来る。