比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

11 / 101
 彼は普通の人間だった。

 豪雪は微笑む――これが、愛の力なんだと。


寄生星人編――⑪

 

 雪ノ下陽光(ひかり)は“半血”である。

 

 たった一代で千葉県でも有数の権力者へと上り詰めた稀代の人間と、雪女の身体に寄生した奇跡の化物の間に生まれた半血(ハーフ)――『混血種(ハイブリッド)』である。

 

 雪女の血筋で、夜の世界に棲息する化物の娘でありながら、太陽の光を意味する名を持って生まれた彼女は、生まれた時から、誰からも愛される子供だった。

 人間の父親は勿論、化物の『母親』ですら、我が子は人間だと、そう認識せざるを得ない程に――雪ノ下陽光は、世界からも愛された子供だった。

 

 その容姿は、まるで天女のように美しく。

 その才知は、まるで天才のように冴えていて。

 その笑顔は、まるで天使のように愛らしかった。

 

 人間離れしたルックスを誇り、人間離れしたスペックを誇り、人間離れしたカリスマ性を誇っていても、誰しもが、こう信じて疑わなかった。

 

 雪ノ下陽光は、世界に愛された――人間だと。

 

 だが、真実として、雪ノ下陽光は半血だった。

 純粋な人間ではなかった。半分は化物で出来ていた。

 

 混じりモノ。半端モノ。出来損ない。稀少種。

 数々の意味を持つ“混血種”という存在であることが発覚した彼女は――だが、しかし。

 

 もし、ここで、彼女の心境を尋ねることが可能だとしても、お前はそんなモノな訳だがどういう気分なのだと突き付けることが可能だとしても、彼女はそんな愚問を尋ねた愚か者に対して、見下すことを隠そうともせずにこう言ってのけるだろう。

 

――何を馬鹿なことを。私は私以外の、ナニモノでもないわ。

 

 自分が何で出来ているのかなど、どうでもいい。

 

 私の父親は雪ノ下厳冬。母親は、雪ノ下照子と、そして『彼女』だ。

 この身体は、父と母にもらったモノだ。流れる血潮は、父と母から受け継いだモノだと。

 

(私は――私だ)

 

 光り輝く才能が、彼女の魂を照らし出す。

 美しい新雪のような穢れなき白が、太陽の光のように真っ白に彼女を輝かせるのだ。

 

 雪ノ下陽光は“半血”である。

 人間の美しい弱さと、化物の恐ろしき強さを併せ持つ――混血種。

 

 そう、混血種には、もう一つの意味がある――奇跡の存在。

 

 傾く大樹の先に、不気味に光る灯篭の輝きが増していく中――そんな汚い光を打ち消すように、己の前に出て、美しい輝きを纏う彼女を見て、『彼女』は思う。

 

 ああ、やはり――我が子は、人間だ。

 

 我が子なのに、人間だ。

 

 化物の血を引いていようと。人(あら)ざる異能を発動しようと。

 

 こんなにも美しい存在が、化物である筈がない。

 

 こんなにも暖かい存在など――人間であるに、決まっている。

 

 それが、今は、こんなにも誇らしい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「立って、お母さん。立ち上がって、前を向きなさい」

 

 変わり果てた“半身”に、戦い抜いた相棒の成れの果てに――傾いた大樹に、膝を着いて手を添えていた『彼女』に背中を見せながら、雪ノ下陽光は言った。

 

「上を向いて、敵を見据えて、最後の瞬間まで戦いなさい。庭師さんがそうしたように。それが、上に立つ者の務め――それが、女の、意地というものでしょう」

 

 遂には左腕をも凍らせながらも、真っ白な氷気を纏う彼女は――ただ美しかった。

 その氷気は、己の身体を蝕み、凍り付かせると知りながらも、それでもなお、氷結を恐れず、支配してみせると言わんばかりに異能を発動し続けている証拠――戦意を失わず、言葉通り、戦い続けている証拠だった。

 

 その背中に見蕩れていた『彼女』は、“半身”を引き裂かれた痛みと喪失感に打ちひしがれかけていた己が、娘の言葉と背中に奮わされたことに気付く。

 

「……娘が『母親』に女を語るなんて……十年早いわね」

 

『母』は並ぶ。

 己の子宮から産み落とした、己が半血を受け継いだ、この世の何よりも美しい――“半血”と並び立つ。

 

 目の前に伸びるのは、一本の大樹。その先には、煌々と怪しく輝く一つの灯篭を持つ、ニタニタと笑う人間(かいぶつ)

 大樹に身体を呑み込まれても、身動き一つ取れなくとも、男は笑うのを止めない。天才は諦めることを知らない。

 

 人間は――どこまでも怪物になれる。

 だから天才は――何度でも、こう叫ぶ。

 

「シネェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」

 

 最大限にまで膨れ上がった怪炎は、遂には一筋の巨大な光線となって発射された。

 それはレーザーよりもビーム――キャノンと表すべき、まさしく大砲が如き一撃。

 

 大樹の表面をガリガリと()き削りながら、その大樹と同等の直径を持つ破壊光線が、真っ直ぐ大樹の根元で並び立つ母娘(おやこ)に向かって放たれた。

 

 対して、母娘は、一歩も逃げずに、立ち向かった。

 

『母』は氷が融けたかのような静かな微笑で。『娘』は太陽の光のような温かな嬉笑で。

『母』は真っ白な刃の右手を、『娘』は凍り付いた左手を――前に突き出す。

 

 一度、瞑目して――『母』は。

 美しい白刃の右手を、己が化物の象徴たる右手を――刃物を握ったことすらなさそうな、白魚のような女性の手へと、変形――変化させた。

 

 最早、これが本来の姿なのか、それとも仮初(かりそめ)の化けの姿なのか、自分でもよく分からない。

 それほどまでに、己は化物に染まり、そして人間に染まったのだ。

 

 小さく苦笑した『母』は、そっと隣の『娘』を見る。

 陽光は、悪戯っぽく微笑みながら、凍り付いた左手を揺らした――まるで親に甘えるように。

 

 その微笑みに、微笑みを返しながら『母』は、その白魚の手をそっと伸ばして、容易く白刃へと変わる己に恐怖を覚え躊躇しながらも――触れた。

 

 壊れ物に触れるように、冷たく凍り付いた娘の手に触れ、そして握った。

 やがて、ゆっくりと、ゆっくりと――強く、強く、握り締めた。

 

 娘の体温を求めるように、強く、強く握り、そして――氷を溶かした。

 

 陽光の凍り付いた手が、人間の体温を取り戻していく。

 まるで、日の光を浴びたかのように。

 

 正確には、雪女の異能を、氷を操る異能を操る『彼女』が異能によって氷を溶かしたのだ。氷を操るということは、氷を創り出すだけでなく、当然、溶かすことも出来る。更に正確に言うならば、()()()()()()()()()()()()()()()()のだが、それはいずれ語る機会もあるだろう。

 

『母』が、娘を蝕む氷を溶かした――今は、それだけが事実だ。

 

 そして、『母』と『娘』は――指を絡めながら、お互いの体温を感じるように手を繋ぐ。

 五指を組むように繋いだそれを、『母娘』は、銃口を突き付けるように、自分達に迫る破壊光線へと向けた。

 

 ギュッ、と。

 お互いを感じるように、力を分け与え、膨れ上がらせるように――鼓舞し合うように、勇気付け合うように、『母』と『娘』は、支え合う。

 

(――伝わる)

 

『娘』は受け取る。

『母』の(てのひら)から、『母』の温もりから――『母』の、冷たさから。

 

(――伝わる。この冷たさの使い方が。雪女の冷気の扱い方が。……すぐさま完全に掌握することは出来ない…………でも、この一撃になら! お母さんと、一緒なら!)

 

 そして、それは、一方通行ではない。

 

(――伝わる)

 

『母』は受け取る。

『娘』の(てのひら)から、『娘』の温もりから――『娘』の、暖かさから。

 

(――伝わる。この暖かさの強さが。人間の……美しさが。……もう、『私』の生命も尽きるでしょう。………でも、この一撃だけは…………この子、だけは――ッ)

 

 瞬間――雪女の『母娘』の繋いだ手から、吹雪が発生した。

 

 怪炎と雪嵐が激突する。

 

 閃光で世界が包まれ、衝撃が轟き――――そして。

 

 

 

 ()は、これをただ見ていることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下豪雪は“人間”である。

 

 天才でもなければ半血でもない。

 何処からどう見ても何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の人間である。

 

 知能も、運動能力も、容姿も、体躯も、いずれも標準以上ではあるけれど、どれもが規格を外れない、優秀の二文字で収まってしまう程度の男だった。

 

 生まれは標準よりも少し貧しい家庭だった。母親がいないシングルファザーの家だったけれど、金に苦労した覚えはない。良くも悪くも倹約家な父親の方針で贅沢を出来たことは滅多になかったけれど、それでも普通に幸せだった。

 父の幼馴染だという女性がちょくちょく家に来ては遊んでくれたし、一緒に旅行にすら出掛けてくれた。

 

 空腹に飢えいたこともなく、愛情に餓えたこともない。

 親族を殺されたこともなければ、幼少期に酷いイジメや虐待を受けたこともあり得ない。

 

 数奇な運命も背負っておらず、特別な血筋も流れていない。

 

 雪ノ下豪雪――彼は普通の人間だった。

 そんな普通な男に、強いて挙げる特別があるとしたら――そう。

 

 雪ノ下陽光という()()にとって、特別な人間であったということだろう。

 

 豪雪少年は生まれたその時から凡庸だったが、陽光少女は生まれたその時から特別だった。

 この世に幾億幾万といる人間の一個体に過ぎなかった豪雪は、だが、偶々偶然、何の因果か、雪ノ下陽光という世界に愛された存在に、最も近い場所に生まれ落ちた。

 

 生まれて初めて出会う、自分以外の同世代の存在。

 これがもし、小学校入学時に出会う何十人もの一人だったならば、豪雪は陽光の特別にはなれなかっただろう。

 

 あくまで、親同士に複雑過ぎる繋がりがあり、それ故に、それこそ物心つく前から、同じ病室で誕生したその瞬間から、他の誰よりも先にお互いに出会っていたからこそ、陽光にとって豪雪は特別な存在となりえ、豪雪は特別にとっての特別となれる程度の人間となりえたのだ。

 

 兄弟もおらず、孤児であったシングルファザーの父親のみが家族だった豪雪少年にとって、周りは全て()()だった。

 訪ねて来るのは父の友人ばかりであり、その殆どが独身であった者達ばかりだったが故に、豪雪の周囲に己と同世代の子供は――豪雪の友達となれるような存在はいなかった。

 

 幼い豪雪にとって大人とは自分とはまるで違う別の生物であり、彼等の話は己とは別世界の出来事で、豪雪にとって彼等は異世界の住人のようだった。

 そんな中、豪雪にとって己と同じように幼く、同じ目線で同じ世界を生きる存在は――雪ノ下陽光だけだった。

 

 だからこそ、豪雪は幼き日、こんなことを思っていた。

 

 自分は()()()()()()()()()()()()、と

 

 子供心ながらに感じていた――目の前のこの女の子は、自分とは明らかに違う存在だと。

 

 この子は道行く人々の誰もに愛された。

 この子は見聞きした事柄の全てを理解した。

 この子は目にした動作の何もかもを再現した。

 

 そんな子が、そんな存在が、自分と同じ存在だとは思えなかった。

 そんなことを父親に言うと、笑って頭を撫でられながら、それはお前が男の子であの子が女の子だからだよと諭されるように言われる。

 

 だが、そんな言葉が当て嵌まらないことを、子供ながらの直感力で豪雪は理解していた。

 

 あの子は違う。自分とは違う。

 それでも、あの子は愛されている。大人達に愛されている。

 ならば、あの子は大人達の仲間で、大人達はあの子と同じ世界の住人なのだろう。

 

 それならば、あの子は人間で、だとすれば――自分は――。

 

 豪雪少年が、無表情ながら漠然と抱いたそんな疑問は、二人が小学校へと入学し、たくさんの同世代の子供達と出会ったことで、容易く氷解する。

 

 自分は普通だった。自分は凡庸だった。自分はおかしくなかった。自分こそが――人間だった。

 雪ノ下豪雪が世界の大多数を占める人間という存在で、雪ノ下陽光こそが世界でも数少ないほんの一部の特別だった。

 

 それにほっとしなかったかと言えば、嘘になる。彼は普通の子供だったのだ。

 だが、それでも、豪雪少年は普通の男の子だったのだ。

 

 例え特別でも、みんなと――己と、違っても。

 誰からも愛され、誰からも持て囃され――誰からも特別扱いを受ける少女を、今更、特別扱いできなかった。

 

 特別だからこそ、みんなと同じように扱うことが出来なかった――特別扱いしてしまった。

 

 だって、生まれて初めて出会った同世代の女の子で、みんなよりもずっと前から一緒にいる女の子で。

 自分とは違うと分かっていたけれど。特別なんだとは分かっていたけれど。

 

 それが本当の意味で特別なんだと気付いたからといって。

 彼女を特別なんだと感じるのが自分だけではないのだと気付いたからといって。

 

 今更、態度を変えるなんてこと――恥ずかしくて出来なかった。

 

 興味のない振りをした。何とも思ってない態度を崩さなかった。

 邪険に扱うことは父親の育て方が良かったから出来なかったけれど、淡々と対応することを心掛けることは出来た。

 それ故か、いつの間にか随分と無表情がデフォルトなクールなキャラになってしまったけれど、でも、しっくりくるから元々自分はそういう人間なのかもしれない。

 

 そんな豪雪だったからこそ、きっと陽光は特別に感じたのだ。

 

 自分を特別扱いしない存在。特別な特別扱いをしてくれる存在。

 ずっと変わらない態度で接してくれる存在。特別な自分を、特別だと思って尚、特別だと言って逃げないで、一緒にいてくれる存在。

 

 こうして、雪ノ下豪雪は、雪ノ下陽光にとっての特別となった。

 

 それは凡庸なる少年にとって、普通なる人間にとって、とても過酷な人生だったことだろう。

 

 彼は優秀だった――だが、決して天才ではなかった。

 理解するには時間がかかるし、身に付けるには努力が必要だし、愛される為には愛さなくてはならないし、労せず輝いていられる彼女とは違い彼が輝く為には己を磨かなくてはならなかった。

 

 彼女のように世界に愛されなくとも、世間に受け入れてもらう必要はあった。

 雪ノ下陽光という特別の、特別な人間に相応しいと、認められなければならなかった。

 

 故に、雪ノ下豪雪は、普通に努力した。

 努力して、努力して、努力して――そして、努力は報われた。

 

 雪ノ下陽光という特別を伴侶とし、雪ノ下厳冬という特別が築き上げた会社を受け継いだ。

 いずれも普通の人間にとっては、成し遂げるには至難とも思える偉業だが、それでも、雪ノ下豪雪は――頑張って、成し遂げた。

 

 少しは特別な人間になれた気がした。

 でも、今、改めて実感している。

 

 少しは特別になれた気がしていた。少しは近づけたような気がしていた。

 それでも、今、改めて痛感している。

 

 己の――凡庸さを。

 

 自分が、普通であるいうことを。

 

 雪ノ下豪雪は人間である。

 

 普通に怖い。普通に寒い。普通に痛い。普通に眩しい。普通に熱い。普通に眠い。普通に寂しい。普通に恐ろしい。

 

 普通に脆く――普通に死ぬ。

 

 雪ノ下豪雪は人間だ。

 何の変哲もない何処を切り取っても何も出てこない――種も仕掛けもないどこにでもいる人間だ。

 

 息の詰まるような過去もない。父親や母親が化物でもない。

 英雄の子孫でもなければ、魔王の生まれ変わりでもない。

 海賊王も火影も目指さないし、ペガサス流星拳も北斗百裂拳も撃てないし、地球に落とされたサイヤ人でもなければキン肉星の王子でもない――普通の人間だ。

 

 ただ、初恋の女の子に相応しい男になる為に頑張った、只の普通の人間だった。

 

 だからこそ――身体が勝手に動いたのだ。

 

 怖くても、恐ろしくても、特別な身体や秘めた能力もなくても、何のご都合主義の恩恵も受けられない身分だと分かっていても。

 

 気が付いたら動き出してしまう――彼は普通の人間だった。

 

 好きな女の為ならば、何だって出来てしまう男だった。

 

 豪雪は微笑む――これが、愛の力なんだと。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 灼熱の極寒の衝撃が走り、閃光が辺りを包んだ。

 

 そして、豪雪がゆっくりと目が開けると――そこは、銀世界だった。

 

 自分達がいた周辺の全てが、銀色に凍り付いている。

 地面も、森林も――あの大樹も、その全てがまるで氷像のように。

 

 呆然と座り尽す豪雪は、ふと頬に感じた冷たさに、夜天を見上げた。

 

「…………雪」

 

 星々が煌めく夜空には雲などまるで見当たらないのに、ゆっくりと、しんしんと、真っ黒な天を彩るように真っ白な雪が降っていた。

 

 その時、豪雪の背後から――ジ、ジジという音が聞こえる。

 

「ッ!?」

 

 反射的に後ろを振り向くと、そこには――奇妙な電子音と共に姿を現していた機械腕が、太刀を豪雪の背中に向かって振りかぶっていて――バタン、と、そのまま力尽きたように崩れ落ちた。

 

「――っ! これは……」

 

 豪雪はそのまま勢いよく立ち上がり、辺りを見渡す。

 すると、この機械腕と同じように、幾つもの自分達の背後から迫っていたであろう機械腕達が強制的に姿を露わにさせられていて、そのどれもがバタバタと力尽きたかのように倒れ伏せていく。

 

 その中の、最も多くの機械腕が殺到している場所には――二人の人間離れした美女が手を組み、上空に向けている姿勢のまま凍り付いたように佇んでいた。

 

 バタバタバタと機械腕が一斉に機能停止していく中で――ぐらりと、陽光の身体も力尽きたかのようにぐらりと揺れて、倒れかける。

 

「っ!? ひか――」

 

 豪雪が反射的に駆け付けようとする――が、急激に下がった外気温によって、凍り付いてはいないまでも寒さによって固まっていた身体は言うことを聞かずに、凍った地面に滑ったように片膝を着いて体勢を崩してしまう。

 

 そんな豪雪の目の前で、愛する妻はその『母親』にしっかりと支えられていた。

 

「……大丈夫ですか?」

「……私、はね。……あなたの方が、大丈夫じゃないじゃないの」

 

 己の背中を抱きかかえるように支える『母』の頬を、見上げずにただ慈しむように撫でる――その声は、か細く震えていた。

 

 豪雪も、絶句する。

 

『娘』を支える『母』の肌は、息を呑むかのように白だった。

 かつて太陽のように輝いていた白でもなく、先程までの死人のような白でもない――雪のような白だった。

 

 真っ暗な冬山の吹雪の中に消えてしまいそうな、暗く、冷たく、黒い白。

 

 肌だけではない。

 烏の濡れ羽のようだった髪も、息を呑むようなアイスブルーの瞳も、全てが真っ白に染まっていた。

 

 身に付けていた喪服の黒と、肩口で未だ灯る黒火だけが、その白の中で妖しく映えている。

 その黒すらも夜の中に溶け込み――まるで、今にも消えてしまいそうだった。

 

『娘』もそれを察しているのか、もう何も言わない。何も言えない。

 

 ただ、己を包むこの『母』の温もりが――この冷たさが、消えてしまうことに怯え、恐れ……悲しんでいた。

 

「…………おか、あさん……っっ」

 

 涙を染み込ませるように、陽光は『彼女』の肩口に顔を埋めた。

 そこには、氷で覆われた中で『彼女』の生命を奪い続けていた黒い灯火が宿っていて、皮肉にも少し暖かかった。

 

「……あなたには、残った『私』の――この身体の、[彼女]の異能(ちから)を出来る限り明け渡しました。今は身体に馴染まずに辛いでしょうけど……あなたはこの[身体]から生まれた、『(わたしたち)』の娘。いずれ問題なく、あなたの一部となる筈です」

 

 そうなれば、あなたはずっと、『(わたしたち)』よりずっと、長生き出来るわ――そう言って『彼女』は、『娘』の身体を己に向かせ、涙を拭うように頬を撫でる。

 

「――幸せになりなさい」

 

『彼女』は、娘への最期の言葉に、かつて己が贈られた遺言を選んだ。

 

『娘』の涙を拭いながら、己が生んだ存在を確かめるように触れ合いながら。

 

 一言一句、生涯己が胸中に渦巻き続けた、ぐちゃぐちゃの何かを、込めるように。

 

「人を愛して、愛する人と、幸せになりなさい」

 

 そして、『彼女』は、己が死期を目前にして――悟る。

 

(…………ああ、愛しい)

 

 これが、愛するという――感情。

 

 腕の中の陽光(ひかり)を、まるで陽光(ようこう)のように暖かい微笑みで見詰めていた『彼女』は――これまでの生涯で、間違いなく最も美しかった。

 

「――――ッッ」

 

 陽光は、ただ力いっぱい『母』の胸にしがみ付いた。

 涙も、嗚咽も、全てその場所に染み込ませて、己が“半血”の細胞に、『母』の全てを染み込ませんとばかりに。

 

「……行ってくるわ――【愛してる】」

 

『彼女』は『娘』の額に、そっとキスをした。

 

 いつか何かで、愛情を伝える行為として学習したものだった。

 初めてやってみたけれど、なるほど心が暖かくなり、己の中の愛情も増した気がした――極限に冷たくなっていた身体が少し温かくなったように感じたのも、きっとその副産物なのだろう。

 

 そんな行為を受けた『娘』は、初めは呆然としていたが、やがて黒いくらいに真っ白の肌を火照らせているように見える己が『母』の姿に、泣き顔を眩しい笑顔に変えて。

 

「――私もよ! 愛しているわ、お母さん!」

 

 その冷たくて温かい頬に、キスをして――送り出した。

 

『彼女』の、最期の仕事に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 くらりと、『彼女』が離れた後によろけた陽光を今度こそ支えようと豪雪は動くが、陽光は独力で倒れ込まずにしっかりと立った。

 

 そして、凍り付いた傾く大樹を登っていく『母』の背中を、強く、眩しい眼差しで見遣る。

 

「………………」

 

 豪雪は何も出来なかった。

 

 何も出来なかった自分は、何もしていない自分は、何もしてはいけないように思えた。

 

 そんな姿を、ただ、見ていることしか出来なかった。

 

 雪ノ下豪雪は、ただの人間でしかなかった。

 

 

 

 

 

 凍り付いた大樹の上を、『彼女』は歩く。

 

 一歩、一歩――踏みしめるように。

 

「…………」

 

 俯き、見詰める地面――大樹は、『彼女』に付き従い続けた『彼』の、【彼女】に寄り添い続けた【彼】の、変わり果てた姿。

 

(……ごめんなさいね。冷たいでしょう。……もう少し我慢してください)

 

――【私】も、今、そちらに逝きますから。

 

 そして、『彼女』は顔を上げる。

 

 心臓の鼓動が一刻一刻と弱り続け、全身に血流が行き渡らず、体温を失い、身体の芯から凍り付き始めている『彼女』は――だが。

 

 その歩みには、一切の乱れなく。

 

 その姿には、気品すら溢れ出して見えて。

 

 その背中には、まるで太陽の光を背負っているかのように、輝いて見えた。

 

 その目の先には、身体の大部分が木に埋まり、その上から更に堅牢な氷の檻に塗り固められて――ただ、何かを握り締めた右手だけが突き出しているのがいっそ却って哀れに見えるような、そんな死に様を晒している、レジー博士の姿だった。

 

 そう――死んでいる。

 レジー=ぺテルト=バルトマールは、誰がどう見ても死亡していた。

 

 万が一、生きていたとしても、奴にはもう何も出来ない。

 右手だけでは氷の牢から脱出することも、無防備に近づいて来る『彼女』を迎撃することも出来ないだろう。あの機械腕も操作をすることは出来ないことは、一斉に機能停止したあの光景が如実に示している。

 

 だが、それでも、『彼女』の心に慢心はない。

 明確に眼前にまで近づいている死期が、これが最期の仕事だという使命感が、『彼女』の心を今一度凍り付かせていた。

 

 この氷漬けの男は、全身を大樹に呑み込まれてかけていたあの時でも、己が最強の一撃を放つだけでなく、不可視化させた機械腕を背後から忍び寄せ挟撃という第二策を用意していた。

 そこまで用意周到な男が、嫌らしいまでの知恵を働かせる天才が、このまま大人しく凍り付いているだけとは限らない。

 

 このままでは何も出来ないだろうが、ここで見逃せば、もし万が一生き延びでもしようものならば、奴は必ず再び陽光を――奇跡の『混血種(ハイブリッド)』を狙うだろう。

 

 その時は、『自分』はもう、あの子の傍には居てあげられない。

 ここで死に行く生命ならば――確実にコイツも道連れにしなければならない。

 

 レジー=ぺテルト=パルトマール。

 この男に、この不気味な天才に、今、完全確実な容赦なき死を。

 

 そして『彼女』は、レジー博士の氷像の前に辿り着いた。

 

「……………」

 

 寒風吹き抜ける、地面よりも夜空に近い場所。

 肩口に黒火を灯らせる死に瀕した雪女は、その真っ白な手を――妖しく煌めく白刃へと変える。

 

 油断はない。慢心もない。

 ここまで無様な姿を前にしても、『彼女』の心は冷たく凍っていた。

 

 あれほど異常な天才ならば、ここまで狂った科学者ならば、自分が死亡した際の死体にすら何かしら細工を施していたとしても不思議ではない。

 だが、例えどのような悪足掻きを用意されていようと、確実に殺して見せる。絶対に地獄へ道連れにしてみせる。

 

 それが、『母親』として――[彼女]の代わりに生きた命として。

 

 果たすべき、最期の――使命だから。

 

 使うべき、命だから。

 

「さよなら――地獄で会わないことを祈ります」

 

 そして、氷ごと男を切り裂くべく、白刃を静かに振り上げて。

 

 

 雪と共に――天から垂らされた糸のような、一筋の光が、真っ直ぐに降り注いだ。

 

 

「――――ッ」

 

 バッ、と、真っ黒な天に目を向ける。

 

 糸のような光が降り注いでいるのは――レジー=ぺテルト=パルトマールの氷像。

 

 瞠目する『彼女』の眼は捉える。

 レジー博士の唯一剥き出しの右手が持つ――謎の鏡。

 

 銀色の手の平に収まる丸い鏡が――発光していた。

 

 明るく、眩しく、夜を――化物を、切り裂くように。

 

「ッっ!?」

 

 反射的に白刃を振るう。

 その光を消す為に――光を嫌悪する化物のように。

 

 だが、一瞬早く――その人間は目を覚ます。

 

 氷の中、レジー博士の眼は見開き、ニタニタと――不気味に笑う。

 

 息を吹き返すように、氷を砕いて復活した。

 白刃を右前腕で受け止め、『彼女』を見上げて、こう言った。

 

「ご安心を――私は地獄へ逝きません」

 

 瞬間――何かが、『彼女』の髪を貫き、過ぎ去った。

 

(――――え)

 

 そして、鈍く、響いた。

 

 何かを――肉体(にく)を、貫く、音。

 

『彼女』は振り向く。それと同時に――娘の、陽光の、悲鳴が届いた。

 

 凍り付いた頭の中が、真っ白に染まった。

 

 その頭の後ろから聞こえてくるのは、悪魔のような――人間の声。

 

「地獄へ落ちるのは、あなた達――【化物】だけです」

 

 おや。

 

 でも、()()()()()()()()()()()()()

 

 ニタニタと、ニタニタと、レジー博士は笑いながら言った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 凡庸だった。

 

 氷も生み出せず、頭を裂かすことも出来ず、手を刃に変えることも出来ない。

 何処をどう見ても、何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の男だった。

 

 数奇な運命も背負っておらず、特別な血潮も流れていない。

 たった一つしかない生命を宿した、脆く儚い肉体で歩んできた、ごく普通の男だった。

 

 

 だからこそ、彼は死んだ。

 

 天から突然飛来してきた、鋭い銀色の錫杖に貫かれて。

 

 

 あっさりと、呆気なく死んだ。

 

「…………豪、雪?」

 

 愛した女の身代わりになるという、凡庸でありきたりな死を迎えた。

 

 既に力を使い果たし、異能を馴染ませるのでいっぱいいっぱいだった妻を。

 唐突に襲い掛かって来た凶器に対し、身を竦め硬直するしかなかった幼馴染を。

 

 ただ、身を挺して、己が体躯を盾にして、惚れた女を背に庇って、生命を懸けて守ってしまった。

 

 気が付いたらこうなっていた。

 身体が勝手に動いてしまったのだ。

 

 どんなに怖くても。どれほど恐ろしくても。

 

 特別な身体もない。秘めた能力もない。何の奇跡も起こらない。

 そんなこと、生まれたその時から分かっていても、死ぬその時まで変われなかった。

 

 彼は普通の男だった。

 

 好きな女の為に死んでしまうような、普通の男だった。

 

 好きな女の為にならなんだって出来てしまうような、ごく普通の男だった。

 

「……………豪……雪…………?」

 

 物語の登場人物のように、彼は死に際に都合よく言葉を遺すことは出来なかった。

 そんな暇もなく、そんな時間すら与えられず、彼はあっさりと即死していた。

 

 だが、その死に顔は、どこか満たされているように見えた。

 

 己が人生に、己が死亡に、一片の悔いもないかのように。

 

 

「イヤァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」

 

 

 

 愛する者に出会い。愛する者と育ち。

 

 愛する者の為に頑張り。愛する者と結ばれ。

 

 愛する者と繋がり。愛する者と繋げ。

 

 愛する者と育み。愛する者と幸せになり。

 

 愛する者に満たされ。愛する者の為に死んだ。

 

 何処にでもいるが、世界にたった一人しかいない。尊く、輝く、素晴らしい生命。

 

 雪ノ下豪雪は、人間だった。

 





 彼は――何も出来なかった。
 
 氷も生み出せず、頭を裂かすことも出来ず、手を刃に変えることも出来ない。
 何処をどう見ても、何処をどう切り取っても、何の変哲もない普通の男だった。

 だからこそ、彼は――人間だった。

 普通に怖くても。普通に寒くても。普通に痛くても。
 普通に眩しくても。普通に熱くても。普通に恐ろしくても。

 普通に脆く――普通に死ぬと、分かっていても。

 好きな女の為ならば、何だって出来てしまう男だった。

 愛の力で、不可能を可能にしてしまえる可能性を秘めた生命だった。

 何処にでもいるが、世界にたった一人しかいない。尊く、輝く、素晴らしい生命。

 雪ノ下豪雪は、人間だった。
 
 
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。