比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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お前のせいだ。不幸を齎す――疫病神め。


妖怪星人編――③ 明けない夜

  

 幸せだった筈だ。

 

 父一人、母一人、子一人の三人家族。

 決して裕福では無い。だが、明日の食い物に困る程に貧しかった訳では無かった筈だ。

 

 いつからだろうか。

 その日の食事の品数が、一つ、また一つと減っていったのは。

 その日の食事の回数が、一回、また一回と減っていったのは。

 

 いつからだろうか。

 俺の分も食べろと、父親が息子に米を渡すようになったのは。

 あなたの分も寄越しなさいと、母親が息子に米を渡すように迫るようになったのは。

 

 いつからだろうか。

 一緒に乗り切ろうと、お前だけは守るからと、家族を、息子を守るように抱きかかえていた父が、母が。

 もっと食べ物を持ってこいと、もっと金を稼いでこいと、お互いを――そして息子を、罵り、責め立て、殴りつけるようになったのは。

 

 幸せだった筈だ――あんなにも、幸せだった筈なのに。

 

 空が赤い。血のような夕焼けだ。

 もうすぐ黒くなる――真っ黒になる。何も見えない、光が消える夜が来る。

 

 いつからだろうか。

 見上げる空が血のように赤くなったのは。見上げる空が闇のように黒くなったのは。

 

 もう――青い空を、思い出せない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 今日も妖怪が現れた。

 

 どれだけの人間が連れ去られたのか分からない。

 辺り一面に傷つけられた人間が蹲り、倒壊した家の人間は呆然と立ち尽くしている。

 

 そんな嘆き苦しむ人達の傍を、恐ろしい面貌の鎧武者が通り過ぎる。

 だが、路傍に転がる人間達をまるで一瞥することもなく、己が歩く道端には何も存在していないかのように、彼らは一目散に貧民街の出口へと歩いて行った。

 

 鎧武者の足にボロボロの男が縋る。彼は今宵の妖怪退治において家を壊された者だ。

 鎧武者の足にズタズタの女が縋る。彼女は今宵の妖怪退治において夫を殺された者だ。

 

 だが鎧武者達は足を止めない。声を掛けることも、足元を見遣ることすら一度もしない。

 絡繰のように一定の足取りを乱さない。その存在からはおよそ、自分達を舌なめずりをしながらいたぶっていた妖怪達よりも、感情というものがなかった――人間味が、なかった。

 

「………………」

 

 そんな光景を、平太(へいた)という名の一人の少年は眺めていた。

 

 当然だ。

 ここに居る誰もが、そんなことは分かっている。

 

 あの鎧武者は――正真正銘の絡繰(カラクリ)だ。

 正確には、平安京の貴族領に住む、陰陽師が放っている自動警邏式神だ。

 

 この式神には、感情など備わっていない。

 ただただ自動的に、機械的に、平安京内を巡回し、妖怪を見つけたら排除する機構だけを備えた――人形だ。

 

 人間の言葉など解さない。そもそも、妖怪は識別出来ても、人間を識別出来ているかどうかは分からない。

 

「…………………」

 

 住む場所を奪われた人達の嘆きを、愛する家族を奪われた悲しみを、自らの身体を傷つけられた痛みを、叫ぶ声が響き続ける光景を眺めながら、平太は思った。

 

 今更だ。分かり切ったことだ。

 突然、今宵になって始まったことではない。

 

 既にどれだけ繰り返された夜だろう。

 何度も何度も眺めた、いっそ見飽きてすらいる景色だ。

 

 鎧武者に縋り付いている者達も、嘆いている者も、悲しんでいる者も、痛がっている者も、みんな、みんな分かっている。

 妖怪の恐ろしさも、鎧武者が式神なのも――貴族領から遠く離れたこの場所は、あくまで戦争の僻地であるということも。

 

 ここにやってくる妖怪は末端も末端で、ただ単に腹を空かせているからか、気まぐれでやってくるもの達に過ぎない。

 そんな末端に対して派遣する戦力など自動警邏式神で十分だというのが、我らが朝廷の御判断だということも。

 

 自分達の悲痛な声など届くこともなく、ただただこの戦争が終わるその時まで、こんなことは毎夜毎夜繰り返されるのだと。

 

 そして――戦争が終わる前に、きっと自分達が終わってしまうのだろうということを。

 

 ここにいる誰もが分かっていた。分かり切っていた。

 

「………………」

 

 それでもこんな所にいるのは、他に行く場所などないことも分かっているから。

 既に日ノ本のどこに行っても多かれ少なかれ現状は変わらない。

 

 妖怪の勢力は最盛期を迎えていて、それに対する防衛戦力も、この平安京が最も潤っているのだ――こうして、夜が明ける前に鎧武者が駆け付けてくれるだけでも、神に感謝しなくてはならない程に恵まれている方だ。

 

 だから――自分達に、無力な民草に出来ることなど、祈ることだけだ。

 

 今日、壊される家が、殺される命が。

 どうか――自分達のものでは、ありませんようにと。

 

「………………」

 

 鎧武者に引き剥がされ、泣き喚きながら地面に蹲る大人達を平太は見る。

 初めは彼等の元へと駆け寄って、その肩に手を置いていた者達もいた。自分も積極的にそうしていた。

 

 大変な時だけれど――きっと、すぐに、夜が明けるから。

 それまでは無力な者同士、力を合わせて助け合って乗り越えよう――と。

 

 だが――今は。今となっては――。

 

「…………………」

 

 平太は、その目を――妖怪によって壊された家へ、殺された人達へと向ける。

 そこには壊れた家の中に一目散に突入し、中にある食べられるもの、着れるものを奪い合う人達がいた。殺された人の衣服を剥ぎ、身に着けていたものを奪い合う人達がいた。

 

 妖怪は去ったというのに。まだ――夜は明けない。

 そこには、まだ、恐ろしい化物が暴れ狂っていた。

 

 自分も――紛うことなき、その中の一人だ。

 

「…………………」

 

 平太の足元に、木の実が一つ転がってきた。

 倒壊した家の中の食べ物を奪い合っていた大人達。その手に持っていた一つが、その手を互いを殴り合う為に拳に変えたことで手放したものが、近くで呆然と立っていた少年の元に転がってきたのだった。

 

 少年はそれを、緩慢な動きでゆっくりと拾う。

 

 その手を――転がっていた死体が、ガッと強く掴んできた。

 

「――――ッ!?」

 

 何もかもが抜け落ちたような無表情だった少年の顔が変わる。

 

 死体だと思っていたそれは、まだ生きていた。

 だが、顔はどろどろに溶かされ、眼球は今にもこぼれ落ちそうで、ボロボロの歯は剥き出しになり、とてもではないが人間には見えない。

 

「た、た……す……け――」

 

 その先の言葉は聞こえなかった。

 

 少年は振り払った。今際の際に伸ばされた手を、渾身の力で、あの無機質な式神のように――容赦なく。

 

 そして、背後の地獄から逃げ出すように、一目散に駆け出した。

 

 路地裏に這入る。

 乱れた息を整えるように深呼吸する。吸い込んだ空気は、とても不味かった。

 

 それほど恐怖しても。それほど嫌悪しても。

 少年は自分が――木の実を手放していなかったことに気付いた。

 

 何かを噛み締めるように、少年は強く奥歯に力を入れる。

 

 まだ――夜は明けない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 乱雑に、まるでゴミを捨てるかのように、少年が放り込まれてきた。

 

 真っ暗な空間。

 湿った土の感触は、いつからか板の上よりも慣れ親しんだもので、いっそ落ち着きすら感じられた。

 

「……使えない奴だ」

 

 つい先程まで狂ったように絶叫しながら息子を殴り続けていた男は、疲れ果てたような小さい声で、失望の色を隠そうともせずに吐き捨て、戸を閉める。

 

 既に使われなくなって久しい、家屋の端にある農具入れ。

 少年の小さい身体を持ってしても身体を丸めなければ眠ることも出来ないような狭い場所。

 

 いつからかこの場所が、平太にとっての家庭内の居場所になっていた。

 

 家族三人川の字になって眠っていた頃が、もはや青空のように思い出せない。

 

「………………」

 

 閉められた戸の向こう側から、父と母が怒鳴り合う声が聞こえる。

 鎧武者に縋り付いてた大人達のように、かつてはこの身を間に挟んで仲裁しようとしてたが、いつからは両親は、間に立った自分をも躊躇無く殴るようになった。

 それどころか、その時ばかりは結託して、二人で平太を責め立てるようにもなった。

 

 先程も、()()()()()()と息子を夫婦揃って罵倒していた。

 自分達は妖怪に襲われないようにとこの家の中でがたがた震えていただけにも関わらず、犠牲者の家から、死骸から、めぼしいものを盗んでこいと子供を家の外に追い出した分際で。

 

(…………ぁぁ。…………暗い)

 

 灯りなどあろう筈が無い物置の中は、まるで夜のように真っ暗だ。

 平太は少しでも暖を求めるように、痩せ細ったその身体を丸めて、夜が明けるのを必死で待った。

 

 やがて――どれだけ時間が経ったのか、気絶するように眠りについた少年を起こしたのは、乱雑に開けられた戸から差し込んだ光だった。

 

「――平太っ!」

 

 そう叫びながら物置の中に飛び込んで、平太と、自分達が名付けた少年の名を呼びながらそれを抱き起こし――夫婦揃って息子を抱き締める。

 

 いつものことだった。

 夜が明けると、まるで憑きものがとれたかのように、両親は息子を抱き締め、涙ながらに謝るのだ。

 

 ごめん、ごめんなさい、どうかしていた――と。

 初めの頃は、思わず泣いてしまうくらいに嬉しかった。ああ、よかった。あの怖い両親はいなくなった。本当の両親に戻ってくれたと。

 

 だが――それも、長くは続かない。夢のようなものだ。

 日が沈み、夜が来れば、またあの両親に戻る。

 怖くて、恐ろしい、互いを罵り合い、息子を家の外に追い出して、お前が死ねと手当たり次第に殴りつける――醜い化物に。

 

 人間という、化物に、変貌する――いや、もしかすると。

 あれが本当で、あれが本物で――これが、今が、只の仮初めなのかもしれない。

 

 まさしく、夢なのかもしれない。

 自分がみたいと思っているから見えているだけの――ああ、だと、すれば。

 

 きっとまだ、夜は明けていない。

 だって、晴れ渡っている筈の空は――ちっとも。

 

(…………今日も、青空じゃないや)

 

 まだ、終わらない。

 地獄は今日もやってくる。

 

 空が血のように赤く染まり、そしてすぐに真っ黒になる。

 

 明けない夜はない。

 でも、こんなにも長いのなら、いっそ。

 

(………………早く、終われば、いいのに)

 

 少年は、自分を抱き締める両親の腕の中で、そう無表情に呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ()()()()()()――()()()()()()()()()()()

 

「―――――っ! ―――――――ッッ!!」

 

 何もかも抜け落ちたような無表情の少年を、何もかも溢れ出してしまいそうな表情の童女が見ていた。

 涙一つ流さない少年を、涙を零れ落とす童女が、見ていた。

 

 頬に痛々しい青痣を残す少年が。

 互いを傷つけ合う両親によって家から放り出され。

 妖怪達が暴れ狂う地獄の一夜に立ち尽くし。

 鎧武者が去った戦場跡で木の実を拾い。

 その戦果に対する不満を息子に暴力という形で露わにし。

 今にも死んでしまいそうな痩せ細った身体を物置の中に押し込み。

 そのまま存在を忘れたかのように一晩を明かし。

 夜が明けて、正気に戻った風に家族揃って抱き締め合う――その一部始終を。

 

 そんな輪廻のように続く地獄を、誰よりも近くで、童女は見ていた。

 少年の日常を――少年の長い、長い夜を、ずっと見ていた。

 

(……何で……どうして…………変わらないの……)

 

 童女は――座敷童の詩希は、平太が外に出て戸を閉めた物置の中で、再び暗くなった世界で、自分の小さな手を見詰めながら無力感を噛み締めていた。

 

 あの日――頬に見るも無残な青痣を残した平太を見つけた日。

 平太の後をつけ、彼の日常を知った時。

 

 いつか夜が明けると、そう童女に語ってくれた少年が、誰よりも暗い夜の中に――否、これは今の平安京には、それこそありふれた境遇なのかもしれないが――いること知った時、詩希は生まれ変わってから、死に返ってから最も強いショックを受けた。

 

 今すぐにでも少年に声を掛けて励ましたかった。

 自分がそうしてもらったように、少年が自分にそうしてくれたように、自分も少年を救ってあげたかった。

 

 でも、すぐに思い至る。

 自分はもうあの時とは違う。

 何も分からなかった、存在さえも不確かだった幽霊ではない。

 

 座敷童の詩希――座敷童。すなわち、()()なのだ。

 

 今、この平安京に跋扈する魑魅魍魎、その紛れもない一体。

 毎夜毎夜、地獄を作り、少年の闇深い夜を作り出している妖怪、その同類なのだ。

 

 確かに、自分はこの妖怪戦争において、『鬼』派でも『狐』派でもない。

 だが、貧民街の人間達が、そんな妖怪の派閥争いなど理解しているだろうか。妖怪にも穏健派はいると、一般市民ならぬ一般妖怪がいるのだと、理解してもらえるだろうか。

 

 妖怪にも、いい妖怪はいると、少年はそう言っていた。

 だが、それはそう自分が思い込みたいだけで、こんな地獄にも希望があるだと、恐ろしいだけの存在などいないのだと、そう言い聞かせているだけで、本当はそんなことは思っていないのではないか。妖怪というだけで無条件で恐怖させてしまうのではないか。

 

 そんなことはないかもしれない。だが、そうかもしれないと思うだけで――詩希はたまらなく怖くなった。

 妖怪として、人間に畏れられることで糧が得られるような存在となっていることは理解している。

 

 だが、それでも――平太にだけは。

 自分を救ってくれたこの少年にだけは、自分のことを畏れて欲しくはなかった。

 地獄を作り出す妖怪を見るようなあんな目を、向けて欲しくはなかった。

 

 それに――何よりも、少年に、あんな顔をさせたくなかった。

 あんなにも綺麗な、誰かを救ってくれる笑顔を浮かばせることが出来る少年に。

 これ以上、あんな悲しい顔を、あんな怖い顔を、あんなにも辛い――無表情を、浮かべて欲しくは無かった。

 

(……笑って欲しい。…………どうか……どうか……)

 

 幸せに――なって欲しい。

 あの子の夜が明けて欲しい。青空を見上げて笑って欲しい。

 

 そうだ――わたしは感謝して欲しいわけじゃない。恩を売りたいわけじゃない。

 恩を返したいんだ。もらったものを、ほんの少しだけでも。

 

 気付いて欲しいわけじゃない。見つけて欲しいわけじゃない。

 わたしの居場所は、この暗い物置でいい。あなたを明るい世界に戻してあげられるなら。

 

(わたしは詩希――座敷童の、シキ)

 

 きっと、わたしは――この為に、座敷童になったんだから。

 

 なのに――なのに――その筈、なのに。

 

(…………どう…………して………ッ)

 

 あの日から、ずっと、ずっとそう思って、そう願って。

 この暗い物置から――この家に居着いてから、居憑いてから、ずっと、ずっと。

 

 必死に、それだけを願っているのに。

 

 なのに――どうして。

 

「どうして……しあわせにならないの…………ッッ」

 

 座敷童のシキは、ギュッと小さな手を握り締め、歯を食い縛る。

 

 詩希は座敷童になりたての、まだ座敷童見習いといった身分の存在だ。

 これまで座敷童の能力を、その異能を使ったこともなかった。なので当然、使いこなしているわけではない。

 

 けれど、わたしが座敷童だというのなら、必ずや出来る筈だと奮闘を続けるも――結果はまるでついてこない。

 

 しかし、それも仕方のないことだった。

 そもそも詩希自身も完全に理解しているわけではないことだが、座敷童とは幸福を作り出す、幸運を生み出す妖怪――()()()()

 

 座敷童とは、居着いた家に、自分に居場所を与えてくれた家に――幸福を()()()()()()妖怪だ。

 

 世界には、運命には、『流れ』というものがある。

 幸せな場所には幸せを運ぶ流れが、不幸な場所には不幸を齎す流れが存在している。

 

 座敷童に出来ることは、その()()()()()()()()()()()ことだけだ。

 幸福を引き寄せる時は幸福の流れを、不幸を引き寄せる時は不幸の流れを、その手に掴み、手繰り寄せる。

 

 だからこそ、座敷童は何よりも、その場の()()というものに敏感だ。

 詩希以外の座敷童が、今の平安京に耐えきれずに出奔したのは、それも大きな理由の一つである。

 

 幸福の流れを、不幸の流れを体感的に知覚する彼女らにとっては、愛を求める、幸せな空間を何よりも求める彼女らにとっては、今の平安京は耐え難いものだった。

 

 未だかつて、幸福や不幸を――すなわちは運命を、自由自在にコントロールするまでに至った座敷童など、存在しない。

 座敷童に可能なのは、その運命の流れを、ほんの少し変えるだけ。

 

 つまり――奇跡は起こせない。

 幸福の流れなど殆ど存在せず、ただただ不幸な流れで満ちている、この戦乱間際の平安京の貧民街に置いて――たった一人の少年を救うことすら、出来ない。

 

 幸せに――出来ない。

 生まれたての座敷童見習いには、それはとてもではないが不可能な難題だった。

 

(…………むしろ、闇雲に引き寄せようとしているから……)

 

 流れにがむしゃらに手を伸ばしているから、引き寄せているのがただの不幸な流れという可能性もある――ただでさえ不幸な少年に、さらなる不幸を齎しているだけという可能性もある。

 

 ならば――自分がしていることは、一体何なんだ。

 恩人たる少年を、幸せにしたいだけの少年を、ただただ苦しめるのが、わたしのやりたかったことなのか。

 

 座敷童になってまで、やりたかったことなのか。

 

 念願の、座敷童になっても――わたしは。

 

「……………何も、出来ないの?」

 

 そして、その日も、何も出来なかった。

 

 いつも通り、夜が来て、妖怪が来て、家が壊れて人が死んで――少年が、両親に殴られて。

 物置に放り込まれる。

 まるで様式美のように、何の救いもなく繰り返される日常。

 

「………………」

 

 詩希は、放り込まれた平太を見て、ぽたぽたと涙を流して唇を噛み締める。

 

 無力感に苛まれているその時、平太の腹が力無く鳴った。

 初めて会ったその時から痩せ細っていたけれど、平太はあれから更に細くなり、もはや骨と皮しかないんじゃないかと思える程だ。

 

 腹は鳴るけれど、呼吸音も微かで、詩希は、このままだと平太は朝には冷たくなってしまっているのではないかと怖くなった。

 

 故に――詩希は、()()()、こっそりと、物置の戸を開け、まだ真っ暗な家の中を歩く。

 互いを罵り合う平太の両親の怒声が止み、寝静まったのを確認し――ほんの僅かしか残されていない食料を、ほんの僅かだけ、こっそりと拾う。

 

 そして、再び音を立てずに物置の中へと戻り、小さく腹だけを鳴らす少年の口元に、それをこっそりと置いた。

 

「………………」

 

 しばらくはピクリと動かなかった平太だが、やがて、ゆっくりと手を伸ばし、それを口へと入れる。

 

 きっと、本人は何も覚えていない。

 意識が戻っているかも怪しい。だが、詩希は、この光景を見るときだけが、ほっと胸をなで下ろすことが出来る。

 

 意識もなく、ただ本能の赴くままに、身体が栄養を求めての無意識的な行動だとしても――本能が、生存本能が働くということは、まだ。

 

 少年が――平太が、生きようとしていると、生きようとしてくれているということだから。

 

 まだ、大丈夫。

 まだ、きっと間に合う。

 

 詩希は、そう信じることが出来る。

 

「………………ごめん、なさい」

 

 そう童女は呟いて、少年の頭を撫でようとして――やめる。

 

 手を引っ込めて、そのまま物置の隅っこまで戻って、そして、ぐっと――その手に力を入れる。

 

 次こそは――明日こそはと。

 そしてまた――運命の流れへと、手を伸ばす。

 

 少年は、朝までピクリとも動くことはなかった。

 

 

 そして――この次の日。

 

 全てが終わった。

 

 座敷童は、間に合わなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日も、いつも通りだった。

 

 夜になって、妖怪が現れ――暴れ、壊し、殺した。

 何もかも手遅れになった頃に鎧武者が現れ、何もかもなかったかのように後片付けを行った。

 

 唯一、いつもと違ったことは――壊された家屋の中に、平太の家が含まれていたこと。

 これまで散々、平太に命じてきたようなことを、この日、両親は思う存分やり返されることとなった。

 

 妖怪が去った後、間髪入れずに足を踏み入れてきたのは人間達だった。

 愉悦に歪んだ目をしていた妖怪達の後は、血走った獣のような目を輝かせた人間達が襲いかかる。

 

 平太には――やはり、どちらも同じくらい恐ろしい化物のように思えた。

 

 やめてくれ、出て行ってくれ、うちには食べ物なんてないと縋り付く両親達を容赦なく殴り、蹴り飛ばしながら、隅から隅までめぼしいものを奪っていく人間達。

 力一杯に扉をこじ開けられ、小さい身体を極限まで縮こませて発見を逃れた詩希ですら恐怖で震えるような光景を――平太は、これまでと同じように、離れた場所から無表情で眺めていた。

 

 これまでと同じように。

 見ず知らずの他人の家が壊されていくのと同じように、我が家の崩壊を眺めていた。

 

 いつかと同じように、コロコロと足元に木の実が転がってきた。

 

「………………」

 

 平太は、それを、拾わなかった。

 

 血走った目をした獣のような人間達が、散々に食い散らかし、既に何もなくなった我が家に――互いに泣き崩れ、絶望に暮れる両親の元に、平太は手ぶらで近づいていった。

 

 ああ、終わったんだと、無表情に、ただそれだけを思いながら。

 

 そして、ゆっくりと近づいてきた平太を――父親は、渾身の力で殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 お前のせいだと、父親は言った。

 お前のせいだと、お前のせいだと、父親だった筈の男は殴り続けた。

 

 平太は思う。

 僕のせいだったのだろうかと。

 

 我が家が貧しいのも、世が乱れているのも、僕のせいなのかと。

 世界が暗いのも、妖怪が溢れているのも、誰も助けてくれないのも、僕のせいなのかと。

 

 こんなにも冷たいのも、こんなにも痛いのも――こんなにも寂しいのも、僕のせいなのかと。

 

 頬を、腹を、腕を、足を、背を、頭を殴られながら、蹴られながら、少年は呟いた。

 

「…………ごめん…………なさい」

 

 その言葉を最後に、平太は何も発さなくなった。

 殴られても、蹴られても、罵られても、何の反応もしなくなった。

 

 父親だった筈の男は、何かに怯えるように息子だった少年を殴り続け。

 母親だった筈の女は、何もかもを恐れるように息子だった少年に見向きもせずに泣き続けるばかり。

 

 だから――それに気付いたのは、彼女だけだった。

 少年を見ていたのは、ただひたすらに少年の幸せを願い続けた妖怪だけだった。

 

「やめて! それ以上、叩いたら死んじゃう!!」

 

 血走った眼を闇夜に浮かべて、何かに取り憑かれたかのように暴力を振るう大人の男。

 彼女にとっては妖怪よりもよほど恐ろしい猛威が振るわれているその最中に、童女は小さい身体を滑り込ませた。

 

 そして、ピクリとも動かない少年に覆い被さりながら言う。

 

「何でこんな酷いことが出来るの!? あなたは――お父さんでしょう!?」

 

 どうしてこんなことが出来ると、童女は泣きながら叫んだ。

 

 どうして愛さないんだと。

 どうして守らないんだと。

 

(……彼が……一体、何をしたっていうの!?)

 

 何もしていない。何も悪くない。

 世が乱れているのも、この家が貧しいのも、妖怪が跋扈しているのも、夜がこんなにも暗いのも。

 

 少年は――平太は、何一つとして関与していない。

 何も変える力も持っていない。何一つとして、息子を痛めつけていい理由になんてならない。

 

(彼が、こんなにも不幸でいい理由になんてならないっっ!!)

 

 この少年は、もっと、もっと――幸せにならなくてはならなかったのに。

 この少年を、絶対に――幸せにしなくてはならなかったのに。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 童女は少年を抱き締め、涙と共に呟く。

 そして、息子を痛め続けた暴力が――今度は童女へと牙を剥く。

 

「――――ぁがッ!?」

「……やはりか。食い物が減っていると思っていた……ッ。俺等がこんなにもひもじい思いをしているっていうのに……。このガキは、こんなもんを飼っていやがったんだなッ!! 碌に食いもんも持ってきやがらねぇのにッ!! この――親不孝もんがぁッ!!」

 

 大人の男の大きな手が童女の小さな首を締め付ける。

 もう片方の手で父親は、動かなくなった息子の痩せ細った身体を持ち上げ、そのまま物置へと放り投げた。

 

「――――ッ!!」

 

 童女は涙を浮かべながら、ぱくぱくと口を開けて――その大きな手に噛みついた。

 

「ぐがぁッ!」

 

 ふざけるな――ふざけるな。

 彼が何をした? 彼が今までどれだけ――()()()()助けようとしたと思っている。

 

 平太は聡明だ。

 自分がどんな境遇にいるのか、そして、それがどれだけ理不尽なものなのか、彼は間違いなく理解していた。

 

 見捨てることも出来た。

 少なくとも、彼はこの両親の庇護がなくては生きられない程に弱くは無かった。

 少なくとも、彼は自分にとってこの家にいることが最善でないことは分かっていた。

 

 それでも、彼は最後まで、この家にいた。

 理不尽に虐げられ、殴られ、罵られ、痛めつけられるだけだと分かっていても。

 

 それでも――ここにいた。ここに帰ってきた。

 

 それは偏に、両親を見捨てられなかったからだ。

 自分がいなければ何も出来ない両親を、見殺しに出来なかったから。

 

 だって、幸せだった。

 かつては間違いなく、愛してくれた存在だったから。

 

 幸せだったから――殺せなかった。

 それが分かっていたから――痛いほどに、伝わったから。

 

 だから――わたしは――。

 

「この――ガキがぁあああああああ!!!」

 

 かつて、確かに父親だった筈の男は。

 自分の手に噛みついた童女を殴り飛ばすと――そのまま家から追い出した。

 

 小さな腕を乱雑に引っ張り、引き摺るようにして、そのまま地獄のような貧民街を歩かされる。

 

「お前のせいだ! お前のせいだ! 不幸を齎す――疫病神めッ!!」

 

 不幸を齎す疫病神――幸福を招く座敷童だった筈の詩希は、その言葉に全てを悟った。

 

 ああ、わたしは失敗したんだ。

 何もしてない。何も――出来なかった。

 

「……ごめんなさい……ごめんなさい」

 

 詩希の呟きは、何かを恐れるような、何かから逃げるような青い顔をした男には届かなかった。

 

 それでよかった。

 この謝罪は――罪を謝る言葉は、間違ってもこの男に向けて言った言葉では無い。

 

「ごめん…………なさい…………」

 

 助けてくれたのに。救ってくれたのに。

 せっかく、誰かを幸せに出来る、座敷童になれた筈だったのに。

 

 あなたを――幸せにしたかった。

 

 わたしは、ただ。

 恩を返して、幸せな場所で、あなたに与えられた、あの温かい愛に包まれて。

 

「…………一緒に、幸せに――」

 

 詩希は、掴まれていない、もう一方の手を。

 

 真っ暗な夜に浮かぶ、まるでこの暗い世界の出口であるかのように輝く月に向かって。

 

 その小さな手を、伸ばそうとして。

 

「――消えろ。化物が」

 

 ぐいっと。大人の力で無理矢理に、放り投げられた。

 

 全身を包む浮遊感。

 詩希は咄嗟に後ろを向いて、その先には大きな川が流れていることに気付いた。

 

 何故か、その時、ここ最近耳にした、この川に身投げをして自らの命を絶つものが後を絶たないという噂を思い出す。

 

 命を絶つ――死ぬ。

 殺される。消える。

 

 妖怪であるこの身が、こんなことで死ぬのかは分からない。

 だが、詩希には、この真っ暗な川から、己を引き摺りこもうとする無数の手が見えた気がした。

 

 それは幻覚かもしれない。

 だが、この川は多くの命を飲み込んできた川であり、そして今、自分が殺意を持ってその中に放り込まれようとしていることが、何よりも恐怖だった。

 

「――っ!? いやッ! いやぁああ!!」

 

 詩希は再び手を伸ばす。

 既に自分を放り投げた男はいない。誰もいない。

 

 だが、詩希は――誰もいない、その場所に向かって。

 

 いつも、いつも、真っ暗な物置の中で、呟いていた言葉を投げ掛けた。

 

「わたしを――」

 

 

 瞬間――圧倒的な轟音が、その全てを掻き消した。

 

 




用語解説コーナー③

・座敷童

 愛されなかった子供の幽霊が、死後も愛を求めて妖怪となった怪異。

 運命の流れを知覚し触れることの出来る異能を持ち、居憑いた家に幸福の流れを手繰り寄せ、自分を追い出した家に不幸を齎す流れを手繰り寄せる。前者は自覚的に発動させ、後者は自動的に発動される。

 元々そこにある流れを寄せるだけなので、自ら任意の流れを作り出すことは出来ない。

 また、運命の流れを手繰り寄せる練度や強度も、座敷童としての経験や才能による個体差が存在する。
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