比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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遥かなる月を求めて。


妖怪星人編――⑥ 月へ手を伸ばす男

 

 季は春。時刻は、曙。

 

 徐々に白くなっていく山際が、ゆっくりと明るくなっていく。

 

 紫がかっている雲が細くたなびく――穏やかで、美しい景色を、女は眺めていた。

 

「……………………」

 

 

 

 季は夏。時刻は、夜。

 

 満月の夜も、そして新月の夜も。まばらに飛び交う蛍を、そして突如として降りしきる雨を浴びながら――ただひたすらに、ここではないどこかを思いながら、女は佇んでいた。

 

「……………………」

 

 

 

 季は秋。時刻は、夕暮。

 

 夕陽が山端に近くなっている空を、烏が仲睦まじく身を寄せ合って飛び急ぐ。連れなって飛んでいる雁、風の音、虫の声――その全てから、女は、たった一人に対して思いを馳せる。

 

「………………………」

 

 

 

 季は冬。時刻は――早朝。

 

 昨夜は雪も降らず、地面には霜も張っていなかった。

 けれど山深いこの地の朝は、それでも身が凍るように寒い。

 

 今朝も急いで火を起こし、炭を持って走り回っていた少女が、庭に出てぼおと立ち尽くしていた主人の女に、神妙な顔つきでこう告げた。

 

「――諾子(なぎこ)様。宮中の者より、知らせが届きました」

 

 少女の言葉に、主人の女は振り向くことすらしなかった。

 その様はまるで、何も聞きたくないという意思表示のように思えたが――しかし、今に限らず、この地に来てから、主人が反応らしい反応を見せたことは、一度たりともない。

 

 ぐっと何かを堪えるように下唇を噛んだ少女は、それでも続ける。

 ここでないどこかを、ここにいない誰かを思うように、ただ呆然と空を見上げる主人に向かって、きっと――決定的な引き金となる知らせを。

 

「――三条天皇が崩御され、後一条天皇様が、新たな帝として即位されました」

 

 それに伴い――と、少女は口ごもり、続けた。

 

 きっと、決定的に――終わりを齎すことになる、その名を。

 

「藤原道長様が――摂政へと就任なさいました」

 

 ゆっくりと顔を上げた少女は――思わず息を吞んだ。

 

 自らが仕える主人たる女が、いつの間にか真っ直ぐにこちらを見据えていたからだ。

 

 あれほど眩い笑顔を持って宮中を席捲していた女傑が、まるで極寒の雪山のような無表情で。

 

 少女の背後では、彼女が朝に起こした火種が、未だに白い灰とならず、静かに――だが、確かに、燻っていた。

 

 女は、本当に久しく、誰にも聞かせていなかった美声を発する。

 

 

「――道摩法師様へ、文を送ります。紙と墨の用意を」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、天高く輝く月に向けて伸ばした手を、強くグッと握り締めた。

 

 届く――遂に、届く。

 あの美しい月を、ようやく――この手中に、収めることが出来るのだ。

 

 

 道長は藤原北家(ほっけ)当主であり人臣が辿り着ける最高位・摂政へと上り詰めた男である藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男として生を受けた。

 

 そう、五男である。

 決して高位へは上がれない星の下へと産み落とされた筈の男――だが、運命は、道長の前に立つ障害を次々と排除した。

 

 まるで天が、藤原道長という男を、歴史の表舞台へと引きずり出すように。

 

(否――否だ。私がこうして上り詰めたのは、こうして大いなる月へと手を伸ばし続けたのは、決して天の導きなどではない。私が、この手で、全てを手に入れる為に戦い続けた結果なのだ)

 

 そうだ――あの日、道長は誓った。

 全てを手に入れてみせると。決して届く筈のなかった場所からのスタートだったとしても、全ての障害を排除し、どんな手を使ってでも――必ずや上り詰め、辿り着いてみせると。

 

(私はかぐや姫をみすみす月へと返した帝とは違う。どんな手を使ってでも、私は必ず――手に入れてみせると誓ったのだ)

 

 幼い頃に手に取った、一冊の書物。この国における最古の物語。

 物語に魅入られた男は、取り憑かれたかのように――憧れた。

 

 そして誓った――()()()()()()()()()()と。

 

 この世の全てを手に入れ、誰もが手放しの賞賛する、完全無欠の主人公――それを超える、男になると。あの日、何者でも無い少年は誓ったのだ。

 

 そして、何者でも無かった少年は。

 あらゆるものを手に入れ、あらゆることに手を染めて――遂に、その宿願を叶えようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 倫子(りんし)は、夫が唐突に姿を消した時、どこに居るかすぐに思い至るくらいには、長い年月を共に過ごしてきた。

 

 特に今日のような、空気が澄んで、雲一つ無い程に晴れ渡った日の夜は――月がよく見える夜は、必ずと言っていいほど、夫はこの縁側に座り込んでいるのだ。

 

「今日も月見ですか。本当にお好きですね」

 

 既に齢は五十を過ぎたにも関わらず、年齢よりも幼く見えるその容姿は、二男四女の母となった今も健在である。

 

 月を眺めていた夫は、己の背中に優しく掛けられた声に振り返ることはせず、妻が隣に腰掛けると、ゆっくりと呟くように語り出した。

 

「……覚えているか? 私がそなたと婚姻を結んだ頃のことを」

「…………ええ。もう三十年ほども昔のことになりますが、昨日のことのようにはっきりと思い出せますわ」

 

 倫子は二歳年下の夫の言葉に、ゆっくりと瞼を下ろしながら返す。

 

 今でこそ二男四女と多くの子宝に恵まれた倫子ではあるが、道長という夫を得ることが出来たのは、倫子が二十四の頃。嫁ぐのであれば早ければ十二、婿をもらうとしても遅くとも十八までには婚姻を結ぶのがこの平安時代の常識である中で、二十四まで一度も結婚していなかった倫子は、とても特異な例だった。

 

 これは倫子の容姿が特別醜かったからでも、家柄に問題があったわけではない。

 むしろ、倫子は年齢よりも幼く見える整った容姿をしていたし、倫子の父は、従一位・左大臣であった源雅信(みなもとのまさのぶ)である。この平安京においてもトップクラスに優れた家柄だ。

 

 だからこそ、といえる。

 年をとってから生まれた念願の娘である倫子を、雅信は多いに嫁に出し渋った。なまじ自分が左大臣という高位にいたからこそ、そんじょそこらの家柄の男と婚姻を結ばせるわけにはいかないと中々許可を出さなかったのである。

 

 しかし、ならば天皇の后にと時機を伺っていれば、残念ながら冷泉天皇(れいぜいてんのう)にも円融天皇(えんゆうてんのう)にも花山天皇(かざんてんのう)にも縁に恵まれず、次代の天皇であった一条天皇(いちじょうてんのう)はこの時未だ八歳。既に二十四だった倫子にとっては現実的な相手ではなかった。

 

 よって、倫子の母・穆子(ぼくし)は、道長との結婚を半ば強引に後押しした。

 当時、摂政となる為に悪辣な手段を用いて花山天皇を排し、己が娘の子である一条天皇を力尽くで即位させるなど、強引な手段で権力を広げていた藤原兼家――その息子である道長と愛娘の婚姻を雅信は当然よく思っていなかった。

 

 確かに家柄としては申し分ない――が、肝心の道長自身が五男であり、何より二十二にもなるにも関わらず(男の初婚年齢としてもこの時代としては遅い方だった)、彼の有能さを語る評判がまるで聞こえてこなかったのだ。

 

 つまり、この当時において、道長の出世の見込みは皆無に等しかった。

 だが、穆子はそれでも譲らず、倫子と道長の婚姻を最終的には雅信に納得させたのである。

 

「母の目は、正しかった――というわけですか」

 

 倫子は隣に座る道長の手に、そっと己の手を重ねる。

 妻の言葉に、道長はふっと笑って呟いた。

 

「義父上の目も、また正しかったであろう。なにせ、私が辿った道のりは、我が父・兼家の辿ったそれよりも、更に険しく――また穢れた道であったであろうからな」

 

 花山天皇を口八丁で誑かし、出家させて排斥した藤原兼家。

 その父を超える悪辣さを存分に発揮して、道長は今、こうして月を眺めている。

 

「……それでも、後悔はなさっておられないのでしょう?」

「無論だ。私は地獄に落ちるだろう。だが、天国よりも美しいものを見る為に、私はどんな手を使ってでも上り詰めると誓った。全てをこの手に収めると誓ったのだ」

 

 道長は、倫子に握られていない右手を再び月へと伸ばし、ぐっと掴むように握り締める。

 そんな夫の肩に、ゆっくりと頭を寄せながら、倫子は微笑みながら呟いた。

 

「……ならば、わたくしも後悔など致しません。全てを承知の上で、己が全てをあなた様に捧げると、わたくしもあの月へと誓ったのですから」

 

 あの初夜の日に、道長が全てを倫子へと打ち明けたあの日に、倫子は天高く輝く満月に誓った。

 届くことの無い月へと手を伸ばすこの愚か者と共に、いつか共に地獄へと落ちることを。

 

「……もうすぐ、ですね」

「ああ。私は後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政となる。そして、威子(いし)()の御方の中宮とする」

 

 一家立三后(いっかりつさんごう)

 太皇太后(たいこうたいごう)(先々代天皇の妻)、皇太后(こうたいごう)(先代天皇の妻)、皇后(こうごう)(現天皇の妻)を、全て己が娘で、己が一族で制すること。

 

 正に、天下を我が物としたに等しい偉業。

 それに藤原道長は、今、遂に、手が届く所まで来た。

 

「…………」

 

 倫子は月へと手を伸ばす夫の横顔を見詰める。

 皇后となれなかった自分が、まさか三代に渡る皇后の母となるとは。

 

 初めて道長と面を合わせたあの日に、こんな未来に至ることを、果たして誰が想像出来ていただろう。

 

(……いえ、少なくともこの方は、こうなることが分かっていた。……いえ、いえ、こうなることを夢見て、大真面目に目指して、あの日、わたくしを妻にしようとしていた)

 

 初対面の折、恐ろしく整った容姿の青年だと、倫子は思った。これまで宮中の女たちの噂に全く上ってこなかったのが信じられないほどに。

 だが、確かに、どこか存在感の薄い、掴み所のない男のように思えた。目は半分瞑っているようで、覇気もなく――今、思えば、あれは意図的に抑えていたのだろう。

 

 しかるべき時に、しかるべき方法で、己が存在を明るみに出す為に。

 己が才気を――倫子に出会うまで、誰の目にも止まらぬように、隠し通していたのだ。

 

 道長は、ふと縁側から降り立ち、月光をその背に浴びながら、己が妻を振り返り――限られた人間にしか見せない、溢れんばかりの野心燃ゆる笑みを浮かべて、言った。

 

「遥かなる月を求めて。その為に、私はあらゆるものを燃やし尽くす。この黒き炎に抱かれて、私は地獄へと落ちるのだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 後一条天皇即位の数日後、外祖父(がいそふ)である藤原道長の摂政への就任が正式に決定した。

 

 己が書き記す日記のタイトルから「御堂関白(みどうかんぱく)」の異名を後の世に残す道長ではあるが、関白への就任経験はなく、これまで二人の娘を皇后としてきたが、摂政を務めるのもこれが初めてのことだった。

 

 それもまた道長の策の一つでもあるのだが――此度はどういうことか、大人しく慣習通りに摂政(せっしょう)の座につくという。

 

 この突然の気まぐれのような決定に、しかし道長へ異議を唱えるものは、少なくとも表立って出来るものは既に宮中のどこにもおらず、まさに支配の全盛を迎えつつあるといえた。

 

 事ある毎にこれまで道長に噛みついていた藤原実資(ふじわらのさねすけ)という男も、先帝・三条天皇(さんじょうてんのう)の崩御による一件により完全に発言力を失った。

 

 今、この朝廷の会議場は、文字通り藤原道長の独壇場と言えた。

 

 

 さて、そんな天下人の如く権力を振り撒く道長ではあったが、しかし常に部下を引き連れ胸を張りながら宮中を闊歩しているのかといえばそんなことはなく、むしろ、その苛烈な手腕で出世街道を邁進してきた彼は、宮中の他の人間から分かり易く恐れられていた。

 

 彼が持つ権力に媚び諂う者達も大勢いるが、道長は露骨にそのような態度で近付く者は嫌う。かといって自分に逆らう者はより容赦なく潰すのだが。

 

 結果、新たなる摂政はこうして一人ぽつんと内裏(だいり)をうろつく羽目になっている。すぐに自宅である土御門(つちみかど)邸に戻っても構わないのだが、この日は孤独に黄昏る道長に声を掛ける者がいた。

 

「よう。どうした? とても権力の全盛を極めんとする男とは思えぬ顔をしているが」

「……公任」

「ふふ、怖い顔をするな。俺としても、他の者が居る前ではこんな態度は取ったりせぬよ。不敬であるからなぁ、摂政殿よ」

 

 固く険しい顔をする道長とは対照的に、爽やかに、けれど決して下品ではない微笑みを浮かべる男。

 

 道長と同い年である彼は、やはり既に齢五十に達しようとしている筈だが、道長同様にその整った容姿に翳りが見えることはない。

 常に険しく堅苦しい表情を崩さない道長と比べれば、表情が柔らかい分、若々しくすら見える。

 

 彼の名は藤原公任(ふじわらのきんとう)といった。

 道長とは系譜上は再従兄弟にあたる。つまり祖父同士が兄弟なのである。

 

 二人が社会に出た時、公任の父・頼忠(よりただ)は関白だった。ちなみに祖父も関白経験者だ。その上、姉・遵子(じゅんし)は時の円融天皇の中宮(ちゅうぐう)――つまりは皇后であった。

 正しく最高の血筋。当然、瞬く間に道長を置いて出世街道を邁進していった。

 しかも公任は、この時代の貴族が重視した、風雅な芸術――漢詩、和歌、管楽、その全てに長ずるアーティストでもあったのである。

 

 藤原公任を語る上で、今でも一種の伝説となっているエピソード、そして公任自身を表す異名として「三船(さんせん)(ほまれ)」と呼ばれるものがある。

 

 それは数十年前のとある日、公任にとっては姉の夫にあたる円融天皇――当時は既に息子である(といっても遵子ではなく道長の姉である詮子(せんし)との子であるが)一条天皇が即位していたので、円融法皇であったのだが――の発案で行われた風流な行事の中でのこと。

 

 美しく艤装(ぎそう)された三船。

 それぞれに漢詩が得意なもの、和歌に自負があるもの、管楽の腕に覚えがあるものを乗せて、嵐山(あらしやま)の紅葉を背景に大井川を渡るという壮大なものだ。

 

 譲位したとはいえ円融法皇発案の行事。

 不格好なものをみせたとなれば恥を掻くだけでは済まされない。だが逆に、ここで見事なものを披露すれば、それはこの時代、直接的に己が出世へと繋がった。

 

 そこで藤原公任は、和歌の船へと乗り込みそれは見事な歌を披露した。

 だが他の貴族達は彼が例え他のどの船に乗っていたとしても同様の喝采を浴びたであろうと噂し、称賛したのである。

 

 三つの船のどれだろうと堂々と乗り込める才の持ち主――「三船の誉」。

 藤原公任は、道長にとって同世代の出世頭であり、誰からも注目される宮中の貴公子だった。

 

 だが、現在――。

 道長は従一位・摂政として権力の隆盛を極め、公任は従二位・権大納言(ごんのだいなごん)として道長を支える立場となっている。

 

「随分とまあ、差がついたものだ。俺らが若かった時とは立場が逆転してしまったな」

「……時の運というものよ。何かが一つ違えば、この椅子に座っていたのはお主かもしれぬぞ」

「よく申すわ。この耳にもしかと届いているぞ。覚えていないのか? お前がかつて父・兼家殿から、兄弟揃って俺の名を使われて叱責された時に、お主が返した痛快な言葉を」

 

 道長は公任の言葉によって苦虫を噛み潰したような表情になった。

 普段は堅苦しい表情を崩さない道長にとっては珍しいことである。

 

 ことは再び、先述の大井川での船遊びの折りへと遡る。

 円融法皇主催のこの行事に、当然のことながら宮中の有力貴族達は揃って参加していて、己が勢力の評判を上げようと躍起になっていた。

 

 道長達の父・兼家も、当然、その一人である。

 当時、彼は摂政というポジションを手に入れて権力の頂点に立っていたとはいえ、その就任方法はとても穏やかなものとはいえず、禁じ手に近いものだった。花山天皇を言葉巧みに出家させ、半ば無理矢理に己が孫を即位させたのだから。

 

 この船遊びはそんな事件のほとぼりが冷めきっていない時期に行われたもので、兼家としては、花山天皇を引きずり下ろした仄暗い印象を拭い、自分達の一族の名声を高める絶好の機会でもあった。

 

 だが、蓋を開ければ、道長を初め自分達の息子達は目立った評判を上げられず――逆に、自分達が引き起こした花山天皇退位によって、関白を辞さざるを得なくなり、一族として下火を迎えつつあった頼忠一族の子・公任に全てを持って行かれてしまった。

 

 兼家としては面白い筈がない。

 船遊びの日の夜、長男と三男、五男(次男と四男は正妻とは別の母の子である)は父に呼び出され、横一列に並べられて説教を受けた。

 

 散々に罵られ、最後に兼家は「貴様等は公任の影も踏めない」と嘲る。

 そんな父に長男・道隆(みちたか)、三男・道兼(みちかね)は何も言えなかったが――ただ一人。

 

 これまで目立った功績も、才気も、野心も見せてこなかった末っ子の五男が。

 ただ一人、怒れる父に、この国の権力の頂である摂政たる父に――いえ、と。

 

「影どころか、いずれは公任の面をも踏んで見せましょう」

 

 大胆不敵に、そう言ってのけたのだ。

 

 昔のやらかしを掘り起こされ、道長は思わず右手で顔を覆う。

 対して己がいないところで己相手に宣われた大言を、公任ははっはっはと笑いながら、あの頃とは違い自ら摂政へと上り詰めた男の背中を叩きながら蒸し返す。

 

「――で? 摂政へと上り詰めた道長様。俺の面はいつ踏んでくれるんだ? 今宵か?」

「……ふん。今更、そんなものを踏みしめたところで面白くもなんともあるまい。……若き日の、血気を抑えきれなかった未熟者の戯言だ。二度と表に出すんじゃないぞ」

 

 事実、あの言葉は道長にとっては痛恨だった。

 当時はまだ道長にとっては牙を研ぐことに専念する雌伏の時――いずれ必ず訪れると確信していた飛翔の時へと備える為の我慢の時期だったのだ。

 

 道長にとって、あの頃は自身の頭上を覆う壁が余りに多すぎた。

 その筆頭が、正しくその時に同列していた父であり、長男であり、三男だったのだ。

 

 圧倒的権力を手中に収めていた父・兼家。

 兼家の跡継ぎ筆頭であり、父に愛され、天に愛された長男・道隆。

 兼家、道隆に真っ直ぐに食らいつき、虎視眈々と下克上を狙う野心を隠さない三男・道兼。

 

 道長は、そんな三人の怪物を常に間近で見て育ってきた。

 故に道長は、若き頃は存在感を消し、三人の三つ巴の、三者三様の思惑が渦巻く権力闘争の傍観者に徹していたのだ。

 

 時の権力者を引き摺り下ろし、自分達の一族に権力を齎す父、兄が居たことは道長にとってはある種の幸運だった。

 しかし、それで五男というハンデが取り返せるかといえば、そんなことは勿論、ない。

 

 黙っていれば、例え同じ一族とはいえ、権力のリレーは長男からその長男へ、自身に回らず目の前を、頭の上を通り過ぎていくだけである。

 

 だからこそ、父・兼家から長男・道隆へ、そしてその子へと受け継がれるだろうそのバトンのリレーを、分かり易く妨害してやろうと行動する三男・道兼を隠れ蓑にして、いかにして己が手元に奪い取るかを道長は虎視眈々と静かに計画し続けていた。

 

 つまり、道長にとっては出来る限り、この時はまだ父や兄たちにとって、凡愚な五男でありたかったのだ。下手に注目されて、自分に興味を示される、ましてや警戒などされたらたまったものではない。

 

 しかし、この時、道長は父の言葉に思わず反論してしまった。

 正しく痛恨。百害あって一利なし。道長にとっては何よりも業腹なことに、何の考えも裏も無く、ただただ――()()()()()()()。そんな思いによってぽろりと出てしまった言葉なのだから、ますます救いようがなかった。

 

 勿論、今を雌伏の時と考えている道長だ。大井川の船遊びにおいて、父・兼家が期待していたような活躍などやろうと思う筈もないが、思わず大胆不敵な言葉が出てしまったのは、例えやろうと思っても、自分には公任のような活躍は出来なかったという自覚があるからに他ならない。

 

 自分には、公任のような才能はない。

 和歌も、漢詩も、管楽も――弓ですら自分は公任には敵わなかった。

 

 無論、それによって自分が公任に劣ると思っているわけではない。

 確かにこの時代、これら雅な才能があれば格が上がり、何よりも女にモテるが――いってしまえば、それだけである。

 

 現代においても歌やスポーツが上手ければ女にモテるし、尊敬もされるが、それで人生の全てが決まるわけではないように――平安の時代もまた、それだけでは決まらない。今回のように出世に繋がることもあるが、それでも最終的には政治力によって決まる。現に、この時、公任の一族は凋落し、道長の一族は隆盛していた。

 

 最終的にものをいうのは、雅な才能ではなく、政治力。

 道長も当然、それは理解していたが――それでも彼にとっては、藤原公任という存在は特別だった。思わず、感情的に愚かになってしまう程に。

 

(……まあ、あの時の愚行によって父の機嫌は直り、最終的には倫子との結婚の根回しも行ってくれたのだから、悪いことばかりではなかったのだが)

 

 自分で選んだ道とはいえ、凡愚な五男を演じていた道長にとって、当時、左大臣の娘だった倫子との結婚は中々に越えがたいハードルだった。しかし、道長の計画にとって倫子はどうしても欲しい物件であったし、事実、倫子がいなければ、今、道長はこうして天皇の外祖父として摂政の椅子に座ってはいないだろう。

 

 だからこそ、少なからず父の評価を手に入れ、結婚の後押しを手に入れることの出来たこの一件は、道長にとっては損ばかりではなかったのだが――それは結果論でしかない。道長にとって、己が感情に振り回された数少ない失態の一つであるこの一件は、現代風に言うならば思い起こす度に頭痛を齎す黒い歴史なのである。

 

「それで? 私を若き日の失態でからかいに来たのか、公任よ。何か要件があったのではないか。このような晴れの日に苦き味を思い出させるに値する重大な要件が」

「ここまで言われると、俺としても悲しくなるぞ。今となっては得がたい青き思い出ではないか」

「申せ。はよう」

 

 今、この宮中において、道長とここまで近い距離感で会話が出来るのも公任だけだろう。

 道長には現在、己が手足と呼べる程に重用する部下が四人いるが、中でも同い年である公任は特に近い距離感で接することが出来る稀有な存在だ。

 

 こうしてあの公任を己が部下に出来たことは、確かにあの頃では考えられない――否、考えて、考えて、考え続けていたことだ。

 ただ引き摺り下ろし、権力争いから遠ざけることは容易かった。しかし、道長はどうしても、引き摺り下ろし、政治の中枢から遠ざけて尚、その上で――()()()()()()()()()()()()()。手元に置き、己が計画に賛同させ、協力を得たかったのだ。

 

 決して容易い道では無かった。

 公任は自分と似ている。そして、自分が逆の立場であったら、例え舌を噛み千切ってでも、縁の下に潜って相手を支えることなどする筈がなかったからだ。

 

 それでも、倫子と同じように、公任もまた自分の計画には必要不可欠な存在だった。

 今、こうして、表面上だけでも己と対等に振る舞ってくれる存在がいてくれるありがたみを、道長は表情には出さないが理解していた。そして、公任がそれを理解した上で、そのように振る舞ってくれていることも。

 

 故に、口には出さないが、道長は公任に全幅の信頼を置いている。

 だからこそ、このとき、鋭い目つきに変わった公任の信じがたい報告を、道長は瞬時に事実であるとして受け止めた。

 

「お前の家に、土御門邸に――妖怪が差し向けられている。それも、とびっきり、強力なやつだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その邸宅は平安宮(へいあんぐう)からほど近い場所にあった。

 

 しかし、その場所が纏う雰囲気は、絢爛豪華な宮中とはまるで異なり、別世界に迷い込んだかのように怪しい――妖しい。

 華やかさは微塵も無い。日の高い時間である筈なのに薄暗く、気象条件上発生する筈もない霧に覆われている。

 

 決して大きくはないその屋敷。

 その広くはない庭を一望する縁――そこに、この屋敷の主と、この屋敷を訪れる数少ない来客の一人である女性は座り込んでいた。

 

「随分と熱心に此処へと足繁く通うが、こうも頻繁に主の下を離れてもよいのか? 皇太后――まもなく太皇太后となられる御方の女房でありながら。かの御方が多忙で無い筈がなかろうに」

「……彰子(しょうし)様には、許可は頂いていますので」

 

 屋敷の主人は、そう言って己と顔を合わせようともせずに札に念を込め続ける女を笑う――そして、徐に立ち上がり、自身の庭で奇妙な動きをする人型の影に向かって二枚の札を風に乗せるように放った。

 

「――踊れ」

 

 男が二本の指を揃えながら呟くと、二枚の札は瞬く間に淡く輝く燕へと姿を変える。

 

 そして燕は人影の周りをひゅんひゅんと飛び回り、やがて燕から伸びた光の糸が人影に絡みつき、ブリキのように歪な動きをしていた人影が優雅な舞を踊り出す。

 

「ならば、せめてこれくらいは出来るようになってもらいたいものだな」

 

 そう言って男はそのまま屋敷の壁にもたれ掛かるように再び座り込むと、懐から人型の札を複数取り出し、瞬く間に美女へと変化させ、そのまま茶と酒を淹れさせる。

 

 女はそんな男の嫌みな程に素晴らしい術を見せつけられ、眉間に皺を寄せて大きく溜息を吐いた。そして、既に文字通り燕の操り人形となっている人影に見切りをつけ、新たな人型の札に呪文を書き記す所から始める。

 

(……そう仰るなら、少しは言葉で教えてくださればいいのに。……この方にそのようなことを期待することすら烏滸がましいといえばそれまでですが)

 

 この男の下に弟子入りを志願してから既にどれだけの月日が流れただろうか。

 教えてもらったのは簡単な式神の作製方法のみ。その程度で弟子と呼べるものかは不明だが、それでも女は健気にこの屋敷へと通い続けた。

 

 平安京において、この男を知らないものはいない。

 男が残した数々の伝説はどれもまるで御伽噺のようで、だからこそ女は男に対し、当初は崇拝に近い思いを抱きつつ、この屋敷を訪れたのだが――それも長く続かなかった。

 

 伝説の男は――伝説級に()()()()()()()だったのだ。

 

(……そもそも、この宮中にまともな男性がいるのかと言われれば……期待するだけ無駄というものですね)

 

 女は奮闘する自身の背後で真っ昼間から酒盛りを始めた男を白けた瞳で流し見て、そのまま男を視界から排除して己が動かす人影へと視点を戻す。

 

 だが、その優秀な頭脳は、そのまま現在の平安京の現状へと思考をずらしていた。

 

(――もう、()()()()()()です)

 

 圧迫されていく財源は既にどのように運用しても遠からず内に破綻を迎えることは明らかだ。

 

 その割を食うのは下民。

 しかし遠く離れた地方の民達は、既に国守の理不尽な徴税に不満を募らせ続けていて。

 平安京の中に住まう民達も、すぐ近くにいる貴族達に憎悪に近い激情を燃やしている。

 

 そして、こうしている今も、一人、また一人と、飢えと疫病と――妖怪によって、その数を刻々と減らしているのだ。

 

(民は、国にとっての細胞です。それが倒れ、蝕まれていけば、待っているのは自分達の――国の死。……この国で最も高等な教育を受けている貴族達が、それに気付かない筈がないのに)

 

 既に妖怪の脅威は、この平安京の中にまで侵食している。

 貴族達もその被害を、勿論、受けている。近頃は毎日のように、貴族の誰かの邸宅が火災に遭って焼失しているのだ。それを行っているのが妖怪か、あるいは不満を募らせた民なのかは、この時代の力の無い警察機構では暴き出すことすら出来ないが。

 

 だが、それでも、貴族達は圧迫された財源の中で、自分達の目に見える範囲の世界を修復することに真っ先に湯水のように金を使う。そして、また財源が圧迫される。

 

 既にこの国は、そのような終末的な悪循環を引き起こす所まできている。

 

 それでも――背後の男を始め、この世界を回す男達は、()()()()()()()()()。根本的な問題解決に動こうともしないのだ。

 

(……一体、何を考えて――)

 

「一体、何を考えているかは知らぬが――」

 

 気が付くと、女が使役していた人影が――()()()()()()

 風船が膨らむように、ひょろひょろと枝のようだった身体が膨れ上がり、言語として認識出来ない奇声を発している。

 

「既に、この平安京の中には妖気が充満している。それは――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 操り人形だった人影をその小さな嘴で貫き、二羽の燕がすぐさま膨張するもう一方の人影へと飛んでいった。そして、その周囲を円を描くように旋回する。

 すると、その円は瞬く間に円柱状に淡く光る結界となり、より強い光を発し始めた。

 

「君に教えた式神作りは、周囲の力を取り込んで疑似生命を作り上げるものだと教えた筈だ。考え事をしながら制御出来る程――君はまだ、陰陽師ではないよ」

 

 そう言って男は、杯をくいっと傾け、酒を呷る。

 

 膨張していた人影は燕が作り出した結界の中で悶え苦しむようにして爆散し、仕事を終えた燕は札に戻って男の手元へと帰って行った。

 

 女はゆっくりと、男に向かって振り返る。

 そして「……私が未熟なのは百も承知。だから、聞かせてもらえませんか。――伝説の陰陽師様」と、何もかも見透かすような瞳でこちらを見据える男に向かって言った。

 

「既にこの国において最高最強の陰陽師の邸宅ですら、妖気の侵食を防げていない。……それは既に、この国において安全といえる場所はもう何処にも無いということですよね」

「正確には、帝と后がおわす内裏だけは、まだ妖気の侵食を防げている。あそこにはここよりも強力な結界を施しているからね。……まぁ、それも時間の問題だが」

 

 男はそう言って、再びどこまでも見透かすような瞳を浮かべる。

 

 それが気に入らないのか、女は怒気を込めて「……そこまで分かっているなら――!」と、声を荒げようとしたが、男はそれを制するように、くいっと杯を上げて、その水面に女の憤怒の表情を映すようにして言う。

 

「それは、誰に対しての、何に対しての怒りかな? ――紫式部」

 

 紫式部(むらさきしきぶ)と、そう呼ばれた女は。

 男の透き通るような――何もかもを、己の全てを見透かすかのような瞳に、その口を閉ざされる。

 

 だが男は、口を閉じるのをやめない。

 

「この俺――安倍晴明に対してか?」

 

 最強で最高の陰陽師、妖怪の天敵、この国における怪異に対する最大のオーソリティである男は、自身の名を――安倍晴明(あべのせいめい)という名を口にする。

 

 そして、続いて。

 

 紫式部が、決して口に出さなかった名を――口に出せなかった名を。

 

 この国において、最も大きな権力を誇る男の名を――。

 

「この私――藤原道長に対してか? 香子(かおるこ)よ」

 

 紫式部は絶句し、瞠目する。

 硬直し、思わずその肩を震わせる。

 

 庭から直接現れたのは、正しくその件の人物だった。

 

 屋敷の主人はその無作法に怒れることもなく、ただ淡々と、この国の実質的な最高権力者を迎え入れた。

 

「これはこれは。歓迎しますぞ、我らが摂政殿。さて、今宵は――どのような案件で参られたのでしょう?」

 

 今宵――その言葉の通り、高かった日はいつの間にか暮れ落ちて。

 

 夜の時間が、訪れようとしていた。

 




用語解説コーナー

・藤原北家(ほっけ)

 大化の改新の中心人物たる藤原(中臣)鎌足が次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子が興した四つの藤原氏の家の一つにして、最も遅い時期に興隆し、最も大きく栄えることになった家。

 伊予親王の変で同じ藤原四家の南家が、薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た当時の北家嫡流たる冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。

 冬嗣が文徳天皇の、その子である良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)である基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、三代にわたって外戚の地位を保ち続けた。

 これが以後の、北家嫡流(氏族の本家を継承する家筋・家系)こそが藤氏長者であるという図式を決定づけることとなった。

 そして、藤原兼家は、正しく北家嫡流であり、その後継者として認められたものこそが、北家嫡流を継ぐもの、つまりは藤原氏の氏長者であるということになる。

 その座を、長男・道隆、三男・道兼、五男・道長で争うこととなった。
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