比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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……………………ああ――



――……………………………終わっ…………た。



寄生星人編――②

 

 真っ暗な世界をヘッドライトがほんの少し先だけを照らしながら、四人乗りの普通自動車は舗装された山道を走る。

 

「ごめんなさいね、折角の休日なのに。それでも……あの人は、あなたに来て欲しいと思っていると思ったから」

「……いいえ。……私も、個人的に参ろうと思っていましたから。声を掛けていただき、嬉しいです。ありがとうございます、奥様」

 

 後部座席に座る、顔に深い皺を刻みながらも未だ美しさを損なわない老年の女性は、隣に座る氷のような美女に語り掛けた。

 

 暗い車内の中、自らと同じく黒い礼服に着替えている美女は、少し目を離したらまるで外の闇と同化してしまうかのような、妖しい美しさを纏っている。

 

 奥様と呼ばれた女性は、文言は殊勝だが、何処か氷のように感情が伴っていない言葉調子で、尚且つ、こちらの方を向きもしないで、窓の外の林の中を堂々と見渡しながら言うそんな『彼女』に、思わず苦笑を漏らした。

 

 そして、そんな一人の使用人としては失礼極まりない態度を咎めることなく、一方的に『彼女』の方を向いて、奥様は更に語り掛ける。

 

「私はもう隠居の身。奥様なんて呼ばれるような存在じゃないわ。何度も言ってるけど、普通に名前で呼んでくれて構わないのよ」

 

 老年の女性――厳冬の戸籍上は正式な妻であった、豪雪の血縁上の母である彼女は、名を雪ノ下照子(しょうこ)と言った。

 前の席で運転する血縁上の息子である豪雪よりも、助手席で彼と仲睦まじく話す戸籍上の娘である陽光(ひかり)よりも、厳冬亡き今となっては最も長い付き合い存在となる、言葉上ではとても複雑な関係になってしまう『彼女』に、照子はその立場には似つかわしくない程フランクな口調で言った。(この子は本当に変わらないと苦笑する――変わらないといえば、自分よりも遥かに年下とは言え、年齢としてはもう三十を超えている筈なのに、容姿が出会った時から殆ど変わらない。自分はこんなにも深い皺を顔に刻んでいるのに。まるで雪女のようだと、少し不思議に、そして羨ましく思う)

 

 だが、実は立場というのであれば、公的には既に照子は何のポジションにも付いていない。

 表面上は幼馴染であり、血縁上では共に豪雪を生んだ、愛する男性――(つよし)を、数年前に事故で失ってからは、彼女は雪ノ下グループの会長の職も下りた。

 

 今は千葉のとある場所で孤児院――今では児童養護施設と正式には称されるらしいが――に運営資金を寄付しながら、そこに理事長のような形で名を貸しつつ、時折その園の子供達に顔を見せに行き、気まぐれにふらっと娘(息子)夫婦の元へと遊びに訪れて談笑しながら、最も古い友人である『彼女』とお茶を楽しむという老後を送っている。

 

 そんな充実の隠居ライフを楽しんでいる照子が、言葉上は立場を重んじていながらも態度からは全然伝わらない独特の対応をしてくる友人と(そんな所を気に入っているのだが)、息子(娘)夫婦、そして――。

 

「――それにしても、相変わらず懐いているわね。雪ノ下家の血かしら」

 

 照子は、祖母の自分ではなく、友人の膝の上で(血縁上は『彼女』も祖母であるのでそこまで気にしてはいないが)気持ちよさそうに寝息を立てる孫娘――陽乃を優しく慈愛の籠った手つきで撫でながら、ちょっぴりの嫉妬心と共に友人に言った。厳冬から始まり、陽光、そして陽乃と、雪ノ下の血を引く人間の悉くを惹き付ける、不思議な引力を持つ友人に。

 

「…………」

 

 氷の微笑女は、そんな照子の言葉には何も返さず、いつもと同じ無表情の瞳で車内を見渡す。

 

 雪ノ下照子。

 雪ノ下陽光。

 雪ノ下豪雪。

 雪ノ下陽乃。

 そして、『彼女』。

 

 いつもは会社のトップに立つ者の当然の義務としてハンドルを握ることのない豪雪の運転で、(『彼女』を例外として)都築を始めとする使用人を一切連れず、暗い山中の道を一台の普通自動車に乗って進んでいる『彼女』達は――照子と『彼女』だけでなく、陽光も、豪雪も、幼い陽乃さえも――全員揃って、真っ黒な礼服を着用していた。

 

「………………」

 

 外の林から、自らの膝の上で眠る陽乃に目を移し、相変わらず氷のような色の瞳で、陽光を育てた時に調べた知識を使って、適切な強さで少女を撫でる氷の微笑女。

 

 そんな友人を見て、穏やかに微笑む照子は、そっと前を向きながら、誰にともなく呟いた。

 

「……きっと、あの人も喜ぶことでしょう。こんなにも可愛い孫娘と……あなたの幸せそうな姿を見たら」

 

 そう。

 今日は、雪ノ下陽光豪雪夫妻の結婚記念日であり――。

 

――先代雪ノ下家当主、雪ノ下厳冬の、命日でもある。

 

「…………」

 

 氷の微笑女は、彼の、そして『彼女(じぶん)』の血縁上の孫娘――陽乃の柔らかい髪を撫でながら。

 

(…………幸せ――)

 

 ただ、その言葉の意味を考えていた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 雪ノ下厳冬の墓は、小さな教会から見える少し離れた場所にある。

 まるでドラマや映画のラストシーンに使われるような、美しい海が一望出来る崖に、十字型の墓石が用意されていた。

 

 あの日――雪ノ下陽光と、豪雪が結ばれたこの教会で、雪ノ下厳冬は眠るように息を引き取った。

 余りにも安らかな死に顔と、隣に座っていた『彼女』の手を握っていたその死に様を見て、厳冬の妻は、新郎新婦の母親は、雪ノ下照子は優しい顔でこう言った。

 

『――この地に、眠らせてあげましょう。この男が、生涯で最も幸福で満たされたであろう、この場所で』

 

 そして、陽光と豪雪の結婚式は、そのまま厳冬の葬式へと移行した。

 

 だが、誰もそのことに悲しみを覚えることはなく、新郎新婦も涙を流しながら、それでも皆、穏やかな笑顔で、一人の男の旅立ちを見送ったのだ。

 

 

 

 

 

 陽光と豪雪が結ばれる瞬間を見届けてくれた恩人である教会の神父に挨拶を済ませた後、一同はそのまま厳冬の墓へと向かう。

 

 ぽつんと一つだけ、だが生前の男の威容を表すかのように堂々と存在するその墓は、神父が常日頃から手入れをしてくれているのか、汚れ一つ存在しなかった。

 

 この地に来るのは、あの結婚式以来、あの葬式以来、全員が初めてのことだった。

 偉大なる創立者を失って傾きかけた会社を立て直し、若い夫婦の間に娘が生まれ、目まぐるしかった激動の月日を経て――今、ようやく、向かい合うことが出来る。

 

 そして、墓を前にして、真っ先に一歩を踏み出したのは、一番に故人に語り掛けたのは、生前は夫婦の関係にあった――生涯の仇敵。

 

「――久しぶりね。あなたが死んでからもう三年が経つけれど、私はまだまだ死にそうにないわ。むしろあなたが生きていた頃より遥かに幸せよ。ざまあみなさい」

 

 残された妻から先立った夫に向けて語り掛けられる温かいメッセージに、娘の頬が思わず緩み、息子の頬が思わず引き攣る。

 対して故人の愛人であり、その妻の友人である『彼女』は、こんな二人のやり取りを幾度となく近くで眺めていたことを思い出していた。

 

 そうだ。この二人は、こういう関係だった。

 こういう宿敵で、こういう仇敵で――こういう形の夫婦だった。

 

「実は……あなたが死んだ時は、正直複雑だった。大嫌いな夫が死んで嬉しかったのと、憎たらしい敵が消えて……寂しかったのと。……………そして、正直……嫉妬もした」

 

 恭しく跪き、厳かに手を合わせながらも、微塵も敬意を表さないそのふてぶてしく好戦的な瞳は、彼女が常に厳冬に向け続けていた、あの頃、そのままだった。

 

 そして、その瞳を一瞬、ほんの僅かに細めながら、そっと、溜め息を吐くように呟く。

 

「……ああ。なんて、幸せそうに死ぬんだろうって」

 

 彼女のこの言葉に、彼女の娘は、彼女の息子は、少し悲し気で、だけどとても穏やかな表情を浮かべる。

 

 雪ノ下厳冬という男の、見る者全てを幸せにするかのような――あの死に顔を、思い浮かべる。

 

「……あの時の、あの感情を……私は生涯忘れない。きっと死に際でも忘れない。だから、ここで、あなたに誓うわ」

 

 陽光が、豪雪が――この世で最も愛する己の子供達が、夫婦として永遠の愛を誓ったこの地で。

 

 妻は誓う。夫に誓う。今、ここに宣誓する――宣戦布告する。

 

 死んでも負けたくない男に、終ぞ愛することはなかった夫に、生涯の愛すべき仇敵に。

 

 生前の夫に向け続けた、その好戦的なふてぶてしい眼差しを以て、告げる。

 

「私は――あなたより幸せに死んでやるわ」

 

――あの世で、待ってなさい。

 

 老いた妻は、その年齢に見合わぬ、苛烈な感情を振り撒きながら言った。

 

 そしてすっと立ち上がり、陽光に、豪雪に、そして『彼女』に微笑みかける。

 

 陽光と豪雪は微笑み返し、『彼女』は、やはり無表情だった。

 

 照子は、大きな欠伸をして目を擦る可愛らしい孫娘に苦笑しながら、そのまま軽々と陽乃を抱き上げて、娘息子夫婦に場所を譲る。陽光達はそのまま二人並んでしゃがみ込み、実父に、義父に色々な報告をした。

 

 会社の事、自分達の事、そして――二人の間に産まれた、大切な生命のこと。

 

 そして、今、まさに、新しい生命を宿しているということ。

 

 温かい幸せに満ちているその光景に、何処か眩しさを感じたかのように――『彼女』は、墓の向こうに広がる暗い海の方へと目を移した。

 

 あの日、あの時――厳冬をこの場所に埋葬したあの時は、あれほど優しく美しい蒼色だった海も、空も、今は真っ暗な黒色に塗り潰されている。

 

 今日は厳冬の命日ではあるが同時に二人の結婚記念日でもあるが故に、照子は陽光、豪雪、陽乃の三人家族に高級レストランでのランチをプレゼントしていた。

 結婚してから今までは碌に結婚記念日を祝うことも出来なかったのだからと、恐縮そうな娘息子夫婦を強引に納得させた。あの男の墓参りなんぞ、その後で十分だからと。

 

 結果として厳冬の墓を訪れることが出来たのはこんな時間になってしまったが、神父は事前に連絡を受けていたので温かく迎えてくれたし、それにこの近くには雪ノ下家の別荘もある。

 

 この崖から下に見えるビーチ。あれは雪ノ下家も利用したことのある海水浴場だ。

 流石にプライベートビーチとはいかないが、事前に言えば貸し切りにすることも可能なくらいには雪ノ下家の息の掛かった、というよりはこの場所が海水浴場となる際に雪ノ下家が尽力したスポットだ。

 

 そもそもの思い出話として、かつてこのビーチに家族で遊びに来ていた時に、幼かった陽光と豪雪が探検に出かけて、見つけたのがこの教会であるというエピソードがある。

 

 つまり、ここから別荘までは、子供が大冒険で来られるくらいの距離しかない。

 車が移動できる道路を使うなら少し回り込むような遠回りになるが、それでも帰りのことは心配しなくてもいいだろう。こういうこともあろうかと、既に照子と『彼女』によって、昨日の時点で使用人達に件の別荘に食材の用意すること、設備のメンテナンスと室内の掃除を済ませることは命じてある。

 

 照子も、『彼女』がビーチを見下ろしていたことに気付いたのか――陽乃は既に厳冬への顔見せにと陽光達に手渡している――『彼女』の横に立ち、静かに語り掛けて来る。

 

「――思えば、本当にこの地は、雪ノ下家(わたしたち)にとって幸せな思い出が詰まっている場所ね」

「………………」

「どうせ死ぬなら、こんな場所で死にたいわね。あの男と同じ場所っていうのが唯一癪だけれど」

 

 老女のそんな戯言に、『彼女』は何の反応も返さない。ただただ思考に耽るばかりだ。

 

 幸せ――その言葉の意味に、その言葉が表すものに、いつまでも『彼女』は辿り着けない。

 

 それはどんな感情なのだろうか。それはどんな環境なのだろうか。

 どんな形で、どんな色で、どんな味をしているのだろうか。

 

 もう既に持っているものなのだろうか。もう既に知っているものなのだろうか。

 

 それは、自分のような化物でも、手に入れられるものだろうか。

 

 それとも、それを手に入れれば、自分は――『彼女』は――[彼女]は――。

 

(――――私、は――)

 

 そんなことを、氷のような無表情で、只管に思考し続けていると――とん、と。優しく『彼女』は肩を叩かれる。

 

 振り向くと、そこにあったのは――娘のような、娘の笑顔。

 

「――あなたの番よ。…………父に、何か言ってあげて」

 

 その笑顔と、その言葉は、何かの感情が溢れていて。

 

「………………」

 

 だが、『彼女』はそれに何も言わず、ゆっくりと厳冬の墓へと歩み寄る。

 

(……私は、一体……何を話せばいいんだろう?)

 

『彼女』にとって――[彼女]にとって。

 特別な意味を持っていた筈の存在――雪ノ下厳冬。

 

 そんな死者の墓の前で、『彼女』である自分は、[彼女]である自分は、一体どんな言葉を話せばいいのか。

 

『彼女』を――[彼女]を、救い上げた存在である雪ノ下厳冬。

『彼女』を――[彼女]を、穢し弄んだ存在である雪ノ下厳冬。

 

『彼女』を――[彼女]を、愛した存在である、雪ノ下厳冬。

『彼女』が――[彼女]が、憎んだ存在である、雪ノ下厳冬。

 

 そして、『彼女』の――[彼女]の――

 

(――【私】、の――)

 

 娘――の。雪ノ下陽光の。

 

 父である、雪ノ下厳冬。

 

 

――ああ、儂は……幸せだ。

 

 

[彼女]を、そして【私】を――『■■■■(わたしたち)』を――雪ノ下、厳冬。

 

 

――こんなにも幸せに逝ける。こんなにも、満たされて死ねる。……お前の、御蔭だ。

 

 

[彼女]にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

――ありがとう……儂と出会ってくれて。

 

 

【自分】にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

――ありがとう……儂の、傍にいてくれて。

 

 

 

■■■■(わたしたち)』にとって――雪ノ下厳冬とは。

 

 

 

――御蔭で、儂は……幸せになれた。

 

 

 

「…………………」

 

 

 

――陽光を、生んでくれて……ありがとう。

 

 

 

「…………………っ」

 

 結局、考えは纏まらず。

 

 何も答えも――出せないままに。

 

 ぐるぐるぐちゃぐちゃの思考のまま――『彼女』は、()()()()()()()()()()()()

 

「………………」

 

 いつものように――美しく。

 

 いつものように――蓋をして。

 

 いつものように、[彼女]になって。

 

 ゆっくりと、墓の前に、厳冬の前に、座ろうとして。

 

 

 

――だから、もういい。

 

 

 

(――――え――――)

 

 その言葉を――思い出して。

 

 その言葉に対し、当時と同じ声を、心中で漏らした――その時。

 

 

 

――スパンと、()()()()()()()()()()()

 

 

 

「………………………………………………え」

 

 陽光が、ぽつりと呟く。

 

 それはまるで水平にギロチンを掛けられたかのようで、首が真ん中でスパンと切れて、頭部が単独で少し宙を舞って、ドボッと血が噴き出した。

 

 たたらを踏むように首のない身体がふらつくと、くるっと回って背中から倒れ込み――雪ノ下照子だった死体は、崖から海へと堕ちていった。

 

「………………………………っ!!? お、お義母さん!!」

 

 その時、氷のように固まっていた豪雪が動き出し、崖の下を覗き込もうとしたその瞬間――

 

 

 

――ドドドドドドドドドドドカンッッッッッ!!!!!! と、()()()()()()

 

 

 

 真っ暗な海から突き上がった真っ白な水柱の中から姿を現したのは――()()

 

 およそ平和な現実では現れることのない種類の巨大な怪物が、夜の世界で雄叫びを上げる。

 

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!」

 

 

『彼女』は、氷のような瞳を真っ暗に凍らせ、その怪物を、何かへの哀れみに満ちた瞳で見詰めた。

 

 

――幸せになれ。

 

 

(……………………ああ――)

 

 こくりこくりと眠りかけていた陽乃が、パチッと()()()()()、大きな声で泣き喚く。

 

「うぇぇえええええええええええええん!!」

 

 

――人を愛して、愛する人と、幸せになれ。

 

 

(――……………………………終わっ…………た)

 

 

 何かが終わったのだと、『彼女』はぺたんと、座り込んだ。

 

 怪物の咆哮と、陽乃の泣き声が響く中、厳冬のあの時の遺言が、『彼女』の中でぐるぐると渦巻いていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ暗な海から、真っ暗な空へと、真っ白な水柱と共に姿を現したその怪物は、全長数十メートルはあろうかという巨体の何かだった。

 

 それだけ大きな存在なのに、まるで正体が分からない。

 ただ黒くて、ただただ禍々しくて、ただただただただ恐ろしい。

 

 雪ノ下陽光は言葉を失いつつも、必死にその存在を己の理解の範疇に収めようと、己が知識の中で最も近い存在を検索する――そして、最も類似値が大きかったのは、鯨だった。

 

 大きな身体。大きな、大きな口。

 そして、突き上げるように水面から飛び出し、仰向けのような姿勢で天を見上げる雄大なジャンプ。

 

 だが、それはあくまで、似ているというだけだ。雪ノ下陽光という人間が、あの正体不明の怪物を、必死で自分の常識の及ぶ存在に押し込もうとしているだけだ。

 

 例え己が知識として知る限り最大の鯨でありこの地球で最も巨大な生物である筈のシロナガスクジラでさえも、あれほど巨大ではない。シロナガスクジラは大きくても30メートル程だが、あの怪物はどれだけ小さく見積もっても50メートルはある。

 

 そして、何よりも――黒い。

 この怪物は、この真っ暗な夜の世界でも、この真っ黒な海が広がっている中でも、圧倒的に黒い。黒い。黒い。

 

 月光を浴びて光り輝くのは、まるで鎧のような光沢で黒光りする真っ黒な鱗。

 一枚一枚が大判のようで、これだけ離れていてもその一葉の大きさが分かる程だ。

 

 そして、かのシーラカンスのように、何本ものヒレが胴体から生えている。それは形だけは魚のヒレのようだが、大きさがまちまちで、おどろおどろしい。そのアンバランスさが怪物としての醜悪さをより一層に際立たせている。

 他にもごつごつとした巌のような背びれ、滑らか且つしなやかな長い尾など、幾つもの特徴を気持ち悪いほどに有しているが――何よりも。

 

 陽光が恐ろしかったのは、陽光が気持ち悪かったのは、陽光が不気味だったのは――陽光が、あの雪ノ下陽光が、涙を流し、腰を抜かして、生まれて初めて、全身全霊で悲鳴を上げることになった決定的要因となったのは。

 

 その、小さくて、つぶらな――真っ赤な、真っ赤な、美しい、瞳。

 

 真っ暗で、真っ黒な世界で、たった一対。

 真っ赤に染まるその瞳が、血のように光るその瞳が――ギョロッ、と。

 

 こっちを、向いた、気がした。

 

 それだけで、雪ノ下陽光は決壊した。

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 自らの腕の中で泣き叫ぶ陽乃の声を掻き消すような絶叫。

 まるで、その悲鳴が届いたかのようなタイミングで、真っ黒な怪物は、巨大というのも生温い程の大きな、それはもう大きな――口を開いた。

 

 バガッ――と、まるで地獄へと繋がる穴のように。無数に生え揃った牙を披露しながら、大きく、大きく、口を開いて、顎を広げて――雄叫びを上げる。

 

「LUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!」

 

 その雄叫びは、大気を地震の如く震わせ、真っ暗な海を盛大に揺らした。

 

 自身を起点に、放射上に白波が広がっていく。

 そして、弧を描くように宙を舞った怪物は、そのまま背中から再び轟音と共に豪快に着水した。

 

 ドガンッッッッッ!!!! と、爆発音のような衝撃が響き渡り、海は荒れる。

 たった一体の生物の、たった一回の着水で、容易く自然災害が引き起こされた。

 

 雪ノ下陽光は恐慌し、雪ノ下豪雪は自失し、雪ノ下陽乃は叫喚する。

 

 人間達が、目の前の怪物のたった一度の登場に、己を失い絶望する中――『彼女』は。

 

 たった一人、たった一体、人間達の中に紛れ込んでいた化物は、氷のような美女の皮を被った何かは。

 

「………………」

 

 静かに立ち上がり、冷たく、凍えるような真っ暗な眼差しで怪物を見据え、怪物の登場を見送り、怪物が沈んで巨大な渦となっているその箇所を、ただただ無表情で見詰めていた。

 

「………………」

 

 そして、そのまま視線を少し斜め後ろに、乱雑にごろっと転がっている、『彼女』の掛け替えのない友人の生首へと向ける。

 

 雪ノ下照子の死体の表情は、永遠に固められたその表情は、何とも形容しがたいものだった。

 

 これは、どんな表情なのだろう。これは、どんな感情なのだろう。

 

(……私は……この人の…………あれだけ長きに渡って共に過ごしてきた人間の……最後の感情すら、理解することが出来ないのね)

 

 こんなにも分かり易くのに。こんなにも分かり易く、見せつけるように永遠に固定されているのに。

 

 自分は、一体どれほど化物なのだろう。どうしてこんなにも――

 

――人間では、ないのだろうか。

 

「………………」

 

 氷の微笑女は、ゆっくりと崖に向かって歩き出す。

 

 陽光が、豪雪が、腰を抜かしながらも、少しでも離れようと、今は海の中へと姿を消したあの怪物から距離を取ろうと這いながら後ずさる中、『彼女』は確かな足取りで、確か過ぎる闊歩で、海へと向かう。

 

 そして――立つ。

 真っ黒な礼服を海風ではためかせながらも、氷のように真っ暗な瞳で、怪物が沈んだ跡地である巨大な渦潮――()()()()、それよりも遥かに岸辺に近い、怪物が作り出した白波を轟々と浴びる(いわお)の、その上で。

 

 ちょうどこちらを、崖上を見上げるように、淑やかな笑みを浮かべながらハープを奏でている――下半身が翡翠色の鱗を持つ魚の美女を、見下ろす。

 

 人魚。

 この世界では――人間の世界では、およそ伝承やお伽話の中の存在である、かの幻想種。

 

 氷の微笑女の、氷のように冷たい優秀すぎる頭脳は、その存在を認めただけで――全てのことを理解した。

 

 美女は見下ろす。人魚は見上げる。

 目が合い、人魚は微笑み、美女は氷のように無表情だった。

 

「………………………」

 

 ギュッと、肘に掌を添えるように組んでいた腕に、力が入った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 荒れ狂う海の波のようにウエーブのかかった色の薄い金色の髪。

 真っ白な肌と形のいい胸が剥き出しの上半身に、翡翠色の宝石のように輝く鱗の下半身。

 

 まるでお伽話の絵本の中からそのまま飛び出してきたかのような美しい人魚は、抱き締めるように抱える純白のハープに手を添えながら、己を見下ろしている黒服の美女を見上げていた。

 

(……黒い服の人間が見えたから思わず殺しちゃったけど……あれが標的でよかったのかしら? 聞いていた話よりずいぶんあっさりと殺せちゃったのだけれど……)

 

 今回の戦争は、それこそ自分達『海の星人』の、現状集められるだけの戦力を片っ端から掻き集めて、縄張りが異なる『陸の星人』や『空の星人』達にも得られるだけの協力は出来るだけ仰いで――正しく全面戦争を仕掛ける心積りで、その覚悟で臨む戦争である。

 

 一枚岩ではないこちらの目的は様々だ。

 勢力を増し続ける『黒衣』達の早期壊滅を目論むモノ。

 これを機に“陸”へと勢力を拡大せんとするモノ。

 異なる縄張りを持つかつての同胞達との再会を夢見るモノ。

 そして、これから激化するであろう、星人と人間の戦争――それを嘆き、止めんとするモノ。

 

 この人魚も、その例に漏れず、『半魚星人』――その中の、マーメイド族達の長としての、確固たる目的を持って、この戦争に参戦している。

 

 今、この地球上に住まう“星人”達で、“黒衣”に脅威を覚えぬモノは、殆どいない――言語を操る程に知能の高い星人は特にだ。彼女も、彼女達も例外ではない。

 

 自分が放った一閃が、取り返しのつかない一手であることは、この人魚は理解している。

 あの首を吹きとばした老女――彼女が“黒衣”だったならば、それは宣戦布告の号砲に他ならない。

 

 戦争の――大戦の引き金に、他ならない。

 

 その上で、この人魚は剥き出しの胸を張る――それがどうした、と。

 この場に居合わせた時点で、この戦場に赴いた時点で、これだけの明確な敵対行動に打って出た時点で、とっくに自分達に後戻りなど許されていない。

 

 よろしい。さあ、戦争だ。

 懸けるものは――全て。己の命と、同胞の命――我らが種族の生存か、それともはたまた絶滅か。

 使えるものは怪物だって使う。例え今日というこの日に全てを失おうとも、明日の朝日が拝めなくとも――黒衣は必ず滅ぼしてみせる、と。

 

 我らが――化物が。

 今日も、明日も、この惑星で生きていく為に。

 

(だから、死んで――人間)

 

 美しい人魚は、微笑みながら、優しくハープを掻き鳴らす。

 

 そして、見上げる先に屹立する、崖上からこちらを見下ろす冷たい美女に――不可視の刃が接近し――。

 

 

――()()()()

 

 

「…………え?」

 

 キィィィン――という、甲高い音が響く。

 

 人魚は呆気に取られた。だが、化物の彼女の視力は、その一部始終を、鮮明にその瑠璃色の瞳に焼き付けていた。

 

 崖上の美女は、まず、信じられないことだが、不可視である筈の音色の刃――音の刃を、()()()()()()()()()

 そう、()だ。美女は確かにその一瞬、瞼を閉じて、手を前に突き出し、ブンッとその手を水平に振った。そして、人魚の音の刃を弾いたのだ。

 

(――ッ!? ……あれが、“黒衣”? さっきの老女とはまるで違う。正しく、アレは戦い慣れた動き……戦争に慣れ親しんだ反応……というより、黒衣は皆あんなことが出来るの? ……いや、でも……っ!? ……()()()は――)

 

 人魚は美しいその顔を小さく、険しく、顰める。

 化物の視力は、その瑠璃色の瞳は捉えていた。音の刃を、たったの一振りで弾いたその動き――その美女の右手は、化物のように、醜悪な刃に変わっていた。

 

(…………そう。そっち、か。つまりは、()()()()なのね)

 

 人魚は顰めていた眉を戻して、小さく、感情のない言葉を呟いた。

 

「アイツ、失敗したのね。………使えない男」

 

 微笑みを消して、無表情で崖上を見上げる人魚。

 こちらを、不可視の一撃を防いでも未だ無表情で、真っ暗な氷の瞳でこちらを見下ろしてくる美女を見上げて――吐き捨てる。

 

寄生(パラサイト)星人のリーダーは稀に見る切れ者だと聞いていたけれど……愚かね。一体、どういうつもりなのかしら?」

 

 化物を敵に回して。自分達も、化物の癖に。

 

 化物の癖に。化物の癖に。

 

 化物なのに。化物なのに。化物なのに。

 

 自分達も、どうしようもなく、化物の分際で。

 

(…………まさか、これからもずっと、人間に紛れて生きていけるつもりなの? まさかまさか、これからもずっと、人間と、仲良くやっていけるつもりなの? まさかまさかまさか、自分達も、人間になれるとでも、思っているの?)

 

 ハッ――と。侮蔑するような、呟きが漏れる。

 

「いいわ。そんなに死にたいなら殺してあげる」

 

 この戦争で――人間達と、一緒にね。

 

(プレゼントよ。泣いて喜びなさい)

 

 人魚がハープを優しく掻き鳴らす。

 

 さあ、戦争が始まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その人魚の姿を目に捉えた時――否。

 

 友人の首が宙を舞い、海から怪物が飛び出した時には――『彼女』は、己が友人の首を指一本触れずに胴体と分離させ、殺害した、その摩訶不思議なトリックを暴いていた。

 

 半魚星人の二大派閥が一つ、マーメイド族の族長――【人魚姫】セイラの“音色の刃”は、それ程までには、有力な星人達が築いている情報網の中では有名な必殺技だ。

 

 星人。

 人間ではない彼等は、化物である宇宙人の彼等は、それこそ人間がこの世界を支配する以前から、この惑星に住み着いているモノ達がいるほどに、地球という星に適応している。

 

 だが、その多種多様な性質の為か、ある一部の環境に特化したモノや、ある程度の条件が整わなければ生存できないモノ達も当然に存在していて、それ故か、星人達の支配領域は、大きく分けて三つの生息地に分類される。

 

 陸の星人。

 海の星人。

 空の星人。

 

 いつの間にか、こういった形でカテゴライズされるようになった彼等は、それぞれを自分達の縄張りとして住み分けるようになった。

 

 不可侵条約がある訳でも、明確に三つの国として分裂している訳でもないが、ある程度の共通認識として、この地球を大きく三つに分けて、それぞれが己の住み易い場所で、棲み付き易い形で、この地球という惑星での異星生活を満喫していたというわけだ。

 

 そして、半魚星人は、所謂“海の星人”の中でも、トップクラスの勢力を誇る最大種族だった。

 

 半魚星人は、大きく分けて二つの種類に分けられる。

 雄の半魚であるマーマン。

 雌の半魚であるマーメイド。

 

 マーマンは人間と魚の中間的な特徴を有していて、二腕二脚だがエラや鱗を持ち、醜悪な容姿だが強力な身体能力と戦闘能力、そして圧倒的な繁殖力を持つ種族である。

 マーメイドは明確に上半身が人間で下半身が魚の生物で、足はないが尾びれを持ち、容貌は総じて美しいが直接的な戦闘能力は低く、その数も驚くほどに稀少な種族である。

 

 だが、マーメイドはマーマンにはない幾つもの特殊な能力を持っている。

 

 一つは遊泳速度。

 単純なスピードならば、ありとあらゆる海の星人を相手取っても、マーメイド以上に速い速度で泳げるモノは存在しない。

 

 一つは寿命。

 マーマンも通常の地球人や魚よりは遥かに長命だが、マーメイドのそれは比ではない。およそ時間という概念では彼女達を老いさせることは出来ないのではないかと思われる程に、その美しい姿を永遠に保ち続けることが出来る。

 

 一つは歌声。

 その可憐な声で奏でられるその歌は、あらゆる船乗り達を魅了し、虜にするがままに海底に沈ませたという伝説が語り継がれている。

 

 他にも様々な能力を持つマーメイドだが――それ以上に、彼女達は数多くの悲痛な運命を背負っていて、この頃はまだ、マーマン達に紛れる、文字通りの半魚星人の稀少種でしかなかった。

 何よりも、直接的な戦闘能力の乏しさが、マーメイドという種族を長きに渡って苦しめ続けた要因となり続けていた。

 

 彼女達は――弱かった。

 けれど、彼女達は美しかった。彼女達は不老だった。

 彼女達は海に愛され、彼女達は音楽に愛された。

 

 だから、彼女達にとって――この世界は地獄だった。

 

 来る日も来る日も、彼女達は逃げ続けた。

 誰よりも速く、速く、速く泳ぎ続けた。何処までも、遠く、遠く、遠くまで逃げ続けた。

 

 それでも、一人、また一人。

 下卑た笑みを浮かべる醜悪なモノ達の手に落ちて――。

 

 人魚は、幸せになれない。

 いつしか、人間達ですら、誰もが知っている常識となった。

 

 そんな、ある日。

 美しくも悲しい人魚達に、遂に神が救いを齎したのか。

 

 息を呑まずにはいられない程に、悲しいまでに美しい人魚達の中でも、一際に美しい、まるで宝石のような眩い輝きを持つ――『姫』が生まれた。

 その人魚は美しくもあり、哀しくもありつつも――とても強かった。そして、恐ろしかった。

 

 金色の髪と翡翠色の鱗を持つ『人魚姫』は、全てのマーメイド達の希望となった。

 彼女が奏でるハープの音色は至福と共に斬撃を飛ばし、彼女が奏でる歌声は万物万象を意のままに操り、海を鳴らし、嵐を起こすという。

 

 まるで、これまでを生きたマーメイド達の怨嗟と絶望、これからを生きるマーメイド達の希望と祈願から生まれたかのような、そんな彼女の名は――。

 

(――恐らくは彼女が……【金緑の人魚姫】セイラ)

 

 紛れもなく、この地球に住まう全星人達の中でも、トップクラスの――大物の一人。

 

 そんな彼女がこんな極東の島国へ何の用なのか――それは、聞くまでもなく明らかだが。

 

 戦争をしに来たのだろう。

 かつて世界を二分した人類史上最大の争いの果てに敗戦した一国である日本を舞台にするのは、戦争に負けた人間達の国を選んだのは、皮肉なのか、どうなのか、知らないが。

 

「………………」

 

 本来ならば、例え全ての星人の動向を探るのは現実的に不可能だとしても、人魚のように人間世界にすらその存在が知られている――その多くがお伽話や物語の存在としてだが――程のビッグネーム達の動向くらいは、常に把握しておくべきだった。

 

 何故なら、彼女等程の存在が動くとなれば、恐らくはあの黒衣達ですら、完全に闇の中に真実を隠し葬るということは不可能であるからだ。

 

 つまりは、文字通りの、世界を揺るがす、戦争となる――大戦となる。

 こんな風に、ただそこに居合わせたというだけで、巻き込まれ――――そして――――そして。

 

「……………………っ」

 

 避けなければならなかった。防がなくてはならない事態だった。

 

 星人の存在は基本的に隠し通されているものだが、同じ星人同士なら、その動向は星人達の間だけで構築される情報網から、嫌でもその情報は――人間達のゴシップ記事程の信用度の情報だが――手に入れることが出来る。

 

 だが、それもやはり、ある程度の勢力を持った星人組織間のみで、という但し書きは付くが。

 そもそも星人組織同士が情報をやり取りするのは、やはり様々な目的があるからだ。どんな理由にせよ、情報をやり取りする程度には相手組織と関わりを作っておきたいからだ。

 

 つまりは、そんなやり取りをする価値もないと思われるような弱小種族は、その情報網の中にすら入れてもらえない。

 そして、有力星人組織達が当然のように細心の警戒を持って巡らせる件の情報網の、その外側から、求める情報を掠め取るには、それ相応の力と才覚が必要だ。

 

 これまた当然――その有力星人組織間の情報網の中に入れてもらうには、それこそ、相応の力と、相応の才覚が、必要になる。

 

 それが頭脳であれ、戦闘力であれ、何であれ。

 文字通りの伝説の存在である彼等に、自分達は情報交換をするだけの、関りを持つ、コネクションを築く価値がある存在だと、認めさせなければならない。

 

 結論として――『彼女』は、つまり寄生(パラサイト)星人は、今日に至るまで、こんな事態に至るまで、その情報網の内側には、終ぞ入れてもらえていない。怪物社会でも、仲間外れのままだ。

 

 星人としての歴史も浅く、詳細な起源も不明、またその特性上限りなく人間側に近い存在である寄生(パラサイト)星人――情報という、時に命より大事な商品をやり取りするには、余りにも危険性(リスク)が高すぎると判断されたのか、それとも寄生(パラサイト)星人という種族に魅力を、そして恐怖を感じなかったのか、またはその両方か。

 

 だが、ただ一人――『彼女』は。たった一人、たった一体の寄生(パラサイト)星人は。

 個人の才覚を以てして、幾つものルートを個人的に切り開いて、求める情報の幾つかを、文字通り掠め取っていた。それ相応の力と才覚を、『彼女』という個体に関しては有していた。

 故に、ある程度の星人社会の情勢は把握していたが――同時に有力星人組織にその存在を知られていったが――いくら『彼女』でも、個人で集められる情報には限界がある。

 

 その上、ここ最近、『彼女』は裏舞台に関わりを持つことを極力まで減らしていた。当然、情報収集にも、精を出さなくなっていた。

 それは、同胞達が“黒衣”に襲われ、迂闊な動きが出来なくなったという面もあるが――。

 

「………………」

 

 結果――招いてしまった。こんな――結末を。

 

 避けなければならなかった。防がなくてはならない事態だった。

 

 だが、結果として、結末として、『彼女』は。

 

 眼下の――崖下の、美しい人魚姫の引き起こした戦争に巻き込まれ。

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

(――――――――っ)

 

『彼女』が、その事実に、気付き。ようやく、思い至り。

 

 息を呑んで、身体を硬直させて、頭の中を真っ白にした――止まっていた思考を、更に完全に停止させ、思わず陽光達の方へと振り向きかけた、その一瞬の間に。

 

「――――ッ!」

 

 殺気。殺気。殺気。

 

 眼下から、崖下から、目には見えない殺意が、空気を切り裂きながら迫り来る音の刃が――()()、襲い掛かるのを感じた。

 

(――っ! これは――ッ)

 

 背後を振り向きかけた身体を再び強引に前に戻し、化物の刃を右手に作り出して――振るう。

 

 だが、防ぎきれない。

 見えないが、感じる。寄生(パラサイト)星人として、これまで数々の死線を潜り抜けていく間に磨き抜いてきた化物の五感は、音の刃が複数迫っていることを正確に感じ取っていた。

 

 正面から来る斬撃は、弾ける。だが、残る二つの斬撃は――自分の身体を真っ二つにする軌道ではない。せいぜい四肢を掠める程度だ。

 しかし、先程――愚かにもつい先程、ようやっと思い至ったように、自分の後ろには、陽光が、豪雪が、陽乃がいる。

 

『彼女』は刃を増やす為に頭部を裂かせようとして――再び、固まる。氷のように。

 

 いる。自分の後ろには、彼女が、彼が、彼女が――人間がいる。

 

 ()()()()()()()()――()()

 

(――っ!!?)

 

 その瞬間、『彼女』の脳裏を()ぎったのは。

 

 彼等を守る方法でも、自分を守る方法でも――なく。

 

 ついさっきの、反射的に人魚の攻撃を防いだ、あの瞬間。

 右手の手首から先を刃に変えて、無造作に弾いた、あの――化物丸出しだった、あの瞬間を、見られていなかったか、などという、無様過ぎる焦燥で。

 

 結果――残り二つの不可視の斬撃は、『彼女』の両二の腕を浅く切りつけて、()()()()

 

 豪雪の目の前の地面と――雪ノ下厳冬の墓を、真っ二つに切り裂いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼女は人間だった。彼も人間だった。そして、その間に産まれた彼女も、当然、人間だった。

 

 だから逃げたのだ。少しでも、少しでも、逃げようとしたのだ――化物である、『彼女』と違って。

 

 あの怪物が――どこからどう見ても、誰が何と言おうと、紛れもなく間違いなく怪物に決まっている巨大未確認生物が海から飛び出した、あの光景を見せつけられて。

 逃げるに決まっている。恐怖に怯えるに決まっているのだ。そうでない存在は、間違いなく絶対に人間ではない。

 

 よって、人間ではない『彼女』が、あんな怪物が飛び出してきた、そして今も中に潜んでいるだろう――真っ黒な海に向かって、あろうことかしっかりとした足取りで、迷うことなく崖の先端まで歩いて行ったのとは、反対に。

 

 少しでも遠くに。少しでも遠くに。あの怪物から、あの海から、少しでも遠くに。

 叫びながら、涙を流しながら、腰を抜かしながらも――這うようにして、ゆっくりと、ぶるぶる震える身体を引きずって、力の入らない四肢に懸命に訴えかけて。

 

 家族に向かって、手を伸ばして。

 

 ただ、家族だけを、求めて――愛する家族の元へと、逃げていた。

 

 ()()――()()()()

 

「………………ッッ!!」

 

 崖下の化物の攻撃は、真っ黒な海からの射撃手の不可視の斬撃は、雪ノ下家の人間達を殺すことは出来なかった。

 

(――――っ!? つまり……あの人魚からは――)

 

――()()()()()()

 

 この三人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『彼女』は、心臓が――[彼女]の心臓が荒ぶっているのを何処か他人事のように感じながら、思い返す。

 

 崖下からこちらを見上げているだろう、人魚姫の位置取り。

 元々この場所に来るであろう自分達を狙っていたのであれば、かなり不適切な場所だった。文字通り、見上げなければこちらに気付かないであろう程の鋭角な場所。

 

 恐らく、偶々、自分達を見つけたのだろう。そして、偶々見つけたから、こちらを(つい)でに攻撃している。

 照子を殺したのも、彼女が偶々、身を乗り出すように崖の先端に姿を現したから――黒い礼服を着ていたからか、それとも人間は見つけ次第に片っ端から皆殺しにする算段だったのかは分からないが。

 

 兎も角、この推論が正しければ、あの人魚はこちらの人数を正確に把握していない。今の攻撃も、ただ『彼女』を狙って外した攻撃でしかない――ならば。

 

(――ッ。今は、一刻も早くここから――)

 

 離れなければならない。

 こんな簡単なことに、『彼女』の優秀な筈の頭脳が思い至るまでに、あろうことか、何ということか――数秒もの時間を要してしまった。

 

 痛恨の硬直――己の両二の腕を裂いて通過していった二つの見えない斬撃――――その直後。

 突き動かされるような感情と共に、二つの殺意が齎す結果を、斬撃の行く末を、反射的に振り向いて視認した。

 

 それがどんな感情故だったのか――そもそも、全身を駆け巡ったそれが、身体を突き動かしたそれが、果たして感情というものだったのかという自問すらも置き去りにして、振り向いて、氷のような両目を見開いて捉えた――その画は。

 

 歯を食い縛って、普段の堅苦しい無表情がまるで嘘のように、顔をぐしゃぐしゃにして、妻と娘に向かって、這いつくばりながらも手を伸ばす豪雪――父親と。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、泣き叫ぶ娘を守るように抱えながら、普段の高貴さをかなぐり捨てて、地に伏せながらも懸命に前に、夫に向かって手を伸ばす陽光――母親が。

 

 ただ、ただ――家族を求めて、生きようとする、姿で。

 

 そんな家族を、引き裂くように――豪雪の目の前の地面が、豪雪と、陽光と陽乃の、間の地面が、真っ直ぐに抉られていた――それでも。

 

 真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに――手を、伸ばして、求め合う。

 

 化物の眼球が潰れそうな、眩さの、光景で。

 

(――――――)

 

 ズシン、と。

 

 立ち尽くす『彼女』の背後で、崖の先端に威風堂々と建てられていた、雪ノ下厳冬の墓石が真っ二つに崩れ落ちる。

 

 この光景と、その音が、『彼女』の中に――感情(なにか)の渦を巻き起こし、轟々と加速させる。

 

 彼等がこちらを向いていなかったことに、己が右手を化物に変化させた姿が見られていなかったという安堵を覚えて。

 けれど、とてもそれだけではないような疼痛が響いて。墓石が落ちる音に寂寥を覚えて。この光景の美しさに温かさを覚えて。でも、同時に、冷たさも感じて。

 

 荒れ狂う――この、何かは、感情なのか? これが感情なのか?

 

 だとすれば、これは何だ? 何という感情だ? 何と称するべき感情だ?

 

 安堵か? 痛恨か? 寂寥か? 憤怒か? 嫉妬か? 憧憬か? 幸福か? 諦念か?

 

「…………陽、乃……陽……光……待っ……て……ろ……俺が……俺が……絶対――ッ」

「あ……な、た……大丈夫……大丈夫よ陽乃…………あなたは……あなただけは――ッ」

 

 

――――凍る。

 

 氷のように、凍る。

 

 

(………………ああ…………消える)

 

 冷めていく――覚めていく――醒めていく。

 

 冷えていく。心が冷えていく。まるで――現実を突き付けられているかのようだ。首元に、冷たいナイフを、押し当てるように。

 

 求め合う家族。愛し合う家族。美しき――家族。

 

 崩れる墓石。引き裂くような亀裂。転がる生首。迫り来る怪物。

 

 娘が生まれ、孫が生まれ――新たな生命が再び宿ったと、皆で喜び合った、あの温かった光景が、まるで夢のようだった。

 

 そんな夢から覚めたかのように、現実はやはり冷たかった。

 

 だが、それでも。

 

 やはり、家族は――人間は、こんなにも――。

 

――ああ、何という光景。夢のような姿。

 

 温かい。本当に、何と温かい。

 

 それと比べて――なんで、『私』は――――こんなにも――

 

 

「――冷たい」

 

 

 手を横に開いた。この温かい光景を、化物の殺意から庇うように――現実から、守るように。

 

 遠くに離れる時間はなかった。無様に、家族に、見蕩れていたから。

 

 それは、消えゆく夢を、夢のような夢を、看取っていただけなのかもしれないけれど。

 

 とにかく――自分だけなら逃げられたかもしれないけれど、この期に及んで『彼女』は、まだ何かに縋るように、雪ノ下家の人間達を守ることを選んだ。

 

 夢のような光景を。夢のような家族を――守る為に。

 

 これも、立派な、みっともない、逃避の癖に。

 

 海に、化物に、冷たい現実に、背を向けたまま、大きく手を横に開いて――悍ましく、伸ばした。

 

「―――――――――ッ!!」

 

 ガキキキキキキキキキィィイイン!!! ――と、防ぐ、防ぐ、防ぐ。

 

 恐らくは、こちらの正確な位置を把握していないが為の、雨霰のような範囲散弾攻撃。

 

 全てが不可視な弾丸を、化物な『彼女』は、化物のように伸ばした腕から、更に枝のように腕を幾つも生やして、その全ての先端を刃に変えて、振り回した。

 

 そして、全て、弾く、弾く、全て、全て、防ぐ。

 

 この家族を傷つけようとする全てを、この夢を破壊しようとする全てから――守る。

 

 氷のように無表情で、氷のように無感情で、氷のように無感動で。

 

 氷のように――美しく。

 

「――――――――っ!!」

 

 キィィン!! と、最後の一つを弾き飛ばす。一刹那の攻防だった。

 

 瞬間――化物の武器は消えていて、横に伸ばした両手は、人間のモノに戻っていた。

 

『彼女』の口元が、小さく緩む。嘲るように。

 

 轟音が消え、静寂が訪れる。

 陽光が、豪雪が、顔を上げた。

 

 見上げた先に映るのは、氷の微笑を浮かべる美女。

 

「――逃げましょう」

 

 その笑みは、どんな感情が、作り上げたものなのか。

 

『彼女』は、もう、考えるのを止めた――逃げた。

 

 地面に座りこんで呆然と見上げる夫婦に、『彼女』は、せっかく人間に戻した手を、差し伸べることはしなった――出来なかった。

 

 夫婦の手は、大きな亀裂を物ともせずに――その上でしっかりと結ばれていたから。

 

 容易く刃に変わる(ばけもの)の手を、向けることなど出来る訳がなかった。

 

『彼女』はそれを、美しい微笑を浮かべて見つめて――心を凍らせ、氷になって逃げた。

 




 それは――眼球が潰れそうな程に眩しかった。

 彼女は人間だった。彼も人間だった。
 そして、その間に産まれた彼女も、当然、人間だった。

 だからこそ――『彼女』は凍る。氷の微笑を、浮かべて笑う。

 その温かさから、化物たる己が身を守る為に。

 それでも――瞼を閉じることだけは、どうしても出来なかった。


 
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