紫式部が初めて藤原道長と出会ったのは、今からおよそ三十年前のことだった。
当時、少女だった紫式部は、源倫子付きの女官の一人として仕えていた。
下っ端も下っ端に過ぎないが、黙々とよく働き、物覚えもいいとあって、同僚にも倫子にも大層可愛がられていたらしい。
そして、紫式部が仕事にも慣れてきた頃、俄に家中が騒がしくなってくる。
倫子の父である雅信、母である穆子の言い争う声が頻繁に聞こえてくるようになったのだ。家中のトップである夫婦の喧嘩に、幼い紫式部はおろおろするばかりだったが、先輩女官達はまたかという表情を揃って浮かべていた。
なんでもこの家では定期的にこのような言い争いが勃発するらしい。原因は、紫式部の当時の主である倫子の結婚に関してだ。
二十四である倫子を一刻も早く結婚させようとする穆子と、色々と言い訳を尽くしながらも結婚させたくない雅信――娘の結婚に関して積極的な母と消極的な父と言い換えれば現代にも通じる話ではあったが、現代よりも遥かに結婚適齢期が早く、また結婚自体の一族的な意味も重かったこの時代においては、より切実であったことだろう。
そして、今度ばかりは、夫は妻に勝てなかったらしい。
女官達はバタバタと慌ただしく婚儀の準備に取りかかり、婿に来るというその男の来訪を待った。
それからあっという間にその日はやってきた。
待望の婿君、平凡児と評判であった道長は――美しかった。
周りの女官達も、雅信も、彼を推した穆子も揃って息を吞む。
唯一、婚儀前にお忍びで顔を合わせていたという倫子のみが堂々と彼を迎え入れていた。
少女・紫式部は、無作法であると知りながらも、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。頬を赤く染め、その美しい男を見上げることしか出来なかった。
これが、藤原道長と――紫式部の初対面であった。
紫式部はその後の数年間、倫子付きの女官として勤めたが、父・
父の配属先の現地で親子程に年の離れた
そして、そのすぐ後だった。
平安京から――藤原道長から、彼女に対して誘いがあったのは。
「物語を、書いているらしいな」
美しい月夜だった。
それは紫式部に、幼い頃の情景を思い起こさせた。
『君も、物語が好きなのか?』
あの夜も、美しい月明かりが照らす夜だった。
眠れなくて、誰もいないと思っていた秘密の場所で、大好きな『竹取物語』を諳んじていた所に――彼はやってきて言ったのだ。
その日から、お互い眠れない夜は、こうしてひっそりと物語について語り合った――紫式部にとっての、人生で最も楽しい思い出。
だが、この時は、あの頃のように淡い思い出とはならなかった。
それは誰もいない場所、誰も見ていない夜――紫式部は、久方ぶりに会った道長に、強く腕を引かれ、彼の胸に抱かれた。
この時、紫式部は初めて理解した。
もう自分は、少女ではなくなっていることを。
あの主人公のような――初恋の大人の男にとっても、今の自分は、もう少女ではなく、一人の女なのだということを。
「帝も、この上なく、物語を愛しておられるのだ――私達と、同じようにな」
男の吐息が、そっと女の耳を撫でる。
紫式部は、夫の腕の中ですら感じたことのない羞恥と、興奮を覚えた。男を知らぬ生娘のように高鳴る鼓動を、初めて恋を覚えた少女のように染まる頬を見られないように、道長の胸に顔を押し付ける。
道長は、そんな紫式部を尚も酔わせるように囁く。
「誰も見たことのない物語を綴ってくれ。誰もが先を知りたくなるような、誰もを虜にする最上の物語を。『竹取物語』とも違う。『伊勢物語』とも違う。お主が書く、お主だからこそ書ける、そんな物語を――」
男は女を引き離す。
温もりが離れることに紫式部は思わず寂しさを感じたが、それを自覚するより早く、道長の瞳が紫式部の瞳を捕らえた。
「私は――それが欲しい」
ああ、これだ、と、紫式部は思い出した。
重ねられる唇――それを味わいながら、紫式部は遂に長年の感情を理解した。
ずっと、この瞳に魅入られていた。
それは煌々と燃える黒い炎のような激情だった。男であれば誰もが抱く感情を、この男は誰よりも強く内に秘めていた。
それはまるで、赤く染まる月のように妖しく、見る者を引きずり込むように輝く。
恐らくこれは――呪いの
藤原道長という男は、きっと破滅に向かう者だ。もしくは――破滅を齎す者。
この男は触れてはいけないものに手を伸ばす者だ。
それが、全てを焼き尽くす劫火だと知っていても。
この男と共に歩むのならば、きっと己も身を滅ぼすだろう。全てを失うのだろう。
だが、それでもいい――そうしたいと、支配されてしまった。
紫式部は、この日――藤原道長に全てを捧げた。
そして、紫式部は、一条天皇の
一条天皇にはこの時、既に他に複数の女御がいた。
中でも、道長の兄であり、父・兼家からその権力を正当に受け継いだ長兄・藤原道隆の娘である
道長はどうにか長女・彰子を
それこそ年若い者同士ならばいざ知らず、夫には三つ年上の正妻が居て、しかもしっかりと愛情と子を築き上げている。つい先頃に女の身体となったばかりの十二才が、愛し合う夫婦の間に後から割り込もうというのだ。生半可な戦いではない。
しかし、それでも、彰子が一条天皇の子を――皇子を生まない限り、道長の野望はそこで終わりだった。
だからこそ――。
「――私には、お主が必要なのだ。香子」
道長は褥の中で、紫式部の頬を撫でながら語りかける。
厳しい戦いを強いられる娘の元に、道長が紫式部を送り込んだ、その理由はただ一つ。
「物語を紡ぐのだ。帝を一夜でも多く、一刻も長く引き留める為に。お前が紡ぐ物語で、帝を、誰もを、夢の中へと引きずり込むのだ」
そして、紫式部は綴り続けた。
帝の前で、中宮の前で、平安貴族の誰もを虜にするような壮大なる物語を語り続けた。
それは光り輝く男が、幾人もの女性を虜にし続け――不幸にし続ける物語。
目が潰れんばかりの眩い光で、何人もの女性を狂わせ続ける物語。
破滅を齎す男と知っていながら、そんな男を愛さずにはいられない――女の物語。
紫式部は、それを、たった一人の男の為に――綴り続けたのだ。
+++
夜の帳が落ち、静まりかえった京の都。
その片隅にひっそりと存在する屋敷の主は、旧知たる来客をもてなすべく美姫の式神達に酒を注がせていた。
来客の男は、そんな酒を一口に飲み干しながら、屋敷の主に不敵な笑みを浮かべる。
「――それで? 件の妖怪はいつ頃に現れる?」
常人ならば眩むような強い酒だった。
だが、それをものともせずに豪快に、それでいて静かに飲み干した、この国の最高権力者――その座へと上り詰めた男は。
藤原道長は、この妖しげな屋敷の主人であり、この国の最強能力者である――生まれついたその時からその座を
安倍晴明は、道長の問いに薄い笑みを浮かべながら返す。
「さて、初耳ですな。何の話でしょうか」
「とぼけるな。お前と言葉遊びを交わすのも一興だが、事は一刻を争うのだ。そもそも、お前に知らぬ事、見えぬ事など
そう言いながら、道長は一度、同席する紫式部を流し見た。
この中でただ一人、事態を把握していない彼女はその視線に身体を震わすが、聡明な彼女はすぐに気付いた。
全てを見透かす陰陽師が知らないふりをした――この場でのそれはつまり、何も知らない紫式部の為に、事件の詳細を口に出して語らせる為だということ。
それを察した彼女は、詳細を知りたいのはやまやまだが、道長の時間はないという言葉を優先させる為に、晴明に向かって頷きを返す。
晴明は「――失礼いたしました。それでは、問に対する答えをば――」と一度瞑目し、そして薄く目を開けながら、鋭く言う。
「その妖怪は、丑の刻――今宵、夜が最も深まる時、現れましょう。場所は、土御門邸。道長様、あなた様の住まう御屋敷にございます」
「――っっ!?」
晴明が恭しく――道長らには白々しく映ったが――語った言葉に、ただ一人事情を知らなかった紫式部は絶句する。
確かに、近頃の平安京において、妖怪の襲撃など日常茶飯事と言っていい。
ここ最近においては貴族の邸も頻繁に狙われているが――それでも、この国の最高権力者である道長の住まう邸である土御門邸が標的とされることは、正しく国を揺るがす一大事と言える。
思わず腰を浮かしかけてしまった紫式部――だが、ここにいる紫式部以外の男達は、前もってその事実を知っていたとはいえ、誰一人として狼狽えている者はいない。
(……いや、道長様が貴族、民に問わず怨嗟の念を抱かれているのは今に始まったことではない。……これまでも私が知らなかっただけで、知らされていなかっただけで、このような夜襲は度々未遂で防がれていたのかも)
だからこそ、道長はこうして晴明屋敷を訪れたのかもしれない。
藤原道長にとって安倍晴明は、平安京の摂政と
この平安の時代は妖怪の最盛期であり、対妖怪戦力の最盛期でもある。
それはつまり、妖怪という存在が常識として認知されているということでもあり――こと、人間同士の対立でも妖怪が度々利用された。
この国の最高権力者でもある貴族同士の政闘においては、それは殊更に顕著だった。
政敵に対し妖怪、悪霊を用いて『呪い』を掛けて失脚させるというのは、この時代においてポピュラーな手法だったのである。
故に、有力な貴族達は、優秀な仏僧や陰陽師をお抱えにし、手元に置いておく。
どれだけ強力な護衛を傍に置いているかで、その貴族がどれだけの力を持っているのか言外にアピールする意味合いもあった。
(……だからこそ『最強の陰陽師』と『最強の神秘殺し』――このお二方を召し抱えている道長様は、名実共にこの国の頂点へと立つことが出来た。……そんな道長様にとって、此度のようなことは恐れるに足らずと、そういうことなのかしら)
紫式部は道長勢力の一員とはいえ、正式には長娘である彰子に仕える身である。
道長がこれまでどのような戦いを繰り広げてきたか、間近で見てきたわけでもなく、その全てを知っているわけではない。
だからこそ、土御門邸襲撃という此度の事態に動揺を隠せないが、道長と共に数多くの戦いを乗り越えてきた男達は、紫式部の心中に慮ることなく冷静に戦況を確認していく。
「なるほど。公任の言はやはり正しかったわけだな。それで? 此度の客人はどなたかな? 懐かしの『鬼』か? 今、流行の『狐』か?」
それとも――と、道長はそこまで口にし、再び酒を呷る。
晴明は薄い笑みを浮かべるばかりで何も返さないが、道長の隣に座る公任は「――俺の調べによるとな」と、晴明を真っ直ぐに見据えながら言う。
「その『鬼』も『狐』も、だいぶピリピリしてる感じだ。平安京を挟んで向かい合い、睨み合っていて――両勢力とも、最後の一押しを欲しがっている。開戦の号砲となる、大きな騒ぎを求めてる」
鬼――そして、狐。
今、この平安京を足元まで呑み込んでいる妖怪。その最大手たる二つの勢力。
それが今、平安京を舞台にして勢力争いをしている。
国の中枢たる平安京――それを堕としたものこそ、この国を手に入れると、まるでそう言わんばかりに。
そして、それは紛れもなく現実となるだろう。
つまり――その時は、この国が、人間のものではなく、妖怪のものになることを意味しているのだから。
(……いえ、既に妖怪達にとっては、そこはもう確定事項……今はもう、その後の話……妖怪がこの国を手に入れた後の、統べる王を決める戦い……そう考えているのかも)
そして、それを否定する根拠は、紫式部にはない。
破綻した財政。離れる民心。頻発する反乱。そして――既に国中に犯された妖気。
この国は、平安京は――終わっている。
優れた頭脳を持つものこそ理解している。
にも関わらず、貴族達は足元まで浸かっている危機に見向きもせず、華やかな張りぼてを保つことばかりに執着している有様だ。
そして、それは――この平安京、その全てを掌握するに至った、
「――――っ!」
紫式部は、合いそうになった道長の視線から逃げるように顔を俯かせる。
公任はそんな紫式部に一瞬視線を向けた後、再び晴明へ向けて続けた。
「だからこそ、これはしびれを切らした両勢力のどっちか――あるいは両方が仕掛けてきたものだと見ている。この国の最高権力者たる摂政、その就任の日の夜に、その男の住まう屋敷が襲撃される。間違いなく平安京は混乱するだろう。それを号砲とし、『鬼』と『狐』がこの国の覇権を争う――戦争が始まる。そういう筋書きと俺は見るが、どうだ? 専門家の意見を聞かせてくれ」
公任は摂政たる道長が同席している場にも関わらず、片膝を立てて端正な顔に不敵な笑みを浮かべて言う。
道長も、そんな公任を何も諫めることなく、いつものように鋭い目つきで晴明を見詰めるだけだ。
そんな彼等と晴明の間に座る紫式部も、道長と公任に追随するように、緊張を隠せていない表情のまま、ゆっくりと――この国で最も妖怪に詳しい専門家、陰陽頭たる安倍晴明へと目を向ける。
安倍晴明は、いつもと同じように、何もかも見透かすような――何もかも見ていないかのような表情で告げた。
「公任殿の推測は正しい。けれど、間違ってもいらっしゃいます」
「それは、どういうことだ?」
晴明の言葉に公任ではなく道長が問い返す。
そして晴明は、道長でも公任でもなく――紫式部を見ながら答えた。
「今宵、襲来する妖怪は、『鬼』、『狐』――そして、『女』です」
+++
街灯などがないこの時代の夜は、まるで墨汁で塗り潰したかのように暗く――黒い。
その墨色の空を、薄明るい青色の光を放つ燕が一筋の光の線を虚空に引きながら泳ぐように飛んでいる。
すると、その光の線から滝のように青い光の壁がゆっくりと地に向かって伸びていく。やがて光の壁は上にも伸びていき、半球状に屋敷を包み込んだ。
その様子を、土御門邸の庭から紫式部は眺めていた。
平安京でも随一の絢爛豪華な邸宅である土御門邸――当然、その敷地面積は広大だが、あの燕を操る術者はいとも容易くその全てを結界に包んで見せた。
(……流石は晴明様、といったところでしょうか)
常時発動型に加えて更なる結界を発動し上書きしたということは、既に退避させるべき者達は退避させ、招くべき者達は招き終えたということだろうか。
紫式部は、仮に都に住まう全ての貴族がやってきても宴や式典を行うことが可能な程に広大な庭に、未だ自分しかいないことを確認する。
道長の権力ならば都中の術者や、それこそ平安京の対妖怪機関である陰陽庁の陰陽師を総結集させることも可能だが――これが貴族政治の難しい所だ。
これは現代の政界にも通じるところではあるが、当然ながらその内部は一枚岩ではない。
武力や暴力で事を強引に進めることが許されない以上、策謀や陰謀が渦巻くのはどこの国の、いかなる時代の政治組織でも同じことだ。
狙われているのが、たとえ摂政の邸宅だとはいえど――いや、だからこそ、軽々しく公的な戦力を頼ることは難しい。それは後に、我が身可愛さで権力を私物化したと、敵対勢力につけ込まれる弱みへと繋がる。
権力の私物化など今更なので、これも薄ら寒い言葉となるが、時と場合を選べば面の皮の厚さはとても強力な武器になることを、政治家ならば誰もが知っている。
己を棚に上げて述べる正論は鋭い刃に成り得る。誰もが相手の背後を突き刺すタイミングを見計らっている戦場で生きているからこそ、可能な限り隙は作らないに越したことはない。
権力は極めれば終わりではない。頂点に立った瞬間から、その椅子に座り続ける為の次なる戦いが始まるのだ。
何せその椅子は頂点に置かれているからこそ足場が不安定であり、そこから引きずり下ろそうと前後左右から足を引っ張られ続けるのだから。
(……ですが、こんな状況で……何を今更……と――)
思わずにはいられない。
ことは既に平安京の、この国の、そしてこの国に住まう人という種の行く末を左右するという局面にすらきているのに。
広大とはいえ、たった一つの邸宅に収まる程度の数の人間達が織りなす世界なんぞに何の意味があると――紫式部は正にその邸宅の庭で、完成した結界から青色が失われて、再び平安京の夜の黒と同化した空を眺めながら歯噛みしていると。
「――久し振りね、香子。あなたも戦ってくれるの?」
紫式部は背後から掛けられた声に肩を震わせた。
振り返ると、ここにいる筈のない人物がいることに瞠目する。
「倫子様! 何故!? い、いそいで避難を――」
「ふふ、いいのよ。こんな夜更けとはいえ、わたくしまで慌てて屋敷を出てしまえば、必ずや目敏い者に見つけられてしまいますわ」
道長の妻であり、二人の皇后の母である倫子は、当然ながら平安京の超重要人物だ。
そんな存在が深夜にこそこそと――そもそも倫子が外に出るとなれば車やらなにやら大仰な準備が必要となるのでこそこそとすらいかないが――避難などすれば、せっかく公的な戦力を集めることを自粛したのに、何かあったのかと勘ぐられてしまう。
だが、だからといって、これから襲撃されると分かっている屋敷にのこのこと残っていていい人物ではない。
「で、でしたらせめて、わたくしめの屋敷にご避難を! 倫子様をお呼び出来るような家ではないことは承知の上ですが、そこならばこの土御門邸のすぐ傍です。他の貴族様に見つかる危険性も――」
「よいのだ、香子よ。倫子も覚悟の上での残留だ」
それでも納得のいかない紫式部を窘めるように、倫子の背後から声が掛かる。
ある意味で倫子以上に、この場にいてはいけない者の声だった。
「……道長様。あなた様まで……」
「この土御門邸は、私が今は亡き義父上から譲り受けたもの。倫子にとっては生まれ育った家だ。それが燃やされるやもしれぬという夜を、別の場所で怯えながら待つというのは耐え難いのだ。分かってくれ」
「…………しかし」
倫子に寄り添うように傍らに立つ道長。
だが、紫式部は眉間に皺を寄せながら理解の言葉を返さない。
当然だ。
倫子は兎も角、道長は最も渦中の人間だ。標的といってもいい。
この土御門邸が狙われるということは、それは藤原道長という人間を狙った凶行ということなのだから。
道長は紫式部の表情だけでその言いたいことを察したのか「だからこそだ、香子」と口を再び開く。
「狙われている私が移動すれば、妖怪はその避難先に現れるかもしれぬ。日ノ本最強の陰陽師である晴明が張った結界の中――すなわち此処こそ、ある意味で最も安全な場所だ」
「…………」
一見、筋が通っているようにも聞こえる。だが、やはり紫式部には詭弁に思えた。
しかし、紫式部は道長や倫子に己が意見を押し通せる立場には、無論ない。
政治的立場でもそうだが、戦力としても、拙く式神を動かせる程度の技量しか持たない紫式部も、本来ならばこの場にいることがおかしい立場なのだ。
避難すべきというのならば、紫式部こそ避難すべきなのである。彰子付きの女房である紫式部に、この場で戦うべき筋の通った理由などないのだから。
これ以上、紫式部が苦言を呈せば、道長はその辺りを理由に紫式部こそを追い出しにかかるだろう。道長や晴明に無理を言ってこの場にいる紫式部は「……くれぐれも、御身を第一に」と、頭を下げてそう言うしかなかった。
「案ずるな。こんな日が、いつかは来ると思っていた。むしろ――待ち侘びていたと言ってもいい」
道長は頭を下げる紫式部に対し、天を仰ぎながらそう言った。
紫式部は恐る恐る、そんな道長を見上げるように顔を上げたが、目が合ったのは、そんな道長に寄り添うように傍に立つ倫子だった。
「大丈夫よ、香子。これは、この人が――選んだ道。避けては通れないものだから」
そう言って、倫子は柔く微笑んだ。
紫式部は、その笑顔を持って、倫子がここにいる理由を全て悟った。
そして、改めて強く理解した。
この方は――自分と同じなのだと。
妖しく光り輝く男の黒い炎に魅入られて、その末路を悟りながらも、同じ道を歩むことを覚悟した女なのだと。
紫式部は、その揺れない姿に、眩いものを見るように目を細めて。
(…………ああ)
強く、強く――嫉妬した。
+++
「ここに居られましたか、道長様」
その時、道長の背後から二人の男が現れた。
内の一人は紫式部も見知った人物だ。道長や倫子よりは年下だが、紫式部よりは僅かに上の四十代半ばの男性。
公任と同じく道長が重用する四人の部下の一人で、公任を裏の右腕とするなら、行成は正しく道長の表の右腕と呼ぶべき重臣である。
一条天皇時代には
これらの働きから道長は行成を高く評価していて、後の世に「権積」と称される程の能書家でもある彼を、才を持つ者を愛する道長は、蔵人頭の役職を降りた後も側近として傍に置いていた。
「来たか、行成」
「は。頼光様の下を尋ねました所――生憎、かの方はご不在でした」
「――え?」
行成の言葉に、思わず声が出てしまったのは紫式部だった。
思わず顔を伏せるが、混乱は消えない。
神秘殺しと名高いかの御仁は、政治的権力はそこまで強くないものの、こと財力と戦闘力においては右に出るものは居らず、道長とは別の意味で平安京において一目置かれている。
道長も極力他の貴族には今宵の襲撃を知られたくないとはいえ、頼光には声を掛けた筈だ。だが、その答えはまさかの不参加だった。
(……そんな!? まさか、他の貴族に鞍替えを? ……いえ、あの御方に限って……それに、今の政治状況でそんなことをしてどのような益が……っ!?)
紫式部は頼光とそこまで親交があるわけではない。
道長と会っているのを傍で何度か見かけている程度だ。だが、その傍目からでも、二人の関係が他の貴族とは違う、晴明と道長の関係とも少し違う、何やら特別なものに思えたのだ。少なくとも、道長の危機とあれば、何を置いても駆け付けてくれるような。
だからこそ、紫式部は頼光の不参加に衝撃と、混乱と、少なからずの失望を覚えたが――道長は「ふむ。そうか、それは残念だ」と言葉通り僅かな落胆を声色に見せたが、紫式部のような失望の色はなかった。
行成はそんな道長に向けて続けて言った。
「はい。ですが、この方には駆け付けて頂きました」
ガシャと、貴族世界には似つかわしくない音が聞こえた。
紫式部にとって聞き馴染みのないそれは――鎧がこすれる音だった。
行成の背後にいた男が、一歩前に出て跪く。
女のように艶やかな黒髪を伸ばした、息を吞むような端正な美男子だった。
「
男の名乗りを聞いて、紫式部もようやくその男の姿を見たことがあるのを思い出した。
この土御門邸で藤原道長と源頼光が会う時、何度か頼光の傍に控えていたことがあった人物だ。
(……まさか、この方が――かの頼光四天王最強と呼び声の高い、頼光様の右腕と呼ばれる妖狩りの……)
神秘殺し――源頼光。
かの武将の傍に侍る四人の従者――頼光四天王といえば、平安京で暮らす者ならば知らぬ者はいないという程に有名だ。
実際に街に蔓延る妖怪を退治して回る彼等は、困窮する市民達に何もしようとしない貴族達よりもよほど市井の支持を得ている。分かり易い正義のヒーローだ。
しかし、それ故に、貴族達からはその力は認められているものの、市民に媚びを売る階級の低い家柄の者達と疎まれ、軽んじられていることは否めない。また、頼光自体が貴族界での出世には余り興味がない上、その仕事柄地方を渡り歩くことが多いことも一因である。税収のいい実り豊かな土地との繋がりが強い故に、財だけならば都の貴族の中でもトップクラスなのだが。
つまり、源頼光は分かり易く貴族界では浮いているのだ。
だが、そんな頼光は何故か道長とは昔から相性が良く、この土御門邸で茶や酒を酌み交わすことが多かった。無論、それはあくまで道長と頼光の個人間での友人関係であり――頼光の財を道長が宛てにしたり、貴族界で浮いている頼光の後ろ楯として道長が使われたりと、共に家名を背負う氏長者としての思惑もあっただろうが――基本的に彼らの会合は、道長と頼光の一対一だった。
だからこそ、紫式部としては、自分はかの有名な頼光四天王の姿をこの目ではっきりと見たことはなかった――と、本人は思っていた。
流石に頼光も個人的な官位は低いとはいえ家長なので、供を全く連れていないということはなかったが――時折見かけてはいた、この女のように美しい男が、かの四天王筆頭である渡辺綱だとは今日まで思い至りもしなかった。
(……確かに、鎧姿でこうして目の前に居られると……なにやら物々しい、只ならぬ気配を感じますが――)
かつて、この土御門邸で見かけた時は、妖怪と戦うどころか刀を振るう姿すら想像も出来ない、はっきり言って優男にしか見えなかった。
あの源頼光が傍にいたとはいえ――頼光自身が、例え道長と会合する時であっても他の者がいる場合は鎧を脱がない異様な男であるので、そちらばかりに目が行っていたとはいえ――記憶力のいい紫式部が思い返す限りでは、背は高いが全体的にすらりとしていて線が細く、家人に向ける笑顔も優しい、正しく光り輝く貴公子といった具合の印象で、そう、まるで――。
「光源氏のような……」
ぽつりと、思わず零れてしまった紫式部の呟きは、タイミングが悪くその場の全員の耳に届いてしまったようで。
行成が、倫子が――呟かれた本人である綱は勿論、道長までもがすっと紫式部に目を向ける。
紫式部は途端に顔を真っ赤に染め上げ「も、申し訳ございません!」と頭を下げた。
倫子はくすりと笑って、行成は持ち前の生真面目さを発揮してくすりとも笑わず。
綱は原作者のまさかの言葉に苦笑のようなものを浮かべて頬を掻いて――そして、紫式部は、道長がふっと薄い笑みを浮かべているのが見えた。
「…………っ!」
それを見て、ますます声も出せずに顔を赤くしたまま伏せる紫式部に、綱は貴公子然とした爽やかな笑みを持って近付く。
「ありがとうございます。まさか、あの源氏物語の作者様からそのようなお言葉を頂けるとは思いませんでした」
「……いえ。こちらこそ、ご高名な妖狩りであらせられる勇敢なる御方に向かって、大変失礼なことを申しました」
光源氏は、光り輝くように美しい男だが、決して正義のヒーローではない。
守りたいものを守れず、触れてはいけないものに手を伸ばし、己に関わる女を悉く不幸にする男だ――他でもない紫式部が、そのように描いたのだ。
その身を持って弱きを助ける民衆の英雄である渡辺綱を称するには、決して相応しくない言葉だと紫式部は頭を下げる。
対して綱はそのようなことを気にしていないのか「頭をお上げください、紫式部様」と眉尻を下げながら言うと、その綱の肩に腕を回しながら藤原公任が現れて軽薄に言った。
「おいおい、紫式部。前に俺に言ったことと違うじゃないか? 光の君はこんなところにおったのか?」
にやにやといった表情の公任に、紫式部は「……覚えておいでなのですか」と険しい顔で呟く。
かつて、源氏物語が貴族の中で流行し始めた頃。
その頃に開かれた盛大なる宴の席にて、顔を真っ赤にする程に酔っ払った公任が、貴族達が大勢居る前で、部屋の隅にいた紫式部の前にどかっと腰を下ろし喚くように言ったのだ。
若紫はこちらにおいでか? ――と。
若紫とは、源氏物語のヒロインの一人である紫の上のことである。
紫の上は数あるヒロインの中でも、殊更に男にとっての理想の女として描かれていた。
端から見れば、宮中の貴公子である公任が、今話題の才女である紫式部を口説いている場面だ。
俺にとっての
紫式部にとっては、
だからこそ、紫式部は、この時、キッと公任を睨み据えてこう言ったのだ。
その言葉は、宴の席に一瞬の静寂を生み――どっと、盛大な笑いで沸かせた。
大衆の面前で手酷く振られる形になった公任の元には貴族の男達が慰めるという形で面白がりながら集まり。
紫式部の周りには、一目置かれるモテ男である公任を、才女に相応しい機知に富んだ返しでバッサリと振って見せた彼女を褒め称える女性達が集まった。
今、思えば、これは公任なりに紫式部をフォローしたのだと彼女も理解している。
当時、源氏物語は確かに宮中を席巻していたが、一躍ブームとなったものを取り敢えず否定してみたがる者達は、いつの世も一定数存在するものだ。
だが、源氏物語自体は一条帝も大層に気に入っている作品だ。そこを直接的に否定することは難しい。
ならばと、その矛先が作者である紫式部に向くのは避けられないことだった。
時は平安時代――男尊女卑という言葉を使うととても強く聞こえるが、男の立場が強く、女の立場が弱い時代であったことは確かだ。
女という言葉が母という言葉へと変わると意味も変わってくるが、少なくとも一人の女中が、他の貴族の男と対等に渡り合うのはとても難しい時代だった。
そこには紫式部という女性の気性の問題も大きく関係していた。
紫式部――
臆病で、繊細、世渡りが下手で自分に自信がなく、いつも物語の世界に没頭しているような女性だった。
だからこそ、彼等は紫式部本人を標的に陰湿ないじめを繰り返した。
藤原道長を始め、彼女の背後にいるものが余りにも大きいので、そこまで分かり易いものではなかったが、そこは宮中という狭い世界で日夜暗闘を繰り返す政治家達だ、卑怯、姑息な手管といったものは十八番の得意技だった。
そして、紫式部はそれに表立って反抗出来ない。
彼女はそれほどまでに強い女性ではなかった。筆と紙のみで壮大で緻密な人間模様を描き出せる彼女は、現実ではどんな感情も口に出すことは出来なかったのである。
(……分かっています。あれが、この方の思いやりだったのだということは――)
紫式部はにやにやとこちらを見る公任から固い表情で顔を逸らす。
そして――逸らした先で、とある人物と目が合ったことに、不意打ち気味に心臓の鼓動が強くなった。
「――――っ」
紫式部は、紙の上でどんな感情も表現出来る――だけど、藤原香子は、その口でどんな感情も吐き出すことは出来ない。
だからこそ、あれからどれほどの月日が経とうとも、未だその疑問を――仄かな願いを、口に出して確かめることが出来ないでいた。
あの日、公任を通じて、もしかして――私を助けてくれたのは。
(……あの日、あの場所に――光源氏は、いたのですか?)
紫式部は、キュッと口を強く閉じる。
合った視線はすぐさま反射的に逸らした。けれど、彼のあの時の表情は、現金にも一瞬で脳裏に、今でも忘れられぬほどに強く焼き付いている。
藤原道長は、その固い表情の、口元だけを綻ばせて――紫式部を優しく見詰めていたのだ。
歴史に残る程に精密に、複雑怪奇な人間の感情を描いてきた紫式部でも、ただ一人、彼の心の内だけは――その胸中は、いつまで経っても読み解くことが叶わない。
「……………」
もう少女でもなく、女性としても抱かれなくなって久しいのに、いつまでもなんて愚かなことだろう――そう紫式部が心中で自嘲する中、渡辺綱は己の肩に乗りかかるような格好の公任を振り払うように身を捩る。
「重たいですぞ、公任殿。肩が凝るのでお戯れは大概に」
「ふっ。身の丈程の大刀をも易々と振るう綱殿の負担になってしまうとは。俺も真夜中の摘まみ食いなどは控えねばいかんな。目を逸らし続けてきたが、俺ももう若くないのだから」
公任が己の脇腹を摘まんで戯言を振り撒きながら、綱の元を離れて道長の元へと歩み寄る。
そして、その公任の背後には――先程の屋敷の時とは違い、真っ白な衣を纏った安倍晴明がいた。
(……浄衣、なのかしら? ……晴明様のあのような姿は初めて見るわね)
常日頃から屋敷に引き篭もっていてまともに狩衣すら着ない晴明の姿を見慣れている――というより、殆どそんな印象しかない――紫式部は、一瞬、晴明本人かどうかも疑ってしまったほどだ。
穢れのない真っ白な浄衣のような着物に
いつもは寝癖そのままのボサボサの髪も油か何かで流すように固められ、その端正な顔立ちが際立っている。
表情はいつもの見透かすような笑みを浮かべたままだが、その瞳だけは、雲で覆われた真っ暗な空を射貫くように見詰めている。
ぞくり、と。紫式部は己の背筋に冷たい何かが走ったような気がした。
周囲を見渡すと、既にそこには公任の戯言で緩んだ空気はなかった。
倫子も、綱も、行成も、公任本人も、表情は変わらないが、纏う雰囲気はピンと張り詰めている。
紫式部は――ここが既に戦場となっていることを悟った。
その中心にいるのは、やはりこの二人だった。
「用意出来た戦力はこれで全てか、晴明」
「今宵は前哨戦に過ぎません。しかし、奴等もそれなりの大妖怪を送り込んでくることと思われます。生半可な戦士や術者では犠牲が増えるだけ。
晴明の言葉に、道長は頷く。
この二人はやはり、既に狐と鬼、人間と妖怪の戦争は避けられないと見ている。
紫式部の耳には、その時の為にここで数は使うべきでないと――その時の為に、
(…………穿ち過ぎなのかもしれないけれど……)
顔を
「確かにその送り込まれる大妖怪とやらにも、お前と綱殿ならば対処出来よう。しかし、こちらはそれでいいとしても、あちらが数に頼ってきたらどうする?」
「その時は同士討ちをさせるなり、纏めて祓うなり、いくらでもやりようはあります。それなりの式神も用意していますし――ちょっとした隠し球も招待しておりますれば」
式神に対して用意という言葉を使った晴明が、隠し球とやらに対しては招待という言葉を使った。
そのことに、当然、紫式部も道長も気付いていたが、眉を
「では――お前達に、全て任せる」
道長は倫子を連れて、屋敷の奥へと進んでいく。
晴明はそんな二人を見送りながら「お二人の寝所にはより厳重に結界を施してあります。ご安心を」と言って恭しく頭を下げた。
「香子」
ふと、道長は立ち止まり、顔だけを後ろに向けながら紫式部に呼びかけた。
「…………」
紫式部は、一度瞑目すると、何も言わず――頭を下げ、そのまま二人を見送った。
道長はそれを見てふっと笑うと、倫子の肩を抱き、一瞥もすることなく灯りのない屋敷の中へと消えていった。
「――さて。これで後は、客を迎え入れるだけだな」
「……公任様、そして行成様はご避難なされないのですか?」
「私達は戦況を見極め、いざという時は道長様と倫子様をいち早く連れ出さなくてはなりませんので」
つまり、後方から戦いを見守るつもりらしい。
それならば紫式部の役割としては、この二人の傍に居て、二人を守るというものになるのだろう。
(……安倍晴明様と渡辺綱様……当代きっての妖狩りのお二方と並んでも、足を引っ張るだけというのは目に見えている)
それでも、この戦いの場から離れるつもりはないのだから、紫式部に二人のことをとやかく言う資格などない。
晴明はずっと宮廷に仕えて平安京を守り続けてきた男であるし、綱に至っては主である頼光と共に依頼を受けたお偉方の身を守るべく侍ることを仕事としている人間だ。もとより守る戦いは得意分野だろう。
(……昨今の危うい情勢から、最近では彼等のように貴族の身を守るべく侍ること生業とする者達が増えていると聞きます。より多く、より強い彼等のような存在を抱えることが、地方の、そして宮中の貴族達の権威を計る数値となっているとか)
そして彼等のような存在は、近頃ではこう呼ばれているらしい。
主の身を守るべく侍る士――
「――皆様方、もう少し後ろへとお下がりください」
そして、紛れもなく当代きっての侍の一人である男――
紫式部が、公任が、行成が表情を引き締めると――対照的に、表情を緩め、口元を歪めて、その笑みを深めた男、安倍晴明が虚空を見上げ言う。
「来ましたよ。――妖怪が」
ビシッ――と。
夜空に罅が走った。
平安京最強の大陰陽師である安倍晴明が張った結界に、まるで氷の張った湖に岩を放り投げたが如く、放射状の亀裂が広がっていく。
ビシッ、ビシッと。
二つ、三つと花が咲くように亀裂が数を増していく。
公任と行成は、素早く晴明と綱の邪魔にならない位置まで下がる。紫式部は頭上の亀裂に意識を取られて動けなかったが、公任がその腕を掴んで強引に下がらせた。
そして、紫式部が目を離せなかったその亀裂から――バリンッ、と、長い腕が突き出してきた。
「――ッ!?」
どう見ても人のそれではなかった。
形状は近い。五指があり、掌があり、そこから腕が伸びている。
だが、その長さが尋常ではない。
ずるずるとまるで蛇のように、関節すら存在しないかのように、宙を不気味に蠢いている。
そして、数もまた、二腕ではなかった。
三、四、五――夜空に走った全ての罅の中心点から、その長い蛇のような腕が、死体のようにか細く青白い腕が飛び出てくる。
そして、その全ての罅が繋がった瞬間――空が、割れた。
結界が完全に破壊される。
まるでガラスのように破片が降り注ぎ、その意味を失ったベールの向こう側の光景が露わになった。
「素晴らしい。あの安倍晴明の結界をこうも容易く。流石は導師謹製の悪霊だ」
「こんなのこんなの私にだって出来るわ。調子に乗らないで欲しいわね」
「いいではないですか。我々では触れるだけで焼け爛れることになる。破ることは可能でしょうが、熱いし痛いではないですか。――こういうのは、
ふっ――と、そう言って笑う、鬼がいる。
紫式部達から見て右側の塀の上に、扇を広げてほくそ笑む鬼がいる。
人間のような、貴族のような豪奢な服を身に纏ってはいるが、体表は青く、頭部には二本の角が生えている。
体つきは鬼にしては華奢だが、彼に続くように塀を乗り越えてきた五体の鬼――その中には彼より大きく、彼よりも遥かに体格がいい鬼もいたが――を見ても、紫式部は、あの鬼こそが、彼等を取り纏める首領格なのだと疑いもしなかった。
それだけ、違う。放っている――妖気が違う。
間違いなく大妖怪。『鬼』勢力の幹部に違いないと、紫式部のような陰陽術を僅かに囓った程度の術者にも理解出来た。
(……しかも、あの『鬼』に匹敵する程の存在が、少なくとも――)
少なくとも――
「……相変わらず、胡散臭い鬼だこと。まぁ、いいわ。私は私の目的が、可能な限り簡潔に遂行出来ればそれでいいの」
はっ――と、そう言って吐き捨てる、狐がいる。
紫式部達から見て左側の空に、月明かりを反射させながら尾をたなびかせる狐が、天狗の背中に立って、人間達を見下ろしている。
外見年齢は年若い。
腰の辺りから飛び出ている尾は燃えているように赤く、そしてそれは印象的な瞳の色も同様だった。
こちらを見据える彼女の瞳は赤く――けれど、とても冷たい。
背に乗って足蹴にしている天狗に対してもそうだが、引き連れる他の四体の妖怪――化け提灯を、一つ目入道を、小豆洗いを、木魚達磨を見る目も、また一様に冷たい。
とても恐ろしく整った美貌を有している分、その燃えるような尾と瞳とは対照的に、凍えるような印象を受ける。
彼女こそは、今宵の『狐』勢力を率いる大妖怪。幹部の一体に違いない。
(……そして、ある意味では分かり易い彼等とは違う。……でも、彼等の口ぶりからして、晴明様の結界を打ち破ったのは――)
右の『鬼』。左の『狐』。
けれど、晴明は言っていた。
今宵、来訪する妖怪は、『鬼』、『狐』――そして、『女』だと。
「………………」
紫式部から見て真正面――その夜空に、巨大な女が浮遊していた。
否、それは女と呼ぶより、女のような化物と呼称する方が正しい。
それが持つ女らしさなど、その禍々しく伸びきった黒い髪と、死に装束のような着物、そしてその細く青白い腕だけなのだから。
顔も見えない。死人のように白い面布によって隠されている。
(……そもそも、幽霊に顔などないのかもしれないけれど)
そう――来訪した巨大な女は、正しく幽霊だった。
おどろおどろしく強大だが――不思議なほどに希薄な存在感。足がなく、死人のように青白い肌。そして、何よりも強く感じる、何かへの強い執着。
(死して幽霊となったものは、速やかに成仏しなくては悪霊として物の怪となるといいますが……これほどまでに強大な悪霊といえば、かの
紫式部はちらりと、女の悪霊から目線を下ろし、その男を見る。
何を隠そう、その菅原道真公を退治した者こそ――。
「――ようこそおいでくださいました。招かれざるお客人の方々」
伝説の陰陽師――安倍晴明は、一歩前に立ち、
「いや――人ではなく、
そう言ってにやりと笑う晴明。
不敵な笑みに、『鬼』が、『狐』が、ざわりと敵意を露わにする。
その化物の殺気に、紫式部や、修羅場に慣れている公任や行成も硬直する中、晴明は笑みを崩さず、真っ直ぐに――正面を見遣る。
「鬼の頭領も、狐の姫君も、文句なしの逸材を送り込んできたらしい。かの大妖怪達の今宵に対する意気込みが窺える。
晴明の挑戦的な言葉に、『鬼』と『狐』の配下の者達が飛び出しかけるが、それを幹部の二体が止める。
それを晴明は一瞬見遣った後、再び真正面を――宙に浮かぶ巨大な女の霊を――否。
「それで――君は、どこの誰かな? お嬢さん」
巨大な女霊――その彼女に、抱きかかえられるように。
戦場となる土御門邸にやってきた、同じように真っ白な死に装束に面布をした、真っ直ぐ艶やかな黒髪の、『謎の女』を見据えて語りかける。
「……………」
紫式部は、改めてその謎の女性を見た。
どうしても巨大で禍々しい霊の方に目がいってしまうが、そんな彼女に抱きかかえられるように手の上に立つ彼女も、また異様だった。
同じように幽霊かと思ったが、彼女の方は僅かに見える肌は青白くなく、また存在感も希薄ではない。足もある。
(……彼女は――生きている? ……それも――)
晴明は、そんな紫式部の心中の疑問を代弁するように、鋭く言う。
「貴女は――
返答を期待したものではなかったのかもしれない。ただの駆け引きで、揺さぶりで――正体不明の彼女の正体を知る為の、ほんの足がかりのつもりだったのかもしれない。
だが、彼女は、女霊の手から地面へと――土御門邸の庭へと降り立つと。
真っ白な面布の中から、思いのほかはっきりとした発音の――けれど、まるで血の通っていないかのような、無機質な言葉を発した。
「いいえ。私は死人――もう、長いこと、無意味に現世を揺蕩う、呼吸をしているだけの只の死人です」
紫式部は、その声を知らなかった。
きっと聞いたことはない。当然だ、あんな不気味な人物に会ったことなどないのだから。
でも――けれど――。
(……この感情は……何?)
聡明な彼女も理解出来なかった。
誰よりも繊細に感情を表現する彼女にも、表すことが出来なかった。
だけど――それでも――。
「あなたは……誰、ですか?」
晴明と同じ言葉を、今度は紫式部が口に出していた。
この大妖怪が集結する戦場において、己に注目を集める愚行の意味を理解していない紫式部ではない。
だが、問わずにはいられなかった。知らなければならないと思ったのだ。
彼女が何者なのかを。彼女の正体を――他ならぬ、この紫式部が。
紫式部の問いに、初めて――正体不明の自称死人は、くすっと、笑った気がした。
「あなたは私を知っていますよ。――私はあなたを知りませんけど」
そして、別に知りたくもない――そう言って、自称死人は、ゆっくりとその手を上げる。
死に装束の袖が落ちて、垣間見えたその腕は、病的に細く、不健康に白い女のものだったが――体温と血液が通っていた、死に損なっている人間のものだった。
「お喋りはここまでにしましょう。よいですね? 『狐』のお嬢さん。『鬼』のお兄さん」
人間の『女』の言葉に、『狐』の女が、『鬼』の男が返す。
「アナタが仕切らないで。部外者の人間が。殺すぞ」
「鬼のお兄さんっていうのは語呂がいいですね。出しゃばるな人間が。殺すぞ」
吐き捨てるような『狐』の言葉にも、笑顔で脅す『鬼』の言葉にも――大妖怪の殺気にも、『女』は動じない。
「ご承知のこととは思いますが、我々の目的はあなた方『人間』の虐殺です。どうか速やかに死んでください」
そして、自称死人は言った。
背後に連れた女霊の代言か、それとも――何年間も思い続けた、溜め続けた己が怨念か。
正しく――幽霊に、死人に、相応しい開戦の合図だった。
「この恨み――はらさでおくべきか」
用語解説コーナー⑦
・源氏物語
紫式部によって紡がれた世界最古級の長編小説。
光り輝く美貌と才を誇る光源氏による華麗なる物語という印象が強いが、その内容としては、手の届かない――否、手を伸ばしてはならないものに焦がれる一人の男が、その男が放つ強烈な魅力に惹かれる女たちを次々と不幸にしていく物語である。
しかし、その予測不可能な展開と、魅力的な登場人物、何より紫式部による圧倒的な構成と緻密な心理描写は、時の天皇や貴族、宮廷女官たちを虜にした。