土御門邸の最奥に位置するここは、道長と倫子――夫婦の寝室だった。
正確には妻である倫子の寝室だ。女性の寝床に男が深夜、こっそりと訪れるのがこの時代の男女の逢瀬の作法であった。
道長の寝床も屋敷には一応用意されているが、この時代の貴族の男は、毎夜毎夜、正妻やら側室やら、はたまた別の女の所を訪れては夜明けと共に帰っていくというのが常であるので、寝床として使われることは滅多にない。
だからこそ、この土御門邸で道長が最も長い時間を過ごしたのは、この倫子の寝床といってよいだろう。
「……遂に、来ましたね。この時が」
しかし、夜も更けきったにも関わらず、夫婦は横になってはいないどころか部屋には布団すら敷かれていない。
身に纏っているのも寝着ではなく、先程までと同じ正装だ。
当然である。夫婦が今宵、この部屋で行うべきは夜の営みではなく――裁判なのだから。
藤原道長という男が、かつて犯してきた罪――そして。
「ああ。今宵、決まる。藤原道長という
その時、土御門邸に轟音が響き渡る。
何かが破壊される音。衝撃。化物の――悲鳴。
それは戦闘の余波であった。
妖怪が、人間が、すぐそこで、同じ敷地内で殺し合っている。
そして、それは見る見る内に近づいている。
屋敷の最奥たるこの場所に。それは、人間が――妖怪に、押されているという証拠。
守るべきこの場所に、守るべき人間――藤原道長の元へと、妖怪の脅威が迫っているという、紛れもない現実だった。
「すまぬな、倫子よ。義父上から譲り受けたそなたの生家を守り抜くことが出来なかった」
「ふふ、心にもないことをおっしゃらないでくださいな。今宵、この屋敷を失うこと――
倫子はそう言って寄り添う夫に向けて微笑みを向ける。
そんな妻の言葉に、道長は小さく口元を緩めた――その時、一際強い轟音と共に、遂に寝床に明確な侵入者が現れた。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」
侵入者は、
陰陽師が使役する人影の式神にも似ているが、現れたそれはより禍々しく、よりどす黒かった。
飢えた獣のような強烈な殺気を放つ影。ゆらゆらと、まるで
黒い影は――咆哮した。
それはおよそ言語として成立しておらず、獣のそれともまるで異なる。
威嚇として上げる唸り声でも、コミュニケーションとして発する叫び声でもない。
己の内から湧き上がる、溢れ出す――怨嗟を。怨念を。ただただぶつける為だけに放つ砲撃のような咆哮。
化物の――殺意。
それを受けて、倫子は静かに瞑目し――道長は。
「…………亡霊め」
男の細められた目は、恐ろしく冷たい。
まるで、待っていないと――お前ではないと言わんばかりの、侮蔑しきった眼差しだった。
「この期に及んで、尚もみっともなく足掻くか。どこまでも私を失望させる男だ。一族の――面汚しめ」
道長の声が聞こえたとも、ましてや理解出来たとも思えないが、黒い影は道長に向かって、再び怨嗟の咆哮を上げる。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」
そして、両手を前に伸ばし、道長に向かって一目散に駆け出して――そのまま大きく弾かれた。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」
黒い影は無様に背中から倒れ込む。
道長はそれを冷たく見据えながら「夫婦の寝床に土足で踏み入れようとは。無礼者め」と吐き捨て――そして。
「いや、お主に礼儀というものを求める方が間違っていたか。自らの愚行で父の威光を貶め、妹の家に逃げ込み、母を道連れにし、弟に見捨てられた、貴様のような男に何かを期待した、この私が愚かであった」
黒い影は、結界に触れた影響からか痺れるようにラグのようなものが走っている己が体を、這いつくばるような体勢からゆっくりと起こす――と、道長はちょうど黒い影が、膝と両手が着いた体勢の、まさにその瞬間を、狙いすましたように。
「――
これまで氷のように冷たかった口調に、ほんの僅か、愉悦を意図的に混じらせて、言った。
「私は、摂政になったぞ」
それは、生前――摂政の長男として生まれた
目の前の男に、阻まれ、奪われた未来だった。
黒い影は、今度はラグではなく、別の何かで体を震わせ――黒い身体を、
そして、着いた両手で、土御門邸の木張りの床を握り砕いた。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミィィィィィチィィィィィナァァァァァァガァァァァァァァァああああああああああああああああ!!!!!」
再び、黒い影は、立ち上がり、駆け出し、己を阻む結界へと手を伸ばす。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!!」
真っ黒な五指を突き入れ、ゆっくりと、結界を強引に押し開こうとする。
何度も全身にラグを発生させ、火花のようなものを撒き散らしながらも、黒い影は――伊周と呼ばれた亡霊は止まらない。
藤原道長への、殺意を止めない。
道長も、伊周がどれほど己に近づこうとも、それでも両腕を組んだまま、その冷たい眼差しを注ぐことを止めない。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミチナガァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
そして、伊周は――遂に最後の結界を打ち破る。
黒い身体は既に満身創痍で、今にも消えてしまいそうな風前の灯火のようであった。しかし、その黒い炎は蝋燭の最後の輝きが如く、黒く燃えたその手を道長へと伸ばす。
黒い五指が、道長の首へと届きかけた、その瞬間――突如として現れた新たな影によって、伊周の亡霊は紙のように吹き飛ばされた。
「■■■■■■■■■■■■■■■―――――っっっっ!!! ミィィィチぃぃぃなぁぁぁぁ……………が………」
吹き飛ばされた黒い影は、黒い炎をみるみると失い、やがてそこには、ボロボロの狩衣を纏ったやせ細った男がいるのみだった。
かつては端正であったろう顔は失った顔色と痩けた頬によって見る影も失い、ただ爛々と燻り続けた殺意だけが瞳の中に宿っていた。
道長の名を呟き続け、血走った黒い瞳で仇敵を睨み続け、その枯れ枝のような腕を伸ばし続けていたが、ただラグが走るばかりで、既に身動き一つ取れないようだった。
「………………」
そんな哀れな男を冷たい眼差しで一瞥し、道長は己を救った者に目を向ける。
「よくやった。香子」
そこには息を大きく荒げた紫式部がいた。
人型の式符を右手の人差し指と中指で挟んで構えている彼女は、息を整えると「お、お逃げ下さい! 道長様! 倫子様!」と普段の作法も忘れて懇願する。
「落ち着け。状況を説明せよ」
紫式部は、己が式神が吹き飛ばした伊周を――伊周の亡霊を見遣ると、歯噛みし、道長夫妻の元へ駆け寄りながら言う。
「……晴明様が『狐』を……渡辺綱様が『鬼』の勢力をそれぞれ相手取りましたが、両勢力が送り込んできた刺客は、どちらも恐ろしい手練れの大妖怪でした」
「それで? まさか、あの二人が敗れたのか?」
道長の言葉に、紫式部は首を振った。
だが、その表情は暗く、俯くようにして続きを語る。
「……いいえ。ですが、お二方とも、それぞれを相手するのに手いっぱいといった様子でした。……そして、今宵、この土御門邸を来襲した妖怪は、晴明様が事前に予言なされたように、『狐』、『鬼』――それだけでは、なかったのです」
その時、再び衝撃が、紫式部の背後から――倫子の寝室の入口から響いた。
+++
「これでよかったのか――晴明殿?」
場所は戻り――土御門邸庭内。
艶やかな黒長髪の
対して、白狩衣に烏帽子の陰陽師――安倍晴明は、その両手を袖口に仕舞い込んだ体勢のまま、薄い笑みを持って返す。
「はて、何のことですかな?」
「誤魔化さないでいただきたい。あの女霊と術師を
ぐぁぁあああ、と、獣のような咆哮を持って、満身創痍の小鬼が綱に向かって襲い掛かる。
それを綱は見向きもせずに斬り捨てながら、晴明に向かって言った。
「あなたはいつもそうだ。そちらの方が
「そうは申しつつも、こうしてあっさりと乗ってくださったではありませんか」
「これまでの付き合いを踏まえての信用です。あなたは事態を
ぐはぁぁぁああ、と、晴明に向かって腕を振り下ろそうとしていた天狗が、突如として血を吐いて倒れ伏せた。
未だ両手を袖口に仕舞い込んだままで、晴明は笑みを崩さぬまま言う。
「では、存分にご安心なされよ。道長様にも、此度のことはお話してはおりませぬが、あの方はこうなることは予見しておいででしょう。それに――それなりの隠し玉も、ひっそりと忍ばせています。最悪の事態にはならないことは、この晴明が約束いたします」
我々は今宵の主役ではありません――そう言って、晴明は笑う。綱は、背中合わせでその笑顔を感じ取った。
きっと、この全てを見透かす陰陽師は――いつものあの笑顔を浮かべているのだろう。
いつものように――何も映していない瞳で。
「今宵の主役は、陰陽師でも武士でもない。妖怪でもない。『女』と――そして、『男』です」
だからこそ、ここいらでお帰り頂けませんか――と、陰陽師は、そこで初めて、背後の綱ではなく、目の前に立つ存在に向かって語り掛ける。
そこには、倒れ伏せ、今にも消えてしまいそうな――五体の妖怪と。
片腕をだらりと下げて口端から血を流す、燃えるような瞳の妖狐がいた。
「……………くそ、クソ、クソがぁぁぁぁぁあああ!!!! ふざけるな……ふざけるんじゃないわよっ、安倍晴明ぇぇえええええええええ!!!」
妖狐は怒り狂っていた。
初めは大したことないと思った。伝説は所詮、伝説なのだと。大袈裟に尾鰭が付いているだけなのだと。
事実、開戦当初は優勢だった。こちらが繰り出す攻撃にまともに反撃も出来ずに、目の前の陰陽師は防戦一方だったのだから。
それが、どうだ。
あの女霊達が一足早く屋敷内へと侵入し、後を追うように三人の人間達がいなくなった瞬間――こちらの手勢が瞬殺された。
そして、それは、向こう側の『鬼』達も同様だった――。
「……なるほど。だからこそ、こちらには私だけで十分だと仰ったのか。……確かに、これだけの仕事ならば、我が主は勿論、他の四天王も不要でしたな」
長刀に付着した血を振り払いながら呟く渡辺綱の眼前には、五体の鬼の死体が転がっていた。
その中には図体の大きさだけならば巨鬼といって差し支えない化物もいたが、見事に右胸から先が胴体から切り離されて――斬り伏せられている。
「……は、はは……まさか、これほどとは……なるほど。我らの頭領が、なかなか全面侵攻を決断なされない筈だ……」
そして、こちらの鬼もまた、片腕を失っていた。
身に纏っていた風流な着物もボロボロになり、扇子を振っていた左腕は肩の付け根の先から存在していない。残った右手で肩口から流れ出る血を押さえているからか、口から盛大に吐き出す血はそのまま土御門邸の庭を汚した。
「晴明様の言葉は聞いたか? どうする、鬼。ここで帰るなら見逃してもいい」
「がはっ。……はは、面白いことを言う。かつての戦乱において――あなたがた人間は、あれを『大江山の鬼退治』と呼んでいるのでしたか――誰よりも鬼を狩ったあなたが、随分とお優しいではないですか。あの時の貴方は……我々を含めて……
「…………」
幹部の鬼の言葉に、綱は表情を失くし、無言で鋭く長刀を振るう。
それを、片腕を失った鬼は後ろに大きく飛び去ることで回避し、当初の位置取りである塀の上へと降り立って、くつくつと笑う。
晴明は背中越しに「まともに言葉を聞いてはいけませんよ。あれこそが、あの鬼の真骨頂ですから」と忠告する。
「――
晴明の呟きに、片腕を失った鬼は笑みを消した。
「仏教においては煩悩を表す悪鬼とされる鬼です。人の心を察し、読み取り、悪戯をする妖怪とされていますが、天邪鬼――天の邪魔をする鬼。そんな異名を持つ鬼がその程度の小物の筈がないとは思っていましたが、まさか『鬼』勢力の幹部にまで上り詰めているとは。頑張りましたね」
「……ふふ。かの安倍晴明にそこまで知られているとは、こちらこそ光栄ですよ」
風流な着物に身を包んだ隻腕の鬼――天邪鬼は、再び綱へと目線を戻して語る。
「いえ、それもこれも、全てはあなたのお陰なのですよ、鬼狩り――渡辺綱。かつての戦乱で我々『鬼』はだいぶ酷い目に遭いましたからね。上層部が一新された。だからこそ、私のような小物も恩恵に預かれたのです」
「……そのようだな。あの鬼の頭領も、随分と人手――いや、鬼手不足のようだ」
渡辺綱は長刀の切っ先を天邪鬼に向けながら「確かに、この小鬼共に比べれば多少は強いのかもしれないが」と、己よりも遥かに巨体の鬼を足蹴にし、淡々と言う。
「かつての大江山には、お前程度の鬼はぞろぞろと居た。お前程度でも幹部になれてしまうほど、今の『鬼』は弱いらしい」
「…………」
天邪鬼は笑みを固めたまま、塀を降り、庭に降り立って綱に言う。
「…………確かに、私はあの方よりも弱いのでしょうね。あなたが斬り、あなたが倒した――かの『
そう言って、天邪鬼は左肩口を押さえていた右手を外し、その指を綱へと向ける。
「その長刀『髭切』――否、今はかの鬼を斬ったことで、『鬼切』と呼ばれているのでしたか。正に鬼を斬る為にあるような、あなたに相応しい刀だ。ご丁寧にあの方とお揃いの隻腕にしていただけるとは……まことに、まことに――光栄の至り」
「………………」
己の左肩口から血が噴き出るのも構わず、天邪鬼は綱を、そして妖刀『鬼切』を指差しながら、一歩、一歩と綱に向かって近づく。
そして、その笑みが極限まで深まると、その口端が――更に深く、裂けた。
顔だけではない。
目も、耳も、顔も――体も、更に醜悪に、更に巨大に変貌していく。
「けれど、それでは――
いつの間にか、肩口からの出血は止まっていた。
隻腕のままではあるが、青かった身体を血のように赤く変化させ、全身を膨張させて、凶悪に強大に変貌させながら、綱を指差し、べらべらと喋り続ける。
「ええ、ええ。お言葉に甘えて、今日の所は帰らせていただくことにしましょう。私はあなたよりも、
「ほう? どうやって?」
「その刀。我らを屠る為に存在するような――妖刀『鬼切』」
見るも醜悪な姿を――本性を露わにした天邪鬼は、残った右手を、綱を、刀を、指差し続けていた右手の五指を広げて、グッと虚空を握り潰す。
「その刀――今宵、
瞬間――天邪鬼と渡辺綱は、同時に踏み出した。
それをちらりと確認すると、安倍晴明はゆっくりと一歩を前へ――満身創痍の狐へと踏み出した。
「さて、『鬼』はそういった結論を見せたようですが、あなたはどうします? 『狐』の遣い」
陰陽師は歩を進める。
未だ両手を袖口に隠し、薄い笑みを浮かべたまま――まるで、遊ぶように楽しそうに。
対して、燃えるような尾の妖狐は、思わず後ずさっていた。
たかが人間に、たかが人間と侮っていた相手に対して、怯えるように。それに気付き、妖狐は思わず歯噛みし、叫んだ。
「何なんだ――何なのよ、お前はッ!?」
妖狐はだらりと負傷した右腕を押さえながら、己に近づいてくる陰陽師を睨み付ける。
それは妖怪が人間に向ける目とはまるで思えない――化物を見る瞳だった。
「どうしてお前のような奴がいるの!? どうしてお前のような奴が――
「不思議な物言いですね。まるで、昔に私のような奴に会っているかのような口ぶりではないですか、妖狐――いや」
楽しそうに――何も映していない瞳で。
対して、陰陽師の言葉を聞いた妖狐は――否。
狐の振りが上手い女は、瞠目する。
「……どういう意味? どういう意味で、それを――」
「いや、なに。君が私のような誰かと会ったことがあるように、私も昔、
その時、晴明は袖口に突っ込んでいた手を出した――その右手には、一つの巻物が握られていた。
絶句する妖狐に見せつけるように、晴明はその巻物を両手で開く。
そして言う。楽しそうに、面白そうに――何も映さない冷たい瞳で。
「さて、今は――
「……お前………貴様、まさか――っ!?」
鈴と、そう呼ばれた妖怪は、再び一歩、後ずさる。
妖怪よりも余程恐ろしいものを見たといわんばかりの表情で――だが。
陰陽師はそんな妖怪に向かって、小さく、けれどはっきりと言った。
「一つ教えよう、鈴とやら。
「ッッ!!!」
そう、陰陽師が発した直後――巻物が強烈に発光した。
真夜中の暗闇を切り裂いたその閃光は、鈴の視界を白く焼き――そして。
再び鈴が視力を取り戻した――その時。
「っっっっっっっ!!!!」
鈴は絶句し、驚愕し――
「――――ぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!」
だらりと動かない右腕を千切り、そこから炎の腕を生やし、煌々と燃える尾を、二本、三本と増やして。
爪を鋭く伸ばし、口腔内に火を閃かして、そこから目の前の陰陽師への呪詛を発する。
「安倍晴明……いや、貴様は――貴様はッッ!!!!」
「……ふふ、やはりか。やはり、お前はアイツか。……そうか、お前も参加するのか。この妖怪大戦争に」
その仏像は――無数の腕を生やしていた。
一腕、一腕に多種多様な武具を持ち、表情もいくつもの感情を表す顔面が用意され、不気味に闇夜に佇んでいる。
面影など――ある筈がない。
だが、鈴には、一目で分かった。
ずっと求めていた。何度も諦めかけた。けれど捨てきれなかった。
鈴にとってそれは生きる為の――この世に求める、全てだったから。
だからこそ驚愕し、歓喜し――そして、そして、そして。
燃えるように、激昂するのだ。
「っっ……ぁぁ……ぁぁぁぁああああアアアアアアアアア!!! やはり…………ッ! お前ら『人間』は――何年経とうが、何百年経とうが変わらぬ化物だッッッッ!!!」
「……お気に召したようだな。
同じ所には逝けないかもしれないが――その言葉に、鈴は己の中の一線が切れるのを感じた。
尾――だけではない。
全身が包まれるように発火する。その炎の色も、煌々とした橙ではなく、見る見るうちに冷たい青色へと変化する。
自分自身をも真っ黒に燃やす青い炎。
黒く燃えていく人型の額には――天に向かって真っ直ぐに伸びる、
「……やはり、美しい」
「――――カエセ」
そして――陰陽師が、にやりと笑うと。
人間と妖怪の間に入るように、一体の仏像が割り込んだ。
そして、無数の腕の中の一本が、宝剣を握り込んだ腕が振り上げられ――青い炎に向かって振り下ろされる。
燃え盛る青炎の中で、化物が涙を流したように見えた。
+++
そこに居たのは、一人の女――そして、巨大な、消えない怨念だった。
紫式部は思わず目の前の道長に縋りつくように抱き着く。
道長はそんな紫式部を引き剥がすでもなく、ただ小さく――笑っていた。
「……ふっ、晴明め」
そこには、自身を守るように言いつけたものが務めを果たせなかったことを責めるような響きはなく、まるで友人のいたずらを面白がるといった口ぶりだった。
紫式部は道長の呟きにより我に返り、己の体勢と、そして奥にいる倫子の微笑みと目が合ったことにより、素早く身を離し、倫子と、そして道長に向かって叫ぶ。
「み、道長様! 倫子様! お早く! ここは私が食い止めます!」
「無駄だろう、香子。お前がどれほど陰陽術を使えるかは詳しくは知らぬが、晴明や綱が止められなかったものを止められるとは思えぬ」
そう言いながら、道長は紫式部の肩を抱いて、そっと脇へと追いやる。
真正面から侵入者と向き合った道長は、威風堂々と、一歩、彼女らに向かって歩み寄りながら言った。
「今宵は客が多い夜だ」
歓迎しよう――そう言って、両手を広げて道長は歓待する。
死装束の女は、そんな道長に対し――小さく歯噛みし、左手を振るった。
「――ッッッッ!!! ミチナガァァァァァァァアアアアアア!!!」
すると、まるで息を吹き返したかのように、全身にラグを走らせる伊周が、錆び付いた機械のような挙動で、無理矢理動かされているかのように立ち上がる。
「っ!」
紫式部はすぐに動いて、再び式符を指に挟んで、新たな黒い人影を召喚し、伊周に差し向けた。
「ガァァッ!!!」
が――壊された。
一瞬だった。一挙だった。
たった腕の一振りで、紫式部が差し向けた式神は、伊周に文字通り片手間で破壊された。
(ッ! やはり、これほどの悪霊には、私の式神など不意打ちでなければ……これほど呆気なく……)
しかし、紫式部にはこれしか出来ない。
あの程度のレベルの式神を、それも一体しか、それも連続では出せない。
これが現実。これが――戦場。
紫式部程度の実力では、一瞬しか時間を稼ぐことが出来ない。
それが、残酷なまでの戦場のリアルだった。
「ッッ!! 逃げてください!! 道長様ッ!!」
それでも――この人だけは、死なせないと。
紫式部は道長を庇うように前に出て、両手を広げて立ち塞がる。
思い切り目を瞑り、迫りくる死の恐怖に身を震わせながらも――ただ。
「――いや。よくぞ、一瞬を稼いだ。大義だ、紫の君」
空気を切り裂き――突き刺さった。
紫式部の靡く髪を背後から貫き、そのまま腕を振り上げていた伊周の額を、飛来した矢が射抜いた。
突如として現れた真っ白な矢が――道長の、そして紫式部の命を救ったのだ。
紫式部が、道長が――そして、謎の死装束の女が、倒れゆく伊周になど目もくれず、真っ直ぐにその射手へと目を向けた。
それは紫式部や死装束の女とは違い、別の部屋を経由してこの場所へと辿り着いた者達だった。
この屋敷の構造を熟知した者だからこそ分かる最短経路――道長と共に歩んできた年月が、彼等を一瞬先の未来へと送り届けた。
紫式部が稼いだ一瞬が作り出した可能性を、掴み取ることが出来るこの未来へと。
「公任様! ――それに」
矢を射たのは、簡素な白い弓を携える藤原公任だろう。
そして、この場に辿り着いたのは、公任だけではなく――。
「ミチ――ナ――ガァァァァア!!!」
躊躇なく、そして容赦なく。
白い儀式用の宝剣を振り上げ、そのまま鋭く振り下ろす。
藤原行成――その瞳は鋭く、消えゆく黒い魂を見据えていた。
「ァァ――ぁぁぁ――ちち――うえ――――」
その断末魔は、あまりに小さく、惨めだった。
伊周の亡霊は切り裂かれた傷口から黒い靄を噴き出し、涙を流すように瞳から黒い水を一筋垂らすと――そのまま塵のように風に吹かれて消えた。
一時とはいえ、権力の頂点に指を掛けた貴人とは思えぬ――生前と同様に、目を背けたくなるような哀れな末期だった。
「………………」
紫式部は思わず目を伏せ、倫子は静かに瞑目する。
公任は冷たく、行成は無表情で――そして、道長は。
「――――」
生前の仇敵とはいえ、仮にも甥に向ける者とは思えぬような、侮蔑しきった瞳であった。
紫式部はそれを見て思わず息を吞む――だが、そんな道長の瞳を見ていたのは、紫式部だけではなかった。
死装束の女――巨大な女霊を引き連れた侵入者。恐らくは伊周の亡霊を差し向けたと思われる、白い面布の謎の女は――自称死人は、道長に向かって淡々と問い掛けた。
「――先程、この部屋の外にて、面白い話が聞こえました。藤原道長様――あなた様は先ほど、伊周様に向かってこう言いましたね。一族の面汚し、と」
道長は己に掛けられた言葉に――その面布の下から聞こえる、
「それがどうかしたかな?」
「いえ、ですから面白い話だと言ったのです。……誰よりも一族を乱し、蹴落とし、踏み台にしてのし上がったあなた様が――お前が、それを言うのかと」
その時、死装束の女の背後に浮かぶ巨大な女霊が――啼いた。
世界を揺るがす悲鳴のようだった。伊周も人とは思えぬ咆哮を放っていたが、あれが地の底から響くようなそれだとしたら、女霊の叫びは天より振り下ろされる豪雨のようだ。
思わず無条件に跪つきたくなる――
だが、己の耳を塞ぐ紫式部の前に立つ道長は、揺らぐことなく彼女らと対峙した。
「夫婦の寝室に踏み込む無礼者? はっ――この世で最も神聖な場所に土足で踏み込んだあなたが、よりにもよってそんなことを言うの? 滑稽ね。そして心底――穢らわしい」
「ふっ。お主こそ、随分と言葉が汚くなっているぞ。とてもではないが、
死装束の女が、面布越しでも分かる程に表情を歪ませて、右手を大きく振り上げる。
その動きに反応したのは、白き弓を引く公任と、白き剣を構える行成――だが、そんな二人を死装束の女は滑稽と笑う。
「あなた方は陰陽師でも武士でもないでしょう。藤原公任様、そして――藤原行成様。先程はたまたま不意打ちが上手くいったに過ぎない。例え、日ノ本最強の陰陽師お手製の呪装具だとしても、使い手がただの貴族ならば、分不相応、文字通り宝の持ち腐れというものです」
そんなものが通用するとでも――そう言わんばかりに、死装束の女は狼狽えない。
むしろ余裕を見せつけるように、再び女霊の咆哮が迸る。
紫式部だけでなく、行成も、そして公任も、構えは解かないまでも、彼女の言葉を否定できないのか、思わず一歩後ずさってしまう。
それを見て、自称死人は言う。「――終わりです、藤原道長」と。
「あなたに摂政などは似合わない――相応しくない。そんなものは、この私が許さない」
この恨み――晴らさでおくべきか。
そう唸るように呟き、死装束の女が振り上げた右手を振り下ろそうと、した――正に、その瞬間。
「その、恨みというのは――誰の恨みだ?」
摂政の地位に上り詰めた、人臣最高位――この国の頂点に昇り詰めた覇者が。
真っ直ぐに、揺れずに、ぶれずに――射貫くように。
白い面布に死装束の、自称死人に向かって――そして。
「さきほど散々無様に喚いて散っていった伊周か? ――それとも」
文字通り、見下ろすように。
虚空に浮かんで揺蕩い、人々を――現世を、見下ろすように顕現している悪霊に。
この平安京の、貴族の陰謀渦巻く世界の怨念を、全て凝集したかのような、醜悪極まる化物に向かって。
笑みを消し、まるで責め立てるように――罪を突き付けるように、言った。
「ここにおられる、かの一条帝の中宮であらせられた、一条院皇后宮――」
――『定子』様のものか?
時が、止まったかのようだった。
自称死人の右手は、ピタリと振り上げられた状態のままで固まり。
行成も、公任も、思わず一瞬だけ道長を振り返り、そのまま宙に浮かぶ女霊を見上げた。
「………………ッっっ!!」
紫式部は、絶句した。
かの
直接見掛けたことはない。
それは――つまり。そして、だからこそ。
定子だと、この巨大なる怨念の塊の正体が、かの伝説の中宮だと言われて。
紫式部は思わず――納得、してしまった。
(…………ああ。もし、そうならば――)
納得し、そして同時に、悲しくなった。
確かに悪霊となるに相応しい未練と、怨念と――恨みが、あっただろう。
平安京に、宮中に、そして――藤原道長に。
この恨み、晴らさでおくべきか――だが。
直接見掛けたことのない紫式部にすら、藤原定子の伝説は伝わっていた。
誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりも大きく――そして、誰よりも美しい中宮だったと。
そんな彼女と誰よりも比べられたであろう、紫式部の主――他でもない藤原彰子からも、かの中宮を讃える言葉しか出てこなかった。
そんな、伝説の中宮が。
誰よりも讃えられ、誰よりも尊敬された、美しい女王――そんな、藤原定子の、その末路が。
「■■■■■■■■■――――!!!」
こんな恐ろしく、こんなに禍々しく、こんなにも醜い――化物だなんて。
(………………それは、なんと悲しく――なんて、惨い)
バァン! ――と。乾いた音が響いた。
それは聞いたことない轟音だった。何かが破裂したかのような、力が抜ける――魂が抜かれるような、呆気なく、けれどとても恐ろしい響き。
それは、紫式部の背後から聞こえた。
耳鳴りのような響きが今も続いている。嗅いだことのない匂いがした。
紫式部は、ゆっくりと振り返る。同様に、行成と公任も、その男を見ていた。
藤原道長は――見たことのない武器を、その右手で構えていた。
見たことのない武器――
光沢のある筒、その先端から煙が出ている。
嗅いだことない正体不明の匂いもそこから発しているようだった。
紫式部に分かったのはその程度だ。
だが、もし、分かる人が見たら――
その正体は――
この時代にある筈のない、存在してはいけない――兵器だった。
「――それとも」
味方の筈の人間達からすら瞠目され、絶句されている覇者は。
ただ一人、瞑目する背後の妻を見遣ることもなく、真っ直ぐに、目の前の女を冷たく見据える。
はらりと、白い面布が落ちた。
道長の『銃』が撃ち抜いたのは、彼女の正体を隠す――己を死者とする為の、白い面布。
「他でもない――お主の恨みか?」
艶やかな黒髪の付け毛も落下し、女の本来の髪が――癖のある、忌み嫌った醜い髪が晒される。
露わになったその顔には、小さく一筋の血が垂れていた。
まるで血の涙を流しているかのようにも見えるその顔に――公任は絶句し。
「……………ッ!」
行成は、まるで心臓を貫かれたかのように、表情を歪めた。
紫式部も、息を吞んだ。
定子と同じく、紫式部は会ったことはなかった。見たこともなかった。
紫式部が宮中の世界へ足を踏み入れた時――彼女もまた、定子と同じく、伝説の存在となっていたから。
だが、紫式部にとって彼女は他人ではなかった。
本人が不在でも闊歩する伝説に、何度も打ちのめされ、打ちひしがれて――何度も、何度も、嫉妬した。
紫式部にとって彼女は、伝説で、気に食わない怨敵で――何よりも、憧憬で。
だから、初めて見る顔でも、紫式部は分かった。
彼女の正体は――。
「――久しぶりだな、
真っ白な死に装束に、真っ赤な血を垂らす女は。
自称死人――
ただ静かに、血に塗れた拳を握っていた。
+++
美しい、華をみた。
途方もない、華をみた。
かの御方は輝いていた。かの御方は華やいでいた。
この世の何よりも美しく、煌びやかだった。
かけがえのないわが主――あの御方と過ごした華麗な日々。
いつまでも咲き誇り、いつまでも枯れることはないと、愚かなわたしは当然のように信じ込んでいた。
華はいつか枯れるのだと、栄光はやがて翳るのだと、それがこの世の定めなのだと。
あの御方は理解していた。だからこそ、誰よりも気高く戦った。
それをわたしは誇りに思う。あの方は最後まで美しく、強い、最上のあるじでした。
だからこそ――これはわたしの恨みだ。
いつまでも晴れぬ、決して消えぬ、果たされることのない――醜き恨み。
あの御方は恨まなかった。あの御方は決して憎まなかった。
あの御方は、最後まで、誰に対しても呪いを掛けなかった。
だけど――わたしは――。
これが、あの御方の意に沿わない行いなのだとは分かっている。
このようなこと、決してあの御方は望まない。
それでもわたしは――もう、この渦巻く怨念を、抑え込むことは出来ない。
あの『枕』によって、美しい『華』として残せる筈だったあの御方を――『悪霊』と貶める愚行だと理解していても。
ああ――お許しください。中宮様。
いえ――どうか、許さないでください。
なので、どうかもう一度――このわたしを叱ってください。
どうか、どうか、もう一度、わたしの前に現れて、愚かなわたしを、笑ってください。
もし、それが叶うなら――わたしは。
わたしは――。
用語解説コーナー⑧
・髭切
源頼光の父である源満仲から頼光へ、頼光から綱へと託された源氏の宝刀。
試し切りで罪人の遺体の首を落とした際に、髭まで一緒に切り落としたとされる伝説からこの名がつけられた。
坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせをした刀であり、その後、それがとある男の手によって満仲へと渡り、現在の持ち主にまで流れ着くに至った。
かの「大江山の鬼退治」の末期において、京の羅生門の前で渡辺綱がこの髭切によって茨木童子の右腕を斬り落としたことにより――鬼を滅ぼす妖刀『鬼切』となった。