比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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もし、道隆がおらず――道長が長男だったら。


妖怪星人編――⑩ 王者の眼

 そして、清少納言となった彼女は、異例の速度で才能を覚醒させていった。

 

 中宮に仕える女房になったからといって、内裏(だいり)に出仕することが叶ったからといって、決して華々しい宮中生活が確約されているわけではない。

 肥後のおもとだった頃の彼女がそうであったように、卓越したエリートが集まる中宮のサロンにおいて、周囲との違いによる劣等感に押し潰されてそのまま実家に戻る者や、他のエリート達の中に霞んでしまい存在感を発揮することなく埋もれてしまう者も、多々いる。

 

 中宮の姿すら御簾(みす)越しに見ることしか叶わないまま女房生活を終える者達も数多く存在する。

 そんな中で清少納言は、驚くほどに呆気なく定子に気に入られ、多くの女房の中でも、宰相の君を初めとするほんの一握りしか存在しない、中宮の傍付きへと出世を果たすことになる。

 

 余りにも露骨な優遇に、定子はともかく、清少納言本人への不満の声は当初は大きかったが、清少納言はそんな外野をその才覚で力づくで黙らせた。

 

 前述の通り、中宮の女房というのは中宮の華の一部、つまりは中宮定子の一部である。

 中宮の一部たる彼女達の評判が高くなればなるほど、ひいてはそれを付き従わせる中宮の名声が高まることに繋がるのだ。

 

 そして、これも前述の通り、いくら中宮定子が内裏の華として持て囃されていたとしても、時代は男尊女卑の真っ只中の平安だ。女性蔑視とまではいかなくとも、女性軽視が罷り通っていた時代ではある。

 

 それは男性側だけでなく女性側からもいえることだった。

 サロン内での、女房間での噂話や陰口ならば兎も角、男と面と向かってやりとりをするというのは、選りすぐりのエリート揃いの中宮の女房とはいえど、いや、そんなエリートとして育ってきた彼女達だからこそ、みだらに男と顔を合わせない、言葉を交わすなどもってのほかと育てられてきた彼女達だからこそ――男と対等にやり合うという行為そのものが、彼女達にとっては非常にハードルが高いものだった。

 

 しかし、中宮の女房となった以上、数々の場面で中宮に寄り添い、時には中宮を守るべく矢面に立って、宮中の貴族()達へと立ち向かわなくてはならない。こういった場面が避けられない以上、中宮の女房というのが女性にとって最大級の名誉ではあるものの、就任を断る者が決して少なくない理由でもあった。

 

 人によっては、女が女房などいう職に着くことすらはしたないと断じる者達も(それも少なからず女性側の意見としても)いる程なのだから、働く女性の問題はおよそ千年単位で根深いといえなくもないが――閑話休題、ようは中宮の女房といえど、不特定多数の男と対等に渡り合うのはとても難しいことだということだ。それは能力というよりは、やはり感情の問題としてが大きい。

 

 無論、宰相の君を初めとした選ばれし者達は、中宮と共に数々の修羅場をくぐり抜けてきたエリートの中のエリート達は、それを見事にこなしてみせる。

 平安貴族達を――こちらも応天門を潜り抜けてきたエリートの中のエリート達を、権謀術数の日々を涼やかに送っている怪物達を相手に、中宮の女房に相応しい品を保ちながら、風流には風流で応え、邪心に塗れた探りを軽やかに躱し、中宮を引き立てる華となり、中宮を守る盾にもなる。

 

 そんな彼女達こそ、真の中宮の女房――中宮の華、中宮の番人に相応しい存在。

 

 そして、覚醒した清少納言は、その役割を完璧にこなしてみせた。

 傍付きへと昇進した彼女は、初めからどんな男相手でも物怖じせずに立ち向かったのだ。

 

 宮中に来たばかりの彼女は、肥後のおもとだった頃の彼女は、この内裏という世界そのものに気後れし、他の貴族はおろか絶対の味方である中宮の父・道隆や兄・伊周(これちか)にすら顔を見られることを恥ずかしがり、多いにからかわれたものだったが――しかし、清少納言となったその日から、彼女は己の顔を隠すことをしなくなった。

 

 醜い癖毛を艶やかな付け毛で覆い、まるで強い自分の仮面を――清少納言という鎧を身に纏ったかのように。

 

 宰相の君を初めとした先達にまるで劣らない振る舞いを見せる彼女は、元々有していた持ち前のセンスも相まって、見る見るうちに女房内の序列を駆け上がり、中宮定子の名を高めていった。

 

 そして、清少納言という才媛が中宮の元にいるという評判が、宮中の中心にいる貴族の男達の間に広がり初めた頃――ある一つの決定機が訪れた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 前提として、藤原定子は聡明だ。

 故に、これまで彼女は、誰か特定の一人を優遇するということを行ってこなかった。

 

 中宮として――天皇の后として、一条天皇だけを己の特別としてきた。

 彼だけをただ一人の特別として置き、他の誰かを特別視したことはなかった。

 

 そこは父を反面教師とした面もあるのだろう。

 父・関白道隆は、己が長男である伊周を、誰もが分かる程に露骨に優遇していた。

 

 確かに伊周は母・貴子(きし)譲りの優秀な頭脳と、父・道隆譲りの華やかな容貌を持っていた。

 妹の定子ほどではないが、人の上に立つカリスマ性も持っていたのだろう。少なくともその可能性は大いに秘めていた。

 

 だが、いかんせん若すぎたし、早すぎた。

 この頃には既に伊周は権大納言(ごんのだいなごん)――中宮大夫である叔父・道長と位を同じくしていた。

 

 宮中の女性には大層な人気を誇っていた伊周ではあったが――反面、同僚である貴族の男達の敵は増える一方であった。

 

 それを見ていたからこそ、定子は己が持つ力の振るい方には敏感だった。

 敵を簡単に排除できる一方で、敵を簡単に生み出してしまう――大きな力とは、権力とはそういうものだと、一族の誰よりも定子は理解出来ていた。

 

 だが、ここにきて例外が生まれた――清少納言という例外が。

 定子が、誰が見ても分かる程に特別扱いをしている、特別な人物が現れたのだ。

 

 それを聞いた時、所詮は定子も道隆の一族だったと幻滅したものも少なからず居ただろう。伊周という誰よりも身近な悪例を知りながら愚行を行う――蛙の子は蛙だったと。

 

 しかし、伊周と違い、清少納言には政治力がなかった。彼女の夫も兄弟も出世コースとは縁遠い人物であり、中宮の権力に媚びる必要がなかったのである。

 それはつまり、清少納言を特別に可愛がったところで、定子に何のメリットもないという意味でもあった。

 

 だからこそ、誰もが不思議がったのだ。

 どうして定子は、あんなにも清少納言を特別扱いするのだろう。

 

 そして、誰よりも本人が、それを本当に不思議に思っていた。

 

(どうして中宮様は、こんなにも私によくしてくれるのかしら?)

 

 清少納言も自分を優遇することで中宮に少なからず悪い評判が立っていることも知っている。清少納言を優遇したところで分かり易いメリットがないからこそ、そこまで大きな火種にはなっていないが、大きくなくとも火は火だ。ないに越したことはない――それによって得られるものがないなら尚更だ。

 

 無論、生まれる火種以上に、清少納言は中宮に与えられたものを返すつもりだが――それでも、不思議は不思議だった。

 

(中宮様から見れば、私のような年増の新人は珍しいでしょうし……今まで私のような女房はいなかった、からとか)

 

 つまりは、物珍しさ。

 清少納言という特異な人物を面白がっているのかもしれない。

 

 それならそれで構わない。

 中宮の一時の楽しみになれるのなら光栄以外の何を思おう。

 

 既に清少納言はこの命を中宮の為に捧げると決めている。

 例えいつか飽きられ、こうして傍に侍ることが叶わなくなったとしても、影からでもどこからでも、中宮の一助となるべく働くことは決意している。

 

 だからこそ、たとえ気まぐれの優遇なのだとしても、こうして中宮の傍にいる間は、全力で中宮の華となろう――そう決心していた清少納言であったが。

 

 清少納言は後に、この時の己を大いに恥じることになる。

 自分はまだ見縊っていたのだ。藤原定子という御方を。

 

 定子が気まぐれで人を優遇するような、気分で権力を振るうような人ではなかったと。

 

 それを痛感させられたのは、清少納言に対する噂も広がりきったように思える頃に行われた――とある行事でのことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏(だいり)は祭りの宝庫である。

 それは宮中の華やかさを彩るという意味もあるだろうし、豪勢な祭りを行うことで己が権力をアピールするという意味もあるのだろう。現代の政治家が事ある毎にパーティやらを開くようにコネクション作りの意味もあったのかもしれない。

 

 何はともあれ、当時の貴族たちは毎月毎週のように祭りや宴を行った。

 一度行えばそれは毎年恒例のこととなり、昨年以上のものにせねばと盛り上がる。

 

 それが困窮していた財源を圧迫する大きな原因ともなっていたのだが、かといって昨年のそれよりもみすぼらしいものになってしまえば、勢いが衰えている、あの方の代の時の方がよかったなどと、他の貴族に弱みをみせることになってしまう。貴族社会というのは基本的に見栄の張り合いなのだ。

 

 だが、この当時の清少納言にとっては、毎週のように開かれる行事の、ひいては宮中という世界の――憧れの世界の、憧れ以上の華やかさに、目と心を輝かせるばかりだった。

 

 この祭りは本当に楽しかった、来週はどんなものが、次は、その次は――と、息を吐かせぬ勢いでやってくる祭りに、年甲斐もなくはしゃぎ通しだった。

 

 そして、それがひと段落したと思った冬の終わり――そして、春の始まりに、それは起きた。

 

 とある年の二月――時の関白・藤原道隆は、積善寺一切供養を行った。

 これは道隆の父・兼家が吉田野に建立した積善寺(しゃくぜんじ)を、京の東に移させ御願寺とするものだ。

 

 関白・道隆がその総力を以て、未曾有の豪華さで行う一大行事である。

 当然、中宮定子もそれに参加する為に、前もって二条の宮という邸に入ることとなった。

 

 この二条の宮は定子の為に道隆が建てたばかりの屋敷だったが、そうとは思えぬほどにとても綺麗な屋敷で、調度品なども当然のように一流のものが揃っていた。

 

 それに清少納言などは感嘆の息を漏らしながらも、中宮定子が移動するともなるとそれだけで一大行事であり、この時も警備を務める宮司と女房間でのトラブルなどもあって、全員の移動を終えた頃には夜も更けていた。

 

 なので到着と同時に屋敷中を見て回るということも出来ず、皆そのままぐっすりと眠ってしまい――翌朝、まだ日も登り切っていない早朝に、清少納言は目を覚ました。

 

 そして、局を出て庭先に出た清少納言は、思わず息を吞む。

 

 時期的に、咲いている筈もない満開の桜が、見事に世界を彩っていたのだ。

 

(これは、造花!? それも、こんなにたくさん、こんなに大きな――こんなにも美しい桜を……)

 

 一つや二つの花だけではない。

 幹や枝、そして数えきれない程の花弁が、一つ一つほんのりと色も変えて、こうして至近距離まで近づかなくては造花と気付けない程に精巧につくられていたのだ。

 

(これほどまでのものを……果たしてどれほどの手間を掛けて……)

 

 それも見事に美しく配置されている。紙で出来ている為、ぱらぱらと雨でも降ったら見るも無残なことになっていただろう。けれど、それを惜しみも恐れもせずに、屋根もない庭先に、こうして見せびらかせるわけでもなくひっそりと配置しているのだ。

 

(……これが、関白・道隆様の――華)

 

 人々を魅了させる感性――これもまた、人の上に立つ者の華なのだろう。

 己が娘の為に建てた、この二条の宮。そこに初めて訪れる定子の為に、その対面を華やかに飾ろうとするこの趣向は、清少納言に大きな感動を齎した。

 

 道隆のこの企画力、演出力は、一族の中でも群を抜いている。

 そしてそれが、華やかさというものが人心掌握において大きな意味を持つこの平安貴族界では、とても強い力を発揮する。

 

 道隆がただの兼家の二世ではなく、父が持っていた権力を引き継いだ上で拡大化することが出来たのは、こうした才覚が故といえよう。

 

 だが、しかし――。

 

「…………」

 

 清少納言は、何かを呟きかけた口を閉じて、そのまま作り物の桜に背を向け、自分の局へと戻っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の昼頃、関白・藤原道隆は二条の宮へとやってきた。

 

 桜色の直衣を纏った道隆は、当時四十を過ぎていたが、そうとは思えぬほどに華やかな雰囲気を放っていて、定子の女房達も揃って赤い顔で惚けていた。

 

 この衰えぬ容貌こそが、道隆最大の武器でもあった。

 道隆も己の武器は理解していて「俺は、顔はいい。だが、頭がよくない。だからこそ、頭がいい女を妻に選んだのだ。俺の容貌と妻の聡明があれば、俺の子供は完璧だろう?」という頭の悪い考えで、関白の妻としては身分違いだった高階貴子(たかしなのきし)を強引に娶ったほどだ。

 

 だが、その理論の元に、道隆以上の容貌を持ち、貴子以上の聡明を持つ定子が生まれたのだから、その考えはある意味正しかったといえる。こういった正解を選び取れる天運を持つのも道隆を王者へと導いた才覚であろう。

 

「中宮様はさぞご満悦のことでしょう。これほどの美女を大勢侍らすなど、この関白をしても羨ましい限り。しかし、皆様方はご存知ですかな? 中宮様はお生まれになった頃から熱心に仕えているこの忠臣に、未だご褒美一つ下さらないのですよ?」

 

 道隆はこういった冗句で周囲を綻ばせるのが得意技だった。

 

 父娘であること、しかし、主従であることを、自らを貶めることを厭わず――しかし、決して品位は落とさずに笑いに変えてみせるのだ。

 

 身近に感じられようと、尊敬は失わない。

 緊張は解そうと、憧憬はより増すばかり。

 

 道隆はそんな王者だった。

 彼の周囲は常に華やかだったし、彼の周りに人は絶えなかった。

 

 だからこそ――だろうか。

 清少納言は、まるで気付けなかった。

 

 和やかな語らいが行われる中、道隆は一条帝からの遣いが届けた手紙を受け取り。

 それを一度開くそぶりを見せながらも「中身を見るなど畏れ多い」などとおどけながら定子へと手渡した。

 

 この時、関白道隆が笑顔の裏でどんな思いでいたのか。

 この時、中宮定子が微笑の裏でどんな思いでいたのか。

 

 清少納言は気付けない。

 この場にいる誰も、この二人以外の誰もが気付いていなかった。

 

 否――少なくとも、彼女は、気付かない振りを、することを選んだのだ。

 この華やかな空間が、時間が、いつまでも続くのだと――そう信じていたから。

 

 彼女が何かを飲み込んだ後、定子の妹達、そして母・貴子もやってきた。

 兄・伊周も、弟・隆家もやってくると、いよいよその場は光り輝かんばかりの華やかさで満ちていた。

 

 誰も彼もが美男美女であり、正しく宮中貴族の誰もが憧れる一家の団欒。

 

 そんな家族を眩しそうに見つめながら、女房達は明日の行事での服装のことで盛り上がる。名目上は仏事であろうが、中宮の女房として出席する以上、格好には手は抜けない。他の女房から浮くまいと、あるいは目立とうと、小声でひそひそと牽制し合っている。

 

 そんな中で、清少納言は、ただ定子だけを見詰めていた。

 一条帝からの手紙をギュッと胸に抱く、その姿を――そして、その姿を、笑顔で、時々、その笑みを消しながらそっと眺める、道隆を。

 

「…………」

 

 清少納言は、耳を閉じたいと思った。

 外から雨が降り出す音が、ぽつぽつと聞こえたから。

 

 次の日の朝――庭先の美しかった桜の花は、見るも無残にしなびれていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、積善寺一切供養(しゃくぜんじいっさいくよう)の日がやってきた。

 

 定子は帝の母后――道隆の姉でもある詮子(せんし)に敬意を表するという意味で裳と唐衣という礼装だった。

 紅の衣がとても似合っており、清少納言は普段とは違う美しさを放つ定子に「どうかしら?」と聞かれて「それはそれは素晴らしいです!」と才女らしからぬ言葉しか返すことが出来なかった。

 

 定子はそんな清少納言にくすりと笑い――あの日のように。

 

「こちらへいらっしゃい」

 

 と、ぽんぽんと傍らを叩く。

 清少納言に席の上段へ来るようにという合図だった。

 

「……え?」

 

 清少納言は思わず開口して静止する。

 その中宮に最も近い席には、道隆の叔父の娘である中納言の君と、故右大臣の孫である宰相の君だけが座っているのみ。宮中の貴族全てが参列するといっても過言ではない此度の仏事において、清少納言をその席に座らせるということは、対外的にも清少納言を文字通り己の側近として扱うと公言するようなものだ。

 

 何の後ろ盾もない、政治的に何の魅力もない、年増で見目も悪い下級貴族の女房を。

 

 下段にいる女房達はどよめき、中納言の君も驚きを隠せなかったが、宰相の君はそっと奥に詰めて清少納言が座るスペースを開ける。

 

 定子はなおも動けない清少納言に微笑みながら言う。

 

「さあ。お入り」

 

 その先のことは、清少納言はよく覚えていない。

 あの新しい中宮の御付きは誰なのかと、ちらちらと貴族の男達が己を見ていたような気がするが、清少納言はそれどころではなかった。

 

 喉が干上がるような畏れ。身悶えるような羞恥。震えるような歓喜。

 あまりにも激しい感情の渦に、意識を失わないことが不思議なくらいだった。

 

 しかし、ここで倒れて中宮の顔に泥を塗るわけにはいかないと、精一杯背筋を伸ばすことに全力を尽くしながら――頭の中では。

 

(どうしてこの御方は、こんなにも私によくしてくれるのだろう)

 

 その言葉でいっぱいだった。

 ただでさえ、自分のようなものを優遇していると、完璧な中宮にとって余計な付け入られる隙となってしまっているのに。

 

 なのに、そんな言葉を肯定するような――あるいは開き直るような、公言するような、このような対応は。

 

 余りにも、余りにも畏れ多く――そして、余りにも。

 

(…………嬉しい……ッ)

 

 この息が詰まるような、あまりにも苦しい幸福を与えて下さる御方を――愛しく思えないわけがない。

 

 清少納言は、仏事の間、必死に意識を保ち、涙を堪えることに奮闘した。

 

 だからこそ――清少納言は再び見逃した。

 涙に潤んだ瞳で、歪んだ視界で、見るべきものを見落としたのだ。

 

「中宮様の裳をお脱がせなさい」

 

 関白・道隆の、その口元に広げた扇を介して発せられた言葉に――凍り付くような微笑から放たれた言葉に、場の空気が固まった。

 

「この座では中宮様こそが主君なのだ」

 

 その言葉に、定子の女房達はいたく感激した様子だった。

 道隆の言葉に、妻・貴子はいたく気まずげに娘の裳を脱がす。これは道隆が、中宮の母である自分の服装が略装であったことを咎めている意味もあると察したのだ。こうして中宮が裳を脱げば、少なくとも貴子の服装はそこまでおかしいものではなくなる。

 

 一見、これは道隆らしい機転のようにも見える。

 女房達には貴子への、そして定子への素晴らしい気の利かせ方として映っただろう。

 

 だが、この時、清少納言は――突き刺すような鋭い視線を感じていた。

 

「――ッ!?」

 

 それは自分達のすぐ傍の、木々の影の下に佇む一人の男の視線だった。

 中宮大夫として誰よりも近くから――この光景を、その言葉を、突き付けられている男の想念であった。

 

「……………」

 

 藤原道長(ふじわらのみちなが)――兄・道隆によって中宮大夫に任命された男は、道隆の栄華の象徴たる中宮に奉仕する役職に就かされた、長兄の勝者としての華を誰よりも近くで見せつけられ続けてきた男は、その日。

 

 貴子の父・高階成忠(たかしなのなりただ)に、己の隣である上座を奪われて、静かに拳を握り締めていた。

 成忠は貴子の父とはいえ出家している。位は道長と同じ従二位ではあったが、その場合は現職の権大納言である道長が上座に座ることが通例であった。

 

 しかし、他の者を押し退けるように道隆や貴子に挨拶をした老爺は、そのまま何食わぬ顔で、道長など見えぬかのように上座に腰を下ろしたのだ。

 

 その姿はまるで天下でも獲ったかのような振る舞いに映ったことだろう。事実、透けて見えるかのようだった。

 このような大きな式典に略装で現れる貴子、我が物顔で上座に腰を下ろす成忠――彼等は心の内でこう思っているのではないか。

 

 この式典の主役は定子、道隆つまりは娘であり婿、ひいては高階一族であると。

 

 そう思うのも、そしてそう思われるのも無理はない。道隆が関白となり、定子が中宮となってからの高階一族の優遇は誰の目から見ても分かり易いものだった。

 

 だが、しかし、その王者の振る舞いを――誰よりも近くで見せつけられているものが居ることに、この時は誰も気付いていない。

 

 ふつふつと、燃え滾る野心に、屈辱という薪を焼べている者が、すぐ傍にいることに、誰も――――否。

 

 少なくとも、二人、気付いていたのかもしれない。

 だからこそ――道隆は、定子こそがこの場の主君だと強調し。

 そして、定子は――ゆっくりと、表情を消しながら裳を脱いだのかもしれない。

 

 しかし、清少納言は気付けなかった――必死で、気付かないことを、選んだのだ。

 

 見ない振りをして――逃げたのだ。

 

 その、禍々しい、黒く燃えるような――想念から。

 

「…………」

 

 

 彼女の脳裏に、この時ふと、とある祭りの情景が過ぎった。

 

 それは清少納言が、清少納言となってから日の浅いとある祭りの日――新嘗祭(にいなめさい)という、秋の収穫を神に捧げる祭事でのことだった。

 

 祭りの見所は、四人の舞姫が五節の舞を披露する「少女(おとめ)の舞」。

 公卿や殿上人らが選出した十三才前後の若い娘が色とりどりの衣装で可愛らしく踊る、華やかな宮中という世界を象徴するような光景だ。

 

 正しく、華の晴れ舞台。

 四日間も続く煌びやかな祭は、宮中の貴族達の誰もが楽しみにしているものだった。

 

 そして、この年――四人の舞姫の内の一人は、中宮が選出した右馬頭(うまのかみ)の娘だった。

 彼女が座へ参上する際、清少納言を初めとする中宮の女房達が一緒に付き添うこととなっていたのだが――その送迎に対して、中宮は事細かに女房達に直接指示を出したのだ。

 

 何故、たかだか送迎にそこまで真剣に指示を出すのか分からず怯える女房達も多かったが――本番を迎え、誰もがその意図に感心した。

 

 当日、中宮定子から全員に、青摺の祭服が与えられたのだ。

 これは本来、神事に仕える男の服装であるが、それを中宮は、女房達は勿論、舞姫の童女たちにも惜しみなく贈呈した。

 

 花道を飾る女房、そして主役の舞姫、その誰もが普段は見られない美しさを放ち、殿上人だけでなく帝をも感嘆の息を漏らすこととなった。

 

 華やかな祭典に、更に鮮やかな色を加えるのではなく、落ち着いた色合いの男装の女を並べることで斬新な驚きと美しさを生む。

 

 父・道隆譲りでありながら更に新しい発想で人々を驚かせる定子の才覚に、清少納言は感動に震えていたが――そんな中、確かに彼女は、聞いていたのだ。

 

「…………やはり、恐ろしい御方だ」

 

 それは、華やかな式典の隅で、暗い影の中でひっそりと立っていた男の呟きだった。

 中宮大夫として彼は、この日も、誰よりも近くで中宮定子の輝きを見せつけられていた。

 

 暗い、けれど奥に黒い炎を宿す、その男の瞳を見て――清少納言は、確かに思ったのだ。

 

 藤原定子と、藤原道長は、似ていると。

 

 何故、そう思ったのかは分からない。

 この時の清少納言はまだ、中宮大夫としての仕事に真面目に取り組んでいたとはいえない道長と、深く話したことはなかった。

 それどころか、中宮と中宮大夫、定子と道長が二人で話しているところも見たこともなかった。

 

 だが、それでも直感的に、似ていると思ったのだ。

 容貌ではない。無論、叔父と姪なので似ていないわけではないが、道隆や定子のそれが華やかなスターとしての美しさである一方で、道長は鋭く冷たい印象を覚える美男子だった。しかし――。

 

(……そうか。目――瞳)

 

 定子の目は道隆にも貴子にも似ていない。

 どちらかといえば――彼女の瞳は、道長と似ていた。

 

 真っ直ぐに、どこか一点を見詰めている目。

 燃えるように強い何かを、その深奥に秘めている瞳。

 

 それは、真っ直ぐに見据えた者を引き摺り込む――王者の、眼。

 

(…………もし、道隆様がおらず……道長様がご長男だったら――)

 

 そんなことを一瞬だけ考えてしまい、直ぐに不敬だと振り払って、式典に集中した。

 新嘗祭の時は、その後、再び目を戻したらそこには既に道長は居らず――その日、もう道長の姿を見ることはなかった。

 

 

 この時、そんなかつてのことを、清少納言は思い出した。

 

 そして、積善寺一切供養が終わった時、中宮の周囲が、道隆の心遣いへの称賛を囁き合い、中宮定子への労わりの視線を向けている中――清少納言は涙をそっと拭いて、その席を見た。

 

 老爺・成忠の隣に座っていた道長は、新嘗祭()の時と同様に、既に姿を消していた。

 

「…………」

 

 だからこそ、清少納言は気付かない振りをした。

 道隆も、弟・道長の行方を誰にも問わなかった。

 

「…………」

 

 そして、ただ一人、定子だけがその姿を捉えていた。

 

 屈辱の表情で唇を噛み締めていた、定子の叔母であり、一条帝の母堂――己が姉である詮子の元へと真っ先に向かう、藤原道長の姿を。

 

 そして、本来は詮子に対する敬意を示す意味で羽織っていた裳――そして、結局は詮子を押し退けて、己こそがこの場の主役であると示す為に脱ぐことになった真っ赤な裳を羽織っていた肩に、そっと手を置く定子の姿を。

 

「……………」

 

 ただ二人、藤原道隆と、清少納言だけが笑みを消して何も言わずに見詰めていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 実の所、藤原道隆は、末弟・道長のことをどう思っていたのだろうか。

 

 少なくとも、先代関白・兼家が健在の頃は、藤原道長といえば特筆すべき点のない平凡児という評判だった。

 取り立てて秀でた特技もなく、仕事で結果を残していたわけでもない。唯一の見所といえば、左大臣・源雅信の娘である倫子と結婚したことくらいだが、彼自身に何か脅威があったかといえば、何もなかったという他ないだろう。

 

 事実、道隆の弟であり道長の兄である道兼は、道長に対しては甘やかされた楽観的な末っ子という印象だけを抱いていたようだ。

 

 道隆もそうだったのかもしれない。少なくとも初めは。

 だが、何を思ったか、道隆は己が関白となった後、道長を中宮大夫へと任命する。

 

 頂点へと昇り詰めた権力者が、己が兄弟や親戚を優遇するのは、何も贔屓というだけではない。ある程度は優遇し、恩を売っておかなければ、自分の子などの直系に権力を継がすことが難しくなるからだ。

 

 権力の引継ぎは長男が最も有力だが、兄弟も十分に権利がある有力者なのである。

 故に、分かり易く冷遇して、政敵に回られ、他の貴族も取り込み派閥でも作られてしまうと非常に面倒なことになる。政治を回す上でも大いに邪魔な存在だ。

 

 だからこそ、己に近い血を持つ者には適度に甘い飴を与えて優遇し、無駄な敵意を持たれないようにしなくてはならない。最も信頼すべき親族こそが最も恐ろしい敵となり得るのが、この狭い世界で繰り広げられる貴族社会なのである。

 

 だからこそ道隆は、次弟・道兼を大臣へと引き上げている。

 だが、道長は権大納言――これも道長の若さを考えると大出世だが、己が息子の伊周とほぼ同列に配置し、更には中宮大夫の任を命じている。

 

 年下の甥に追い縋れる地位。更には兄の栄華を最も間近で見せつけられる役職。

 道長にとっては面白い筈がない。何故、優遇すべき弟である道長の、まるで心を折るような真似を、道隆はしたのだろうか。

 

 所詮は、平凡な末子だと見縊っていたのだろうか。

 それとも――将来、我が子を脅かすかもしれない政敵の野心を、前もって潰そうとしたのだろうか。

 

 一つ確かなのは、道隆のこうした振る舞いは、平凡児の仮面を被った道長のプライドを傷つけ続けたということ。

 

 そして、屈辱を薪として焼べられ続けた道長の燃え滾る野心は、徐々にその炎を表に出し始めたということだ。

 

 

 この積善寺一切供養の次の日――内裏の後宮に火が放たれた。

 

 それと時を合わせるように、平安京に悪魔のような疫病が流行り始めたのだ。

 

 黒く昏い炎が、輝く華を呑み込もうとしていた。

 




用語解説コーナー⑩

中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)

 后妃に関わる事務などを扱う役所である中宮職(ちゅうぐうしき)の長官。

 兄・道隆によってこの職に任じられた道長は、定子という華を、誰よりも近くで見せつけられ続けることになる。
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