比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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やはり、我らは兄弟ですね。兄上。


妖怪星人編――⑪ 道化の鬼火

 

 藤原信義(ふじわらののぶよし)が死んだ。

 清少納言の二人目の夫である彼の命を奪ったのは、京で猛威を振るっていた流行り病だった。

 

 夫が病だという知らせを聞いた清少納言は頻繁に実家へと戻り、病気平癒の祈祷やら、寺への貢ぎ物やら、方々に手を尽くして財を投げ打ったが、夫の容態は一度として快方に向かうことなく、春がやってくるのを待っていたかのように、庭の花が咲くのを見届けて亡くなった。

 

「お前が中宮様に気に入られたように、俺は仏に気に入られたらしい。……お前が好きな浄土を……俺はしっかりと探検しておくから……お前はゆるりと来るがいい。……お前が来た際には、浄土の名所を……俺が存分に、案内してやろうぞ」

 

 夫を亡くした清少納言は、内裏にも戻れず、自邸にもおられず、居場所を失くして呆然と佇んでいた。

 家族の死に立ち会った者は、当時は穢れているとされ、人目に触れぬようにひっそりと隠遁しなくてはならない風習があった。また、人が亡くなった家にも物忌みとして長期間滞在することが出来ず、陰陽師が示す穢れを落とす方角にある方々の家を転々としなくてはならない。

 

 更に、この時期、清少納言は新たな命を宿していることが明らかになった。

 その妊娠が発覚したのは、あろうことか夫が病床に臥せった後のこと。それを知った信義は、涙を流して笑みを浮かべ、清少納言に「――よくやった」と、そう言って喜んだ。

 

 信義は死の間際、自分の為に財を投げ打つ、己が子を宿した妻に対し、どうか財ある者と再婚してくれと言い遺した。同じことを自分や清少納言の親戚に手紙を何通も書いてお願いしたそうだ。

 

 だが、夫が死に、身籠った清少納言が物忌みに入って尚、夫の親戚からも清少納言の兄弟からも何の連絡もなかった。

 

 頼れる者もおらず、己が守らなくてはならない命の重さだけを抱えて家々を転々とする日々は、清少納言に大きな孤独感と陰鬱とした寂しさを感じさせた。

 

 そんな時に、清少納言を救ってくれたのは、やはり中宮定子だった。

 

『いかにして 過ぎにし方を 過ぐしけむ 暮らしわづらふ 昨日今日かな』

 

 あなたがいなかった頃、わたしはどのように過ごしていたのか分からなくなってしまったわ。あなたがいないせいで、昨日も今日も退屈に暮らしているのよ。

 

 敬愛する主からのそんな歌に、清少納言の中の暗い陰鬱とした寂しさは吹き飛んだ。そして、同封されていた宰相の君の文には、こう書かれていた。

 

 中宮様はあなたの出仕を待ち詫びている。明け方にでも帰ってきなさい――と。

 

 清少納言は本当に明け方には内裏に戻った。そんな彼女を中宮や女房達は笑いながら出迎えた。

 

 彼女は思わず涙を浮かべながら笑った。

 夫に先立たれ、子を身籠り、財は目減りし、親戚は全く頼りにならない。

 

 そんな中で、この場所だけは、この御方だけは――こんなにも明るく出迎えてくれる。

 

 清少納言はこのように語った。

 

「もし余りにも辛いことが続いて、生き続けるのが嫌になった時。そんな時に、ふと真っ白な美しい紙なんかが目の前にあったら、ああ、もう少し生きてみようかなんて、そんな気になってしまうの」

 

 女房達と中宮が口元を隠して笑う。

 それが余りに嬉しくて、調子に乗ってこう続けるのだ。

 

「そこに青くて細やかな畳があればもう言うことはないわ。縁が綺麗なものが広がっているのを見ると、ああ、やっぱり死ぬのはいやだわって、もう一度、顔を上げることが出来るの」

 

 それは、本当に他愛のない幸せ。

 周りの女房達も「そんなことで気持ちが休まるなんてお手軽ね」と笑う。

 

 けれど、清少納言にとっては、それが本当に幸せの象徴だった。

 紙と畳――当たり前にすぐ傍にあるもの。それが幸せなんて――なんて幸せなことなんだろう。

 

 それからしばらくの間は穏やかな日々が続いた。

 しいて変化を挙げるならば、清少納言に対する異性からの誘いが増えたことだろうか。

 

 中宮定子の特にお気に入りの女房という評判は前々から流れていた。

 そこに夫を亡くしたという事実が広がり、手紙や歌を送り易くなったということだろう。無論、その全てが夜の誘いではなかった。純粋に夫を亡くした彼女を気遣う手紙もあったし、才女と評判の彼女の機転の利いた返しを求めた腕試しのようなものもあった。

 

 その中には、一人目の夫と二人目の夫の間に彼女が真剣に恋をした風流人・藤原実方や、父・元輔の友人でありかつて兄たちから結婚相手として宛がわれた藤原棟世などもいた。

 中でも清少納言が返事を出すのに緊張した相手は、三船の誉れとして名高い藤原公任だった。

 

(……っ! まさか、かの貴公子から和歌が送られてくるなんて……ッ)

 

 上の句だけが掛かれた手紙。これはこれに相応しい下の句を書いて返せというものだ。

 これまで何度もこういった手紙は受け取ってきた。父に及ばないコンプレックスから苦手意識がある和歌だったが、そんじょそこらの相手ならばそれほど迷わない。しかし、相手があの公任では――と、一晩内容に悩み、ようやく返事を出した後、再び手紙が届けられた。

 

 次は誰だと、半ばうんざりしながら受け取った手紙――その相手を見たとき、徹夜の眠気など吹き飛んで起き上がった。

 

 差出人は――藤原道長。

 

「思ひきや 山のあなたに 君をおきて 一人都の 月を見んとは」

「――ッ!?」

 

 手紙に書かれたものと全く同じ歌が、目の前で諳んじられている。

 

 清少納言の局――その御簾の向こう側に、今、正に、藤原道長その人がいるのだ。

 

「――どうかね、私の歌は。あの清原元輔氏の娘からすれば、それも公任の奴の歌の後だからな。どうしても拙く聞こえるだろう」

「……いえ。そんなことはございません。素敵な歌ですわ」

 

 清少納言は動揺しながらも言葉を返した。

 先述の通り、中宮大夫である藤原道長と新参女房である清少納言の接点は少ない。余り長い会話をしたこともなく、精々が業務連絡程度だ。

 

 それに中宮大夫という役職に露骨に不満を露わにしていた、露骨に態度に出していた道長は、他の女房とも仲が良いとは言えない。いわゆる女房に手を出したという話も全く聞かない。もしそんな事例があったとすれば、普段の勤務態度から考えて、女房間で話題に上がらない筈がないのだ。

 

 それが、まさか――よりにもよって。

 

(……どうして、私の所に?)

 

 清少納言が戸惑っている間に、御簾の向こう側の道長は「……そういえば、君とは面と向かって深い話をしたことがなかったな」と言って、そして――こう言った。

 

「――どうだろう? 今宵、私と語らってみないか?」

 

 それは、決定的な一言だった。

 この平安の世には、平安の夜には珍しくもない――誘い文句だった。

 

「…………」

 

 道長はプレイボーイとして名を馳せているわけではない。

 だが、若く端正な美男子として、平安京の女性陣からは人気のない男では決してないのだ。

 

 目立った評判は聞かないが、関白・道隆の弟として家柄は十分である。

 故に、普通の女ならば――いや、家柄のいい男との出会いも出仕の大きな目的の一つである他の女房ならば、急な誘いに戸惑いはしても、御簾の中に入れて誘いに応じるだろう。

 

 だが、清少納言は。

 

「――申し訳ありませんが、その御誘いには応じかねます」

 

 道長は、そんな清少納言の言葉に「……そうか。振られてしまったな」と呟いて。

 

「それは――君の矜持故かな? 清少納言」

 

 清少納言の矜持。

 それは「一乗(いちじょう)の法」のことを言っているのだろうと、彼女は察した。中宮大夫である道長ならば、あの雑談も耳に入っているだろうと。

 

 清少納言が昔から、それこそ少女の頃から頑なに唱え続けている矜持――ただ一つの真理であると、念仏のように唱え続けている「一乗の法」。

 

「思う人から一番に愛されなくては意味がない。二番目、三番目など以ての外だと。……なるほど、妻を二人持つ私からすれば、耳の痛い話だ」

「……頭の固い女の戯言と、笑ってくだされば」

 

 道長は「いや、私も他人から見れば大層に愚かしいものに心酔している人間だ。譲れないものを胸に抱く気持ちは、理解しているつもりだよ」と言って、そのまま立ち上がった。

 

「だとすれば、今宵は無粋な真似をしてしまった。許して欲しい」

「いえ。かの道長様にお誘いいただくなど、光栄でござりました」

 

 清少納言は御簾の内側で頭を下げる。

 そんな彼女に、道長は去り際にこう告げた。

 

「やはり君こそが、中宮様の『理解者』のようだな」

 

 清少納言は頭を上げる。その御簾の向こう側には、もう既に道長いない。

 

――自分にとって一番大切な方から、一番に愛されよう。一度口にしたからには、何としても貫き通しなさい。

 

 かつて、この「一乗の法」が女房達の話題に上がった時、中宮はそう清少納言に言った。

 その時の表情はいつもの穏やかな微笑みではなく、まるで己自身に言い聞かせるような険しいものだった。

 

 中宮(ちゅうぐう)――帝の后としての立場にいる定子は、天皇の寵愛を勝ち取ることが使命である。

 無論、定子本人としても一条天皇のことを恋い慕っているが、定子はそれだけではない。未だ子がいない一条帝の跡取りを生むことは、父・道隆を初めとする一族の、広義でいえばこの国の悲願でもある。

 

 まだ十代の夫婦に求めることではないのかもしれないが、帝の后になるということは――中宮になるということは、そういうことなのだ。

 

 少女のように夢見る自分の矜持とは、まるで重さが違う。

 けれど、定子は同じ矜持を持つものとして――同士として、自分のことを見てくれているのだ。

 

(同士――理解者)

 

 そして、それを――理解していた。

 見抜いていた。否――見定めていた……?

 

(……藤原……道長、様……)

 

 そして、今宵を最後に、道長が清少納言の元を訪れることはなかった。

 

 他の誘いに関しても、清少納言はすげなく断り続けた為、中宮のお気に入りの女房に声を掛けてみようという貴族の男達の流行はすぐに下火になっていった。

 

 

 やがて、出産時期が近付いてきた頃、まさか内裏で出産して穢れを持ち込むわけにはいかず、清少納言は再び里へ下がることになった。

 

 その際に、中宮は清少納言に、きらきらと輝く上質な『紙』を渡した。

 

「畳まではくれてやることは出来ないけどね?」

 

 そう言ってくすりと笑うが、清少納言はそれどころではない。

 何気ないものといったが、この時代、上質な紙はそれだけで高級品だ。

 

 内裏で眺めるならまだしも、一介の女房の里下りに贈呈するようなものでは、決してない。

 

「し、しかし、このような立派なものをいただいても、わたしには書くものがございません」

 

 歌は父には及ばず、絵心などもある筈がない。

 詩も、書も、人に誇れるようなものは――何もない。

 

 中宮定子は、狼狽える清少納言に――美しい、微笑みを向けて言った。

 

「あなたがしあわせになれるものを書いて」

 

 紙と畳――自分に幸せをくれる、何気ないもの。

 あたたかい光景――光。

 

 これから一人で、命を生まなくてはならない清少納言に、生きる力を与える為に。

 

 定子は、自らの『理解者』に、これを贈ってくれるのだと気付き――清少納言は、深々と頭を下げた。

 

「――御意に、ございます」

 

 主命を、いただいた。

 美しい紙束と共に、定子は清少納言に――幸せになれと、そう命じてくれたのだ。

 

 余りにもありがたい御言葉と共に、清少納言は里に下った。

 

 

 その年の秋――清少納言は子を産んだ。

 初めての娘だった。ああ、よかったと思ったことを覚えている。

 

 娘ならば、息子のように夫の家に後継ぎとして連れていかれることもない。ずっと傍にいてくれる。そう思ったら、ますます愛おしく感じられた。

 

 そして冬になると、再び清少納言は娘を家の者に任せて出仕した。

 これからは自分が稼がなくてはならないと、この時代には珍しいシングルマザーとしての決意を胸に抱きながら、けれどとても誇らしい気持ちだった。

 

 けれど、戻った内裏は、かつてのように眩い光を放ってはいなかった。

 

 関白・道隆が――病に倒れ伏せていたのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平安京全土を蝕んでいる流行り病が、遂に頂点たる関白にまで届いたのか――そんな噂が流れたが、道隆の身を襲ったのは流行り病ではなく持病、当時では飲水病と呼ばれた、いわゆる糖尿病である。

 

 現代でも生活習慣病として名の知られた糖尿病だが、毎週のように宴を催し、華やかな飲みニケーションに明け暮れ、狭い宮中のみが世界であり碌に運動もしない平安貴族たちは、殊の外この病に侵される者が多かった。

 

 糖尿病は病状が悪化してしまうと快方に向かうのは現代医学でも難しい。いわゆる、一生付き合っていかなくてはならない病気だ。血糖値などという概念もなく、無論、降血糖薬(インスリン)などある筈もないこの時代に置いて、立ち上がれなくなるほどまでに悪化した病状を和らげる方法などある筈もなかった。

 

 そのことを、誰よりも直感的に理解していたのは、他ならぬ道隆であろう。

 思えば、積善寺一切供養の際、あれほどまでに豪勢に仏事を開き、仏の力に縋ったのも、都中に流行り病が蔓延していたからという理由もあっただろうが――己の死期を悟ったというのも大きいのではないだろうか。

 

 道隆の焦りはそれだけに留まらない。

 その年の人員任命の際、道隆は長男・伊周を、権大納言から、なんと内大臣にまで強引に取り立てた。

 まだわずか二十一才の若造が、なんと左大臣、右大臣に次ぐ地位にまで上り詰めたのである。

 

 その余りにも分かり易い人事に、宮中ではすぐさま噂が流れた。

 関白・道隆は流行り病に侵されている――結果としては持病だったわけだが、己の死期を悟っているという意味では大差ない。

 

 道隆がこれほどまでに強引な行動に出ているのは――未だ、自分の一族の権力が決して揺るぎないものではないということを、誰よりも理解出来ているからだ。

 

 跡取りとして最有力候補である伊周は、未だ二十一才の若輩だ。

 何とか内大臣にまで取り立てたものの、弟・道兼は右大臣だ。引継ぎは決して確実ではない。あの野心家の弟は、必ず自分の後の空席を力づくに奪おうと画策するだろう。

 

 そして、中宮である娘・定子は未だに一条帝の子を身籠っていない。一条帝は十五、定子は十八の若い夫婦だが、その次代の天皇と系譜上は目される東宮(とうぐう)居貞(おきさだ)(後の三条天皇)は十九で帝よりも年上であり、既に第一皇子を生んでいる。

 関白である自分が亡くなり、後ろ盾がなくなれば、かつて自身の父がそうしたように――強引に一条天皇を排斥させ、東宮を即位させようと動く者がいないとも限らない。

 

 それに、今は一条帝の女御(にょうご)は中宮定子一人だけだが、自分が死ねば、誰かが別の娘を女御として押し付けるだろう。そして、定子よりも先にその女御に第一子が生まれたら――その子が、男児であったなら。

 

 自分達の一族の未来の繁栄は、まだ決して確約されていない。

 それを誰よりも理解していた道隆だったからこそ、目前に迫りくる死に全力で抵抗した。

 

(……私はまだ、ここで死ぬわけにはいかぬ……ッ!)

 

 道隆の悪足掻きは止まらない。

 年明けには定子の妹である次女・原子(げんし)を東宮の女御として押し込んだ。

 

 そして――自ら、関白の職を降りたいと辞意を表明する。

 

 自分の死後、空席となった関白の椅子を取り合うということになれば、伊周は道兼に敗れることも十分に考えられる。

 だからこそ、自分が健在の間に強引に伊周を関白にすることを目論んだのだ。

 

 だが、道兼もそれを察しない程の愚鈍ではない。

 一早くその情報を聞き付け、画策を巡らせた。

 

 自身の息子の加冠の儀――その加冠の役を、弟である道長に頼んだのだ。

 加冠の役とは、本来は一族の長の役目。それを道隆ではなく道長に頼むということは、道隆を一族の長とは認めない、ひいては道兼は道隆と本格的に敵対するという意思表示になる。

 

 そして――道長は道隆ではなく道兼へと付くという姿勢を示すことになるのだ。

 道長は、それを了承した。

 

 

 その日はすぐにやってきた。

 道兼の息子に、道長が冠を贈呈する。

 そして少年は兼隆と名付けられた――加冠の儀が行われた。

 

 そして、奇しくもその同日。

 東宮の女御となる道隆の次女・原子が、先に入内している中宮定子に登華殿にて対面するという華やかなる儀式が行われていた。

 伊周も、隆家も、貴子も、無論、道隆も――揃って行われた。この華やかなる行事に、中宮大夫である道長は参加していない。

 

 そのことに、中宮定子だけが気付いていた。

 顔を真っ青にして痩せ細っている道隆は、それにすら気付かない。

 

 死から逃げる関白の窪んだ眼は――真っ直ぐに中宮を見据えている。

 

 子を産めと。

 一条天皇の――帝の子を、孕めと。

 

「…………」

 

 定子はいつもの場所に目を向けた。

 理解者は――子を産む為に、己が未だ出来ないことをする為に、己の傍にいてはくれなかった。

 

 道隆と道兼、そして道長。

 故・前関白・兼家の息子たちの道は、この時、完全に別たれた。

 

 そして、宮中の貴族達は、果たしてどの勢力へと付くのかを迫られることになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 二月の終わり。

 道隆は二回目の辞表を提出した。この時代は辞めたいからはい辞めますとやめられるわけではない。関白ほどの大きな役職となれば猶更だ。

 

 提出すれば帝に却下され、いえいえそれでもと何度も辞表を書いた末に、三度目、四度目でようやく成立する。これを利用して、己に対する反発を抑えるポーズとして、または余りにも自らの陣営にいいことが続けた時に周囲の妬みを抑える為のポーズとして辞表を書くという慣例もあった。

 

 わたしは辞めたいといったが帝がそこまでおっしゃるならと、こういった面倒くさい慣習をいつまでも残すのも前例主義の日本人らしさともいえなくもないが、今回のように本当に辞めたい場合などは意外と当人を苦しめるものとなる。

 

 それを表すように、二回目の辞表を提出した直後――道隆は宮中に出仕することが出来なくなった。

 定子と原子の入内後の初対面から、僅か一月も経っていない内の出来事であった。

 

 王者・道隆の終焉。

 それを徐々に貴族達が感じ始めた頃――道隆が流行り病ではなく、飲水病であることも明らかになっていった。この時期、平安京を蝕んでいた疫病は発症後数日と持たず亡くなるといったものだったからだ。

 

 だが、道隆はこれを逆手に取る。

 出仕できなくなるということは、正常な業務を行うことが出来なくなるということ。それを理由にしきたり的な辞表の往復を簡略化し、己の辞職を認めさせ、一気に伊周を関白にせんと推し進めようとしていた。

 

 当然、それは道兼も理解していた。

 つまりは三度目の辞表――それこそがターニングポイントとなるだろう。それまでに伊周の関白就任を阻止する妙案を思いつかなくてはならない。

 

 宮中の他の貴族は、この瀬戸際を、息を吞みながら見守っていた。

 この時点で勝者の勢力に付けば、その後の優遇は約束される。だが、先走って自分が選んだ勢力が敗北すれば、待っているのは無残な未来だ。

 

 そして、その時、道長は――ある人物の元を訪ねていた。

 

 東三条院詮子。

 この時を見据え、何年もかけて恩を売り、信頼を育んできた、己が姉にして一条天皇の母后である。

 

 詮子はこの頃、疫病の流行に心を痛めており、信心深かった彼女は是非とも石山詣に行きたいと願い出た。

 石山詣とはこの時代に流行した石山寺へ詣でることで、場所は遠く手間も掛かるが大層な御利益があるとされていた。

 

 道長はそれを即座に了承し、引率の役目を志願した。

 京を出る際に伊周と一悶着があったが、道長は敢えて、これまで控えていた直接的な伊周との対立をすることで――見極めたのだ。

 

 詮子は伊周に恥をかかせた道長を咎めなかった。

 そして、石山寺にて、道長は詮子に対して切り出した。

 

「道隆兄上のお加減は相当にお悪そうです。関白を辞めたがっているのも、恐らくは本心からでしょう」

「…………」

 

 瞑目し、手を合わせ、祈り続ける詮子の背中に向けて、道長は問う。

 

「道隆兄上は伊周に後を継がせたいと思っている。道兼兄上は、己こそが関白に相応しいと触れ回っています。……姉君は、どう思っておいでですか?」

 

 詮子はゆっくりと目を開けた。道長の方には振り返らず、ぽつりと、ただ虚空を見詰めながら。

 

「私は……我が子を。帝のおんためのみを、考えております」

 

 道長は、その言葉を聞いてゆっくりと頭を下げた。

 さすがは姉君。さすがは母后。

 

 道隆よりも、道兼よりも――そして、おそらくは自分よりも。我が兄姉弟の中で、最も偉大な傑物は、まさしく詮子であろう。

 

(……我が一族は、本当に女が強く、恐ろしい)

 

 下げる道長の頭の中には――これから先、最も恐ろしい敵として立ち塞がるであろう女の顔が浮かんでいた。

 

 兄よりも端麗で、兄嫁よりも聡明――だが、瞳だけは自分によく似た、あの可愛い姪の顔が。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言が内裏へ戻った時、女房達の間で最も噂になっていたのは、粟田口(あわたぐち)での一幕に関するものだった。

 

 一条天皇の母后・東三条院詮子の石山詣への付き添いの際、足並みを乱した内大臣・伊周を、権大納言・道長が大衆の前で叱責したというものだった。

 

 これに対して伊周は不敬だと大層にご立腹だったが、どのような立ち回りをしたのか、貴族内の評判は道長を評価する声が大半を占めていた。

 

 元々、貴族の内での伊周の評判自体が決してよいものとは言えないのでそれ自体は予想通りというものだが――問題は、今回の一件により、道長自体の評判が大きく上がったことだ。

 

 これまでは関白・道隆、右大臣・道兼の影に隠れた、見た目が少しいいだけの見所のない末っ子というものだった道長の評価が、ここにきてやる時にはやる、関白の兄弟に相応しい男として頭角を現すことになったのだ。

 

 それでいて、牙を剥いた相手が伊周というのも、今のこの情勢においては非常に大きな意味を持つものだった。

 道長が道兼派に付いたということは、道兼の子・兼隆の加冠の儀の際に一部の貴族の間では分かっていたことだが、この時は道兼が道隆に反旗を翻したというニュースの印象が強くて、はっきりいって道長に関しては誰も印象に残っていなかった。

 

 だが、ここにきて道長が貴族間でも存在感を露わにしだしたことによって、道隆vs道兼だった構図が、道隆vs道兼・道長という形で捉えられ始めたのだ。内実は変わっていないが、貴族間で持たれる印象は大きく変わる。

 

 更に、粟田口での一幕が、詮子の石山詣に向かう際の出来事であったということも、大きな意味を持っている。伊周は詮子の石山詣の付き添いという立場であったにも関わらず、その足並みを乱した、そこを道長に叱責された――つまり、伊周は詮子をないがしろにし、道長が詮子の不満を代弁したといった形にも捉えられるのだ。その際、伊周は一条天皇の母后である詮子の信頼を損なったとも捉えられる。

 これは、次代関白を巡る戦いにおいて、隠しようがない大きなマイナスとして映ることになる。

 

 つまり、粟田口での一幕――たったあれだけのやり取りで道長は、これだけの効果を生み出したのだ。

 

 隠していた頭角を、ほんの少し露わにした、ただそれだけのことで。

 

(……これが、藤原道長様)

 

 清少納言は、これまでも時折感じていた悪寒を、改めて思い出した。

 

 やはり、あの御方は――秘めていたのだ。

 研いでいたのだ。隠して、抑えて、ずっと待っていたのだ。

 

 その能力を披露する、その機会を、伺っていたのだ。

 

「…………中宮様」

「………………」

 

 清少納言は傍に侍る中宮の顔を見る。

 定子は何も言わず、ただ引き締めた無表情で――何かをじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原道長の台頭――それを病床で聞いた道隆は、高い天井を呆然と見上げた。

 

「…………」

 

 そして、静かに側近を己の枕元に呼ぶと、一条帝に次のような申し入れを届けさせた。

 

 関白・藤原道隆が病の間、文書内覧(ぶんしょないらん)の権を内大臣・伊周に譲りたい――と。

 

 それを一早く耳に入れた道長は、思わず小さく呻いた。

 天皇と役人の間を取り持つ蔵人(くろうど)――その頭である蔵人頭、この時の蔵人頭は源俊賢(みなもとのとしたか)という男で、この男は道長の二人目の妻である源明子(みなもとのめいし)の兄妹なのである。

 

 道隆と伊周、そして道兼の政闘――その中心地から離れた場所に居ながらも、道長は天皇にある意味で関白よりも近い人物とのパイプを構築し、常に最新の情報を得ていた。

 

(……なるほど。流石は道隆兄上……華だけのお人ではなかった)

 

 文書内覧とは、政府から天皇へ提出される書類を下見する権利である。

 いわば天皇と政府の間のフィルターとなれる権利。実質的に行政そのものを掌握することが出来る、関白という役職が権力の頂点といわれる権利そのものといえる。

 

 つまり、この権利を譲渡するということは、実質的に関白を譲ることと同義である。

 

(これならば三度目の辞表を待たずして伊周に関白業務を譲ることが可能……それに、文書内覧の権を関白以外の人間へ与えることも歴史上先例がある。問題なく兄上の申し入れは通るだろう)

 

 だが、それでは困るのだ。

 ここで道兼ではなく伊周が勝利してしまえば、道長の計画に大きな狂いが生じてしまう。

 

 ならば――。

 

 

 そして、三月の初めに出された道隆のこの申し入れを、一条帝は受諾した。

 だが、決してすんなりと通ったわけではなかった。

 一条帝は初め、あくまでも関白の目を通してから、それを内大臣が正式に通達するという、いわば病床の道隆の代弁者に過ぎない形で了承しようとした。

 

 それに伊周が反対の意を示し、再び蔵人頭である俊賢が一条帝と伊周、道隆の間を往復しながら意見をまとめ、最終的には道隆、伊周の意が通った。これで伊周は実質的な関白と同義の権利である文書内覧の権を手に入れたことになる。

 

 だが、ここで更に一つのトラブルが起きる。

 蔵人の一人である高階信順(たかしなのさねのぶ)――伊周の母であり、道隆の妻である貴子の兄であるこの男が、宣旨(せんじ)、つまりは天皇の言葉を正式に記録しようとしている書記官の元を訪れて、こう言ったのだ。

 

 関白の病床に替わり、内大臣へ文書内覧の権を移譲する――と、記録せよと。

 だが、その場に蔵人頭である俊賢が訪れて叱責し訂正された。これは、現代で言う公文書偽造に当たる行いである。

 

 関白の病床に替わり――この言葉で記録すると、関白の病床により、正式に文書内覧の権が伊周へと移譲することが決定になってしまう。

 此度の文書内覧の権は、関白・道隆が病床の間の、あくまで代行である。

 

 高階信順――つまりは、高階一族が、道隆から伊周への権力移譲を先走った結果の愚行である。だが、これは余りに愚かな勇み足だった。

 

 公文書偽造――それも、天皇からの言葉、宣旨改竄は、天皇こそが日本の頂点であり、半ば神にも近い存在であったこの時代にとっては、余りにも畏れ多い行いである。

 

 結果、あくまでも勘違いから生まれた誤解だと信順は言い張り、正式に処罰が下ったわけではないが、高階一族がある意味、最大のタブーであるそんな行いに出たというのは、瞬く間に宮中に広がった。

 

 道隆が関白に就任して以降、露骨な特別扱いを受けて、我が物顔で宮中を闊歩していた高階一族に対する評判は最悪といっていい。その上で、今回のような愚行が広まり――道隆一族への貴族間の信頼は失墜したといっても過言ではない。

 

 しかし、評判をさておけば、権力の継承リレーの進行としては順調である。

 紆余曲折はあったものの、伊周は文書内覧の権を獲得した。

 

 ()()()、一条帝はすんなりとそれを認めようとはしないが、伊周の関白就任は目前といっていい。

 

 道隆自身の容態は悪化の一途を辿っていたが、道隆は――四月、遂に三度目の辞表を書き終え、提出した。

 

 その上、道隆は文書内覧の権に並ぶ、関白としての象徴である随身も、伊周へと譲り渡したのである。

 随身(ずいしん)とは、現代で言うところのSPに近い。この時代では護衛兵というよりも儀仗兵といった意味合いが強いが、勇壮な男達に脇を固められるその姿は、正しく権力の頂点として相応しいものであった。

 

 随身を侍らせて宮中を出入りする、文書内覧の権を持つ大臣。

 名実の実は、それで殆ど満たせるといっていいだろう。

 

 後は、名実の名を伊周が獲得するまで――己の命が持つか。

 

(……これでどうだ……道兼…………道長)

 

 道隆の風前の灯火の命、その最後の燃え上がりのような一手。

 だが、これにも、文書内覧の権の時と同様に痛いケチが付くこととなった。

 

 道隆の意を受け、一条帝へと伝えた――その返事を、伊周へと伝えるのは、当然のように蔵人頭である源俊賢である。

 

 源俊賢は道長の妻・源明子の兄妹ではあるが、これまで長年に渡って道隆勢力に属しており、道隆の力を受けて蔵人頭にまで上り詰めた男だ。

 

 だが、この時、彼が持ち帰ってきた言葉は、道隆の、そして伊周の欲したものではなかった。

 

「帝の御言葉をお伝えします。関白様におかれましては、辞任の後も随身辞退には及ばぬとのこと。近衛の府生を除くのみで、他の人員はそのまま従前通りでよいとのことです」

「了解した。――して?」

 

 伊周は前のめりになりながら問うた。それに対し、俊賢は、伊周の瞳を見ることなく淡々と答える。

 

「わが随身に関しては? 許可はいただけたのであろうな?」

「……帝が仰せられましたのは、関白様の随身に関してのみでございます」

 

 伊周は沸騰したかのように顔を真っ赤にし、俊賢の胸倉を掴み上げた。

 

「お主が今の立場にいるのは父上のお陰であろう! その恩を忘れたかッ!」

「……私は職務に則り、帝の御言葉をそのままお伝えしているのみでございます」

 

 己と一向に目を合わせようとしない俊賢に、伊周はぷるぷると手を震わせながらも、俊賢を放り投げるように離し、そして、勢いそのまま立ち上がり――部屋を出た。

 

「…………」

 

 感情のままに突き動く若き内大臣を、俊賢はそのまま冷たい眼差しで見送った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結局、伊周は己が随身を獲得することに成功した。

 

 だがそれは、蔵人を通さずに荒ぶる感情のまま単身で帝の元に乗り込み、直接に言質を頂くという前代未聞のものだった。

 

「……朕の言葉が足りなかったようだ。……内府、貴殿の随身についてだが。……前例があるのならば……望みの通りにしてもらって構わぬ」

 

 天皇に、その口から、前言を撤回させた。

 その時の一条天皇の表情は、筆舌に尽くし難いほどに――不快感に溢れていたという。

 

 翌朝にはそのセンセーショナルなニュースは瞬く間に宮中を駆け巡った。

 

 そして、当然――それは、後宮の中宮の元へも届けられる。

 

「………………ッッ!!」

 

 中宮定子は、その報せを聞いた途端、唇を噛み締め、肩を震わせて俯いたという。

 

 周りの女房達も、そんな定子を気遣しげに見詰めた。

 無理もない、と思う。臣下に直接、文句を言われ、あろうことか一度口に出した宣旨を、己が口から撤回させられるのだ。

 

 それも蔵人や関白との間のみの密話ではなく、こうして宮中にその様が広げられている。

 まさに前代未聞の恥。しかも、その恥をかかせたのがあろうことか――己の兄だというのだから。

 

 しかし、何故――と、清少納言は思う。

 

(どうして、帝は、そこまでして伊周様の関白就任を渋るのかしら……。あれほどまでに中宮様を愛しておられる帝が)

 

 定子の立場を第一に考えるのならば、父から兄へ、道隆から伊周へ関白のバトンを渡させる方が何よりも安全だ。

 

 道兼に関白の座が渡れば、道隆の権力の象徴たる定子の立場は鬱陶しいだけのものになる。

 何より、道隆や道長と違って強面の髭男である道兼は、一条帝にとっては殆ど身近に接したこともない男だ。それならば、定子と結婚して以来、家族のような付き合いを長年している伊周の方がずっとやり易いに違いない。

 

 だが、ここにきて一条帝は、露骨に伊周を冷遇している。はっきりいえば、伊周の関白就任をどうにかして防ごうと、まるで一条帝自身が躍起になっているかのようだ。

 

(……確かに、この後宮に届く断片的な情報だけでも、高階一族――貴子様のご親族の方々の蛮行は目に余るものがありますが……でも、それも、すんなりと伊周様の関白就任が決まりそうにないからこその、焦りからくるもの)

 

 一体、どこから?

 この嫌な暗雲は、一体、どの時点から漂い始めたのだろうか。

 

 清少納言は、静かに俯く中宮の姿を見遣りながら、一刻も早く、この嫌な雰囲気がなくなることを祈った。

 

(……ですが、もうすぐの筈。何はともあれ、このまま行けば、伊周様の関白就任は確実。……そうなれば……このまま、行けば……)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、その日の夜、道隆は一条帝の返事を受け取った。

 

 道隆の御簾に近づいて、床に臥せる男に報せを届けたのは、蔵人頭・源俊賢――では、ない。

 

「帝の御言葉をお伝えます。関白殿には御辞職の後にも随身辞退には及ばぬと。内府殿には、前例を十分に考慮して、然るべき随身をとのことです」

 

 御簾の中の男は、その切れ切れの息を吞んだ。

 そして、掠れる声で「……入れ」と、そう言う。

 

 帝の言葉を届けた男は、御簾の内に入った。

 その男を見上げる病臥の男の目は、赤い涙を流さんばかりに、血走っていた。

 

 死に伏せる、関白は言う。

 

「…………()()……ッ」

「……お加減、変わりありませんか、兄上」

 

 現れた道長は、ふと御簾の中を見渡す。

 既に介助なしでは身体を起き上がらせることも出来ないであろう道隆だが、この報せを受ける時には誰も近づかせないように言い渡していたのだろう、侍女の姿すらどこにもなかった。

 ただ、屋敷の奥から響いているであろう、読経の声だけが微かに伝わってくる。

 

(前情報通りだ)

 

 道長が澄ました顔でそう考えている中、道隆は呻くように言う。

 

「……どうして、お主が、帝の御言葉を私に伝えるのだ……蔵人は……俊賢は、どうした?」

「既に此度の件につきましては、宮中の誰もが知っていることなのです。()()()()()()()、瞬く間に広がりましてな。まるで疫病のように」

 

 俊賢はその混乱を抑えるのに忙しく、代わりにこうして私が参った次第――道長が足を崩して座り込みながら言った、その言葉に。

 

「…………………っっっ!!!」

 

 病床に伏せる関白は、王者としての死を迎えようとしている道隆は――絶句する。

 

(……こいつは……こいつは、()()()――! ()()()………ッ!!)

 

 己を見下ろす末弟は、中宮大夫として誰よりも己の栄華を見せつけてきた道長は――今、()()()()()

 

「み、ち……なが――ッ!」

「ご無理をなさるな。兄上も分かっておいででしょう。私が先程、お伝えした帝の御言葉――あれを聞いて、伊周がどのような蛮行を帝になさったのか。分からぬ兄上ではございますまい」

 

 それでも――道隆は。

 ゆっくりと、ゆっくりと、布団から出て、道長に向かって這い寄ってくる。

 

 道長は避けもしない。身動き一つ取らない。ただ淡々と――愉悦を混じらせながら、道隆が聞きたくない言葉を突き付けてくる。

 

「一条帝の御心は、此度の一件で完全に伊周から離れた――あなたの一族は、もう終わりですよ、兄上」

「みちながぁ――――ッッッ!」

 

 あれほど美しかった華が――枯れようとしてる。

 皮肉にも、道隆はいつかのように桜色の直衣を纏っていた。見るも無残に散りゆくようにはだけるその衣を、もはや直すことすら出来ないのか、その隙間から覗く身体は、あれほど艶やかだった肌が嘘のように痩せ細っていた。

 

「……兄上は、このような間際になってもお美しいですね」

 

 その瞳は、爛々と輝き続けていた。奥に潜むのは青い鬼火のような執念。

 似ていないと思っていた。だが、なんてことはない。

 

 ただ、隠すのが上手かっただけなのだ。

 道化の仮面を誰よりも上手く被り続けた滑稽な王者は、その執念の野心を、この死の間際まで誰にも悟らせずに隠し続けたのだ。

 

(……やはり、我らは兄弟ですね。兄上)

 

 道隆は、その痩せ細った手を道長の肩に食い込ませる。

 その細い指で、どうやってこれほどまでの力を出せるのか、そう思う程に強い力で――執念で、道隆は道長に懇願する。

 

「……頼む、道長。帝に伝えてくれ。内大臣に……伊周に、どうか関白をお与え下されと。そうしていただければ、私は……儂は――」

「兄上」

 

 道長は己に縋りつく道隆の髪を掴むと、そのまま鬼火が燃える瞳を真っ直ぐに――道隆の青い炎を呑み込む程の、黒々と業火が燃える瞳を合わせて、笑みを携えて言う。

 

「後のことは、万事この道長にお任せを。どうか、ごゆるりとお休みなされ」

 

 道隆は、つうと涙を流しながら、ぱくぱくと口を開閉させ――そのまま眠るように目を瞑った。

 

 道長はそのまま道隆を布団の中へと戻し、御簾の向こう側へと帰っていった。

 

 眠るように横たわる道隆の寝床には、再び微かに聞こえる読経だけが響き続けて――そして、その読経が止んだ頃、言いつけられていた時刻になって御簾の中へと入ってきた女中によって、道隆の遺体は発見された。

 

 藤原道隆(ふじわらのみちたか)

 父・兼家から関白の座を引き継ぎ、華やかな権勢を築いた偉大なる王者は、真に望んだものを手中に収めることなく、こうして四十三年の人生に幕を下ろした。

 

 そして、この王者の死を契機に、瞬く間に時代は動き出す。

 

 黒き炎の野心に、平安京が呑み込まれようとしていた。

 




用語解説コーナー⑪

・流行り病

 この時代、平安京では天然痘が流行していたという。
 民たちはバタバタと呪われたように死んでいったが、公卿会議に参加するような上位の貴族には流行が遅れた為、高貴な人間にはかからないという根拠不明な自信を持っていた為、この時点での貴族たちの危機感は薄かった。

 そして、この流行り病は――やがて、平安京に嵐を巻き起こすことになる。
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