比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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呪いを――ご所望ですかな?


妖怪星人編――⑫ 死の嵐

 

 人々から愛された関白・道隆の死は、宮中全体に暗い影を落とした。

 

 そして、まるで呪われたかのように、それから次々と宮中の重要人物が亡くなり続けたのである。

 道隆の死の一月前には、大納言・藤原朝光が亡くなった。そして道隆の死の一月後には、大納言左大将・藤原済時がなくなった。

 

 この三人は良い飲み仲間であったらしく「関白があの世でも飲み会がしたくて道連れにしたのだ」だとか、また済時は娘が東宮の皇子を生んでいるので「そうはさせてなるものかと関白が冥土に引き摺りこんだのだ」などと、平安時代らしく様々な理由を結び付けて噂した。

 

 だが、その頃はまだ他人事で済ませられたのだろう。

 しかしすぐに、面白おかしく噂話に花を咲かせていた貴族達も、段々とその顔色を青くしていくこととなる。

 

 何故なら、朝光と済時のどちらの死因も――平安京を蝕んでいたあの流行病だったからだ。

 

 これまで彼等は、心のどこかで思っていたのだ。自分達は貴族だと。選ばれしものだと。死ぬのは下々の庶民だけで――自分達は、神に、仏に、守られているのだと。

 

 だが、ここから先、ぱたりぱたりと貴族達が流行り病で死んでいく。

 一昨日は何々家の誰誰が、昨日は何家の誰が、明日は、明後日は――。

 

 毎日のように、一日何人も、面白いように死んでいく。

 志半ばで死んでいった関白の祟りだと、誰かが言った。そこらじゅうの家から読経の声が聞こえ出し、坊主はあちこちの家を飛び出しては次の屋敷に向かった。

 

 そして、遂に流行病の魔の手は、左大臣・源重信にまで伸びた。

 関白が死に、大納言が二人死に、そして遂には左大臣――現代で言えば、総理が死に、長官クラスがバタバタと倒れ、官房長官まで倒れ伏せるような非常事態である。

 

 一体、この先、どうなるのだと、誰もが頭を抱えて恐怖に震える中。

 

「――何故だッ! 何故、俺を関白にするという宣旨が出ないっ!!」

 

 内大臣――藤原伊周は、父・道隆の喪に服しているので、表立っては何も動けず、屋敷の中でただ畳を殴ることしか出来なかった。

 

 彼はこの時、非常に微妙な立場にあった。

 道隆の生前に勝ち取った文書内覧の権は、関白・道隆が病床の間という但し書きがついていた。つまり、道隆の死後は不透明なままなのだ。

 

 しかし、伊周も、彼を担ぎ上げる高階一族も、道隆の死後には伊周へ正式な関白への任命が伝えられるものだと思い込んでいた。

 

 だが、道隆の死後、一向に、一条帝からは何の通達もない。喪に服している立場としては、随身の時のように直接乗り込んで問い質すことも出来ない。

 

 貴子の父・成忠は財を尽くして霊験あらたかな僧を掻き集めては祈祷を行わせ「これで若の関白就任はまちがいなしじゃ」と、まるで己に言い聞かせているかのように笑っている。

 だが、その他の面々は、段々とその表情に焦りを募らせていた。

 

(父上は、私に文書内覧の権を譲る際に、道兼叔父上に氏長者(うじちょうじゃ)の証である印を手渡している……あれは、父の後継者を争うという意味では、とても大きい……ッ)

 

 道兼も、ただ黙って伊周への文書内覧の権や随身の許可などを見過ごしていたわけではない。

 彼も道隆や道長と同じく、権力の頂点の座を己が一族へと引き寄せた怪物・藤原兼家の息子なのだ。政治的な手練手管は兄や弟に勝るとも劣らない。

 

 そういった意味では、氏長者の印を現在所有する道兼は、権力を引き寄せた兼家の一族・藤原北家の、現在の最高位者と声高に主張出来る立場を獲得している。

 

(探らせた部下によれば、道兼叔父上の屋敷には日ごとに訪れる客人が増えているという……平安貴族は優柔不断が多く、勝つと確信した者以外には決して擦り寄らない……つまり――このままでは、まずい……ッ)

 

 だが、屋敷から出られない伊周には何も出来ない。

 否――自分の生まれ持った華という武器以外は、戦い方を何も知らない伊周には、どうしたらいいか分からなかった。

 

 これまでは口を開けているだけで、親鳥である道隆が何でも持ってきてくれたということに、伊周はこの時に至っても、未だ気付いていなかった。

 

 

「――こんなにも、簡単なのか」

 

 道兼は来客が落ち着いた深夜、自身の屋敷で、道長と二人で酒を飲んでいた。

 

 あれほど熾烈な戦いを繰り広げていたというのに、道隆が死んだ途端、あっという間に流れを引き寄せることが出来た。そして、その流れは留まる所を知らない。このまま最後まで持っていけそうな勢いだ。

 

 道兼は拍子抜けといった呆れを隠さない。

 そんな兄に、道長は酒を注ぎながら言った。

 

「相手は、初めから道隆兄上であり――伊周ではなかった。ただ、それだけのことでしょう」

「お主は伊周に手厳しいな。そんなにあの甥が好かんか」

 

 次いで、道兼が道長の杯に酒を注ごうとする――が、道長はそれを遠慮し、残っていた僅かな酒を一気に飲み干して、吐き捨てるように言った。

 

「ええ。――嫌いです」

 

 そして、道隆の死後から、およそ一月後。

 一条天皇から藤原道兼へ――関白就任の(みことのり)が下った。

 そして、翌日には正式に藤原氏の氏長者にも任じられた。

 

 名実共に、藤原道兼が、藤原道隆の後継者の座を手に入れたのである。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「何故だッ! 何故だ何故だ何故だッ!! 何故、父上の後継が()ではないのだッ!!」

 

 突然、後宮を訪れてそう喚いた伊周は、中宮定子に向かってそう吠え立てた。

 周囲の女房達は唖然としている。それほどまでに、伊周は異様な様相だった。

 

 あれほど華やかに整えられていた容貌が嘘のように乱れている。

 髪は幾度も掻き毟ったであろうことが透けて見えるようにぼさぼさで、目の下には濃い隈、そして目はぎらぎらと血走っている。

 

「な、内府様。今、中宮様は喪に服しております。それは内府様も同じでいらっしゃる筈――」

「どけッ!」

「きゃあ!」

 

 異様な伊周と中宮の間に入った宰相の君はそう言って伊周を宥めようとしたが、伊周は宰相の君を突き飛ばし、そのままずんずんと中宮の元へと近寄っていく。

 

 清少納言は宰相の君を受け止め「誰か! 伊周様をお止めして!」と叫んだが、伊周の異様な迫力と恐ろしさに誰も動けなかった。

 

 そして、伊周は定子の目前に迫り、唾が飛びそうな程に大声で喚き散らす。

 

「何故だ。どうして帝に、俺を関白にせよと申さなかった」

「伊周様! お言葉が不敬ですよ! この方をどなたと心得ているのです!」

「中宮――そう、お主は中宮であろう、定子。お主の言葉ならば帝の心など容易く動かせた筈だ」

 

 清少納言は伊周の言葉遣いに叫んだ。

 例え親子であろうと、兄妹であろうと、天皇の中宮となったからにはそこには主従関係が生じる。当然、内大臣・伊周は中宮・定子を敬わなくてはならない立場だ。関白であった道隆ですら、例え、身内しかいない後宮の中であろうと、そこは最後まで崩さなかったのだ。

 

 しかし、今の伊周はそのことが頭から吹き飛んでいる。

 だが、言葉遣いに関しては見逃しても、最後の言葉は定子も看過できなかった。

 

「容易く動かせる? 帝の御心を、私が? 取り消しなさい、兄上。例え兄上であろうと、帝を軽視することは、この私が許しません」

「何を許さないというのだ。中宮としての責務を何一つ成し遂げていないお主が。帝を正しく導くことも――帝の子を産むことすら出来ていないお主が!!」

 

 伊周は決して言ってはならないことを言った。

 先程まで伊周の異様な様子に恐怖していた女房達が、一斉に伊周に向けて殺意に近い敵意を向ける。

 

 清少納言は、思わず中宮を見遣った。

 そこには、これまでどんな時も――父・道隆が逝去した際にも毅然とした態度を崩さなかった中宮定子が。

 

 まるで、どこにでもいる年相応の町娘のように、泣きそうに傷ついた顔をしていた。

 

「そうだ――そもそもお主がさっさと帝の子を孕んでおれば! 男児を――皇子を産み落としていれば、こんなことにはならなかったのだ! 全てお前のせいだ! この出来損ないの中宮めが!」

 

 清少納言は頭が沸騰するのを感じた。

 音が消え、視界が真っ赤に染まった。我を忘れ、激昂していたのだと、清少納言が自覚するのは、このほんの数瞬後だった。

 

 ぱぁんという乾いた音で我に返った。

 そこには、激昂した清少納言を見て――それより先に伊周を引っ叩いた、中宮定子がいた。

 

 さらに、我に返ったのは、清少納言だけではなかった。

 

「な、なにをする! 俺を誰だと――ッ!?」

 

 伊周は、その時、ようやく我に返った。

 己が関白に選ばれず、道兼が関白に就任した、その報せを聞いてから――初めて、我に返ったのだ。

 

 そして、ようやく気付いた。

 自分が今の今まで聞くに堪えない暴言を喚き散らしたのが、誰か。

 じんじんと痛む己の頬を打ったのが、誰か。

 

「……ぁ……いや、これは――」

 

 思わず後ずさった伊周は、誰かにぶつかり、振り返った。

 そこにいたのは、表情を消して、伊周を真っ黒な瞳で見据える――清少納言だった。

 

「っひ!」

 

 伊周はようやく周囲に目を向けた。

 自分が突き飛ばした宰相の君を初め、これまでのような熱っぽい憧れの視線ではない、本気の嫌悪と、殺意に近い敵意を剥き出しで伊周を睨み据える、中宮の女房達に囲まれていたのだ。

 

「――――ッ! 失礼します!」

 

 一応は敬語に戻ったが、結局、ただの一度の謝罪もなく、伊周は逃げ出すように後宮を後にした。

 後に残ったのは、居心地の悪い、気持ち悪い空気だけ。

 

「…………あんな人だったのですね」

 

 誰かがぽつりと呟いた。

 後宮ではこれまで、藤原伊周は、比喩ではなく文字通り王子様のような扱いだった。

 

 道隆という王者の息子であり、自分達にとって姫のような存在である定子の兄。

 見目も麗しく華もあって、和歌や漢詩などの芸術にも長けている。

 

 伊周の言葉ではないが、ここにいる女房達は、いずれ彼が道隆の後を継ぐのだと、信じて疑っていなかった。

 

 だが――今。

 伊周の誰も見たことのなかった顔に、全員が嫌悪と失望を隠せていない。

 

 定子はそんな女房達に向けて「……身内の、見苦しい姿を見せましたね」と言って座り込む。

 

「……伊周様の、あの御姿は――」

「……良くも悪くも、兄は父に影響を受け過ぎたのです。そして父は、いい父ではありましたが――いい上司では、なかったということでしょう」

 

 宰相の君の言葉に、定子はただそう言って、その細い指で頭を抑えた。

 その姿に、女房の誰も、それ以上、中宮に問いを重ねるものはいなかった。

 

(……伊周様は他の貴族からは覚えが悪いとは聞いていたけど……先程の姿を見るからに、さもありなんといったところかしら)

 

 物怖じしない性格から、他の貴族の男との窓口係を務めることが多い清少納言。比較的に宮中の貴族と会話をすることも多い彼女は、前々から伊周の宮中の評判を、その耳で聞いてはいた。

 

 父譲りの華とカリスマ性から同年代の支持率はそれなりに高い伊周だが、年上の他貴族からの評判はすこぶる悪いのが特徴だった。

 

 その理由も、先程の蛮行を見て、ようやくその理由が分かった。

 伊周は本気で、自分が関白を継げると信じて疑わなかったのだろう。そして、それが叶わなかった理由が――自分にあるとは、まるで思いもしていないのだ。

 

(いい父ではあったけれど、いい上司ではない――か。これまできっと、自分がどれだけ道隆様に救われていたのか、あの方はその自覚すらない)

 

 もしかしたら、内大臣まで上り詰めたのを、本気で自分の才覚によるものだと思っているのかもしれない。もしそうだとすれば、自分達が甘い汁が吸えているのは道隆と定子のお陰だと、曲がりなりにも自覚のある他の高階一族の方が、まだマシなのかもしれないくらいだった。

 

 清少納言は、その日の夜、他の女房達が寝静まった後、中宮に話し相手として残るように言われた。

 中宮から、いわゆる愚痴のようなものを聞かされるのは、これが初めてのことだった。

 

「……帝からは、何度も謝られたわ。……でも、あのお優しい帝からすら、既に兄上達は見放されているのよ。……政闘に負けたからというだけじゃない。ただ単純に、関白を務めるだけの能力がないと、兄上は帝から判断されているの」

 

 若く、感情に流されやすい、自己を取り巻く環境すら理解出来ていない二世。

 それが藤原伊周という人物に対する、帝の、ひいては宮中の人物評だった。

 

「同じ華を武器にするのでも、父上と兄上ではまるで違う。父上は計算で道化を演じていたけれど、その裏ではとても冷静で冷徹だったわ。……でも、兄上は違う。父上の道化の仮面を、関白たる姿だと、人の上に立つ者の姿だと心から信じてしまっている」

 

 華や雅だけでは王子としては持て囃されても、王にはなれない。

 あくまでそれは人心掌握の術であり、その裏で大局を、そして何より自分を俯瞰で見ることが出来なければ、頂など立てる筈もない。

 

「伊周様は……これからどうなるのでしょう」

 

 清少納言は、そう問いかけた。

 それにはこれから中宮はどうなるのか、そして、中宮は伊周をどうするつもりなのか、様々な意味が込められていたが。

 

 中宮は、ただその言葉に、小さく笑って――こう答えた。

 

「私は、中宮としての責務を全うする。ただ、それだけよ」

 

 そこには年相応に傷ついた少女はおらず――顔を上げたのは、偉大なる女王としての中宮だった。

 

 清少納言は、その余りにも痛々しく、そして誇らしい姿に、涙を堪えて頭を下げることしか出来なかった。

 

 そして、この時、まだ誰も気付いていなかった。

 道隆の死。伊周の敗北。道兼の悲願達成。

 

 そのどれもが、まだ始まりに過ぎないことに。

 平安京を包む黒い野心の炎は、まだまだ渦を増しているのだということに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その頃、自邸に戻った伊周は、当たり散らしてボロボロになった部屋の中に引き籠っていた。

 すると伊周の部屋を、祖父・高階成忠が訪れる。

 

「――若」

「……なんだ、爺。今は人に会いたい気分ではない。一人にさせてくれ」

 

 明かりも灯さず、真っ暗な部屋の中で座り込んでいた伊周の制止の声も聞かず、老爺は孫の部屋の襖を開ける。

 

「――っ! 俺は誰にも会いたくないと申した――ッ!?」

 

 伊周は反射的に手に掴んだものを投げつけようとしたが、途中で椀を持って振りかぶった腕を止めた。

 

 そこには、声を掛けてきた成忠だけでなく――もう一人、老爺がいた。

 

「……爺。そやつは誰だ」

「我らをお救い頂ける、救世主にてございます」

 

 成忠はそう言って跪き、頭を下げた。

 だが、もう一人の老爺は内大臣を前にしても頭を下げず、ただニタリと笑って、こう囁く。

 

「呪いを――ご所望ですかな?」

 

 伊周は、月光を背に浴びる、影が濃く、闇が深い老爺に、目を細めてこう尋ねる。

 

「――もう一度、問おう。お前は誰だ」

(それがし)は、人を呪うことしか取り柄のない、しがない、しがない――」

 

 そこで老爺は初めて深々と頭を下げた。

 しかし、膝は折らず、下げた頭も――伊周から見えない真っ暗な影の中で。

 

 口角を吊り上げ、愉悦に歪ませて――怪物のように、嗤っていた。

 

「――ただの、陰陽師にございまする」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 いよいよ明日、藤原道兼の関白就任式が行われるという、その日。

 

 この日も道兼の私邸である二条邸は入りきらんばかりの来客で満ちていて、道兼は一日中来客に追われていた。

 

「……ずいぶんとお疲れの御様子ですね」

「ああ、そう見えるか。流石にこう毎日だとな。嬉しい悲鳴というやつだが」

「いよいよ明日が本番です。今宵はごゆっくりお休みを。祝酒はこの一杯だけにいたしまししょう」

 

 明日はたんまりと呑まれるでしょうしね――そう言って道長は、いつかのように道兼の杯に酒を注いだ。

 道兼は己の身体を気遣う弟の言葉にはにかみながら「……それにしても、お主に注がれる酒をこれほど飲むことになろうとは。一昔前には考えられなかったな」と上機嫌に呷る。

 

「天の采配というものでしょう。私もまさか道隆兄上がこれほどまでに早くお亡くなりになってしまうとは思いもしなかった。それだけ、道兼兄上の天運がお強かったということ」

「可愛くない弟だ。私は天の力でここまで上り詰めたわけではない。私は欲しい物を、ずっとこの手に収めたかったものを、己が力で手に入れたのだ」

 

 そう言って道兼は、天に向かってその毛むくじゃらのごつい手を掲げる。

 道長は「……そうですね。本当に欲しいものは、天ではなく、己が力で手中に収めねば。道兼兄上はそれを成し遂げた。弟として、本当に誇らしく思います」と、己の杯の酒を呷る。

 

 道兼は道長の言葉に気をよくしたのか、再び勢いよく酒を呷る――が、今度は途端に噎せ返り、ごほっごほっと具合の悪そうな咳をした。

 

「……どうやら本当に具合が悪いご様子。明日は大切な日です。今日はここまでに致しましょう」

「……あぁ。どうやら思った以上に疲れが溜まっているようだ。俺も若くないな」

「何をおっしゃいます。これからでしょう」

 

 道兼兄上の天下は、明日から始まるのです――そう言って、道長は小さな椀に酒を移し、掲げる。

 

「……ふん。お主も可愛い弟らしいことが言えるではないか」

 

 そう言って道兼も同じく小さい椀に酒を移し、兄弟はそれをカツンと合わせ、くいっと最後の酒を飲んだ。

 

 では、私はこれでと、早めに退散しようとした道長に、立ち上がって寝床に向かおうとしていた道兼は、これまでの人生でずっと、隠すことなく常に浮かべていた、ギラギラとした牙を剥いた獣のような笑みを、遂に消し去り――穏やかな、満ち足りた笑みを浮かべて言う。

 

「道長。これからも、よろしく頼む」

 

 その顔は――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 今宵、顔を合わせた時から、これまでずっと、道兼の様相はみるみる悪化の一途を辿っていた。道長は、それを一切口に出すことなく、寝床に向かう道兼を見送った。

 

(変わられたなぁ、道兼兄上。あなたはずっと、どこまでも分かり易い獣であったのに)

 

 剣山を纏っていたかのような野心家の獣も、あのような満ち足りた人間のような笑みを浮かべることが出来るのかと、道長は苦笑した。

 

 道隆のように長く権力を謳歌することは出来なかったが、ある意味では道兼は長兄よりも幸せなのかもしれない。

 念願の頂点に立った、その絶頂の瞬間のまま――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「どうか、よい夢を。道兼兄上」

 

 道長は誰にともなくそう呟いて、二条邸を後にした。

 

 

 

 明くる日――藤原道兼は、関白就任式、その最中に、病に倒れた。

 

 関白就任の挨拶も、蒼白とした顔面を晒しながら荒い息だけを途切れ途切れに漏らすだけで、何も残すことも出来ずに、そのままゆっくりと沈み込むように倒れ伏せた。

 

 そして、そのまま二度と起き上がることは出来なかった。

 だが、その後、道兼は七日間に渡って苦しみながらも生き続けた。ただ一度も目を覚ますことなく、まるでずっと関白就任の挨拶を続けるように――念願の関白の座に、しがみ付くように。

 

 そして、その後、関白就任の夢を見続けながら、関白就任式から七日後――藤原道兼はこの世を去った。その余りにも短い王座は、後世に七日関白として、皮肉にも道兼の名を永久に語り継ぐ伝説となった。

 

 

 その成果に、誰よりも狂喜乱舞している者達がいた。

 

「やっった!!! 死んだ、逝ったぞ!! 俺から関白の座を奪いやがった道兼が!! こんなにも呆気なく!! あんなにも無様に!!!」

 

 内大臣・伊周は、真っ暗な自邸で小躍りしながら笑っていた。

 それを後押しするように、祖父・成忠入道が――そして、真っ黒な陰陽師が気持ちよく煽る。

 

「これで若の関白就任を邪魔するものはおりますまい」

「ああ。これで俺の天下だ」

「ようやく、亡き道隆殿の無念が晴らせますな」

「ああ。これが本来の正しい形なのだ」

 

 そして伊周は、隈で黒く窪んだように見える瞳をぎょろりと陰陽師へ向けると。

 

「お主は正に我らの救世主であった。褒めてつかわす」

 

 真っ黒な陰陽師は、恭しく頭を下げる。

 

「勿体無き御言葉」

 

 

 藤原道兼の死因は、大方の予想通りに京を蝕む流行り病だった。

 京を混乱の渦へと突き落とした死の嵐は、次々と高貴な者達を餌食にしていく。

 

 結果、たった半年の間に、前関白・藤原道隆、左大臣・源重信、前右大臣にして新関白・藤原道兼、大納言・藤原朝光、藤原済時という、この国の上層部の、その大半の人間が逝去した。

 

 そして、六月――伊周の異母兄である、権大納言・藤原道頼が逝去した。

 道長と同じ位にいた藤原道頼が亡くなった――これにより。

 

 この国の上層部は――権大納言である()()()()()()()()()()()()()

 内大臣・藤原伊周を除いて――()()()()()()()()()

 

 全員が、亡くなった。

 まるで道長へ、その道を開けるように。その位を空けるように。

 

 藤原道長へ、天下を、明け渡すように。

 

 そして――土御門邸。

 妻の倫子が見詰める中、道長は己が掌を月へと向ける。

 

 まだ何も掴めていない手。だが、ようやくその目に、月が見える所までやってきた。

 

 道隆は死に、道兼も死んだ。

 常に己の頭上に壁として存在した偉大なる兄達は――遂に、乗り越えた。

 

 残るは、一番の強敵――最強、最大の壁。

 ここだと、道長は己を叱咤する。

 

「さて――勝負所だ」

 

 道長は、虚空を握り締める。

 この空っぽの手の中に――真に己が欲するものを収める為に。

 

 今、黒き炎が渦巻く宮中で、世紀の大勝負が行われようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 未曽有の大恐慌、その真っ只中であった平安京。

 関白就任直後に急逝した道兼、続いて他の官僚も続々と倒れ、完全に政治機能が麻痺する中――これで己が関白就任は間違いないと確信し、思考停止したかのように狂喜乱舞する伊周ら高階一族を他所に、この日。

 

 一条天皇の元を訪れたのは、白い尼服を纏う女性だった。

 

「我が弟、道長こそが、次なる関白に相応しい人材です。帝よ、この母の言葉を、どうか聞き入れてくださいますよう」

 

 若き王は、余りにも重く放たれる母の言葉に、思わず小さく呻き声を上げた。

 

 女は政治に関わるべからず。

 これが、この時代の内裏の常識であった。

 政治は男の仕事、女は仕事に口出しするなといえば、ほんの最近まで日本という国に染みついていた慣習ではあるが――何事にも例外は存在する。

 

 それでいえば、東三条院詮子――彼女こそ、この時代での大きな例外であった。

 道隆、道兼、道長と同じく、先々々代の関白・藤原兼家の子にして、一族に権力を齎した最大の功労者。

 

 彼女が円融帝の女御となり、一条帝を生んだからこそ、彼女の一族が栄華に至り、関白職を独占し続けているのである。

 

 だが、彼女は子を生んだものの円融帝の愛を勝ち取ることは出来ず、中宮の座を得ることは終ぞ叶わなかったことで、長き苦悩の時代を生き続けた。

 

 つまりは、定子の鏡合わせのような女王なのである。

 帝の愛を獲得することは叶わずとも子を産むことには成功し、一族に繁栄を齎した詮子と。

 帝の愛は独占しながらも子を孕むことは叶わず、一族に敗北を齎してしまった定子。

 

 だが、一条帝にとってはどちらもかけがえのない、妻であり、母である。

 

 一条天皇は苦悩した。

 確かに、母の言葉には大きな理がある。一条帝も伊周に関白職が務まるとは思えない。ここで高階一族に再び権力を与えるような真似をすれば、ただでさえ瀕死の政府に止めを刺すことになるとは分かっている。

 

 だが、ここで――道長を選べば。

 止めを刺されるのは――政府の代わりに、この国に代わりに、致命的なダメージを負うのは。

 

「――帝」

 

 詮子はより強く、一条帝を見据える。

 母の勘は、今、一条帝の頭の中に誰がいるのかを正確に見抜いていた。

 

 自分の言葉を何でも聞いてくれた子供はもういない。

 それに寂しさを感じないと言っては嘘になるが――ならば、母として子に、ではなく、一人の臣下として王に、真っ直ぐに、心からの忠言を。

 

「本当に守るべきものは何なのか――それを見誤りなされるな」

 

 一条帝は――長く、長く沈黙した。

 

 やがて夜になり、逃げるように寝床へ入ったが――詮子は逃がさなかった。

 通常は后しか入ることの許されない帝の寝所に、自ら強引に入り込んでまでも、一条帝を無言で睨み続けたのだ。

 

 そして、夜が明ける。

 一条帝よりも先に御簾を潜り抜けてきた詮子は、その場に控えていた蔵人に向かって、こういった。

 

「――宣旨(せんじ)が下りました」

 

 この日、藤原道長は――右大臣へと就任した。

 関白不在の平安京にて、人臣最高位へと上り詰めたのである。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 畳を貫くような勢いで、伊周は拳を振り下ろした。

 

「馬鹿なッ!! 俺ではなく、道長がっ!? どうなっているんだふざけるなッッ!!」

 

 平安貴族の序列としては、関白、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、権大納言という順になる。

 だが、現在、関白、左大臣の位は空席となっている。そこに、権大納言であった道長が、大幅に序列を上げて右大臣へと上り詰めたという報せが入った。

 

 これにより内大臣である伊周よりも、名実ともに上位に立たれたことになる。

 

「それに加えて、文書内覧の権も道長のものだと!? ふざけるな! それではまるで――」

 

 関白ではないか、という言葉を、かろうじて伊周は呑み込んだ。

 だが、憤懣やるかたない伊周は激しく鼻息を荒げ、肩を上下させる。目はギラギラと血走り、消えることのない隈はますます濃くなるばかりだった。

 

 伊周のものであった文書内覧の権は、道兼が関白にと正式決定されたその日から取り上げられている。随身も既に失っており、伊周はまさしく裸の王様――裸の元王子様といった風体に成り下がっていた。

 

「……認めぬ……認められるか、こんなことが! 女院もだ! 女が政治に口を出すなど、恥ずかしいとは思わぬのかッ!!」

 

 かつて定子にどうして帝に自分を関白にせよと言わなかったと(いか)ったことを大いに棚に上げながら、伊周は畳を足蹴にする。

 

 そんな伊周を、祖父・成忠は顎髭を撫でながら「まだ諦めるのはお早いですぞ、若よ」と宥める。

 

「七日で死ぬ関白も居りました。此度も――死んでもらえばよいではありませぬか」

 

 成忠入道の言葉に「――そうか。そうだな。それがいい」と、伊周は不気味な笑みを浮かべた。

 

「――出来るか? 陰陽師」

「そうですなぁ。道長殿は道兼殿と違い、若く、健康であらせられます。流石に七日とはいかぬかもしれませぬが――」

 

 黒き陰陽師は、その表情を見せぬまま、恭しく頭を下げて、言う。

 

「――死んでいただくことは、可能かと」

 

 伊周はその言葉を聞いて、ますますその笑みを深めながら言う。

 

「では、呪え。存分にな」

「御意」

「そうですぞ。若こそが、道隆殿の後継者に誰よりも相応しいのですから。それに――」

 

 他にもまだ手はありまする――成忠はそう言って、伊周に囁く。

 

「子です。定子様が皇子を産めば、その皇子の摂政、関白となるのは伊周様、あなた様なのですから」

 

 正義は必ず勝つのです――そう言って、真っ暗の部屋の中で、三人の黒い男達は嗤った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 まだ勝負は決まったわけではない――そのことは、無論、藤原道長も理解していた。

 

 権大納言から右大臣となり、宮中の頂点に上り詰めた道長は、長年被り続けていた平凡児の仮面を外し、その覇気を最早隠そうとはしていなかった。

 

 藤原北家の氏長者の証も道兼から引き継ぎ、錚々たる随身を引き連れながら応天門を潜る。

 

 その王者たる様に、道長に道を譲る貴族は畏怖の面持ちを見せていた――が。

 

「浮かない顔だな、右大臣」

「……これは元々だ」

 

 人気が少なくなると、そんな道長の元に一人の軽薄な男が近寄ってくる。

 藤原公任――道長と同い年の彼は、道長の眉根に寄る皺を揶揄しながら言った。

 

「ここまでは順調そうに見えるが? 何がそんなに不満なんだ」

「これは元々だと言っている。……それに、ここまではいわば予定調和なのだ。順調でなくては困る。勝負はこれからだ」

 

 年寄達も不満なようだしな――と、道長は道中に己に道を譲っていた彼等の顔を思い出す。

 

 確かに、伊周はいけ好かない若造として同僚貴族達から大層に嫌われていたが――かといって、道長が支持を集めているかといえば、そんなことはない。

 

 伊周は二十二にして内大臣に抜擢され批判を浴びた――が、道長も三十で右大臣、それも現在の人臣最高位だ。他のベテラン貴族からしたら面白い筈がない。若い世代が台頭するということは、当然、自分らの地位が脅かされるということなのだから。

 

 ただ単純に、これまで悪目立ちしていたか――雌伏していたかの違いでしかない。

 そして、道長は雌伏するのを止めた――台頭を始めた。つまり――これからだ、というわけだ。

 

「それに、問題は山積みだしな」

 

 ただでさえ政治的に崩壊しかけている状況での引継。

 流行病の猛威は依然、留まる所を知らず。毎日のように市政では火事(ボヤ)騒ぎが起き、街は死体で溢れ返っている。

 

 それに――何より。

 

「伊周はこれで終わると思うか?」

「あんな青二才などどうでもよい」

 

 道長はそう吐き捨て、歩調を早めて公任を置き去りにする。

 そして、去り際にこう言った。

 

「俺の敵は、もっと大きく、もっと怖い――油断できぬ相手だ」

 




用語解説コーナー⑫

藤原道兼(ふじわらのみちかね)

 藤原兼家の三男に生まれ、兄・道隆や弟・道長と違って、毛深く髭も濃い醜い容姿をしていた。常に瞳をぎらつかせて、これもまた兄や弟と違い野心を隠そうとしない男であった。

 だが、その才覚は確かであり、父・兼家の意を受けて花山天皇を唆し、出家・退位させた実行犯は他でもない、当時、花山帝の蔵人であった道兼である。

 しかし、その手柄があったにも関わらず、自身ではなく道隆が関白の座を継いだことに不満を燻らせており、そこを道長に利用された。

 道隆が病死後、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死し、「七日関白」と呼ばれている。



 本編で余り活躍させられなかったので、特別に道兼個人解説コーナーを作ってみた。
 もっと活躍させたかったが、ここで道兼ルートの話も膨らませてしまうといい加減に過去編の過去編が長すぎて(今でも十分長いのだが)しまうので断念。

 俺も出家するから一緒に出家しようぜ! と花山帝を唆して直前で裏切る所とか。
 兼家の死後に自分ではなく道隆に権力を継げられたことに拗ねて、父親の喪中をぶっちぎって宴会を開いちゃう所とか。
 父親の妹(つまり叔母)を犯して奥さんにしちゃう所とか(ちなみにこの人と道兼の子は、fgoの平安京エピで玉藻の姿で登場している尊子)。

 中々に濃いエピソードをお持ちで。人徳で権力を集めた兄や、天運が味方した弟と違い、冷酷な性格でギラギラと尖り続けたまま我武者羅に権力を狙い続けた所とか、キャラとして非常に好きだった。死に際も劇的だし。

 彼だけでも物語が一つ作れそうだったのだが、今回は中々うまくスポットライトを当てられなかった。

 というか、道長一族はこの過去編を執筆するにあたって色々と調べたら調べるほど、どいつもこいつもいいキャラ過ぎて好きになる。彼ら彼女らの人生そのものが物語だ。

 道隆も、道兼も、姉の詮子の人生もまた物語として面白い。

 けれど――やっぱり、この過去編の過去編の主人公は、道長であり、清少納言であり。

 そして――これは、彼女の物語だ。
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