比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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どうして――こんなことに、なったのだろう。


妖怪星人編――⑬ 馬鹿な子供

 

 では、努々(ゆめゆめ)、お忘れなきよう――そう言って伊周は、後宮を去っていった。

 

「……よく、毎度毎度、堂々と顔を見せることが出来るものです」

 

 宰相の君は独り言といった体で、けれど皆に聞こえるような音量で呟いた。

 本来であれば伊周のような立場のものに対しては不敬極まりないが、けれど誰もそれを咎めなかった。この場にいる全員の心の代弁だと分かっていたからだ。

 

 ここの所、伊周は余りにも頻繁に後宮へと顔を出していた。

 そして、決まって言う言葉は「帝の寵愛を獲得しろ」だった。

 

(ようは一刻も早く帝の子を産め――と。直接そう言わないだけ、あの方の理性も戻ったということかしら。ほんのちょっとでしょうけれど)

 

 少なくとも、自分の言動がどれだけデリカシーに欠けることなのか、そして、そんな自分がどれだけ冷ややかな目で見られているのかを自覚できる段階には、まだ程遠いらしい。宰相の君の言葉通り、こうして恥知らずにも何度も後宮へ出入りすることが出来るのが何よりの証拠だ。

 

「焦っておられるのでしょう。この間も随分と、右大臣様と口論をなさったようですし」

 

 中納言の君はそう冷ややかに言った。その件に関しては、清少納言の耳にも入っている。

 

 その内容は伊周の言いがかりに近い物言いで、騒ぎ立てたのも伊周であり、道長はそれをひらひらと受け流すといった――煽っているともいう――ものだったらしい、が、それを年寄貴族らは、道長の統率力不足という形で流布しているらしい。

 

 ある意味で狙い通りに道長の評判を落とす結果に繋がってはいるが、同時にそれ以上に自分の身と評判を削っているので、費用対効果としてはどうなのかと思わなくもない。

 

(まぁ、そもそも、伊周様の評判は今以上に下がりようがないので、ある意味で理に適っているのでしょうが)

 

 清少納言がそう心中で吐き捨てると、「気分が悪くなる話題はそこまでにしましょう」と、中宮の涼やかな声がその場に響き渡った。

 

「私のやることは――私達のすべきことは、何も変わりません。これまで通り、今まで以上に――私達らしく、いましょう」

 

 清少納言は、今、再び感服する。

 あれほど刺々しくぴりついていた後宮の空気が、定子の言葉と微笑みだけで、あっという間にいつもの穏やかさと温かさを取り戻した。

 

(そう……そうよ。いつも通りでよいのだわ。伊周様の思惑に乗るようで癪だけれど、そもそもそんな心配はいらないのよ。中宮様は、これ以上ないほどに、既に帝の御心を掴んでらっしゃるのだから)

 

 それは、この場に居る者ならば誰でも分かる。

 道長が右大臣になってから奇しくも、一条帝はこれまで以上に定子の元へ通う頻度は増している。

 

 そして、女ならば誰でも分かる。その際の一条帝の、定子を見詰める瞳が、どれだけ温かい――熱い、愛で満ちているか。そして、それに応える、一条帝へ向ける定子の瞳にも。

 

(これまで通り――愛する方に、ただ一人の相手として、最大限に愛される。中宮様は、それを誰よりも、その身で体現なされている)

 

 そんな愛する二人の元に――子が贈られない筈がない。

 いつか必ず、中宮は一条帝の子を産むだろう。そうなった時――最後に勝つのは誰か、清少納言は信じて疑わない。

 

 定子の戦いは、いつか必ず報われる。

 そう、彼女達は信じ抜いていた――だからこそ。

 

 それを、誰よりも近くで見ていたものは――それを何よりも脅威に感じていた。

 

 だからこそ、彼は――そして、彼女は。

 お互いを、最も恐ろしい敵だと、ずっと前から認識し合っていたのだ。

 

 そして、その年の夏、大量に空席が生まれた各役職が整理された。

 

 公卿へと出世を遂げた源俊賢に代わり、蔵人頭(くろうどのとう)も新たにされたのだ。

 

 その後釜に座った男の名は――藤原行成(ふじわらのゆきなり)という。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 後に一条帝の半身とまで呼ばれる程に信頼を勝ち取ることになる行成が、中宮へ初めて挨拶する為に後宮へと訪れた際、御簾の内側で共に応じたのが清少納言だった。

 

 行成は幼い時に有名な歌人であった父を亡くし、以来、後盾もないまま厳しい貴族社会を戦い抜いてきた男だ。その実直な仕事ぶりで評価を徐々に上げていき、遂には俊賢が、自分が死に物狂いで獲得した蔵人頭の後釜を、太鼓判を持って継がせる程の人材となった。

 

「彼は間違いなく、帝の優秀な手となり足となるでしょう」

 

 その大層な評判を、清少納言は中宮経由で前以(まえも)って聞き及んでいた。

 そして、実際に相対した行成の第一印象は――可愛くない若者、であった。

 

(よく言えば真面目、なのだろうけれど……)

 

 無駄口も叩かず、話す言葉はただただ無機質な事務連絡のみ。

 優秀な歌人の息子という前評判から、他の女房から風流な言葉遊びを投げ掛けられるも、そのどれもをすんと無視している。

 

 脇目もふらず仕事のみを行う、というのも日本人らしい生真面目さといえるが、こと貴族社会、それも後宮ともなれば、風雅な遊び心は必須ともいえる。それも、有名な歌人の子といった評判が立っているのだから、自分の歌才を出し惜しみこちらを下に見ていると取られてもしょうがないのだ。

 

 そんな同僚達の空気を察し、清少納言は行成にこう冷ややかに皮肉を言う。

 

「新しい蔵人頭の方が、とても風流な御方で我々も嬉しいです」

 

 だが、行成は一切表情を変えず、ただ淡々とこう返した。

 

「色も分からぬ者が描く絵ほど、滑稽なものはございません」

 

 その答えに他の女房達は失望を隠せなかったようだが、清少納言だけは違う受け取り方をした。

 

(……ああ。この御方は、私なのだ)

 

 優秀な父を持つが故に、自分の才が恐ろしく鈍いものに思えてしまう。

 きっと、ずっと己を恥ずかしく思いながら生きてきたのだろう。

 

 その後、案の定、他の女房に嫌われた行成は、後宮を訪れるたびに清少納言を聞き役に指名することとなる。

 こうして清少納言は、新たなお得意様を得ることになった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ある日の夜――土御門邸に来客があった。

 それは傍目でみれば何もおかしなことはない光景であっただろう。

 

 右大臣――人臣最高位の男の元に、蔵人頭が訪れた、ただそれだけなのだから。

 

「ふっ。そうか。随分と女房達に嫌われたか」

「……ですから申したのです。私のような人間は、あの場所には合わぬと」

 

 道長は面白そうにくつくつと笑う。杯に酒を満たし、月を見上げながら、大層に機嫌がいい様子だった。

 

「まあよい。清少納言とは仲良くなれたのだろう? むしろ、これで彼女を指名するよい理由となったではないか。あの場所では彼女とだけ交流を図れればよい」

「……どうして、彼女なのですか?」

 

 確かに清少納言は中宮定子のお気に入りとして名を馳せているが、中宮の女房と言えば宰相の君や中納言の君の方が有名だ。職歴も長く、女房としての序列もまだ彼女達の方が上だろう。

 

 だが、中宮大夫として、彼女達を誰よりも近くで見てきた男は一蹴する。

 

「決まっている。清少納言こそが、中宮様の番人であり、半身だからだ。――いずれは帝にとっての彼女に、お前がなってもらうぞ、行成」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――道長の言葉に、行成は無表情で頭を下げて言う。

 

「……父亡きこの身を重用してくださり――蔵人頭などという、身に余る大役を任じて下さった御恩。この行成、生涯をかけてお返ししとうございます」

 

 行成は道長の父・兼家の兄にあたる藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の孫だった。

 その繋がりから道長は、早くからこの優秀な人材に目を付けていたのだ。

 

「相変わらず固い男だ。なに、そんな主に腹芸など期待しておらぬ。お前は何も考えず、蔵人頭の役職を、ただ全力で全うすれば、それでよい」

 

 道長は、行成へ笑みを向けて言う。

 

「一条帝も、中宮定子も、お主が忠誠を捧げるに相応しい主だ」

 

 行成はその言葉に更に深々と頭を下げて「……道長様は、これからどうなさるおつもりですか?」と尋ねる。

 一条帝、そして中宮定子がそれほどの存在であるならば、道長が望む野心はどのように叶えるつもりなのかと、そう問うと、道長は「問題ない」と笑みを崩さぬまま答える。

 

「一条帝が、中宮様がいかに傑物でも――付け入る隙は、いくらでもあるものだ」

 

 ちょうど馬鹿が、餌に思うように食い付いている――そう言って、道長は再び月へと手を伸ばし。

 

「――近付いている。それは、我が手元へと」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、事務連絡を伝えに後宮へとやってきた藤原行成から清少納言へと伝えられた。

 

「た、隆家様の従者が、道長様の従者を――殺した!? 本当なのですか、それは!?」

 

 行成は、当初は清少納言が相手の時も必要最低限以上の会話はしない男だったが、訪問の回数を重ねるにつれ――他の女房は行成を相手を嫌がったので、毎回のように清少納言が対面相手だったという事情もあるだろうが――徐々にではあるが仕事以外の会話も増えていた。

 

 此度も、業務連絡を終えての、去り際の世間話から出た話題だった。

 だが、隆家の従者と道長の従者の小競り合いの話は、今、宮中で最もセンセーショナルに飛び交っているニュースでもあった。

 

 無理もない。

 小競り合いとは称したが、それはこの平安京内では珍しく、日中の大通りでの人間同士の乱闘であり、それも互いに弓矢まで放たれた小さな合戦のようなものだったのだから。

 

 そして、何よりも重大なのは――その小競り合いで、死人が出たことだった。

 

「隆家様の従者と道長様の従者が争ったのは、ついこの間もではありませんか!」

「ええ。その際に道長様側の従者が隆家様の従者に怪我をさせたのを根に持っていたらしく……此度も隆家様の従者の方から因縁をつけた所を目撃されています」

 

 清少納言はその言葉に唇を噛む。

 

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、藤原伊周、藤原定子の弟である。

 かつて道隆が健在だった頃、そして伊周が文書内覧の権を所持していた頃に二人の力で強引に出世させ、十七才という若さながら参議にまで至った出世株である。

 

 だが、その若さ相応に向こう見ずな激情家であり、よく言えば怖い物知らず――悪く言えば、視野の狭い、考えの浅い、子供なのだ。

 

 そんな彼は、伊周以上に礼儀を知らない若者だと有名で、和歌や漢詩の才能に秀でた雅なボンボンであった伊周とは対照的に、隆家は武芸に秀でた乱暴者なガキ大将であった。

 

 気に食わないことがあると、その腕っぷし自慢の取り巻きと共に、すぐに腕力にものをいわせて自分の意見を押し通すことが多かった。これまでは道隆、伊周という圧倒的な後盾があった為に、そんな横暴も通っていたが――まさか。

 

(まさか……今の状況でも、そんな無茶をするなんて……ッ)

 

 確かに、これまで好き勝手に我を通してきた隆家からすれば、今はさぞかし面白くない状況だろう。

 尊敬する兄の出世街道を阻んだばかりか、選ばれし一族である自分達を差し置いて王者の振る舞いをする道長を、あのガキ大将が目を付けない筈がない。

 

「しかし、此度ばかりはやり過ぎた。一度目の時すら周囲から白い目で見られていたというのに。右大臣の随身を殺めるなどとは、例え……内大臣の弟様といえど」

 

 清少納言は、行成が一瞬言い淀んだ時、何と言い掛けたのかすぐに察しがついた。

 

 例え――中宮様の、弟といえど。

 そうだ。いくら隆家の独断専行とはいえ、その行動は一族である以上、中宮定子の名に泥を塗ることに繋がる。無関係では済まされない。

 

(なんて馬鹿なことをっ! 隆家様は、そんなことも分からない子供だったというのッ!?)

 

 いや――子供なのかもしれない、と思う。

 元服し、参議として出仕していようとも――まだ、十七才だ。

 

 同年代で立派に務めを果たし、老獪な貴族と渡り合っている、一条帝や中宮定子が、規格外に特別なのだ。

 

(現に伊周様も貴族間での評判は最悪だったといいます。腕っぷしに自信がある故に、隆家様の未熟さがこういった形で出ただけで)

 

 これまで何の苦労もなく出世し、傍若無人な我儘もお咎めなしで済まされてきた。

 だからこそ、気に食わない相手に、こんなにも短絡的に喧嘩を売ることが出来たのだ。

 

(……そもそも、本当に独断専行なのかしら。……唆した者が――伊周様……いや、まさか)

 

 清少納言の脳裏に、ついこの間、盛大に道長と怒鳴り合ったという伊周のことが思い起こされる。これも、甘やかされたおぼっちゃまの未熟さが露呈した場面だが――しかし。

 

(いくらなんでも、隆家様はともかく、伊周様はそんな愚行を犯す方かしら――方だった、かしら……。曲がりなりにも内大臣として政務をこなしてきた方よ。若いとはいえ二十二才……政界という場所がどういう世界か……流石に、分かっている筈)

 

 もし――()()()()()()()()()()()()()()

 異様な雰囲気がまるで消える気配のない、あの二世が、そんなことも分からなくなっているのだとしたら?

 

 果たして――これから、どうなってしまうのだろか。

 

「……隆家様は謝罪するどころか、下手人の引き渡しを拒み、周囲にはまるで武勇伝ように上機嫌に語っているようです。……重い処罰は、避けられないでしょう」

 

 人臣最高位――「(いち)(かみ)」に対する蛮行だ。当然のことだろう。

 まさか、一条帝が庇い立てるとでも思っているだろうか――そんなことが可能であると、本気で妄信しているのだろうか。

 

 だとすれば――伊周の目は、どれほどまでに曇っているのだろうか。

 

 あの華やかだった貴公子の、日を追う毎に黒くなっていく隈を思い出し、清少納言は寒気を感じた。

 

 どうか、これ以上、中宮様を取り巻く世界が、暗く、寒くなりませんようにと、彼女は祈ることしか出来ない。

 

 だが、そんな健気な女の願いは届かず――決定的な悲報が、年明けの冬、宮中を駆け巡った。

 

 隆家の、そして伊周の従者たちが、またもや人を殺したのだ。

 

 殺した相手は道長の従者――ではなく。

 

 前帝・花山院、その御付きの――子供であった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ことの始まりは――やはり、女だった。

 

 かつて藤原為光(ふじわらのためみつ)という男がいた。

 この男もまた、兼家の異母兄弟であったが――この男の来歴は、ここではあまり重要ではない。

 

 重要なのは、この男が遺した娘たちである。

 為光の娘達は、みな絶世の美女であると有名だった。

 その中でも長女は、かの花山院が若い頃に熱烈に恋い焦がれ――その愛ゆえに殺されてしまったほどだった。

 

 当時、まだ若い王であった花山天皇は、余りにもその娘を愛したが故に、女が子を身籠っているにも関わらず、出産の為に家に下りることも許さずに己の元へと留め続け――愛し続けた。その結果、子を身籠ったまま長女は亡くなってしまったのだ。

 

 大層に嘆き悲しんだ花山天皇は、そのまま全てを放り出して出家することを決意した――正確には、その悲しみを利用し、誘導して出家させたのが、道長の父・兼家であり、当時、花山天皇の蔵人であった兄・道兼であるのだが。

 

 そして、現在――問題になっているのは、残された、その妹達である。

 かつて長女を愛し殺した花山院は、それに懲りることなく、この頃、その妹である為光の四女の娘に恋文を贈っていた。

 

 流石に元天皇とはいえ、現在は出家している男の、それも姉を愛し殺した男の誘いなど受け入れられないと四女は拒み続けていたが、愛に生きる男である花山院は己の行いがどれほど狂気的なのかを理解することなく、まるでかつての頃のように盲目的にアピールを続けた。

 

 そして、そこに藤原伊周が関わってくる。

 伊周はこの頃、絶世の美女として名高い為光の娘――その三女と、親密的に愛を通わせていたのだ。

 

 この所、何も上手くいかず、敵ばかりが増えていた伊周にとって、彼女との語らいの時間は何にも代えられない、失い難き癒しの時であった。

 

 そんな時だ。伊周の元に、あの愛に狂う男・花山院が、為光の娘達が暮らす屋敷へ足繁く通っているという噂が流れ込んできたのは。

 

 伊周は激昂する――その真っ黒に淀み切った瞳で。

 

「あの男は、己が失った妻の――己が愛し殺した女の面影を求めているのだ! 我が寝殿の御方に!」

 

 寝殿の御方とは、伊周が愛する為光の三女のことだ。

 伊周は、何の違和感も持たず、法皇・花山院の目的が、己が愛する三女であると、そう思い込んだのだ。

 

「法皇は、一度見初めた女は愛し殺さずにはいられない御方です。このままでは、寝殿の御方も、子を身籠ったまま死んだ、かの女御と同じ命運を辿ることになるでしょう」

 

 己が全幅の信頼を置く漆黒の陰陽師のその言葉に、伊周は迷わず弟を呼んだ。

 

 隆家は、敬愛する兄の言葉に張り切って行動を開始した。

 この時までに隆家は花山院と幾度か揉め事を起こしていた。短気な隆家はそのことに対する鬱憤もあり、例え相手が法皇であろうと、事を構える抵抗はまるでなかったのだ。

 

 月明りすら遮られるような雲濃き夜。

 伊周は弟と、弟の自慢の荒くれ者の取り巻きと共に、為光の娘達が暮らす屋敷の前をこっそりと見張る。

 

 そして――花山院は、来てしまった。

 

 伊周の頭は、瞬時に沸騰し、黒い殺意に支配される――まさに、()()()()()()()()()()()()()

 

「――殺せ」

 

 その呟きに、ギョッとしたような違和感を覚えたものもいるかもしれない。

 なにせ、相手は――法皇なのだ。出家したとはいえ、元天皇。そんな相手に弓を引くというのはどういうことなのか。それも、正式な妻でもない、ただ己が通い詰めているだけの女に手を出されたかもというだけのことで。

 

 しかし、既に彼等の大半は正気ではなかった。

 他でもない、伊周が、そして隆家が――誰よりも狂気に堕ちていたのだ。

 

「殺せぇぇええええええええええ!!」

 

 兄の命を受けて、弟が叫ぶように配下に命令を下した。

 

 途端に雨のように弓矢が放たれる。

 普段は屈強な山伏を配下に連れている花山院も、今宵はただ女に会いに来ただけである。それも深夜にお忍びで。法皇といえど、過剰な護衛が女を怯えさせるだけだと心得ている。

 

 だからこそ、その場には、花山院の世話係のほんの数名しかいなかった。

 花山院は慌てふためいて来た道を引き返そうとする。だが、殺意の篭った攻撃は、遠慮なく花山院の命を狙っていた。

 

 結果、花山院の衣服を掠め、その胴体を貫こうとした矢は――彼を庇った、(わらべ)の命を奪った。

 

 その光景を見て――冷や水をぶっかけられたように、伊周は、ハッとした。

 

(……()()()()()()()()()()?)

 

 どうしてこんなにも花山院のことが許せなかったのか――分からなかった。

 こんな深夜に、離れた場所から命を下すわけでもなく、こうして隆家と同行して、凶行を目撃しているのか、意味が分からなかった。

 

 何故、今、自分は弟に命を下し――法皇の家来を襲わせている?

 弓矢を放つように命じ、こんなにも派手に殺戮を行わせている?

 

 隆家は、隆家の配下たちは、まるで酔っているかのように残虐を極めていた。

 逃げる花山院の馬車に向かって矢を放ち続け、自分達が殺した二人の童の首を刎ねて、それを夜空に掲げた。

 

「見たかッ! これが伊周兄貴の力だッ! 兄貴に――俺達に歯向かうものは、皆こうなるのだと覚悟しろッ!!」

 

 堂々と、まるで自白するように――伊周の名を使って、己が愚行を宣言している隆家。

 

 伊周は頭を抱えた。そして、震える声で――撤退を命じた。

 

「……帰る、ぞ……」

「え? 伊周兄貴、今、なんて――」

 

 それはまるで、泣いているかのような声だった。

 

「帰るぞ! 早く! 一刻も早く屋敷に!」

 

 伊周は馬車に飛び乗った。

 戸惑う隆家やその家来達を呼び戻して――自分達が行った殺戮の証拠を、首を刎ね飛ばされた童たちの死骸も放置して。

 

 道中、伊周はがたがたと震えていた。

 悪かった顔色はますます青くなり、かちかちと歯を鳴らしながら――何度も自問していた。

 

 どうしてだ、なんでこうなったと。

 必死で、これは悪い夢なのだと思い込んだ。伊周の優秀な頭脳が、今の己の状況を理解させようとするたびに、それを無視して夢想に逃げた。

 

 とにかく、眠りたかった。

 本当の、暖かい、夢を見たかったのだ。

 

 だが――それよりも、現実の方が早かった。

 どこからか聞き付けたかのように。あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それは伊周達の屋敷の前にいた。

 

 検非違使(けびいし)が。平安武者が――侍が。

 

 藤原道長が――伊周達を待っていた。

 

 提灯が照らす光に目を焼かれながら、胸中で何度も繰り返す。

 

 どうして――こうなってしまったのかと。

 

(何故だ……何故、そんな目で、俺を見る?)

 

 彼等の目は一様に――軽蔑の色に染まっている。

 堕ちゆく者を見る目。終わりゆく者を――哀れむ瞳。

 

(何故だ……なんで、俺を……この俺を……そんな目で……ふざけ――)

 

 ふざけるなぁ! と、背後で弟が暴れている。だが、腕力自慢の弟を、更に屈強な武士――侍が、力づくで地に抑え付けた。

 

 夢から覚めた男は――ようやく、気付いた。

 

 平安武者を引き連れていたのは――自分達を取り囲む検非違使を手配したのは。

 

 今日、この日、この決定的な場面に――まるで現場を取り押さえるように、図ったように、この状況(シーン)を演出したのは。

 

「………みち………な……が……?」

 

 仇敵であり、怨敵。

 自分から全てを奪った男が――そこにいた。

 

 藤原伊周――彼は、この時、ようやく、気付いた。

 

 煙が晴れるように、曇り切った眼が色を取り戻す。

 靄がかかっていたような思考がクリアになり――その全てが赤く染められていく。

 

 こいつだ。コイツだ。全部、ぜんぶ、ゼンブ――貴様が。

 

「みちながぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」

 

 両手を縛られた男が、一目散に道長に向かって駆け出す――が、近くにいた武士が地面に叩き付けるように押さえつけ、伊周は触れることすら出来ない。

 

 伊周は、何度も何度も、己の中で繰り返した。

 

(……どうして――)

 

 こんなことに、なったのだろう。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後の展開は、見苦しさ極まる無様なものだった。

 

 伊周は暴れ狂いながら抵抗し、隆家の家来たちを逃がそうとした。

 しかし、それが、自分が身代わりになり部下だけでも助けようとしたというものではなく、直接的に法皇を害した者達が証拠として捉えられることを恐れたものであると見抜いていた道長は、冷たい目で伊周を見据えながら、検非違使に速やかに指示を出し、その全てを捕らえることに成功した。

 

 そして、少しの脅しで驚くほど滑らかに口を割った彼等と、彼等が持つ血に塗れた武具によって容疑が確定した後に、道長自ら一条帝へと報告を行った。

 事件の翌日のことである。

 

「法皇に弓を引いた。それはすなわち、天皇家の高貴なる血に弓を引いたということ。その意味が分からぬ帝ではございますまい。――どうか、厳粛なご決断を」

 

 一条帝は、苦渋に顔を歪めながら言ったという。

 

「……内大臣と、中納言の――罪状を、審議せよ」

 

 罪状を審議。それはすなわち、天皇自ら、伊周と隆家を罪人と認めたことに他ならない。

 愛する中宮の兄弟を咎人とする。十七才の少年の心にどれだけの負荷をかける言葉であったかは想像に難くなかった。

 

 道長は、その少年王の重き決断に敬意を表するように、深々と頭を下げた。

 

 その心と、瞳に――黒々とした炎を渦巻せながら。

 




用語解説コーナー⑬

花山法皇(かざんほうおう)

 円融帝の次代天皇であり、その後、一条天皇に譲位した後に法皇になった。

 外祖父・伊尹の威光により生後10ヶ月足らずで立太子したが、17歳で即位した時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかった。
 それにより宮中は、帝の外舅・義懐、関白・頼忠、皇太子懐仁親王(後の一条帝)の外祖父・兼家の三つ巴での対立構造となり、政治が停滞するようになった。

 そんな中で起きたのが、花山帝出家事件――「寛和の変」である。

 藤原為光の娘・忯子に心奪われた花山帝は彼女を女御にし――僅か十七才の彼女を愛し殺した。
 それに失意した花山帝は、出家したいと言い出す。
 花山帝の気質(はっきりいえばその場の気分で物を言う)を知る義懐らは翻意を促すが、兼家は道兼を使い積極的に出家を促し、花山帝はまんまと口車に乗って出家してしまう。

 しかしまあ、この出家の際も花山帝は一筋縄ではいかず、道中にて「月が明るくて出家するのが恥ずかしいな」とか言って急に躊躇ったり、その時にタイミング良く雲が月を隠したから「やっぱり朕は今日出家する運命だったに違いない」とかいって乗り気になったり。かと思えば、「自室に妻から貰った手紙が残ったまんまだった気がする!」とか言って取りに帰ろうとするから、挙句の果てには道兼が嘘泣きをしてなんとか引き留めたりしていて、何やってんだコイツらみたいなことを大の大人たちが大真面目に繰り広げながら、どうにかこうにか出家させた。

 なにはともあれ、この事件により、花山帝は在位わずか二年で譲位することとなる。

 内裏からいなくなった花山帝を散々に探し回った義懐と同派閥の惟成は、寺で出家した花山帝を見つけ、自身らの政治的敗北を察し、共に出家したという。

 こうして、花山帝の排斥をきっかけに、藤原兼家が政治的頂点に立ち、彼の息子たちによって平安京は大いに揺れ動くことになるのだ。

 だがまあしかし、愛する女の死に心を痛めて出家した筈なのに、花山帝の女癖は一向に改善することなかった。その代表的な事件が、今話でも記した伊周とのいざこざ――後の世には「長徳の変」と呼ばれる事件である。

 まあ、出家したとはいえ二十歳にもなっていなかった青年が、天皇という責務から解放されて時間を持て余していたのだから、女遊びをするなという方が無理だったのかもしれないが。

 かといって、高御座(天皇の玉座)に女官を呼んで性行為をしたり、同時期に母と娘を同時に妾として同時期に己の子を産ませるなどという蛮行も行っているのだから、狂帝として千年後も語り継がれるも納得である。

 その他にも、即位式で「重い」とか抜かして王冠を放り投げたり、清涼殿(天皇の住居)の壺庭で馬を乗り回そうとしたなどと破天荒な逸話には事欠かない。こうした所業を必死に隠しながらも忠義を尽くして仕えた上、一緒に出家までしてくれた義懐と惟成はマジで賢臣。

 ちなみに、父・冷泉帝も負けず劣らずの強烈な逸話が多数残されている狂帝の為、この血脈からはなるべく天皇は出さないようにしようという風潮が広がることになった。

 更に言うと、一条天皇の年上の東宮(次代天皇と目される人物)・居貞は、花山帝の弟であり、冷泉天皇の子である。

 しかし、その一方で、花山帝は絵画・建築・和歌などのクリエイティブな分野では多岐に渡る才覚を見せていて、常人離れした発想に基づく彼の創造は常に人々の想像を飛び越えた驚きを与えるものだったという。

 天皇としては狂帝でも、アーティストとしては非常に優れた人物だったというのだから、本当にこの時代は実に面白い。
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