「あなたはいつまで――中宮様にお仕えするつもりなのですかな」
その日、行成と並ぶもう一人の蔵人頭である
斉信は行成の前任である源俊賢が蔵人頭だった頃から共に蔵人頭だった男である。
つまり、清少納言との付き合いもそれなりに長く、親密といえる間柄であった。
そんな彼からの言の葉に、清少納言は無言のみを返す。
「……時勢、というものです。此度のそれは激流だ、誰にも止められはしない。……伊周殿は誤った。もう、誰にも止められはしない――」
藤原道長殿は、最早、誰にも止められない――と、斉信は言う。
清少納言は、何も言わない。
「決定的です、此度の一件は。伊周殿に付く者は最早、誰一人としていない。全ての殿上人が、道長殿へ付くことを選んだのです」
「……ですから、私も、道長殿へ付け……と」
この私に、中宮様を、見限れと――清少納言は、膝の上で握った拳を震わせて、斉信に向かって、中宮の女房としての、平安の女としての礼儀も恥も何もかもかなぐり捨てて吐き捨てようとした。
ふざけるな。
私はお前とは違う。
道隆に取り立てられて出世した癖にすぐに新たな権力者に尻尾を振るお前とは違う。
あんなにも中宮を、この後宮を褒め称えていた癖に――私のような女房にまで、手を出そうとしていた癖に。
それなのに――それが――それが――。
「それが、宮中という世界です」
清少納言の声にならない叫びを、全て聞き届けたかのように――そして、それでいて、それを一蹴するように。
少女の綺麗な夢に対し、現実を見ろと諭す――大人のように。
「時勢を読み、己の――そして何より一族の為に、勝者を嗅ぎ分ける。そして、決して敗者にならぬように立ち回る。それが宮中です。それが、政治なのです」
「……それが………それは――」
それが、清少納言が憧れた、この世で最も浄土に近い、美しい世界の正体だと、斉信は淡々と突き付ける。
確かに、宮中はこの世で浄土に最も近い場所かもしれない。
昨日まで光り輝いていた勝者も、明くる日には屍たる敗者へと身を落とすことになる――地獄。
そして、斉信は言う。何も言えない清少納言に――お前も、そこにいるのだと。
この世で最も浄土に近い場所に、身を置いているのだと。
「それは貴族だけではない。女房も同じことなのです」
清少納言は、何も言えなかった。
そんな彼女に――斉信は尚も問う。
お前はいつまで、中宮定子に仕えるのだと。
「いつまでも」
清少納言は、その問いにだけは、はっきりと答えた。
「この身が果てるまで、いつまでも。この心朽ちるまで、いつまでも」
我が全ては、中宮様のお傍に――と。
+++
斉信は正しかった。
その言の葉は、確かに、残酷に現実を語っていた。
伊周、隆家の決定的な失脚。
それにより、貴族のみならず――後宮までも。
あんなにも温かく、あんなにも輝いていた後宮さえも、暗い雲に覆われたように――冷たく、暗い空気に呑み込まれていた。
斉信の言葉通り――中宮の元を去る女房が現れ出したのだ。
最初の一人は、大粒の涙を流しながら中宮に不義を詫びた。しかし、中宮はそれを笑顔で許し、これまでの忠義に感謝を示した。
宮中とは、勝者に
そもそもがそれ故に、中宮の元へと出仕させられた娘達が女房である。
中宮の勝者としての輝きに翳りが見え始めた――それ故に、中宮の元を去るというのは、一族を代表するものとしては至極当然の決断だった。
だが、それはあくまでも一族としての意だ。
こうして後宮へと出仕し、中宮定子の輝きに照らされ続けた者としては、勝者だの敗者だのは関係ない――中宮の、定子の元で、いつまでもこの御方に尽くしたいと、そう願っている女達ばかりなのだ。
だからこそ、誰一人として、去りゆく女房達を責める者はいなかった。
敬愛する中宮の元を去らなくてはならない、誰よりも尊敬する御方に不忠を働かなくてはならない、そんな身を引き裂くような思いをすることになるのは――次は、自分かもしれない。
女房達は、そんな不安を誤魔化すべく、恐怖の矛先を探した。
馬鹿なことをした伊周に隆家か、自分達を失脚させた道長か――当然、彼等にも向いただろう、だが、彼女達の余りに大きい漠然とした不安は、もっと手頃で、もっと身近な矛先を求めたのだ。
そして、彼女達のそれが向けられたのは。
自分達を貶める道長派閥――そんな道長派閥に、この後宮において、最も親しき者。
藤原行成、藤原斉信を初め、宮中の貴族と、この後宮において最も親密な関係を築いている女房。
彼女達は――最も身近な敵として、清少納言を選んだのだ。
+++
清少納言は、いつからか他の女房達から向けられる敵意の視線に気付いていた。
無論、彼女等も中宮の女房として出仕するだけの品位や知性を備えているが故に、自分達が向けるそれが半ば以上八つ当たりに近いものだとは気付いている。
だからこそ、露骨な、それこそ隆家が振るうような暴力的な嫌がらせなどは起きてはいないが、そこは女社会特有の蔭口や仲間外れといった、一つ一つは小さくとも、積み重なれば心が擦り減っていくような、いってしまえばいじめが発生していた。
宰相の君や中納言の君といったトップクラスの女房達はそれに加担するようなことはなかったが、それでもここで下手に嫌がらせをやめろと全員並べて言い聞かせたところで、こういったものはなくなるものではない。むしろ、行き場を失った負の感情がどのような形で発露するか分からず、不安定な現在の情勢ではそれは致命的なダメージに繋がりかねなかった。
それは定子も同様である。
だからこそ、彼女はこれまで以上に清少納言を傍において己が抑止力になろうとしたが、当の清少納言がそれをやんわりと断るようになった。
(こんな状況において、私なんぞのことで中宮様の負担になってはいけない)
そして、清少納言はこの状況において尚、行成や斉信と積極的に交流を持った。
既にこうして道長派閥と呼ばれる者たちと交流を持つこと自体が、後宮においていじめの理由になり得ることは理解している――そして、それ故に他の女房がそれを避けていることも理解しているが、しかし、後宮が政治に触れるべからずな場所であるとはいっても、政治と無関係であるわけがない。
こんな状況であるからこそ、宮中の情報は積極的に獲得していかなくてはならなかった。
そして、それは後宮から宮中への発信力という意味でも重要であった。
伊周の失脚以降、後宮への貴族の来訪が目に見えて減っていることは誰もが気付いている。
それはつまり、貴族達が中宮定子に見切りをつけ始めているということだ。
女房が離れていっているように、貴族達もまた、沈みゆく船から逃げ出そうとしている。
しかし、それでもまだ、訪れる人が完全に途絶えないのは――中宮定子の勝利の目が、完璧に潰えてはいないからだ。
(そう――中宮様は、未だ帝の愛を失っていない。中宮様が子を生めば――皇子の母となれば、それはつまり)
中宮定子の、ひいては伊周勢力の逆転勝利となる。
どれだけ宮中を道長派閥で支配されていようと関係ない。定子が皇子を生めば、伊周が外戚として、摂政、やがては関白となり、権力の頂点に返り咲くことは可能なのだ。
それが分かっているからこそ、斉信を初めとする、道長派閥に軸足は乗り換えながらも、完全には後宮への糸も断ち切ってはいないという立ち回りをするものがいなくなってはいないというわけだ。
清少納言としては業腹な態度だが、それでも――そんな風見鶏たちですら、今の中宮には貴重なのだ。
少なくとも矛や拳を向けてこない人間は、一人でも多いに越したことはないのだから。
そして、そんな人間を集めるのは――自分の仕事だと。
行成や斉信と、宮中の殿上人達と対面し、言葉を交わし――堂々たる姿を見せつけ続けることによって。
後宮はまだ健在だと。中宮定子の華は――未だ、些かも劣らず、咲き誇っていると。
宮中に、貴族に――藤原道長に見せつけることこそが。
清少納言と名付けていただいた自分の使命だと信じ、彼女は戦った。
戦い、戦い、戦った。
味方である筈の女房達の敵意の視線を背に浴びながら、憎たらしい貴族の薄ら寒いおべっかに笑みを返して――それでも、最後にはこちらが勝つのだからと。
そんな日々を送り、けれど、欲しい情報は一向に得られず。
伝わるは愛すべき味方からの敵意と、憎むべき敵の隆盛ばかりで――。
(……それでも……それでも、必ず、中宮様は――)
いつからか、常に美しくあるべき中宮の女房としては有り得べからずなことに――目の下に、黒い隈を作ってしまった清少納言の元に、その日、とある客人が現れた。
いつものように、最早、見慣れた、決まった顔ぶれの男達ではない。
現れたのは、見知らぬ――黒い老爺だった。
宮中では偶に見かけるが、この後宮では滅多に見ない人種だった。
その男達は、検非違使や侍のように、都の防衛に回る役職の者であるが故に。
「これはこれは。お初にお目に掛かります」
黒い老爺は恭しく頭を下げる。
清少納言は訝しがりながら、その男に問い掛けた。
「……陰陽師の方が、このような場所にどのような御用件でしょう?」
黒い陰陽師は、ゆっくりと頭を上げて。
口角を上げながら、背筋が冷たくなる笑顔を浮かべて言った。
「――あなた方が望むものをお届けに」
それから、間もなくのことである。
中宮定子が、一条天皇の第一子を懐妊した。
+++
「そうか、やっとか」
深夜の土御門邸――やはり月を見上げながら、藤原道長は酒を呑んでいた。
月光のみが光源のこの空間で、道長に語り掛けるのは壮年の男だった。
源俊賢――藤原行成の前任の蔵人頭であり、此度の人事にて参議の権を得た公卿へと出世を果たした男。
数少ない、道長の野望を知る者の一人である彼は、呟く道長に「――して。これからどうするおつもりですかな?」と尋ねる。
「何がだ? 俊賢殿」
「中宮様の御懐妊です。伊周殿などは気が早くも、謹慎中の身でありながら己を左大臣にして道長殿から文書内覧の権を移せと騒いでいるようですが」
「我こそが未来の摂政であると? 相変わらず脳内で花が咲き誇っている男よ。術中に嵌める必要などなかったやもしれぬな」
くつくつと笑う道長に、俊賢は崩れぬ引き締まった表情で「――ここで、
「奴等は使わぬ。――まだ、な。お主を蔵人頭から外し、奴等との橋にしたのは、まだこの時の為ではない」
「……それでは、何も手は打たれぬと?」
「
そう言って道長は「俊賢。お主には奴等の元ではなく、別の者へと使いを頼まれてもらいたい」と、酒をくいっと呷りながら言う。
俊賢は間髪入れずに了承し、そして尋ねた。
「承知致しました。して、この身は何処へ向かえばよろしいので?」
道長は杯の酒に月を映して――それを呷り、答える。
「晴明――安倍晴明に、道長が動けと、そう申したと伝えよ」
+++
中宮定子の懐妊。
その事実が知れ渡った時、宮中が激しく騒めいた。
ここまで道長勝利に固まりつつあった空気が、再び大きく揺れたのだ。
天皇の子を生ませる。それはこの時代に置いて、貴族が目指す最終到達点だ。
そのゴールを目指して、彼等は深謀術数を巡らせる。道長の父・兼家がそうして己が一族に栄華を齎したように。道長の兄・道隆が最後までそれを欲して手を伸ばし続けたように。
つまり、どれだけ道長が政敵を排除し、引き摺り下ろしたとしても、そのゴールに手が届いていない以上、完全勝利には至っていなかったのだ。
無論、道長もそれを理解していただろう。
道長が、己が娘の彰子をどうにかして帝に嫁がせようとしていたかは、少し耳聡い者達ならば知り得ていたことだが、いかんせん彰子はまだ幼く、子を孕めるような歳ではない。これは道長がどれだけ権力を誇っていた所でどうにもならないことだった。
そして、道長が兄や甥に代わり権力を得たところで、一度天皇に嫁いだ女を、何の大義名分もなしに引き摺り下ろすことは出来ない――例え、それがどれだけ自分にとって面白くない男の血を引いているのだとしても。
だからこそ、こうなることは時間の問題であったといえる。
清少納言の言う通り、定子と一条帝の間には確かな愛があり、そんな夫婦の間に子が生まれることは、もはや必然に等しいのだから。
道長の敗北、そして、伊周の逆転勝利――その結果に驚きと、少なくない不安に宮中が包まれる中。
定子の懐妊の衝撃醒めぬ間に、更に大きな衝撃が宮中を駆け巡る。
一条帝の母堂・東三条院詮子が病に倒れたというのだ。
+++
その悲報は、やはり藤原行成の口を持って、後宮に届けられた。
聞き届けたのは、やはり清少納言の耳であった。
「東三条院様は、己は呪われたと仰せです」
「…………」
清少納言は行成の言葉に唾を呑み込んだ。
詮子の言葉は特に珍しいことではない。
妖怪や怪異がそこら中に跋扈するこの時代は、呪いや祟りといったオカルトが至極真面目に信じられた時代だった。
それどころか、この国で最も暗き陰謀が巡らされる宮中においては、他者を貶める為に、いわゆる「お
敵の出世を妬んで、失脚を願って、霊や呪詛を利用し、祈祷や念仏で他者を呪う。
己の財産を投げ打って高名な僧や陰陽師を雇い、見えざる手で怨敵の首を締めあげるのだ。
(……陰陽師)
清少納言はこっそりと己が首に手を添えるが、御簾の向こう側の行成は気付かずに、話を進める。
「東三条院様の信心深さは有名です。体調を崩す度にこのようなことを言い、事実、出家までなさっているのですから。此度もこれまでと同じようにひょっこりと体調を戻すと思われたのですが――少し、今回はこれまで以上に怯え、震えていたのです」
詮子は愛された中宮を差し置き、ただの女御の身でありながら後継ぎの皇子を生んだ女だ。
愛されなかった女御として、数々の政敵と渡り合い、ここまで栄華を掴んできた。送られた呪い以上に、どれだけ敵を呪ってきたことだろう。
そして、確かな栄華を獲得した今となって、自分が蹴落としてきた者達の呪いが、そして己が送った呪いが返って来たのではないかと、詮子は事ある毎に怯えているのだ。
それは何も詮子に限ったことではない。
上っている時は無我夢中だが、頂点に立って、安寧を得て、ふと思い返すのだ――己の所業を。そして怯える。自分は今、かつて己が呪った者と同じ場所に立っているのだと。
この時代の権力者は、常にこうした傾向が強い。
未曽有の天災や大きな事件があった時、これはかつて自分達が冷遇したものの祟りだと怯えるのだ。そして、それが本当にその者の怨念が引き起こす祟りであったという真相がまま起こり得るのも、この時代の大きな特徴である――かの、菅原道真公のように。
つまり、この世界での祟りや呪いというのは、何も科学が発展していない旧時代の迷信というわけではないということ。詮子の被害妄想もあながち的外れではないかもしれないのだ。
「故に――我々は、東三条院様が住まう、ひいては右大臣様が住まう屋敷である土御門邸を検めることとしました」
行成は語る。
その話が進むごとに、清少納言の飲み込む唾の量が増えていく。
「調査団を率いたのは、当代きっての大陰陽師――安倍晴明様です」
陰陽師――安倍晴明。
その名を聞き、清少納言は喉が干上がるのを感じた。
(……違う……違うわ。関係ない――
声が出ない。何も漏れないように、唇をキュッと噛み締める。
……漏れる? 何が。
私は、何もしていないのに。
「そして、晴明様は――土御門邸の寝殿の下から、このようなものを発見しました」
「――ッ!」
清少納言は叫びそうになった、が、何とか、噛み締めていた唇を更に強く噛むことでそれを堪えた。
行成が懐から取り出したそれは――
木乃伊のように干からびた、鬼のように禍々しい腕。それに包帯のように霊験あらたかな布が巻かれていて――その上から五芒星が描かれた札が張られている。
「――呪物です。晴明様曰く、たんまりと呪いがかけられた一級品だと」
「……そ、そのような悍ましきものを、どうして――私に?」
御簾の向こう側で震える清少納言に、行成は気付いているのかいないのか――鋭い眼差しを向けて問う。
「見覚えは、ありませんか?」
清少納言は強く、唾を呑んで、言う。
言う――言うのだ。ただ、本当のことを。
私は、何もしていないし――何も、何も知らないのだから。
清少納言は、目を逸らすように俯き、答えた。
「私は――何も、知りません」
しばしの、沈黙。
痛いくらいの静寂の後――本当に安心したかのように、行成は言った。
「……よかった」
その声が、これまでずっと無感情であった行成とは思えない、人間味のようなものが込められたそれのように聞こえて、清少納言は思わず「……え?」と呆ける。
「本当に申し訳ございません。神聖なる後宮にこのような呪物を。晴明様による厳重な封印が施されていますので、害はありませんのでご安心を」
「……いえ、それは疑ってはおりませんが――あなたは、私を疑っていたのでは?」
緊張が解けた反動からか、そんな物言いをしてしまう清少納言に対し「いや、重ね重ね申し訳ありません」と行成は生真面目に頭を下げて言う。
「
「……お気になさらず。確かに、そのような人物と応対した記憶はございますから」
この後宮での応対の詳細を知る者は――限られている。
だが、誰と誰が会ったなどという噂話は知らず知らずのうちに広がっているもの。故に――深く疑う必要は、ない。
こうしている今も、背後の障子の隙間から誰かが聞いているかもしれない――が、清少納言は背に感じる視られるような錯覚を無視するように言った。
「しかし、誓って東三条院様を呪えなどとは口にしていません。中宮様の女房として相応しくない振る舞いを、この私は――」
清少納言はそこで、再び、口を閉じる。
行成は皆まで言わせないと「はい。そこは疑ってはおりません。あなた様の疑いは、この行成が潔白だとお伝えします」と語り、そして――再び、神妙な面持ちで言う。
「実を言うと、既に有力な容疑者は、他に浮かび上がっております。……その者が近頃、懇意にしているという陰陽師と、ここを訪れたという陰陽師の風貌が似通っていたので、念の為にこちらに伺った次第」
「……有力な容疑者とは?」
「それはまだ何とも。……しかし、東三条院様を――そして、右大臣様を、この宮中で最も恨めしく思っている者とだけ」
それは殆ど答えを言っているようなものだった。
詮子の助言によって道隆の後継を外された者。
そして、その道隆の後を継ぎ、己を追い越し――「一の上」の座を奪い取った者。
恐らくは、この宮中の誰もが犯人だと、そう頭に思い浮かべている者。
「……私は、斉信様のように、野暮なことは申しません。あなた様が中宮様を裏切るようなことはないと、疑っておりません」
ですが――と、行成は去り際に、清少納言に向かって、静かに言った。
「もう一度、彼の言葉を反芻してあげてください。……そして、その上で――」
どうか、ご健勝に。
口下手な男の、それが精一杯の言葉であると、清少納言は受け取った。
そして、その上で、その男の言う通り――かの貴公子の言葉を、瞑目して静かに思い返す。
あなた様は、いつまで中宮様の傍にいるおつもりですか。
「――いつまでも」
清少納言の答えは変わらない。
いつまでも、この身、この心が果てるまで。
その答えは、変わらない。
何があろうと――どんな末期が、待っていようと。
+++
真っ暗な部屋の中で、一人の男が高笑う。
終わったと思っていた。何もかもが終わったのだと思っていた。
だが、見たか。それ、見たことか。
天は間違えない。必ず最後には正解を選び取る。
「勝ったッッ!! 俺は、勝ったのだッ!!!」
藤原伊周は真っ黒な隈が侵食しきったかのような真っ黒な顔を狂喜に歪めて、燃え盛る炎を見ていた。
その前で延々と念仏のようなものを唱え続ける漆黒の陰陽師に抱き着き「よくやったッ! 本当によくやったぞ!」と叫ぶ。
黒き陰陽師は念仏を止めて「いえいえ。某は何も。なるべく形に、ただなった。それだけのことです」と穏やかに呟く。
そんな陰陽師に、小柄な老人・高階成忠は、歯を失った口をもごもごとさせながら「謙遜せずともよい、陰陽師殿」と、同じく燃え盛る炎に手を合わせながら言う。
「定子様は無事、懐妊された。これで伊周殿の天下――全て、あなた様のお陰じゃ」
「兄貴の天下! 俺達の天下だ!」
「それだけではない。それだけでは到底、済ませてなるものか! 俺をここまで苦しめた奴等に、それ相応の報いを受けさせなければ」
東三条院詮子は既に呪われた。
後は、最も憎き怨敵。伊周から全てを奪おうとした――あの男を、必ずは呪い殺す。
「藤原道長ッ!! 奴も終わりだ――この「
太元帥法――とは。
この国における、最大級の呪術。
鎮護国家を目的とし、怨敵、逆臣を調伏する為に施行されるべき秘術。
黒き陰陽師は、最後に問う――「本当に、よろしいので?」と。
伊周は、真っ黒に笑いながら言った。
「当然だッ! 俺は摂政に、関白になるものッ!! それはすなわち、俺こそが天皇の代身だッ! そんな俺の敵とは、すなわち逆臣なりッ!! 天皇に――国家に対する、怨敵なりッ!!」
だからこそ、相応しいと。
自分はこの禁術を使うに相応しいと。道長はこの禁術で呪うに相応しいと――笑う。
伊周も、成忠も、隆家も――まるで、狂ったように、笑う。
真っ黒な陰陽師は、そんな彼等の笑いを背中で感じながら。
「――御意。どうぞ、お気の済むまで」
静かに笑いながら――煙のように姿を消した。
彼等がそれに気付いたのは、検非違使が屋敷に乗り込んできた時だった。
黒き陰陽師がいた場所には――五芒星が描かれた、人形の式符のみが残されていた。
+++
判決が言い渡された。
「藤原伊周、藤原隆家の両名を――
配流――それ、すなわち、島流しである。
本当に島に流されるわけではないが、宮中を追い出され、平安京の外へと放り出されて、二度と戻ることは出来ないとされる厳罰。
かの菅原道真公が歴史に名を遺す悪霊と成り果てた、その時と同様の処罰。
政界からの追放――貴人としての、死刑である。
かつて、栄華を極めた男の息子としては、権力の頂点に指をかけていた男の末路としては、およそ最も惨い最期。
道隆が死んでから一年も経たずして、彼等はその全てを失ったのである。
しかし、彼等はそれでも、尚――見苦しかった。
「定子ッ! 助けろ!!」
伊周と隆家は、京から即刻退去せよという帝の命に、体調が悪いといって背き。
中宮定子がおわす、二条北宮に籠城したのだ。
「……この御方は、なんという……」
女房達は侮蔑を通り越して、もはや恐怖すら宿した瞳で、その男を見る。
定子懐妊という最大の好機を自らの愚行で潰した挙句、道隆が逝去してからわずか一年で、道長に一の上の座を奪われ、花山院の家来を射殺し、東三条院詮子を呪って、遂には太元帥法にまで手を出した。
墜ちるべくして落ちぶれた二世。
それは宮中の貴人はおろか、身内と言って等しい中宮の女房達にすら、それは共通の認識となっていた。
にも関わらず、この期に及んで、未だこの男は――こんなにも見苦しく足掻くのか。
「……兄様」
定子は、今ばかりは中宮としての立場を忘れて、かつてのただの定子だった頃、ただの兄妹であった時のように――悲しげな瞳で、哀れな兄を見詰めていた。
定子は妊娠による穢れという意味で、今は後宮ではなく二条北宮という別邸に身を置いている。
だからこそ、帝といえど簡単には手が出せない。
そこに伊周は目を付けた。
「俺を匿えッ! こんなのは何かの間違いだッ! お、俺が配流などと――クソッ!! とにかく今は時間だッ! こ、ここにいれば時は稼げる! そ、その間に、何か――」
「……時を稼いで……どうするというのです」
ボサボサの髪を掻き毟りながら呻く伊周に、一歩近づきながら清少納言は言った。
「既に
「黙れッ!! 女房風情が、この俺に言の葉を向けるなッ!!」
かつて、清少納言の機知に富んだ返しを穏やかに褒め讃えたのと同じ口で、伊周は清少納言を怒鳴りつける。
隆家も「兄貴に何を言う!」と、その巨体で見下ろすように清少納言を威圧する。
他の女房も怯えながら距離を取る中、震える声と溢れる涙を堪えながら「……中宮様は、ご懐妊の身なのです。……帝の子を、その御腹に宿しておられるのです」と、更に一歩、伊周と隆家に寄りながら、清少納言は言い放つ。
「今は! どんな重荷も背負ってはならぬ御身体なのですッ!! この国で最もッ! 大事にしなくてはならない御方なのですッ!! 何故、他でもない御兄弟であらせられる貴方達がッ! 中宮様にこの上ない負担を掛けるのかッッ!!!」
清少納言は、涙ながらに吠えた。
どうして――どうしてだ。
何故、世界はこんなにも中宮様に厳しい。
あんなにも光り輝いていた、暖かかった世界に、どうしてこんなにも冷たい寒風が吹き荒れているのだ。
ただ、中宮様は――この、二十歳に満たない少女は。
ただ、ただ――愛する人の子を、元気に生みたいだけなのに。
なのに――世界は。
だから――私は。
「私は――中宮様の番人だッ!!」
例え、どれだけ高貴な人であろうとも。
兄弟だろうと、一の上であろうと――帝であろうと。
世界で――あろうと。
「中宮様を傷つける者を、私は絶対に許さないッッ!!」
清少納言の、渾身の言の葉に。
女房達も、隆家も、何も言えずに、更に一歩後ずさる。
唯一、伊周だけが「――ッ! この――」と、右手を振り上げ頬をはたこうとしたが。
「やめなさいッ!!」
定子がそれを制する。
そして、清少納言を見詰めて。
「ありがとう――ごめんなさい」
そう言って、悲しげに、けれど愛おしそうに微笑んで。
己が兄に――帝が罰した罪人に、相向かって。
「――随分と、盛り上がっているようで」
その時、唐突に一人の男が現れた。
周囲を圧する覇気を放ち、検非違使や平安武者を引き連れた、突き刺すような鋭い眼差しの男だった。
「――ッ! みち、なが……ッ」
伊周は思わず一歩後ずさる。
その間に素早く検非違使たちは伊周と隆家の周りを取り囲んだ。
女房達が悲鳴を上げる中、定子は一歩前に出て、道長と向き直る。
「……道長殿。ここは二条北宮、私達の家です。何の報せもなく土足で上がり込むなど無礼ではありませんか」
検非違使や武士、道長が引き連れた男達は思わず息を吞む。
彼等にとって、御簾も何もなく、中宮定子を直視することはこれが初めてであった。
絶世の美女という評判は聞いていたが、女がみだらに伴侶や家族でもない男に顔を晒すなど言語道断という時代だ。それがこの国で最も貴い、中宮となれば尚のこと。
そういった意味もあり、伊周はこの場所はそう容易に踏み込まれないと踏んでいた――だが。
「これは中宮様。突然のご無礼、大変失礼いたしました。――しかし、事は一刻を争います。法皇に弓を引き、女院様を呪い、天皇家のみが扱える禁呪に手を出すような罪人が、こともあろうか中宮様のおわす屋敷に侵入したとなれば、我々も全速で駆け付けなければならぬと思った次第にて」
道長はこう言っている。
今のこの状況は、兄が妹の家に逃げ込んでいるのではなく、皇家に仇なす罪人が帝の子を宿した中宮を襲っているのだと。
無論、そんなことはあくまで建前だと、誰もが気付いている。
ただ道長は、伊周や隆家を逃がすまいと、強引に理屈をつけてこうして中宮がおわす宮殿であろうとお構いなしに乗り込んできただけだ。
こうして、不特定多数の男達に、中宮の顔を晒すことも、構わずに。
(……この、男は――ッ!!)
清少納言は道長を睨み据える。
だが、道長はそちらを一瞥しながらも、再び中宮へ目を向けながら。
「――故に、どうかご容赦願いたい」
「……一の上、御自らですか。ご苦労なことですね」
「これは帝の御決定です」
その言葉に、中宮の方が震える。
道長はそれを見て、更に言葉を続けた。
「帝の詔を反故にし、あろうことか、帝が最も大切になさっている中宮様を盾に逃げ延びようとする罪人がいる。帝を敬愛する臣下の一人であるこの私が、それをどうして許せましょうや」
この手で、帝の願いを叶えたいと、そう思うことに何の不思議がありましょうや――そう言って道長は、定子に向かってその手を向ける。
「そこの罪人を、引き渡してください、中宮様。それが帝の御意志――この国の総意なのです」
既に、この部屋にいる者だけではない。
この屋敷中が検非違使たちに取り囲まれていることは、ここにいるもの全員が分かっていた。
そして、それだけではない。
あれだけの栄華を誇った道隆一族、その終焉を見届けようと、二条大路は大勢の人や牛車で溢れ返っていた。
「さあ――ご決断を」
笑みを消し、真っ直ぐに――その突き刺すような目を道長は定子に向ける。
伊周は定子に縋りついて許しを請おうとするが、それを検非違使に防がれる。
隆家はあれだけ威張り散らしていた男とは思えないほど情けなく、その大きな体を丸めて泣き喚くのみ。
そんな哀れな兄弟を――家族を――罪人を見て、一瞬、くしゃくしゃに定子は表情を歪めた。
「――――」
それは――ほんの一瞬だった。
だが、それを清少納言は、道長だけは見逃さなかった。
だからこそ――だろう。
その一瞬の表情に余りにも心を痛めた清少納言は、次の一瞬、凛々しい中宮の顔を取り戻した定子の行動を――止めることが出来なかった。
定子は、いつから隠し持っていたのか、懐から短刀を取り出した。
それをどのように使うつもりだったのかは分からない。余りにも愚行を繰り返す兄弟に、せめて己の手で引導を送るつもりだったのか。
それとも、ここに至った時点で――初めから、こうするつもりだったのか。
中宮は、取り出した短刀で――己が髪を背の辺りでばっさりと断った。
力強く振るわれた一刀は、定子のこの世の物とは思えぬほど美しかった黒髪を、見事に両断した。
清少納言には、まるで中宮が自らの身体を掻っ捌いたかの如く、噴血が撒き散らされる光景を幻視した。
それはある意味で間違いではない。
髪を背の辺りで切るという行為は、女性にとってこの時代――俗世との決別を意味するのだから。
「私は――出家いたします」
定子のその言葉が、場に染み渡っていくと、女房達が狂ったように泣き叫んだ。
検非違使も、武士も、ざわざわと混乱を抑えきれない。
伊周も、隆家も、顔面を蒼白させて呆然とするばかりだった。
帝の子を孕んだ中宮が、出家をする。
その前代未聞の決断に――この場にいる誰もが混乱を抑えきれなかった。
(あ………あ………)
清少納言も、中宮の番人を自称しておきながら、この決断を止められなかったことに滂沱の涙を流すばかりで何も出来ない――それでも。
ただ一人――この、男だけは。
「……やはり、あなたは恐ろしい御人だ」
藤原道長だけは、定子に向かってゆっくりと近付いて、問う。
「……よろしいのですね」
「――これを、あなたに」
定子ははらはらと舞い落ちる輝く黒髪の一房を道長へと手渡した。
それがどのような意味を持つのか――この両者には、それは確かに伝わっていた。
道長は、それを確かに受け取って――だが。
「ええ。分かっています。私は――ずっと、分かっていた」
自分の最大の敵は、藤原道隆でも、藤原道兼でも――ましてや、藤原伊周でもあろうはずがなく。
ずっと、ずっと――傍で見てきた。
その才能を。その光輝を。その――余りにも眩い、強さを。
だからこそ――道長は、決めていたのだ。
「私は――あなたに、容赦をしない」
道長は、そのまま定子に背を向けて――受け取ったその黒髪を、
定子が、その光景を誰よりも傍で見ていた清少納言が、絶句する。
そして、その投げ捨てられた黒髪は――凍えるような、突き刺すような眼差しは。
へたり込んで呆然としていた――伊周に向けられていて。
「――ッ、ぐッ」
伊周は突然、悶え苦しみ出した。
息が出来なくなったかのように首を抑えて、黒々としていた顔色がますます黒くなり――そして。
何かに気付いたかのようにハッとした。
目だけで見上げたその先には――定子の髪を受け取った、その逆の手に握られていた、黒い人形の式符があった。
道長はそれを、無表情で握り潰す。
伊周は、最後の脈動とばかりに一際強く跳ねた己の心の臓に突き動かされたように、渾身の力で跳ね起きた。
「――ッッッ!! み……ち……な……がぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」
だが、伊周の手は道長に届かず――源俊賢が、無慈悲に伊周を地に叩き伏せた。
そして、そのまま伊周は――全身から血の華を咲かせる。
女房達は悲鳴を上げながら逃げ出した。その中には、隆家の姿もあった。
「――捕らえろ」
道長の冷たい命令に、一瞬遅れながら検非違使が続いた。
阿鼻叫喚の混乱に包まれる中、中宮の身を守るように残っていた数少ない女房の一人であり。
投げ捨てられた黒髪を、血に伏せた伊周を、そして――悲鳴を堪えながらも、一筋の涙を流した一人の女性を見遣った、清少納言が。
この世の何よりも憎いとばかりに、道長を睨みつけながら、こう呟いた。
「…………化物めッ!」
この国で最も貴い女性が見せた、未曽有の覚悟の行動に――まるで、心を動かさず。
粛々と処刑を実行した――人の心を持たない怪物に向かって、中宮の番人は吐き捨てる。
道長はその言葉に一度振り向きながらも、そのまま何も言わずに、二条北宮を後にした。
用語解説コーナー⑭
・
藤原道隆の嫡男として生まれた、輝かしい二世。
兼家、道隆と続いた藤原北家の継承リレーを正統に受け継ぐべく、瞬く間に出世を重ね、父譲りの美貌と母譲りの聡明な頭脳で以て、宮中の同世代や女性たちの心を掴んだ王子。
だが、関白である父のその強引な引き立ては、年上貴族や道兼、道長といった同族の叔父たちの不興を買い――道隆亡き後の急転直下の失脚へと繋がっていく。
政争では道長に敗れたが、多くの秀逸な漢詩や和歌を残し、アーティストとしては後の世にまで名を残した。
実 際の歴史では、今話での二条北宮での一件で捕らえられたのは隆家だけであり、伊周はなおも逃亡を続けた。やがては逃げられなくなり、配流の指示に従うことになるが、ここでも母・貴子を同行させる云々で見苦しく足掻くことになる。結局、貴子の同行が許されなくて、その後、配流だっつってんのに、病床の母を見舞う云々でこっそりと平安京に忍び込んだりして、また配流されたりした。ここまでくると逆に面白い。
史実的には、やがて詮子の病状が回復しないが故の大赦(呪いを回復させる為に、恨みを買っているであろう人物の罪を許すこと)によって隆家と共に罪科を許され、平安京に
帰洛することを許されているが――この物語では、ここで凄惨な最期を遂げることになった。
容姿端麗で才気煥発ではあったが、その心は幼く未熟な――裸の王子様。
やがては亡霊にまで身を堕とすことになるが、彼はただ、純粋に耀く父に憧れ、自分もそうなりたいと願っていただけなのだ。
ただ、その器を持たず――黒い野心に呑まれただけで。