比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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あなた――そんなに、藤原道長が怖いの?


妖怪星人編――⑮ 望月の兎

 

 中宮定子の御落飾(ごらくしょく)

 この衝撃的な悲報はたちまち宮中を駆け巡った。

 

 中でも、一条帝の嘆きは殊更に大きかったという。

 

「……朕の子を宿した身で……果たして中宮にどれだけの負担を……朕は……」

 

 一方で、道長に対する畏怖の声は、更にその大きさを増した。

 伊周の凄惨な末期は、その場にいた検非違使や女房達の口によって瞬く間に広がった。

 

 果たしてどんな手を使ったのか、中宮が出家してまでも守ろうとした兄の命を奪ったその手段は明らかにされず、よって道長が殺したという証拠は出なかったが、伊周の末期の怨嗟の声と、それを見る一の上の冷たい眼差しはその場にいた全員の脳裏に刻み込まれていた。

 

 藤原道長に逆らう者は、あれほどまでに凄惨に殺される。

 そういった噂が広がって、誰も道長に歯向かうことは出来なくなった。

 

 それは生き残った隆家も同様だった。

 あの後、逃げ出した隆家を探し出す為に、二条北宮は柱の一本まで残さずに解体されることになった。

 

 二条大路に集まった人々から姿を隠す為に布を持った女房に囲まれながら牛車へと逃げた定子が見詰める中で、彼女の宮殿は平安武者達によって無残に壊されていったのだ。

 

 その光景を眺めていた清少納言は、道長に対する怨嗟の念をますます固めていった。

 

 やがて畳の裏に隠れ潜んでいたところを発見された隆家は大層に怯えており、そのまま碌な抵抗もせずに平安京を後にした。

 

 息子を失った母・貴子も自宅で自害していたところを発見され、祖父・成忠も、伊周と同じ様に自宅で全身から血を噴き出した状態で発見された。

 

 道隆を失って、僅かに一年。

 あれほどに栄華を極めた道隆一族の、余りにも無残な凋落だった。

 

 道長は、それほど盤石な体制を築こうとも、敢えて関白へとなることを拒んだ。

 摂政・関白となってしまえば参議への参加資格を失う。故に、大臣の位のままに己を据え置き、参議の最も高い椅子から、内裏の公卿たちを、その突き刺すような眼差しで見据え続け――強固な独裁体制を築くのだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、清少納言は、一人だった。

 ()()()()()()()()()()、たった一人、真っ暗な部屋の中で、考え続けていた。

 

「…………」

 

 こと、ここに至れば疑いようがない。

 

(……中宮様の女房の中に、裏切り者がいる)

 

 あの日――例え、一の上といえど、一条帝の命を受けていようと、中宮の寝殿まで家人の誰も知らぬままに上がり込めることなど有り得ない。

 

 つまり、手引きした者がいる。

 伊周や隆家が定子の元に逃げ込んだことを一早く、道長に密告した者がいる。

 

 そして、その者は、今度は清少納言を中宮の元から引き離そうと画策していた。

 

 女房間で浮いている清少納言はあっという間に、その犯人に――裏切り者に仕立て上げられてしまった。

 元々、斉信や行成と密な関係を築き、道長派閥に(おもね)る者として蔭口を叩かれていた清少納言だ。印象操作は容易いことであっただろう。

 

 そして、今回は定子の出家という、前代未聞の事態にまで発展してしまった。これまでは伊周や隆家の失脚だけだったが、今回に至っては定子本人に甚大なる被害が出ている。女房達による排斥運動も、これまでとは比べ物にならなかった。

 

 その圧力を受け、清少納言は素直に内裏を出た。

 下らない女房間の諍いで、ただでさえ甚大な負荷をかけたであろう、定子の母体にこれ以上、要らぬ負担を掛けたくなかった。

 

 このような事態の時に、中宮の番人としてあの御方の元を離れるのは業腹だったが――。

 

(しかし、これで後宮は、完全に内裏から繋がりを断たれたことになる)

 

 そもそもその役目を、内裏とのか細い糸としての役割を背負っていたのが清少納言なのだから。

 宰相の君や中納言の君などが完全にゼロにはしないだろうが、今の後宮の雰囲気でそれを担うことはかなりの火種になる。最小限に留めるだろう。

 

「これからどうするおつもりですかな?」

 

 清少納言は宮中の誰にも知られない場所に身を隠した。

 連れてきたのは娘と、最小限の家人のみ。

 

「宮中では清少納言は道長派閥であると大層に噂されているようですよ」

 

 清少納言は拳を握る。

 あの夜、道長が清少納言の元に訪れたことも、見事に吹聴されているらしい。

 

 だが、今は――堪えるのだ。

 報いるべき時は、必ず来る。

 

「……そうでしょう? 陰陽師さん」

 

 これでよいのね――そう呟きながら、清少納言は、遂に『枕』を書き始めていた。

 

 清少納言の名を、そして中宮定子の名を、永遠に歴史に残し続ける偉大なる随筆を。

 

 描くのは、中宮定子の全て。煌びやかに、華やかに。

 

 たっぷりと――藤原道長への怨念を込めて。

 

 

 

 

 

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 そして、冬――定子が生んだ子は、女の子だった。

 皇女だ。後継たる――皇子ではなかったのである。

 

 無論、定子は喜んだ。

 愛する一条帝との、初めての子。女房達も揃って祝いの言葉を、そして出産という大仕事を終えた中宮への労いの言葉を掛けた。

 

 だが――その笑顔の裏で、これで中宮定子の勝利の芽は殆ど潰えたと、そう見限る者も多かった。

 

 定子が道長に勝利するには、この出産が最後のチャンスだったのだ。

 

 道長は定子の懐妊が発覚した際、抜け目なく一条帝に他の女御を宛がうという手を打っている。

 道隆は己が娘に一条帝の夜を独占させるために他の女御を宛がうことは最期までしなかったが、本来であるならば、天皇とは己が血を少しでも多く残すことも使命である為に、複数人の側室を持つことはむしろ責務とさえ言える。

 

 そして、現状唯一の女御であった定子が妊娠したとなれば、一条帝の夜が空くことになる。

 それならばと、他の新しい女御を受け入れることは天皇として当たり前であり、一条帝としても拒むことは出来なかった。

 

(道長の長娘である彰子様はまだ十にも満たぬ身体。故に女御として贈ることは出来ない。なのに、ここで別の女御を贈るということは、数年先に彰子様を入内させる際に、新たな敵を作ることにも繋がる)

 

 だからこそ、道長は他の女御を贈らないのではないかと、そう噂する貴人もいた。

 

 しかし、定子が皇子を生めば、その子は一条帝の長男として後継の最有力候補になる。だからこそ、ここで別の貴人が帝に女御を贈り、その娘が皇子を生めば、第二候補、第三候補が生まれ、定子が生んだ皇子が権力を引き継ぐとは限らなくなる。

 

 その場合は、第二候補らの父親たる貴人も、道長同様に定子反対派に回るだろう。

 既に道隆に次いで伊周も失っている定子陣営は、非常に厳しい戦いを強いられることになる。

 

 無論、道長にとっても、その第二候補、第三候補は決して喜ばしい存在ではない。

 いずれ入内をと考えている彰子が子を生める年齢になり、そして子を生むまでに、果たしてどれだけの敵を作ることになるのか――それでも、道長は新たなる女御を一条帝に宛がうことを選んだ。

 

 自身が左大臣に昇進したことで繰上りで右大臣となった道長の従兄である藤原顕光が娘、元子。

 己の叔母であり一条帝の女官でもある繁子と今は亡き道長の兄である道兼との娘、尊子。

 道長の父である兼家の異母弟である大納言・藤原公季が娘、義子。

 

 定子が出産で内裏を離れている間に、一気に三人もの女御を入内させることに成功したのである。

 

 女御の数が多くなれば、それだけ一人の女御に割く時間が減り、彰子が入内するまでに子が出来る可能性が少なくなる――無論、全員に子が出来る可能性も大いにあるわけだが――と考えたのか、それとも。

 

(――違う)

 

 そう、恐らくは、これも道長の定子潰しの策の一環なのだ。

 

 定子は今回の一件で出家をした。つまりは、俗世との関りを、表面上は断ったのだ。出産を終えた後も、定子は内裏の後宮に戻れずにいる。

 そんな定子と密会を重ねることは、一条帝としては非常に体面が悪いことになる。

 

 それでも、定子が唯一の女御のままであれば、何かと理由を付けて会いにいくことが出来ただろう。

 しかし、これだけ多くの女御を内裏に抱えているとなれば、わざわざ理由を付けて、内裏の外にいる出家した定子の元に通うことも難しくなる。

 

 つまり道長は、将来の政敵を増やすことを覚悟の上で――徹底的に定子を潰しにかかっているのだ。

 

(……そう。あの男は、それだけ中宮様を恐れている)

 

 己の最大の敵は――藤原定子だと、藤原道長は確信している。

 

 そう、清少納言は、宮中の密かな隠れ家で、涙を流しながら定子に出産を祝う手紙を書きながら思考する。

 

(……本当に、おめでとうございます、中宮様。天皇の血を引く命を生む――そんな偉業を成し遂げた貴女様を、お傍で支えることの出来ない不忠、真に申し訳ございません)

 

 子を生む。

 女として生涯で最も辛く尊い瞬間に立ち会えなかったことに、身を裂くような思いを抱きながらも、清少納言は手紙を書き終え、家人に手渡すと――再び呪いを綴り始める。

 

 呪いの『枕』を、粛々と、ただ一念だけを込めて。

 

 

 

 

 

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 清少納言が書き散らす『枕草子』は、段々と宮中で評判になっていった。

 

 詩でもなく、歌でもない、ただなんでもない日常を、清少納言独自の鋭い切り口で、ほんのり毒を込めて描くそれは、これまでの宮中にない目新しさを持って、みるみる内に広まっていった。

 

 当然、ふざけたものだと、女がでしゃばりおってと怒りを買うことも多かったが、狭い世界で生きる平安貴族にとっては、それは待ちに待った刺激的な娯楽として、清少納言の名と共にブームを巻き起こした。

 

 それを清少納言が狙っていたのかは定かではない。

 直接感想を言おうと、あるいは一言物申そうと、清少納言本人を訪ねようとする者が後を絶たなかったが――清少納言本人は忽然と姿を消したままで、誰も彼女の元には辿り着かなかった。

 

 そして、そうした人達が足を向けるのは――既に目がないとして宮中の貴人達からは見放されていた、中宮定子の元だった。

 

 何故なら、清少納言が宮中にばら撒いた『枕草子』。

 詩でもない、歌でもない、何でもない日常が綴られたその文からは――ただただ溢れんばかりに、中宮定子への想いが込められていたからだ。

 

 読めば誰もが、中宮定子のことが好きになるような、そんな甘い甘い果実のような文章であったからだ。

 

 だからこそ、それを読んだ誰もが、中宮定子に会いに行きたくなった。

 

 そして、尋ねるのだ――清少納言は、いつここに戻るのかと。

 

 定子の女房達は、裏切り者だと思っていた清少納言の深い想いに戸惑い。

 

 そして――定子は。

 

「…………負けては、いられないわね」

 

 一つの決意と共に、清少納言と――ある方へ、文を送った。

 

 

 

 

 

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()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 落飾し、俗世との関わりを断った女御が、再び内裏へと戻る。

 帝の子を孕んだ中宮が出家することが前代未聞ならば、そんな中宮が再び内裏へと舞い戻るのも、また前代未聞であった。

 

 無論、そんな話が歓迎される筈もない。

 既に政治的に目がない定子が、そんな常識外れな復帰を果たした所で、受け入れる勢力が今の宮中に存在する筈がないのだ。

 

 何より、そんなことを――あの道長が許す筈もない。

 

「無論、それはそれは激しい批判を浴びたそうですじゃ。政治的云々という話を抜きにしても、前例主義の貴族様達にとっては受け入れ難き特例でございましょうからなぁ。しかし、此度の中宮様の内裏帰参が――他でもない、帝ご自身の強きご希望となれば、無碍にも出来ますまいて」

「……そうですか。一条帝が」

 

 若く、賢しいが為に、名君と謳われながらも、これまで自分の意よりも宮中の和を優先してきた一条帝。

 

 それは全体を俯瞰することが出来る優秀さでもあるが――穿ったことを言えば、道隆や道長の都合のいい傀儡という言い方も出来た。

 

 だが、いかに藤原氏が権力を持っていようと――この国の最高位は天皇である。

 権力の頂に座するのは、関白でも、左大臣でも、そして中宮でもない。

 

『道長よ。(ぬし)の深奥に巣食う渦の正体は、朕には伺い知ることは出来ぬ。――だが、主の野望がどのようなものであったとしても、主からは朕や、そしてこの国を害そうという悪意は感じることはなかった。故に、朕はこれまで主を信じ、共に邁進してきたつもりだ』

 

 若き賢王は、この時、初めて大人に歯向かった。

 

 全体の和ではなく、賢い正解でもない――子供のような我が儘を通した。

 

 一条天皇は、たった一度――国よりも、ただ一人の。

 

『だが、主にとって、中宮だけは違ったのだろう。中宮だけは、主にとっての敵であったのだろう。……主は朕に、そして国に益を齎す男だ。そんな主にとって中宮が敵となるのならば、このまま中宮を排することが、この国を統べる者として選ぶべき正解なのかもしれぬ。……だが、こればかりは譲れぬのだ。――許せ、道長』

 

 王は、男として、愛する女を手放さないことを選んだ。

 

『中宮を内裏へ戻す。これは、朕が決めたことだ』

 

 道長は、そんな天皇の言葉に、ただ一言、頭を下げて言ったそうだ。

 

『――それが帝の御意志ならば』

 

 

「…………」

 

 清少納言は、そこまで聞いて、ついさっき届けられた――中宮定子からの手紙を開く。

 

 手紙には文字は一つとして書かれておらず、差出人の名前すらもなかった。

 

 ただ一枚――山吹の花弁が挟まれているのみだった。

 

 だからこそ、これが中宮定子からの手紙だとは断定はできない。

 しかし、だからこそ、清少納言はこれは定子からの手紙だと確信する。

 

(……山吹――くちなし。……そうですね、中宮様。言葉はいらない。わたし達のすべきことは、あの頃から何も変わっていない)

 

 自分にとって一番大切な方から、一番に愛されること。

 

 一条天皇にとって、中宮定子は代えの利かない只一人の女性だった。

 定子が愛する人から獲得し続けた莫大なる愛は、遂にはあの道長を脅かすまでに至った。

 

「――ならば、わたしも負けてはいられませんね」

 

 例え、内裏に戻れたとしても、中宮定子がこれから進むは荊の道だ。

 天皇が味方だとしても、その他の全てが――道長を始めとする朝廷の全てが、定子の敵として立ち塞がるだろう。

 

 だが、そんな地獄に舞い戻ってでも、定子は戦う覚悟を決めている。

 

 ならば――中宮の番人として、やるべきことは、ただ一つだ。

 

「――あなた様は、どうなさるおつもりですかな?」

 

 滔々と、宮中の現状を清少納言へ語り続けていた、目の前の黒き陰陽師は問う。

 

 清少納言は『枕』を書いていた筆を置いて「わたしは――中宮様の番人です」と呟いて、言う。

 

「中宮様が望むなら――そこが例え、地獄だろうと。――それが中宮様の御意志ならば」

 

 そして、清少納言は内裏へと――この世で最も浄土へ近い場所へ舞い戻る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏へと戻った清少納言を迎えたのは、中宮定子の微笑みだった。

 

「長きに渡る(いとま)、真に申し訳ありませんでした、中宮様」

「あら? 見覚えのない顔ね? 新参の者かしら? ふふ。()()――よろしくお願いしますね」

 

 そんな言の葉を交わし――中宮と清少納言は笑い合う。

 

 清少納言を追い出した形になる女房達は些か以上に気まずそうな顔をしていたが、清少納言はそちらには目を向けない。

 こうして同僚に戻った以上、必要以上の仕返しをするつもりはないが、以前のように友好を深めるつもりはなかった。

 

 清少納言は、ただ目の前の御方の為だけに、こうして地獄に戻ってきたのだから。

 

(……中宮様)

 

 久方ぶりにこうして顔を合わせる中宮は、以前と同じような輝く笑みを浮かべていた。

 

 だが、当然、何も変わらない筈がない。

 家族を失って、母となって――何もかもが変わった。

 

 こうして内裏に戻れたとはいえ、ここはかつて暮らしていた登花殿のような華やかな屋敷ではない。

 (しき)御曹司(みぞうし)とよばれる、本来は中宮に仕える事務職の者達が住まう社寮のような場所だ。

 

 それに何より――中宮の頭髪が。

 かつては背中を覆わんばかりに伸ばされた黒髪が、その半分すら覆えていない。

 

 艶やかな長い黒髪は、この時代の女性の美人の第一条件。

 誰よりも美しかった定子は、誰よりも美しい髪を流していた。

 

 だが、それを失われても尚、定子は付け毛で隠そうとも誤魔化さそうともせず――ありのままの自分で以て、誰よりも美しく輝いている。

 

 清少納言はそれを細めた瞳で見詰めて。

 

「……中宮様。お見苦しいものをお見せするご無礼をお許しください」

 

 と言って――自分のかもじ(付け毛)を勢い良く剥がした。

 

 周囲の女房達がどよめく。この場にいる誰もが、それを知っていたからだ。

 彼女が己の本来の髪質をどれだけ忌々しく思っているか。何よりも、中宮の女房として、それをどれだけ恥ずかしく思っているか。

 

 無論、中宮定子も、それを理解していた。

 しかし彼女は、それをあろうことか――誰よりも己の醜い様を見られたくない、中宮の目の前で外してみせた。

 

 己の一番のコンプレックスである癖毛姿を晒して――それでも尚、強がりながら、不敵に微笑む。

 

「わたしは――中宮様の番人として、もう二度とお傍を離れません。どこであろうと、いつまでも、わたしは中宮様と共に」

 

 中宮定子は、呆然としながらも、やがて呆れるように微笑んで。

 

「可愛いわよ。――わたしの番人様」

 

 中宮と番人は――二人の主従は、今、ここに再会した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 内裏への復帰を果たしても、中宮定子の立場は決してよいとは言えないものだった。

 しかし、完全に身動き一つ出来ないまでに追い込まれていたのかといえば、そんなこともなかったのだ。

 

 中宮が第一子を妊娠し、出産するまでに道長は三人もの女御を一条帝に宛がったが、しかし今日に至るまで、その誰もが子を宿すことはなかった。

 

 そして、中宮を職の御曹司へと住まわせたのは、実は道長の嫌がらせではなく、他でもない一条天皇だったのだ。

 内裏の屋敷に敢えて住まわせていないことで、正式には「入内」ではないという言い訳の為である。出家した女を後宮に戻したわけではないと。

 

 詭弁といえばそれまでだが、ある意味で現代よりもルール主義であるこの時代においては、例え詭弁であろうと筋が通っていれば黙認するしかないのが平安の朝廷であった。他でもない、一条天皇が言い出したことならば尚のことである。

 

 そして、そんな詭弁を黙認しなければならない理由のもう一つが、この国の最重要事である、皇家の血統保持の問題である。

 

 前述の通り、中宮定子が第一子である皇女を生むまで、他の女御が子を孕むことは出来なかった。つまり、この国はまだ、一条帝の皇子を獲得していないのである。

 

 皮肉にも、道長が三人もの女御を宛がったことで、これまで定子のみに責任が集中していた一条帝の世継ぎの問題が、にわかに騒がれ出したのである。

 

 これまでは何故、早く生まないであったのが――このままで、本当に世継ぎを手に入れることが出来るのかという不安に変わったのである。

 

 一条帝は未だ若い皇子だが、これだけ世が流行病に侵され、二人もの関白を失った今、誰もが脳を過ぎらずにはいられなかった。

 

 果たして、この平安京を呑み込んでいる流行病が――かの天皇にまで及ばないということが、保証されているのだろうかと。

 

 と、いうのも、もし、一条帝が不慮の死を遂げてしまえば、次期の天皇の座につくのは東宮・居貞(おきさだ)である――が、居貞は一条帝や良帝として名高かったその父帝・円融天皇と違って、狂帝として有名な冷泉帝、花山帝の血筋なのである。

 

 皆、口には出さないが、一条帝の血筋の皇子に天皇を継いでほしいと願っている。

 無論、そこには様々な思惑が交錯し、出来ることなら自分達が甘い汁が吸える血を引いた皇子であることがベストだろうが――王として優れた主君を求めるのならば、一条の血統を継いだ皇子であることが望ましいと、誰もが本心ではそう思っているのだ。

 

(皮肉ね。女御、そして()()()――己が仕掛けたそれらが、ここにきて自分が最も厭う中宮様の追い風となっているなんて)

 

 清少納言はそう冷笑する。

 これまで平安京を混乱の渦に叩きこんできた誰かの思惑が崩れ始めていること、そして、それが恐らくはその誰かにとって最も面白くない形で跳ね返っていることに、笑みが堪え切れない。

 

 一条帝の世継ぎがそもそも生まれないかもしれない。

 そんな恐怖が生まれた時、皇女とはいえ、第一子を生んだ前例がある中宮定子は、そうなると彼等にとっては完全に排除することが出来ない存在となる。

 

 それに、こうなると伊周を排除したことは更に道長にとっては悪い方向に作用する。

 今、中宮は宮中に明確な後ろ盾が存在しない。それは裏を返せば、誰でも彼女らの盾となることが出来るということでもあるからだ。

 

 しいて言えば隆家だが、道長の恐怖が骨髄まで刻み込まれた奴は、例え中宮が皇子を生んで、自分が摂政になれるかもしれないとなっても平安京に帰ってくることはないだろう。

 

 そうなると、残る可能性は中宮の叔父である道長自身だが――。

 

(奴にそれは出来ない。そうなれば、奴は中宮様の御子を次代の天皇と認めたことになる。彰子様に次代の天皇を生ませることが奴の勝利条件である以上、それだけは出来ない筈)

 

 ここまでは、平安貴族ならば誰もが読めている。

 そうなると彼等にとっては、中宮定子が皇子を生むというのは決して悪い未来ではなくなるのだ。

 

 道長一強である今の状況から、少なくともイーブンに均せるのだから。

 

 つまり――。

 

(――まだ、戦える。中宮様を勝たせる可能性は、まだ生きている)

 

 ならば、自分に出来ることはただ一つ。

 

 清少納言は――宮中へと持ち込んだ白い紙に、滔々と新たな『枕』を綴る。

 

 そして、多くの貴族を中宮の元へと呼びこんだ。

 時には自ら出向いて世間話をし、友好を結んだ。

 

 数多の貴族男子の中を、醜い癖毛を晒しながらも威風堂々と渡り合う。

 女性蔑視が蔓延る宮中を、その才覚のみを武器に、魑魅魍魎たる殿上人らと対し続けた。

 

 全ては中宮定子の名声の為。

 全ては、かの御方の勝利の為に。

 

 中宮定子は死んでいないと。負けていないと、その全てを以て示す為に。

 

 藤原道長が支配する、浄土に最も近い世界で。

 私だけは恐れない――中宮様は、屈しないと、そう叫ぶように。

 

「――」

「――」

 

 例え、道長と遭遇し、形式的に頭を下げることになろうとも。

 

 道長は、そんな清少納言を見て口元を緩めながらも、まるで受けて立つと言わんばかりに、咎めることはしなかった。

 

 清少納言はその背中を睨みつけながらも、力強く立ち上がり、己も背を向けて歩みを進めた。

 

 

 

 そして、それから間もなく――宮中に二つの衝撃的なニュースが轟く。

 

 藤原道長の長娘・彰子の入内。

 

 そして、中宮・藤原定子――第二子、妊娠。

 

 長きに渡る、とある誰かの物語が。

 

 今、遂に――終着点に辿り着こうとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これも、定子の持つ運命力の強さなのだろうか。

 どれだけ苦難が続き、悲劇的な目に遭おうとも、決して致命的には陥らずに、どれだけか細くとも残された可能性の糸を手繰り寄せる。

 

 だが、清少納言はもし誰かのそんな呟きを耳にしたら、こう言ってのけるだろう。

 

 全ては、中宮定子が獲得し続けた愛の結果だと。

 

「――よくやった」

 

 定子の懐妊を聞いた時、一条帝は誰よりも嬉しそうにそう言ったらしい。

 

 その膝には定子が生んだ一条帝の第一子である皇女・脩子(しゅうし)が座っていて、その横には一条帝の母后であり脩子の祖母でもある詮子が微笑んでいる。

 

 これも道長にとっては想定外の一つだろう、と清少納言は思う。

 道長は伊周を排除する際に、キーパーソンとして詮子を利用した。それ故に、道長は詮子を己の陣営の存在だと思い込んでいたのかもしれない。いや、道兼や伊周よりは道長を詮子が可愛がっていたのも事実であろう。

 

 だが、彼女は姉である前に、母であった。

 現に彼女はこう言っていた――「全ては帝のおんためを思っている」と。

 

 彼女の中で最大の優先順位は常に一条帝であった。

 そんな彼女が、一条帝の第一子であり――己の初孫である脩子を、可愛がらない筈がないのだ。

 

(つまり、奴は詮子様という大きな手札をも失ったことになる。そして、脩子様は詮子様だけでなく、帝がこうして中宮様の元を訪れる縁にもなってくださっている)

 

 親が子に会いに行って何が悪い。

 そう帝に開き直られてしまえば、例え、中宮の立場が政治的に危ういものだったとしても強く言える者はいない。あの道長でさえもだ。既に定子に関しては、道長は一度、一条帝に強く出られて、それを認めてしまっている。

 

 だが、それを黙って指を咥えて見ている道長ではない。

 彰子が十二才となり、成人の裳着を済ませたその直後のこと。

 

 定子が第二子を身籠ったと、そんな報せが宮中に囁かれた、そんなタイミングで、道長は打診した――己が娘・彰子の入内を。

 

 一条帝はそれを受け入れた。

 否――受け入れずにはいられなかったという方が正しい。

 

 たった十二才の娘。一条帝も若いとはいえ、そんな彼にしても今の彰子は子供にしか見えないだろう。子を孕むような行為など出来ようもない。

 しかし、それでも受け入れざるを得なかったのは、一条帝が賢帝であるからとしかいいようがない。

 

 いうならば、一条帝は花山帝ほどに愛のみには生きることは出来ないのだ。

 

 政治的に苦境に立たされた定子を守るべく、道長に強く出た一条帝だったが、それでも、宮中の貴人のほぼすべてを掌握する道長と決定的に対立することが、どのような未来に繋がっているかを想像出来ないほど、一条帝は無能ではない。

 

 定子の第二子懐妊という、道長にとっては最も避けたかったであろうことを実現させてしまった一条帝にとって、ここで、自分に殆ど益のないことだとは分かっていても、道長の娘の入内を拒むということは出来なかったのである。

 そんな己の心情を全て道長が読み切り、このタイミングで切り出してきたのだと分かっていても。

 

(だが、全てはもう遅い。中宮様はその御身体に、既に御子を宿しておられる。後は、その御子が男児であれば――皇子であれば)

 

 中宮一行は出産の為に、職の御曹司からすら再び追い出され、内裏を後にする。

 用意されたのは平生昌(たいらのなりまさ)という中宮職の男の屋敷。だが、とある筋から清少納言はこの男こそが、あの事件の折に道長一行を二条北宮に招き寄せた裏切り者の密告者であると看破していた。

 

(……あの男は、どこまで――)

 

 清少納言は歯ぎしりしてしまいそうな衝動を抑えた。

 いざという時は――と、己の懐に忍ばせたそれをいつでも取り出せるようにしながら、中宮を迎えるのに相応しくない、その小さくみすぼらしい屋敷を、女房の同僚達と生昌に聞こえるように揶揄しながら、引越し作業を進めた。

 

 本来であるならば中宮の引越しなど大勢の貴人が手伝いに来る筈なのだが、今の情勢では殆ど身内しかいない。

 清少納言の『枕』のお陰で少なからず取り戻した筈の中宮の求心力も発揮されていない。道長が見越したように同日に催しを開いたので、貴人達は皆、そちらの方へ出席している。

 

 何を隠そう、今日というこの日に、道長は彰子の入内祝いの宴を開いているのだ。

 未だ十二才の子供の女御に箔をつける為にか、それとも己が権力を見せつける為にか、嫁入り道具に金箔の屏風を用意し、そこにこの宮中に置いて名手と謳われる歌人達に歌を詠ませて、それを書き記した世界に一つだけの豪奢な一品を作り上げて、だ。

 道隆と違い、そういった貴族の遊びを余り好まない道長がそこまでして盛り上げたいと思うことが、今の道長の状況を表しているといえる。

 

 そして、その名歌の数々を金屏風に書き記すのが――稀代の能書家である藤原行成だというのだから、それはそれは素晴らしい一品だろう。

 

「……………」

 

 清少納言は、胸に走る痛みを無視するように無心で働き続けた。

 

 

 

 そして、それからしばらしての――とある日のことである。

 

 定子の腹も大きく膨らみ、出産を間近に控えた綺麗な月の夜。

 

 平生昌の屋敷に――新たに一条帝の女御となった、道長の娘・彰子本人が来訪したのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 清少納言は絶句する。

 中宮の番人を自称し、これまで数多くの中宮へのお目通りを願った貴人と相対してきた彼女が、その動揺を隠しきれずに目に見えて狼狽えていた。

 

「こんな夜更けにごめんなさい。でも、どうしても会いたくて、居ても立っても居られなかったものですから」

 

 目の前の少女は、そうクスリとも笑わずに言う。

 その整い過ぎた容姿、冷たくも見える無表情は、紛れもなくとある男からの遺伝を感じさせる。

 

 一本に結んであったそれを解けば、さらさらと流れるような黒髪を靡かせる。

 するとその髪は、その小さな身体を包み込むように広がった。

 

 小さい。まだ子供だ。

 美しい顔立ちであり、将来はさぞ大層な美女になることは想像に難くないが――まだ、十二才の子供である。

 

 藤原彰子――藤原道長の長娘であり、ついこの間、一条天皇に入内したばかりの女御。

 

(……そんな存在が、今、この時期に中宮様を来訪する? それも、こんな夜更けに、何の前連絡もなしに――()()()()()で?)

 

 そう、一人。あろうことか、道長の娘であり一条帝の女御となった少女は。

 既にこの宮中では、天皇の子を身籠っている中宮定子と同じく、あるいは、政治的立場からみればそれ以上に重要な存在である筈の彰子は、一人の御供も連れずに、この屋敷を訪れたのである。

 

 屋敷の一応の主人である平生昌が、何故かがたがたと震えながらこうして清少納言ら女房の前に連れてきた時、彰子はたった一人で、くすりとも笑わず無表情で現れたのだ。

 

「……彰子様。お連れの方はいらっしゃらないのですか?」

「ええ。夜のお散歩中に、ふと訪れてみたくなったから。勿論、一人じゃなく、この子も一緒だけれど」

 

 この子――と、彰子はその小さな腕の中に抱いている、白い兎を撫でる。

 一見すると、ただの白い身体と赤い目が特徴の、どこにでもいる、只の兎だ。

 

 彰子の愛玩動物(ペット)だろうか――と、清少納言がその兎に注意を向けると、懐に忍ばせていたものが強い反応を示す。

 

「ッ!? 式神――ですか?」

 

 清少納言の言葉に、周囲の女房達が強い警戒心を示す。

 

 震える生昌を他所に、当の彰子は「あら? よく分かったわね」と言いながら、優しくその背を撫でる手を止めずに答える。

 

「晴明から貰ったの。何でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいわよ。よく分からないけれど。私にとっては可愛い只の望月だわ」

 

 望月(もちづき)――そう呼ばれて抱きかかえられた、額に満月のような黄色い痣を持つ兎。

 それを見せつけるように胸に抱いて、その赤眼を向けさせる彰子に、清少納言は生唾を呑み込みながら尋ねる。

 

「……なるほど。かの陰陽頭(おんみょうのかみ)様の式神をお連れならば、確かにご安心でしょう。しかし、帝や左大臣様は、さぞご心配なされているのでは?」

「大丈夫よ。用が済んだらすぐに寝床に戻るし、それに――」

 

――間違っても、今の帝は私の寝床になど来ないでしょう?

 

 そう言って、ここに来て初めて、無表情を崩し――ゾッとする程に妖艶に微笑む。

 

 たった、それだけで。百戦錬磨の中宮の女房達が、全員揃って息を吞ませられた。

 

(……これが、彰子(しょうし)様。未だ十二才の子供と侮るなかれ。この御方は既に一条帝の女御であり、何より――あの、藤原道長の娘なのよ)

 

 藤原定子とはまた異なった意味で、人並外れた美しい少女。

 定子が咲き誇る華、輝ける太陽のような美女であるならば、彰子は見る者を引き摺り込むような、妖しい月光のような美を秘めている。

 

 もし、この少女がこのまま成長していったら――果たして、どれだけ危険な敵となり得るのか。

 

(そう、忘れては駄目。目の前に居るのは彰子様。一条帝の新たなる女御にして、藤原道長の娘――中宮様の、て)

 

「私が今日、ここに来た用とは、ただ一つよ」

 

 清少納言の思考が纏まり切るのを待たず、彰子は単刀直入に言った。

 

「中宮定子様とお話をさせて。二人きりで。それがしたくて、私は夜のお散歩ついでにここに来たの」

 

 その言葉に、再び絶句する清少納言達。

 たった十二才の少女に、中宮の女房達が見事に手玉に取られている。

 

(――ッ! 何を考えているのか分からない、のに……気が付けば、全てが掌の上で転がされる、この感じ……。大胆不敵な行動、単身で敵地に乗り込む度胸、何もこちらに読み取らせない無表情。その全てが――あの男を彷彿とさせる……ッ!)

 

 後手後手に回っていることを自覚しながらも、清少納言は何とか言葉を返す。

 

「……まことに申し訳ありませんが、中宮様は既にお休みになられています。お手数ではございますが、また後日とさせて頂くわけには参りませんか?」

「嘘ね。中宮様はまだ起きてらっしゃるでしょう?」

 

 ビクッと、その言葉に思わず若い女房の一人が肩を震わせてしまう。

 清少納言は件の女房を睨みつけたが、既にその様子は彰子に気付かれた後だった。

 

「ふふ。まだ寝るには早いし、月の綺麗な夜だからきっと、と。そう思っただけなのだけれど。あながち私の決め付けというわけでもなさそうね」

「……彰子様。目的は、何でしょうか?」

 

 子供騙しが通じる子供ではないと、そう判断した清少納言は表情を険しくし、深く切り込む。

 それに宰相の君らは待ったを掛けようとしたが、既に清少納言は止まらなかった。

 

「目的? さっき言ったでしょう? 中宮様とお話したいだけよ」

「この情勢下で、それだけだとは到底思えません。左大臣様は、一体何を企んでいらっしゃるのですか?」

「お父様は関係ないわ。私がそうしたいと思ったから、私はここにいるに過ぎない」

「信用出来ませんッ! あなたは――藤原道長の娘でしょう!?」

 

 感情が昂り、思わず道長を呼び捨てにして叫ぶ清少納言。

 その失言に宰相の君をはじめとする女房達が、そして清少納言自身がハッとする中。

 

 彰子は激昂するでも、眉を顰めるでもなく――嗤った。

 

「……あなた、清少納言と言ったわね」

 

 だがそれは、清少納言の失態を嗤うもの――ではなく。

 

「あなた――そんなに、藤原道長(お父様)が怖いの?」

 

 その――言葉に。

 女房達は一斉に清少納言の方を向き、そして、清少納言は。

 

「………………ぁ」

 

 何の感情故なのか。

 戸惑いなのか、怒りなのか――それとも。

 

 小さく震える唇を、それでも懸命に動かして、何かを言おうとしている、そんな時に。

 

「――奇遇ですね。私も、あなたとお話ししてみたいと思っていました。彰子様」

 

 清少納言の背後から、その声は現れた。

 伸び始めた黒髪、大きく膨れたお腹、けれど、そんなことはまるで感じさせない美しさを放つその女性は、そっと宰相の君に目配せをする。

 

 宰相の君は平生昌を下げさせると、彰子との間にあった御簾を上げさせた。

 

 そして中宮定子は、彰子と真正面から対面し、微笑む。

 

「こんな醜い姿でごめんなさい。会いたかったです、彰子様」

「こちらこそ、大変な時に突然、お邪魔してごめんなさい。醜いなんてとんでもない。私がこれまで出会った全ての人で――最も美しい御姿ですわ、中宮様」

 

 それは、中宮の美しさの象徴であった身の丈以上の黒髪を失わせた仇敵の娘が言うには相応しくない言葉だったかもしれない。

 

 だが、それでも誰も何も言わなかったのは。

 それが本心の言葉であると、心からの称賛であると、女房達は勿論のこと、定子本人にも伝わっていたからだ。

 

 氷のような無表情であった彰子が浮かべている、輝かんばかりの満面の笑みが、それを何よりも物語っていた。

 

 その年相応の、少女のような笑みに、先程までの覇気を放ち続けていた彰子の姿を知っている女房達は呆気に取られ。

 

 中宮定子も、少し呆然とした後――その笑みをとても優しい笑顔に変えて「……私と、二人きりでお話したいのであったわね?」と言う。

 

 彰子は身を乗り出すように「はい! 是非に!」と言って答えると、定子は「それではそうしましょうか。あなた達、少し席を外してくれるかしら?」と、女房達に命を出す。

 

 当然、それに納得の出来る清少納言ではない。

 

「中宮様。お産を間近に控えた御身体です。ご自愛ください」

「少しくらいなら大丈夫よ。それに――」

 

 定子は彰子の方を向き合いながら、柔らかい笑みを以て言う。

 

「――同じ男性に嫁いだ后同士なんだもの。先輩として、後輩の相談には乗ってあげなきゃでしょう?」

 

 その、余りにも毒気のない笑みに(……これも、惚れた弱みというのかしら)と、清少納言が押し負けそうになりながらも「……しかし、彰子様には安倍晴明様の式神が付いています。二人きりにするのは――」と抵抗すると。

 

「それでは、この子はお庭に放ちましょう。ちょうどこの子好みの月明りの夜ですし。それを貴女方が見張っていればよろしいのでは?」

 

 そう言って彰子は「遊んでおいで」と、庭に望月と呼ばれた兎を放つ。そして、不敵に笑って清少納言を――正確には、その懐を見た。いざという時は、()()で止められるでしょう? と、そう言わんばかりの視線で。

 

「…………」

 

 これ以上、清少納言は何も言うことが出来ず。

 

 月明り眩い、望月の夜に。

 

 中宮――藤原定子と。そして、後にまた、中宮となる少女――藤原彰子は。

 

 誰にも知られない、たった二人で語り合った夜を過ごした。

 

 定子は本当に女房の誰にも耳をすませることすら許さず、また彰子も、この夜のことは誰にも、一条帝にも父・道長にも語ることは生涯なかった。

 

 故に、この夜のことを知っているのは、世界でただ二人であり。

 

 宮中の貴族達に翻弄され、その人生を若くして定められ、また歪まされた后達は、誰にも彰らかにされることのない一夜を過ごした。

 

 昏く、黒い策謀、野心に振り回されながらも、尚も輝かしく、美しく生きた二人の中宮。

 

 たった一夜、二人で共有したその月明り眩い夜を、二人は笑顔で語り明かした。

 

 二人が何を語ったのか。

 

 一条天皇についてか、生まれる新たな命についてか、藤原道長についてか、この国の行末についてだったのか。

 

 それは誰も知らず、それは誰にも知られない。

 

 秘密裏に行われたこの密会は、月が消えぬ前に、彰子が屋敷を後にしたことで終わりを告げた。

 

 その月夜、兎を見たと、そう噂する民がいた。

 

 満月に姿を映すように跳ね回っていたその兎は、それはそれは、とても楽しそうであったという。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、そんな夜から、そう日は経たぬ間に――その運命の夜は訪れる。

 

 中宮定子が産気づいたのだ。

 

 この日もまた、長い、長い――夜になった。

 

 

 




用語解説コーナー⑮

望月(もちづき)

 道長パパが(晴明に強請って)娘である彰子に与えた式神。

 実は『十二神将』・『太裳(たいじょう)』だったりする。親馬鹿にも程があるだろ。
 
 本来の太裳は天帝に仕える文官とされるが、この物語では姫に仕える兎となった。

 月にいるとされる兎・玉兎をモデルに安倍晴明が創り出した式神であり、兎本体に強い戦闘力があるわけではないが、望月が主と認めた相手に特別な力――兎のようにあらゆる場所で跳ね回る身軽さと、例え月面のような過酷な環境であろうと生存できる適応力を与える性質を持つ。

 道長の夢そのものである彰子に相応しいとして与えられたが、当の彰子は望月を可愛いペットとしか思っておらず、こっそりと夜の平安京に散歩と称して連れ出して思う存分跳ね回って遊び、飽きたら家に帰って共に布団の中に潜ってもふもふしながら愛でている。
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