比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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夜もすがら 契りしことを 忘れずや 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき


妖怪星人編――⑯ 中宮定子

 月も見えぬ暗い夜。

 

 轟々と焚かれた火に向けて唱えられる僧達の読経の声を掻き消すように、女の苦しむ声が響き渡っていた。

 

「ぐぅぅぅぅあああああああああああああああああ!!!」

「濡れた布を持ってきてッ! 中宮様の汗を拭いてッ! それから布を口に噛ませて! 舌を噛まないように!」

「大丈夫です! 大丈夫ですよ、中宮様! ……どうしてッ!? 脩子様の時はこれほど苦しまなかったのにッ!」

 

 定子が産気付いてから果たしてどれだけの時間が経過したのか。

 時が経つにつれ、中宮の苦しみような尋常なものではなくなり、手当たり次第に僧を集めて別室にて経を読ませているが、定子の苦しみは一向に和らぐ気配がない。

 

 定子の顔が徐々に青白くなり、介助する女房達に最悪の未来が過ぎる。

 そんな想像を掻き消すように互いに大声で指示を出し合うが、そんな怒声を掻き消すように、一人の黒衣の侵入者が現れた。

 

「――ッ!? 何奴、ここを何処と心得――え? 清少、納言?」

 

 黒衣の正体は、いつの間にか姿が見えなくなっていた清少納言だった。

 いつもの華やかな和服ではなく、まるで僧――否、陰陽師のような黒服を纏い現れた清少納言は、女房達の戸惑う視線を意に介さず、中宮の元へ歩み寄りながら告げた。

 

「皆様も気付いているでしょう。これは――呪いです」

「呪い!? まさか、中宮様を!? 一体、どこの誰が――」

「それも、気付いているでしょう。既に宮中に中宮様の御出産を憂う者は数知れず。しかし、今、最もそれを望まず、かつ、これほどまでに強力な呪いを送る者など――ただ、一人」

 

 その場にいる誰もが、同じ人物の様相を頭に浮かべる。

 清少納言は、悶え苦しむ中宮の手を握りながら――強く、囁く。

 

「……大丈夫です、中宮様。貴女様の番人である、この私が――あなたをお守りします」

 

 中宮はそれに言葉を返すことも出来ない。

 だが、強く、更に強く――その手を、ギュッと握り返した。

 

「……こんなこともあろうかと、既に名のある陰陽師に結界を張る準備をさせています。皆様はここからご退去を」

「馬鹿なッ! 我々がここを離れたら、誰が中宮様の御産のお手伝いをするのです!?」

「そ、それに、かの左大臣様には陰陽頭の安倍晴明様が! この京で最も高位であらせられる陰陽師の放つ呪いを防げる結界を張れる陰陽師などいるわけが――」

「中宮様の御産は、この私が介助いたします。これでも二人の子を産んだ身、必ずやその御子を無事に取り出してみせましょう。そして、結界に関してですが――」

 

 清少納言は懐から黒い人形の式符を取り出し、言う。

 

「――これが、その件の陰陽師から預かった、結界の核となる術符です。これが燃やされない限り、結界が外から壊されることはないとのこと」

「そ、それでも、安倍晴明様なら、そんじょそこらの陰陽師の結界など――」

「この術符は――蘆屋道満様より預かったものです」

「ッ!!?」

 

 清少納言が出したその名に絶句する女房達。

 

 蘆屋道満、または道摩法師。

 それは、いつ頃か、この平安京に流れる一種の都市伝説だった。

 

 ある人曰く、それは今にも死んでしまいそうな老爺で。

 ある人曰く、それは武士のように筋骨隆々な美男子で。

 

 その術は彼の安倍晴明にも劣らぬ奇跡を生み出し。

 その呪は彼の陰陽頭にも実現不可能な災いを齎す。

 

 出会った者はおろか、姿を見た者もおらず、やがてそれは安倍晴明という絶対最強の、並び立つ者すら存在しない規格外(ジョーカー)に対抗する為に生み出された空想の陰陽師だと揶揄されるようになった。

 

 だが、清少納言は、そんな存在から受け渡されたという術符を掲げて言う。

 

「かの陰陽師には、この屋敷の傍で待機していただいています。私がこの術に気を流すことを合図に結界を張っていただきます。安倍晴明様といえど遠隔から放つ呪いならば、術の核が内側にあり、なおかつ結界を張る術者がすぐ傍にいるこの状況ならば防ぎきれるというのが、道満様の御言葉です」

「……あなたがいつ道満様と親交を深めていたのかは気になりますが、今はそれは問いません。ですが、これだけは問わせていただきます」

 

 宰相の君は清少納言に固い声色で問う。

 

「あなたは、今日、左大臣様が中宮様に呪いを掛けてくることを予想していた。故に、それに対する準備を道満様と進めていた。そうですね?」

「ええ」

「ならば――何故、それを私共にも教えてくれなかったのですか?」

 

 宰相の君の言葉に、清少納言は彼女の方も見ずに言う。

 

「……密告者が一人とは限らなかったものですから」

「……私達を疑っていたの?」

「最初に疑ったのはあなた達でしょう?」

 

 清少納言の言葉に、宰相の君も、その他の女房も口を噤む。

 そして、清少納言は、彼女達の方を見ずに、ただ中宮だけを見詰めて言った。

 

「……それに、元々、結界の中には私だけを残すつもりでした。結界の中で守る人の数が少ない程、その一人当たりの守る力は増す結界だそうですから」

 

 ですから、早く出て行ってください――そう清少納言は言う。そして、吠える。

 

「私は一刻も早く中宮様の苦しみを和らげて差し上げたいのです! あなた達を守る分などありはしないッ! 結果を張ります! ですから――早くこの場から出て行けッ!」

 

 この場に居ていいのは、私と中宮様だけだッ!! ――清少納言は黒い術符を突き付けるようにして吠える。

 

 その有様に絶句する女房達だが、その黒衣が開けて僅かに見えた清少納言の素肌――そこから黒い瘴気のようなものが出ているのを見た宰相の君は「……分かりました」と、瞑目する。

 

「よろしいのですかッ!?」

「……清少納言の、中宮様を想う気持ちは紛れもなく本物です。私達に中宮様をお助けする術がない以上、ここは彼女に任せる他にないでしょう」

 

 そう言って宰相の君は他の女房達を部屋の外に出す。

 そして、他の女房達が全員部屋を出た後、最後に振り返り。

 

「……ごめんなさい。あなたを守ることが出来なくて」

「…………」

「……お願いします、清少納言。どうか、どうか――」

 

――中宮様を、お願いね。

 

 宰相の君は、そう、何かを滲ませた笑みを以て言った。

 

「………………」

 

 そして、二人きりになった密室で――清少納言は術を発動する。

 

 黒い御簾が下ろされた。

 四方を取り囲むように出現したそれは、途端に空間内を不思議な空気で満たす。

 

 清少納言は、徐々に呼吸が落ち着いていく中宮を見て表情を和らげる。

 未だ苦しみが消えたわけではない。だが、いまにも死んでしまいそうだった先程に比べれば幾分かマシになったようだ。

 

 代わりに――清少納言は血を吐き出した。

 ゴホゴホと咳き込み、その口を押えた手に、赤い血が付着していたのだ。

 

 結界内で守るべき人の数が少ない程に、この結界は守る力が増す。

 故に、二人きりになった空間内において、清少納言は己を守る数に含めなかった。

 

 蘆屋道満お手製だというこの黒い術衣。そして、前もって法師に浴びせられていた黒い瘴気に慣れる為の呪い。それだけを以て清少納言は、守るべき人を守る瘴気の中で――対して、守るべきもの以外を害す毒の中で、中宮を支えることに決めたのだ。

 

「――中宮様。貴女様と御子様は、この私が守ります。私は最後まで――最期まで、貴女様の御傍に」

 

 そして、命懸けの出産が始まる。

 それは、長い、長い、とある人物の――最後で、最期の、戦いだった。

 

「はぁ……っ…………はぁ……ッ……はぁ……!」

 

 苦しむ中宮の手を握って、毒を浴びながら支える番人。

 

 どれだけそうしていただろう。

 だが、無論、それだけでは終わらない。

 

 長い出産が終わりに近づこうとしていた時――朦朧としていた清少納言の意識を覚醒させる音が響いた。

 

 ビリっ――と。

 何かが、裂ける音。

 

 黒い御簾が、引き裂かれている。

 外から突き出された短刀が、黒き瘴気に満たされた空間に穴を開ける。

 

 そして、外に逃げる黒い瘴気を浴びながら、一人の男が侵入してきた。

 中宮が出産している寝床――およそこの世で最も犯し難い空間に、土足で踏み込むことが出来る、ただ一人の男。

 

「――なるほど。随分と無茶をする。死ぬ気だったのか? 清少納言」

 

 鋭い眼光。撒き散らされる覇気。

 男は、薄い笑みすら浮かべながら、二人の女を見据えていた。

 

「……藤原……道長……ッ!」

 

 清少納言は咄嗟に中宮の盾になろうと立ち上がろうとしたが、強烈な目眩でふらついてしまう。

 道長は「よい。中宮様の介助を続けよ。ここまで戦い続けた中宮様の奮闘を無為にするつもりか?」と言いながら歩み寄る。

 

「ふざけるな……ッ。ならば、お前は何の為にここに来た!? そもそも、どうやってここまで――他の女房は……宰相の君は」

「落ち着け、清少納言。他の女房だが、悪いが眠ってもらっている。この結界の外にいる者達は、全てな。読経の声も聞こえぬだろう。そもそも、あんなものには何の意味もないが」

「ッ!? ど、道満殿は――」

「道満とやらは知らぬが、大方、結界の維持に専念しておるのではないか? 賢き男だ。私の歩みを止めるよりも、この結界が壊される方が致命的だと正しく判断出来たのであろう。見てみよ。私が短刀で開けた穴も、既に修復されているだろう?」

 

 道長の言葉に清少納言は彼の背後に目を向けるが――確かに、黒き御簾は再び閉鎖空間を創り出している。黒き瘴気は、再びこの空間に充満していた。

 

(……ならば、何故、この男は飄々としていられる? ――その白い衣か)

 

 恐らくは、清少納言が身に着けている黒衣と同じように、道長が身に纏っている白衣が――恐らくは安倍晴明お手製の――この黒き瘴気に対する耐性を発動しているのだろう。

 

 それでも、清少納言が苦しみ、藤原道長が飄々としているのは――蘆屋道満が作った黒衣と安倍晴明が作った白衣の差か、それとも清少納言と道長の元々の素養の差か。

 

 顔を苦渋に染める清少納言に、道長は「案ずるな。私は中宮様に直接的な害を加えに来たわけではない」と嘯く。

 

「戯けたことを! 今、ここは中宮様の御産の場! そこに男が無断で土足で立ち入ること! これ以上の無礼があるものか! そんな禁忌を犯す不届き者の悪意を疑うものかッ!」

「そなたには用はない。私が、用があるのは――ただ一人、この御方だけだ」

 

 再び歩みを進める道長を止めようと清少納言は飛び掛かる――が、道長はそれを振り払う。グイッと身体を持ち上げられるような浮遊感と共に、清少納言は黒き御簾に叩き付けられた。

 

(ッ! な、なに、この力ッ!? これも白衣の力なの――!?)

 

 肺の空気が吐き出されるような衝撃に立ち上がることの出来ない清少納言。

 そんな彼女を一瞥もせずに道長は中宮の手を握る。

 

「お久しぶりです。中宮様」

「――みち、なが……殿」

 

 苦しみに朦朧とする中宮。清少納言は「……ちゅう、ぐう……さまに――触れるなッ!」と、畳を這うようにしながら吠える。

 

「……まさか、貴女様がこれほどまでに呪いに打ち勝つとは。この道長、正直侮っておりました。貴女様のことを、私は誰よりも評価していたつもりでしたが――それすら、まさか過小評価であったとは」

「ふふ……そう。それは、私を甘く見たわね」

「ええ。この道長の眼、節穴でございました」

 

 まったく、貴女は恐ろしい御人だ――道長と、中宮の、その穏やかですらある会話に、清少納言は混乱しながらも「――そうよ。中宮様は、お前なんかよりずっとずっと強い。中宮様が皇子を生む直前になって焦って、こんなことをしても意味なんてない! 中宮様は負けないッ!」と、ゆっくりと立ち上がりながら吠える。

 

 道長は清少納言のそんな言葉を「ふっ――」と笑い、中宮の手を離して立ち上がり、清少納言と向き直る。

 

「清少納言。中宮の番人などと嘯いている割には、そなたは何も分かっていない」

「ッ!? な、何を――」

「もしやそなた、中宮様が皇子を産みそうだから、私がここにきて焦って呪いを掛け始めたと、そう思っているのか?」

 

 何を――何を言っている?

 清少納言は黒い瘴気が渦巻く空間で急激に喉が渇くのを感じる。

 

 目の前の男、藤原道長は――禍々しい野心家だ。

 平安京内の秘境に隠れ、粛々と『枕』をしたためていた時、黒き陰陽師――蘆屋道満に探らせ、清少納言は道長という男を知った。

 

 その内に飼う黒き野心を満たす為に、この男はあらゆる悪辣な手段を選ばずに実行した。

 中宮を政略的に孤立させ、伊周を排除する為に法皇や女院すらも利用し、京を未曽有の大混乱に陥れる流行病すらばら撒いて見せた。

 

 まさに悪魔の所業だ。

 魑魅魍魎と同一視される怪物達の陰謀渦巻く内裏においても、歴代に類を見ない化物。

 

 だが、そんな男でさえも。

 どれだけその周囲を破壊し、心を圧し折ろうとしたといえど――この国に住まう者にとって、内裏に生きる者にとって、天皇と、そして中宮は、神聖なる存在だ。

 

 犯しべからずな存在だ。

 だからこそ、そんな中宮を直接的に呪うなどいう蛮行は、いくら道長といえど、本当に追い込まれた末の最後の手段として、悪魔なりの葛藤を経ての行動だと――そう、信じていた。

 

 そう、信じていた。

 この期に及んで、清少納言は――藤原道長という怪物が、その黒き野心が、どれだけ禍々しいものなのか、その一端といえど、理解していた筈なのに。

 

「私が――中宮を呪ったのは、今宵のことではない」

 

 道長は言う。怪物は語る。

 黒き瘴気の中で、己が内に燃え盛る黒々しい野心を。

 

「中宮大夫として、中宮様の輝かしさをその目で見た時から。いつか、この私の前に立ちふさがるであろうと確信したその日から――私は、中宮様を呪い続けていた」

 

 人知れず、ひっそりと――けれど一分の容赦もなく。

 

 己が才覚を、覇気を内に抑え込んでいたあの日から。

 それでもいつか来るこの日の為に。

 

「おかしいと思わなかったのか? あれだけ一条帝に愛されていた中宮がどうしてずっと子に恵まれなかったのか。やっと恵まれた待望の第一子が皇女であったのが、只の偶然であったとでも?」

「で――でも、中宮様はこうして!」

「だからこそ、私はこうして敬服の言葉を御届けに参ったのだ。本当に、凄まじい御人だと」

 

 道長は再び膝を折った。

 中宮定子に――心からの敬意を示すように。

 

「番人だ、理解者だと嘯いていながら、お前は本当に何も知らなかったようだ。少しは警戒していたのだが、それも不要であったようだな。――お主は、本当に、何も知らない」

 

 道長の清少納言に対する声色がみるみる冷たくなっていく。

 清少納言は黒き瘴気に酸素すら奪われたかのように、喉の渇きに続いて息苦しさを覚えるように胸の辺りを掴んだ。

 

「お前は何も知らなかった。中宮様が私とどれだけ苛烈に戦っていたのか。お主たちが華やかな日常を無邪気に楽しんでいる裏側で、この御方がどれだけ、私達貴人の思惑の中で苦しんでおられたのか」

「――――っ」

「お前は何も知らない。お前は何も見ていない。見て見ぬふりを続け、気付かぬ振りを続けて――そして、全てを失う」

 

 お前に、中宮様の番人を名乗る資格などない――道長はそう吐き捨てた。

 それは覇者・藤原道長が、清少納言に見せた初めての本気の侮蔑だった。道長が、初めて清少納言にぶつける心からの敵意だった。

 

「………………っっっ!!!」

 

 清少納言はそれを真正面から向けられただけで、自分の心が折れるのを感じた。

 戦っているつもりでいた。負けないと思っていた。だが、それは、本当に只の一人相撲であったのだと痛感した。

 

(道長にとって、私は只の中宮様のおまけだった。道長は、そして中宮様は――ずっと、お互いだけを見て、ずっと熾烈に戦っていたんだ……)

 

 何も出来なかった。何もしなかった。何も知らなかった。

 

 ずっと、ずっと、いつまでも続くものだと思っていた。

 この華やかで、煌びやかで、美しい世界が――いつまでも終わらないのだと思っていた。

 

 だからずっと、見て見ぬ振りをして、気付かない振りを決め込んでいた。――その傍らで、誰よりも守らなくてはならない人が、誰よりも恐ろしい敵と戦い続けていたのに。

 

「――そんなことはないわ。可愛い、可愛い、私の番人様」

 

 途切れ途切れの、儚い呼吸音。

 けれど清少納言が聞き間違える筈がなかった。

 

 それは、この世で最も愛した御人の声だったのだから。

 

「……中……宮……さま」

「こっちへ……おいで」

 

 清少納言は、幼子が母を求めるように中宮に駆け寄る。

 道長は何も言わず、ただ一歩後ろに下がり、主従だけの場を作った。

 

「中宮様、私は何も……何も、貴女様の為に――」

「――清少納言。私、あなたに会えて、本当に嬉しかったの」

 

 中宮は清少納言に握られた手を、更に両手で包み込んで言う。

 

「私は、関白の娘に生まれて――中宮になった。お父様にとっても、お母様にとっても、私は娘である前に中宮になったわ。……私は、正直に言うと――どうしたらいいのか分からなくなった」

 

 それは、清少納言が初めて聞く、中宮の弱音。

 たった十四才で帝に嫁いで、中宮と――国の母となった女の本音。

 

「帝のことも、正直に言うと、初めは弟のようにしか思えなかったわ。でも、すごく優しくて、頭がよくて……小さな身体で、この国のことを本当に大事に思ってて……すぐに好きになった。すごく好きになった。だから、どうしたらいいか分からなかった私は――この人の為に生きようって、そう決めたの」

 

 誰よりも強く、誰よりも美しく在り続けた女性は、清少納言の手を弱弱しく握りながら、それでも――微笑む。

 

「ずっと私は、中宮として、帝の后として、新たな帝の母として生きていくんだって思ったの。それは望んだことだし、望まれたこと。でも――あなたが現れた」

 

 清少納言は、強く強く握る。

 情けない涙を流しながら、十以上も年下の女性に――けれど、自分よりも遥かに強く、遥かに美しい女の手を。

 

「あなたといる時は、私は只の定子でいられたの。同じ考え方を共有して、同じものに価値を見出して――私という人生を認めてもらえた気がして」

 

 定子は、握る。そして、伝える。

 この世でたった一人の同志に――あなたに出会えて、本当によかったと。

 

「あなたは私を守ってくれていたわ。可愛い、可愛い、私の番人。だから――そんな顔をしないで」

 

 覇者の呪いを受け続けた体で、陰陽頭の呪いと戦い続けた体で、滝のような汗を流しながら――清少納言の涙を拭う。

 

 そんな中宮の優しさに、清少納言は涙を止めることが出来なかった。

 

「脩子の時は見てもらえなかったから、この子の時は、一番にあなたに抱きかかえてもらいたいの。だから――しゃんと、しなさい」

 

 清少納言は、中宮の手を両手で強く握り締めた。

 そして、残りの涙を自分で荒々しく拭うと――中宮定子に、改めて告げる。

 

「私こそ――貴女様という華に出会えて……あなたを愛せて、幸せでした」

 

 余りにも胸の中に、莫大なる感情が荒れ狂って、言葉に出来ない。

 

 これこそが――藤原定子の愛。

 ずっと一条天皇にだけ捧げられ続けた、今、この時、ほんの少しだけ分けていただけた、中宮の愛。

 

 なんと偉大な御方なのだろう。なんと尊き――女性なのだろう。

 これほどの愛――打ち破れない呪いなどある筈がない。味方しない運命などある筈がない。

 

 起こせない奇跡など、あるわけがない。

 

「よいのか? 清少納言。中宮様は、これまでずっと私が送った呪いと戦い続けてきた。そしてそれは、中宮様が帝の子を孕めば、そしてそれを産もうとすれば、更にそれが皇子であれば――その強さが桁違いに増していく、そういう呪いだ。中宮様はこれまで何度もそれを覆してこれられたが、着実にそれは中宮様の身体を蝕んでいる。これまでの負荷が溜まりきったその身体で、尚もこのまま皇子を産めば――どうなるか、分からない筈がないだろう?」

 

 道長の言葉に、清少納言の中宮の手を握る力が増す。

 

 それは分かっている。

 中宮の身体を濡らす滝のような汗。悪化する顔色。それを見て悟らない清少納言ではない。

 

 だが、それ以上に――その顔を、その表情を、その目を、そしてこちらを握り返す手で、悟らない、清少納言ではない。

 

 故に――番人は。

 道長の眼を、真っ直ぐに睨み返し――荒れ狂う感情に蓋をして、その言葉を喉から引っ張り出す。

 

 言う――言うのだ。

 

 自分は、中宮を守り――中宮の願いを叶える、番人なのだから。

 

 中宮様の番人に――今宵こそは、ならなくてはならないのだから。

 

「それでも――中宮様が、それを望むなら」

 

 戦う、戦うのだ。

 

 今度こそ――最後まで――最後こそ。

 

「それが――中宮様の、御意志ならば……ッ」

 

 これまでずっと目を背け、見て見ぬ振りをしてきた、気付かない振りをしてきた――終わりと向き合え。

 

 例えこれが、最後の戦いなのだとしても。

 勝っても、負けても、待っているのが終わりだとしても――それでも。

 

 それでも――中宮様が、愛する人が、それを望むのならば。

 

「……そうか。ならば、私も黙ってみているわけにはいくまい」

 

 藤原道長は、その白き衣の中に手を伸ばしながら、主従に向かって歩き出す。 

 

「中宮様に害は加えないのでは?」

「だからこそよ。私は中宮様を見誤っていた。容赦はしないと、そう誓った筈であったのだがな。この局面で情けを加えるなど、この方に対する一番の侮辱であった」

 

 道長の鋭い眼差しは、中宮から――清少納言へと向けられる。

 ここに来て、遂に清少納言に対し、道長が敵にだけ向ける瞳を向けた。

 

「――――」

 

 清少納言は恐怖で悲鳴が上がりそうなのを堪える。

 こんな恐怖を、こんな敵意と。

 

 中宮定子は、ずっと戦い続けてきたのか。

 

「こうして目の前に、私が出来る抵抗が、私が取り得る手段が存在しているのだ。勝つ為の最善手を打つことこそが、私が中宮様に差し上げられる最大の敬意というものだ」

 

 道長の、射貫くような鋭い眼。

 それは清少納言の持つ――黒き術符に向けられていた。

 

 気付いている。道長は、この術符こそが『黒き御簾』の核だと。これを砕けば結界は解除され、中宮を呪いから守る術がなくなる。

 

 そうなれば、抑えられていた呪いが中宮を更に強く苛み――既に限界に近い中宮の意識を奪うだろう。

 皇子が生まれることはない――それどころか、中宮の命も危うい。

 

 させない。させるわけにはいかない。

 例え――私の命に代えても。

 

「そこまでだ、道長」

 

 清少納言が覚悟を決めて、その黒き術符を呑み込もうとした。

 藤原道長がそれをさせまいと、懐から何かを取り出そうとした――その瞬間。

 

 黒き御簾の中に――白き王が現れた。

 

 道長と同様の白い術衣を纏った男が――額に満月模様の赤目の白兎を抱きかかえながら登場した。

 

 一条天皇――中宮定子の夫にして、この国を統べる王と呼べる男が、黒き瘴気の中に参上していた。

 

「み、帝様!?」

 

 清少納言が瞠目する。

 先日の彰子以上に――ここにいる筈がない存在。

 

 ここは内裏ではない。ここは宮中ではない。ここは――修羅場だ。

 

 黒き瘴気が充満する危険地帯に、この国で最も安全な場所にいるべき男が立っていた。

 

「何故、帝がここに?」

 

 懐に手を入れたままの道長が問い掛ける。

 そんな、普段は絶対にしないであろう無礼な振る舞いの道長に、一条帝は笑みすら浮かべながら言う。

 

「彰子に、ここに行けと、そう言われてな」

「え? 彰子様が?」

 

 清少納言はもう意味が分からないといった様相だ。

 彰子は道長の娘だ。そんな彰子が、道長の計画を全て台無しにするような、こんな奇想天外な一手を打ったというのか。

 

 思わず道長の方を見ると、道長は――苦笑とも、苦渋ともとれるような、何とも難しい表情を浮かべている。

 

 それは正しく、娘の我が儘に振り回される、父親の表情であった。

 

「――ふっ、アヤツめ」

 

 道長は清少納言に向かって言う。

 奔放な娘のことを愚痴るように――あるいは、子の成長を、惚気るように。

 

「あの娘はじゃじゃ馬でな。誰に似たのだか、自分がやりたいことしかしない」

 

 そして、道長は、その目を清少納言から定子へと向けて言う。

 

「アイツは俺の娘だからな。きっと、中宮様のことが――好きになってしまったのだろうよ」

 

 清少納言は先日の、とある望月の夜を思い出す。

 定子と彰子、二人のプリンセスが二人きりの時間を過ごした、あの夜。

 

 今、思えば、あの夜に――全ての決着はついていたのか。

 

「中宮様の出産が間近である夜に、帝が彰子の殿を訪れる筈もない。恐らくは彰子が帝の寝床を訪れたのでしょう。女御とはいえ有り得えない行いだ。誠に申し訳ない」

「ふっ。やはり、主の娘であるなぁ、彰子は。誰も思いつかぬようなことを、至極冷静にやってのける。その通りだ。朕の寝床に唐突にやってきたと思えば、この兎を渡して、あやつは朕にこう言ったのだ」

 

――中宮様の所へ行ってあげてください。きっと、お父様がよからぬことを企んでいると思いますから。

 

 彰子が女御となってからこれまで、道長の顔を立てる意味でも何度か一条帝と彰子が顔を合わせることはあった。

 しかし、彰子は一条帝と進んで親密な関係を築こうとせず、倫子や道長が頭を痛めたものだったが。

 

(ここに来て、まさかこんなとんでもない行動に出るとは)

 

 やはり、我が一族は女が強い――そう、道長が天を仰いでいると。

 

「彰子はこうも言っておったぞ。『お父様の我が儘を聞いてあげたんだから、娘の最後の我が儘も聞いて下さい』とな」

「……はは。言いよるわ」

 

 父の長年の計画をぶち壊した挙句、帝の女御となれたことを父の我が儘と称し――尚且つ、それでいて。

 

 娘の最後の我が儘と――これから、父と娘ではなくなることを、父の計画が決定的には崩れないことを示唆しながら。

 

 まるで、お父様ならそこからでも巻き返せるでしょと、そう言っているかのようで。

 

((まこと)に――敵わぬわ)

 

 娘に己が計画を滅茶苦茶にされながらも、不思議と自身の心が晴れやかなことに――道長は笑う。

 

 そんな道長に、中宮の元へと歩み寄りながら、一条帝は言った。

 

「どうする、道長。抜いてみるか、その懐に忍ばせているものを。それで、中宮諸共――朕を、撃ち抜いてみせるか?」

 

 愛する女を抱き締めるように支えながら、黒い瘴気を吹き飛ばすかのように、王としての覇気を密室に放つ天皇。

 

 夫としてではなく、父としてでもなく――初めて見る、王としての一条帝に、清少納言が絶句する中。

 

 道長は、まるで白旗を挙げるように、空っぽの手を懐から取り出した。

 

 一条帝はそれで全てを許すとばかりに笑みを浮かべると――表情を引き締めて、中宮に向けて言う。

 

「――遅くなってすまぬ。よくぞ耐えた。……朕の皇子()を、生んでくれるか?」

 

 中宮の手を握り締めながら、そう囁いた一条帝に――中宮定子は、この世で最も強く、美しい笑顔で言う。

 

「……当たり前です。私は、その為に、生まれてきたのですもの」

 

 

 

 

 

 それからは、本当に尊い時が過ぎた。

 

 清少納言は額に汗を流しながら、中宮の出産を介助した。

 一条帝は常に定子の手を握り続け、戦う定子を励まし続けた。

 

 いつの間にか『黒い御簾』は消えていた。

 だが、中宮の呪いの症状は悪化することはなかった――まるで、全ての呪いを、完全に、愛の力で打ち破ったかのように。

 

 

 そして、夜が明ける頃――屋敷に大きな、産声が響いた。

 

 

 男の子――皇子です! と、清少納言の感涙が混じった声が聞こえた。

 

 それを、扉を隔てた別室で聞き届けた道長は、朝陽を浴びながら、すっきりと言う。

 

 

「――見事。私の完敗だ」

 

 

 定子に呪いを掛け続けていた証である術符が崩れ落ちるのを見ながら、道長は讃える。

 

 中宮の身体は既に限界だ。

 呪いを完全に打ち破ったとはいえ、長くは生きられない。恐らくは一年も持たないだろう。

 

 だが、定子が道長に勝利したのは紛れもない事実。

 それに敬意を表し、残り僅かな余命、道長は定子の余生を尊重することを誓う。

 

「しかし――私はまだ、諦めるつもりはない」

 

 歓喜と幸福に満ちた光景に背中を向け、道長は歩き出す。

 

 こうして、長い長い夜は明けた。

 

 一人の女性の、長き長き戦いは終わった――紛れもない勝利で、その幕を閉じた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 定子、皇子出産。

 

 その報が駆け巡った途端、宮中は一時期大きく揺れたが、道長はそれを力づくで押さえつけたらしい。

 中々の荒れようで、完全に支配した筈の宮中の再統治にそれなりに尽力せざるを得なくなったそうだが、それらは全て後から聞いた話だった。

 

 清少納言にとっては、それは最早どうでもいいことだった。

 

 彼女達にとって最も重要なのは――中宮定子の残された日々を、どのように過ごすかということなのだから。

 

 皇子を産んだ定子は、これまでどこか美しくも張り詰めていた雰囲気を一変させた。

 彼女はとてもよく笑うようになった。柔らかく、包み込むようなその美しさは、正しく――母の美しさだった。

 

 皇子を産む。その使命を果たしたことで、これまでずっと抱えていた責務から解放された定子は、本当に美しく――今にも消えてしまいそうな儚さを放っていた。

 

 あの場にいなかった――清少納言の他の女房達も、何も言われずとも理解していた。

 

 中宮定子は、間もなく死ぬ。

 誰もがそれを理解しながらも、涙を堪えて、何も言うことは出来なかった。

 

 一条天皇は、中宮定子の元に通い詰めた。

 敦康と名付けられた待望の皇子に会う為か、姉となった脩子を愛でる為か――理由など何でもよかった。ただ、愛する人に、愛する家族に会いたかったのだ。

 

 それはまるで、清少納言が憧れた、かつての温かい光景だった。

 道隆がいて、貴子がいて、伊周がいて、隆家がいて――そして、定子がいて。

 

 栄華を極めた輝ける家族の光景。

 あの時と違い、誰もが間もなく失われる光景だと気付いてはいたが。

 

 しかし、だからこそ――定子はただの母として、妻として、その温かさを享受し。

 一条帝も、ただここにいる間だけは、全てを忘れて父として、夫としての時間を過ごした。

 

 そして、敦康皇子を産んだ、その数か月後――再び定子は妊娠した。

 

 まるで定子に、中宮としての、最後の仕事をせよと、そう運命が告げるように。

 

 

 

 そして、中宮定子が残された僅かな時間を過ごしている間、道長は定子に何の手出しもしなかった。

 

「我が一世一代の呪を打ち破られた時点で、私は中宮様に完膚なきまでに敗北を喫した。今更、恥を上塗りするようなことは、厚顔無恥な私とて出来まいよ」

 

 だが、勝利を諦めたわけではないという言葉通り、道長が何の動きもみせなかったわけではない。

 

 今更ながらだが、定子は出家している。

 そして、余命幾ばくも無い身の上であることは、一条帝が誰よりも承知のことだろう。

 

 道長はそこを突いた。

 中宮とは何も帝の子を産むことだけが仕事ではない。

 

 帝の后として様々な神事に出席し勤めを果たさなくてはならない――が、仏道に出家した身である定子はそれを満足にこなすことが出来なかった。

 

 故に、定子を中宮から皇后とし――空いた中宮の席に彰子を据えるという提案をしたのだ。

 

 平安貴族得意の詭弁である。そもそも、中宮と皇后は同義であったが、それを敢えて区別し、いわば二人の中宮を誕生させようというのだ。

 

 しかし、前例がないわけではない。

 他でもない定子が立后したときのことだ。

 

 定子が立后した当時、「三后」――太皇太后は三代前の帝の正妻・晶子内親王が存命であり、皇太后は一条帝の母堂・詮子が、中宮は先々代の帝の正妻・遵子がいた。

 これらが退位しなくては、例え現帝・一条帝の正妻であろうと、中宮は名乗れない筈だった。

 

 だが、しかし、定子の父・道隆は当時絶頂であった権力にものをいわせ、皇后と同義であった「中宮」を別職であると強引に定義し、定子を「中宮」として立后させたのだ。

 

 つまり、皇后と中宮を別義とするのは、皮肉にも定子自身が前例となっているのである。

 

 それを知らないわけではない一条帝は、道長の提案を否とすることが出来なかった。

 

 こうして、道長の権力の絶頂を示す有名なエピソードである「一帝二后」が実現されるのである。

 

 しかし、ここに一つの疑問が残る。

 この一帝二后は少なからず強引な手口であり、当時の道隆と同様に宮中に権力の私物化であると波紋を呼んだのだ。

 彼等にとっては、定子が皇子を産んだが為に焦った道長の無理矢理な一手だと映ったかもしれないが――道長は、定子は幾ばくも無い命だと知っている。

 

 つまり、黙っていても、中宮の座が空くことは知っていた筈なのである。

 にも関わらず、宮廷貴族の反感を買ってまで、定子存命中に彰子を中宮としたのは何故なのか。

 

「道長様は――定子様を中宮から解放してあげたかったのではないか。そう、一条帝は申されていた」

 

 藤原行成は、褥の中で清少納言にそう言った。

 清少納言は行成の方を見ずに、裸の背中でそれを聞いた。

 

 一条帝は道長の一帝二后の提案を聞いた時、それでも深く迷ったという。

 定子に神事の供は務まらない、だからこそ中宮の責務を果たせないというのは理屈は通っている。それに、一条帝としても道長に敵対するつもりはないし、定子亡き後に彰子が中宮となるのも反対するつもりはない。

 

 だが、一条帝は定子がどれだけ、それこそ命懸けで中宮として相応しく生きようとしていたのかを知っていた。だからこそ、死の間際にいる定子から中宮まで取り上げて良いものか、大いに悩み込んだのだ。

 

 そして――。

 

「――だからこそ、あなたはその背中を押したのでしょう。行成様」

 

 行成は、背中を向けて言った清少納言の言葉に答えなかった。

 

 真面目だけが取り柄のこの若者は、かつての道長の言葉通り、宮中の策謀の渦の中、ただ愚直に、蔵人頭の職務を全力で遂行し続けた。

 

 その実直な働きぶりは、同じく真面目で愚直な一条帝の莫大な信頼を勝ち取るに至り――いつしか、一条帝にとっては誰よりも信頼する右腕となっていた。

 

「女は愛する者の為に化粧をし、男は信ずる者の為に死ぬ――でしたか。行成様らしい御言葉です」

 

 だからこそ、行成は一条帝の背中を押した。

 清少納言はこの行成という男が道長派閥の人間だと気付いている。だが、それでも、こうして夜を交わしているのは――知っているからだ。

 

 この男が、道長か一条帝か選べと言われたら、一条帝を選ぶ男であるということを。

 道長でもなく、定子でもなく、清少納言でもなく、一条天皇にのみ命を捧げる人間であるということを。

 

(だからこそ、行成様の御言葉は一条帝の背を押すに至った。……それも、道長は読んでいたのだろうけれど)

 

 きっと、そこまで読んで、藤原行成という男を蔵人頭に任命した。

 誰よりも嘘を上手く吐ける男ではなく、誰よりも嘘が下手な男を送り込んで、偽りの言葉ではなく、真実(まこと)の忠誠で以て、己が望む未来へと誘導した。

 

「私を、恨んでおいでですか?」

「――いえ。恨んでいたら、こうして貴方様の腕の中で寝てなどいません」

 

 清少納言はくるりと布団の中で身を回し、行成の裸の胸に顔を寄せる。

 

 愛する人の、ただ一人として最大限に愛されたい――そう「一乗の法」を唱え続け、どんな貴公子と夜を共にすることもなかった清少納言は、たった一度だけ、藤原行成とだけは枕を交わした。

 

 それは互いに似た者同士だったからかもしれない。

 歌人として高名な父を持ち、だからこそ歌が好きで、だからこそ自分に才がないことに気付いていて――自分に自信がなくて、自分が嫌いで。

 

 だからこそ、信じられる確かな「(いち)」が欲しくて、自分ではなく、その為に生きたくて――死にたくて。

 

 それが、自分にとっては中宮定子であり、行成にとっては一条天皇なのだ。

 

 中宮と帝――何かが違えば、自分達はきっと、誰よりも近くて頼もしい味方であった筈なのに。

 

「……中宮様の御心が分かるなどという傲慢は、もう私には宣うことは出来ません。もしかしたら道長様の言うように、残された僅かな時間を中宮ではなく只の定子様として過ごしたいのかもしれない。帝の言うように、自分がその御命を燃やして務め上げ続けてきた中宮として、最期までそう在りたかったのかもしれない」

「…………」

「……でも、確かに一つ言えることは――私にとっては、いつまでもあの御方は中宮様であるということ」

 

 だから私は、最期まで――最期くらいは、中宮様の番人でありたい。

 そう言って清少納言は起き上がる。それは、既に美しいとはいえない年を取った女の裸体。だが行成は、その在り方はどこまでも真っすぐで、美しい女性に見えた。

 

「……もう、間もなくですね」

「――ええ」

 

 御簾を開ければ――いつかのように、綺麗な雪が見えるのだろうか。

 狭くみすぼらしいこの屋敷では、あの輝ける、この世のものとは思えない、浄土のような光景は広がっていないのかもしれないけれど。

 

 それでも――私は。

 

「――中宮様。私は、どこでも、いつまでも、貴女様の御傍に」

 

 

 

 雪が溶け、花が咲く頃。

 一条帝は皇后定子を内裏へと招いた。

 

 それはまさに定子の腹も大きくなり、三度目の出産を間近に控えた頃。

 巷では花山帝がかつて溺愛した女御を愛し殺した時のようだと噂されたが、一条帝はただ定子の傍に寄り添い、庭園の美しい花を眺め続けた。

 

 庭では脩子が赤ん坊の敦康と共に楽しそうにはしゃいでいて、それを一条帝と定子は微笑ましく眺めている。

 

 清少納言ら女房達は、そんな二人を邪魔せずに、呼ばれた時だけ傍に寄って、後はその家族団欒の時間を、ただただ尊いもののように慈しんだ。

 

 定子はこの一年間でみるみる痩せ細っていった。

 けれどその美しさに陰りはなく、むしろ、儚い人間とはこれほどまでに美しいのかと、一種の神々しさを感じるほどだった。

 

 中でも、この内裏に滞在した二十日間は、体調の方もすこぶるよく――まるで、蝋燭の最後の灯火のような、そんな輝きを放っていた時間だった。

 

 女房達は、彼等に見えない所で代わる代わる泣いた。

 誰もが迫りくる終わりの時を察し、悲しみを堪え切れなかった。

 

 清少納言も涙を浮かべた。

 けれど、それを振り払い、今度こそはと――しっかりその目に焼き付けた。

 

 見て見ぬふりなど、もうしない。

 受け止め、見据えて――焼き付けるのだ。

 

 もう二度と見ることは出来ないであろう、この眩い光景を。

 

 自分が出逢うことが出来た、この世の何よりも美しい――華の輝きを。

 

 

 

 そして、中宮――皇后、藤原定子は。

 

 産まれた第三子である皇女・媄子(びし)の、それはもう元気な産声を聞くと共に。

 

 満足げな、安心しきった微笑みを浮かべたまま――静かに息を引き取った。

 

 懸命に生き、その命を燃やし尽くした亡骸は、驚くほど軽かった。

 

 女房達の悲鳴のような泣き声は夜が明けるまで止むことはなく。

 

 清少納言はその全てが耳に届かなかった。

 世界から音が消え、色が消えて――そして――そして。

 

 そして――。

 

「――――――っっっっ!!!!」

 

 

 藤原定子(ふじわらのていし)

 

 夜もすがら 契りしことを 忘れずや 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

 

 貴族の大人達の策謀の渦の真中に放り込まれながらも、常に真っ直ぐに、まるで揺るがずに――ただ一人への愛に生きた彼女は。

 

 華やかに、輝かしく――何よりも美しく、壮絶に散った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 藤原定子の葬儀が行われた後――清少納言は平安京を去った。

 

 表向きの理由は、再婚した三人目の夫・藤原棟世について地方に行くというものだった。

 

 引き留める者は誰もいなかった。

 それぞれバラバラの貴人の元へ再就職することになった、あるいは実家に戻ることになった女房の同僚達はもとより、一時の恋人となった行成や、深い関係を築いた斉信や、最初の夫・則光ら、清少納言とそれなりの関係を築いた者達は、皆、理解していたからだ。

 

 清少納言にとって、中宮定子の代わりなど存在しない。

 仕えるべき華が散った平安京に、彼女が留まる理由など存在しないのだと。

 

 そういった意味では、棟世という新たな伴侶は彼等にとっては理解できるものだったのかもしれない。

 父の友人として、一時、兄達からも再婚相手として勧められていた棟世は、良くも悪くも中立の立場を貫く男だった。

 

 出世意欲というものが薄く、いつも優しく微笑む男だった。それ故に宮中の出世コースから外れて地方へ配属となってしまったが、平安京を離れたかった清少納言にとっては都合がよかったのだろう。共にもう子を欲しがるような年齢でも家柄でもない。親子程に年の離れた夫婦となったが、穏やかな余生を過ごすという意味では相応しい相手かもしれない。

 

 そう、誰もが思っていた。

 清少納言はもう歴史の表舞台に上がることはない――あの『枕』と共に、中宮との思い出を抱えながら生きて、死んでいくのだと。

 

 だが――――それは。

 

「……ここでよいかな」

「――ええ。私の我が儘を聞いて下さり、ありがとうございます」

 

 平安京を出て、都が遠く見えなくなった頃、清少納言は牛車を降りた。

 僅かな荷物と数えるほどの家人だけを連れて、彼女は山の中へと続く道へ向き直る。

 

「……棟世様には、いくら感謝申し上げても足りません。私のような女を娶ったという触れ込みが、これからさぞ貴方様の人生の枷となるでしょう」

「なに、儂はもう老い先短い身の上だ。その上で、このように可愛い娘が出来たと考えれば、この上ない幸いというもの。……そう。主の娘は、儂の娘ともなったのだ。やれることの少なくなった爺だが、この子の幸せは必ずや――約束しよう」

 

 牛車の中から、清少納言の娘が顔を出す。

 あの頃に生まれ、清少納言の支えとなり続けた可愛い娘は、既に自分の足で立って――道を選ぶことの出来る歳になっていた。

 

「お母様! やっぱり、私も一緒に――」

「なりません。これは私が、選んだ道なのです」

 

 清少納言は予感していた。これが、娘との今生の別れになるだろうと。

 これが、娘に贈ることの出来る最後の言葉であると。

 

 母であることよりも――番人であることを選んだ。

 家族よりも――野望を果たすことを選択した、罪深い女として、彼女に残すことが出来るものとは。

 

「…………」

 

 清少納言は葛藤の末――かつて、自分が父に刻まれた、生涯の呪いを、彼女にも施すことにした。

 

「華を――探しなさい。自分の全てを捧げるに相応しい、あなただけの華を。……それは、あなたの人生を苦しいものにするかもしれない。でも、それでも、出会ってよかったと、そんな風に思える華と出逢えたならば。それはきっと、あなたを――幸福にするから」

 

 清少納言はそんな言葉を残して、娘を棟世に預け――深い山の奥へと入っていった。

 

 彼女に付き従う家人は、その全てが世を捨てる覚悟を持った女官だった。

 

 だが、それから一年が経ち、二年が経って――いつまでも終わらない過酷な旅に、その家人の数も一人、また一人と減っていった。

 

 清少納言は彼女達に何も語らなかった。

 この旅はいつまで続くのか、一体、何を目的としたものなのか。

 

 やがてとある山中の小屋に留まるようになると、清少納言はずっと、ひたすらに紙に何かを綴るようになった。

 

 自分を清少納言と呼ぶことを、あの時から許さなくなった彼女は――只の清原諾子(きよはらのなぎこ)として、滔々と、ある一念だけを込めて、『枕』を綴り続けた。

 

 

 この世で最も大切なものを、白く美しいものを――黒く、黒く、穢しながら。

 




・用語解説コーナー⑯

 一条天皇(いちじょうてんのう)

 本当は定子のことを書こうかとも思ったのですが、彼女のことは本編で存分に書き切ったので、ここは本編であまり描写しきることができなかった、かの王について語ろうと思います。

 円融天皇と藤原詮子の間に生まれる。
 己の血を受け継いだかの皇太子を即位させるため、謀略を巡らせた藤原兼家により退位させられた前帝・花山天皇の後を継ぐ形で、僅か七歳で即位させられた。

 その後、兼家の基盤を継いだ道隆の娘である定子を中宮へと迎えると、兼家、道隆、道兼、伊周、道長といった藤原北家の宮中支配権をかけた一族内の争いの渦中に置かれることになる。

 彼の時代はまさしく藤原全盛期の始まりであり――それはつまり、終わりの始まりでもあった。
 定子の女房であった清少納言はもちろん、彰子の女房となる紫式部も彼の時代であり、女性作家による平安文学の最盛期でもあった。

 彼自身もまた物語を愛し、詩文や笛などの音楽にも秀でた、温和な人柄と優秀な能力でもって、誰しも愛さずにはいられなかった賢帝である。

 中宮定子とは、お互いに子供といえるほどの年齢で夫婦となりながらも、激動の時代をともに手を取り支えあい、深い愛で結ばれていた。

 定子亡き後は病に侵され、譲位の意向を道長へと伝えるが、道長はそうなった場合の天皇を継ぐ東宮・居貞(後の三条天皇)と自身の折り合いが悪かったこと、一条天皇と彰子の子・敦成(あつひら)(後の後一条天皇)がまだ即位できる年齢であったことから慰留を続けていたが、やがて病状が悪化し三条天皇へと譲位し、出家。その数日後に崩御した。

 享年わずか27歳。
 24歳でこの世を去った定子の後を追うように、愛された賢帝は早逝し――そして。

 彼の死後、即位した三条天皇と、そして最後の道長対抗勢力である藤原実資との死闘を経て――道長の野望は王手に達し。

 そして――黒い炎は、その隆盛を迎えることになる。
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