なんと化物で、なんという化物だ。
そう――【彼女】は、化物だった
ただ、それだけの話だった。
燃え盛る氷の微笑女の目の前に対峙するは、『彼女』を退治すべく遣わされた四色の個性を持つ純黒の星人狩りの集団。
真夜中の山道。
僅かに下り坂となっているこの舗装された道は、山林と崖に挟まれた構図となっている。
傾斜上ほんの僅か黒衣達を見下ろす形となっている『彼女』から見て、左側は鬱蒼とした山林となっている。この山林を挟んだ向こう側には太平洋が広がっており、間もなく人魚姫が率いる軍勢が、あの黒鯨を伴って進撃してくるだろう。
右側が崖だ。下を見れば同様に鬱蒼とした山林とほんの少し先には川も見えるが、切り立っていて、傾斜は殆ど断崖絶壁に近い。
つまり、右も、左も、逃げ場はないに等しい。
否――本当にこの窮地を、生き残る可能性を追求するならば、右か、左か、そのどちらかを『彼女』は選択するべきだ。
そのどちらを選んだにせよ、そのどちらも逃げるものには有利で、追うものには不利なフィールドだ。それも数が多い敵を撒くにはかなり好都合といっていいだろう。
これまで、戦闘力という面では数ある星人の中でも本当に心許ない程度でしかない
明らかに自分と同格以上の者が三名――うち一名は、業腹だが明らかに自分よりも、こと戦闘力においては格上というこの状況に置いても、それが山の中での逃亡戦なら、『彼女』ならば逃げ延び、生き残ることも十二分に可能だった。
だが、『彼女』は、それを選べない。右も、左も、『彼女』は選び取ることが出来ない。
人間が作り出した、自然を支配下に置いた証左でもあるこの舗装された道しかない。
前か、後ろか――『彼女』には、その選択肢しか、ない。
この普通自動車を置いていくという選択肢が――正確には、中に乗る家族を置いていくという選択肢がない以上、『彼女』には鬱蒼とした山林も、切り立った断崖絶壁も、只の壁と変わらなかった。
だからこそ、『彼女』はギリギリまで可能性を捨てず、縋りつくようにハンドルを手放すことが出来なかった――が。
完全に己が化物であると、目の前の星人狩りの人間達に看破された以上、運転席に居座り続けるのはむしろ危険だった。
それに――奴は、あの濁り眼の黒衣は気付いている。
あんな目の前ギリギリで停車した自分の失策といえばそれまでだが、ボンネットに足を乗せた時、奴は確かに見付けていた。
後部座席に横たわる、雪ノ下家の人間達を。
問題は、奴が彼女達を、
仮に、彼女達が人間だと判断しているとして――巻き込まれた不運な人間を、果たして守ってくれるような。
この濁眼の黒衣が――そんな、人間らしい、人間なのかということ。
その判別が出来ない以上、後部座席に乗る家族が、処分されるかもしれないという可能性が僅かばかりでもある以上――絶体絶命のこの窮地に置いて、それでも『彼女』は、戦わなければならない。
(………………私は――)
例え、無事に切り抜けられたとしても、生きて帰れたとしても、そこにはもう――何もないのかもしれない。
もう既に全てを失っていて、それでも尚、無様に現実から目を背け、夢よ覚めるなと目を瞑り続けているだけなのかもしれない。
――お前が縋っているのは、只の欺瞞だ。化物め。
「…………………っッ!」
例え、そうだとしても。
論理的に明らかに破綻している愚行でも、それでも――それでも。
何かに突き動かされるかのように止まれない。
何かに振り回されるかのようにままならない。
辛く、苦しく、狂おしいのに――それでも、それでも――手放せない。
「―――――ッッ!!」
氷のようだった美女は、顔を燃え盛るように歪めながら――右手を強く、横に振るう。
「――――ッ!」
眼鏡の黒衣が、団子髪の黒衣が息を呑む。
それは――美しい刀のようだった。
氷の美女の白魚のような手が、真っ白な刃へと変化する――変わる。
それは美しく、それでもやはり醜悪で。
紛れもない――化物の姿。
「………………」
濁り眼の男は、なおも笑みを崩さず、顎を上げて見下すように――『彼女』を見遣る。
そして、先程までの挑発的なそれではなく――不敵な声色で、言う。
「今回の
まぁ、只の
『彼女』も、歪めた表情を氷のように無に返しながらも、そのアイスブルーの瞳は燃やしながら、問うた。
「一つ、聞いていいかしら。私を――
この濁り眼の黒衣――見た目通り性格は最悪だが、それでも、決して愚物ではない。
挑発的な表情や言葉や態度も――もちろん本人の最低最悪な性格や性根もあるだろうが――意図的に、戦闘条件を自分に有利にするために技術として用いているようにも思える。
つまり、あのブレーキの時点で、その車の運転手が
理由が分からなかった。
例え、後部座席に眠る雪ノ下家の人間達を部外者だと判断し、巻き込まないためだとしても――ブレーキの時点では後部座席に人間が乗っているかどうかなど分からなかった筈。
先程の会話だけでも十分過ぎる程に理解出来る。この濁り眼の黒衣は恐ろしく狡猾な
そんな男が、こんな初歩的なミスを犯すとは思えない。
素直にペラペラと話してはくれないだろうが、それでも時間稼ぎも兼ねて、『彼女』は敢えて真正面から問うた。
怒りで氷が溶ける程に燃え盛ろうと――『彼女』の優秀な頭脳は冷静に訴えかけている。
真正面からの戦闘では、絶対に目の前の敵には勝てないと。
勝つのではない。やり過ごすのだ。
打ち破るのではなく、逃げ延びるのだ。
その為に必要なのは、一つでも多くの情報と、策を練る為の僅かな時間。
時間は掛け過ぎても駄目だ。黒衣がこの四人だけとは限らないし――何より、雪ノ下家の人間達が、目を覚ましたら――。
目を、覚ましたら――?
その先に思考が及びかけた時、『彼女』の燃え盛っていたアイスブルーの瞳が、怯えるように温度がなくなり。
濁り眼の黒衣が――ニヤリ、と。
笑っているのに、気付いた。
「――なぁ、イチロー。俺様ってば、最高に神に愛されてると思わね?」
「……こんな地獄に放り込まれている時点で、俺等の中の誰一人として神に愛されている奴などいないだろうが……それでも、ああ、お前の言う通り――」
『彼女』に銃口を向けたまま語る濁り眼の黒衣の言葉に、少し離れた場所で、右手首の小さな画面を見つめていた醜悪の黒衣が、静かに言った。
「――コイツは、当たりだ」
+++
醜男の黒衣のその言葉の後、不敵な笑みを浮かべる濁り眼の黒衣は、手の中で弄んでいた短銃を――。
「――――っ!?」
――ゴミを捨てるかの如く、後ろに向かって高々と放り投げた。
呆気に取られる『彼女』と味方の筈の団子髪の黒衣。
眼鏡の黒衣は溜め息を吐き、醜男の黒衣は動じなかった。
ガシャン! という音が、黒衣達の後方の暗闇から響いた後、濁り眼の男は不敵な笑みのまま両手を広げている。
「喜べ、化物。命乞いのチャンスだ」
濁り眼の男は、輝くような笑顔でそう言って、続いて引きずり込むかのような笑顔でこう続けた。
「ちょっくら俺とトークしようぜ。俺からの質問に、お前はただ答えるだけでいい。そうすれば――この場は見逃してやる。その、後ろの奴等も一緒にな」
「――――ッ、――――ッッ」
これは――罠だ。
否――罠、なのか?
余りにも美味し過ぎて、余りにも都合が良すぎて、そして――それを提案してくる男が、余りにも信用出来なさ過ぎて。
余りにも罠のようで有り過ぎるが故に――逆に、罠らしくない。
(…………一体、何なの……この男。……この私が――心理戦で……心理戦ですら……追い詰められているというの――ッ?)
数多の星人が蔓延る、この地球という惑星の――裏側において。
決して武力では、戦闘力では優位に立てない身の上である、
その化物の身の丈に合わない“知能”を武器に、立ち回り、戦い続け、そして勝利してきた。
星人の中には、人間のように言葉を操るモノや、あるいは人をも超える知性を持ちうるモノ達も存在していたが――それでも。
こと、強さを覆す知性という強さは、弱者が強者を下す策を生み出す知恵という強さは。
正々堂々と立ち向かわない知は、弱さを武器に強さを貶める知は――『彼女』特有の武器であり、どんな強大な武力や、どんな高尚な知力を相手にしても、決して見劣りしない、『彼女』特有の強さだった。
だが、この惑星には、そんな武器を徹底的に磨き上げて。
貧弱な身体でも、貧弱な寿命でも、貧弱な能力でも。
数多の星人が蔓延るこの惑星を、地球を――完膚なきまでに支配した生物がいる。
弱くて、弱くて、弱弱しい『彼女』の、たった一つの武器――だが、それは。
星人の中で、化物の中で、ほんの少し――
そう、『彼女』はきっと近かった。だからこそ憧れ、だからこそ苦しんだ。
近いだけで、決して同じではなく、決して同じにはなれず――その隔たりは、常に『彼女』だけには見えていたその隔たりは、きっと決定的に深かった。
心理戦――? 笑止。
感情というモノを自覚出来ない分際で、心の理の何を理解しているというのか。
そんなモノが振りかざす武器など、本物の使い手には通用しない。
目の前にいるのは――人間。
『彼女』よりも弱く、『彼女』よりも弱く、『彼女』よりも弱弱しい。
だからこそ――圧倒的に、強い。
人間という種族。
地球人という肩書を、他の星人達には無かったその圧倒的な強さを持って生存競争を勝ち抜き獲得した――この星の最強種族。
「…………そ、その……理――ッッ!?」
その、余りにも都合がよく、余りにも罠のようで、だからこそ罠らしくない提案の理由を弱弱しく尋ねようとした『彼女』の声は――パァンッ! と、広げていた両手を勢いよく閉じた濁り眼の黒衣の柏手によって掻き消された。
ビクッと、怯えるように身を竦ませる『彼女』を安心させるかのように、濁り眼の男は――笑う。
それが、『彼女』には、たまらなく恐ろしく映った。
「――質問は、たったの三つ。簡単なアンケートだ。それに対し、お前は正直に答えても、
「………………っ」
分からない。この目の前の男の、考えていることが、何一つ。
『彼女』は腰を落とし、刃を身体の前で構えて、氷の無表情をみるみる内に強張らせていく。
濁り眼の黒衣は、そんな『彼女』をただニヤついた笑顔で見るだけだ。
(……正直に、答えなくてもいい。それは嘘を吐いても、または無言という回答でも構わないということ? 例え嘘を吐いても、または何も答えなくても、そんなものは簡単に見抜けるということ? ……それとも嘘を吐くということが、何も答えない、何も答えたくないということが――彼等にとっての答えになるということ?)
分かっている。こうして一方的に考えさせられている時点で、自分がこの男に追い詰められているということは。
だが、かといって武力行使で強引に逃げ出せるわけでもなく、こちらから何か心理的に攻められるような言葉も思い浮かばない。
そして、ありもしないカードを探すよりも、このまま受け手として、奴の質問に対する正しい答え方を探す方が有効にも思える。
――俺からの質問に、お前はただ答えるだけでいい。そうすれば――この場は見逃してやる。その、後ろの奴等も一緒にな。
あの濁り眼の男はあんなことを言っていたが、それを一〇〇%鵜呑みになど、出来る筈がない。
当然のように見えない但し書きとして、こちらにとって見逃すに値する答えであれば、という文言が隠れている筈なのだ。
見えないワイヤーは幾本も張られていて、それに掛からないように慎重に答えを探さなくてはならない。
しかし、『彼女』には、そのワイヤーが何なのかも分からない。
彼等が何を求めているのか。自分が何を求められているのか。
彼等は何を知っていて、自分は何を知らないのか。
尋ねるのは彼等で、答えるのは『自分』なのに――何だ、この状況は。
一体、この黒衣達が、何を尋ねてくるのか――身構える『彼女』に、濁り眼の男は、ニヤリと笑みを深めてこう尋ねてきた。
「なぁ――黒い球体を、見たことがあるか?」
今度こそ、『彼女』の思考が――真っ白に染まった。
+++
「…………黒い……球体?」
先程まであれほど荒れ狂っていた思考が完全にリセットされ、そして一度引いた潮が再び波となって押し返ってきたかのように、無数の疑問で溢れかえる。
(……黒い、球体? 何なの、それは? 何かのアイテム? モニュメント? それとも何かのシンボルマーク? 彼等はそれを探しているの? その為に無差別に星人狩りを? 彼等はそれを私が持っているのだと勘違いしている? ならば持っていない、知らないと答えれば見逃して――否、それならばあれだけの星人組織が壊滅されたことに説明がつかない。少なくとも、彼等に滅ぼされた
冷静に思考を――そう自らに言い聞かせれば言い聞かせる程、思考は空回り、知らない感情という何かに振り回されていく。恐らく『彼女』は、自分の頭が下がり、顔が青くなり、肩が震え、額に汗が流れていることにすら気付いていないだろう。
そんな『彼女』を、団子髪の黒衣や眼鏡の黒衣は不思議なものを見たかのように呆然とし、醜男の黒衣は無表情に見遣り――濁り眼の黒衣は、笑う。面白くて、堪らないとばかりに。
そして、必死に正解を導き出そうとする『彼女』の思考を断ち切るように――。
「――もういい」
――と、断じる。
ビクッと顔を上げる彼女に、濁り眼の黒衣は不気味な笑みと共に告げる。
「その顔で、十分だ」
「――っ!?」
濁り眼の男のその言葉に、バッと『彼女』は顔に手をやる。
眼鏡の黒衣は「性格最悪ね、アナタ」と濁眼の黒衣に呆れるが、『彼女』はただ悔しそうに歯噛む。
(――っ!?
氷のような女だと言われ続けてきた『自分』が、こんな局面でポーカーフェイスすら出来ていなかったというのか、と、『彼女』は愕然とする。
そして、続いて、自分はどんな表情をしていたのか、どんな情報を読み取られたのか、どんな回答を提出してしまったのか、それは果たして彼等にとってどんな答えだったのか、と、次から次へと怯えるような懸念が駆け巡る。
これまで彼女にとって最大の武器であった“知性”が、考える能力というものが、ここにきて彼女を振り回し続けている。
ただ、知られているのだ。
思考――それが持つ強さを、そして弱さを。
知――そして、心。
心の理――それを見抜き、掻き乱し、掌握する。それこそが、心理戦。
人間が得意とする、人間が磨き上げてきた戦い方だ。
「では、第二問だ」
未だ混乱から抜け出せない『彼女』に畳み掛けるように、濁り眼の黒衣は更なる問いを『彼女』にぶつける。
「お前の、目的は何だ?」
続いての問いは、一問目とは打って変わって、こういった場面での尋問においてはスタンダードなものだった。
故に、『彼女』も比較的に落ち着いて対処することが出来た。
「……目的? 随分と曖昧な言葉ね? もう少し具体的にお願い出来るかしら?」
「おいおい、化物の癖に言葉で遊ぶなよ。ちょっと流暢に喋れるからって――
だが、僅かに取り戻した余裕も、濁り眼の男の言葉一つで簡単に立ち消えた。
再び氷の心をアイスピックのような言葉で突き刺さされる。
振り回され、急所を剥き出しにされ、的確に容赦なく貫かれる。
思わず口を閉じてしまった。こちらも何か、言葉を返さなければ――そして、少しでもこちらのターンをと、そう思うのに。
この男と、言葉を交わすのを、恐れている自分がいる。怯えている自分がいる。
今まで幾多の強敵と渡り合ってきたのに。絶体絶命の窮地など何度となく経験してきたというのに。
(――これが、恐怖……なの?)
初めてだった。これほどまでに――怖い相手と出会ったのは。
そんな怯える美女の姿に、濁り眼の男はケラケラと笑いながら――。
「いやいや悪かったって。そんな怯えるなよ――まるで赤ん坊だな。持て余しちゃって、振り回されちゃって、初々しい限りだぜ。……こりゃあ、マジで大当たりかもな」
「…………? ………なに、を――」
「ああ、こっちの話だ。とにかく、今は質問に答えてもらおうか。まぁ、深く考えるな。素直に、思ったままを答えればいい」
濁り眼の黒衣はその言葉通り、どこか幼子をあやすように促す。
『彼女』は、目を少し伏せながら、探るように――答えた。
「わ、私達……
「あー、そういうのいいから。全然求めてねぇから――やめろ。冷める」
無難であろう答えを、正解であろう回答を提出しようとした『彼女』の言葉を、ズバッと、冷たく、それこそ氷のように断ずる濁り眼の黒衣。
そういった模範解答は、何かを真似たような、そんな偽物は――いらないと。
「俺はそんな教科書回答が聞きてぇんじゃねぇ。失望させるなよ。俺が聞きてぇのは『お前』の目的だ。
この――男は。
たったこれだけの、ほんの数分にも満たないだろう、こんな僅かな時間で。
(……一体、どこまで――っ)
濁り眼の男は、氷のような表情から一転し、へらへらとした表情に戻りながら言う。
「さぁ、答えろよ。目的って言葉が曖昧だっつうお前のリクエストに応えるなら、こう聞き直してもいい。お前が――目指すものは、何だ?」
目指すもの――『彼女』が、生きる、目的。
「お前という化物が、この
目指すもの――『彼女』が――【私】が――求める、もの。
「さぁ、答えろよ化物。お前程に賢い化物が、この地球で、何が目的で、何を目指して――どんな欲望を叶える為に、そんなに一生懸命になってるんだ?」
欲望。
化物に相応しい、そんな言葉が、最もしっくりくるような気がした。
ずっとずっと渦巻いていた。
あの温かい光景を見守っている間、自分はずっと暗い闇の中にいるような気がして。
明確に、はっきりと、光の世界と闇の世界を隔てる境界線が、『彼女』には――【彼女】には、ずっと見えていた。
温かく、明るい世界。冷たく、暗い世界。
ずっとずっと、暗く冷たい世界の端っこで、明るく温かい世界に最も近い場所に――【彼女】は、いた。
手を伸ばせば、その温かさをほんの少し感じられるような気がして――でも、硬く、厚い、何かが、堅固な隔たりとして明確に存在していて。
背を向ければよかったのかも知れない。逃げ出せばよかったのかもしれない。
いっそ、そんな世界が見えなくなるくらい、どっぷりと闇の中に浸かれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
お腹の中に真っ黒な何が渦巻くような、こんな辛く苦しく悲しい何かから、解放されたのかもしれない。
これが――感情だというのなら、そんなものは、いっそ棄ててしまえば――楽に、なれたのかもしれない。
それこそが本来のあるべき姿で、正しい
「――――私、は…………『私』……は…………【私】は――――――ッッ!!」
それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。
「―――――――ッッッ!!!!!!!」
感情に振り回され、知性に振り回され、氷のように美しくも冷たかった化物は、この日、この夜――生涯で最も無様を晒した。
「―――――――ッッ!!! ――――――ッッッッ!!!!!」
分からなかった。ずっと何も分からなかった。
他のどんな同族よりも、遥かに優れた知能を持って生まれた【彼女】は、その優れた知能故に、他のどんな同族よりも、藻掻き、足掻き、苦しんできた。
それでも、考えても考えても――何も、全く、何も、分からなくて。
「――――っっっ!!! ―――――――ッッッッ!!!!! ―――――――ッッッッッ!!!!!!!!」
厳冬が。照子が。陽光が。豪雪が。陽乃が。
どうして笑っているのか。どうして泣いているのか。どうして怒っているのか。
分からず、分からず、どれだけ考えても――全然、分からなくて。
「――――――――――――――――――――――」
そして、その度に――分かりたいと、願ってしまった。
欲を覚えた。望まずにはいられなかった。
触れられないと分かっているのに。届かないと分かっているのに。
きっと自分には相応しくなくて、たとえこの向こう側に行けたとしても、この手は全てを壊してしまう。この身は温かさで溶けてしまうだろう。
支離滅裂で、荒唐無稽で、論理も因果も破綻していて、ただただ無様な戯言でしかない。
あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。
なんと化物で、なんという化物だ。
そう――【彼女】は、化物だった。
ただ、それだけの話だった。
これは、ただ――それだけの物語だった。
「………………………………………」
叫んだ。お腹の中に渦巻く何かを、全て吐き出すかのように叫んだ。戦場全てを揺るがすように。
それは化物の欲望で、泣き叫ぶ女性の悲鳴で――助けを求める、赤子のようで。
叫びきった【彼女】は、全てを吐き出した【彼女】は、全てを失ったかのようにぐったりと俯きながら――ぽつりと、呟く。
全てを吐き出し、全てを失い――ずっと、ずっと、【彼女】を戒め続けたそれから解放されて、ずっと、ずっと、【彼女】を殺し続けたそれを失った。
だからこそ、きっと、それが【彼女】の全てだった。
「――――」
余りにもか細く、余りにも弱弱しい呟き。
まるで『彼女』という生物を、【彼女】という化物を、そのまま表しているかのような、小さな呟き。
化物のようだった右手の刃が、ゆっくりと白い女性の手に戻っていく。
眼鏡の黒衣が、団子髪の黒衣が呆然と、醜男の黒衣が厳然と見遣る中、たった一人、満足げに笑う男が居た。
合格だ――そんな声が聞こえたような気がしたが、『彼女』は顔を上げることすら出来なかった。
きっと、この時。
『彼女』は――【彼女】は。
完膚なきまでに――人間に、敗北した。
+++
「それじゃあ、これが最後の質問だ。……と、その前に――」
濁り眼の男は、背後から醜男の黒衣が放ってきた無骨な黒い物体を、後ろを振り向かずに右手に取り――左手を振って、漆黒の剣を抜刀した。
眼鏡の黒衣と団子髪の黒衣が背中合わせになる。醜男の黒衣が無表情で見詰めるその液晶の画面には――四つの青点の前の、一つの赤点――。
――そして、その右側から、十、二十、いやそれ以上の数の赤点が、まるで赤で画面を塗り潰すような勢いで接近する様が映し出されていた。
「おい、美人さんよぉ。こっちから申し出た所で悪いが――」
ゆっくりと、力無く顔を上げていく『彼女』だったが、既に濁り眼の男は『彼女』を見ていなかった。
彼の視線に釣られるように、鬱蒼とした山林の方向に目を向ける――と。
「――時間切れだ」
昏い愉悦の感情が見え隠れする濁り眼の男の呟きを合図としたかのように――山林から無数の半魚人が、一斉に道路へと飛び出してきた。
目指すもの――『彼女』が、生きる、目的。
目指すもの――『彼女』が――【彼女】が――求める、もの。
ずっとずっと渦巻いていた。
温かく、明るい世界。冷たく、暗い世界。
背を向ければよかったのかも知れない。逃げ出せばよかったのかもしれない。
それは、きっと、この上なく醜く、浅ましく、悍ましい、正しく化物に相応しい、欲望に満ちた叫びだった。
感情に振り回され、知性に振り回され、氷のように美しくも冷たかった化物。
分からなかった。ずっと何も分からなかった。
それでも、考えても考えても――何も、全く、何も、分からなくて。
分からず、分からず、どれだけ考えても――全然、分からなくて。
そして、【彼女】は、烏滸がましくも――分かりたいと、願ってしまった。
欲を覚えた。望まずにはいられなかった。
触れられないと分かっているのに。届かないと分かっているのに。
向こう側の温かく明るい世界は――この氷の身体を溶かしてしまうと、分かっていたのに。
あぁ、醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。
なんと化物で、なんという化物だ。
そう――【彼女】は、化物だった
ただ、それだけの話だった。
これは、ただ――それだけの物語だった。