平安京は、蝦夷よりもよっぽど魔窟だ――男は大きく溜息を吐いた。
吸い込む空気が不味い。壁に囲まれた京の中に充満するそれは、どろどろと澱んだ汚水のような味がする。
貴族たちは男達のことを坂東の野蛮人だと揶揄するが、自分から言わせてもらえれば、この一見華やかな
日ノ本の中心地――平安京。
この華やかな世界での立身出世を幼い頃から夢見ていた従兄弟に連れられて、病に伏せった父に背中を押されるようにやってきた場所だったが、自分には肌に合わないと早々に見限っていた。
例え妖怪の本拠地たる蝦夷に面していようとも。常日頃から豪族同士の小競り合いが絶えず、鎧の着方、武具の振るい方、馬の乗り方の履修が必須である野蛮な地であろうとも――澄んだ空気、涼やかな風、広がる緑、豊かな自然が隣にある坂東の地こそが、自分の生きるべき場所だと痛感する。
この京で共に切磋琢磨して出世しようと目を輝かせる従兄弟、こんな田舎者をいずれは己が懐刀へと買ってくれている右大臣殿には悪いが、なるだけ早めに理由を付けて
平安京は未だこの地にやって来てから日が浅い男にとっては正しく異国のようなもの。まいったと馬を降りて、どこかに人はいないかと灯りを探すべくうろついていると――あろうことか、馬が突然、何の前触れもなく駆け出し、逃げ出してしまった。
確かにこの馬は長年連れ添ったものではなく、厩舎から適当に見繕ったものだったが――長年、関東平野はおろか、蝦夷の地でも馬を走らせていた経験を持つ、幼き頃から己の家の官牧で馬と共に育ってきた自分が、まさか、馬に逃げられるだなんて。
悲しみとも似通った衝撃に打ちひしがれながら、なんとかして帰らねばと、それでも己の足を進めていると、周囲はどんどんと己の見たことのない平安京に変わっていく――似たような豪奢な屋敷が立ち並ぶ大路からは程遠い、竹や木々が立ち並ぶ林や森と呼ぶに近しい景色が広がっていく。
平安京にこんな場所があったのかと驚くと共に、着実に迷子は進行しているのに、華やかな都に似つかわしくない自然を見付けて嬉しくも思えた男は――みるみる霧が濃くなっていくのも構わずに、林の中へと、奥へ奥へと進んでいく。
やがて、男はとある妖しい山小屋へと辿り着いた。
真っ暗な森の中で、不気味に――けれど美しく灯る、狐火。
恐る恐るといった風に、その扉は開いた。
そこから顔を覗かせるのは、息を吞む程に美しい――真っ白な、穢れなき、白狐の耳を持つ美女。
男は思った。
自分は、この女と出会う為に、この地にやってきたのだと。
+++
男は目を覚ました時、お決まりの台詞を恥ずかしげもなく呟いた。
「ここは――どこだ?」
そして体を起こし、頭を押さえた所で、再び非常にテンプレな言葉を零した。
「――俺は、誰だ?」
非常にありきたりで、つまらないことだが――男は記憶喪失になっていた。
やがて男は立ち上がり、そして闇雲に歩き出した。
己の名も思い出せない男だったが、目覚める前に――誰かが、己に語り掛けた言葉だけは記憶していた。
――時が来ました。どうか、目覚めて下さい、我らが英雄殿。
目を覚ました時には、この森の中でひとりぼっちだったため、本当にそんな何者かが存在していて、本当にそんな言葉を己に語り掛けたのかは不明だった。
だが、己の正体を知る手掛かりはそれだけだ。
その言葉にしても非常に曖昧で、言葉の主が男か女かも分からない。
「……………」
時? 英雄? ――分からないことだらけだ。
己の名前、己が立っている現在地に続いて、更に謎が増えただけとも言えた。
しかし、幸いにも直すぐに謎は一つ減った。
非常に危険なことに、この男は右も左も分からない森の中を、ただ勘だけを頼りに(その勘にしても明確な目的地も何もないのだから、こっちの方に行ったらなんかよさそうといった、余りにも曖昧な勘というか感頼りだったが)進んでいたのだが、男は見事に正解を叩き出したらしい。
まるで、見えない何か――それこそ英雄らしく、運命というものに導かれたかの如く。
「……ここは、
目の前に現れた古い建物――神社には何故か見覚えがあった。
己の名前も思い出せない男が、何故かこの場所は覚えていた。
そして、連鎖的に、ここが何処だか思い出してきた。
「そうか――ここは、俺の故郷か」
京から遠く離れた――坂東の地。
関東の一角は、妖怪犇めく蝦夷と隣接する――下野の国。
自分はこの地に生まれ育った――
「……ずっと、守ってくれていたんだな」
男は誰もいない寂れた神社の境内に土足で踏み入り、無遠慮にその神社の宝物庫に手を掛ける。
宝物庫には札が貼られていた。恐らくは高名な僧か――あるいは何処かの陰陽師が、厳重に施したであろうその封印は、男が手を触れただけで札が燃えて消えた。
そして、男は宝物庫を開けて――中から、一振りの太刀を取り出した。
男は未だ、肝心なことは何も思い出せていない。
自分の名前も、正体も――目的も、使命も。
けれど、その太刀は、己が躰の一部といわんばかりに――しっくりと、その手に、その魂に馴染んだ。
男は漆黒の鞘から、ゆっくりと太刀を引き抜く。
その刃は――まるで陽の光のように、黄金に眩く輝いていた。
+++
父が死んだ。
以前から病に伏せっていた父だったが、男が京へ上洛した途端、みるみると弱っていき、あれだけ精悍だった顔もどんどんと瘦けていき、最期は枯れ枝がぽっきりと折れるように逝ったらしい。
そして、坂東の地で少なくない領地を有していた父が逝去した途端、その遺された領地を周囲の豪族がこぞって狙い始めたという――その中には、父の、そして男の縁戚たちが多く含まれていた。
坂東の地は、武士の国。弱肉強食の――力こそが掟の世界。
だからこそ京からは蛮族の地と揶揄されていたが――しかし、そういった土地柄だからといって、黙って父が生涯を懸けて尽くしてきた領地をくれてやるわけにはいかない。
男はすぐさま京での立身出世を捨て、故郷の下総へと一目散に帰参した。
若いながらも父に勝るとも劣らない武勇を既に轟かせていた男が風のように帰還したお陰で、周囲の豪族も闇雲に攻め込んでくることもなく――以来、睨み合いが続いている。
皆、張り詰めた空気を感じながらも、そこは流石に蝦夷と隣接し、京からも敵意に近い白い目を向けられ続けている坂東の地に住まう者達である。戦が間近に迫った空気を感じながらも、だからこそ、日常を損なう過度な緊張は持ち合わせまいと明るく振る舞うことが出来る民族だった。
その日は、いわゆる祭りの日だった。
田植えの時期を前にし、仕事が忙しくなる前の息抜きとばかりに、若い男女が出会いを求めて集まる催しだ。
男もそれに参加した――といっても、常日頃から自分に仕えてくれる部下に息抜きをさせる為に、彼等が参加しやすいように自分も同行しただけだ。
身を持て余した男女が出会いを求めて集まる催し――男は気乗りがしなかった。
自分の肌に合わぬ、不味い空気が充満する京――そこに残した、唯一の心残りである、とある白狐の面影が、どうしてもちらついてしまうから。
可愛らしく咲き誇る花の下、精いっぱいに着飾った若い男女が睦まじく微笑み合う様を、少し離れた場所から見守る男――そんな男の傍に、とある
彼女は男が自分に気付いたことを察すると、男にしか見えない場所で、男の為だけに踊る舞を披露する。
男はその歌舞を見て――彼女が、京で一度だけ見掛けた白拍子であることを思い出す。
思い出していただけましたか――紫色の花飾りを髪にあしらった女性は、無邪気に微笑みながら、男に近づき、触れた。
花の香りを纏う女性――彼女の名は、桔梗といった。
+++
失敗した――少年は、焼け焦げた地面に強く拳を叩きつけた。
とある
少年は、その残された本殿の裏手から飛び出し、表で繰り広げられる、辺り一面を焦土と化した怪物と――京より来訪した英雄の戦いを見遣る。
否――それはもはや戦いではない。只の退治――駆除と称した方が正しい。
それほどまでに、両者の力の差は歴然であった。
怪物は漆黒の巨体を誇っていた。
それもただ漆黒の体皮というわけではない。全身が隈なく真っ黒で、まるで光を吸収しているかのようだ。
少年は知っている。
漆黒の怪物の正体は――
この浅草寺という場所に縁ある妖怪の、この地に残された思念、妖力、そういったものを『形』に固めて顕現させた紛い物――だが、それでも。
それに、妖怪勢力の総力が平安京に集結しつつあるとはいえ、ここから目と鼻の先にはかつての妖怪達の都、魑魅魍魎の本拠地たる蝦夷がある。
さらにいえば、今は日ノ本中に妖気が空気のように充満している。
このまま『影』に、辺りの野生の妖怪を、あるいは人間を食らい続けて成長させ、ある程度に育ったら蝦夷へ導き、かの霊峰の息吹を吸わせれば――きっと、あの封印を破壊するほどに成長できると。
そう――企んでいたのに。
だから、わざわざ危険を冒して、不敬であると自責の念に駆られながらも――浅草寺の本殿に、
なのに――どうして。
(――なんでだッ! なんでこんなにも早く
しかも――よりによって――どうして。
二大妖怪勢力が京に戦力を集中しているこの時期に、平安京で最も妖怪を殺す術に長けている――最強の神秘殺しが。
「グォォォォォォオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
大妖怪――
その漆黒の両目を、頼光四天王たる卜部季武の矢が貫く。
さらに、その隙を逃す神秘殺しではない。
溜めは一瞬、構えは一挙――次の瞬間には、瞬殺は完了していた。
遅れて閃く剣閃。妖を滅す妖刀――童子切安綱が振るわれたことに観衆が気付いたのは。
牛鬼の影が粉微塵になり、この世界から消滅した後だった。
こうして二度目となる、源頼光による『浅草寺の牛鬼退治』が遂行され。
「…………」
何者かの視線を感じて頼光が寺の本殿へと目を向けた頃には――少年は何かを抱えながら、既に浅草寺を後にしていた。
+++
ふと、源頼光は後ろを振り返る。
軽快に馬を飛ばしながら、敬愛する鬼面の鎧武者の、後ろ髪を引かれるようなその姿に、従者たる従順な四天王は、轡を並べながら問い掛けた。
「――どうしました、頼光様? 自分で頼光様を浅草寺へ送り込みながら、すぐさま帰還を命じる晴明様に不服を覚えますか? もう少し浅草観光がしたかったと?」
『――いや。晴明様の言動が支離滅裂であることなど今に始まったわけではない。それに、あの方の嫌な予感は、只の嫌な予言だ。確実に現実になる。故に、こうして強行軍での蜻蛉帰りとなることに、不服などないさ』
私とお前以外の部下がいたのなら、流石にこんな無理な行軍には頷かなかったがな――そう、鬼面に施された特殊な術によって肉声を変えている鎧武者は、その特殊な鬼面の贈り主である陰陽師に対してそう言った後、己の後ろ髪を引っ張るものについて語る。
『だが、もう少し、あの地に留まりたかったというのは確かだ』
「…………あの牛鬼の、影に関してですか」
かつてのそれとは比べるべくもない、正しく残滓といわんばかりの有様ではあったが――それでも。
あの影は、紛い物ではあっても――偽物ではなかった。
残滓ではあったが――紛れもなく、本物の牛鬼由来の、『影』であった。
「あの『影』の発生要因は、確かに調査しなくてはならないかもしれませんね。……もしかしたら――」
『――確かに、それもある。が、私が気になっているのは、影ではなく――』
人、だ――鎧武者のその言葉に、四天王は顔を向けて問う。
「それは、あの影は自然発生したものではなく、何者かによる人為的なものだと」
『――それも、ある。が、だが、私が気になっているのは、私の後ろ髪を引いているのは、もっと漠然とした、もっと大きく、もっと広いものだ』
そこで頼光は遂に馬の足を止め、背後を――後にする坂東の地を眺める。
坂東は限界だ――牛鬼の影を退治した頼光に、地元の武士――坂東武者達は、頼光の助太刀に感謝した後、そう小さく、唇を噛み締めながら零した。
平安京の慢性的な財政難。
そのあおりを強く食らっているのは、壁に囲まれた京の中に住まう貴族等の目には映らない、地方の民衆だった。
朝廷は足りない財を地方から集めようとし、地方を治める国司に民衆から重税を取り立てるように指示を出す。
国司は中央の監視の目が届かない僻地であることをいいことに、まるで己の王国であるかのように、要求されている以上の税を民に課して、懐に入れる取り分を増やして私腹を肥やす。
結果、民はますます疲弊していく。
そこに広がる、空気のように充満していく妖気――活発化する妖怪。
地方は――坂東は、既に限界だった。
(……しかし、それでも――坂東の武士は、強い。平安京の検非違使などよりも、遥かに実践慣れしている)
頼光によって容易く葬られたとはいえ、残滓とはいえ――牛鬼の影は、それでも本物の大妖怪由来の成分から構成されていた怪物だ。
それを、曲がりなりにも、彼等は食い止めていた。
犠牲も最小限に――
頼光や季武といった一部の、ほんの一握りの
(国司も馬鹿ではない。自分達の行いが、民衆の恨みを買っていることなど百も承知であるだろう。彼ら――坂東武者の強さも。そして、限界を超えた彼らの怒りが、真っ先に向けられるのが、中央ではなく己ら国司であるということも)
だからこそ、この坂東の地の国司達は、中央の貴族達のように、坂東の民を野蛮な蛮族であると差別したりはしない。
今現在、地方を治める国司や豪族は、自分達を守る傭兵として坂東武者を正式に雇い入れている。
要人の身を守るべく、傍に侍る士――
国司や豪族の間では、どれだけ優秀な、どれだけ強い、どれだけ多くの侍を抱えているかで
(既に、この坂東の地は、彼らによって全てが決まる仕組みになっている。坂東武者がその気になれば――
そして、その手は――いずれ、伸ばされることになる。
終わりゆく京である――平安京へと。
頼光は、今度こそ、坂東の地から――
『今、再び蘇るは――妖怪の影か。それとも――』
何かが、動き出している。
それは妖怪か、人間か、それとも――時代か。
鎧武者は、とある全てを見透かす陰陽師の式神である――術符を咥えた燕の飛来を見上げて。
源頼光は――確信した。
何かが動き出している。何かが変わろうとしている。
そして――何かが、終わろうとしている。
+++
何かが、終わった――男は、それを確信した。
己が放った火で燃え盛る屋敷。己が炎上させた地を眺めながら、男はそれを受け入れようとしていた。
きっかけは、男が愛を受け入れたことだった。
父の領地を受け継ぎ、領主となった男は、複数の女を室として迎え入れた。
その一人が、男の父の弟の娘――すなわちは従妹の娘だった。
彼女は幼き頃から男に憧れを抱いていた。それはいつしか思慕に代わり、彼女の身を燃えるように焦がせた。彼女の父が婚約を決めた男がいるにも関わらず、その者の元から逃げ出すことを決意する程に。
道中、妖怪に襲われボロボロになりながらも、男の元へと辿り着き、受け入れてほしいと叫ぶ従妹を拒絶することが、男には出来なかった。
その決断が、どんな事態を引き起こすのか――想像出来ないような愚か者では、男はなかったが。
それでも、泣いている女を突き放すことが出来ないほどには、男はどうしようもない愚か者であった。
そこからは早かった。
従妹の婚約者であった男が、男の領地を攻めてきたのだ――男はそれを返り討ちにしたが、元婚約者は続いて男の別の室の実家、すなわちは舅の領地を攻めたのだ。
標的である男には勝てないと分かった途端、何の関係もない者の地を、まるで嫌がらせのように襲う――元婚約者の武士にあるまじきその行為は、男を遂には獣へと化えた。
男は徹底的にその元婚約者を攻め立てた。
徹底的にだ。どこまで逃げ続け――挙句の果てには、父亡き後、男の一族の長であった、室となった従妹の父とは別の、もう一人の叔父の元にまで逃げ続けた元婚約者を。
奴を引き渡して欲しいという訴えを聞き入れなかった叔父ごと――男は焼き払った。
男は覚悟していた。
自分のこの行いは、きっと全てを敵に回すだろう。
後悔はなかった。自分はきっと――どれほど常軌を逸しようと、理不尽を許すことが出来ないのだ。
こうする他に道はなかった。遅かれ早かれ、自分はこうなってはいたのだろう。
きっと――自分は人ではなくなった。
元婚約者だけでなく一族の長である叔父も、叔父が治めていたこの地に住まう民も、女も、子も焼き尽くし――焦土とした自分は。
我は、魔人なり――男は燃え盛る大地を眺めながら呟いた。
きっと何かが終わった。
そして、始まる――ここから、全てを敵に回す戦いが。
男の脳裏には、自分が焼き尽くした氏長者――叔父の長子であり。
かつて、都で共に栄達を夢見た、幼馴染であり、従兄弟であり――親友であった、男の顔を思い浮かべていた。
きっと、これから終生に渡って殺し合う、宿敵となってしまった、男の顔を。
+++
少年は見ることが出来なかった――自身の目の前に座る、女の顔を。
「……はは……うえ……。申し訳!! ございませぬ!!」
畳に頭突きをするように、少年は勢いよく頭を下げた。
表情を消して少年を――息子を睨み付けながら。
まるで我が子を抱くように、
「――そなたの軽い頭など、いくら下げても、何の意味もないのです、
少年――
時間の無駄です。面を上げなさい――と、まるで主が如く振る舞う母の言葉に操られるように、恐る恐る、すこぶる悪いと分かっている機嫌を伺うように顔を上げた。
彼女は少年・忠常の母であり、平国香の弟・平良文の子である平忠頼の妻であり。
そして――。
「よいですか、忠常。幾度も申してきたことです。だからこそ、何度でもそなたに申しましょう」
如春尼は、冷たい眼差しを我が子に向けながら、まるで我が子を愛おしむかのように、
「そなたには――魔人の血が流れています。母であるわらわと、同じように」
彼女が膝に乗せる
物言わぬ首。けれど、何よりも雄弁に――迸るような無念を、物語る、生首。
幾星霜の時が流れようとも、決して衰えることのない『力』を放つ――
「我等の使命は、我が父――
彼女は如春尼――かつての名を、春姫。
かつて魔人と呼ばれた男。かつて新皇を名乗った男。伝説の大怨霊・
魔人と呼ばれた男と、魔人を殺した男――その真っ黒な血と、真っ白な血を受け継ぐ娘は。
同じく、その二色の血を受け継ぐ己の息子に、尚も冷たく、鋭く命じる。
「浅草寺の牛鬼を利用する企みが潰えたことは理解しました。しかし、やはり何度でも申しましょう。我々には――
如春尼はそう言って、法衣に隠れていた己が左手を、生首を撫でる右手とは逆の手を晒す。
幼き時から何度も目にしていた。だが、忠常は、何度見ても――母のその手が、とても嫌いだった。
如春尼の腕は、まるで呪われているかのように――
「わらわの兄も、わらわの姉も、わらわの弟も、わらわの妹も――叔父も、叔母も、夫も、みな、みな、みな! 父上を! 将門公を蘇らせる為に生きてきた! あの偉大なる魔人を! この坂東を救う英雄を蘇らせる為に! その為にこの身を! この命を捧げてきたのです!!」
突如、火を噴くが如く燃え盛った母の怒りに、忠常はいつものことと分かりながらも、心から震える。
かつてこの坂東の地を救うべく立ち上がり、新たなる
しかし、その乱は自身の従兄弟である
結果、首は平安京にて晒され、胴体は彼の故郷である下総に捨て置かれた――
首は怨嗟の念のみを動力源に再び刮目し、胴体を求めて平安京の結界を突破して坂東目指して飛んでいき。
胴体は首無しの鎧武者として再び立ち上がり、同じく己の首を求めてゆっくりと京に向かって歩き出した。
だが、それでも、首と胴体が再び巡り会うことは叶わず。
それぞれ力尽きて動作を停止したが――
首も、胴体も、幾星霜の時が流れようとも、その身を朽ち果てることは出来ず、どんなに高名な怪異殺しでも、神秘殺しでも、そして、
結果、かの魔人の首と胴体は、別々の地に離されて埋葬され――幾人もの陰陽師が厳重に封印を施し、未来永劫に渡って放置するという沙汰が下された。
そして、人々がかの恐ろしき魔人のことは一刻も早く忘れようと、忘却の彼方へ追いやろうとしている中――かの将門公の血を引き、かの魔人の遺志を受け継ごうとする一族だけは、忘れようともせず、むしろ決して忘れてなるものかといわんばかりに。
何の知識も、何の力も無い中で――ただ、その魔人の血のみを頼りに。
平安京の幾人もの高名な陰陽師が、幾重にも厳重に施した封印に挑み続けた。
そして、忠常の母――魔人の血と、魔人を殺した英雄の血を受け継いだ彼女の手によって、ようやく、首の封印を破壊することに成功した。
だが、彼女は、それでも――言う。
我々には――時間が、ない、と。
「そなたにも分かっているでしょう――既に、坂東は」
日ノ本は――限界です。
そう、如春尼は、忌々しげに吐き捨てた。
「…………」
忠常は母の言の葉に何も返すことが出来なかった――それが只の事実だったからだ。
平安京の財政は悪化の一途を辿り、それを無理矢理に取り繕うことに疲弊し――その足りない財源を、無理矢理に絞り出されている地方は更に疲弊している。
そして、それと反比例するように妖怪勢力は拡大の一途を辿り、今やこんな坂東の地表にまで妖気は充満している始末。
中心地たる平安京、この国で最も厳重な封印によって守られている筈の都市の内部まで妖気に犯されているという有様。
既に人の世が滅びて、妖怪に蹂躙されることになるであろう刻限は確実に近付いている。
そして、そうなった場合、真っ先に滅び行くのは――総攻撃を仕掛けられるであろう平安京、
かつての妖怪の都――
「だからこそ、我々には魔人が必要なのです」
今こそ、蘇らせなくてはならない。
かつてこの地を救うべく立ち上がった、この坂東の守り神を。
圧倒的な理不尽を覆すべく戦った――たった一人で平安京という『人間』と、蝦夷の『妖怪』と戦い続けた『英雄』を。
人の身でありながら、妖怪の力をも支配した――かの菅原道真公をも凌駕するであろう、この国で最も恐ろしい『怨霊』を。
全てを超越し、何もかもから外れることになってしまった、奇跡の『魔人』を。
「我々には――時間が無い。『鬼』が、『狐』が――そして、『人』が。この国を終わらせる、その前に」
如春尼は、魔人の生首を、再び息子に手渡しながら。
まるでこの坂東の、そしてこの国の命運を託すように。
母から息子に――呪いを施す。
「魔人を――蘇らせなさい」
少年は、ただ生唾を呑み込んで。
それを受け取り、頷くことしか出来なかった。
+++
そして、翌朝――少年は、山を登った。
何も圧迫的な母親が嫌になって家出を敢行したわけではなく、むしろ、母親の言うことを忠実に実行しようと思ったが故の登山だった。
魔人・平将門の復活。
忠常ら一族はその悲願の為に執念を燃やし、遂には『首塚』の封印を解除することに成功した。
しかし、『首塚』の封印から解放された首は、瞼を薄く開きはするものの、何の言葉も発することなく、活動を再開することはなかった。
故に、如春尼は、将門が復活するには『首』と『胴』を引き合わせることが必要と考えた。
そこで母から
結果――『首』は、有名な怪異スポットであった浅草寺の妖気に多大なる影響を及ぼし、牛鬼の影を復活させるに至る。
後は十分に『影』が強化された頃を見計らって、『首』に影を取り込ませて首の霊力を高めさせ、『胴』を呼び寄せる算段だったのだ――が、その計画はまさかこの時機にと思わせる出張をかましてきた神秘殺しに台無しにされた。
不幸中の幸いは、源頼光に『首』の存在を悟られなかったことか。
かの神秘殺しも唐突な牛鬼の影の出現に疑問を持ったようだが、それこそ、時機が時機なだけに、日ノ本中に蔓延している妖気の仕業だと、ここは都合良く解釈されたようだ。
それは頼光が将門の存在をそれこそ伝説としか知らないからともいえそうだが――しかし、伝説は実在する。そして、蘇る。その為に――忠常はこうして『首』を背負って、険しい山道を登っているのだ。
「はぁ……はぁ……」
忠常は己の首に流れる汗を拭いながら、だんだんと山道から只の山へと――つまりは歩くべき道がなくなり、道なき道を歩み始めている己を振り返る。
どうして自分は、こうして下総の霊山を登る羽目になっているのか。
それは――。
(『胴』を呼び寄せることが出来ないのならば――『首』の方を直接、『胴』の元へと届けるしかない)
いってしまえば単純な理屈だが、その簡単な答えに母を含めた一族は誰にも辿り着けなかった。
何故なら――厳重な封印が施されていた『首塚』と違い、『胴塚』は、
平将門の遺体――殺しきることが出来なかった不死身の魔人であるが故に、遺体という表現が正しいかは分からないが、ともかく平将門の『首』と『胴』は、かの安倍晴明でさえも破壊することは叶わなかった。
故に、陰陽師達は『首』と『胴』が永遠に出遭わないように、『首』の方は固い封印の中に閉じ込めて、『胴』の方は深い結界の中へと隠した。
(結界というよりは、異界――妖怪達は、その場所を
つまりは、普通の人間では
(だからこそ、『胴』の方から見つけて貰う方策を取ったのだけれど。……少ない情報が確かなら、『胴』の方は身動きを封じられるような封印は施されていないみたいだし)
しかし、その少ない情報が――伝説が確かなら、『胴』は破壊されてはいなくとも動けるだけの力は残されていないようなので、その方策にそもそも無理があったのかもしれない。
それでも、『首』の霊力を高めれば、『胴』の方も刺激されて再び立ち上がるだけの力を取り戻すかとも思っていたが――それも全て、計画が破綻した今では只の青写真だ。
故に、動けない『胴』に変わって、自分の足を動かすことにした忠常は――こうして山を登った後は、霊峰に辿り着いた後は、己が背中に背負っている『首』に期待するしかないのだった。
(普通に探しても、『胴塚』には辿り着けないのかもしれない。でも、まだ殆ど力を取り戻していない『首』でも、こうして物理的な距離を近づければ――もしかしたら、何らかの『共鳴』を起こして)
物理的に侵入不可能な『胴塚』にも――辿り着けるかもしれない。
それは、昨夜、赤き流星を見たと叫ぶ如春尼が言い出した、吉兆だと叫び散らしていた母が立てた、余りにも希望的な観測だが――それでも。
不可能を可能にするからこそ、平将門は魔人と呼ばれたのだ。
そして、死して尚――不死身の魔人は、平将門は、健在だった。
「――――ッ! 首が――!?」
忠常は背負った箱に仕舞い込んでいた『首』が反応したのを感じた。
ゆっくりと箱を地に下ろし、取り出してみると、『首』はその両目を開眼させ――そして、発光させていた。
その物理的に光を発した両眼は、いつの間にか霧に囲まれていた山中の一点を照らし出していた。
忠常は強く唾を飲み込み、『首』を大事そうに両腕で抱えて、ゆっくりと、その照らされた道を進む。
己の身を枝木で傷つけながら、それでも『首』には傷一つ付けまいとしながら、その道なき道を更に進むと――――遂に、辿り着いた。
一族の誰も、遂には見つけることすら叶わなかった――平将門の『胴塚』に。
「こ……こ……は――――ッ!!??」
そこは深い山の中で、ただ一筋の光だけが差し込む場所だった。
一柱の悠々と聳える大木が存分にその光を吸収しており、その根元には簡素な墓があった。
未だ誰も辿り着いたことのない場所であるが故に、手入れなどもされている筈もなく、ぼうぼうと雑草が生い茂りながらも――どこか神聖で、犯しがたき聖域のようにも思えるその場所は。
「――――なんだ、これは――ッッ!!??」
大木はへし折れ、墓は粉々に吹き飛んでいる。
誰にも足を踏み入れられない筈の『胴塚』は――
「……なにが……どうなってるんだ?」
あり得べからずな
忠常ら一族が、何年もの月日を掛けて目指してきた悲願を、唐突に無作為に粉砕した――その、宇宙からの、世界の外から現れた
将門の『胴塚』を吹き飛ばしていた、彼の墓があった場所に代わりに鎮座していた、
ぽっかりと、まるで口を開けるように
そして――見たこともない、世界観がまるで異なる――まるで、異なる世界からやってきたようなそれを。
己の墓を蹂躙している
用語解説コーナー㉗
・
関東地方の古名。
相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて坂東八カ国と呼ばれていまた。足柄峠・碓氷峠などの山を「坂」とし、それより東の諸国で「坂東」である。
平安京から離れている為、国司による独自の暴走が加速しており、それに対抗するように武士の力が高まっている。
貴族の時代を終わらせる武士の力が――刻一刻と、その力を増し続けている。
その背景には、間違いなく――とある魔人の存在があった。