「…………んぁ?」
目を開けると、そこは知らない場所だった。
次に感じたのは、知らない匂い。
丁寧に手入れをされている畳と、そして不思議な――花の香り。
そして――凍え切った身体を芯から暖めてくれるような、柔らかな温もり。
「ここ――は」
急速に覚醒していく意識。鮮明になっていく記憶。
知らない天井から目を移し、続いて周囲を見渡そうとしている時――ぬっと、黒い影と白い影が覆い被さるように現れた。
「あ、起きてる」
「おはようございます。ここはいつも真夜中なんですけど、時刻はちゃんと紛れもなく朝ですよー」
顔を出したのは、夜闇に浮かぶように妖しく瞳を輝かせた黒い女と、不気味な水色の髪と死に装束のような着物の白い女だった。
(……そうか。夜は――明けたのか)
彼女達の言葉を、静かに、瞑目して噛み締めながら――ずっと夜の中にいた少年は、目を開けて、久方ぶりに掛けられた朝の挨拶に、夢見ていた、朝の挨拶を返す。
「――おはようございます」
それで、ここは何処ですか?
平太という名の、一昨日の夜に死亡し、昨日の夜に座敷童として生まれ変わり――そして、再び幽霊となった少年は。
微笑みと共に、初対面の妖怪少女達に向かって、そう問い掛けた。
+++
「……む~。なんか薄い反応ねぇ。昨日の詩希ちゃんを見習って欲しいわ」
「いえ、これでも驚いているんですよ。今まで妖怪なんて、『鬼』や『狐』の凶暴で恐ろしい輩しか見たことなかったので、月夜さんたちのような美しい方々を見たのは初めてだったので」
もー、可愛いこと言えるじゃない! 食べちゃいたいくらいと、黒猫の妖怪・
平太の言葉にその白い肌を真っ赤に火照らせて照れている、雪女の妖怪・
ここは、どこかの屋敷の中なのだろう。
雪菜の先程の言葉通り、ここは常夜の世界らしい。彼女の言葉を信じるならば今は時刻としては朝であるということだが――とてもではないが信じられない程に、しんとしは静謐な空気に満たされた世界だ。
この布団も、畳も、平太が初めて見て触れるほどに上質なもの。
平太は足を踏み入れたこともないが、平安京の貴族の屋敷で使用されているそれとも決して劣らないのではないかと思うほどに素晴らしい一品。無論、平太に物の良し悪しが分かるような審美眼など養われていないが、あくまで感覚的な問題として。
そんな風に平太がきょろきょろしているのを、月夜と雪菜はじぃと観察していた。
我らが仕える未来の二代目が、二日続けて保護してきた元・人間の子供。対照的な童達だと、そんな風に思っていると、彼女等のそんな視線に気付いたのか、少年はこんなことをおずおずと尋ねてきた。
「……あの、先程のお言葉から、月夜さんは詩希を知っているようですが――彼女は、今、どこに?」
笑みを消して、至極真面目な顔でそう真剣に宣った少年の言葉に――子供らしくない警戒心を見せていた少年に対して向けていた、先程までの少し険しい表情をみるみる溶かして、女性陣はにまーと笑う。
その表情に露骨に戸惑う平太に、月夜はそれを指差す。
未だ平太の半身を包んでいる――身体の芯まで暖まるような温もりがある布団を。
まさか――と、少年が恐る恐る布団を捲ると。
「…………」
温かくて、柔らかい、寝息を立てる童女がいた。
まるで、ずっと寂しく、ずっと寒い思いをさせてきた少年に、二度と凍える思いはさせまいというかのような、その姿に――少年は、思わず綻ぶ。
「…………詩希」
そんな少年をにまにまと見詰める妖怪少女の目線に気付いた平太は、ごほんごほんと誤魔化すように(まるで誤魔化せていないが)へたくそな咳払いをした後、赤くなった頬を冷ますように首を振って、彼女達に向かって再度問い掛ける。
「あの、ここはどこなんですか? それと――」
平太は、思い出した昨夜の記憶から、きっとこの場所に自分達を連れてきたのであろう――二体の妖怪の居場所を。
「士弦さんと――鴨桜さんは、今、どこに?」
+++
「――で? 何をどうしたら、
桜のはなびらの中で眠るように横になる男の言葉に、桜の幹に背を預ける男は「――分からん」と、投げ捨てるように答えた。
「詩希の言葉を聞く限り、毎夜毎夜と襲撃を受けていた、いつなくなってもおかしくないような小さな貧民街だ。それでも、俺らが昨夜、平太の家を訪れた時は、まだそれなりに形を保っていた。それなりに形を保っていた家屋も点在していたしな」
「――んで、俺らがこうして怪異京に戻ってきて、朝になってお前が確認に行ったら……
自身の相棒のその信じがたい報告を、黒と桜の斑髪の男――鴨桜は、ふっと笑い飛ばすが、それは相棒の報告が信じられないから、
それを理解しているのか、報告を齎した首元に布を巻いた男――士弦は「……現実的に考えて、そういうことだろうな」と返す。
「――ハッ。
俺は、そんな間抜けになるのはごめんだ――斑髪の青年は、豪快に笑い飛ばすと、桜の木から飛び降りて。
いつの間にか枝垂桜に近付いていた、昨夜からこの怪異京に迷い込んでいる幽霊の少年の目の前に降り立つ。
「――どうだ?
鴨桜のその言葉に、平太は「……ええ。もう十分、夢は見ましたから」と返し――そして。
「だから僕に――現実を教えてください」
平太はそう言って、桜吹雪を散らせながらも、いつまでも満開に狂い咲く枝垂桜を見上げる。
朝が来てもいつまでも明るくならない夜空を見上げる。
決して欠けることなく淡い光を照らし続ける満月を見上げる。
そして、そんな平太を――鴨桜は、そして士弦は、真っ直ぐに見詰めて。
「……いい覚悟だ。けど、悪いな――今は、新参者のお前よりも、客の相手が最優先だ」
鴨桜は、平太の横を通り過ぎて、その後ろで彼らを見ていた――
「――よう。昨夜ぶりだな」
そこにいたのは、昨夜、鴨桜達をこの怪異京に逃がした者。
妖怪でありながら、妖怪の天敵の手先――日ノ本最強の陰陽師・安倍晴明の式神である白狐。
「ようこそ――平安京の“裏”へ。俺はテメェを歓迎するぜ」
今朝は、一体、何の用だい? ――常夜の世界で、妖怪任侠組織の二代目と目される半妖は、そう煙管を咥えながら問い掛ける。
平太がその再会を見詰めていると、どこからともなく――風が吹いた。
空間全てを掻き回すように舞う、桜のはなびら。
満月の月明りが、その斑模様の男を、そして白狐の女の間を妖しく照らす。
その月光が照らす間の距離を、二人は歩み寄ろうとせずに、ただ言葉だけを、笑みと共に交わす。
「――おはようございます、ぬらりひょんの息子。昨夜はよく眠れましたか?」
おかげさんでな、と、鴨桜は白狐の女に返す。
白狐の女は、それは重畳ですと、靡く白髪を、そして狐耳を押さえながら言った。
「そうでなくてはなりません。英気はしっかりと養わなくては。なにせ――あなたの戦いは、我々の戦いは、これからが本番なのですから」
我々の
「ぬらりひょんの息子・
両者の間を照らしていた月明りが、ゆっくりと雲に隠れていく。
ただただ、真っ暗な、常夜の黒が満たす中で、白い狐は――不気味に笑う。
「さあ、お話させてください。あなたが、あなたたち『百鬼夜行』が、これから飛び込む冷たい戦争の、その真っ黒な詳細を」
私は今日、それをお聞かせすべく、こうしてやってきたのです。
そう告げる白い狐に、鴨桜は聞かなかった。
何故、も、誰の指示で、とも。それらは既に聞くまでもないことだと、聞いてもどうしようもないことだと、既にどうしようもなく理解していた。
自分は既に――後戻りは出来ない。するつもりも、ない。
詩希を、平太を、こうして身内に取り込む――それよりも、前に。
(――ここは、俺の『京』だ)
そう、覚悟を固めた時から――自分は首を突っ込むと決めていたのだから。
相棒たる士弦は、そんな鴨桜に頭を抱えて――それでも、何も口を挟まず、ただ隣に寄り添った。
鴨桜という男が、誰よりも、何よりも――この京の街を愛していると、やはりどうしようもなく理解していたから。
そんな男が、京の街を滅ぼし得る戦争が行われると分かっていて、黙って見過ごすことなど出来る筈もないと、初めから分かっていたから。
今も、覚悟を決めていている瞳の奥には、この戦争そのものに対する怒りが、ぐらぐらと煮えたぎるように燃え盛っていると、知っているから。
「その前に、一つだけ聞かせろ」
平太がそんな向かい合う彼らを見上げる中――鴨桜は、微笑みを向け続ける白い狐に問い掛けた。
「お前の名前は?」
その問いに、一瞬だけ呆気に取られた白い狐は。
再び小さく――顔を綻ばせて、自らの名を口にした。
「私の名前は『
長い付き合いに、なるといいですね――あなたのお父様と、私の主のように。
白い狐は、そう不敵に妖しく微笑みながら言った。
+++
場所は再び、今朝に平太が、昨朝に詩希が目覚めた部屋へと戻る。
既に布団は片付けられ、詩希も目覚めており顔を真っ赤にしている。散々にお姉さん妖怪達にからかわれたらしい。
しかし、そんな微笑ましい空気を保っているのは平太の背中に顔を埋めて、その真っ赤な顔を隠している詩希だけだった。
その他の登場人物が纏う空気は、はっきり言って重々しい。
否――そんな中でも、雪菜が出したお茶を物怖じせずに啜って「とても美味しいです。少し冷たいですが」と言って、この状況でも微笑んでいる白狐の女くらいか。
白狐の女――否、先程彼女は、既に名乗っていた。
己の名前は、羽衣と――十二神将が一角。『
(……安倍晴明の式神だとは聞いていた。そうではないかと疑ってもいた。……だが、まさか、本当にあの『十二神将』だったとは――それも、よりにもよって……『貴人』か)
妖怪の天敵であり、日ノ本最強の陰陽師――
その大陰陽師が繰り出す、様々な奇跡を引き起こす術式は、正しく世界の理を揺るがす程の強力無比なものだが――そんな中でも、かの大天才が抱える十二体の特別謹製の式神は、安倍晴明という名から半ば独立して、凄まじき脅威として妖怪から認定されている。
安倍晴明の手足とすらいえる、十二体の式神――『
『
『
『
『
十一体の式神を纏める、十二神将の主将にして――最強の式神と呼ばれる存在が、『
「そんな大層なものではないですよ。十二神将も発足時と比べれば入れ替わった席も多い。今や、当初にはあった『属性』や『方角』などの陰陽道的意味も失われ――我が主のお気に入りの式神という意味合いが強い手駒達です」
ほら、『鬼』の四天王や『狐』の大幹部のようなものです――と、羽衣は笑うが、士弦は(……それでも、
陰陽道や儀式的な意味が失われても――それでも。
かの大陰陽師と同じく、妖怪にとっての天敵であることには変わりない、と、士弦が羽衣を睨み付ける中、鴨桜は「――ハッ」と、笑って見せる。
「それは自慢か? 十二神将『貴人』――すなわち、自分こそがお気に入りの中のお気に入りだと。安倍晴明にとって最も強い式神だと、そう嘯いているようにしか聞こえないぜ」
「まぁ、最も使い勝手がいい式神であるという自負はありますね。強さに関しては、最近は大型の新参者が多くて、自信を喪失中なのが実際の所です」
それでも、
「始めましょうか。此度の戦争――『妖怪大戦争』に関しての
羽衣の言葉に――あぁ、と、鴨桜は重々しく頷く。
「生憎、うちの爺様はいい歳こいて夜遊びに夢中でな。未だに朝帰りもなさっていない。……そんな中で、頭がカッチカチな年寄り連中に――まさか、安倍晴明の式神なんて輩を会わせるわけにもいかねぇだろ」
しかも、その当の式神も脅威の中の脅威――『十二神将』が『貴人』だというのだから。
妖怪大将が不在の中で幹部連中と顔合わせなどしようものなら、その場で抗争が始まってしまうだろう。
(……まぁ、それが普通の反応といえば、普通の反応だ)
士弦はそう思考する。
それほどまでに、妖怪達にとって――安倍晴明という名は脅威であり、恐怖だ。
かつて自分達『百鬼夜行』の長であり頭――妖怪大将『ぬらりひょん』が懇意にしている
それを乗り越えたのは偏にぬらりひょんのカリスマ性あってのことだが――逆に言えば、そのぬらりひょん抜きの場で安倍晴明が式神、十二神将が貴人などが、自分達の本拠地である『怪異京』に乗り込んでいるのだと発覚すれば、今度こそ『百鬼夜行』は崩壊してもおかしくない。むしろ崩壊まっしぐらといえよう。
(……現に、現幹部の古参達だけではない。……雪菜も、月夜も――それに、
その程度で、済んでいるのは――士弦ら、いわゆる『二代目派閥』と呼ばれる若い妖怪達が、安倍晴明のことを伝説でしか知らないからだ。今の平安京に住む、多くの人間達と同じように。
安倍晴明の戦闘力を――その規格外の戦闘を、伝説でしか知らないからだ。
大江山の鬼退治も、菅原道真大祓いも、それら近年の大きな伝説も現場を目撃していない――だからこそ、恐怖し、警戒するという、
故に、鴨桜は己の派閥のみを在席させたのだ。
「――お前の話は、ひとまず俺等だけで聞く。聞いた上で、他の連中にも知らせるかどうか判断する。だからまずは聞かせろ。妖怪大戦争の全容とやらを。時間がないんだろ?」
「時間がないからこそ、手間は一度で済ませたいのですが――まぁ、妖怪大将が不在ならば、『
そう、羽衣は、鴨桜に向かって鋭く皮肉を言うが、鴨桜は目を細めるだけ――『貴人』たる己に向かって、
いずれにせよと、『貴人』は笑う。
そして――そんな張り詰めた空気の中で、何もかも分からない中であろうに、ずっとこちらを注意深く観察し続ける、ただの幽霊の少年も、ちらりと見遣って。
(……なかなかに、
妖怪任侠組織『百鬼夜行』――『二代目派閥』。
此度の妖怪大戦争の『視点』として据えるに、彼らは面白いかもしれないと――羽衣は、己の主らが描いた『
(……願わくば――どうか)
そう、儚い願いを込めて、全てを見透かす者を、ずっと傍で見続けてきた女は――ゆっくりと瞼を上げて、幕を開けるように、語り始める。
「ずっと伏線が張られ続けてきた、誰もがいつかは勃発すると確信し続けてきた、全てを終わらせる『妖怪大戦争』――その火蓋は、既に切られました。戦争が起こるのは、明日や明後日の話ではありません」
今日というこの日、陽が沈みきった今宵。
血のように赤い満月が浮かぶ――今夜。
「――妖怪大戦争は勃発します。我々に明日がやって来るのか」
全ては、我々の手に掛かっているのです。
白い狐の女は、そう妖しく――恐ろしく、未来ある『卵』達に向かって通告した。
用語解説コーナー㉜
・
安倍晴明が誇る十二体の特別謹製の式神――十二神将の主将であり、安倍晴明の右腕たる存在。
十二神将はその席に座るモノが何度か入れ替わっているが、貴人の席には十二神将というシステムが発足した当初から羽衣が座り続けている。
十二神将の纏め役であり、主たる安倍晴明との往復役でもある。
安倍晴明と、その主である藤原道長、彼らに次いで『
そんな彼女は、今宵の妖怪大戦争において、視点役に彼らを選んだ。
若く、青い――若き妖怪の卵たちを。
これからの未来を担うべき蕾たちを――これからも続いていく、未来を勝ち取る戦争という試練を乗り越える為に。