比企谷八幡と黒い球体の部屋―外―   作:副会長

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妖怪星人編――㉞ 月下の肝試し

 

 土御門邸黒炎上から――二度目の夜明けを迎えた朝だった。

 

 安倍晴明(あべのせいめい)は、己の屋敷の縁に立って、朝陽を浴びながら、遂に訪れた運命の日に息を吐く。

 

(……ようやく、今日か。……長いような、短かったような。……死にたくなるような暗闇に殺されそうになっていた時期もあったが――あの御方と出会ってからは、総じて楽しい毎日であったな)

 

 日が高く昇っている。

 恐らくは綺麗な円を描いているであろう月も、今は太陽の光が強過ぎて探すことは叶わない。

 

 だが、晴明は、まるでそれがくっきりと見えているかのように。

 

 迷いなく、その満月に向かって手を伸ばしながら、微笑みと共に――回顧する。

 

(――あの夜も、美しい月光が差し込んでいた)

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それは、今からおよそ数十年前。

 時は花山(かざん)天皇が在位していた頃。雨が降りしきる、五月のある夜のことだった。

 

 厚い雲によって真っ暗な闇夜が作り出された不気味な屋敷の外を見ながら、花山天皇は唐突にこう言った。

 

 この不気味な闇に誘われて、宮中の結界の中に、強力な妖怪が一体、迷い込んでいるらしい。今、陰陽師達が必死に捜索しているが……この中に、そんな今宵の宮中を、一人で出歩く豪胆な者はおるか――と。

 

 これを聞いて、その場にいた貴族達は、心中で大きな溜息を吐いた。

 花山天皇は狂帝として有名だった。こんな大雨の夜に呼び出されて話し相手をさせられるだけでも迷惑な話なのに、その上、また何か頭のおかしいことを言い出したぞと辟易した。

 

 宮中は大きな結界に囲まれた平安京の中でも、更にもう一重の強固な結界が取り囲んでいる場所だ。

 そんな場所に迷い込むというだけで、その妖怪がどれだけ恐ろしいものか分かるというもの。

 

 いくら陰陽師が総力を挙げて捜索しているとはいえ――裏を返せば、それはつまり、()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()ということなのだ。猛獣が闊歩している山の中を丸腰で遭難しろと言われているようなものだろう。

 

 貴族達は、揃いも揃って、そんなことが出来るわけないと苦い笑みを持って言う。

 だが、そんな中で、ビシッと、右手を挙げてこう宣う男が居た。

 

 我が息子達ならば、見事にその胆力を見せつけてくれることでしょう――そう言ってのけたのは、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という男だった。

 後の世にて、目の前の花山天皇を排除し、己が一族に栄華を齎すことになる未来の覇者であった。

 

 しかし、この時の兼家は未だ、円融(えんゆう)帝の元に送り込んだ娘・詮子(せんし)が生むことになる皇子――後の一条帝を手に入れていない。

 だからこそ、現帝である花山天皇に己が一族をアピールすべく、その狂気の催しともいえる『肝試し』に、三人の息子を送り込んだのだ。

 

 三人の息子達は、一人はやれやれといった風に、一人はとんでもないことを言い出しやがってと父を睨み、そして、もう一人は一切その表情を変えずに――花山天皇の前に座らされた。

 

 狂帝は、面白いと、その狂気を隠そうともせずに、楽しげに三人に命じる。

 

 三人それぞれ違う目的地へ、申し訳程度の腰刀だけを携えた随身を一人ずつ道案内として付けられ、五月雨(さみだれ)降りしきる闇夜の中へと、花山帝は三人の若者を放り出した。

 ちゃんと目的地へ行ってきた証拠に、柱を削って持ってこいと小刀まで渡されて。

 

 そして、ほどなくして、長兄・道隆と次兄・道兼は、たいそう怯えながら戻ってきて、貴族の面々や花山天皇を笑わせた。兼家は渋面だったが、余興としての受けはよかったのでよしとしていた。

 

 だが、その後、しばらく経っても――待てど待てど、末弟は帰ってこなかったのだ。

 すわ本当に妖怪に食われたかと、段々場は騒めき出したが――やがて、厚い雲が晴れ、雨が止み、月明りが差し込み出した頃。

 

 ずぶ濡れの若者が、木の削りかすのようなものを持って帰って来たのだ。

 

 余りにも暗かったので、道案内の随身ともはぐれてしまった。

 故に、迷いに迷った末に、御大層な巨木に辿り着いたので、その木を削って命からがら持ってきたと。その若者が余りにも情けなく話すものだから、貴族達は大いに笑い、花山天皇も大層ご満悦の様子だった――と。

 

 きっと、後世には、そんな笑い話として語り継がれるであろう――その『肝試し』の真実を。

 

(――私だけは、知っている。あの御方の『肝』が、果たしてどれだけ豪胆であったかを)

 

 何故なら、あの夜――二つの結界を破り、平安京の宮中に忍び込んだという妖怪を退治したのが、他ならぬ、この安倍晴明であったから。

 

 そして、その場に――その現場に。

 

 他でもない、藤原道長(ふじわらのみちなが)が、遭遇していたからだ。

 

 それは正しく――きっと、運命に導かれた出逢いだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ある日、平安京随一の陰陽師・安倍晴明は、晴明屋敷と呼ばれる自邸を訪れた旧知の仲のである一人の僧から、ふとこんな話を聞いた。

 

 今、宮中にて破竹の勢いで権力を伸ばしている藤原兼家という男――その息子達が、大層な傑物揃いらしい、と。

 

 その話は平安京の文字通りの『中心』たる存在にも関わらず、肝心の政治から遠い場所にいる晴明の耳にも届いていた。

 

 注釈すると、晴明は政治から遠ざけられているわけではなく、自ら距離を置いている。

 貴族同士の呪い合いという側面も大いに含んでいるこの時代の政闘において、自他ともに認める平安最強の陰陽師である安倍晴明というカードは余りにも強い。どれだけの陰陽師や僧を自身の陣営に取り込もうとも、晴明一人を手に入れてしまえばあっという間に覇者になれてしまうであろう程に、安倍晴明という存在は『チート』なのだ。

 

 それを晴明自身も理解しているが故に、晴明は自らを他者から遠ざける形で、中立という立場を選んだ。

 何もかも見透かすことが出来るにも関わらず、誰も何も導かない。

 

 正解を知っていようと、失敗すると分かっていても――何も言わず、何もしない。

 

 自らを只の怪異退治装置と位置付け、己以外には対処できない事態にのみ現れる存在とすることで、晴明は『世界』と折り合いをつけていた。

 

 だからこそ、晴明はあらゆる権力者の数多の誘いを断り続け、こうしていざという時は瞬時に駆け付けられる程に距離的には近くとも、華やかな平安宮とは似ても似つかない不気味な屋敷に身を置いている。

 そんな晴明の元を訪れるのは、有事以外の時は本当に一握りの友人のみで、この僧はその数少ない存在の一人だった。

 

 だが、この時の晴明は、そんな友人が持ち出した世間話をつまらなそうに聞き流していた。

 権力の頂点への執着、それを隠そうともせずに己の辣腕のみで宮中を暴れ回っている父・藤原兼家。

 そんな父とは似ても似つかない愛嬌を武器に、周囲の人間達の心を片っ端から掴んで回っている魅力の持ち主である長男・藤原道隆。

 父、兄への対抗心を薪として、ギラギラと目を輝かせて懸命に背中を追う三男・藤原道兼。

 

 何か一つ、決定的な切っ掛けがあれば。

 やがては宮中に大きな渦を巻き起こすであろうと噂される一族・藤原北家。

 

 もはや聞き飽きた噂だ。

 そして、こう続くのだろう。

 

 そんな中でも、末弟・五男だけは、見所のない平凡児であった――と。

 

 しかし、そんな晴明の予想を、友人である僧はにこやかに裏切る。

 

 私はこの間、噂の藤原北家、その全員と顔を合わせる機会があったが――と、前置き、そして、こう言った。

 

「藤原道長殿。――あの御方は、他のご兄弟の誰よりも……否。この平安京の、誰よりも――恐ろしい」

 

 紛れもなく、この宮中――いや、日ノ本を、あるいは、もっと大きく、遠い彼方のものを。

 

 その手中に収める、『器』の持ち主なのではないか――そう語る僧に、晴明は。

 

 流石は我が友――と。

 

 にこりともせず、ただいつも通りの、醒め切った表情で呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そう――安倍晴明は知っていた。

 

 藤原道長という男が、傑物揃いの怪物一家の中でも――群を抜いて恐ろしい男だということを。

 

 権力の頂点どころか――それよりも遥か彼方へと、その手を伸ばす男だということを。

 その漆黒の野心を持って、何もかもを燃やし尽くす男だということを――そして。

 

 この安倍晴明を――その配下に付き従わせることになる、男であるということを。

 

 晴明は、道長に出会うずっと前から――そんな未来を見透かしていた。

 彼が生まれ持った、天から――否、『星』から与えられた『チート』は、そんな確定事項を、藤原道長という『主』がこの世に生まれる前から晴明に教えていた。

 

 だが、晴明が見透かす『未来』は、他人が描いた絵巻を眺めるようなものだ。

 あらすじは知っている。展開も読めている。登場人物も把握している。だが、それはどこまでも紙の上の記号であり――今、この時を生きる安倍晴明にとっては、藤原道長という男は只の若造に過ぎなかった。

 

 この先の未来にて、この世の全てを黒く燃やし尽くすことになる男だとは理解していても――そんな男の、果たして『安倍晴明』は何処に惚れることになるのか、今の晴明にはまるで理解出来なかった。

 

(……理解する必要など、ないのだろう。既に『未来』はこのように確定している。否、そうでなければならない。私があの男の配下にならなければ、あの男の『物語』を完遂させなければ、この国が――日ノ本が滅ぶことになるのは、間違いないのだから)

 

 故に、これは本来、不要な工程だ。

 このまま運命の波に身を任せれば、遠からず内に出会うことになるのだから。

 

 その時に自分は、その男に惚れたふりをして、差し出されるであろうその手を取って、黒い炎が布かれた道を共に歩み――藤原道長の『物語』を、その悍ましき結末まで導けばよい。

 

 それが、この『未来(ものがたり)』の正しいあらすじだ。進むべき――道だ。

 

 故に、これは――晴明という、一つの生命の、小さな運命への反抗だったのかもしれない。

 

 大いなる存在から『チート』として――母なる『星』から、『才』を、『力』を、そして『使命』を与えられて、ずっと『装置』として生き続けてきた男の。

 疲れ切った男の、壊れかけた男の、ふっと湧いた些細な悪戯心だったのかもしれない。

 

 どこまでも未来を見透かす男は、この日、そんな自分でも理解出来ない衝動を持って――()()()()()()()()()()()、自分以外では対処不可能な程度の、それでも、晴明にとっては指先一つで屠れるような妖怪を、宮中内にそっと手引きをした。

 

 この日、晴明は、その男が単独で『肝試し』をすることになると知っていたから。

 

 本来の『未来(ものがたり)』ならば、何の面白味もなく、男が仮面を被り続けて、道化を演じ続けることになって終わるだけのつまらない催し。

 

 しかし、この日、藤原道長は安倍晴明の悪戯によって――五月雨降りしきる闇夜にて。

 

 生まれて初めて――妖怪と遭遇することになる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 平凡児の仮面を被り続けてきた男は、ゆっくりと、その仮面を剥がすように――微塵も恐怖心を見せることなく、目の前に立つその醜悪な化物を見据えながら呟く。

 

「ほう――これが、妖怪か」

 

 凛々しい顔をした、けれど特別に恵まれた体躯というわけでもない青年と。

 

 肉を抉る為に鋭く伸びた爪、息の根を止める為に大きく生えた牙、そして、闇夜を生き抜く為に爛々と輝く瞳が特徴的な化物――『妖怪』が、ざあざあと降りしきる雨の中で邂逅する。

 

 そんな現場を、少し離れた場所で、安倍晴明は眺めていた。

 

「…………」

 

 無論、これは全て、安倍晴明が仕組んだ状況だ。

 普段はどんな妖怪の侵入も許さない宮中を囲む結界に穴を開けたのも、自分以外の陰陽師ならば大いに苦戦するであろうあの妖怪を内部に手引きしたのも――そして、藤原道長が現れるであろうこの場所に配置したのも、全て、この安倍晴明だ。

 

 いつも通り、何もかもを、自分自身で整えた自作自演のマッチポンプだった。

 

(……一体、何がしたいのだろうな、私は。道長殿に、このレベルの妖怪をどうこう出来る能力などないことは――よく見透かしているだろうに)

 

 何も道長に限ったことではない。

 この時代の日ノ本において、妖怪は人間の天敵だ。特別な能力を持っていなくては、その強靭な皮膚に傷一つ付けることは出来ない――それは、日ノ本の中枢を担っている貴族といえども変わりはない。

 

 妖怪への対抗手段を持っているのは、ほんの一部の人間だけだ。

 

 それは悪霊を退散させることが出来る経の力を身に付けている――僧兵であり。

 対妖怪の最前線で戦い続けてきたが故に発揮された武力を持つ――武士であり。

 

 そして、万象を操作する『奇跡』に手を掛けた、『星』からの『(ギフト)』を授りし『天才』が編み出した『術』を習得するに至った者――陰陽師である。

 

 故に、そのどれでもない、未だ何者でもない――この時点での藤原道長に、目の前の妖怪を退治する手段など、ありはしない。

 

(……だと、いうのに)

 

 そう、分かっているのに――安倍晴明は、この舞台を整えた。

 

 果たして――私は。

 

(一体、何が見たいのだ――)

 

 分かっている――藤原道長に、目の前の状況をどうにかする力はない。

 

 分かっている――それでも、自分は、藤原道長を、ここで死なせるわけにはいかない。

 

 だからこそ、こんな舞台は整えるべきではなかった。

 これは不要な工程だ。不必要な演目だ。自分の『役目』が、『使命』が、こんなことを――許す筈がないのだ。

 

『――貴族か! まあいい! 今はどんな塵だろうと摂取し、力を蓄えなくてはならない!』

 

 あの陰陽師を殺すためにな――そう叫びながら、妖怪は道長に向かって、その鎌のような牙を振り降ろす。

 

 自分が無理矢理にこの結界内へと放り込む際、多少強引に押し込んだ為に、この妖怪の脳裏にはたっぷりと安倍晴明への恐怖が刻み込まれているだろう。

 

 それ故に、妖怪は道長の殺害を逸っている。

 焦ったのは全ての元凶である晴明自身だ。己の中の言語化不可能な葛藤を処理するよりも前に、道長が妖怪に殺されようとしている。

 

 咄嗟にその手を掲げる――間に合うかと、晴明が術を発動しようとした、その時。

 

 晴明は――見た。

 自分が妖怪に手を向ける――それよりも、先に。

 

 藤原道長が、自身を見下ろす妖怪に向けて、その掌を翳していた。

 

『……何の真似だ、人間』

 

 思わずその爪を振り降ろすのを止めた妖怪が、理解出来ないとばかりに呟く。

 これほど流暢に人の言葉を操ることから分かるように、この妖怪のレベルは高い。それ故に、理解出来ないのだと、晴明は察した。

 

 練達した戦士である人間が、一目見れば、目の前の妖怪がどれほどのレベルなのか理解出来るように。

 強い妖怪であればあるほど、一目見れば、目の前の人間がどれほどの脅威なのか理解出来る――だからこそ、理解出来ない。

 

 目の前の人間――藤原道長には、僧兵たる力も、武士たる力も、そして無論、陰陽師たる力も、まるで感じ取ることが出来ないだろう――が故に。

 

 何の異能も持たない、何の能力も持たない――何も持たない、只の人間――で、あるにも、関わらず。

 

 それでも道長は、『死』そのものたる、妖怪の爪が眼前に振り降ろされようとも――微塵も揺るがず、恐怖で震えることすらなく。

 

 ただ、掌を妖怪に――否。

 

『……今宵は生憎の空模様だ。……それが、私には、どうしても気に食わない』

 

 こんな夜に、私は死ぬわけにはいかないのだ――と。

 

 無力たる人間は――否。

 

 天下人の『器』は――その掌で、天を造り変えんばかりに。

 

「――――ッッ!!!」

 

 その息を吞んだ、押し殺した声は――妖怪か、それとも、晴明の口から漏れたものか。

 

 少なくとも晴明は、生まれて初めて――絶句というものを経験した。

 それ程までに、目の前の光景が信じられなかった。

 

 だって、晴明には――全てが見透かせているのだから。

 遥かなる未来も、森羅万象の結末も――今日の天気など、晴明からすれば、未だ発明されていない天気図すら見るまでもないことだ。

 

 故に断言する。今日の天気は雨だ。ずっと、夜が明けるまで、生憎の空模様であった筈だ。

 五月雨が降りしきる夜だと、後世の歴史にもそう記されるであろう一夜の『肝試し』――その筈だ。そうに決まっている。だって、未来を、結末を、安倍晴明は見透かしているのだから。

 

 だから――有り得ないのだ――()()()()など。

 

 厚い雲に――雲間が生まれて、そこから光が差し込むなど。

 

 月が、覗くなど。

 月光が、降り注ぐなど。

 

 月明りが――藤原道長を照らすなど。

 

 本来の未来では、定められた結末では、有り得べからずな――『奇跡』なのだ。

 

「……ああ。やはり、君は美しい」

 

 そう陶酔するように呟く道長の掌は、ずっと、その月を収めるように向けられていた。

 

『ぐぁぁあああああああああ!!!』

 

 本来、夜の世界に生きる妖怪にとって、月光とは毒ではない。

 

 しかし、月の光が、妖怪達の忌み嫌う太陽の光を反射しているものだということは、未来の人間であるならば誰もが知ることだ。

 吸血鬼のように浴びれば燃え盛る程に天敵というわけではないが、それでも太陽の下では十全のパフォーマンスが封じられる程度には、妖怪の肌に合わないものではある。

 

 そして、そんな月光が、妖怪に対する大きな武器となる瞬間が存在する。

 

 長時間雲に遮られたことで凝縮されていたエネルギーが、まるでレーザーのように照射される、雲間から差し込む一筋――それを不意に、それも後頭部に一直線に注がれれば、人語を操るほどに高レベルの妖怪といえど、藻掻き苦しむ程度には深刻なダメージとなる。

 

 無論、一撃で屠れるようなものではないし、息の根を止めるような負傷とはならない。

 だが、窮地から脱する時間を稼ぐには十分な程の隙が生まれる。

 

 そして、そんな値千金の間で、道長は、一歩も後退りすることすらなく――隠れて全てを目撃していた、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――」

 

 瞬間――晴明は。

 

『――――――ァァァァァ……』

 

 今度こそ、手を掲げ、術式によって生み出した暴虐的な光によって、妖怪を塵一つ残さず滅ぼした。

 

 理解出来たからだ。

 

 藤原道長という男の、一体、何処に、『安倍晴明』は惚れることになるのか。

 

 どうして、『安倍晴明』は、『藤原道長』を、『主』と仰ぐことを決めたのか。

 

 藤原道長は、何の力も持たない、只の人間だ。

 妖怪を滅ぼす異能は勿論、運命に選ばれた出自であることもない。本来であるならば、只の貴族の五男として、平安京の片隅で平凡な人生を送ることになる筈の人間だ。

 

 天を操る力など持つはずもない。

 雨が止んだのも、雲が割れたのも、光が差したのも――月が、助けたのも。

 

 ただの運で――ただの天運で。

 

 それでも――否、()()()()()

 

「――藤原道長殿。ご無礼を、お許しください」

 

 晴明は降り続けた雨でぐしゃぐしゃになった地面に、服が汚れるのも構わずに勢いよく膝を着け、頭を下げる。

 

 道長はずっと気付いていた。誰かが見ていることも。それが他でもない安倍晴明であることも。

 それでも尚、自身に妖怪の爪が振り降ろされようとしているにも関わらず、一度たりとも振り返らずに、毅然と妖怪と向かい合い続けた。

 

 道長は、膝を着く晴明に、月光を背にしながら、ふ、と微笑む。

 

「私は――その『眼』に、(かな)ったか?」

 

 晴明は、思わず顔を上げる。

 全てを見透かす、その呪われた『眼』で――改めて、その男を見上げた。

 

 何の力も持たない。運命にも、無論、『星』にも選ばれていない――平凡児。

 

 だが、この男は――まだ、死ねないと。

 その真っ黒に燃え盛る執念のみを以てして、雨を止ませ、雲を割り――月を、引き出した。

 

 安倍晴明を支配し続けてきた、『星』運命(さだめ)る『未来(ものがたり)』を、己の『野望(ものがたり)』で、塗り替えたのだ。

 

 ああ、この御方だ――晴明は、そう涙を流しながら微笑む。

 

「無論ですとも――我が、主よ」

 

 こうして、美しい月夜の『肝試し』にて、藤原道長は、安倍晴明を、その手中に収めた。

 

 それはきっと、何か輝かしい未来(ものがたり)の始まりで。

 

 それはきっと――とても悍ましい野望(ものがたり)への、踏み出してはいけない第一歩だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 かたん、と。中身が空になった杯を落とす。

 

 それが少しばかりに長くなった、思い出話の終わりを示す合図だった。

 

「――これが、私とあの御方の、安倍晴明と藤原道長の始まりの夜です」

 

 楽しんでいただけたかな――そう言うと、晴明は、空になった杯へ式神の美女に酒を再び注がせると、それをそっと、隣に座る男に向けて差し出した。

 

「次は、そちらが聞かせてはくださいませぬか? お主と、あの御方――藤原道長と、源頼光の始まりの物語を」

 

 晴明がそう微笑みながら告げた言葉に対する返答は――名刀の切っ先だった。

 

 どんな妖怪変化も屠り続けてきた『童子切安綱』が、大陰陽師の首元に真っ直ぐに突き付けられている。

 

『――はぐらかさないでいただきたい。安倍晴明ともあろう御方が、私如きの心中を察することが出来ない筈がないでしょう』

 

 自分が此処に来た、その要件は分かっている筈だと、『鬼』の面を被った鎧武者は言う。

 

 例え、どんな場面でも。

 平安京の中でもとびっきりの結界で囲まれた『晴明屋敷』の中でさえも――否、今となっては、()()()()()、戦装束を纏ったままの男は。

 

 平安最強の神秘殺しは、平安最強の陰陽師へと、単刀直入に問う。

 

『貴殿の心中をお聞かせいただきたい、安倍晴明殿』

 

 私如き猪武者は、貴方様と違い、言葉にしていただかなくては理解出来ない――と、『鬼』面の中から、赤く耀く眼光を放ちながら。

 

 源頼光は――安倍晴明へと、数多の神秘を滅してきた殺意を放ちながら言う。

 

『我々が遭遇した烏天狗――奴が使用した“虚空の窓”。アレの作成者はアナタだな?』

 

 

――流石は平安最強の神秘殺し。お見事でございます。

 

――私の今宵の目的は妖怪・土蜘蛛の始末にありました。

 

 

――我が主ならば再利用(りさいくる)方法を見付けるでしょう。

 

 

 あの魔の森の洞窟にて、烏天狗が漏らした言葉の数々が、頼光の脳裏に蘇る。

 

『――烏天狗が言っていた、『(あるじ)』。それは――貴様だな。安倍晴明』

 

 源頼光が、より強く放った殺気により、酒を注いでいた晴明の式神が鏡が割れるように破壊される。

 

「…………」

 

 晴明はそれに動じることなく、中途半端に注がれた酒を口に含みながら、頼光の殺気の嵐の中で悠然と微笑んでいた。

 

 そんな晴明の首に、更に深く切っ先を突き付け――つうと、真っ赤な血が流れるのを、真っ赤な瞳で見据えながら、頼光は再び問いを続ける。

 

『どうか正直に答えていただこう。大戦(おおいくさ)を目前とした今、つまらぬ冤罪で貴殿を失うことほど馬鹿なことはない』

 

 聞きたいことは山ほどある。

 どうして妖怪と通じているのか。どうしてこのような時期に、『魔の森の決戦(あんなたたかい)』を用意したのか。その目的とは。

 

――どうか、よい戦争を。

 

 安倍晴明(このおとこ)は――果たして、何を――何処まで――見透かしているのか。

 

「――私は何も、はぐらかしてなどおりませんとも。源頼光殿」

 

 瞬間――頼光が童子切安綱の切っ先を突き付けていた、晴明の身体が霧のように消えた。

 

 幻――それは、魔の森にて烏天狗が多用していた写し身の術――否。

 

(私は確かに、その切っ先に手応えを感じていた。首筋の感触も――赤い血すらも流していた。……それが分身? 幻だと? ――あの妖怪のそれよりも、遥かに……術式の完成度が違う)

 

 これが――安倍晴明。

 共に種類は違えど、平安最強――人類最強の名を(ほしいまま)にしている両者。

 

 けれど、最強の片割れ――源頼光は、思う。

 

(この人は――本当に、『人間』なのか)

 

 そう――何よりも、痛烈に己に返ってくる、そんな疑問を抱きながら、頼光はいつの間にか庭の中心に立っていた晴明へと目を向ける。

 

「私の心中は、先程お話した中に全て含まれています。――私は、『人間』ですよ。『狐』でも、『鬼』でもなく――『妖怪』ではなく、『人間』の。その勝利を、何よりも願って行動しています」

 

 相も変わらず、頼光の心中を詳細に見透かしたような言葉を織り交ぜながら、晴明はその微笑みを頼光に向ける。

 

「いえ、此度の戦争においても多大なご活躍を見せて下さるであろう頼光殿に敬意を表して、より深く我が心中を明かすならば――私は、あの御方の野望を。()()()()()()()』を、叶えるべく行動しています。そこに、一切の偽りはないと、我が生命に誓いましょう」

 

 安倍晴明は、そう真っ直ぐに宣言しながら――何時の間にか、瞬時に頼光の眼前に戻っていた。

 

 未だ鞘に仕舞っていない童子切安綱の刀身が、容易く届き得る距離に。

 これは再び幻なのか――そう頼光の脳裏に過ぎる思考を、目の前に差し出された晴明の手が遮った。

 

「貴方様ならば分かる筈です。だからこそ私は、誰にも話したことのない私の原点(オリジン)をお話したのですから」

 

 はぐらかしてなどいない――その為の回顧だったと、晴明は言う。

 

 そして、晴明は、問う。

 

「アナタにとって――藤原道長とは、何ですか?」

 




用語解説コーナー㉞

・肝試し

 平安時代から室町時代にかけて書かれたとされる、『四鏡』とよばれる作者不明の歴史物語がある。

 その中の『大鏡』と呼ばれる第二章では、藤原道長の栄華をメインテーマに描かれていて、『肝試し』はその中でも殊更有名なエピソードである。

 大筋は本話で描いた通りで、異なる点と言えば、原作では道長は平凡児の仮面を被ることもなく、無論、安倍晴明が出しゃばることもなく。
 怯える二人の兄を振りに使い、道長は堂々と柱の削りかすを持って帰る豪胆さを見せつけ、花山帝の無茶振りに応えてみせたという形でオチが付いている。

 これが本当にあった史実なのか、それとも道長が己の栄華を強調する為に書かせた創作なのか、それは分からないが――この物語においては、とある二人の『人間』が邂逅した歴史的な夜であり。

 それは、きっと――妖怪大戦争という、全てが終わる夜の、始まりでもあった。
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